雪代の匂いを孕んだ風が、谷を渡って頬の火照りを冷やした。耳の奥で脈が跳ね、足裏はなお地を蹴る感覚を記録し続けている。蓮は斜面を折れ、闇の底へ潜り、また浮き上がった。呼吸は粗く、しかし意識は異様に冴えていた。背中にあったはずの温度は、もうない。だが完全に失われたとも言い切れない。皮膚の下、骨の側に、微かな残光のように滲んでいる。
小さな沢へ降りると、湧水が石の間を流れていた。雪解けの水は冷たく、掌を浸せば痛みとして神経に刻まれる。蓮は両手ですくって口を濡らし、咽喉の砂利を洗い流した。舌先に鉄の味。血か、水に溶けた土の鉄分か。どちらでもよかった。ただ、生きているという最小の証が欲しかった。
「……静」
呼び名は水面に落ち、輪を広げただけで消えた。返事を期待していたわけではない。声に出すことで、己の内側の空洞の形を確かめたかった。空洞は、思っていたよりも大きく、思っていたよりも静かだった。そこに風が一筋巡り、心のどこかで、かすかな音楽の残響のようなものが鳴った。総司がよく口ずさんだ、調子はずれの小唄。土方が鞭声の合間に無意識に打つ、刀の鞘の律動。戦いの季節を、音は過ぎた。だが音の抜け殻だけが、骨の隙間に残っている。
斜面に沿って北へ回り、弁天台場の裏へ出る細道に入る。ここは静と一度下見していた。風が巻く角、見張りが怠ける時刻、犬の習性。影の手帖には、誰の名も書かれないかわりに、風と犬と錆のことばかりが並ぶ。蓮は、静の歩幅を思い出す。静はいつも、同じところで半歩だけ詰め、同じところで半歩だけ緩めた。半歩の加減がそのまま刃の角度に繋がる。先を読むための体の記号。人は言葉より先に、自分の体に地図を描くのだ。
台場の背後に回ると、凍土の上に兵の足跡が幾筋も刻まれていた。重い靴の踵が雪を砕き、銃の銃床を地に下ろした跡が丸い窪みとして残っている。蓮はその中に、ひとつだけ軽い歩幅の跡を見つけた。重さはあるが沈みが浅く、雪の端が少しだけ跳ねている。静の足跡に似ていた。似ているだけかもしれない。ただ、似ているという事実が、蓮の足の骨を前へ押した。
台場の木戸は半ば壊れ、板が剥がれて中の闇がのぞいている。中から低い声、桶を引く音、火薬の匂い。蓮は木戸の外側に身を沿わせ、隙間から覗く。砲手が三人、疲れた背中で火を囲み、弾の残りを数えている。誰かが「亡霊」の話をして笑いを取ろうとしたが、笑いはうまく生まれずに、灰になって足元に落ちただけだった。亡霊という名は、彼らが自分の恐怖を外へ捨てるための器にすぎない。恐怖の形が器に合うかどうかは、器を投げる者の腕次第だ。
蓮は木戸から離れ、塀伝いに低く進んだ。台場の裏は崖で、その下は浅い入江だ。潮が引いて岩が露出し、牡蛎の殻が黒く光っている。波がゆっくりと岩の腹を撫で、引き返すときに細かい泡を置いていく。空は薄雲が走り、星のいくつかが、雲の隙間から覗いた。海風が頬の汗を拾い、塩の匂いで傷の痛みを知らせる。
その時、崖下の陰から、白いものがふっと揺れた。白はすぐ闇に溶けた。目の錯覚かもしれない。蓮は崖の縁に膝をつき、身を乗り出す。下から、誰かが長い息を吐く音がした。息には熱がある。熱は、生だ。蓮は唇に指を当て、鳥の短い鳴き真似をひとつだけ送った。返る鳴き声は、なかった。代わりに、石と石がこすれる軽い音。足を滑らせないように置く、慎重な足の音。
「……静?」
ささやきは海に砕け、泡になって消える。応えはない。だが、応えのなさもまた、静の答え方だった。あるいは――静はもう応えられぬ場所へ行ったのか。蓮は混乱する思考を無理に畳み、崖下へ降りる回り道を探した。足場は濡れて滑り、苔の上に砂が載って、靴の縁を奪う。指で岩の割れ目を掴み、肩で重みを受け、膝で身体を支え、ひとつ、またひとつと段差を降りた。
