捕縛は避けられなかった。弁天台場の裏手、泥と雪解け水が筋を描く低い窪地で、矢野蓮は包囲線に突き当たり、刃こぼれした刀を捨て、両手を上げた。縄が手首に食い込み、冬の汗が塩の味を残す。銃剣の先が肩口を押し、転ばぬように転ばせる不思議な力で前へ前へと歩かされる。連行された詰所は狭く、湿っていて、窓の一部は氷で曇っている。粗い板の隙間から差し込む光が、埃を金色に浮かばせているのが妙にきれいだった。人の悲鳴も罵声も減り、かわりに法の文言と名前の呼び上げが夜通し続く。歴史が帳簿へ移るのだ、と蓮は思った。血と灰で書かれていたものが、墨と筆の領分へ。名のあるものだけが、紙を渡る。
取調べは淡々としていた。名、出自、隊での役目、函館での働き。蓮は必要以上のことを語らない。語れば、影に日が当たる。問いの間に長い沈黙が挟まると、書記が苛立った調子で咳払いをした。誰も“白装束の剣士”の行方を知らないかと問うた。蓮は肩を竦め、曖昧に笑った。噂話を尋ねるのは、勝者の余興にすぎない。影の話は、勝者にとっても影のままの方が都合がいい。
数日が過ぎ、判決が降りる。重い者は遠島、軽い者は赦免、わけの分からない者はしばらく据え置かれる。蓮は“据え置かれる側”に入った。名が薄く、罪状が薄く、記録に乗せても意味を持たない人間。彼はその分類の居心地の悪さに苦笑し、夜ごと短い文を板壁の裏に刻みはじめた。爪の先で木肌を掻き、木屑が白い粉になって落ちる。
――影の証言。
――俺はいた。背を預けられた。背を預けた。
――ここに書く名前は、書けば消える。
文字は小さく、節の溝に沿って曲がり、釘の赤錆でところどころ滲んだ。ある晩、番人が巡回ついでに覗き込み、「落書きはやめろ」と手の甲で叩いた。蓮は従順に頷き、今度は掌に覚え書きを書くことにした。爪で皮膚をなぞり、翌朝にはほとんど読めなくなる痕跡。消えることが前提の手記だ。
詰所の隅に煤けた小さな竈があり、朝な朝な番の者が薄い粥を温める。蓮はその煤で指先を黒くし、枕元の柱の見えぬ側面にさらに細い字を描いた。煤はすぐに剥げる。剥げるから、書き続けられる。
――池田屋。畳の匂い。汗と蝋燭と血。
――禁門。炎。風。走ると煙が肺の形になる。
――鳥羽伏見。泥の上の鉄。耳鳴り。
――甲州。向こう見ず。退くときほど背は近い。
――上野。砲声一日。城の木が焦げる匂い。
――会津。雪に血は咲く。
――箱館。潮の鉄。
――一本木。風。馬の瞳。
――五稜。星の角。
――白。白は灯のない白。
夜が深いほど、目に浮かぶのは声だった。静の声は、低いのに、いつも耳の高さで鳴る。どの戦でも同じ高さだった。耳の高さで言った。
――矢野さん。
その呼び方は、蓮にとって名より深く刻まれた合図だった。名は紙の上で移ろうが、呼び方は骨の上で残る。思い出すたび、肩口の筋肉が自然に緩む。あの半歩の距離へ、全身の器官が戻ろうとする。
昼の労役が割り振られた。蓮は道路の補修に回され、崩れた石垣を積み直し、溝の詰まりを掻き出し、砕石を撒いて踏み固める。斧と鎚と鍬。刃の形は変わっても、手の皮は同じ場所で破れ、同じ場所で固まる。昼休み、支給の粥をすすりながら、蓮は指先の古い豆に触れた。池田屋の頃の、禁門の炎の頃の、江戸防衛の頃の、甲州の風の頃の、上野の煙の頃の、会津の雪の頃の、蝦夷の霜の頃の。指の腹は、年輪みたいに記憶を重ねている。そこに新しい輪が刻まれるたび、誰かの呼吸が、肩越しに戻ってきた。
詰所の同室に、会津から敗走してきた壮年の男がいた。名は言わない。言わないことが礼儀であり、同盟だった。男は夜ごと短い唄を鼻で転がした。会津の田植え唄だという。「稲は黙って根を下ろす」と唄は言う。蓮は目を閉じ、根の形を想像した。白い糸のような根。あの夜拾った、潮にほどけた白布の繊維と同じ形をしている。根は名を持たない。持たないから、長い。
春の終わり、赦免に近い条件で放たれた。蝦夷の海霧が薄くなり、山肌に小さな花が咲く季節。港に沿って、捕虜だった者たちがばらばらに歩き出す。誰もが背中に空の匂いを負い、行き先は口にしない。蓮は背嚢に何も入っていないのを確かめ、歩きはじめた。行き先は陸奥でも、江戸でも、名のないどこかでもない。ただ、地図に載らない距離を歩くつもりだった。
