名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 晩秋の雨が、杉の梢を素手でさわるように落ちていた。奥州街道の小さな宿場で、矢野蓮は名乗らずに帳場へ印を押した。墨は薄く、朱は冷たい。囲炉裏の火は低く、箒のような炎が灰の底へ行き来している。ほかの旅人は、誰も他人の来し方を問わない。世がひっくり返った後、人は他人の出自より、今夜の米と明朝の天気を気にするようになったのだ。

 薄い板戸の奥の間に通されると、蓮は荷を置き、古い柱の割れ目へ紙片をそっと差し込んだ。いつからの癖か、自身にも分からない。朝にはいつも消えている。誰かが抜くのか、風が連れ去るのか、神仏が読んで火にするのか。どれでもよかった。紙片の端には、墨で細い二行があるだけだ。

 ――名を遺さぬ者へ。
 ――背を預けた記憶だけを風に渡す。

 湯をもらって戻ると、雨脚はさらに細くなっていた。簷の雫を眺めていると、ふと胸の底の古い扉が開く。扉の向こうは、京の湿った夏の夜気だ。畳の縁に血がたまり、油の匂いと蝋燭のすすが腹に差し込んでくる。池田屋。あの時、俺は初めて人の死を「仕事」として見た――と蓮は思い出す。怒号の中、柱を蹴って二階へ跳んだ白い裾。火縄をはたき落とし、倒れた男の喉へ届く刃。背に感じた呼吸は、耳の高さで一定だった。

「静」

 今も、名を呼ぶ時、喉は自然にその高さへ戻る。返事はない。だが返事を要さない距離が、かつて確かにあった。禁門の炎が空の色を変えた日、泥に膝を取られながら、蓮は背にその一定の高さを探して走った。黒煙の向こうで「矢野さん」と低く呼ばれた一回で、視界の揺れは収まり、足は前へ出た。

 江戸へ下る途中、甲州の風は澄み、敗走の列は長かった。銃の音は遠く、空は近い。旗は裂け、言葉は短くなり、約束は刃の重さで量られた。上野の一日、砲声は午後の光を砕き、寛永寺の木肌は焦げた。江戸の町人は、あの日確かに「助かった」と安堵した。だが、その安堵に寄せるべき名の中に、自分たちの名はなかった。蓮はそれを恨みもしなかった。ただ、白い裾が灯のない白であったことだけを、胸の奥の湿った紙に書き付けた。

 北へ。会津へ。雪は静けさの重さを持ち、血はその静けさへ花のように咲いた。局中法度を胸の裡で繰り返すたび、山南の座す背筋が目に浮かぶ。茶屋の一間。短い言葉。短い息。短い刃。蓮はあの夜の畳の目を、指先でなぞる癖をいまだにやめられない。やめられないからこそ、名を紙に書かない。紙に書けば、紐で縛られる。それを知ったのは、土方の横顔が雨の幕の向こうに消えた瞬間だった。

 一本木。馬の嘶き。銃声は空の色をも撃った。泥の跳ねで頬が冷たく、舌に鉄の味が広がる。蓮が駆け寄った時、副長の瞳はまだ風の形を映していた。「……まだ……守れ」――その言葉が、矢のように胸板に刺さった感覚は、今も抜けない。静は隣で膝をつき、「承知」とそれだけ言った。泣きも笑いも、眉の動きひとつのうちに収まっていた。やがて蝦夷で、その眉が震え、声が潰れ、涙が頬を伝うのを、蓮は見た。土方の亡骸を前に、静は初めて「人」として泣いた。その泣き顔を見て、蓮はやっと、自分が今まで預けてきたものの重さを理解したのだ。

 五稜郭。星の角。海霧。鉄の匂い。弁天台場の砲口は潮風を飲み込み、砲耳は火を吐いた。蓮は弾薬の箱を両腕で抱え、凍った土を滑る。肩で息をしながら、背に「矢野さん」と届く声を探す。夜襲の影が誘い道に絡め取られていくのを、何度も見た。段差ひとつ、縄ひと筋、濡れた板一枚。そのすべてが、静の刃の延長だった。見えない刃で、敵の「まだ行ける」を少しずつ削ってゆく。最後の角を曲がるときには、もう勝負はついている――静はそう言った。蓮はうなずくしかなかった。影の仕事は、勝つより先に「延ばす」ことだ。明日を一息、延ばすことだ。

 そして最後の夜。白い裾は雪の白と見分けがつかず、呼吸は風音に紛れ、足跡は途中で消えた。消えるという術は、敗北の中で覚えた唯一の自由だった。蓮はその意味を、あとから知った。影は、消えるときでさえ、影でいられる。

 宿の薄明かりの中で、蓮は膝を抱えた。囲炉裏の火は丸く、灰の丘の向こうに小さく揺れている。ふいに、若い声が耳裏を撫でた。あの軽やかな笑い声。沖田総司。息が漏れるような咳が続いたのち、いつもと変わらぬ明るさで「大丈夫、大丈夫」と笑った人。稽古場の白砂に足跡を重ね、木刀の影で春の匂いを運んだ人。蓮は目を閉じ、総司の肩の軽さを思い出す。影である静が、光である兄を守りきれず、ひとりで泣いたあの夜――静の拳が畳に沈む鈍い音は、今も耳に残っている。

「静」

 名を呼ぶ。返事はない。けれど、背骨の左に確かに手が置かれる。置かれたはずの手に、骨の内側から温度が移る。人は、いなくなってからのほうが、近くにいる――と誰かが言っていた。蓮はそれに頷く。頷いて、笑う。笑いながら、涙が舌に塩を落とす。

