名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 噂は湿った風のように村の背骨を抜けていった。「白装束の剣士が夜ごと現れて、哨兵の喉を吸うように斬って消える」。新政府軍の兵たちは焚き火の輪を狭め、銃を膝に抱きしめ、暗がりに何度も目を投げた。指が引き金の冷たさに慣れぬうちは、幽霊はたやすく増える。見張り番の囁きは、やがて「亡霊」という名前を得た。名を与えられた怪異は、現実よりも堅く人の背を冷やす。

 蓮はその噂を、捕虜の詰め所で耳にした。縄は手首に食い込み、藁は湿って冬の名残の匂いを保っている。誰かが「また出たらしい」と言った。別の誰かが「白い袖が風もなく揺れた」と付け足した。蓮の胸は、冷えたまま灼けた。静だ。生きている。降伏の列から抜けたその夜から、消息の途絶えた影は、影のやり方でなお戦っている。

 夜半、蓮は壁際に移り、眠りの浅い兵の視線が他へ逸れた刹那、縄の結び目に舌先で湿りを与え、指の節で少しずつ繊維を捻った。土方から習った結びの癖が役に立つ。結び目は「見かけの堅さ」と「中身のたるみ」でできている。たるみを探してやれば、堅さは形だけになる。指が血で滑り、藁屑が掌に刺さる。肘を曲げ、肩をひねり、やがて縄は一息ぶんだけ緩んだ。汚れた障子の隙間から、外の夜の形が流れ込む。

 見張りは二人。片方は若い。銃を斜めに置き、肩で眠気を押している。もう片方は老練で、眠気に仮面を被せる術を知っている。蓮は若い肩の動きで呼吸を読み、老練の目の端がわずかに灯の方へ傾く瞬間を待った。風が紙の覆いを鳴らし、灯が一つだけ揺れた。老練の目が反射で光を追う。蓮はそのわずかな隙間に身を滑らせ、暗がりの輪郭へ吸い込まれた。

 雪解けの地は夜露を含み、足音は重く沈み、すぐ吸い込まれる。月は雲に隠れ、星が薄く、森はまだ冬の骨を残している。白い息を噛み砕きながら、蓮は堀の外縁を回った。かすかに海鳴り。箱館の町は眠らず、どこかで桶の鳴る音、犬の声。風上から、血と脂の匂いが薄く混じる。

 堀の外れ、黒い水の縁に、白が一つ立っていた。白は風に翻らない。布の重さと人の芯で、夜気の中にただ在る。蓮の喉が勝手に名前を掬う。

「静……!」

 呼び声は夜の背に吸われた。静は振り返らない。前を見据え、鯉口を切り、軽く左足を送る。雪の上に手の幅ほどの照り。足の裏がそこを踏んだ。刃が、白い夜の中からすっと出てきて、再び白に戻るまでの時間は、蓮の脈より少し遅い。新政府軍の巡邏隊が十ばかり、松の間を抜けてくる。銃列は乱れ、距離はまだ詰まっていない。静は短く告げた。

「背を、預けてください。矢野さん」

「ああ」

 蓮は刀を抜き、静の背に吸い込まれるように立った。背中と背中の間に、薄い空気の板が一枚差さる。その板は、二人の呼吸で温度を持つ。静が半歩左を切り、蓮は半歩右へ寄る。互いの肩の高さと角度が、長い時間のうちに自然に合わさるところへ落ちる。

 巡邏兵の先頭が気づくのに、あと二歩か。静が先に出た。白い袖が夜の粒子を払う。刃は音を連れない。喉が、胸が、腹が、順に断たれ、人間の形は小さな崩落を起こす。蓮は右の兵に踏み込み、柄で顎を打ち上げ、喉に刃の背を当てて落とす。銃床が横から飛び、蓮は左肘で受け、肩を斜めに滑らせた。雪が跳ね、血が花のように散る。静の刃は二度目の呼吸で二人を落とし、三度目の呼吸で一人分の隙を作る。

「静、右——!」

「承知」

 声は短い。言葉は骨の周りに巻く布のように最低限でいい。十が七になり、七が四になり、四が二になる。二が一に変わるとき、残る一の目の色が変わる。恐怖から、生き残りへの飢えへ。刃はここで鈍る。生きたいという心は、刃を重くする。静の手はそこで少しだけ、角度を変える。生きたい心に刃を落とす角度は、他よりも少し優しくなくてはいけない。優しさの欠片を捨てる力が、いちばん重い。

 終いの呼吸で、夜が押し返してきた。松の枝が微かに鳴り、遅れて駆け足の音が重なる。静は刃を払って雪の上に置くように振り、小さく首を振った。

「ここは、長く持ちません。矢野さん、下がります」

「どこへ」

「“誘い道”の残りが、まだ生きています」

 白装束の噂は、噂だけにしておくのがいちばんいい。だが、噂に骨を与える必要が時折ある。静は五稜郭の北側から村へ伸びる細い道を選び、「楽に歩けそうな夜の道」を残していた。踏む石は平らに、曲がりは穏やかに、両脇に枯れ枝を意図的に散らし、足音が鳴りやすいようにする。音が鳴れば、後ろの追手は「まだ追える」と思う。追えると思わせる時間が、命の長さを延ばす。

