白旗は、風の強さに合わせて形を変えた。はためくたび、午(ひる)よりも白く見え、また影を深くした。堀の水が小さな波を重ね、木橋の下で泡がほどける音が耳の奥に残る。榎本武揚と大鳥圭介が公式の段取りに入ると、五稜郭の中は急速に「戦でない時間」に置き換わりはじめた。砲の口は麻布で塞がれ、火薬庫の錠前は改められ、兵は列を整えるよう命じられる。叫び声は消え、低い呼吸ばかりがある。
蓮は堀端の石に足をかけ、空を仰いだ。冬の残り火を含むような冷たい青。その下で、白旗がひと筋、遠雷のように布鳴りをさせるたび、胸の奥がかすかに震えた。終わった。言葉にすれば短いが、ここに至るまでに積み上げた夜の数を思えば、短すぎる。火を迎え撃った夜、雪上に血が咲いた朝、一本木で土方の背を追って泥に膝を沈めた昼。名もない時間は、名のある終わりに一瞬で飲み込まれる。
静は隣で、刀を右の手に下げていた。白旗の下でも、刃は刃だ。刃の在り方は、旗の色で変わらない。蓮が横目で見ると、静は微かに首を傾けた。その眼は、今ある秩序と次の秩序の継ぎ目を見ている。戦の終い(しまい)というものが、どれほどの隙と穴を含むか、静は誰より知っている。
「静」
「はい、矢野さん」
「降るのか」
「降伏は光の役目です。影は降りません」
言葉は冷たいが、突き放す響きはなかった。降るという動詞が、旗と列と調印を意味するなら、確かに静は降らない。だが、静が降りないのは、戦いつづけるという意味とは違う。影の降伏は別の形を取る。刃を抜かずに、必要な仕事をして消える。静はそれを「消え際の片付け」と呼ぶ。
「片付けがあるんだな」
「はい。まず、これを燃やします」
静が内懐から取り出したのは、小さな巻紙の束だった。墨色の細い線が蜘蛛の巣のように縦横に走り、要所には小さな印が打ってある。誘い道の図だ。稜堡と稜堡の間、物陰から物陰へ、昼の光に溶ける影の幅と夜の足音の響きやすさ。新政府側に渡れば、今度は逆向きに自分たちを絡め取る網になる。
蓮は腰の火打袋を探り、石を打った。火花が乾いた藁に落ち、音もなく橙が広がる。紙は軽い音で反り、細線が一瞬だけ、呼吸のように明滅した。誘い道が光にさらされ、光の中で形を失う。静は燃える紙を見て、小さく息を吐いた。
「次に、名です」
「名?」
「密偵筋の帳面。町で世話になった者の名、米を融通してくれた者の名。……全部、消します」
五稜郭北棲の一棟に、その帳面はあった。箱に収められ、蓋には簡単な札が立つ。日用の帳に紛れて、表向きは米麦の出入りだが、内側の束には薄い紙が挟まれ、名前の横に印と小さな記号が記されている。蓮は箱を肩に担ぎ、静は見張りの目配せの順を読み、途切れのない陰を選んで歩いた。白旗が掲がっても、すべての目が白旗だけを見ているわけではない。終いのまなざしもあれば、始まりのまなざしもある。どちらの目にも映らない道が、ほんの細い幅で残る。
土塁の陰で箱を開ける。蓮が一冊、静が一冊。紙は薄いから、火勢は要らない。風下に身を寄せ、火打を打つ。紙はすぐに軽くなり、灰の端が指に触れて溶けた。名が消える。救いのために、名を消す。残酷だが、必要だった。名は刃だ。名が残れば、誰かを切る。名が消えれば、誰かが生きる。
燃やし終えて立ち上がると、雪解けの泥に、短靴の新しい跡が見えた。官軍の若い兵のものか。足幅が広く、歩幅が均等だ。訓練の匂いがする。静は跡を一瞥し、わずかに背を縮めた。目につかない高さで動く。影の背丈は、相手の目線で決まる。
