羽虫にまとわりつかれ顔をしかめながらもクローレがヴォルフ・ガルムの残骸を調べている。

 ここだけが賑やかで、森の静寂が不気味だ。

 遠くの木々の葉が風にそよぐ微かな音すら途絶えている。

 キージェはストームブレイドの柄に手をかけ、目を細めてクローレの隣に並んでしゃがみ込んだ。

 巨大な爪痕にえぐられた胴体には肋骨すらなく、その破片は小枝を折ったかのように周囲に散乱している。

 頭部には鋼鉄をも砕くと言われるヴォルフ・ガルムの牙がきれいに残っている。

 口に敵の血や毛はついていない。

 それすらも使うこともなく、まったくなすすべもなくやられたらしい。

 キージェは吐き気をこらえながらつぶやいた。

「鋼を砕くと言われる武器も無力だったってことか」

「背中を殴られて、地面に転がって、一方的にかじりつかれた感じだね」と、死体を観察するクローレは冷静だ。「でも、ヴォルフ・ガルムを上から襲うってことは、相当大きな怪物だよね」

「だが、ドラゴンではないな。樹冠に覆われたこの森の中に降り立つことはできないし、むしろ動きを封じられて不利だろう」

「でも、それ以外にそんな大きな魔物なんて聞いたことないよね」

 クローレは額に浮いた汗を拭ってから爪痕を指さした。

「これ五本爪だ」

 その声には、冒険者としての経験がにじみ出ていた。

「大抵の魔物は三本か四本……ってことは鉤爪熊(クロウベア)だよ。私、ダンジョンで一度倒したことがある。でも……」

 クローレの表情が曇り、言葉が途切れる。

 ヴォルフ・ガルムに刻まれた爪痕の幅は、キージェの腕よりも太く、裏まで貫通し、縫いつけようとしたかのごとく地面にまで達している。

「この大きさ、おかしいよ」と、クローレが声を震わせた。「ダンジョンで見た鉤爪熊の爪痕は、せいぜい人間の指くらいで、突進さえかわせば私でも太刀打ちできた。でも、こんな……これは桁違いだよ」

 次の瞬間、青ざめた顔を上げたクローレがいきなりキージェの手をつかんで立ち上がった。

「キージェ、これは罠!」

「あ!?」

「逃げなきゃ!」

 キージェは訳も分からず、足をもつれさせつつ手を引かれるままに駆け出した。

 ミュリアが低く唸り、金色の瞳を鋭く光らせながら二人についてくる。

 そのときだった。

 背後から大地を震わせ腹に響く足音がドスドスと迫り、木々を揺らす巨体の影が二人を覆った。

 バキバキと折れた枝が矢のように降ってくる。

「あいつ、わざと死体を放置して、他の動物をおびき寄せてたの!」

「くそっ、そういうことか」

 クローレが息を切らしながら叫ぶ。

「狩られてるのは私たちの方!」