だが、そんな中年男の葛藤も一瞬で吹き飛んでしまった。

 銀髪がキージェの頬をくすぐり、女の体温とほのかな汗の香りが中年男を包み込む。

 キージェは肺を膨らませないように鼻だけで息を何度も吸い込んで堪能した。

 そんな男の本能に気づかないのか、クローレはキージェの胸に額を押しつけこすりつけた。

「本当に、よかった……キージェが仇じゃなくて、ほんとによかった」

 誤解が解けた喜びよりも、柔肌に触れる戸惑いを持て余して、キージェは武骨な手を女の肩において、そっと押し返した。

「おいおい、落ち着けって」

 ――俺がな。

 だが、キージェは知らなかった。

 腕を伸ばして距離を取った分、女と見つめ合う姿勢になってしまうことを。

 涙で濡れたクローレの瞳がキラキラと輝き、純粋な視線が男の目を見つめている。

 ――ちょ、ちょ……。

 なんだよ、これ。

 クローレが静かに瞼を閉じる。

 おい、馬鹿、目をつむるなって。

 何を求めてるんだよ。

 キ、キ……。

 ――ッスじゃねえよ、馬鹿。

 キージェ、四十五歳、おっさん。

 あまりにも女に縁がなさ過ぎて、石像と化してしまう。

 顔は火を噴き、心臓は破裂寸前……やべえ、吐きそうだ。

 と、そのときだった。

 ――グェー、グウェー。

 クローレが目を開け、屋根を見回した。

「何、今の」

「鳥だ」と、キージェは外をうかがうふりをしてクローレから離れた。

 ――ふう、助かったぜ。

 本当に、ここらへんによくいるただの鳥だ。

 だが、キージェは鋭い目をしてつぶやいた。

「やつらがまた来るかもしれない」

 とっさに出たでまかせだ。

 だが、まったくのでたらめでもない。

「さっきの連中の仲間?」

 クローレは疑う様子もなく、脇を上げて髪をまとめ直す。

「昨日の町の騒ぎで目をつけられたんだろう」と、キージェはわざとらしくため息をついてみせた。「ストームブレイドの使い手なんて、そういうもんじゃねえからな」

 黒衣騎兵の刺客にばれたからには、この静かな隠居生活も終わりだった。

「ここを出る」

「どこに行くの?」

「どこでもいい。追っ手を振り切らなきゃならねえ」

「私も一緒に行っていいの?」

「当たり前だろ」と、キージェはぶっきらぼうに答えた。「おまえさんも関わっちまった以上、やつらの標的だぞ」

 クローレの目が輝き、フレイムクロウを握りしめる。

「師匠と一緒なら、どこでも行くよ。黒衣騎兵だろうが、暗黒の騎士団だろうが、まとめて燃やしてやるもん!」

 キージェは苦笑し、黒衣騎兵の印章を懐にしまい込む。

「大口叩くな。まずは生き延びることだ」

 ――やれやれ、変な荷物抱えちまったな。

 キージェはストームブレイドを腰に差し、クローレと共に小屋を出た。

 二人の旅立ちを祝福するように朝日が輝いている。

 クローレがいきなり腕に絡みついてきた。

「何しやがる。離れろ」

「なんでよ。いいじゃん」

「いつ何時襲撃されるか分からないんだぞ。浮かれるな」

 手をかざして周囲を見回しながらクローレが口をとがらせる。

「こんな見晴らしのいい草原で?」

「矢が飛んでくるかもしれないだろ」

「隠れられそうな林まで相当距離があるよ」

「草むらに隠れてるかもしれない」

「草が短くて、伏せててもお尻が見えちゃうよ」

 ――そりゃ、おまえだけだ。

「穴掘って隠れてるかもしれない」

 アハハと朗らかに笑い出す。

「何でもありだね。鳥に捕まって空から降ってくるかも」

「そうだ、だから常に警戒しろ」

「はい、師匠!」と、クローレがキージェをじっと見つめた。

「なんだよ」

「そばにいるおじさんが一番危ないかも」

「お、おま……」

 なんだよ、よく分かってんじゃねえかよ。

 あぶねえ、さっき調子に乗っていい男気取りでキ……なんかしてたら、股間を膝蹴りされてたかもな。

 耳まで真っ赤に腫れ上がったキージェの前を、クローレが腰を振りながら歩いている。

 無防備なんだか、油断も隙もねえのか、まったく、やっかいなお荷物だよ。

 青空に向かって腕を突き上げ大きくあくびをしながら、キージェは女の後をのんびりついていった。