名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 朝は、音のない刃のように来た。薄い霧が斜面の草いきれを包み、足首のあたりで濡れた冷たさがまとわりつく。箱館の町からは鐘の音が一つだけ遅れて届き、捕虜小屋の屋根をかすめて消えた。蓮はその音で目を開けた。眠りは浅く、夢は短く、しかし指先には確かな感触が残っていた。白い布の端、からみついた塩、微かな血のぬめり。目を閉じれば、額に触れた冷たさがすぐ戻る。目を開けば、天井板の節の輪が重なり、時間の目盛りがずれてゆく。

 連行の号令がかかる。列は再び縄で結ばれ、銃剣で柵になぞらわれ、泥と砂利の道へ押し出された。蓮は目線を地へ落とす。自分の足の影が、朝の斜めの光で細長く伸び、列の隙間で折れる。折れるたびに、背中のどこかが疼いた。昨夜の崖で、石に当たった骨の位置だ。あの痛みは消えない、と分かった。消すべきでもない、とも分かった。

 町のはずれで老女が立ち止まり、何かを、祈りとも呪いともつかぬ声で唱えた。新政府の兵が「進め」と短く怒鳴る。声は冷えていて、湿っていた。蓮は横目で老女の肩越しに、遠くの海を見た。水面の色は、鉄に近い。鉄は血に似る。似ているから、見ているだけで胸が重くなる。蓮は唇の内側に歯を立て、味覚にわずかな痛みを戻した。

 役所へ運び込まれ、聞き取りが始まる。名前、出身地、所属、戦場の地名。紙の上に墨が線として増え、その線は乾いて、波打ち、折れ目になる。名は紙に渡るたびに、身体から少しずつ離れていく。蓮はそれを見届けながら、胸の奥でもう一つ別の名を呼んだ。静。呼び名は紙に書かれない。紙になじまない。紙が湿気でふやけ、乾いて縮むのを見ながら、蓮は心の内で繰り返した――静。

 労役の割り振りが下り、蓮は道路の補修に回された。崩れた石垣を積み直し、溝の詰まりを掻き出し、砕石を撒いて踏み固める。斧と鎚と鍬。刃の形は変わっても、手の皮は同じ場所で破れ、同じ場所で固まる。昼休み、支給の粥をすすりながら、蓮は指先の古い豆に触れた。池田屋の頃の、禁門の炎の頃の、江戸防衛の頃の、会津の雪の頃の、鳥羽伏見の雨の頃の、甲州の風の頃の、上野の煙の頃の、蝦夷の霜の頃の。指の腹は、年輪みたいに記憶を重ねている。そこに新しい輪が刻まれるたび、誰かの呼吸が、肩越しに戻ってきた。

 数日のうちに、噂が小屋の中を流れた。五稜郭の外れ、崖の下で、白い布の切れ端が見つかったと。潮にほつれ、砂に汚れ、むすび目のところだけが固くなっていたと。誰も、その布が何であったかを知らない。誰も、言わない。蓮はその夜、目を閉じたまま、その布の手触りを心でなぞった。むすび目の固さは、あのとき自身の指が作ったものと同じ固さだ。固さの中に、かすかに残っていた温度まで思い出せる。人は、触れたものの温度で自分を保つ。名ではなく、温度で。

 役人の書状が来て、榎本の処置、旧幕の役職者の投獄と赦免の順序が囁かれるようになった。誰かの名は牢の中へ運ばれ、誰かの名は赦しの印で新しい紙に書き直される。紙は、いつでも名を移し替える。影の名だけは、移せない。蓮は、紙を持たない者の覚悟を、背中の骨にさらに刻んだ。

 ある日、作業の帰路で、港近くの市場を通りがかった。魚の匂いと藁の蒸れた匂いと、海藻を干す塩の匂いが、風に混じって漂う。背の曲がったアイヌの老人が、編みかけの網をひざに乗せ、目の細い針でゆっくりと目を作っていた。老人は蓮の手を一度見て、網目から顔を上げた。

「おめえの手は、戦の手だな」

 蓮は立ち止まった。言葉の抑揚は柔らかかったが、目は海の石のように硬い。

「今は、石運びの手だ」

「石も戦だ。石は忘れねえ。蹴った足の重さを覚える」

 老人は網針を置き、腰袋から小さな白い貝殻を取り出した。螺旋の真ん中に、細い穴があいている。

「風の笛だ。吹いても音は出ねえ。耳に当てると、海が鳴る」

 貝殻を掌にのせると、温度はすぐに肌になじんだ。耳に当てる。穴から入った風が、貝の腹で回って、遠い波の音をつくる。遠いのに、近い。誰かの呼吸の残り香みたいに。

「名前は?」

「……矢野だ」

「ここでは名は外に置け。風は名を持たねえ。名のないものの方が、長く残る」

 老人はまた網に目を落とし、針の音を続けた。蓮は貝殻を懐にしまい、礼を言った。言葉は短かったが、胸の内で長く転がった。名のないものの方が、長く残る。静は、そのために消えたのか。消えた先で、風になり、海になり、石になり、網目になり、だれかの手の感触になって、残るのか。

