名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 京の秋は、音がよく通る。
 朝、壬生の稽古場で竹が鳴ると、その薄い音が、油小路の角を曲がり、三条大橋の欄干に触れて、さらに先の薄闇へ押し出されていく。夜にはその反響が戻ってきて、裏長屋の障子越しに、子どもの寝息と混じる。音の通りのよさは、いい町の証だ。だが通りがよすぎる音は、名を太らせる。太った名は、いつでも斬られやすい。

 「壬生狼」――京の町に、そう呼ぶ声が増えた。
 青い羽織の色は、最初は珍しがられ、やがて避けられ、いまや道が勝手に割れる。新選組の巡察は日ごとに強化され、朝の六ツ、夕の六ツ、夜半の鐘ひとつ遅れての見回りまで、棒のように同じ調子で、町の骨を叩いて歩く。近藤の温厚、土方の鉄面は表の話。裏ではさらに薄い影が囁かれる。「噂すら記録に残らない剣士」。白装束の影。――沖田静。

 白は、灯の外で鼠になる。鼠は、月に白く見える。静は白を好まない、と自分で言う。
「汚れますから」
 しかし夜の薄布だけは、灯の下で白に見え、灯の外で気配に溶けた。怪異に変わったのは布ではなく、見る側の心だ。怪異は説明を諦めさせ、人を単純な動きに追い込む。静はそこに救いを見つける。単純な動きは、読みやすい。

 噂は、蓮の耳にも嫌でも入る。
 茶屋の娘がお銚子を持って駆け寄るとき、「昨日、白い影が北野に立ったんだと」と笑いながら囁く。路地の辻占は「白き影、北に立つ」と札の裏に書き、御香の煙の向きで客を満足させる。尊攘派の若い浪士たちは、逃走経路を変えて南へ回りたがる。
 蓮は、その噂を聞くたび、変な誇らしさと、手のひらの汗とを同時に覚えた。噂は事実の一部だ。だが膨れ上がると虚構になり、虚構が人の足を縛る。足が縛られれば、刃は要らない。――それを理解している自分に、蓮はときどき、嫌気が差した。

 静は、噂を計算に入れる。
 路地の幅、灯の高さ、石畳の欠け目、井戸端の声の角度、香の流れ、秋の夜気の温度。そこに「噂で変わる人の曲がり方」まで、碁盤の石を置くように並べていく。
 報告の夜、土方に渡す札はいつも簡潔だった。
「北の辻、三つめの角から先、尊攘の“回廊”が一本ずれました」
「ずれた先は?」
「壬生寺の裏手と、善根宿の中間です。灯が低く、足音が消えやすい」
「裏は?」
「裏は“噂”です。白が北へ立った、と」
 土方は鼻を鳴らし、「よし」と短く言うだけだった。言葉が短ければ短いほど、動くものは長くなる。静はそういう人の側にいることが多い。 

 表では、近藤の温厚な笑いが先に立つ。
 夜の稽古のあと、「皆、ようやった」と声をかける。その声は大広間に柔らかく広がり、竹の匂いと飯の湯気に吸われて薄くなる。そういう薄さは、隊の背中を押す。
 だが同じ夜の、別の部屋では、土方が法度の紙を畳に広げ、黒い筆を重く置いていた。
「名が立つほど、裏を削らにゃならねぇ」
「はい」
「芹沢の席が荒れてる。会津の手前、表立っては動けねぇ。――裏から締めるしかない」
 決断は、刃を抜くよりも静かだった。静かな決断ほど、よく通る。

 芹沢鴨一派の横暴は、目に余った。
 遊郭で酒をぶちまけ、芸妓の袖を掴み、笑いながら器を割る。町人の家を理由もなく荒らし、「お国のためだ」と叫びながら抜刀する。町は震え、名は濁る。
 近藤は眉を曇らせ、総司は春の笑みを薄くし、山南は稽古帳に赤い点をいくつか増やした。土方は紙を一枚はがして静に渡した。
「“芹沢派の動静をすべて洗え”。出入り、馴染み、密会の相手、金の回り。表の巡察にかこつけてやる。――“監視”だ」
 静は軽く頭を下げ、蓮の方を見た。
「矢野さん。監視とは、処刑の下準備です」
 その言葉で、蓮の背筋に冷たいものが走った。
「静。お前、さらっと言うけどさ」
「はい」
「“下準備”って、自分で言って、自分で平気なのか」
「平気ではありません。――必要です」
 必要、という言葉は便利だ。便利だが、温かくない。その冷たさを、蓮は手の甲で確かめるように握りなおした。