入江は思ったよりも浅く、静かな水面が黒い布のように張り詰めている。牡蛎の殻が月の明かりで鈍く光り、岸の石に白い塩の花が付いている。蓮は足音を殺し、崖の陰の影へと近づいた。そこに、人体の輪郭があった。白は、岩に背を預けている。白の中から、かすかな吐息。蓮は膝をつき、白の顔を覗いた。
「……矢野さん」
低く乾いた声。蓮は胸の内の何かが、突然元の場所へ戻る感覚を覚えた。静の目は開いている。その黒は夜の黒で、だが夜よりも深かった。頬に細い傷、袖口に乾いた血。腹のあたり、白布の下が濡れて、少しずつ温度を失っている。銃弾か、あるいは刃か。蓮が袖をめくろうとすると、静は微かに首を振った。
「見なくて、いいです。矢野さん」
「黙れ。見る。塞ぐ」
「塞げません。ここは……あの時の、山南さんと、似ています」
蓮は息を呑んだ。茶屋の、薄暗い畳の上。静は道を塞ぎ、山南は自らの名を刃で閉じた。あの夜の沈黙と、今夜の海鳴りは、なぜか同じ高さで胸に響いた。蓮は唇を強く噛み、血の味で意識を繋ぎ止める。
「俺は、お前を……置いていかない」
「置いていく、ではありません。矢野さんが、背を預けてくれたから、わたしはここまで来ました。預かった背を、ここで返します」
「返されてたまるか」
「すみません」
静の口元が、ほとんど分からないほど僅かに動いた。笑いではない。謝意の形に近い。蓮は白布の端を裂き、腹の濡れた場所に当て、手で圧した。静は痛みを表に出さない。眉も動かさない。ただ、長く深い呼吸をひとつして、目を閉じた。潮騒がその呼気と同じ間で寄せては返す。世界は時々、こうして息を合わせる。
「矢野さん」
「……何だ」
「わたしは、怖いです」
その言葉は、刃よりも鋭く蓮の胸に入った。静が初めて口にした、正面からの恐怖。これまで「怖さは血と一緒に流す」と彼は言い続けた。流せない怖さが、今ここに溜まっている。溜まり場は、身体の中でいちばん熱い場所だ。
「怖いなら……俺が、いる」
「はい。矢野さんは、います。……でも、たぶん、矢野さんのことも、いなくなります」
「馬鹿言うな」
「すみません」
静の指が、蓮の手の甲に触れた。指は冷えているのに、触れた場所だけが熱い。矛盾がひとつの皮膚の上で成り立っている。蓮は静の手を包み、強く握った。握ることに、意味を与えたかった。握ることは、名のない者の、唯一の署名だ。
「総司のことを、思い出しました」
静が言った。海は静かだった。星は少なかった。
「総司は、光でした。わたしはずっと、影でした。影は、光がいないと、形がありません。でも、光が消えても、影は地べたに残りました。あの時から、わたしは、地べたの温度でしか、世界を測れなくなりました」
「……静」
「土方さんの最期は、地べたが血で温かかった。わたしたちの最後の戦は、雪が冷たかった。温度で、季節で、終わりが分かるのは、きっと、影だけです。光は、いつも、空にありますから」
蓮は言葉を探し、見つからず、ただ頷いた。静は続ける。
「池田屋の夜に、矢野さんが初めて『静』と呼んだ時、わたしは嬉しかったです。嬉しいという言葉を、わたしは持ちませんでした。でも、あれは、きっと嬉しいでした。背中の力が抜けて、呼吸が一つ増えました」
「俺も……あの時から生き始めた。お前の背に自分の居場所を見つけた」
「では、ここで、終わるのに、意味ができます」
「終わらせない」
「矢野さん」
静は目を開け、星の欠片を瞳の奥に宿し、まっすぐ蓮を見た。風が二人の間を通り、海の匂いを置いていく。
「背を預けるのは、二人だけだ、と言いました。光と、矢野さん。光はもう、向こうに行きました。矢野さんは、ここにいる。だから、わたしは、まだ大丈夫です」
