朝の土間は、紙の匂いが濃かった。
炊ぎの湯気に混じる墨の香は、腹ではなく胸に落ちる。新しい紙束が運ばれてくると、畳の上の空気がわずかに硬くなるのを、誰もが感じていた。
土方が広間に現れた。青い羽織の群れがさざ波のように割れ、中央に静かな円を作る。その静けさは、ただの沈黙ではない。刃を抜く前の呼吸合わせ。音が少ないほど、斬れ味は増す。
山南が紙を受け取り、近藤が一歩前へ出る。近藤の声は、やさしい太さを持っていた。やさしい声ほど、重い言葉がよく乗る。
「これより『局中法度』を定める。――よく聞け」
紙は一枚のようでいて、隊の骨の数だけ重なっていた。
読み上げられた五箇条は、短く、冷たかった。
組の名を汚すべからず。
徒党を組むべからず。
勝手に金銭の貸借を行うべからず。
勝手に離隊するべからず。
命令に背くべからず。――
その「べからず」の末尾には、ただ一つの結びが括られる。「破れば即刻、切腹」。
紙に書かれた“死”は、実際の血より赤く見える。赤さに目を慣らすには時間がいるが、時間は与えられない。
蓮は、広間の隅で竹刀の柄を握り直した。木の粉が掌の汗に混じって、少しだけ泥の匂いがする。
静は、群れの陰に立ち、目を伏せていた。伏せる目は恐れではない。言葉を内部で反芻して、どの音に刃が宿るかを確かめる癖だ。
読み上げが終わると、一瞬の“間”が落ちた。
そこに、豪快な笑い声が落ちる。
芹沢鴨が、腹を叩いて笑った。
「こんな紙切れで俺が縛られるか!」
笑いは、畳に跳ね返って広間の梁へ昇り、天井で分解された。
誰かがそこへ苦笑を重ね、誰かが安堵の息を混ぜ、誰かが目を伏せなおした。
笑いは場を収めたが、胸の中には火種が残った。紙は火を呼ぶ。紙が呼ぶ火は、紙で消すしかない。――静はそれを知っている目だった。
その夜、空は雲を薄く削って星を出し、風は紙の角を立てるように少し冷たかった。
土方が静を呼ぶ。部屋には灯がひとつ、低く置かれている。背後には蓮の気配があった。
土方は紙束を、音を立てて放った。紙は軽いのに、音は重い。
「静。芹沢の出入りを、この先も記録しろ。――いざという時には“証拠”として、すぐに差し出せるようにな」
「承りました」
静は紙束を懐に収める。その所作は、刃を鞘に戻す所作と似ている。
土方は蓮の方を見た。目は濃いが、言葉は薄い。薄い言葉の方が遠くまで通ると、土方は知っている。
「蓮。手を貸せ。静の記録は、二人でやれ。出入り先の名、金の流れ、座敷の笑いの高さ。淡々と書けばいい。――淡々と、だ」
「了解。……“淡々”ってやつ、俺の字で書けるかな」
「書け。字が下手でも、音は残る」
土方が去ったあと、部屋の灯は少しだけ揺れた。灯の揺れは、紙の端に影を作る。影は、文字の躍りになる。
「静、俺さ」
「はい」
「剣を取りに来たんだ。なのに、筆で人を殺すのかって、書き始めた途端に胸が言ってくる」
「筆で殺せるなら、それが一番静かで効率的です。――京の町では、剣より紙と噂が強いので」
「そりゃ理屈はわかる。わかるけど、腹は納得しない」
「腹は、書いているうちに黙ります」
「それ、怖いぞ」
「はい。怖いです。……けれど、僕らは“黙る腹”を連れて歩く仕事を、やることになりました」
静は筆を摺り上げ、紙の上に最初の線を置いた。
線は黒いが、湿っている。湿りは、後戻りがきかないという合図だ。
蓮は深く息を吐き出して、筆を取った。
名前を書き連ねる。場所を書く。時刻を書く。皿の数、盃の音、笑いの高さ。――ただの筆記のようでいて、一本一本が細い刃になっていく。
刃を立てる向こうに、顔がある。
顔の向こうに、家がある。
家の向こうに、町がある。
町の向こうに、名がある。
名の向こうに、また紙がある。
紙は、終わらない。