箱館の市中で、小さな古道具屋に入る。中は潮で膨らんだ木箱が積まれ、書き損じの帳面や、解かれた帯や、壊れた櫛が雑多に置かれている。店主は蓮を泥の塊のような目で見て、何も言わない。蓮は帳面の束を指で撫で、最も薄く、最も安い一冊を選んだ。代金を置き、外へ出て、最初の頁を破る。破った紙を四つに折り、そこに短く記す。
――影の夜、背の呼吸。
――雪に消えた白。
それを港の杭の割れ目に押し込み、二枚目の頁を破る。今度は海風で飛びそうな葦の束の中へねじ込む。三枚目は、五稜郭へ続く道の脇の石の下へ。四枚目は、弁天台場の塀の亀裂へ。紙は湿って皺になり、すぐに読めなくなる。だが、それでいい。読めない文字の方が、長く残る。読む者の内側へ潜り、誰かの記憶の形に合わせて変化する。
街道へ出る前、蓮は一度だけ五稜郭の方へ振り向いた。星形の稜線は春の霞の中で輪郭を失い、遠い腹の底で海が息をしている。あの城のどこかの壁の裏に、彼の爪の跡が残っている。名前ではない線が。名を残す代わりに残すものは、世界の傷のようなものだ。誰もそれを指さして「矢野蓮」とは言わない。けれど、そこに誰かが触れたとき、冷たさの正体として小さな物語が立ち上がるだろう。そうなれば十分だ。
歩き出す。北へも南へも定めず、ただ歩幅をそろえて歩く。背のどこかに、いつでも手を伸ばせる相手の気配を想像しながら。歩くたび足の裏に溜まる痛みが、名の代わりに日付を刻んでいく。ある村の子どもが道端で石蹴りをしていて、蓮の靴先に石が転がってきた。拾って、子どもに渡す。子どもは礼も言わず、走っていった。よくある風景だ。蓮は笑った。影の善意は、記録されないからこそ軽い。
夜、野宿の火のそばで、帳面の残りの頁を閉じた。書けば消える。書かねば消える。ならば、書いて消えよう。彼は目を閉じ、背に無人の重みを確かめてから、眠った。夢の中で、白い裾が風に揺れ、雪は音を立てずに積もり、海は遠くで青く笑った。
翌日からの頁には、少しずつ違う文体が並びはじめた。蓮は、自分の言葉だけでなく、聞いたことのある口調をまぜることにした。静の声の高さで、書く。
――矢野さん。ここは通さない。
――迷いは斬られる。
――背を預けるのは、二人。
文字はどれも短い。長い物語は紙に残るが、影は紙に残らない。短いほうが、息と一緒に持ち運べる。
五稜郭の陥落から間もない箱館の町では、新政府の役人に混じって、江戸から来た古書肆が露店を出しはじめていた。古い兵法書、蘭学の残り紙、江戸の瓦版。蓮は立ち止まり、瓦版の墨の匂いを嗅いだ。騒がしい文字は、戦の後には妙に軽い。紙の上の勝敗は決してべたつかない。乾いて、並び替えられ、束ねられ、人の手から手へ渡される。影の敗北は、乾かない。だから、誰にも渡らない。
弁天町の端で、アイヌの古老が網を編んでいた。以前、貝殻をくれた老人だ。老人は蓮の手の甲を一度見、何も言わずに網針を動かし続けた。規則正しい手の動きには、名はない。名のない規則だけが、網を堅くする。
「生きてるな」
「生きてる」
「名は?」
「……置いてきた」
それでいい、と老人は言わずにうなずいた。蓮もまた何も言わずにうなずいた。言葉を省くことで、やり取りは濃くなる。影は無口であるほど、よく伝わる。
蓮の頁は町のあちこちへ散っていく。港の杭、路地の石畳の継ぎ目、寺の裏の土、崖の割れ目、古い井戸の外輪。彼はわざわざ読ませようとはしない。紙を置くときの指先の温度だけが、小さな祈りだ。
ある日、取調べで顔を見た書記が、市場の雑踏で蓮を呼び止めた。浅葱色の裃は脱いでいて、町着に着替えている。買ったばかりの干物の匂いが袖に残っていた。
「おまえ、名のない書付をあちこちに挟んでるな」
蓮は笑った。「読めないだろ」
「読めない。だが、触れば冷たい。妙に冷たい。あれは何だ」
「背の高さの手紙だ」
書記は理解したのかしないのか、鼻で笑い、去っていった。理解されないほうがいい。理解は、紙へ連れて行かれる。
日が伸び、箱館山の上に朝の薄い霧が溜まる季節、蓮は崖へ降りた。あの夜、白い糸を拾った場所。潮が引いて、岩が露わになり、塩の花が角で光る。白いものは、もうない。見える限り、何もない。蓮はそれでも、岩の割れ目にそっと指を入れた。何も触れず、ただ冷たさだけが指にまとわりつく。その冷たさは、誰の名も持たない。名がない分だけ、深く残る。
