名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 降伏の朝の空は、きっぱりと晴れていた。五稜郭の外郭に沿って薄い雲が一筋、淡く裂け、そこから冷たい光が落ちてくる。風はまだ冬の残り香を含んでいて、頬に触れると骨の奥まで澄んだ痛みが走る。それでも、堀の水際には春の影が芽吹いていた。葦の間から顔を出した水鳥が、こちらの列を一度だけ見て、何事もない顔で翼を整える。世界は続いている、と鳥の態度が示していた。彼らには旗も官軍も旧幕も関わりがない。名を刻まず生き、名を刻まず渡っていく。

 捕虜の列は静かだった。銃剣は被せ布で包まれ、鉄の光は抑えられている。甲冑の鳴りもほとんど聴こえない。気配だけが寄り合い、手の甲の乾きや足裏の冷えが、群れの呼吸という形で連なっていた。榎本武揚が前に立ち、大鳥圭介がその隣で目を細め、荒井郁之助は口を引き結ぶ。彼らの背中に、栄達の夢はない。あるのはただ、責のかたちだ。その重さは、肩に見えず腹に沈む。沈んで、なお歩く。

 蓮は列の中ほどで、静の肩幅と同じ高さに視線を置いた。視界の左端に静の横顔の輪郭がかすかにかかる。頬の線は細い。白装束の噂はここにも届いていたが、いま、静の衣は白でも黒でもない。薄鼠の木綿に、旅の埃が薄くついて、指を走らせればざらりとするだろう。蓮は呼吸を整え、喉の奥で言葉になり損ねた声をひとつ、丸めて飲み込んだ。

「静」

「はい、矢野さん」

「ここまで、だな」

「はい。……いったんは、ここまでです」

 返ってくる響きは変わらない。砕けた敬語が、内臓の奥に温かく沈む。口調は冷ややかなのに、温かいのはなぜだろうと蓮は思う。たぶん、そこに嘘がないからだ。美辞も恥じらいもない、薄い布一枚のやり取り。寒いからこそ身に合う。

 門が開いた。黒田清隆の陣の前に白い幕が垂れ、印判の押された木札が整然と並ぶ。列は一人ずつ名を問われ、名のない者は出身と年恰好を記される。榎本、大鳥、荒井、永井——名が声に出されるごとに、周囲の空気がわずかに硬くなる。名は人を縛る。名がない者は、その代わりに声と目つきを記録に留められる。蓮はそれでも名を告げなかった。出自と年恰好、隊の呼称だけを答え、静かに次へ進む。静も同じだった。

 官軍の若い記録係が、筆を走らせながらふっと顔を上げた。

「お前たち、新選組にいたのか」

「……いたよ」

 蓮が短く答えると、記録係は一瞬だけ目を細めた。そこに敵意はない。興味と、わずかな畏れと、さらにわずかな憧れが混ざっている。若い者にとって戦はまだ遠い場所の物語だ。現に触れるとき、触れた指は震える。記録係の指先がほんのわずか震えて、紙に小さな点を作った。その点は、誰にも読まれないだろう。だが点は点だ。紙の白の上に、黒は残る。

 武器はすでに渡した。腰は軽い。軽さのせいで背中が寒い。蓮は歩きながら、肩甲骨の内側に芯のような冷えを感じた。そこに、背を預けてきた年月の重さが、抜けた空洞として残っている。空洞は風を入れ、身体の中を清める。清められた分だけ、寒い。

 城外の広場に案内され、俘虜の整理が始まった。寸法を測るような視線が往来し、江戸へ送る者、箱館に留め置く者、病者の収容順が決められる。蓮と静は「江戸送」の一群に入れられた。紙札が紐で手首に通され、薄い文字で番号が記される。番号は名の代わりだ。番号には母も父も、故郷の潮の匂いも宿らない。だが番号は、番号の務めを果たす。呼ばれれば立ち、引かれれば歩く。その単純さが、いまはありがたい。

 日が高くなると、空は青を増した。海からの風が潮の金気を運び、遠くで鐘が一度鳴る。どこの寺だろう、と蓮は思う。箱館に来てから幾度も夜明けと夜更けの鐘を聞いたが、鐘の音だけは土地で分けられない。京でも江戸でも会津でも、鐘は同じやさしさで空を震わせる。鐘が鳴ると、人が息をつく。息をついて、前を向く。