「どこが大丈夫だ。血が出てるじゃないか」
「血は、影の墨です。たくさん使って、今日の紙を黒く塗りました。……明日の紙は、矢野さんに渡します」
蓮は、白布をさらに押し付けた。手のひらの下で、血の温度が遅れて下がる。遅れ方が、命の残り時間と同じ曲線を描いている気がした。頭の中で、無意味な算術が始まる。押さえている圧、布の厚さ、血の粘性、外気温。何も救わない算術。それでも、数えることが、祈りの代わりになる。
「矢野さん。お願いがあります」
「何でも言え」
「わたしの名前を、もう一度だけ、呼んでください」
蓮は喉を鳴らし、一度息を吸って、口を開いた。
「静」
その二字は、冬の星の間を渡って、海の上で少し明るくなり、再び暗くなって、静の胸に落ちた。静の口元が、今度ははっきりと動いた。笑った。笑いは、痛みを伴っているはずなのに、痛みの形を持たなかった。笑いは、影の中で初めての形だった。
「ありがとうございます」
静の指の力が、ほんのわずかに緩み、また戻った。遠くで笛の音。官軍の合図か、夜の番の交換か。世界は相変わらず動いている。ここだけが、時間の縁に吊り下がっている。
蓮は静の肩を引き寄せ、自分の膝に乗せた。子にするように、頭を胸に当てる。静の髪が頬に触れ、海の塩と血の匂いが混じる。静の体は軽い。軽いのに、重い。ここにあるすべての季節が、重さに変わって乗っている。
「なあ、静」
「はい、矢野さん」
「お前は、俺に『忘れろ』って言ったな。無理だ。俺は忘れない。忘れないまま生きる。お前が嫌がっても、生きて、背中にお前の呼吸を飼っていく」
「……強情、ですね」
「お前に習った」
「すみません」
謝るな、と言いかけて、蓮はやめた。静の「すみません」は、彼の世界を保つための添え木だ。添え木を折れば、形を保てなくなる。
波が少し高くなり、岩の間に白い泡を残す。泡は割れ、また生まれる。静の呼吸が、その泡のように短くなり、間が空き、また戻る。蓮は両手で静の顔を支え、額を合わせた。額は冷たい。だが、その下にあるものは、まだ熱い。
「矢野さん」
「ここにいる」
「ありがとう」
音は小さかった。小さかったのに、世界のどこよりも大きかった。蓮は目を閉じ、目の奥で白い光を見た。五稜郭の白、池田屋の灯、禁門の炎、鳥羽伏見の雨。すべての白が混ざって、やさしい灰色になり、静の息と同じ速度で揺れた。
それから、呼吸は一度、深く落ちた。落ちて、戻らなかった。海は相変わらず寄せては返した。星は相変わらず瞬いた。蓮は額を離さず、しばらくの間、世界と呼吸の差を測り続けた。差は、広がらない。広がらないという事実が、全身の皮膚を刺した。
「静」
名を呼ぶ声は、今度は水面に落ちず、胸の内で輪を描いた。蓮は静の目を指で閉じ、白布の端で血を拭き、乱れた襟を正した。正すという行為は、死に向けての礼であると同時に、残る者の背筋を伸ばす儀式でもある。蓮は静の両手を自分の手で包み、長い時間、そうしていた。指の間に残った温もりが、少しずつ石の温度と混ざっていく。
やがて蓮は立ち上がり、崖をよじ登った。上から見下ろすと、白い形が岩の陰にすっぽりと収まり、夜の一部になっている。誰かがここを通っても、ただの影として見過ごすだろう。影は、最後まで、影のやり方で在る。
台場の方から、笛と太鼓。捕虜の列は明朝、箱館へ移されると聞いた。蓮は詰所へ戻るために、来た道を辿った。足が泥を撫で、枝が袖を撫で、夜が髪を撫でる。撫でられることが、こんなにも耐え難いのは、撫でる者の手の記憶が、もうこの世にないからだ。