崖の上へ戻りながら、蓮は頁に短く書いた。
――触れて冷たいものにしか、言えないことがある。
頁は海風で揺れ、立ち木の陰に鳴った。蓮はちいさく笑い、頁を自分の胸の内側に押し当てた。紙は心臓の拍動に合わせて温かくなり、すぐまた冷えた。温かさと冷たさの交代が、手記の正しい読み方だと思えた。
その晩、夢に火が出た。池田屋の灯。禁門の炎。江戸の提灯。上野の火点し。会津の囲炉裏。箱館の焚き火。どれも同じ高さに揺れる。灯りの外に白があり、白の外に風がある。風の外に海がある。海の外に、名前のない暗がりがある。その暗がりへ、静の裾が消える。消えたとき、蓮の手の平が空をつかむ。空の重さが、手の平の骨の中へ残る。
翌朝、碧血碑の噂を耳にした。戊辰で血を流した旧幕の兵のために碑を建てるという。石は青みがかって見えるので、碧血の名がついたと、誰かが得意げに言った。碑を建てたい者は多かったが、金はない。許しもない。だが、誰かが、石を運び、誰かが、刻む。名を刻むのではない。血の色の言葉を刻む。名は刻まない。命を刻む。
手伝いの名目で外へ出る許しが下り、蓮は数人とともに山へ入った。榎並村の石場から、青味がかった石を切り出し、橇に乗せて引いた。石は重く、雪の名残の上を滑り、時々、泥に沈む。誰かが掛け声をかけ、誰かが滑りを修正し、誰かが後ろで押す。息が合う時、石は軽くなる。息が合わない時、石は人を潰す。石は正直だ。だから、石に嘘はつけない。
石を据える場所は、谷風が通る斜面の中腹だった。ここなら、風が碑の上を通り、文字に苔がつきにくいと、石工が言った。文字は、「碧血碑」の三字と、幾行かの由来の文。刻む者の手元で、石の粉が白い煙になって舞い、刻まれた線は影になって白む。蓮は刻みには手を出さず、周りを整え、石を手渡し、若い枝を切って足場をこしらえた。仕事の最中、胸の内でひとつの思いが強くなった。――静の白布の糸を、どこかに混ぜたい。碑のどこかに、名のない白を入れたい。
夜、蓮はひとり崖へ降りた。潮が引き、岩が呼吸している。波が来るたび、岩の肌が一瞬濡れ、すぐ乾く。岩の割れ目に指を差し入れると、砂が指先に集まってきた。砂の中に、微細な白が混じる。繊維か、殻の粉か、塩の結晶か分からない白。蓮はそれを掌に集め、布に包んで持ち帰った。翌日、碑の台座の土に、その白を混ぜた。掬った土に、白を散らし、見えないように薄くならして踏む。誰も気づかない。気づかれなくていい。碑は風に撫でられ、雨に叩かれ、雪に埋もれ、やがて苔に覆われるだろう。その時、土の中の白は、別のものに変わっている。根になるか、水の道になるか、誰かの指の記憶になるか。どれでもいい。残ることが、今はただ、それだけでよかった。
碑が立った日の夕方、斜面の上で榎本の赦免が噂になった。幽囚から政治家へ。敗者の頭は、勝者の側へ置かれる。歴史は、紙の上で折りたたまれ、別の題目で開かれる。蓮はその話を聞きながら、碑の上の三字を見上げた。碧血碑。静の名はそこにない。土の中にある。土の中の白は、名前のない字だ。名の代わりに、土が持つ字。
港では新政府の兵が一隊、行進していた。隊列はまっすぐで、歩幅は揃い、靴の音は石畳に一定の刻みをつける。蓮はその刻みに自分の半歩を合わせ、すぐ外れ、また合わせ、また外れた。合わせたり外れたりすることが、生き延びる術だと、身体が覚えている。その身体の覚えを、紙にも残したくなった。蓮は薄い頁に書いた。
――合わせる。外れる。
――外れた分だけ、背が見える。
――見えない背に、手が届く。
頁はまた、どこかへ挟まれ、湿り、皺になり、読めない文字に変わってゆく。
夏が来ると、箱館の町は霧の日が増えた。霧は音を吸い、匂いをぼかし、輪郭を丸くする。労役の足は軽くなり、役人の顔は少し柔らかくなった。赦免の話が下にまで降り、年季の軽い者から順に解かれていく。蓮の名も紙の上で線を引かれ、別の紙へ写された。紙の上で動く名を見て、蓮は胸の中で静の名を動かした。動かない。紙の上では動かない。だから、心の中でだけ、位置を少しずつずらす。背中の右側だった呼吸を、左側へ少し寄せる。寄せるたび、涙腺のどこかが痒くなる。