二人が火薬庫のほうへ回り込むと、入口にひとり、少年兵が座っていた。膝を抱え、顔は煤で黒く、目だけが大きい。蓮が近づくと、少年はぎくりと顔を上げた。
「俺は……もう撃てない」
「撃たなくていい」と蓮は言った。「お前の名は何だ」
少年は唇を噛み、首を振った。「名は……いい。帰る家に言えない」
「帰る家があるなら、帰れ」
少年は視線を落とし、小さく頷いた。その頷きに、蓮は震えを見た。生きると決める震えだ。静が火薬庫の内を確かめ、導火線の束をまとめて別所に移した。火はもう要らない。火は終わった。残すべきは、火の名残ではなく、火の後の静けさだ。
堀を回る途中、弁天台場の方向から短い破裂音が二つ続いた。遅れて枯れた風が頬を撫でる。最後まで抵抗していた砲座が、一つずつ黙る。守り切ることが名になる、と土方が言った夜を思い出す。守り切れなかった。だが、守ろうとした時間は確かに延びた。延びた一刻に、誰かの生がひとつ収まっている。
士官詰め所の裏手では、榎本の側近が文書の封緘をしていた。フランス帰りの技術者、荒井郁之助の姿も見える。彼は沈黙の顔つきで印を押し、手早く綴じ紐を締めた。榎本は海を見ていた。彼が見つめる先に、かつてともに戦ったフランス人教官ブリュネやカズヌーヴの背の影が、薄く揺れた気がした。彼らはすでに横浜へ去り、自分の国へ戻るだろう。海は出会いを作り、別れも作る。
午後、五稜郭の南口に新政府軍の先遣が入った。先頭の旗の後ろ、指揮の声が淡く響く。薩摩、長州、土佐、肥前——音の端にそれぞれの土地の息づかいが混じる。彼らもまた、名の下で動いている。名の下に集まり、名の下に誰かを裁き、名の下に次の秩序を作る。名は人を縛り、同時に人を集める。名のない者は、縛られないが、集まらない。孤(こ)でなければ影の仕事はできない。孤であることは、頼りのなさと引き換えだ。
官軍の一隊が糧秣庫のほうへ向かうのを見て、静は蓮の袖を引いた。「矢野さん、行きます」
「どこへ」
「北角の馬小屋です。……人が隠れている」
馬小屋の藁の間に、女が三人と子が二人、息を潜めていた。腰巻の裾には泥、指先には紡ぎ仕事の繊維が絡んでいる。五稜郭の周辺に住み、食や洗濯を手伝っていた者たちだ。戦が終われば、彼らは「旧幕に肩入れした民」と見なされ、詰問を受ける。名がある人々にとって、名は負債にもなる。
静は木戸の隙間から外を見、藁の束を引きちぎり、足跡を上書きした。蓮は子を抱き、女の背を押す。「声を出すな。外は風だと思え。風は音を運ぶけど、お前の音じゃない」女の眼が蓮の眼に合わせ、わずかに頷く。その頷きは、命綱の締め直しだ。
北角から堀沿いの土手に沿って、最短で民家の裏へ出る細道がある——誘い道の一本。敵を導くために敷いた道が、いまは味方を逃がす帯に変わる。道というものは、敷いた意図より、そこに通る足の意志をよく受け入れる。四人と二人と二人で、糸のように細く伸び、風の音に紛れて動く。新政府軍の若い兵がこちらに視線を向けたが、彼の目は女の手元の籠のほうで止まった。籠の中には、乾いた芋が四つ。兵士の目に揺れたのは戦利ではなく、故郷の台所の光景だった。彼は目を戻し、何も言わず通り過ぎた。
民家の裏庭で女たちを手放すと、一人が膝を折り、土へ額をつけた。「名は、聞かないでくれ」声は震えたが、確かな強さを含んでいた。蓮は頷き、静も「承知しました」と答えた。名は、ここで消える。それでいい。
夕方、五稜郭の中庭に捕虜の列が形を持ちはじめた。官軍の記録係が板机を据え、筆を濡らす。列は長い。列は長くても、声は少ない。蓮と静が並ぶと、前にいた男が振り返った。歳は蓮と同じくらい、額に浅い傷。彼は口を開いた。