詰所の塀を越え、藁の臭いに身体を沈める。目を閉じると、闇はすぐに瞼の裏に定着し、音が遠のいた。眠りは来ない。来ない眠りの代わりに、時間がゆっくりと流れ、夜の縁に触れる。触れるたび、静の息の影が、背骨に薄く触れた。
朝。空は鉛色で、雪とも霙ともつかないものが斜めに落ちている。捕虜の列は縄で繋がれ、銃剣で囲まれ、泥の道を箱館の町へ向けて歩き出した。蓮は列の中ほどにいて、前と後ろの足の動きを合わせる。歩調が乱れると、銃床が背に叩きつけられる。叩かれるたびに、背中の下、骨の際で、誰かの呼吸が微かに合図した。
道端に人が並び、石を投げる者、口汚く罵る者、ただ黙って見ている者。子どもが母の肩に隠れ、母は「見てはいけない」と言いながら、目を離さない。蓮は視線を地に落とし、足元の泥に自分の足跡が重なっていくのを見た。泥はすぐに踏みつぶされ、形を失う。形を失った足跡は、別の足跡の下で、重さだけを残す。
列が町へ入る手前、蓮は一度だけ顔を上げた。五稜郭の方向は、薄い霧の向こうで輪郭を失っている。堀の外、崖の陰。白は、もう見えない。見えないのに、そこにある。見えないから、ある。影は、見えないことで在る。
列の先頭が曲がり、町の通りへ入った。通りの先に、海が薄く光っている。箱館の海は、江戸のそれよりも鉄の匂いが強い。鉄は血の匂いに似ている。似ているからこそ、海はいつも戦場のように見える。蓮は唇の内側を噛み、血の味で、海の味を追い出した。
役所の前で、列は止められた。名簿を作るという。名を問われる。蓮は口を開き、旧姓を吐き出す。役人の筆が紙の上を滑り、墨の線が乾いていく。線は、名を形にし、名は、身体の外へ出される。名を与えるという行為は、拘束であり、救済でもある。影にとっては、拘束に偏る。蓮は自分の名が紙に乗るのを見て、少しだけ、静に背を向けた気がした。背を向けることは、裏切りではない。影のやり方で、生きる者のやり方だ。
書付を終え、列がまた動き出す。箱館の空は低く、風が角を持って頬を撫でた。蓮は歩きながら、心の中でゆっくりと名前を呼んだ。静、静、静。呼ぶたびに、胸の中の白が少しずつ灰色に落ち着き、灰色の中に小さな灯がともる。灯は弱い。弱いが、消えない。消えないからこそ、前へ出る足に、重さが戻る。
この日の終わりに、蓮は収容の小屋で天井の板の目を数えた。節目の黒い輪がいくつもあり、どれも同じ形で、どれも違う。数えることに意味はない。意味のないことを、意味のない時間にするのが、敗者の贅沢だ。数えているうちに、瞼が重くなり、眠りがようやく来た。眠りの入口で、海の匂いと白い布の感触と、背中の呼吸が一つになった。
夢は、池田屋の廊下だった。畳の目が水平に続き、灯の油が薄く匂い、遠くで笑い声が途切れ、刀が鞘走りする音が冷たく響いた。静が前にいて、振り返らない。振り返らない背中に、蓮は手を伸ばし、触れず、ただ、歩幅を合わせる。合わせ続ける夢。目が覚めても、歩幅の記憶だけは、消えない。
翌日から、取り調べと労役が始まった。蓮は黙り、問われたことにだけ短く答えた。静のことは、誰も聞かなかった。誰も知らない。知られないために、静は消えた。消えることが、彼の最後の剣だった。蓮はその剣の重さを、背中で運び続ける。
ある朝、薄い雲の隙間から日が差し、雪解けの水溜まりが小さく光った。蓮は縁に映る空を見ながら、心の中で一行を書いた。
——名は残らない。だが、背は残る。背中の高さ、呼吸の速度、半歩の加減。それが、わたしの書き付けだ。
そして、もう一行。
——影の消えた場所で、影を続ける。
紙はない。墨もない。だが、骨がある。骨は、折れなければ書ける。折れても、なお書けることがある。静が教えたのは、たぶん、その書き方だ。冬の海の底で、白い布の繊維がほどけ、塩と混ざり、見えなくなる時でさえ、繊維は世界のどこかで別の形をとる。呼吸は止まり、名は消えても、半歩の癖は、残る。残った癖を背に乗せて、蓮はまた、歩き出した。