赦されて、町の外へ出る許しが出た日、蓮はもう一度、碧血碑へ登った。道は細く、草は濡れ、靴は泥を抱いて重くなる。碑の前に立つと、風が背中を押した。碑の影は朝の光で短く、地面の斜めに、白い小さな花が咲いていた。名前を知らない花だ。白は、どこまでも静の色だ。蓮は碑に頭を下げ、額が冷たい石に触れた。
「静」
声は小さかった。だが山に跳ね、風に混じり、海へ降りる。呼ばれた名は、紙に書かれない名だ。紙に書かれないから、風にも海にも混じれる。蓮は胸の内の白い繊維が、今度は自分の体の中で根を伸ばしてゆくのを感じた。根は血の中を進み、骨の中を潜り、背骨の横で静かに止まる。根の先に、小さな芽が出る。芽は、痛みに似ている。痛みは、生きている者の証だ。蓮は目を閉じ、痛みを抱えたまま、長い呼吸をした。
山を下りる途中、笹の影が揺れ、白いものが一瞬のぞいた。白はすぐに消えた。誰かがそこにいる。そう思った瞬間、胸の内で、懐かしい声がした。
「矢野さん」
「……静」
振り向けば、誰もいない。いるはずがない。だが声は、風の高さで、はっきりと聞こえた。蓮は笑った。涙が、頬の真ん中を温かく伝って落ちた。涙は、純粋に重い。こんなにも単純に重いものが、自分の中にまだ残っていたことが、嬉しかった。
秋、旅の身のまま陸奥へ下る。道中で出会った小さな町の祭りで、若い浪人崩れが居合を披露していた。白い装束の下に薄い鎖帷子を覗かせ、袖口は新しい。人々が「白い剣士」と囃し立て、酒の勢いで騒ぐ。若者は得意になって刃を振り、灯の光で刃の線を見せる。蓮は遠くからそれを見て、何も言わなかった。白は、灯の色を借りて白くなる。あの夜の白は、灯のない白だった。灯のない白の強さは、誰にも分からない。分からせる必要もない。蓮は屋台の端で酒をひと口だけ喉に落とし、夜風に当たり、祭りの音を背にして歩き出した。
冬、雪原を渡る風が強い夜、蓮は焚き火の前で、ふと声を出した。
「静。俺は、ここにいる」
答えは、ない。ないことが、返事だ。返事は、風の向きで分かる。風は北から吹き、火は南へ揺れる。火の揺れの高さは、耳の高さより少し下。そこが、静の声の位置だ。
春の終わり、蓮は再び箱館に戻った。港は新しい建物で賑わい、通りの看板は横文字を含み、兵の制服は色が変わっている。碧血碑の斜面は草が青く、風が白い花を揺らす。碑の前で、長い旅の土を落とし、蓮は深く頭を下げた。土の中の白い繊維は、もう土そのものになっているかもしれない。土は、花を咲かせ、木を育て、風の道を作る。名のない仕事は、名のないものを育てる。
港の端で縄跳びをする少年がいた。飛び方はぎこちなく、縄は時々靴に引っかかる。少年はむっとして、もう一度、またもう一度。やがて、跳び方を覚え、呼吸のリズムで縄が回る。背中が自然に伸び、半歩の踏み替えが美しくなる。蓮はそれをしばらく眺め、胸の中で「上手い」と一言だけ言った。少年はそれを聞いたのか聞かないのか、調子を変えずに跳び続けた。
夕暮れ、港の灯がひとつ、ふたつ、またひとつと点り、海が黒く沈んでいく。蓮は懐の貝殻を取り出し、欠け目に指を触れ、耳に当てた。遠い波が鳴り、近い呼吸が重なり、どこか見知らぬ町の祭囃子が、ほんのわずかに混じる。世界は広い。広いのに、背中の高さは、どこへ行っても同じだ。蓮は貝殻をしまい、歩き出した。歩幅は、いつもの半歩。呼吸は、いつもの速さ。背中には、いつもの重み。
名は残らない。だが、名より深いものが残る。背。呼吸。半歩。白い布の繊維。土の湿り。海の塩。石の重み。冬の星。夏の霧。箱館の風。池田屋の灯。禁門の炎。鳥羽伏見の雨。甲州の土埃。上野の煙。会津の雪。五稜郭の堀。弁天の潮騒。一本木の風。碧血碑の影。すべてが、同じ高さで胸の内に並ぶ。
蓮の手記は頁を持たない。木の裏、土の中、石の下、海の割れ目、風の高さ。そこに書かれた文字は、読めば消え、消えれば残る。読む者は、たぶん世界だけだ。世界は、読むことをやめない。
夜が深く、星が風に滲む。蓮は最後に一度だけ、声を出した。
「静。行くぞ」