 朝、雨は上がり、雲は薄くほどけていた。蓮は代金を枕元に置き、廊下の隅に短く掃き清め、外へ出る。道端の榛の葉は濡れて光り、石地蔵の頬に新しい藻がついている。宿場の外れの田の畦で、子どもが縄を回していた。足はもつれ、縄は靴先に絡む。蓮は立ち止まり、半歩の加減を教えることもできたが、黙って見ていた。やがて子どもは自然に縄と呼吸の高さを合わせ、三度、四度、五度と軽く跳んだ。背筋が伸び、視線がまっすぐ前へ向く。人は誰も、知らずに背を育てる。

 昼過ぎ、古い寺の石段を上った。鐘楼の影は短く、梢の間に青い空がある。寺の裏の土の匂いに、遠い函館の崖の湿りが混じる。碧血碑の土に忍ばせた、あの細い白い繊維――静の白。土はすでにそれを抱き、別のものに変えてしまっただろう。根か、水脈か、誰かの足跡のやわらかさか。どれでもいい。残る形は、名でなくていい。

 堂の縁に腰をおろすと、若い僧が湯を運んできた。顔に薄い翳りを持つ、あの住職によく似ている。僧は湯を置き、蓮の隣に静かに座った。言葉はない。秋の風が二人の膝を巡り、庭の隅で白菊が揺れる。

「名前は」僧がやがて訊いた。

「要らないよ」

「では、願いは」

「背中が、ひとつ分、あたたかければいい」

 僧は笑い、うなずいた。木魚の音が遠くで一度鳴り、犬がどこかで短く吠えた。蓮は湯を口に含む。温度が舌に、喉に、胸に落ちてゆく。温かいものは、音を持たない。音を持たぬものの方が、長く残る。

 夕暮れ、街道へ戻る前に、蓮は橋の欄干に紙片を一枚置いた。墨は乾き、字は小さい。

 ――ここにいた。
 ――矢野蓮。
 ――静。お前の背に、最後まで。

 置いた紙は、間もなく風に攫われ、水面でほどけた。ほどけた文字は、輪郭を失い、水の色になった。名は、やがて水になる。水は、だれかの喉を潤す。だれかの涙に混じる。だれかの鍬の先で泥になる。そう考えれば、名を遺さぬことは、名を広げることでもある。

 夜の手前、峠道の一番高いところで、蓮は立ち止まった。空は深く、星は少ない。風は乾き、頬を行き来する。胸の内で、声がする。

「矢野さん」

「静」

 それだけでよかった。言葉は二つで、世界は足りる。背中を預けるとは、いつでも振り向けるということではない。振り向かずとも、いると知っていること――それがすべてだった。

 冬が来れば、またどこかの宿で紙を差すだろう。春が来れば、どこかの土に白い繊維を混ぜるだろう。夏が来れば、港の杭に一枚挟むだろう。秋が来れば、碑の影に頭を垂れるだろう。そうやって、名の代わりに、世界のいくつかの場所を、わずかにやわらかくして回る。影の歩いた跡は、すこし弾力がある。それだけで、誰かの足首が救われる。

 歩き出しながら、蓮はふと、かつての屯所の薄い笑い声を思い出した。総司の軽口、永倉の悪態、斎藤の沈黙、原田の大声、藤堂の若さ、井上の渋い咳払い、そして近藤の、暖を含んだ叱責。土方の冷たい視線の奥に潜む、かすかな火。山南の静かな眼差し。芹沢の重たい笑い。池田屋の畳、禁門の炎、鳥羽伏見の雨、甲州の埃、上野の煙、会津の雪、蝦夷の霧、一本木の風、五稜郭の堀。どれも同じ高さに並んで、胸の内の棚にしまわれている。その棚は鍵が要らない。持ち主だけが、分かる場所にある。

 名を遺さぬ者へ。名を欲しがった昔日の自分へ。蓮は歩きながら、心の中で短い手紙を書いた。

 ――お前は名を持たずに、背を持った。
 ――名は紙に残り、背は骨に残る。
 ――骨は土へ、土は花へ、花は風へ。
 ――それで十分だ。

 風が追い越し、落葉が足首にまとわり、遠くで水の音が続く。道はどこまでも続くように見えるが、実のところ、道はいつも足元だけにある。足元の半歩、その連なりが人の一生だ。半歩の高さに、かつての声が重なる。

「矢野さん」

「行くぞ、静」

 返事は風の向きで返ってくる。風は背中を押し、影は地面に薄く伸びる。やがて夜が降り、影は闇に溶ける。溶けても、消えない。消えたものが、世界のやさしさになる。そう信じることでしか、蓮はこれからの季節を歩けない。

 峠の向こうに、灯がひとつ見えた。人のいる証だ。蓮は肩の力を抜き、歩幅をそろえ、灯へ向かった。名は呼ばれず、名は呼ばない。呼ぶのは、背中だけだ。背を預ける相手が、たとえ風になっても、雪になっても、土になっても。

 物語はここで薄く、静かに、紙の端のように途切れる。だが、途切れた先にも、白い余白が広がっている。余白は、風の居場所であり、影の寝床だ。余白の真ん中で、蓮は短く息を吐き、前を見た。行く先はどこでもいい。どこでも、背を思い出せるなら。

 ――名を遺さぬ者へ。
 ――名を欲しがった者へ。
 ――ここにいた。背を預けた。
 ――それで、よい。