名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 白は、夜の色だ。
 京の路地に“白装束の剣士”の噂が立ちはじめたころ、空気は乾き、秋の虫の声に、どことなく鉄の気配が混じった。
 白と言っても、襦袢の白ではない。灯りを吸って輪郭が薄れる、月明かりの白。遠目には見え、近くではほどける。誰かが言い出し、誰かが尾を足し、やがて尾が胴を支配する。――斬られた者は血の温度がわからなくなる、という尾鰭まで付いて回った。
 静は白を好まない。
「汚れますから」
 そう言って、淡い鼠色の薄布を夜だけ肩にかけた。
「静、それ、白に見えるぞ」
「灯の下では、です。灯の外では、鼠です」
「つまり、人の目が勝手に怪談を塗る」
「はい。怪異であれば、人は説明を諦めます。説明を諦めると、動きが単純になります」
「やっぱり、悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

 噂が道具になると決めた夜、静は蓮に半紙と薄墨を渡した。
「筆は柔らかく。震えは残すけど、誤りは残さない」
「いつもの“誤字趣味”は?」
「今日は封印します。嘘は本物の形に寄せるほど、よく走るので」
 場所は古書肆。尊攘派の連絡所になっている、天神さんの北、細い通りの奥だ。
 蓮は客を装って、俳諧の一冊を開き、半紙にさらりと記した。
――昨夜、白の剣士に遭う。
 字は読みやすいのに、どこか“急いだ”気配を残している。読み手は、書き手の足の速さに引っ張られる。
 店番の老人が目を細め、蓮が立ち去る背に視線を刺す。――それだけでいい。刺した目は、町角で別の目とつながる。
 別筋では、辻占に囁きを渡した。
「白き影、北に立つ」
 占いは、曖昧さが半分、迷わせる力が半分。人は“北”と言われると、南へ回りたくなる。南へ回ると、道は長くなる。長くなるほど、息は上がる。息が上がれば、刃は要らない。

 噂の置き石をいくつか打ったのち、二人は北野の裏手に回った。
 風は軽く、紙垂がわずかに揺れる。社の影は濃いが、路地は薄い。薄さは、足音の行き先をよく伝える。
 逃げ道は三つ。
 北へ抜ける細い溝道、町家の坪庭を跨いで西へ抜ける塀伝い、そして北西の材木置き場を斜めに突っ切る短い直線。
 静はすでに二つを塞いである。溝道には短い角材を三本、草の下へ噛ませ、塀伝いには縄の緩い結び目を一箇所だけ“固くして”おいた。結び目は、急ぐ手ほどほどけない。ほどけない結び目は、焦れを産む。焦れは音になる。
「残りの一つは、矢野さんの道です」
「ここ、か」
 蓮が受けたのは、材木置き場の直線。逃げるなら、誰だってここに出る。短いゆえに“勝てる気がする”道だ。勝てる気は、足の長さを錯覚させる。錯覚は、刃の代わりに使える。
「静。俺、今日は“締め”までやる」
「お願いします。斬らずに、負かしてください」
「任せろ」
「はい。任せます」
 その言い方が、蓮にはいつも、すこしこそばゆい。任されるたび、肩の血が温度を変える。

 三人の浪士は、噂に怯えたのか、あるいは噂に背を押されたのか、早足で北から来た。
 静は月影の薄い角に立ち、足の親指だけで土を掻いた。小さな音は、犬の耳にしか聞こえないはずだが、三人のうち一人がびくりとした。敏い。敏い者ほど、最初に転ぶ。
「――来る」
 蓮は材木の並びを背に、息を殺した。
 一人目は躱す。肩で流し、地面の泥に手を吸いつかせる。泥はいい道具だ。手は、重さを抱えると自分の重みで勝手に“無力”になる。
 二人目は柄で喉を打つ。声を奪われた身体は、足の合図を失い、同士討ちの角度へ転がる。
 三人目は――刃に頼る目だった。頼る目は、美しい。美しい目には、少しだけ慈悲を置く。
 蓮は膝を落として、足首を払う。落ちる音が、材木の反響で二倍になる。二倍の音は、恐怖を二倍に見せる。見えた恐怖に、刃は要らない。
 背後で、硬い音。
 静が、短く息を吐いた。
 予定の範囲。
「止め」
 蓮が小さく言い、倒れた三人を裏返す。縄は使わない。袖を、襟を、帯の結びを――各々一箇所、呼吸を邪魔しない程度に硬くする。動けるのに動けない拘束を、人はよく覚える。覚えた恐怖は、夜のほうから勝手に来る。
「静」
「はい」
「やれた」
「お見事です。“前”で勝って、“後ろ”を温存できました」
「褒めるな。照れる」
「照れを書いておきます」
「書くな」
「書きます」
「悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