答えは、ない。ないことが、返事だった。蓮は頷き、前を見た。灯は多く、白は少ない。白は、灯がなくても白い。灯があっても白い。白は、影の色だ。影は消えない。消える時でさえ、消えない。彼はその確かさだけを連れて、名のない道を歩き続けた。背の高さを測り、半歩の加減を守り、呼吸を分け合う誰かの記憶を胸に、黙って。
取調べは淡々としていた。名、出自、隊での役目、函館での働き。蓮は必要以上のことを語らない。語れば、影に日が当たる。問いの間に長い沈黙が挟まると、書記が苛立った調子で咳払いをした。誰も“白装束の剣士”の行方を知らないかと問うた。蓮は肩を竦め、曖昧に笑った。噂話を尋ねるのは、勝者の余興にすぎない。影の話は、勝者にとっても影のままの方が都合がいい。
数日が過ぎ、判決が降りる。重い者は遠島、軽い者は赦免、わけの分からない者はしばらく据え置かれる。蓮は“据え置かれる側”に入った。名が薄く、罪状が薄く、記録に乗せても意味を持たない人間。彼はその分類の居心地の悪さに苦笑し、夜ごと短い文を板壁の裏に刻みはじめた。爪の先で木肌を掻き、木屑が白い粉になって落ちる。
――影の証言。
――俺はいた。背を預けられた。背を預けた。
――ここに書く名前は、書けば消える。
文字は小さく、節の溝に沿って曲がり、釘の赤錆でところどころ滲んだ。ある晩、番人が巡回ついでに覗き込み、「落書きはやめろ」と手の甲で叩いた。蓮は従順に頷き、今度は掌に覚え書きを書くことにした。爪で皮膚をなぞり、翌朝にはほとんど読めなくなる痕跡。消えることが前提の手記だ。
詰所の隅に煤けた小さな竈があり、朝な朝な番の者が薄い粥を温める。蓮はその煤で指先を黒くし、枕元の柱の見えぬ側面にさらに細い字を描いた。煤はすぐに剥げる。剥げるから、書き続けられる。
――池田屋。畳の匂い。汗と蝋燭と血。
――禁門。炎。風。走ると煙が肺の形になる。
――鳥羽伏見。泥の上の鉄。耳鳴り。
――甲州。向こう見ず。退くときほど背は近い。
――上野。砲声一日。城の木が焦げる匂い。
――会津。雪に血は咲く。
――箱館。潮の鉄。
――一本木。風。馬の瞳。
――五稜。星の角。
――白。白は灯のない白。
夜が深いほど、目に浮かぶのは声だった。静の声は、低いのに、いつも耳の高さで鳴る。どの戦でも同じ高さだった。耳の高さで言った。
――矢野さん。
その呼び方は、蓮にとって名より深く刻まれた合図だった。名は紙の上で移ろうが、呼び方は骨の上で残る。思い出すたび、肩口の筋肉が自然に緩む。あの半歩の距離へ、全身の器官が戻ろうとする。
昼の労役が割り振られた。蓮は道路の補修に回され、崩れた石垣を積み直し、溝の詰まりを掻き出し、砕石を撒いて踏み固める。斧と鎚と鍬。刃の形は変わっても、手の皮は同じ場所で破れ、同じ場所で固まる。昼休み、支給の粥をすすりながら、蓮は指先の古い豆に触れた。池田屋の頃の、禁門の炎の頃の、江戸防衛の頃の、甲州の風の頃の、上野の煙の頃の、会津の雪の頃の、蝦夷の霜の頃の。指の腹は、年輪みたいに記憶を重ねている。そこに新しい輪が刻まれるたび、誰かの呼吸が、肩越しに戻ってきた。
詰所の同室に、会津から敗走してきた壮年の男がいた。名は言わない。言わないことが礼儀であり、同盟だった。男は夜ごと短い唄を鼻で転がした。会津の田植え唄だという。「稲は黙って根を下ろす」と唄は言う。蓮は目を閉じ、根の形を想像した。白い糸のような根。あの夜拾った、潮にほどけた白布の繊維と同じ形をしている。根は名を持たない。持たないから、長い。
春の終わり、赦免に近い条件で放たれた。蝦夷の海霧が薄くなり、山肌に小さな花が咲く季節。港に沿って、捕虜だった者たちがばらばらに歩き出す。誰もが背中に空の匂いを負い、行き先は口にしない。蓮は背嚢に何も入っていないのを確かめ、歩きはじめた。行き先は陸奥でも、江戸でも、名のないどこかでもない。ただ、地図に載らない距離を歩くつもりだった。
箱館の市中で、小さな古道具屋に入る。中は潮で膨らんだ木箱が積まれ、書き損じの帳面や、解かれた帯や、壊れた櫛が雑多に置かれている。店主は蓮を泥の塊のような目で見て、何も言わない。蓮は帳面の束を指で撫で、最も薄く、最も安い一冊を選んだ。代金を置き、外へ出て、最初の頁を破る。破った紙を四つに折り、そこに短く記す。