小さな沢へ降りると、湧水が石の間を流れていた。雪解けの水は冷たく、掌を浸せば痛みとして神経に刻まれる。蓮は両手ですくって口を濡らし、咽喉の砂利を洗い流した。舌先に鉄の味。血か、水に溶けた土の鉄分か。どちらでもよかった。ただ、生きているという最小の証が欲しかった。
「……静」
呼び名は水面に落ち、輪を広げただけで消えた。返事を期待していたわけではない。声に出すことで、己の内側の空洞の形を確かめたかった。空洞は、思っていたよりも大きく、思っていたよりも静かだった。そこに風が一筋巡り、心のどこかで、かすかな音楽の残響のようなものが鳴った。総司がよく口ずさんだ、調子はずれの小唄。土方が鞭声の合間に無意識に打つ、刀の鞘の律動。戦いの季節を、音は過ぎた。だが音の抜け殻だけが、骨の隙間に残っている。
斜面に沿って北へ回り、弁天台場の裏へ出る細道に入る。ここは静と一度下見していた。風が巻く角、見張りが怠ける時刻、犬の習性。影の手帖には、誰の名も書かれないかわりに、風と犬と錆のことばかりが並ぶ。蓮は、静の歩幅を思い出す。静はいつも、同じところで半歩だけ詰め、同じところで半歩だけ緩めた。半歩の加減がそのまま刃の角度に繋がる。先を読むための体の記号。人は言葉より先に、自分の体に地図を描くのだ。
台場の背後に回ると、凍土の上に兵の足跡が幾筋も刻まれていた。重い靴の踵が雪を砕き、銃の銃床を地に下ろした跡が丸い窪みとして残っている。蓮はその中に、ひとつだけ軽い歩幅の跡を見つけた。重さはあるが沈みが浅く、雪の端が少しだけ跳ねている。静の足跡に似ていた。似ているだけかもしれない。ただ、似ているという事実が、蓮の足の骨を前へ押した。
台場の木戸は半ば壊れ、板が剥がれて中の闇がのぞいている。中から低い声、桶を引く音、火薬の匂い。蓮は木戸の外側に身を沿わせ、隙間から覗く。砲手が三人、疲れた背中で火を囲み、弾の残りを数えている。誰かが「亡霊」の話をして笑いを取ろうとしたが、笑いはうまく生まれずに、灰になって足元に落ちただけだった。亡霊という名は、彼らが自分の恐怖を外へ捨てるための器にすぎない。恐怖の形が器に合うかどうかは、器を投げる者の腕次第だ。
蓮は木戸から離れ、塀伝いに低く進んだ。台場の裏は崖で、その下は浅い入江だ。潮が引いて岩が露出し、牡蛎の殻が黒く光っている。波がゆっくりと岩の腹を撫で、引き返すときに細かい泡を置いていく。空は薄雲が走り、星のいくつかが、雲の隙間から覗いた。海風が頬の汗を拾い、塩の匂いで傷の痛みを知らせる。
その時、崖下の陰から、白いものがふっと揺れた。白はすぐ闇に溶けた。目の錯覚かもしれない。蓮は崖の縁に膝をつき、身を乗り出す。下から、誰かが長い息を吐く音がした。息には熱がある。熱は、生だ。蓮は唇に指を当て、鳥の短い鳴き真似をひとつだけ送った。返る鳴き声は、なかった。代わりに、石と石がこすれる軽い音。足を滑らせないように置く、慎重な足の音。
「……静?」
ささやきは海に砕け、泡になって消える。応えはない。だが、応えのなさもまた、静の答え方だった。あるいは――静はもう応えられぬ場所へ行ったのか。蓮は混乱する思考を無理に畳み、崖下へ降りる回り道を探した。足場は濡れて滑り、苔の上に砂が載って、靴の縁を奪う。指で岩の割れ目を掴み、肩で重みを受け、膝で身体を支え、ひとつ、またひとつと段差を降りた。