数日で、紙束は二つに膨れた。
芹沢の出入り先は、派手であり、規則的でもあった。豪商の離れ、遊郭の二階、香具屋の奥座敷、そして、町はずれの小さな商家。――最後の一行に、蓮の筆が止まった。
「静、ここ」
「はい」
「この商家、頻度が違う。三日に一度。いや、二日置きのときもある。……“通い詰め”だ」
「はい。名は、おわかりですか」
「帳場で聞いた。娘の名は、お梅」
お梅。柔らかい梅の字は、紙の上でも匂いを持つ。
静は、蓮の止まった筆の先を目でたどった。
「執着は、油断の別名です。――油断は、必ず命を取りに来ます」
「つまり、ここが“切り口”」
「切り口の候補です。切れば、いちばん静かに裂ける場所」
「お前、やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
その夜、お梅の家の前で、二人は風の向きを測った。
裏手に小さな井戸があり、落ち葉が二枚、桶の縁に貼り付いている。貼り付いた葉は、離れたがっていない。風は弱い。香は薄い。
灯が低く、格子の木目が新しい。新しい木はよく鳴る。音を覚えておけば、出入りが指で数えられる。
静は井戸端に腰を下ろし、桶を軽く回した。水面に三つの輪が広がり、灯の光を三つに砕いては、すぐに沈む。
「静。お梅は、何者だと思う」
「“お梅”は、芹沢の“油断”であり、同時に“盾”です。盾の裏には、引き手がいる」
「引き手?」
「女将、母親、貸本屋、香具屋、辻占。――誰かが“名の管理”をしています。名を紙に残さずに済ませる手。そこを掴みます」
「剣じゃなくて、手綱だな」
「はい。剣で斬れるのは“音”までです。手綱で動くのは“息”です」
翌日から、二人はお梅の家をきっかけに、音の筋を辿った。
米屋の納めは毎朝。昼過ぎ、香具屋の使いが一度。夕刻、芹沢の供が二人、先に来て灯を改める。夜半前、芹沢が独りで格子を叩く。――叩き方に、癖がある。三回、間を置いて二回。
蓮はそれを紙に写し取りながら、舌で奥歯を押した。緊張は奥歯に溜まる。溜まった緊張は、紙の角を少しだけ乱暴にする。
「静。俺たち、本当にやるのか。芹沢を、紙で追い詰めるのか」
「はい。紙で追い詰めれば、剣は“仕上げ”になります。剣だけで追えば、町が壊れます」
「町、ね。……町を守るのは、気持ちがいいな」
「はい。気持ちがいいことを理由にしていいと、土方さんは言いませんが」
「言わないな」
「だから僕らが、笑わずにやります」
お梅の家の「引き手」は、意外と近くにいた。
裏木戸の板の節穴から覗くと、奥の小座敷で、年配の女が帳面をつけていた。筆の運びは早く、字は小さく、行は揃っている。揃った字は、揃った噂に繋がる。
静は戸の外で耳を澄ませ、筆が紙を擦る音の“間”を数えた。二行目の途中で小さく息を吸い、三行目の末で吐く。その呼吸は、商いの呼吸だ。
「矢野さん。引き手は、母親です」
「どうしてわかる」
「筆に“情け”がありません。娘は、情けの字を混ぜます。母は、情けを“行”から外します」
「詩人ぶるなよ」
「音を書いているだけです」
「それが詩だって、総司に言われなかったか」
「言われました」
夜、芹沢が来た。
格子を三度、間を置いて二度。
お梅が立って、声を潜める。
芹沢の靴音は大きい。大きさは自信の証。自信は刃の“盲点”を作る。
静は蓮の肩に指を置き、軽く圧をかけた。止まれ、という合図。
芹沢が入ってしばらくして、灯の高さが半寸下がった。女の手だ。女の手が灯を下げるとき、家は“内”になる。内では、刃は遅くなる。――静は灯の高さで、今夜は斬らないと決める。
代わりに、紙を増やす。
芹沢が話した言葉の輪郭。笑いの高さ。盃の当たる回数。お梅の返事に混ざる“空白”。母の息の止まる位置。