「……新選組、か」
「いた」と蓮。
男は短く笑った。「俺は榎本の水夫上がりだ。船が好きだ。陸の戦は、性に合わねえ」
「海はいい」と蓮は言った。「江戸の匂いがする」
「江戸は、どうなってる」
「生きてる。……多分」
男はそれで満足したように頷き、前を向いた。名を交換しなかったのに、奇妙な連帯が生まれた。名を持たない者同士の、薄くて強い糸。
記録の机に近づくと、若い書記が筆を持って待っていた。彼は一瞬、静の横顔に目を留め、すっと紙に目を戻した。「出身、年恰好、所属」
蓮は淡々と答え、静も同じように答えた。名は問われなかった。問われないことが、この場では救いだった。紙に記されるのは、風で読める情報だけ。風は誰のものでもない。
列を離れると、堀の向こうの空が薄暗くなっていた。五稜郭の星形の角が夜に溶ける。角はもともと夜の形に似ている。角は、光の届かない鉤のように、闇を捕える。闇はすぐほどける。ほどければ、角もまたただの土の塊だ。
静がふいに立ち止まり、蓮を振り返った。
「矢野さん」
「ん」
「ひとつだけ、降伏の前に、まだあります」
「何が」
「白装束の噂、終わらせます」
「どうやって」
「噂は、最後の目撃で決まります」
静は北稜の外へ回り、雪解けで湿った土手に立った。白は着ていない。薄鼠の衣のまま、裾をゆっくりとたくし上げ、膝まで泥に浸す。薄闇の中で、その姿は白とも黒ともつかない色に滲んだ。静は刀を鞘に納め、両手を広げて、しばらく動かずにいた。風が衣を撫で、髪を揺らす。遠くから誰かの声が聴こえ、足音が近づき、そして止まる。足音の主は、静の姿を「白装束」ではなく「人」として見た。白い剣士は、泥の色を纏った影として記憶される。噂は最終の像(かたち)を選び直し、静かに自分を畳んだ。
「終わりました」と静。
「終わったのか」
「はい。……白は、雪に返しました」
蓮は笑った。笑いながら、目の奥が熱くなった。白は雪に、火は灰に、名は沈黙に。どれも自然な帰り先だ。戦だけが、不自然なところへ物を運ぶ。だから片付ける。
夜が落ちた。五稜郭の中の小屋の灯がひとつ、またひとつ消える。官軍の見張りの呼吸が一定になり、遠くの台地に犬の声が短く響く。蓮と静は荷物もなく、ただ身体だけで小屋にもぐり込んだ。藁は朝に比べて乾いていた。乾いた藁の匂いは、どこでも同じだ。子どもの頃に嗅いだ匂い、江戸の裏長屋で嗅いだ匂い、会津の柵で嗅いだ匂い。匂いは名を持たず、しかし記憶を縛る。
隣の藁に背を預けると、静の呼吸がほど近い位置で揺れた。蓮は目を閉じ、声の出ない声で言った。
「静」
「はい、矢野さん」
「俺は、お前の影でよかったのか」
「はい」
「ほんとに?」
「背を預けられました。……それが全部です」
短い沈黙。外の風が竹に触れ、庭の小石がわずかに擦れる。蓮はその擦れる音を、背骨で聞いた。背骨は長い。長い背骨を一緒に立てて歩いてきたのだと思うと、身体が少し暖かくなった。名が残らないことは、もう構わなかった。名を捨てて、背骨を持つ。人の形は、名より先に骨でできている。
眠りは浅く、しかしやわらかかった。夜の間、何度か目を開け、そのたびに静の気配がそこにあることを確かめ、また目を閉じた。確かめるという行為は、祈りに似ている。祈りは名を要らない。祈りが要るのは、息だ。息が合えば、祈りは届く。どこへ届くのかは、いつも分からないのに。