――影の夜、背の呼吸。
――雪に消えた白。
それを港の杭の割れ目に押し込み、二枚目の頁を破る。今度は海風で飛びそうな葦の束の中へねじ込む。三枚目は、五稜郭へ続く道の脇の石の下へ。四枚目は、弁天台場の塀の亀裂へ。紙は湿って皺になり、すぐに読めなくなる。だが、それでいい。読めない文字の方が、長く残る。読む者の内側へ潜り、誰かの記憶の形に合わせて変化する。
街道へ出る前、蓮は一度だけ五稜郭の方へ振り向いた。星形の稜線は春の霞の中で輪郭を失い、遠い腹の底で海が息をしている。あの城のどこかの壁の裏に、彼の爪の跡が残っている。名前ではない線が。名を残す代わりに残すものは、世界の傷のようなものだ。誰もそれを指さして「矢野蓮」とは言わない。けれど、そこに誰かが触れたとき、冷たさの正体として小さな物語が立ち上がるだろう。そうなれば十分だ。
歩き出す。北へも南へも定めず、ただ歩幅をそろえて歩く。背のどこかに、いつでも手を伸ばせる相手の気配を想像しながら。歩くたび足の裏に溜まる痛みが、名の代わりに日付を刻んでいく。ある村の子どもが道端で石蹴りをしていて、蓮の靴先に石が転がってきた。拾って、子どもに渡す。子どもは礼も言わず、走っていった。よくある風景だ。蓮は笑った。影の善意は、記録されないからこそ軽い。
夜、野宿の火のそばで、帳面の残りの頁を閉じた。書けば消える。書かねば消える。ならば、書いて消えよう。彼は目を閉じ、背に無人の重みを確かめてから、眠った。夢の中で、白い裾が風に揺れ、雪は音を立てずに積もり、海は遠くで青く笑った。
翌日からの頁には、少しずつ違う文体が並びはじめた。蓮は、自分の言葉だけでなく、聞いたことのある口調をまぜることにした。静の声の高さで、書く。
――矢野さん。ここは通さない。
――迷いは斬られる。
――背を預けるのは、二人。
文字はどれも短い。長い物語は紙に残るが、影は紙に残らない。短いほうが、息と一緒に持ち運べる。
五稜郭の陥落から間もない箱館の町では、新政府の役人に混じって、江戸から来た古書肆が露店を出しはじめていた。古い兵法書、蘭学の残り紙、江戸の瓦版。蓮は立ち止まり、瓦版の墨の匂いを嗅いだ。騒がしい文字は、戦の後には妙に軽い。紙の上の勝敗は決してべたつかない。乾いて、並び替えられ、束ねられ、人の手から手へ渡される。影の敗北は、乾かない。だから、誰にも渡らない。
弁天町の端で、アイヌの古老が網を編んでいた。以前、貝殻をくれた老人だ。老人は蓮の手の甲を一度見、何も言わずに網針を動かし続けた。規則正しい手の動きには、名はない。名のない規則だけが、網を堅くする。
「生きてるな」
「生きてる」
「名は?」
「……置いてきた」
それでいい、と老人は言わずにうなずいた。蓮もまた何も言わずにうなずいた。言葉を省くことで、やり取りは濃くなる。影は無口であるほど、よく伝わる。
蓮の頁は町のあちこちへ散っていく。港の杭、路地の石畳の継ぎ目、寺の裏の土、崖の割れ目、古い井戸の外輪。彼はわざわざ読ませようとはしない。紙を置くときの指先の温度だけが、小さな祈りだ。
ある日、取調べで顔を見た書記が、市場の雑踏で蓮を呼び止めた。浅葱色の裃は脱いでいて、町着に着替えている。買ったばかりの干物の匂いが袖に残っていた。
「おまえ、名のない書付をあちこちに挟んでるな」
蓮は笑った。「読めないだろ」
「読めない。だが、触れば冷たい。妙に冷たい。あれは何だ」
「背の高さの手紙だ」
書記は理解したのかしないのか、鼻で笑い、去っていった。理解されないほうがいい。理解は、紙へ連れて行かれる。
日が伸び、箱館山の上に朝の薄い霧が溜まる季節、蓮は崖へ降りた。あの夜、白い糸を拾った場所。潮が引いて、岩が露わになり、塩の花が角で光る。白いものは、もうない。見える限り、何もない。蓮はそれでも、岩の割れ目にそっと指を入れた。何も触れず、ただ冷たさだけが指にまとわりつく。その冷たさは、誰の名も持たない。名がない分だけ、深く残る。
崖の上へ戻りながら、蓮は頁に短く書いた。
――触れて冷たいものにしか、言えないことがある。