入江は思ったよりも浅く、静かな水面が黒い布のように張り詰めている。牡蛎の殻が月の明かりで鈍く光り、岸の石に白い塩の花が付いている。蓮は足音を殺し、崖の陰の影へと近づいた。そこに、人体の輪郭があった。白は、岩に背を預けている。白の中から、かすかな吐息。蓮は膝をつき、白の顔を覗いた。
「……矢野さん」
低く乾いた声。蓮は胸の内の何かが、突然元の場所へ戻る感覚を覚えた。静の目は開いている。その黒は夜の黒で、だが夜よりも深かった。頬に細い傷、袖口に乾いた血。腹のあたり、白布の下が濡れて、少しずつ温度を失っている。銃弾か、あるいは刃か。蓮が袖をめくろうとすると、静は微かに首を振った。
「見なくて、いいです。矢野さん」
「黙れ。見る。塞ぐ」
「塞げません。ここは……あの時の、山南さんと、似ています」
蓮は息を呑んだ。茶屋の、薄暗い畳の上。静は道を塞ぎ、山南は自らの名を刃で閉じた。あの夜の沈黙と、今夜の海鳴りは、なぜか同じ高さで胸に響いた。蓮は唇を強く噛み、血の味で意識を繋ぎ止める。
「俺は、お前を……置いていかない」
「置いていく、ではありません。矢野さんが、背を預けてくれたから、わたしはここまで来ました。預かった背を、ここで返します」
「返されてたまるか」
「すみません」
静の口元が、ほとんど分からないほど僅かに動いた。笑いではない。謝意の形に近い。蓮は白布の端を裂き、腹の濡れた場所に当て、手で圧した。静は痛みを表に出さない。眉も動かさない。ただ、長く深い呼吸をひとつして、目を閉じた。潮騒がその呼気と同じ間で寄せては返す。世界は時々、こうして息を合わせる。
「矢野さん」
「……何だ」
「わたしは、怖いです」
その言葉は、刃よりも鋭く蓮の胸に入った。静が初めて口にした、正面からの恐怖。これまで「怖さは血と一緒に流す」と彼は言い続けた。流せない怖さが、今ここに溜まっている。溜まり場は、身体の中でいちばん熱い場所だ。
「怖いなら……俺が、いる」
「はい。矢野さんは、います。……でも、たぶん、矢野さんのことも、いなくなります」
「馬鹿言うな」
「すみません」
静の指が、蓮の手の甲に触れた。指は冷えているのに、触れた場所だけが熱い。矛盾がひとつの皮膚の上で成り立っている。蓮は静の手を包み、強く握った。握ることに、意味を与えたかった。握ることは、名のない者の、唯一の署名だ。
「総司のことを、思い出しました」
静が言った。海は静かだった。星は少なかった。
「総司は、光でした。わたしはずっと、影でした。影は、光がいないと、形がありません。でも、光が消えても、影は地べたに残りました。あの時から、わたしは、地べたの温度でしか、世界を測れなくなりました」
「……静」
「土方さんの最期は、地べたが血で温かかった。わたしたちの最後の戦は、雪が冷たかった。温度で、季節で、終わりが分かるのは、きっと、影だけです。光は、いつも、空にありますから」
蓮は言葉を探し、見つからず、ただ頷いた。静は続ける。
「池田屋の夜に、矢野さんが初めて『静』と呼んだ時、わたしは嬉しかったです。嬉しいという言葉を、わたしは持ちませんでした。でも、あれは、きっと嬉しいでした。背中の力が抜けて、呼吸が一つ増えました」
「俺も……あの時から生き始めた。お前の背に自分の居場所を見つけた」
「では、ここで、終わるのに、意味ができます」
「終わらせない」
「矢野さん」
静は目を開け、星の欠片を瞳の奥に宿し、まっすぐ蓮を見た。風が二人の間を通り、海の匂いを置いていく。
「背を預けるのは、二人だけだ、と言いました。光と、矢野さん。光はもう、向こうに行きました。矢野さんは、ここにいる。だから、わたしは、まだ大丈夫です」
「どこが大丈夫だ。血が出てるじゃないか」
「血は、影の墨です。たくさん使って、今日の紙を黒く塗りました。……明日の紙は、矢野さんに渡します」
