名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 縄は冷たく、指の節に食い込み、じわりと痺れを残した。捕虜の列は、箱館の町の目抜き通りを南から北へと移されていく。道端には女や子が立ち、男たちは腕を組んで睨み、老人は障子の影から息を潜めて覗いた。石が投げられ、泥が飛ぶ。蓮は唇を噛み切り、血の味を口に広げた。笑い声が遠くで上がり、すぐ風に千切れて消える。

 列の歩調は遅い。前の男が躓き、そのまま膝をついた。官軍の若い兵が罵声とともに銃床で背を突く。男は呻き、また立った。蓮は顔を上げ、先の先まで目を凝らした。桟橋の方角、寺の甍、遠くに海。そのどこにも、静はいない。降伏の朝、彼は列に加わらなかった。白布をたすきにして、堀の影を滑るように消えた。目撃は誰もいないはずなのに、蓮の眼にはあの後ろ姿が焼き付いている。

 詰所は町はずれの蔵を改造したものだった。夜、蓮は押し込められた藁床の端に身を置き、壁の隙間から外を見た。風が通り、白い何かが、ふっと揺れた。布だ。柱の釘にひっかけられ、夜気に震える白。布の縁に、わずかな刺繍がある。蓮は息を止め、目を凝らす。刺繍は小さな十字。静が手ずから、布の端に目印として縫う癖を知っている。崩れた十字は、夜の中で星のように見えた。

「静……生きてるのか」

 誰にも聞こえない声で呟いた。返事はない。だが、風は確かに白いものの匂いを運ぶ。白は雪の匂いに似て、同時に灰の匂いも含む。蓮の胸は熱くなる。影は記録に残らない。名を呼ばれることもない。だが、影は確かにそこにいる。何度も消えるように見せて、なお地を這い、隙間に入り込み、必要なところで必要な動きを残す。

 翌朝、列は寺へ移された。大きな本堂の畳は剥がされ、板の間に縄が張られて区切りが作られている。柱に番号札。官軍の「読み手」が前に座り、次々に取り調べを進めている。名前、出身、役目。名は紙に吸い込まれ、墨の輪郭で固定される。蓮の番が来た。

「出身は」

「上総」

「名は」

 筆がわずかに止む。蓮は短く答えようとし、舌が喉に貼りついた。名は、こういう時、刃だ。紙に残った名は、新しい秩序の刃の刃先にかかる。蓮は喉の奥で息を押し返し、口を開きかけた、そのとき、外の鐘が鳴った。どこかの寺の朝の鐘。読み手の筆がそちらへわずかに逸れ、机上の紙の端に引っかかった。わずかな隙。蓮はその隙に、淡々と「矢野蓮」とだけ告げた。肩書きも、所属も、言わない。読み手は顔を上げず、次の問いへ移る。

「役目は」

「巡察」

「以上」

 筆の腹が紙を撫でる音。名前は紙に乗った。だが、薄い。蓮はその薄さに救われた気もした。薄い名は、風でめくれる。重い名は、釘で打たれる。

 寺の裏庭に出ると、洗い場に水桶が並び、女の声がさざめく。町の者が捕虜への粥を運び、器を濯いでいる。ひとり、袖口に青い刺繍を見た。小さな十字。夜の白布と同じ印。顔を上げた女は、驚くほど若い。蓮は目で合図を送り、女の目の奥の揺れが一瞬だけ固まるのを見た。

 昼の配膳が終わる頃、女は器を下げるふりをしながら、桶の底に紙片を滑らせた。蓮は洗い場当番を買って出て、桶を手に取る。紙は水を吸わないよう蝋で縁取りがしてある。開けば、十字が一つ。下に、墨の点が三つ。三つの点は、裏山の墓地の並び。十字の位置は、北側の小祠の裏。あの手口、あの簡潔。静だ。

 夕暮れ、詰所の見張りの交代に合わせて、蓮は便所の列に入り、壁伝いに北へ回った。墓地は風が強い。小祠の裏に回ると、白い布が一枚、丁寧に折られて置いてある。布の重なりがほんの少しずれて、薄い包みが見えた。蓮は布を開き、包みを取る。中には短い文と、小さな木札が二枚。

〈矢野さん。夜三更、弁天通りの裏。小舟が三。女と子と、三十ばかりの男が四。出す〉

 文はそれだけだ。木札は、弁天通りのとある醤油問屋の刻印。問屋は旧幕に飯を出し、洗い物を引き受けた。いま晒されれば、家は潰れる。名は刃だ。静は刃を折るために、影の刃を使う。