明け方、東の空が薄く白み始めたころ、外から「起こせ」という短い声がした。官軍の合図だ。列を整える。移送の準備。紙札の番号の順に並ぶ。朝の冷気が頬を刺し、指が少し悴(かじか)む。蓮は袖口に息を吹き込みながら、小さく笑った。息は白い。白は雪の色であり、旗の色でもある。白は、どちらにも属さない。属さない白が、いまはありがたい。
外へ出る時、静が振り向いた。
「矢野さん」
「なんだ」
「背中、預けます」
「受け取る」
言葉は短い。短くて、十分だ。二人の足音が土に落ち、土がその音を吸う。吸われた音は、土の中で長く残る。あとで誰かが畑を耕すとき、その音がふっと浮かぶかもしれない。そんな想像を、蓮はしてみた。畑を耕す背の骨は、戦の背の骨と同じ構えを持っている。耕す刃も、斬る刃も、握る指は同じ筋で動く。
列は門へ向かい、門の外に朝の街が広がる。箱館はもう新政府の旗の下にある。旗は風で形を変え、影は地面の角度で長さを変える。どちらも、光次第だ。光は残酷で、光はやさしい。光があるから影ができ、影があるから光の形が見える。
五稜郭は背後で小さくなった。星の城は、星の光に戻る。星の光は、名前を持たない。人が勝手に名をつけるだけだ。名をつけるのは人の楽しみであり、苦しみでもある。蓮は星の名を忘れて、ただ冷たい朝の空を見た。冷たい空気は、胸の痛みをかすかに和らげる。痛みが和らぐと、歩幅が広がる。広がった歩幅に、これからの一日が納まる。
蓮は心の中で言った。——名は残らない。それでいい。背を預け、呼吸を合わせ、骨で歩く。静の声が、すぐそばで重ねられた。
「はい、矢野さん。……行きましょう」
行く先は知らない。知らないが、歩く。歩くという行為だけが、いまの自分たちの名であり、刃であり、旗だった。風がそれを読んで、どこかへ運んだ。運ばれた先で、誰かがふと顔を上げ、胸の奥の重さが少し軽くなるなら——影の仕事はまだ続いている。そう信じられるうちは、まだ歩ける。白は白のまま、土は土のまま、影は影のまま、朝の匂いの中で。
蓮は堀端の石に足をかけ、空を仰いだ。冬の残り火を含むような冷たい青。その下で、白旗がひと筋、遠雷のように布鳴りをさせるたび、胸の奥がかすかに震えた。終わった。言葉にすれば短いが、ここに至るまでに積み上げた夜の数を思えば、短すぎる。火を迎え撃った夜、雪上に血が咲いた朝、一本木で土方の背を追って泥に膝を沈めた昼。名もない時間は、名のある終わりに一瞬で飲み込まれる。
静は隣で、刀を右の手に下げていた。白旗の下でも、刃は刃だ。刃の在り方は、旗の色で変わらない。蓮が横目で見ると、静は微かに首を傾けた。その眼は、今ある秩序と次の秩序の継ぎ目を見ている。戦の終い(しまい)というものが、どれほどの隙と穴を含むか、静は誰より知っている。
「静」
「はい、矢野さん」
「降るのか」
「降伏は光の役目です。影は降りません」
言葉は冷たいが、突き放す響きはなかった。降るという動詞が、旗と列と調印を意味するなら、確かに静は降らない。だが、静が降りないのは、戦いつづけるという意味とは違う。影の降伏は別の形を取る。刃を抜かずに、必要な仕事をして消える。静はそれを「消え際の片付け」と呼ぶ。
「片付けがあるんだな」
「はい。まず、これを燃やします」
静が内懐から取り出したのは、小さな巻紙の束だった。墨色の細い線が蜘蛛の巣のように縦横に走り、要所には小さな印が打ってある。誘い道の図だ。稜堡と稜堡の間、物陰から物陰へ、昼の光に溶ける影の幅と夜の足音の響きやすさ。新政府側に渡れば、今度は逆向きに自分たちを絡め取る網になる。