頁は海風で揺れ、立ち木の陰に鳴った。蓮はちいさく笑い、頁を自分の胸の内側に押し当てた。紙は心臓の拍動に合わせて温かくなり、すぐまた冷えた。温かさと冷たさの交代が、手記の正しい読み方だと思えた。
その晩、夢に火が出た。池田屋の灯。禁門の炎。江戸の提灯。上野の火点し。会津の囲炉裏。箱館の焚き火。どれも同じ高さに揺れる。灯りの外に白があり、白の外に風がある。風の外に海がある。海の外に、名前のない暗がりがある。その暗がりへ、静の裾が消える。消えたとき、蓮の手の平が空をつかむ。空の重さが、手の平の骨の中へ残る。
翌朝、碧血碑の噂を耳にした。戊辰で血を流した旧幕の兵のために碑を建てるという。石は青みがかって見えるので、碧血の名がついたと、誰かが得意げに言った。碑を建てたい者は多かったが、金はない。許しもない。だが、誰かが、石を運び、誰かが、刻む。名を刻むのではない。血の色の言葉を刻む。名は刻まない。命を刻む。
手伝いの名目で外へ出る許しが下り、蓮は数人とともに山へ入った。榎並村の石場から、青味がかった石を切り出し、橇に乗せて引いた。石は重く、雪の名残の上を滑り、時々、泥に沈む。誰かが掛け声をかけ、誰かが滑りを修正し、誰かが後ろで押す。息が合う時、石は軽くなる。息が合わない時、石は人を潰す。石は正直だ。だから、石に嘘はつけない。
石を据える場所は、谷風が通る斜面の中腹だった。ここなら、風が碑の上を通り、文字に苔がつきにくいと、石工が言った。文字は、「碧血碑」の三字と、幾行かの由来の文。刻む者の手元で、石の粉が白い煙になって舞い、刻まれた線は影になって白む。蓮は刻みには手を出さず、周りを整え、石を手渡し、若い枝を切って足場をこしらえた。仕事の最中、胸の内でひとつの思いが強くなった。――静の白布の糸を、どこかに混ぜたい。碑のどこかに、名のない白を入れたい。
夜、蓮はひとり崖へ降りた。潮が引き、岩が呼吸している。波が来るたび、岩の肌が一瞬濡れ、すぐ乾く。岩の割れ目に指を差し入れると、砂が指先に集まってきた。砂の中に、微細な白が混じる。繊維か、殻の粉か、塩の結晶か分からない白。蓮はそれを掌に集め、布に包んで持ち帰った。翌日、碑の台座の土に、その白を混ぜた。掬った土に、白を散らし、見えないように薄くならして踏む。誰も気づかない。気づかれなくていい。碑は風に撫でられ、雨に叩かれ、雪に埋もれ、やがて苔に覆われるだろう。その時、土の中の白は、別のものに変わっている。根になるか、水の道になるか、誰かの指の記憶になるか。どれでもいい。残ることが、今はただ、それだけでよかった。
碑が立った日の夕方、斜面の上で榎本の赦免が噂になった。幽囚から政治家へ。敗者の頭は、勝者の側へ置かれる。歴史は、紙の上で折りたたまれ、別の題目で開かれる。蓮はその話を聞きながら、碑の上の三字を見上げた。碧血碑。静の名はそこにない。土の中にある。土の中の白は、名前のない字だ。名の代わりに、土が持つ字。
港では新政府の兵が一隊、行進していた。隊列はまっすぐで、歩幅は揃い、靴の音は石畳に一定の刻みをつける。蓮はその刻みに自分の半歩を合わせ、すぐ外れ、また合わせ、また外れた。合わせたり外れたりすることが、生き延びる術だと、身体が覚えている。その身体の覚えを、紙にも残したくなった。蓮は薄い頁に書いた。
――合わせる。外れる。
――外れた分だけ、背が見える。
――見えない背に、手が届く。
頁はまた、どこかへ挟まれ、湿り、皺になり、読めない文字に変わってゆく。
夏が来ると、箱館の町は霧の日が増えた。霧は音を吸い、匂いをぼかし、輪郭を丸くする。労役の足は軽くなり、役人の顔は少し柔らかくなった。赦免の話が下にまで降り、年季の軽い者から順に解かれていく。蓮の名も紙の上で線を引かれ、別の紙へ写された。紙の上で動く名を見て、蓮は胸の中で静の名を動かした。動かない。紙の上では動かない。だから、心の中でだけ、位置を少しずつずらす。背中の右側だった呼吸を、左側へ少し寄せる。寄せるたび、涙腺のどこかが痒くなる。
赦されて、町の外へ出る許しが出た日、蓮はもう一度、碧血碑へ登った。道は細く、草は濡れ、靴は泥を抱いて重くなる。碑の前に立つと、風が背中を押した。碑の影は朝の光で短く、地面の斜めに、白い小さな花が咲いていた。名前を知らない花だ。白は、どこまでも静の色だ。蓮は碑に頭を下げ、額が冷たい石に触れた。