 夜、寺の裏木戸がわずかに開いた。蓮は縄の縛めを水に濡らして緩め、すり抜ける。月は出ていない。星が少し。弁天通りは昼の喧騒を嘘のように黙らせ、木戸の影から影へと人の息が渡っていく。問屋の裏口から、女が二人、子が三人、男がひとり、またひとりと現れた。皆、口を結び、足音を地面に吸い込ませるように歩く。静は角の先にいる。姿は見えない。だが、足の運びの間合いが、そこに彼を描く。

 港の見回りの灯が離れ、海がひと呼吸だけ暗くなった。桟橋の下、浅瀬に小舟が三艘。漁師の古い舟だ。蓮は先に子を載せ、女の手を取り、男の肩に触れ、最後に自分が舷に手をかける。櫂は布で巻かれ、音を殺してある。岸の影で、白い布がひとひら揺れた。静だ。蓮は頷き、舟が滑り出す。波が舷を叩く音は、夜の中で丸くなった。海は味方にも、敵にもならない。ただ、重さのあるものを静かに運ぶ。

 三艘は港口の暗がりで別れ、ひとつは湾の北へ、ひとつは南へ、ひとつは沖へ出た。いずれも、戸切地の向こうへ回り、浜に上がる算段だ。蓮は桟橋に戻り、影に身を寄せた。そこで初めて、静が近づいてきた。白ではない。鼠の古着を着て、手には何も持っていない。手ぶらの静は、どこか不器用に見える。

「静」

「はい、矢野さん」

「生きてたか」

「生きてます。……矢野さんも」

「縄を緩めるのは得意じゃない」

「堀の泥よりは楽です」

 短い息の交わし。それで十分だった。蓮は堪えていたものが喉にせり上がるのを感じ、首を振って飲み込んだ。泣くな、まだ。泣くのは、誰にも見えないところでいい。

「静。お前は、どうする」

「影には影の終いがあります」

「終い、ね」

「名を消す道具を壊して回ります。帳面、札、印。……それから」

「それから?」

「沖田総司の話を、ひとつ」

 静の声がわずかに揺れた。蝦夷に来る前、江戸の千駄ヶ谷で、静は総司の枕辺に座った。総司は痩せ、笑い、咳をし、また笑った。彼は「俺は光だなんて言われるほどの人間じゃない」と、冗談めかして言った。静は「光は、認める側が決めます」と答えた。総司は「じゃあ、お前が決めたんだな」と笑い、痩せた指で布団を叩いた。叩いた音は軽く、しかし確かだった。あの音が、静の背骨にいまも残っている。

「沖田総司の名は、もう紙の上にはほとんど残りません。でも、音が残ってます」

「音?」

「はい。……呼ばれたときの音、笑ったときの音、斬ったときの音。全部、残ります」

 静が初めて、名の代わりに音という言葉を使った。蓮は胸が詰まり、うなずいた。土方の名は銃声の向こう側で止まり、総司の名は咳の奥で霞んだ。だが、音は残る。音は、紙に釘打ちされない。風に乗る。風は、誰のものでもない。

「静」

「はい、矢野さん」

「終いを手伝う」

「ありがとうございます」

「俺は捕虜だ。朝には戻る」

「間に合います。……今夜が、山です」

 蝋燭の炎が一度、揺れて消えた。雲がかかり、星が薄くなる。夜の中に、足音が増える。官軍の巡邏が密になる印だ。静は蓮の袖を軽く引き、ふたりは別方向へ散った。蓮は寺へ戻る。静は町の裏へ消える。

 深夜、寺の内は寝息と薄い咳の音に満ちていた。蓮は藁の上で目を閉じ、手首の縄を再び締め直す。ほどいた形跡は、朝の冷たい目にすぐ見つかる。指で縄の繊維を撫で、元通りの形を作る。ほどいたことを、ほどいた本人が消す。こんな仕事がうまくなるとは思わなかった。

 外で犬が吠え、短い怒声が走り、すぐ消えた。静だ。帳面が一冊、また一冊、火に落ちる音を、蓮は想像した。紙は燃えるとき、軽い悲鳴を上げる。名の悲鳴だ。名は生きたがる。だが、名が生き残ると、誰かが死ぬ。その逆もある。等式はいつも残酷だ。

 夜明け前、寺の鐘が暗闇に柔らかく響いた。蓮は目を開け、息を整えた。終いの夜が終わる。外の空気が少し甘くなる。甘さは、朝の匂いだ。朝はいつも、無邪気にやってくる。それが腹立たしく、救いでもあった。