蓮は、白布をさらに押し付けた。手のひらの下で、血の温度が遅れて下がる。遅れ方が、命の残り時間と同じ曲線を描いている気がした。頭の中で、無意味な算術が始まる。押さえている圧、布の厚さ、血の粘性、外気温。何も救わない算術。それでも、数えることが、祈りの代わりになる。
「矢野さん。お願いがあります」
「何でも言え」
「わたしの名前を、もう一度だけ、呼んでください」
蓮は喉を鳴らし、一度息を吸って、口を開いた。
「静」
その二字は、冬の星の間を渡って、海の上で少し明るくなり、再び暗くなって、静の胸に落ちた。静の口元が、今度ははっきりと動いた。笑った。笑いは、痛みを伴っているはずなのに、痛みの形を持たなかった。笑いは、影の中で初めての形だった。
「ありがとうございます」
静の指の力が、ほんのわずかに緩み、また戻った。遠くで笛の音。官軍の合図か、夜の番の交換か。世界は相変わらず動いている。ここだけが、時間の縁に吊り下がっている。
蓮は静の肩を引き寄せ、自分の膝に乗せた。子にするように、頭を胸に当てる。静の髪が頬に触れ、海の塩と血の匂いが混じる。静の体は軽い。軽いのに、重い。ここにあるすべての季節が、重さに変わって乗っている。
「なあ、静」
「はい、矢野さん」
「お前は、俺に『忘れろ』って言ったな。無理だ。俺は忘れない。忘れないまま生きる。お前が嫌がっても、生きて、背中にお前の呼吸を飼っていく」
「……強情、ですね」
「お前に習った」
「すみません」
謝るな、と言いかけて、蓮はやめた。静の「すみません」は、彼の世界を保つための添え木だ。添え木を折れば、形を保てなくなる。
波が少し高くなり、岩の間に白い泡を残す。泡は割れ、また生まれる。静の呼吸が、その泡のように短くなり、間が空き、また戻る。蓮は両手で静の顔を支え、額を合わせた。額は冷たい。だが、その下にあるものは、まだ熱い。
「矢野さん」
「ここにいる」
「ありがとう」
音は小さかった。小さかったのに、世界のどこよりも大きかった。蓮は目を閉じ、目の奥で白い光を見た。五稜郭の白、池田屋の灯、禁門の炎、鳥羽伏見の雨。すべての白が混ざって、やさしい灰色になり、静の息と同じ速度で揺れた。
それから、呼吸は一度、深く落ちた。落ちて、戻らなかった。海は相変わらず寄せては返した。星は相変わらず瞬いた。蓮は額を離さず、しばらくの間、世界と呼吸の差を測り続けた。差は、広がらない。広がらないという事実が、全身の皮膚を刺した。
「静」
名を呼ぶ声は、今度は水面に落ちず、胸の内で輪を描いた。蓮は静の目を指で閉じ、白布の端で血を拭き、乱れた襟を正した。正すという行為は、死に向けての礼であると同時に、残る者の背筋を伸ばす儀式でもある。蓮は静の両手を自分の手で包み、長い時間、そうしていた。指の間に残った温もりが、少しずつ石の温度と混ざっていく。
やがて蓮は立ち上がり、崖をよじ登った。上から見下ろすと、白い形が岩の陰にすっぽりと収まり、夜の一部になっている。誰かがここを通っても、ただの影として見過ごすだろう。影は、最後まで、影のやり方で在る。
台場の方から、笛と太鼓。捕虜の列は明朝、箱館へ移されると聞いた。蓮は詰所へ戻るために、来た道を辿った。足が泥を撫で、枝が袖を撫で、夜が髪を撫でる。撫でられることが、こんなにも耐え難いのは、撫でる者の手の記憶が、もうこの世にないからだ。
詰所の塀を越え、藁の臭いに身体を沈める。目を閉じると、闇はすぐに瞼の裏に定着し、音が遠のいた。眠りは来ない。来ない眠りの代わりに、時間がゆっくりと流れ、夜の縁に触れる。触れるたび、静の息の影が、背骨に薄く触れた。