蓮は書きながら、筆の先が重くなっていくのを感じた。筆が重いのは、手のせいではない。紙のせいでもない。――“名”のせいだ。名は、筆を重くする。
翌朝、土方の小部屋に紙束が積まれる。
土方は上から三枚だけを抜き、無言で目を通し、無言で戻した。
「この三枚があれば、足りる」
「はい」
「二十枚あっても、三枚で足りるように、書け」
「承知しました」
「芹沢の“裏”は、この先、表に出る。表が出たら、表の刃は近藤さんの仕事だ。――おまえらは手を離すタイミングを間違えるな」
「はい」
紙を離すとき、指に墨が残る。残った墨は、井戸の水でも落ちきらない。爪の内側の黒は、その夜の飯を少しだけ苦くする。
蓮は井戸端で喉を洗いながら、空を見上げた。雲は薄く、鐘は遅れ、音はよく通る。
「静。俺、今は“書いて殺す”って言葉が腹の中を回ってる」
「はい」
「でも、同時に、“書いて生かす”とも書けるんだよな」
「はい。――どちらも、同じ筆で書けます」
「それ、最悪で最高だな」
「はい。最悪で、最高です」
それから一月、紙は積もり、噂は回り、灯の高さは日ごとに変わった。
芹沢は、お梅の家に通い続けた。
通い続ける人間は、いずれ“通り道”を作る。通り道は、音と匂いと、足の癖でできている。通り道ができると、道に名前がつく。名前のついた道は、迂回が難しい。
ある晩、静は蓮を連れて、お梅の家の裏に回った。
雨上がりの土が柔らかく、踏めば音が吸い込まれる。吸い込まれる音は、記録に向いている。
裏木戸の脇に、小さな紙片が挟まっていた。
静が指で引き抜く。
墨は薄いが、確かな筆。「与」と刻まれた簪で見た控えめな印に似ている。
「静、それ」
「噂の手の印です。――“与”の人が、ここにも通っている」
「白の簪の女か」
「はい。返す“与”。名を貸さず、返す人」
「なんでここに」
「“執着”は、名の借りを生むからです。借りは返せます。返すには、与の手がいる」
「じゃあ、芹沢は、借りを作ってる」
「はい。借りが膨らめば、刃は要りません。――帳尻が“切腹”を要求します」
蓮は冷たい汗を背に感じた。帳尻という言葉は、紙の熱を持つ。
「静。俺、わかってきた。局中法度は、ただの掟じゃない。掟ってのは、町の“算術”だ」
「はい。足し引きと掛け割り。――掛ければ名が太り、割れば名が薄くなる。土方さんは“割る”人です」
「俺たちは」
「“位置を付ける”人です。どの数字をどこに置くか。置く場所で、答えは変わります」
その夜の帰り道、蓮は静の横顔を盗み見た。
灯のない横顔は、白でも黒でもない。鼠色の布のように、夜に溶けて、しかし輪郭は崩れない。
「静。お前、いつも“横”だな」
「はい。矢野さんの“横”にいます」
「前じゃなくて」
「前は、矢野さんの仕事です」
「後ろは」
「後ろは、町の仕事です」
「町?」
「町が勝手に終わらせます。僕らは、町が終われるように、前と横を整えます」
翌日、紙に新しい一行が増えた。
――お梅の家、裏に“与”の印。
山南は赤い点でそれを囲み、「要」の字を添えた。
近藤は目で読み、目でうなずき、声は出さなかった。
土方は紙を裏返し、裏の白に小さく書いた。
――“表へ”。
その一字に、場の空気がわずかにきしんだ。
“表へ”。
つまり、紙から刃へ、ということだ。
だが、刃は急がない。
静は、最後の「音」を取りに行った。
お梅の家から一町東、香具屋の奥にある小座敷。そこに、芹沢が一度だけ寄る“癖”が紙に残っている。
夜半、二人は香具屋の裏口で灯を待った。
灯は低く、香の匂いは重い。重い香は、嘘を薄くする。
芹沢が来た。
香具屋の主が迎え、奥へ導く。
静は扉の桟に耳を当て、蓮は薄い板一枚隔てた場所で、足の角度を測った。