 二人は森を抜け、低い沢を跨ぎ、古い塩蔵の陰に身を入れた。夜風が塩の匂いを運び、舌に少し甘さを残す。静は袖の中から薄い紙を取り出し、蓮に渡す。墨が滲まぬよう蝋を落としてある。開けば簡単な線と印。三つの木、ひとつの水、二重の丸。二重丸は“戻れない口”。静はそこへ追手が集まるよう、前の夜から小さな罠を手の中に仕込んでいた。罠は地面ではなく、人の判断の中に置く。

「矢野さん。ここから——」

「言うな。見れば分かる」

 静は一瞬だけ笑った。滅多に見せない、冬の朝に差す日差しの一片ほどの笑い。蓮は胸の奥でその笑いを拾い、布に包んで仕舞った。

 追手の足音が一斉に増える。銃の金具が鈍く鳴り、号令が木の間を跳ねる。静は蓮の肩に触れた。触れるだけで、方向と速度と次の角の高さが伝わる。二人は斜面を斜めに下り、古い水車小屋の脇を抜け、沢の浅瀬に入る。水は冷たく、足を細い針で刺す。だが、足跡が消える。上流に五歩、下流に三歩。川から上がる場所に落ち枝を集め、わざと音を鳴らす。音は石に伝わり、石は人の耳の中で距離を誤らせる。

 ひと呼吸、ふた呼吸。追手の音が、沢の上で迷う。こなたで銃声。空気が震え、雪煙が舞う。遠くの犬が吠え、近くの鳥が一斉に飛び立つ。静は低く言った。

「ここです。矢野さん」

 塩蔵から裏へ回る狭い隙間。人ひとりが横を向いて通れるかどうか。静が先に入り、蓮が続く。肩が壁に擦れ、背の刀が土に当たって音を立てる。音は短い。短い音は、すぐに夜に吸われる。隙間を抜けた先は、昔の畑の跡。雪が薄く、地面が柔らかい。ここで足を止める。止める場所を止められるように選ぶ。それが静の癖だ。

 追手が隙間に群がり、焦れた足音が折り重なり、足の位置が競り合う。人は狭いところで後ろから押されると、前へ進もうとする。進めないと、怒る。怒ると、雑になる。雑は、刃の友だ。

 最初の兵が隙間から肩を出す。静の刃がそこへすっと降り、蓮は逆側の肩へ柄で打つ。二人の打点は異なるが、落ちる場所は同じ床板の目。床は湿って、わずかに沈む。沈むと、次の足が空を踏む。空を踏んだ足は、地に戻るまでの間、身体のどこにも重心を置けない。その隙に、刃はするする滑っていく。

 何人かが倒れ、何人かが立ち上がれず、隙間は血と息で濡れた。銃口が闇のこちらへ向き、引き金の指が震える。発火石が打たれ、火花が散り、火縄が湿りに負ける。筒先から出た煙が逆流し、兵の目に涙を呼ぶ。静は低く、短く。

「退きます」

「まだ斬れる」

「でも、斬らないほうが勝ちます」

 蓮は唇を噛み、頷いた。退くという技は、斬るより難しい。斬ると勝った気になる。退くと、負けた気がする。だが今夜は勝ち負けの話ではない。延ばすことだ。名も、息も、明日という白い紙も。

 二人は畑の縁を滑り、小屋と小屋の間を縫う。裏戸が一つ開き、老人が目だけで見送る。誰にも声をかけない。声は名を形にする。名は、死の形にもなる。

 やがて、村外れの松並木。並木は風を防ぎ、足音を吸い、夜の匂いを濃くする。松の根の間に、白いものが小さく畳まれて置かれていた。十字の刺繍。静がそれを拾う。布は乾いている。乾いているのに、冷たい。静はそれを肩にかけ、蓮に向かって軽く頭を下げた。

「矢野さん。ここからは——」

「分かってる。俺は戻る」

「ありがとうございます」

「ありがとうは、こっちの台詞だ」

 蓮は笑うつもりで口角を上げ、うまく上がらないのに気づいた。頬の筋肉が強ばり、目の縁が熱い。静はそれを見て、ほんの少し目を細めた。

「矢野さん。生きてください。生きて、忘れてください」

「忘れない」

「では、忘れたふりをしてください。ふりは、名の代わりになります」

「器用じゃない」

「不器用で、いいです」

 遠くで笛の音。官軍の合図だ。たぶん、村の南側で包囲を縮める合図。時間が、もう一度小さく削られた。静は白を肩から滑らせ、腕に巻きつけ、袖の内へ隠した。白は夜にあって目立つ。目立つものは、斬られる。白は隠すべきものになった。