蓮は腰の火打袋を探り、石を打った。火花が乾いた藁に落ち、音もなく橙が広がる。紙は軽い音で反り、細線が一瞬だけ、呼吸のように明滅した。誘い道が光にさらされ、光の中で形を失う。静は燃える紙を見て、小さく息を吐いた。
「次に、名です」
「名?」
「密偵筋の帳面。町で世話になった者の名、米を融通してくれた者の名。……全部、消します」
五稜郭北棲の一棟に、その帳面はあった。箱に収められ、蓋には簡単な札が立つ。日用の帳に紛れて、表向きは米麦の出入りだが、内側の束には薄い紙が挟まれ、名前の横に印と小さな記号が記されている。蓮は箱を肩に担ぎ、静は見張りの目配せの順を読み、途切れのない陰を選んで歩いた。白旗が掲がっても、すべての目が白旗だけを見ているわけではない。終いのまなざしもあれば、始まりのまなざしもある。どちらの目にも映らない道が、ほんの細い幅で残る。
土塁の陰で箱を開ける。蓮が一冊、静が一冊。紙は薄いから、火勢は要らない。風下に身を寄せ、火打を打つ。紙はすぐに軽くなり、灰の端が指に触れて溶けた。名が消える。救いのために、名を消す。残酷だが、必要だった。名は刃だ。名が残れば、誰かを切る。名が消えれば、誰かが生きる。
燃やし終えて立ち上がると、雪解けの泥に、短靴の新しい跡が見えた。官軍の若い兵のものか。足幅が広く、歩幅が均等だ。訓練の匂いがする。静は跡を一瞥し、わずかに背を縮めた。目につかない高さで動く。影の背丈は、相手の目線で決まる。
二人が火薬庫のほうへ回り込むと、入口にひとり、少年兵が座っていた。膝を抱え、顔は煤で黒く、目だけが大きい。蓮が近づくと、少年はぎくりと顔を上げた。
「俺は……もう撃てない」
「撃たなくていい」と蓮は言った。「お前の名は何だ」
少年は唇を噛み、首を振った。「名は……いい。帰る家に言えない」
「帰る家があるなら、帰れ」
少年は視線を落とし、小さく頷いた。その頷きに、蓮は震えを見た。生きると決める震えだ。静が火薬庫の内を確かめ、導火線の束をまとめて別所に移した。火はもう要らない。火は終わった。残すべきは、火の名残ではなく、火の後の静けさだ。
堀を回る途中、弁天台場の方向から短い破裂音が二つ続いた。遅れて枯れた風が頬を撫でる。最後まで抵抗していた砲座が、一つずつ黙る。守り切ることが名になる、と土方が言った夜を思い出す。守り切れなかった。だが、守ろうとした時間は確かに延びた。延びた一刻に、誰かの生がひとつ収まっている。
士官詰め所の裏手では、榎本の側近が文書の封緘をしていた。フランス帰りの技術者、荒井郁之助の姿も見える。彼は沈黙の顔つきで印を押し、手早く綴じ紐を締めた。榎本は海を見ていた。彼が見つめる先に、かつてともに戦ったフランス人教官ブリュネやカズヌーヴの背の影が、薄く揺れた気がした。彼らはすでに横浜へ去り、自分の国へ戻るだろう。海は出会いを作り、別れも作る。
午後、五稜郭の南口に新政府軍の先遣が入った。先頭の旗の後ろ、指揮の声が淡く響く。薩摩、長州、土佐、肥前——音の端にそれぞれの土地の息づかいが混じる。彼らもまた、名の下で動いている。名の下に集まり、名の下に誰かを裁き、名の下に次の秩序を作る。名は人を縛り、同時に人を集める。名のない者は、縛られないが、集まらない。孤(こ)でなければ影の仕事はできない。孤であることは、頼りのなさと引き換えだ。
官軍の一隊が糧秣庫のほうへ向かうのを見て、静は蓮の袖を引いた。「矢野さん、行きます」
「どこへ」
「北角の馬小屋です。……人が隠れている」