中から、芹沢の笑い声。お梅と違う、別の女の声。――お梅の母だ。
笑いは短く、金の音は長い。
長い金の音は、契約の音だ。
契約が結ばれるとき、人は刃より紙を信じる。
紙を信じる人間は、紙で倒れる。
「静」
蓮は小さく囁いた。
「もう、足りたか」
「はい。足りました。――いざという時に、差し出せます」
「“いざ”は、いつだ」
「“いざ”は、こちらで選べません。向こうから来ます。だから、準備を“前”にしてください」
「わかった。前で、待つ」
壬生に戻ると、土方が待っていた。
紙を三枚、抜き出して机に置く。
「これで足りる」
近藤は紙を見ずに、二人を見た。
「ありがとう」
“ありがとう”は、重い。
蓮はあの夜と同じく、喉の裏にその言葉をしまった。喉にしまうと、剣の握りが安定する。不思議なことだが、そういうものだ。
その晩、静と蓮は稽古場で竹刀を合わせた。
静は半寸、間合いを詰める。
蓮は“前の手前”で勝ちに行く。
竹の音は、乾いて短い。
短い音は、長い準備の合図だ。
「静。局中法度は、紙だ。紙は刃だ。――でも、紙は“盾”にもなるか」
「なります。法度の“べからず”は、隊を“守る”形です。破った者を斬るための、そして、破らない者を斬らせないための」
「両刃か」
「はい。両刃は、持ち手の温度で決まります」
「温度」
「氷で持つか、火で持つか。――土方さんは氷、近藤さんは火。僕らは、風です」
「風?」
「はい。風で、刃の温度を変えます」
「お前、また詩人だ」
「音を書いているだけです」
紙は積み上がり、名は並び、灯は低くなり、噂は回った。
芹沢の笑いは、少しだけ高さを失っていた。
お梅の家の灯は、二夜に一度、特別に低くなった。低い灯は、家の内側を強くする。内側は、人を弱くする。
弱くなったところへ、紙が入る。
紙が入れば、刃はあっという間だ。
ある朝、山南が新しい帳面を持ってきた。
表紙には、細い字でこうある。
――“証”。
証という字は、口に正しい。
口は噂で、正は紙だ。
紙に噂を通せば、証になる。
証を刃で裏打ちすれば、法度になる。
法度を名で守れば、隊になる。
隊を息で繋げば、町になる。
町を音で洗えば、夜になる。
夜を白で裂けば、朝になる。
「静。俺、もう少しだけ、筆で戦うよ」
「ありがとうございます。矢野さんが書く字は、刃よりまっすぐです」
「やめろ、くすぐったい」
「書いておきます」
「書くな」
「書きます」
「悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
その日の夕刻、土方はひと言だけ添えた。
「“いざ”が、近い」
近藤は眉を曇らせ、総司は春の笑みを薄くした。
静は紙束の重みを胸に覚え、蓮は短刀の軽さを腰に覚えた。
紙は重く、刃は軽い。
重いものが先で、軽いものが後。
順番を間違えなければ、町は崩れない。
夜、壬生の空は薄群青。
寺の鐘が、ひとつ遅れて鳴る。
音は、記す。
記すことは、斬ることだ。
だが、記すことは、守ることでもある。
局中法度は、紙に書かれた刃であり盾だ。
“芹沢派を追い詰めるため”という意図は、紙の繊維にまで染みている。
いずれ、その紙は表で振るわれる。
振るわれる前に、裏で乾かすのが今夜の仕事だ。
静は筆を置き、蓮の肩に指を置いた。
「矢野さん。前で待ってください」
「待つ。――横は任せた」
「はい。いつもどおり、横で」
二人は立ち上がり、薄い灯の外へ歩き出した。
紙の音を足裏に感じながら。
名の重さを背中に感じながら。
風の温度を手のひらに感じながら。
“いざ”が近い夜の、前と横を整えるために。
局中法度は、すでに刃先を露わにしていた。
静かで、冷たい刃先を。
そして、それを握る手の体温を、二人は忘れないように、同じ速度で息をした。