 翌日から、静と蓮の「名簿にない役目」はさらに濃くなった。
 表の巡察で町の骨組みを叩きながら、裏の筋で芹沢派の影をなぞる。
 茶屋の娘に飴を握らせて道の情報を買い、湯屋の番台に銭を置き、舟宿の女将に「別の客」の噂を落とす。笠屋の糊は薄くさせ、賭場の札は一枚だけ角を欠かせる。夜の物の位置が半寸ずれれば、人の意志は勝手に別の方へ曲がる。曲がった意志は、その人の足で自分の穴に落ちる。

 芹沢の席の出入りは派手で、連なる男たちの足音がまるで祭りの太鼓のように町の角角に響いた。
 蓮は、油小路に面した二階の陰から、その行き来を見た。
 座敷の障子の向こうで、笑い声が上がる。杯の当たる音が高く、器の割れる音が低い。低い音は、朝まで残る。
「静。あいつら、酒の量で自分の声の太さを決めてる」
「はい。太さは、刃の入る隙間です」
「刃を入れる気なんて、まだないだろ」
「まだ、です」
 静は扇を開かずに手の中で回し、障子の枠の影と影の間の隙間を見た。
 隙間は薄いが、視線は通る。通る視線は、内側の「嘘」を光らせる。酒席の笑いは、嘘の形がよく見える。笑いの形が決まれば、次の夜の「崩し」の角度が決まる。

 “監視”と一口に言っても、仕事は雑多だ。
 新しい帳場の書き手――かつての同心崩れ――に、紙の端に小印を押させ、出入りの印影を拾う。善根宿の帳面の「匿名」の欄に、ときどき小さな名を混ぜておく。名は重い。だが、重い名は、引きずれば跡を残す。跡が残れば、紙を読める。
 白木は字の訂正を手伝い、書き手は「京の間合い」にようやく馴染んだ。「里帰り」しない字は、長く残る。長く残る紙は、夜の冷たさに強い。

 芹沢の側近筋――ひとりは「平蔵」の空席を埋めるように台頭し、もうひとりは新たな「口」として酒席で人の足を踏んだ。踏まれた足は笑いで済まされ、笑いが続くと鼻が鈍る。鈍った鼻は、血と酒の匂いを混同する。
 その夜、静と蓮は座敷の梁の影から、芹沢の席を見下ろした。
 障子は半ば開き、膳が乱れ、太鼓腹の男が歌い、細い男が笑い、簪の折れた芸妓が奥から早足で去る。そのすべてが、明日の朝の「後始末」の形を教える。
「静。もし、粛清が決まったら……俺たちも、刃を振るうんだよな」
 蓮は拳を握りしめたまま訊いた。
 静は視線を外さずに答えた。
「振るわなくても、人は死にます。振るえば、死が速くなるだけです」
 救いはなかった。現実だけがあった。
 蓮はその言葉を喉の奥で転がし、飲み込めず、飲み込んだ。味はしない。冷たさだけが残る。

 「壬生狼」の名は、町の角で勝手に育った。
 昼間、米屋の前で荷を下ろす若者が「狼に見られた」と笑い、夜、善根宿で粥をよそる女が「狼のせいで喧嘩が減った」と肩をすくめる。狼は怖いが、狼のいる林は静かだ。静けさは商いを回す。商いは町を太らせる。太った町は、刃を嫌う。
 噂は町の体温だ。熱すぎると火事になる。冷えすぎると凍る。静は、その日その日の「適温」を見極めて、噂に風を送った。
 北に白を立てれば南が落ち着く。南で沈黙を置けば西が騒ぐ。西の騒ぎを薄い灯で覆えば、東の足音が柔らかくなる。
「静。お前、天気を操ってるみたいだな」
「天気は操れません。――空気は、少しだけ」
「言い換えただけだろ」
「言い換えるのが、術です」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