馬小屋の藁の間に、女が三人と子が二人、息を潜めていた。腰巻の裾には泥、指先には紡ぎ仕事の繊維が絡んでいる。五稜郭の周辺に住み、食や洗濯を手伝っていた者たちだ。戦が終われば、彼らは「旧幕に肩入れした民」と見なされ、詰問を受ける。名がある人々にとって、名は負債にもなる。
静は木戸の隙間から外を見、藁の束を引きちぎり、足跡を上書きした。蓮は子を抱き、女の背を押す。「声を出すな。外は風だと思え。風は音を運ぶけど、お前の音じゃない」女の眼が蓮の眼に合わせ、わずかに頷く。その頷きは、命綱の締め直しだ。
北角から堀沿いの土手に沿って、最短で民家の裏へ出る細道がある——誘い道の一本。敵を導くために敷いた道が、いまは味方を逃がす帯に変わる。道というものは、敷いた意図より、そこに通る足の意志をよく受け入れる。四人と二人と二人で、糸のように細く伸び、風の音に紛れて動く。新政府軍の若い兵がこちらに視線を向けたが、彼の目は女の手元の籠のほうで止まった。籠の中には、乾いた芋が四つ。兵士の目に揺れたのは戦利ではなく、故郷の台所の光景だった。彼は目を戻し、何も言わず通り過ぎた。
民家の裏庭で女たちを手放すと、一人が膝を折り、土へ額をつけた。「名は、聞かないでくれ」声は震えたが、確かな強さを含んでいた。蓮は頷き、静も「承知しました」と答えた。名は、ここで消える。それでいい。
夕方、五稜郭の中庭に捕虜の列が形を持ちはじめた。官軍の記録係が板机を据え、筆を濡らす。列は長い。列は長くても、声は少ない。蓮と静が並ぶと、前にいた男が振り返った。歳は蓮と同じくらい、額に浅い傷。彼は口を開いた。
「……新選組、か」
「いた」と蓮。
男は短く笑った。「俺は榎本の水夫上がりだ。船が好きだ。陸の戦は、性に合わねえ」
「海はいい」と蓮は言った。「江戸の匂いがする」
「江戸は、どうなってる」
「生きてる。……多分」
男はそれで満足したように頷き、前を向いた。名を交換しなかったのに、奇妙な連帯が生まれた。名を持たない者同士の、薄くて強い糸。
記録の机に近づくと、若い書記が筆を持って待っていた。彼は一瞬、静の横顔に目を留め、すっと紙に目を戻した。「出身、年恰好、所属」
蓮は淡々と答え、静も同じように答えた。名は問われなかった。問われないことが、この場では救いだった。紙に記されるのは、風で読める情報だけ。風は誰のものでもない。
列を離れると、堀の向こうの空が薄暗くなっていた。五稜郭の星形の角が夜に溶ける。角はもともと夜の形に似ている。角は、光の届かない鉤のように、闇を捕える。闇はすぐほどける。ほどければ、角もまたただの土の塊だ。
静がふいに立ち止まり、蓮を振り返った。
「矢野さん」
「ん」
「ひとつだけ、降伏の前に、まだあります」
「何が」
「白装束の噂、終わらせます」
「どうやって」
「噂は、最後の目撃で決まります」
静は北稜の外へ回り、雪解けで湿った土手に立った。白は着ていない。薄鼠の衣のまま、裾をゆっくりとたくし上げ、膝まで泥に浸す。薄闇の中で、その姿は白とも黒ともつかない色に滲んだ。静は刀を鞘に納め、両手を広げて、しばらく動かずにいた。風が衣を撫で、髪を揺らす。遠くから誰かの声が聴こえ、足音が近づき、そして止まる。足音の主は、静の姿を「白装束」ではなく「人」として見た。白い剣士は、泥の色を纏った影として記憶される。噂は最終の像(かたち)を選び直し、静かに自分を畳んだ。
「終わりました」と静。
「終わったのか」
「はい。……白は、雪に返しました」