炊ぎの湯気に混じる墨の香は、腹ではなく胸に落ちる。新しい紙束が運ばれてくると、畳の上の空気がわずかに硬くなるのを、誰もが感じていた。
土方が広間に現れた。青い羽織の群れがさざ波のように割れ、中央に静かな円を作る。その静けさは、ただの沈黙ではない。刃を抜く前の呼吸合わせ。音が少ないほど、斬れ味は増す。
山南が紙を受け取り、近藤が一歩前へ出る。近藤の声は、やさしい太さを持っていた。やさしい声ほど、重い言葉がよく乗る。
「これより『局中法度』を定める。――よく聞け」
紙は一枚のようでいて、隊の骨の数だけ重なっていた。
読み上げられた五箇条は、短く、冷たかった。
組の名を汚すべからず。
徒党を組むべからず。
勝手に金銭の貸借を行うべからず。
勝手に離隊するべからず。
命令に背くべからず。――
その「べからず」の末尾には、ただ一つの結びが括られる。「破れば即刻、切腹」。
紙に書かれた“死”は、実際の血より赤く見える。赤さに目を慣らすには時間がいるが、時間は与えられない。
蓮は、広間の隅で竹刀の柄を握り直した。木の粉が掌の汗に混じって、少しだけ泥の匂いがする。
静は、群れの陰に立ち、目を伏せていた。伏せる目は恐れではない。言葉を内部で反芻して、どの音に刃が宿るかを確かめる癖だ。
読み上げが終わると、一瞬の“間”が落ちた。
そこに、豪快な笑い声が落ちる。
芹沢鴨が、腹を叩いて笑った。
「こんな紙切れで俺が縛られるか!」
笑いは、畳に跳ね返って広間の梁へ昇り、天井で分解された。
誰かがそこへ苦笑を重ね、誰かが安堵の息を混ぜ、誰かが目を伏せなおした。
笑いは場を収めたが、胸の中には火種が残った。紙は火を呼ぶ。紙が呼ぶ火は、紙で消すしかない。――静はそれを知っている目だった。
その夜、空は雲を薄く削って星を出し、風は紙の角を立てるように少し冷たかった。
土方が静を呼ぶ。部屋には灯がひとつ、低く置かれている。背後には蓮の気配があった。
土方は紙束を、音を立てて放った。紙は軽いのに、音は重い。
「静。芹沢の出入りを、この先も記録しろ。――いざという時には“証拠”として、すぐに差し出せるようにな」
「承りました」
静は紙束を懐に収める。その所作は、刃を鞘に戻す所作と似ている。
土方は蓮の方を見た。目は濃いが、言葉は薄い。薄い言葉の方が遠くまで通ると、土方は知っている。
「蓮。手を貸せ。静の記録は、二人でやれ。出入り先の名、金の流れ、座敷の笑いの高さ。淡々と書けばいい。――淡々と、だ」
「了解。……“淡々”ってやつ、俺の字で書けるかな」
「書け。字が下手でも、音は残る」
土方が去ったあと、部屋の灯は少しだけ揺れた。灯の揺れは、紙の端に影を作る。影は、文字の躍りになる。
「静、俺さ」
「はい」
「剣を取りに来たんだ。なのに、筆で人を殺すのかって、書き始めた途端に胸が言ってくる」
「筆で殺せるなら、それが一番静かで効率的です。――京の町では、剣より紙と噂が強いので」
「そりゃ理屈はわかる。わかるけど、腹は納得しない」
「腹は、書いているうちに黙ります」
「それ、怖いぞ」
「はい。怖いです。……けれど、僕らは“黙る腹”を連れて歩く仕事を、やることになりました」
静は筆を摺り上げ、紙の上に最初の線を置いた。
線は黒いが、湿っている。湿りは、後戻りがきかないという合図だ。
蓮は深く息を吐き出して、筆を取った。
名前を書き連ねる。場所を書く。時刻を書く。皿の数、盃の音、笑いの高さ。――ただの筆記のようでいて、一本一本が細い刃になっていく。
刃を立てる向こうに、顔がある。
顔の向こうに、家がある。
家の向こうに、町がある。
町の向こうに、名がある。
名の向こうに、また紙がある。
紙は、終わらない。