「静」
声は小さかった。だが山に跳ね、風に混じり、海へ降りる。呼ばれた名は、紙に書かれない名だ。紙に書かれないから、風にも海にも混じれる。蓮は胸の内の白い繊維が、今度は自分の体の中で根を伸ばしてゆくのを感じた。根は血の中を進み、骨の中を潜り、背骨の横で静かに止まる。根の先に、小さな芽が出る。芽は、痛みに似ている。痛みは、生きている者の証だ。蓮は目を閉じ、痛みを抱えたまま、長い呼吸をした。
山を下りる途中、笹の影が揺れ、白いものが一瞬のぞいた。白はすぐに消えた。誰かがそこにいる。そう思った瞬間、胸の内で、懐かしい声がした。
「矢野さん」
「……静」
振り向けば、誰もいない。いるはずがない。だが声は、風の高さで、はっきりと聞こえた。蓮は笑った。涙が、頬の真ん中を温かく伝って落ちた。涙は、純粋に重い。こんなにも単純に重いものが、自分の中にまだ残っていたことが、嬉しかった。
秋、旅の身のまま陸奥へ下る。道中で出会った小さな町の祭りで、若い浪人崩れが居合を披露していた。白い装束の下に薄い鎖帷子を覗かせ、袖口は新しい。人々が「白い剣士」と囃し立て、酒の勢いで騒ぐ。若者は得意になって刃を振り、灯の光で刃の線を見せる。蓮は遠くからそれを見て、何も言わなかった。白は、灯の色を借りて白くなる。あの夜の白は、灯のない白だった。灯のない白の強さは、誰にも分からない。分からせる必要もない。蓮は屋台の端で酒をひと口だけ喉に落とし、夜風に当たり、祭りの音を背にして歩き出した。
冬、雪原を渡る風が強い夜、蓮は焚き火の前で、ふと声を出した。
「静。俺は、ここにいる」
答えは、ない。ないことが、返事だ。返事は、風の向きで分かる。風は北から吹き、火は南へ揺れる。火の揺れの高さは、耳の高さより少し下。そこが、静の声の位置だ。
春の終わり、蓮は再び箱館に戻った。港は新しい建物で賑わい、通りの看板は横文字を含み、兵の制服は色が変わっている。碧血碑の斜面は草が青く、風が白い花を揺らす。碑の前で、長い旅の土を落とし、蓮は深く頭を下げた。土の中の白い繊維は、もう土そのものになっているかもしれない。土は、花を咲かせ、木を育て、風の道を作る。名のない仕事は、名のないものを育てる。
港の端で縄跳びをする少年がいた。飛び方はぎこちなく、縄は時々靴に引っかかる。少年はむっとして、もう一度、またもう一度。やがて、跳び方を覚え、呼吸のリズムで縄が回る。背中が自然に伸び、半歩の踏み替えが美しくなる。蓮はそれをしばらく眺め、胸の中で「上手い」と一言だけ言った。少年はそれを聞いたのか聞かないのか、調子を変えずに跳び続けた。
夕暮れ、港の灯がひとつ、ふたつ、またひとつと点り、海が黒く沈んでいく。蓮は懐の貝殻を取り出し、欠け目に指を触れ、耳に当てた。遠い波が鳴り、近い呼吸が重なり、どこか見知らぬ町の祭囃子が、ほんのわずかに混じる。世界は広い。広いのに、背中の高さは、どこへ行っても同じだ。蓮は貝殻をしまい、歩き出した。歩幅は、いつもの半歩。呼吸は、いつもの速さ。背中には、いつもの重み。
名は残らない。だが、名より深いものが残る。背。呼吸。半歩。白い布の繊維。土の湿り。海の塩。石の重み。冬の星。夏の霧。箱館の風。池田屋の灯。禁門の炎。鳥羽伏見の雨。甲州の土埃。上野の煙。会津の雪。五稜郭の堀。弁天の潮騒。一本木の風。碧血碑の影。すべてが、同じ高さで胸の内に並ぶ。
蓮の手記は頁を持たない。木の裏、土の中、石の下、海の割れ目、風の高さ。そこに書かれた文字は、読めば消え、消えれば残る。読む者は、たぶん世界だけだ。世界は、読むことをやめない。
夜が深く、星が風に滲む。蓮は最後に一度だけ、声を出した。
「静。行くぞ」
答えは、ない。ないことが、返事だった。蓮は頷き、前を見た。灯は多く、白は少ない。白は、灯がなくても白い。灯があっても白い。白は、影の色だ。影は消えない。消える時でさえ、消えない。彼はその確かさだけを連れて、名のない道を歩き続けた。背の高さを測り、半歩の加減を守り、呼吸を分け合う誰かの記憶を胸に、黙って。