 早春が過ぎ、草の茎が硬くなり、箱館山の斜面で新芽が増えてくる頃、小屋の中に別の噂が入ってきた。碧血碑――戦死者を弔う碑を建てる話だという。戊辰で血を流した旧幕の兵のための碑。石は青みがかって見えるので、碧血の名がついたと、誰かが得意げに言った。碑を建てたい者は多かったが、金はない。許しもない。だが、誰かが、石を運び、誰かが、刻む。名を刻むのではない。血の色の言葉を刻む。名は刻まない。命を刻む。

 手伝いの名目で外へ出る許しが下りた。蓮は数人とともに山へ入った。榎並(えなみ)村の石場から、青味がかった石を切り出し、橇に乗せて引いた。石は重く、雪の名残の上を滑り、時々、泥に沈む。誰かが掛け声をかけ、誰かが滑りを修正し、誰かが後ろで押す。息が合う時、石は軽くなる。息が合わない時、石は人を潰す。石は正直だ。だから、石に嘘はつけない。

 石を据える場所は、谷風が通る斜面の中腹だった。ここなら、風が碑の上を通り、文字に苔がつきにくいと、石工が言った。文字は、「碧血碑」の三字と、幾行かの由来の文。刻む者の手元で、石の粉が白い煙になって舞い、刻まれた線は影になって白む。蓮は刻みには手を出さず、周りを整え、石を手渡し、若い枝を切って足場をこしらえた。仕事の最中、胸の内でひとつの思いが強くなった。――静の白布の糸を、どこかに混ぜたい。碑のどこかに、名のない白を入れたい。

 夜、蓮は一人で崖へ降りた。潮が引いて、岩が露わになり、塩の花が角で光る。崖の陰は、あの夜と変わらない形でそこにあった。風の匂いだけが季節に合わせて少し変わっている。白いものは見えない。見えないのに、蓮は手を伸ばして、岩の割れ目を探った。指先に、ほんの短い布の繊維が触れた。潮にほどけ、砂に揉まれ、それでも繊維は繊維の形でそこにいた。蓮はそれを摘み、掌で守り、胸に入れた。心臓が布を叩いて、布は心臓を覚えた。

 翌日、石の据え付けが終わり、石工が最後の仕上げをしている間、蓮は碑の台座の土に、昨夜拾った白い繊維を混ぜた。掬った土に、糸を一本ずつ、見えないように差しては、薄くならして踏んだ。誰も気づかない。気づかれなくていい。碑は風に撫でられ、雨に叩かれ、雪に埋もれ、やがて苔に覆われるだろう。その時、土の中で白い糸は、別のものに変わっている。根になるか、水の道になるか、誰かの指の記憶になるか。どれでもいい。残ることが、今はただ、それだけでよかった。

 碑が立った日の夕方、斜面の上で榎本の赦免が噂になった。幽囚から政治家へ。敗者の頭は、勝者の側へ置かれる。歴史は、紙の上で折りたたまれ、別の題目で開かれる。蓮はその話を聞きながら、碑の上の三字を見上げた。碧血碑。静の名はそこにない。土の中にある。土の中の白は、名前のない字だ。名の代わりに、土が持つ字。

 夏が来ると、箱館の町は霧の日が増えた。霧は音を吸い、匂いをぼかし、輪郭を丸くする。労役の足は軽くなり、役人の顔は少し柔らかくなった。赦免の話が下にまで降り、年季の軽い者から順に解かれていく。蓮の名も紙の上で線を引かれ、別の紙へ写された。紙の上で動く名を見て、蓮は胸の中で静の名を動かした。動かない。紙の上では動かない。だから、心の中でだけ、位置を少しずつずらす。背中の右側だった呼吸を、左側へ少し寄せる。寄せるたび、涙腺のどこかが痒くなる。

 赦されて、町の外へ出る許しが出た日、蓮は碧血碑へ登った。道は細く、草は濡れ、靴は泥を抱いて重くなる。碑の前に立つと、風が背中を押した。碑の影は朝の光で短く、地面の斜めに、白い小さな花が咲いていた。名前を知らない花だ。白は、どこまでも静の色だ。蓮は碑に頭を下げ、額が冷たい石に触れた。