 捕らえた浪士の一人は、口が固い。
 静は刃を使わず、沈黙を使う。
 灯を落とし、太鼓の遠音だけを時間の目印にして、長く、長く、何も言わない。
 沈黙は、空白ではない。耳の中で鳴る自分の血音で、ゆっくり満たされていく“重い音”だ。
 重さに耐えかねた人は、軽さを求めて口を開く。
 噛みしめる歯の間から、一つだけ余計な名がこぼれた。
 名は“峯村”。
 静は頷き、誰にも聞こえないほどの声で言った。
「ありがとうございます」
 礼を言われると、人は自分が“渡した”ことを自覚する。自覚は、次の口を固くする。固い口は、次の夜のためにとっておく。
 翌日、その“峯村”に触れた者の近辺から、別の糸がほどけた。
 噂の布は、織るよりも、ほどく方が早い。ほどくには指の温度が要る。冷たすぎても、熱すぎても、綻びは掴めない。

 任務の報告は、稽古場の端で行った。
 土方は短く聞き、さらに短く頷く。
 山南は稽古帳をめくりながら、「音」を三度書き足した。
 近藤は眉を曇らせ、総司は春の笑みで、何も言わなかった。――言わないのが、たぶん、いちばんの賛同だ。
 蓮は報告の最後に一行、書いた。
――噂は刃になる。
 静は追記した。
――噂は盾にもなる。
 二行の間に、白い余白がある。余白は空白で、同時に“次の道具”だ。読む者は、余白を自分の都合で埋める。埋めてくれた都合が、そのまま“持ち手”になる。

     *

 白の噂が町を駆けるにつれて、京は自分の影を怖がりはじめた。
 夜更けの辻に、子が泣く。
 泣き声は短く、止むのは早い。
 止めるのが、噂だからだ。
 噂は母の腕ほどあたたかくはないが、母の腕ほど重くもない。軽さは、夜を回す油になる。
 静は、油の回る音を聞いた。
 油が足りない角に、噂をひとさじ。
 油が余った角に、沈黙をひとしずく。
 それだけで、路地は勝手に“こちら”を向く。
「静、楽しいか」
「はい。工作は楽しいです」
「工作って言うな。悪事の匂いがする」
「善悪より、温度です。冷たい悪より、あたたかい悪の方が、町にはやさしい」
「困る論理だ」
「困らせるために、持ってきました」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

 その合間にも、表の剣は錆びなかった。
 昼の稽古では、静は半寸、間合いを詰め、蓮は“前の手前”で勝ち、“中”で怒りを飲み込む術を覚えた。
 白木は字の里を覚え直し、書き手は京の“間”を取り戻し、善根宿の帳面には小さな名が増えた。
 粛清の刃の柄は、相変わらず冷たい。
 その冷たさに、蓮は慣れはじめ、慣れの危うさもまた覚えはじめる。
「静」
「はい」
「俺、最近、“白”が好きになりそうだ」
「危険な告白です」
「だろ」
「白は、終わりの色です。始まりにも、使えますが」
「じゃあ、始まりに使え」
「はい。――池田屋へ行く前に、白で“始めて”、黒で“終わる”ように」
「物騒な未来予告すんな」
「未来は物騒です」
「そうだけどさ」

 “峯村”の糸を辿ると、その先には古着屋があった。
 表向きは、祭礼の衣装を貸し出す店。
 裏では、襟と袖の“匂い”を買い取り、辻の占いに売る。
 匂いは、名の代わりになる。
 名が書けなくても、匂いは残る。
 静は古着屋の奥座敷で、襟の束に鼻を近づけ、音を聞いた。
 匂いに音はないが、人は匂いで“音楽”を思い出す。
 酒の匂いは拍子を早め、香の匂いは拍子を滑らせ、血の匂いは拍子を欠く。
「矢野さん、これです」
「どれ」
「拍子を二つ落として、三つ目で乱れる匂い」
「説明になってない」
「“池”の匂いです。水が濁って、底で石が転がる」
「池田屋か」
「名は出しません」
「出てるぞ、心の声で」
「聞かなかったことにしてください」
「できるか」