蓮は笑った。笑いながら、目の奥が熱くなった。白は雪に、火は灰に、名は沈黙に。どれも自然な帰り先だ。戦だけが、不自然なところへ物を運ぶ。だから片付ける。
夜が落ちた。五稜郭の中の小屋の灯がひとつ、またひとつ消える。官軍の見張りの呼吸が一定になり、遠くの台地に犬の声が短く響く。蓮と静は荷物もなく、ただ身体だけで小屋にもぐり込んだ。藁は朝に比べて乾いていた。乾いた藁の匂いは、どこでも同じだ。子どもの頃に嗅いだ匂い、江戸の裏長屋で嗅いだ匂い、会津の柵で嗅いだ匂い。匂いは名を持たず、しかし記憶を縛る。
隣の藁に背を預けると、静の呼吸がほど近い位置で揺れた。蓮は目を閉じ、声の出ない声で言った。
「静」
「はい、矢野さん」
「俺は、お前の影でよかったのか」
「はい」
「ほんとに?」
「背を預けられました。……それが全部です」
短い沈黙。外の風が竹に触れ、庭の小石がわずかに擦れる。蓮はその擦れる音を、背骨で聞いた。背骨は長い。長い背骨を一緒に立てて歩いてきたのだと思うと、身体が少し暖かくなった。名が残らないことは、もう構わなかった。名を捨てて、背骨を持つ。人の形は、名より先に骨でできている。
眠りは浅く、しかしやわらかかった。夜の間、何度か目を開け、そのたびに静の気配がそこにあることを確かめ、また目を閉じた。確かめるという行為は、祈りに似ている。祈りは名を要らない。祈りが要るのは、息だ。息が合えば、祈りは届く。どこへ届くのかは、いつも分からないのに。
明け方、東の空が薄く白み始めたころ、外から「起こせ」という短い声がした。官軍の合図だ。列を整える。移送の準備。紙札の番号の順に並ぶ。朝の冷気が頬を刺し、指が少し悴(かじか)む。蓮は袖口に息を吹き込みながら、小さく笑った。息は白い。白は雪の色であり、旗の色でもある。白は、どちらにも属さない。属さない白が、いまはありがたい。
外へ出る時、静が振り向いた。
「矢野さん」
「なんだ」
「背中、預けます」
「受け取る」
言葉は短い。短くて、十分だ。二人の足音が土に落ち、土がその音を吸う。吸われた音は、土の中で長く残る。あとで誰かが畑を耕すとき、その音がふっと浮かぶかもしれない。そんな想像を、蓮はしてみた。畑を耕す背の骨は、戦の背の骨と同じ構えを持っている。耕す刃も、斬る刃も、握る指は同じ筋で動く。
列は門へ向かい、門の外に朝の街が広がる。箱館はもう新政府の旗の下にある。旗は風で形を変え、影は地面の角度で長さを変える。どちらも、光次第だ。光は残酷で、光はやさしい。光があるから影ができ、影があるから光の形が見える。
五稜郭は背後で小さくなった。星の城は、星の光に戻る。星の光は、名前を持たない。人が勝手に名をつけるだけだ。名をつけるのは人の楽しみであり、苦しみでもある。蓮は星の名を忘れて、ただ冷たい朝の空を見た。冷たい空気は、胸の痛みをかすかに和らげる。痛みが和らぐと、歩幅が広がる。広がった歩幅に、これからの一日が納まる。
蓮は心の中で言った。——名は残らない。それでいい。背を預け、呼吸を合わせ、骨で歩く。静の声が、すぐそばで重ねられた。
「はい、矢野さん。……行きましょう」
行く先は知らない。知らないが、歩く。歩くという行為だけが、いまの自分たちの名であり、刃であり、旗だった。風がそれを読んで、どこかへ運んだ。運ばれた先で、誰かがふと顔を上げ、胸の奥の重さが少し軽くなるなら——影の仕事はまだ続いている。そう信じられるうちは、まだ歩ける。白は白のまま、土は土のまま、影は影のまま、朝の匂いの中で。