数日で、紙束は二つに膨れた。
芹沢の出入り先は、派手であり、規則的でもあった。豪商の離れ、遊郭の二階、香具屋の奥座敷、そして、町はずれの小さな商家。――最後の一行に、蓮の筆が止まった。
「静、ここ」
「はい」
「この商家、頻度が違う。三日に一度。いや、二日置きのときもある。……“通い詰め”だ」
「はい。名は、おわかりですか」
「帳場で聞いた。娘の名は、お梅」
お梅。柔らかい梅の字は、紙の上でも匂いを持つ。
静は、蓮の止まった筆の先を目でたどった。
「執着は、油断の別名です。――油断は、必ず命を取りに来ます」
「つまり、ここが“切り口”」
「切り口の候補です。切れば、いちばん静かに裂ける場所」
「お前、やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
その夜、お梅の家の前で、二人は風の向きを測った。
裏手に小さな井戸があり、落ち葉が二枚、桶の縁に貼り付いている。貼り付いた葉は、離れたがっていない。風は弱い。香は薄い。
灯が低く、格子の木目が新しい。新しい木はよく鳴る。音を覚えておけば、出入りが指で数えられる。
静は井戸端に腰を下ろし、桶を軽く回した。水面に三つの輪が広がり、灯の光を三つに砕いては、すぐに沈む。
「静。お梅は、何者だと思う」
「“お梅”は、芹沢の“油断”であり、同時に“盾”です。盾の裏には、引き手がいる」
「引き手?」
「女将、母親、貸本屋、香具屋、辻占。――誰かが“名の管理”をしています。名を紙に残さずに済ませる手。そこを掴みます」
「剣じゃなくて、手綱だな」
「はい。剣で斬れるのは“音”までです。手綱で動くのは“息”です」
翌日から、二人はお梅の家をきっかけに、音の筋を辿った。
米屋の納めは毎朝。昼過ぎ、香具屋の使いが一度。夕刻、芹沢の供が二人、先に来て灯を改める。夜半前、芹沢が独りで格子を叩く。――叩き方に、癖がある。三回、間を置いて二回。
蓮はそれを紙に写し取りながら、舌で奥歯を押した。緊張は奥歯に溜まる。溜まった緊張は、紙の角を少しだけ乱暴にする。
「静。俺たち、本当にやるのか。芹沢を、紙で追い詰めるのか」
「はい。紙で追い詰めれば、剣は“仕上げ”になります。剣だけで追えば、町が壊れます」
「町、ね。……町を守るのは、気持ちがいいな」
「はい。気持ちがいいことを理由にしていいと、土方さんは言いませんが」
「言わないな」
「だから僕らが、笑わずにやります」
お梅の家の「引き手」は、意外と近くにいた。
裏木戸の板の節穴から覗くと、奥の小座敷で、年配の女が帳面をつけていた。筆の運びは早く、字は小さく、行は揃っている。揃った字は、揃った噂に繋がる。
静は戸の外で耳を澄ませ、筆が紙を擦る音の“間”を数えた。二行目の途中で小さく息を吸い、三行目の末で吐く。その呼吸は、商いの呼吸だ。
「矢野さん。引き手は、母親です」
「どうしてわかる」
「筆に“情け”がありません。娘は、情けの字を混ぜます。母は、情けを“行”から外します」
「詩人ぶるなよ」
「音を書いているだけです」
「それが詩だって、総司に言われなかったか」
「言われました」
夜、芹沢が来た。
格子を三度、間を置いて二度。
お梅が立って、声を潜める。
芹沢の靴音は大きい。大きさは自信の証。自信は刃の“盲点”を作る。
静は蓮の肩に指を置き、軽く圧をかけた。止まれ、という合図。
芹沢が入ってしばらくして、灯の高さが半寸下がった。女の手だ。女の手が灯を下げるとき、家は“内”になる。内では、刃は遅くなる。――静は灯の高さで、今夜は斬らないと決める。
代わりに、紙を増やす。
芹沢が話した言葉の輪郭。笑いの高さ。盃の当たる回数。お梅の返事に混ざる“空白”。母の息の止まる位置。