 監視の札が三十を超えたころ、動きが一つ、表へ向いた。
 芹沢の側近二名が、同じ夜、別々の遊郭で同じ芸妓を指名したという。指名は争いを呼び、争いは偶然を呼び、偶然は「表の切っ先」を呼ぶ。
 土方は、筆を止めて言った。
「“表立って処分はできねぇ”。――けど“表の事件”は転がる。転がったら、拾う」
「はい」
「拾う手が汚れるのは、承知の上だ」
「はい」
 承知とは、二度以上うなずくことだ。うなずくたびに、背筋が少し冷える。冷えを覚えている手でしか、刃は長く握れない。

 その夜、静と蓮は、物陰から目を光らせるだけで足りなかった。座敷の外で、偶然と偶然の間に手を差し入れ、転がる椀の進路を変える。
 蓮は廊下の角に立ち、香の小皿を半寸ずらした。香が低くなると、人の声はわずかに小さくなる。小さくなった声は、力の入った笑いに吸い込まれ、笑いが終わった瞬間の「間」に刃が入る。
 静は、障子の桟に爪を軽く当て、小さな音を作った。杉の鳴き声に似た、その音に、酒に弱い男の肩が反射で跳ねる。跳ねた肩は隣の杯を弾き、弾かれた酒が芸妓の袖に落ちる。袖が濡れ、笑いが止み、視線が集まり、言葉が強くなる。
 強い言葉は、記録の形をしている。
 記録になった言葉は、明日の朝、紙に残せる。
 紙に残ったものは、裏の手で前へ押しやすい。

 が、そこまでしても、蓮の胸の中の「音」は消えない。
 夜が終わると、井戸の前で喉を洗った。桶の水は冷たく、底の石が月を割る。音が小さく跳ねる。
「静」
「はい」
「“監視”ってやつ、いつから“処刑の下準備”に変わるんだ」
「最初からです」
「最初から、ね」
「はい。最初から“下準備”として始めると、最後に“刃を抜かない”選択もできます」
「逆だと思ってた。刃を抜くための準備だって」
「刃を抜かないための準備でもあります」
 静は、桶を支えた。慰めもしないし、説教もしない。ただ支える。支える手は冷たい。冷たいのに、それが一番やさしいと、蓮は最近やっと飲み込めるようになった。

 「壬生狼」の噂はさらに肥え、白の影はさらに北へ立ち、南は静かになり、西が少し乾き、東が湿った。湿りは、火を嫌う。火を嫌う夜は、刃より紙が効く。
 静は紙を増やし、山南は稽古帳の余白を少し広げ、近藤は「書け」とだけ言い、土方は赤い点を一つ減らして二つ増やした。
 白木は、蓮の字の「点の足りない癖」を笑いながら直し、書き手は古い筆を捨てて新しい筆に替えた。別の里の筆は、別の里の癖を呼ぶ。それを嫌ったのだ。朱の小印は、夜目に強い。

 やがて、芹沢の席の周りで、音が一段低くなった。
 笑いの高さが下がり、杯の当たる音が減り、器の割れる音がなくなった。そうなると、刃は遠くなる。遠くなった刃は、勝手に近づいて来る。
 ある晩、芹沢の側近らが大酒を飲んで騒ぐ座敷に、静と蓮はまた物陰から目を光らせた。
 蓮は拳を握りしめたまま、問う。
「静。もし粛清が決まったら……俺たちも刃を振るうのか」
「振るわなくても、人は死にます。振るえば、死が速くなるだけです」
「救いはないんだな」
「はい。現実は、救いの形をしていません」
 現実の重さは、障子の桟の太さによく似ている。握れば木の粉が落ち、指の腹に黒く付く。それを井戸の水で洗い流しても、爪の内側には黒さが残る。黒さは、落ちない。