 朝の点呼。読み手が再び筆をとり、番号札に目を落とす。蓮の前の男は、紙に大きな字で名を書かれた。一息遅れて、官軍の上役が入り、帳面を捲った。

「昨夜の書付はどこだ」

「ここに……」

 紙の束は薄く、めくる音は軽い。上役の眉間に皺が寄る。「町人連名の訴状が消えたぞ」

 読み手は顔色を変え、机の下を探り、隣の机を覗き込み、肩をすくめた。蓮は視線を落とした。静だ。町人の名が、消えた。名が消えれば、詮議も薄くなる。名を救うのではなく、名から救う。影の終いは、名を紙から解き放つことだ。

 昼前、蓮は水汲みの手伝いに出された。井戸の縁は滑りやすく、桶の取手は冷たい。ふいに、誰かが蓮の背にうっすらと触れた。振り向けば、あの袖口の十字の女。彼女は目を伏せ、小さな包みを差し出した。蓮が受け取ると、女はもう後ろを向いて歩き去っていた。包みの中には、紙片がひとつ。

〈終い、済。南の坂の茶屋の裏、松の根元。白、返す〉

 蓮は午後の休憩に、用足しを装って南の坂へ向かった。茶屋の裏手、松の根元に、白い布が結わえられている。あの十字の縫い目。布は風に揺れ、陽の光を跳ね返す。蓮はそれをほどき、胸に抱いた。布は軽い。だが、重かった。総司の咳、土方の血、弁天台場の白い砕け、五稜郭の白旗——白は、すべてを飲み込んで、なお白だ。

 夕方、捕虜たちは列を作り、港へ向かった。移送だ。江差か、青森か、あるいは仙台へ。隊列の中で、蓮は白い布を内側に着込んだ。肌に布が触れるたび、静の気配がそこに立つ。見張りの兵が前を向き、足音が揃う。どこかで、子の泣き声が上がった。泣き声はすぐ止む。誰かが抱いたのだろう。抱く腕の骨は、きっと強い。

 港の空は鉛色、海は低い唸りを返す。艀が並び、縄が濡れ、板が軋む。蓮は舷に足をかける直前、ふと振り返った。堀の向こう、五稜郭の角に、鼠色の小さな影が立っている。遠い。顔は見えない。手が、わずかに上がった。蓮は胸の内で、同じ高さに手を上げた。

「静」

 声は海風にすぐ揉まれて消えた。だが、影は頷いた気がした。頷きは、言葉の代わりだ。言葉は紙に残るが、頷きは骨に残る。

 艀が岸を離れる。揺れが足元に伝わり、身体が自然にバランスを取る。蓮は白い布を握り、目を閉じ、ひとつ息を長く吐いた。影は消える。だが、消える時に残るものがある。背中の温度、呼吸の高さ、骨の並び。名も、旗も、戦も、風に千切れていく。残るのは、預け合った背の感覚だ。

 船は港を出、箱館の町が小さくなる。五稜郭の星は見えない。星は、見えないから星だ。見えてしまえば、石だ。蓮は目を閉じ、静の姿を星座のように胸の裏に描いた。十字の小さな縫い目を中心に、線を引く。線はどこへもつながらない。つながらない線が、奇妙に安堵をくれた。

 夕闇が落ち、船板が冷え、吐く息が白い。蓮は白い布を頬に寄せ、低く囁いた。

「静。お前は、どこへ行く」

 答えはない。ないことが、答えだった。影は誰の地図にも載らない。どの潮にも従わず、どの風にも縛られない。だが、ひとつだけ確かなものがある。背中を預けた者が、生きているあいだ、影は消えない。蓮は目を閉じ、眠りと目覚めの間にしばらく漂った。夢の底で、白い布が、雪の上にふわりと舞い降りるのを見た。布は雪に馴染み、溶け、湿り、土に沈む。土はその白を抱いて、春を待つ。

 春は、来る。名も、来る。名が来るなら、名を受ける手もまた、準備しなければならない。影にできるのは、名の端をちょっと支えることだけだ。支えたことも、支えた者も、紙には残らない。だが、支えられた名は、少しだけ歪みが少ない。少しだけ、やさしい。蓮はそう信じ、目を開けた。夜は深く、海は長かった。音が消え、音が戻り、身体がゆっくりと小刻みに揺れる。遠く、凪の気配。

 ——静。生きろ。どの名にも属さず、どの影にも縛られず、それでも、誰かの背に手を添えて。

 風が頬を撫で、白い布が静かに鳴った。音は、小さく、確かだった。