蓮は書きながら、筆の先が重くなっていくのを感じた。筆が重いのは、手のせいではない。紙のせいでもない。――“名”のせいだ。名は、筆を重くする。
翌朝、土方の小部屋に紙束が積まれる。
土方は上から三枚だけを抜き、無言で目を通し、無言で戻した。
「この三枚があれば、足りる」
「はい」
「二十枚あっても、三枚で足りるように、書け」
「承知しました」
「芹沢の“裏”は、この先、表に出る。表が出たら、表の刃は近藤さんの仕事だ。――おまえらは手を離すタイミングを間違えるな」
「はい」
紙を離すとき、指に墨が残る。残った墨は、井戸の水でも落ちきらない。爪の内側の黒は、その夜の飯を少しだけ苦くする。
蓮は井戸端で喉を洗いながら、空を見上げた。雲は薄く、鐘は遅れ、音はよく通る。
「静。俺、今は“書いて殺す”って言葉が腹の中を回ってる」
「はい」
「でも、同時に、“書いて生かす”とも書けるんだよな」
「はい。――どちらも、同じ筆で書けます」
「それ、最悪で最高だな」
「はい。最悪で、最高です」
それから一月、紙は積もり、噂は回り、灯の高さは日ごとに変わった。
芹沢は、お梅の家に通い続けた。
通い続ける人間は、いずれ“通り道”を作る。通り道は、音と匂いと、足の癖でできている。通り道ができると、道に名前がつく。名前のついた道は、迂回が難しい。
ある晩、静は蓮を連れて、お梅の家の裏に回った。
雨上がりの土が柔らかく、踏めば音が吸い込まれる。吸い込まれる音は、記録に向いている。
裏木戸の脇に、小さな紙片が挟まっていた。
静が指で引き抜く。
墨は薄いが、確かな筆。「与」と刻まれた簪で見た控えめな印に似ている。
「静、それ」
「噂の手の印です。――“与”の人が、ここにも通っている」
「白の簪の女か」
「はい。返す“与”。名を貸さず、返す人」
「なんでここに」
「“執着”は、名の借りを生むからです。借りは返せます。返すには、与の手がいる」
「じゃあ、芹沢は、借りを作ってる」
「はい。借りが膨らめば、刃は要りません。――帳尻が“切腹”を要求します」
蓮は冷たい汗を背に感じた。帳尻という言葉は、紙の熱を持つ。
「静。俺、わかってきた。局中法度は、ただの掟じゃない。掟ってのは、町の“算術”だ」
「はい。足し引きと掛け割り。――掛ければ名が太り、割れば名が薄くなる。土方さんは“割る”人です」
「俺たちは」
「“位置を付ける”人です。どの数字をどこに置くか。置く場所で、答えは変わります」
その夜の帰り道、蓮は静の横顔を盗み見た。
灯のない横顔は、白でも黒でもない。鼠色の布のように、夜に溶けて、しかし輪郭は崩れない。
「静。お前、いつも“横”だな」
「はい。矢野さんの“横”にいます」
「前じゃなくて」
「前は、矢野さんの仕事です」
「後ろは」
「後ろは、町の仕事です」
「町?」
「町が勝手に終わらせます。僕らは、町が終われるように、前と横を整えます」
翌日、紙に新しい一行が増えた。
――お梅の家、裏に“与”の印。
山南は赤い点でそれを囲み、「要」の字を添えた。
近藤は目で読み、目でうなずき、声は出さなかった。
土方は紙を裏返し、裏の白に小さく書いた。
――“表へ”。
その一字に、場の空気がわずかにきしんだ。
“表へ”。
つまり、紙から刃へ、ということだ。
だが、刃は急がない。
静は、最後の「音」を取りに行った。
お梅の家から一町東、香具屋の奥にある小座敷。そこに、芹沢が一度だけ寄る“癖”が紙に残っている。
夜半、二人は香具屋の裏口で灯を待った。
灯は低く、香の匂いは重い。重い香は、嘘を薄くする。
芹沢が来た。
香具屋の主が迎え、奥へ導く。
静は扉の桟に耳を当て、蓮は薄い板一枚隔てた場所で、足の角度を測った。
中から、芹沢の笑い声。お梅と違う、別の女の声。――お梅の母だ。