 その夜、蓮は夢を見た。
 血の音がした。
 音は、雨に似ている。土を叩き、木の葉を滑り、溝に流れ、遠くで鈍く溜まる。狼の群れが背を押すように、前へ前へと押し流す。逃げ場がない。振り返ると、狼の目は近く、息が触れる。
「静」
 夢の中で呼ぶと、静は近い。
 近いのに、触れない。
 触れないのに、息は届く。
「矢野さん。前でも後ろでもなく、“横”に立っています」
「横、ね」
「はい。横なら、倒れない」
 その言葉だけが、夢の中で温かかった。

 夢から覚めると、夜は深いのに、虫の声がよく通った。
 壬生の空は薄群青に染まり、寺の鐘がひとつ遅れて鳴る。鐘の音に、竹の音が重なる。竹は朝の準備をする。
 蓮は起き上がり、稽古場へ出た。
 静はもう、竹刀を手にしていた。
「静」
「はい」
「俺、今日は“前の手前”で勝つ」
「お願いします。――“監視”の手も、同じです。前の手前で止める。それができれば、刃は要りません」
「できるか、俺」
「矢野さんは、できます」
 言い切られると、肩の力が抜ける。抜けた肩に、うまく力が入る。
 竹の音が、乾いて短く鳴った。

 数日後、密命の紙がもう一枚来た。
 紙は薄く、角に「何もない」印が押されている。
 それは、上からの「見えない査問」の合図だった。
 土方は紙を指先で立て、光に透かした。
「静。裏から締める時期は終わる。近ぇうち、“表”に出る。だがその前に、もうひとつ“裏”だ。――芹沢派の“口”を完全に止めろ。跡は残ってもいい。残す跡はこちらで塗る。おまえは刃の“温度”だけ見ろ」
「承知しました」
 蓮は紙を覗き込んで、鼻を鳴らした。
「“何もない”印……面白い顔してやがる」
「何もないことを、わざわざ示す印です。厄介です」
「じゃあ俺らは、何でもある目で、何もない顔をする」
「はい。矢野さんは、いい顔をお持ちです」
「褒めるな。照れる」
「照れを書いておきます」
「書くな」
「書きます」
「悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

 秋はさらに深く、音はさらに遠くへ届くようになった。
 「壬生狼」は、町にとって恐怖であり、同時に「秩序の棒」である。
 棒がしなるたび、空気は薄く張り詰め、夜の事故が減る。減った事故の隙間に、別の事故が忍び込む。――その事故の名を、静は知っていた。だが、まだ紙には書かない。書かない記録ほど、強い記録はない。書かれないことで、人の口にだけ残る。口は、いい加減だ。いい加減さが町を救うこともある。

 「壬生狼の恐怖」は、名の物語ではない。音の物語だ。
 巡察の足音が遠くから近づき、軒の下で低くなり、また遠ざかる。遠ざかる音に、子は眠り、犬は吠え、商いは帳を閉じる。
 名は、音に寄生する。
 音がやむと、名は不安になる。
 不安になった名は、人に噛みつく。
 噛みついた名の歯を、静は一本ずつ抜く手つきで、夜を回した。

 ある夕刻、総司が縁側で呼び止めた。
「静さん。白の噂、上手く使ってますね」
「道具として、です」
「あなたは怖い人だ。きれいすぎる」
「はい。――僕も、怖いです」
「なら、よろしい」
 春風の笑いは、冬の前ぶれを連れてくる。冬は刃をよく映す。
 刃は鋭いほど、柄は冷たい。握る手は凍える。
 凍えを知っている手だけが、長く握れる。
 蓮は、その手になろうとしていた。静は、すでにその手だった。二人の呼吸は、すこしずつ合い始め、京の闇は、嵐の前の静けさを深くした。

 その晩、蓮は稽古帳の余白に一行を書いた。
――噂は刃になる。
 静はその下に、点の小さな字で足した。
――噂は盾にもなる。
 余白が白い。白は夜の色だ。
 白の余白に、遠くの太鼓が小さく滲んだ。
 狼は、そこで背を低くする。
 京は、嵐へ入る。
 そして、噂が押し出した長い序章が、静かに終わりに近づく。
 池の底で、小さな石が、ごろり、と転がる音がした。