 古着屋の帳場には、細い文字で“貸出し”の名が並ぶ。
 峯村の名はない。
 だが、同じ癖の字が、三箇所に“空白”を残している。
 空白は、字ではない。
 けれど、空白こそが“誰か”の仕事だ。
「書かない者が、書いた。――峯村じゃない」
「誰だ」
「“峯村に字を貸す”手がいる」
「会ってくれるか」
「噂なら、会ってくれます」
 静は帳場の小娘に、半紙を一枚渡した。
 表には、白の話を少しだけ。
 裏には、ただ一行。
――白き影、北に立つ。
 小娘は笑い、半紙を挟んで奥へ走った。
 走る足は、軽い。
 軽い足は、早い噂を呼ぶ。

 暮れ六つ、裏木戸がほんのすこし開いた。
 簪の銀が細く光り、女の声がした。
「白を、見たのはあなたですか」
「見たのは、噂です」
「噂は誰のもの」
「見たい人のもの」
「なら、あたしのもの」
 女は笑い、わずかに戸を開いた。
 細い指、薄い手首、筆を持つと紙を汚しそうに見えない白さ。
 が、筆だこはしっかりあった。
「字を貸す人ですね」
 静が言うと、女は肩をすくめた。
「貸す? 違うよ。返すの。なくした字を、本人に返すの」
「なくしたのは、誰の手で」
「誰のでもない。噂の手で」
 蓮は女の目を見た。
 噂に生きて噂に寝る者の、独特の乾き。
「名前を聞いていいか」
「聞いても、噂になるだけ」
「噂になれば、会える」
「会えば、名は噂じゃない」
 女は、静にだけ視線を滑らせた。
「あなた、白い人――じゃない。白く“見える”人。……噂、使うの、上手」
「道具として、です」
「人を生かすため?」
「町を崩さないため、です」
「いい人ぶるの、上手」
「悪い人です」
「そっちの方が、好き」
 女は薄く笑い、簪を一本、静に投げた。
 受け止めた簪は、軽い。
 簪の胴に、控えめな刻印――“与”。
「“与える”の与」
「返す、の与だよ」
「ありがとうございます」
「礼は要らない。――白の噂、もっと北へ回して。そうしたら、南が静かになる」
「承知しました」
「承知、好き」
 戸が閉じ、銀の光が消えた。
 蓮が息を吐く。
「静、今の人、好きだろ」
「はい。いい“手”です」
「またそれ」
「僕は手が好きです」
「へぇ」
「矢野さんの手が、いちばん」
「やめろ。くすぐったい」
「書いておきます」
「書くな」

 白の噂は、さらに北へ回った。
 北へ回るほど、南の辻は落ち着いた。
 落ち着くと、商いが回り、商いが回ると、夜の“空気”が変わる。
 空気が変わると、剣の起こりが変わる。
 起こりが変わると、夜の事故が減る。
 事故が減ると、噂は自分の“仕事”を忘れる。
 噂が仕事を忘れた頃、仕事は“本物”に戻る。

     *

 秋の終い、北の山が低く息を吐いた。
 息は冷たく、町の屋根々々を撫で、寺の鐘の縁を薄く冷やす。
 白は、夜の色だ。
 そして、夜の白は、池の縁に降りる。
 蓮は欄干にもたれ、黒い水の底を見た。
「静。池ってさ、どこまでが“底”なんだろうな」
「石が転がるところまで、です」
「転がってるの、見えるのか」
「音がします」
 静は耳を少し傾けた。
 かすかな、転がる音。
 人の足の重さより、軽い音。
「池の名は?」
「池の名は、まだ書きません」
「書かないのも、記すうちだっけ」
「はい。書かないことで、名は“こちらへ”寄ります。寄ったときに、書きます」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