「静」

 声は小さかった。だが山に跳ね、風に混じり、海へ降りる。呼ばれた名は、紙に書かれない名だ。紙に書かれないから、風にも海にも混じれる。蓮は胸の内の白い繊維が、今度は自分の体の中で根を伸ばしてゆくのを感じた。根は血の中を進み、骨の中を潜り、背骨の横で静かに止まる。根の先に、小さな芽が出る。芽は、痛みに似ている。痛みは、生きている者の証だ。蓮は目を閉じ、痛みを抱えたまま、長い呼吸をした。

 夕刻、山を下りる途中で、蓮はふいに足を止めた。斜面の途中、笹の影が揺れ、白いものが一瞬のぞいた。白はすぐに消えた。誰かがそこにいる。そう思った瞬間、胸の内で、懐かしい声がした。

「矢野さん」

 振り向いた。誰もいない。いるはずがない。だが声は、風の高さで、はっきりと聞こえた。蓮は笑った。涙が、頬の真ん中を温かく伝って落ちた。涙は、純粋に重い。こんなにも単純に重いものが、自分の中にまだ残っていたことが、嬉しかった。

 秋が来て、箱館の空は高くなり、海は群青の深みを増した。港の荷揚げ場は新政府の役人で賑わい、町は新しい名で呼ばれる準備を始める。人々は勝者の言葉で話し、新聞は新しい文字で世界を測り直す。蓮はその中を、名を持たない足取りで歩いた。働き口を見つけ、石を積み、材木を運び、時々、碑へ登った。碑は風の中で立ち、土の中で白を抱えて立ち続けた。

 冬の初め、雪の前触れが風に混ざる季節、蓮は港の外れで、あのアイヌの老人に再び出会った。老人は網を仕上げ、丸く束ね、肩にかけていた。

「生きてるな」

「生きてる」

「名は?」

「……名は、置いてきた」

「それでいい」

 老人は腰袋から、もう一つ小さな貝殻を取り出し、蓮に渡した。今度の貝は、少し欠けている。欠けの縁が鋭く、指に当たるとひっかかる。

「これは、音が出る。出るが、誰にも聞こえねえ。自分にだけ聞こえる」

 耳に当てる。風が貝の欠け目で割れて、細い、細い音になった。音は、ほんの少しだけ、あの夜の呼吸に似ていた。蓮は貝を懐にしまい、深く頭を下げた。老人はそれ以上何も言わず、海の方へ歩いてゆく。網の目は均一で、強く、やさしい。人が使うために、編まれている。人のために、名のない力で。

 雪の降る夜、蓮は最後にもう一度、崖へ降りた。風は強く、雪は斜めに降り、岩は薄い氷で滑りやすくなっている。足場を探り、手で掴み、膝で滑り、ようやく、あの陰に届いた。白はない。最初からないように、ない。蓮は岩に背を預け、少しの間、目を閉じた。海は黒く、波は白く、風は冷たい。冷たいのに、胸の内側は、静かに暖かい。

「静。俺は、生きる」

 言葉はゆっくり、海へ落ちた。落ちた先で、波と混じり、砂と混じり、塩と混じり、いつか風に戻る。戻った風は、どこかの背を撫でるだろう。背は、背中の高さでしか分からない。背を預ける者がいれば、生きられる。背を預けた者がいなくなっても、その高さは、骨の中に残る。

 その夜、蓮は泣いた。静かに、深く、長く。泣くことは、敗者の贅沢だ。泣き疲れて、額を岩に預けて眠った。夢の中で、池田屋の廊下の端へ、あの白い裾が曲がって消えていった。呼んでも振り返らない。振り返らない背に、歩幅だけを合わせる。目が覚めたとき、雪は少し積もっていた。足跡は半分残り、半分消えかけている。残った半分で、十分だった。そこから先は、自分の足で刻めばいい。

 春になる頃、蓮は箱館を離れた。北国の春は遅く、木々はまだ芽を固く握っている。山の麓で振り返ると、碧血碑のある斜面が細い線になって見えた。碑は風の中で小さく、しかし確かに立っている。蓮は胸に手を当て、白い貝殻の欠け目を指先でなぞった。音は出ない。自分にだけ聞こえる音が、骨の内で鳴った。

 道の先で、子どもが転んで泣いていた。膝に小さな血。母親が慌てて駆け寄り、袖で拭い、抱き上げる。子どもはすぐに泣き止み、母の肩で眠った。血は土に染み、すぐ乾いて、色を失う。あたりまえの、ひとつ。生きている者のあたりまえの、ひとつ。蓮はその光景に足を止め、胸の内で誰かに報せた。静、こういうことが、ここにはある。