「静」

「はい、矢野さん」

「お前が亡霊だって噂、あれ、少しは信じていいか」

「亡霊は、名を必要としません。楽で、いいですね」

「そうじゃない。……戻ってこいよ。どんな名でもいいから、いつか、戻ってこい」

「承知しました」

 承知、と言いながら、静は約束をしない。約束は名に似る。紙に釘で打つと、風が吹かなくなる。風がないと、影は乾きすぎて割れる。静は風の中に立つために、約束を嫌う。

 蓮は深呼吸をひとつし、足を森の暗さへと向けた。捕虜の列へ戻る道は、身体が覚えている。戻れば縄だ。縄は冷たい。だが、背中から温度が消えるよりは、縄の冷たさのほうがまだましだ。

 背に、刃の気配が薄れていく。静が別の夜へ入り、別の闇の厚さを量り始めた。蓮は振り返らない。振り返ると、夜は姿を変える。前にあるべきものが、後ろの形に引きずられる。

 やがて詰所の塀が見え、見張りの影が長く伸び、犬が鼻を鳴らした。蓮は縄を手首に巻きつけ直し、指の節に汚れを塗り込め、藁の上に身体を沈めた。息が胸に戻ってきて、鼓動が遅くなった。目を閉じると、雪の白さが瞼の裏に広がる。白は静の色であり、総司の息であり、土方の最期に降った粉雪の記憶でもある。白に赤が差す。差した赤は、やがて薄くなり、淡い桃色に変わり、また白に戻る。

 夜が明けきらないうちに、笛が鳴り、号令が飛び、詰所がむくりと起き上がる。取り調べの声、紙の擦れる音、桶の水の匂い。蓮は列に加わりながら、耳のどこかで刃の音を探した。刃は、音を連れない。それでも、たしかにある。

 昼過ぎ、官軍は村と五稜郭の間の道を締め、亡霊狩りのような包囲を敷いた。噂は、戦の手を増やす。静はたぶん、その手の数を数えている。数えながら、手の隙間の幅を測っている。幅は人よりも先に老いる。老いた幅を選べば、抜けられる。

 夕方、空が鉛のように重くなり、雪とも霙ともつかない粒が落ち始めた。粒は土の黒を薄く覆い、血の跡を灰色に変える。蓮は壁の隙間から外を見た。松並木の影が一度、揺れ、次に小さく跳ね、最後に沈んだ。遠くで短い怒声、すぐに銃声。それから、静まり。

 夜、風がいくぶん柔らぎ、雲が切れて星が出た。星の光は冷たく、しかし、目に痛いほど澄んでいる。蓮は藁の上で拳を握り、爪が掌に食い込む感覚を確かめた。痛みは、生きていることの最小の記録だ。紙に残らなくても、骨が覚える。

 その夜の遅い刻限、詰所の裏で、白いものがふっと揺れた。あの十字。蓮は目を閉じて頷いた。戻ってこい、という言葉の代わりに、頷きをひとつ白に送る。白は風に頷き返し、闇に溶けた。

 翌日、官軍の立て札が村の入口に立った。〈白装束の賊、見つけ次第討て〉。黒い墨。太い字。名のない者に向けられた命令。しかし、名のない者に向けられた命令は、風を受けてすぐ角が丸くなる。賊、という名は、あらゆる敗者に降り注いできた雨のような言葉だ。雨は一面に降るが、人はそれぞれに濡れる。

 噂は少しずつ形を変えた。「剣士」から「亡霊」へ、「亡霊」から「雪女」の相棒へ。女などいない。いるのは、白い布と、夜の呼吸と、刃の角度だけ。だが、人は自分が見たいものを見たがる。見せたいものを語りたがる。蓮は唇の内側を噛み、血の味を確かめて、目を閉じた。噂と史(ふみ)の間で、静はいつも、紙の端を切っていた。名の端を、そっと、切っていた。

 その夜——最後の突撃は、誰の命令でもなく、誰の記録にも残らず、しかし、確かに起きた。松の根に積もる薄雪の上で、白と黒が交わり、音の少ない刃が幾つかの息を断ち、幾つかの命を延ばした。静は前を、蓮は背を。蓮は前を、静は背を。交互に、風のように場所を交換しながら、二人は夜を渡った。

 名は刻まれない。紙は真っ白だ。だが、その白紙の上で、二つの影が背を合わせた痕は、きっと、誰かの胸の裏にだけは薄く残る。雪が夜明けに少し青く見える色で。風が一瞬だけ温かくなる温度で。

 最後の突撃は、二人だけのものではなかった。そこには、土方の叫びが薄く重なり、総司の笑いが遠くから響き、弁天台場の砲声が反響していた。すべての音が夜に吸われ、やがて静かになった。静けさの中で、静の息だけが、蓮の背に規則正しく触れていた。

 蓮は、その呼吸を記録した。紙ではなく、骨に。骨に刻まれた記憶は、長く持つ。名が忘れられ、噂が別の形に変わっても、骨の記録は、残る。彼が生きている限り。彼が、誰かの背に、手を添える限り。