笑いは短く、金の音は長い。
長い金の音は、契約の音だ。
契約が結ばれるとき、人は刃より紙を信じる。
紙を信じる人間は、紙で倒れる。
「静」
蓮は小さく囁いた。
「もう、足りたか」
「はい。足りました。――いざという時に、差し出せます」
「“いざ”は、いつだ」
「“いざ”は、こちらで選べません。向こうから来ます。だから、準備を“前”にしてください」
「わかった。前で、待つ」
壬生に戻ると、土方が待っていた。
紙を三枚、抜き出して机に置く。
「これで足りる」
近藤は紙を見ずに、二人を見た。
「ありがとう」
“ありがとう”は、重い。
蓮はあの夜と同じく、喉の裏にその言葉をしまった。喉にしまうと、剣の握りが安定する。不思議なことだが、そういうものだ。
その晩、静と蓮は稽古場で竹刀を合わせた。
静は半寸、間合いを詰める。
蓮は“前の手前”で勝ちに行く。
竹の音は、乾いて短い。
短い音は、長い準備の合図だ。
「静。局中法度は、紙だ。紙は刃だ。――でも、紙は“盾”にもなるか」
「なります。法度の“べからず”は、隊を“守る”形です。破った者を斬るための、そして、破らない者を斬らせないための」
「両刃か」
「はい。両刃は、持ち手の温度で決まります」
「温度」
「氷で持つか、火で持つか。――土方さんは氷、近藤さんは火。僕らは、風です」
「風?」
「はい。風で、刃の温度を変えます」
「お前、また詩人だ」
「音を書いているだけです」
紙は積み上がり、名は並び、灯は低くなり、噂は回った。
芹沢の笑いは、少しだけ高さを失っていた。
お梅の家の灯は、二夜に一度、特別に低くなった。低い灯は、家の内側を強くする。内側は、人を弱くする。
弱くなったところへ、紙が入る。
紙が入れば、刃はあっという間だ。
ある朝、山南が新しい帳面を持ってきた。
表紙には、細い字でこうある。
――“証”。
証という字は、口に正しい。
口は噂で、正は紙だ。
紙に噂を通せば、証になる。
証を刃で裏打ちすれば、法度になる。
法度を名で守れば、隊になる。
隊を息で繋げば、町になる。
町を音で洗えば、夜になる。
夜を白で裂けば、朝になる。
「静。俺、もう少しだけ、筆で戦うよ」
「ありがとうございます。矢野さんが書く字は、刃よりまっすぐです」
「やめろ、くすぐったい」
「書いておきます」
「書くな」
「書きます」
「悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
その日の夕刻、土方はひと言だけ添えた。
「“いざ”が、近い」
近藤は眉を曇らせ、総司は春の笑みを薄くした。
静は紙束の重みを胸に覚え、蓮は短刀の軽さを腰に覚えた。
紙は重く、刃は軽い。
重いものが先で、軽いものが後。
順番を間違えなければ、町は崩れない。
夜、壬生の空は薄群青。
寺の鐘が、ひとつ遅れて鳴る。
音は、記す。
記すことは、斬ることだ。
だが、記すことは、守ることでもある。
局中法度は、紙に書かれた刃であり盾だ。
“芹沢派を追い詰めるため”という意図は、紙の繊維にまで染みている。
いずれ、その紙は表で振るわれる。
振るわれる前に、裏で乾かすのが今夜の仕事だ。
静は筆を置き、蓮の肩に指を置いた。
「矢野さん。前で待ってください」
「待つ。――横は任せた」
「はい。いつもどおり、横で」
二人は立ち上がり、薄い灯の外へ歩き出した。
紙の音を足裏に感じながら。
名の重さを背中に感じながら。
風の温度を手のひらに感じながら。
“いざ”が近い夜の、前と横を整えるために。
局中法度は、すでに刃先を露わにしていた。
静かで、冷たい刃先を。
そして、それを握る手の体温を、二人は忘れないように、同じ速度で息をした。