朝。空は鉛色で、雪とも霙ともつかないものが斜めに落ちている。捕虜の列は縄で繋がれ、銃剣で囲まれ、泥の道を箱館の町へ向けて歩き出した。蓮は列の中ほどにいて、前と後ろの足の動きを合わせる。歩調が乱れると、銃床が背に叩きつけられる。叩かれるたびに、背中の下、骨の際で、誰かの呼吸が微かに合図した。
道端に人が並び、石を投げる者、口汚く罵る者、ただ黙って見ている者。子どもが母の肩に隠れ、母は「見てはいけない」と言いながら、目を離さない。蓮は視線を地に落とし、足元の泥に自分の足跡が重なっていくのを見た。泥はすぐに踏みつぶされ、形を失う。形を失った足跡は、別の足跡の下で、重さだけを残す。
列が町へ入る手前、蓮は一度だけ顔を上げた。五稜郭の方向は、薄い霧の向こうで輪郭を失っている。堀の外、崖の陰。白は、もう見えない。見えないのに、そこにある。見えないから、ある。影は、見えないことで在る。
列の先頭が曲がり、町の通りへ入った。通りの先に、海が薄く光っている。箱館の海は、江戸のそれよりも鉄の匂いが強い。鉄は血の匂いに似ている。似ているからこそ、海はいつも戦場のように見える。蓮は唇の内側を噛み、血の味で、海の味を追い出した。
役所の前で、列は止められた。名簿を作るという。名を問われる。蓮は口を開き、旧姓を吐き出す。役人の筆が紙の上を滑り、墨の線が乾いていく。線は、名を形にし、名は、身体の外へ出される。名を与えるという行為は、拘束であり、救済でもある。影にとっては、拘束に偏る。蓮は自分の名が紙に乗るのを見て、少しだけ、静に背を向けた気がした。背を向けることは、裏切りではない。影のやり方で、生きる者のやり方だ。
書付を終え、列がまた動き出す。箱館の空は低く、風が角を持って頬を撫でた。蓮は歩きながら、心の中でゆっくりと名前を呼んだ。静、静、静。呼ぶたびに、胸の中の白が少しずつ灰色に落ち着き、灰色の中に小さな灯がともる。灯は弱い。弱いが、消えない。消えないからこそ、前へ出る足に、重さが戻る。
この日の終わりに、蓮は収容の小屋で天井の板の目を数えた。節目の黒い輪がいくつもあり、どれも同じ形で、どれも違う。数えることに意味はない。意味のないことを、意味のない時間にするのが、敗者の贅沢だ。数えているうちに、瞼が重くなり、眠りがようやく来た。眠りの入口で、海の匂いと白い布の感触と、背中の呼吸が一つになった。
夢は、池田屋の廊下だった。畳の目が水平に続き、灯の油が薄く匂い、遠くで笑い声が途切れ、刀が鞘走りする音が冷たく響いた。静が前にいて、振り返らない。振り返らない背中に、蓮は手を伸ばし、触れず、ただ、歩幅を合わせる。合わせ続ける夢。目が覚めても、歩幅の記憶だけは、消えない。
翌日から、取り調べと労役が始まった。蓮は黙り、問われたことにだけ短く答えた。静のことは、誰も聞かなかった。誰も知らない。知られないために、静は消えた。消えることが、彼の最後の剣だった。蓮はその剣の重さを、背中で運び続ける。
ある朝、薄い雲の隙間から日が差し、雪解けの水溜まりが小さく光った。蓮は縁に映る空を見ながら、心の中で一行を書いた。
——名は残らない。だが、背は残る。背中の高さ、呼吸の速度、半歩の加減。それが、わたしの書き付けだ。
そして、もう一行。
——影の消えた場所で、影を続ける。
紙はない。墨もない。だが、骨がある。骨は、折れなければ書ける。折れても、なお書けることがある。静が教えたのは、たぶん、その書き方だ。冬の海の底で、白い布の繊維がほどけ、塩と混ざり、見えなくなる時でさえ、繊維は世界のどこかで別の形をとる。呼吸は止まり、名は消えても、半歩の癖は、残る。残った癖を背に乗せて、蓮はまた、歩き出した。