 それからの年月、蓮は各地を移り、名を変えたり戻したりしながら、石を積み、橋を架け、土手を築いた。どこでも、同じ半歩の加減で働いた。どこでも、同じ高さで背を伸ばし、同じ速度で呼吸を合わせた。誰も、彼の名を知らない。誰も、彼の昔を知らない。だが、彼自身が知っている。背中の高さと、半歩の癖と、呼吸の速度。静が預け、静から預かった、名のない地図。

 ある年の秋、旅の途中で立ち寄った町の祭りで、若い浪人崩れが居合を披露していた。白い装束の下に薄い鎖帷子を覗かせ、袖口は新しい。人々が「白い剣士」と囃し立て、酒の勢いで騒ぐ。若者は得意になって刃を振り、灯の光で刃の線を見せる。蓮は遠くからそれを見て、何も言わなかった。白は、灯の色を借りて白くなる。あの夜の白は、灯のない白だった。灯のない白の強さは、誰にも分からない。分からせる必要もない。蓮は屋台の端で酒をひと口だけ喉に落とし、夜風に当たり、祭りの音を背にして歩き出した。

 冬、雪原を渡る風が強い夜、蓮は焚き火の前で、ふと声を出した。耳の奥に、あの低い声が、多層に重なって響いたからだ。

「矢野さん」

「ここにいる」

 対話は、返事のない往復で続いた。返事のないことを、返事の形とする。静が生きていた頃と、何も変わらない。変わらないから、変わった。蓮は火に手をかざし、掌の皺に熱を覚えた。皺は増え、線は深くなり、だが半歩の癖は薄れない。癖こそが、名の代わりに残るものだ。

 春の終わり、蓮は再び箱館に戻った。港は新しい建物で賑わい、通りの看板は横文字を含み、兵の制服は色が変わっている。碧血碑の斜面は草が青く、風が白い花を揺らす。碑の前で、長い旅の土を落とし、蓮は深く頭を下げた。土の中の白い繊維は、もう土そのものになっているかもしれない。土は、花を咲かせ、木を育て、風の道を作る。名のない仕事は、名のないものを育てる。

「静」

 ひとつだけ、名を呼ぶ。風が返す。風に混じって、潮の遠い音。耳に当てた貝殻の、欠け目で割れた、細い音。蓮は笑った。涙は出なかった。涙は、もう別のところで使い切った。代わりに、胸の奥で、何かが静かに満ちた。満ちたものは、言葉にならない。言葉にならないから、こぼれない。こぼれないものは、長く残る。

 碑を離れ、斜面を下る途中、蓮は一度だけ振り返った。風が碑の上を渡り、影を短くし、また長くした。影は、光に従う。だが影は、光がなくても、地べたの温度で形を持つ。静が教えたのは、それだった。地べたの温度で測る世界。背中の高さで覚える人。半歩の加減でつなぐ命。

 港へ戻ると、少年が一人、縄跳びをしていた。飛び方はぎこちなく、縄は時々靴に引っかかる。少年はむっとして、もう一度、またもう一度。やがて、跳び方を覚え、呼吸のリズムで縄が回る。背中が自然に伸び、半歩の踏み替えが美しくなる。蓮はそれをしばらく眺め、胸の中で「上手い」と一言だけ言った。少年はそれを聞いたのか聞かないのか、調子を変えずに跳び続けた。

 夕暮れ、港の端で風を受けながら、蓮は懐の貝殻を取り出した。欠け目に指を触れ、耳に当てる。遠い波が鳴り、近い呼吸が重なり、どこか見知らぬ町の祭囃子が、ほんのわずかに混じる。世界は広い。広いのに、背中の高さは、どこへ行っても同じだ。蓮は貝殻をしまい、歩き出した。歩幅は、いつもの半歩。呼吸は、いつもの速さ。背中には、いつもの重み。

 名は残らない。だが、名より深いものが残る。背。呼吸。半歩。白い布の繊維。土の湿り。海の塩。石の重み。冬の星。夏の霧。箱館の風。池田屋の灯。禁門の炎。鳥羽伏見の雨。甲州の土埃。上野の煙。会津の雪。五稜郭の堀。弁天の潮騒。一本木の風。碧血碑の影。すべてが、同じ高さで胸の内に並ぶ。

「静。行くぞ」

 声は小さく、しかし揺るがない。答えは、ない。ないことが、返事だ。蓮は頷き、前を見た。夕闇が降り、港の灯が点り始める。灯は多く、白は少ない。白は、灯がなくても白い。灯があっても白い。白は、影の色だ。影は消えない。消える時でさえ、消えない。

 足が地を打ち、指が風を裂き、目が前を掴む。背中の高さは、もう恐怖ではなく、ただの事実になった。事実は、強い。強いから、優しい。優しいから、長い。長いから、遠くまで届く。蓮はその長さで、世界を撫でた。撫でられた世界が、ほんの少しだけ、柔らかくなることを願いながら。