 その夜の巡察は、短い。
 短いが、濃い。
 辻占の札は、白い。
 札の角は、少し濡れている。
 濡れた角は、指を滑らせる。
 滑った指は、印を歪める。
 印が歪むと、噂の“手”は、別の道へ向かう。
 静は歪みを拾い、蓮は歪みから出る細道を塞いだ。
 塞ぐのに、刃は要らない。
 縄の結びを少し固くし、簪の胴をひとつ落とし、灯の高さを半寸下げる。
 半寸で、人の意志は変わる。
「静、俺、最近、斬らない日が好きになってきた」
「良い兆しです」
「どう良い」
「斬る日は、勝手に来ます。好きにならなくても、斬ります。斬らない日を好きになるには、技が要ります」
「褒めるな。照れる」
「照れを書いておきます」
「書くな」
「書きます」
「悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

 捕らえた“峯村筋”の別の者は、口が軽かった。
 軽い口には、軽い質問を。
 重い口には、軽い沈黙を。
 静は、しばらく質問をやめ、しばらく太鼓を遠ざけ、しばらく灯を上げた。
 上がった灯は、目を痛める。
 痛みは、嘘を忘れさせる。
「“池”に、何を落とすつもりでした?」
「……紙」
「紙に、何を書きました?」
「名」
「誰の名?」
「……名は、噂です」
「いい答えです」
 静は笑い、蓮は眉をひそめた。
「静、今の、褒めたのか」
「はい。自分でわからなくなっている人を、いちばん楽に止められる言葉です」
「おまえ、ほんと、悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

     *

 夜は、揃いはじめる。
 音が揃い、噂が揃い、足音が揃う。
 揃った夜は、崩すのが簡単だ。
 簡単な夜は、むしろ怖い。
 土方は紙を畳み、刀の柄に触れた。
「静。“白”の仕事は、ここまでだ」
「はい」
「次は“名”だ。名を、表で使う。――池の縁で」
「承知しました」
 近藤は眉を曇らせたまま、目だけで笑った。
 総司は廊下の端で、春の笑みを薄くした。
「静。あなたの白は、よく染みます」
「洗えば落ちます」
「落ちない白もある」
「はい。――落ちないなら、上から別の白を」
「詩人ですね」
「音を書いているだけです」
「それが詩ですよ」
 春の笑みは、冬の前ぶれを運ぶ。
 冬は、刃の色をよく映す。

 蓮は稽古場の端で、短刀を置き、竹刀を握りなおした。
「静。俺、今夜は“前”も“中”も、“後ろ”もやりたくない」
「いい告白です」
「どれやる」
「“間”をやりましょう」
「間?」
「矢野さんが立っているその場所――それが“間”です。誰の刃も届かない、でも、誰の息も届く」
「難しそうだ」
「易くやります」
「やっぱり、悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
 竹の音が一度、柔らかく鳴った。
 柔らかい音は、硬い音の前触れだ。
 柔らかさは、刃を曇らせ、曇った刃は、よく刺さる。

 夜が深くなり、池の表が黒を増した。
 白は、夜の色だ。
 噂は、刃にも盾にもなる。
 息は、記録になる。
 記録は、刃を待たせる。
 待つ者だけが、嵐の前で呼吸できる。
 蓮はまだ浅瀬にいる。
 静は深みから浅瀬へ、潮のように出入りする。
 二人の呼吸が合いはじめた。
 京の闇は、いよいよ本当の嵐に入っていく。
 白い簪は、静かな音で机の上を転がり、止まった。
 止まった場所が、北だった。
 稽古帳の余白に、静は小さく書いた。
――白、北に立つ。
 その下に、蓮が乱暴な字で足した。
――俺は“間”に立つ。
 点がひとつ、足りない。
「矢野さん、“間”の“門”、点が」
「また誤字か」
「僕の趣味です」
「その趣味で、どれだけ助かったか、数えろよ」
「はい。今、二つ、三つ……」
「数えるな。縁起が悪い」
「では、書きます」
「書くな」
「書きます」
「悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」

 鐘が、ひとつ遅れて鳴った。
 池の底で、小さな石が転がる音がした。
 夜は、揃った。
 序章は、終わる。
 そして、始まる。
 名を持つ隊の、名を使う戦が。
 池田屋へ向かう、長い一歩が――。