 昼過ぎ、榎本らが正式に官軍の陣へ赴き、降伏文書に調印した。戻った榎本の顔には、奇妙な静けさが宿っていた。負けた者の顔でも、勝った者の顔でもない。選んだ者の顔だ。選ぶという行為は、その場では評価されない。後に様々な名前で呼ばれる。裏切り、英断、臆病、賢慮——呼び名は気候のように移り変わる。そのどれにも榎本は目を向けなかった。彼の目は紙の線の先、まだ形を持たない未来のほうを見ていた。理科の教師が黒板の数式の先を眺めるような、乾いた情熱だ。

 夕刻、俘虜の列は港へ向かった。小さな桟橋に官船が横付けされ、甲板には藁が敷かれている。江戸へ——新政府はそう言った。江戸のどこへ、いつか、と問う権利はここにはない。蓮は船板の軋む音を聞きながら、潮の沈んだ匂いを吸い込んだ。肺の奥で昔の匂いが目を覚ます。浅草の川端、関東の湿り、父と母の影。名を呼ぶ声はもうどこにもないのに、肺だけが覚えている。身体は記録帳より正確に過去を持っている。

 乗船の前、蓮は静と短く目を合わせた。

「静、ここからは長い旅になるかもしれない」

「はい、矢野さん。……長い旅に、向いている足を持ててよかったです」

「お前の足音は昔から薄い。船でも薄いのか」

「試します。甲板が嫌がるかどうか」

 冗談の片端で、静は笑った。蓮の胸がほどける。笑う余裕が少しでも残っているなら、大丈夫だ——そう自分に言い聞かせる。笑いは刃の鞘だ。鞘がある限り、刃は光りすぎずに済む。

 船が岸を離れると、五稜郭の星形が低く遠くに見えた。角が減り、線が曲がり、やがてただの濃淡になって、さらにやがて一点の影になった。蓮は縁に手をかけ、目を細めた。眼の奥が熱を持ち、視界の輪郭がわずかに滲む。泣くのは武器を渡したあと、と静は言った。今は渡したあとだ。泣いていい。だが、涙は出なかった。涙は、ときに遅れて来る。遅れて来るもののほうが、深く沁みる。

 海は凪いでいた。新政府軍の護送船は無駄のない速度で北の岬を回り、津軽海峡へ出る。甲板の上で俘虜たちが膝を抱え、誰かが小さな声で故郷の節を口ずさむ。会津の節か、江戸の端唄か、箱館で覚えた新しい歌か。音程を外すたびに風が拾い、音の欠片を海へ落とす。海は何も答えない。答えないが、受け取る。

 日が傾き、空が茜を帯びると、静がそっと蓮の袖を引いた。

「矢野さん」

「なんだ」

「海の匂い、江戸に似ています」

「ああ。……帰る匂いかもしれない」

「帰る場所はないですが、匂いは帰ってきます」

「匂いは名がいらないからな」

「はい」

 二人は黙り、海の水平を見た。線はただの線だ。だが、この線のこちら側とあちら側を何度も往復してきた人間にとって、線は境(さかい)であり、命の草履の鼻緒のようなものでもある。鼻緒が切れれば歩けない。海は何度も鼻緒を切り、また結ばせた。

 江差を過ぎ、松前の影が遠くになり、月が薄く出た。甲板の端で、ひとりの男が立ち上がった。背が高く、痩せている。頬は削げ、目がぎらぎらと光っている。男は突然、船縁に足をかけた。周囲が息を呑む。男は海に向かって叫んだ。

「俺はまだ、刀を渡していない!」

 叫びは風に裂かれ、海面に叩きつけられた。男の足が外へ滑る。蓮の身体は先に動いた。足を踏み込み、男の帯を掴む。帯がきしみ、手のひらが焼ける。静が横から肩を支え、二人で引き戻した。甲板に転がり落ちた男の目から、涙が一筋こぼれた。

「……すまねえ」

 男の声は乾いていた。蓮は息をつき、男の肩を叩いた。叩く手の平が震えている。救った。救った、と思うと、遅れて恐怖が来る。指の腹の感覚が戻ると同時に、内側で何かが崩れる音がした。静が何も言わず、蓮の手首を一度だけ握った。痛いくらい強く、そしてすぐ離した。その一瞬の強さが、蓮の中の崩落を止める。

 夜、船は青森の沖に停泊し、翌朝、津軽の港に人足が現れた。沿岸の人々は遠巻きに俘虜の列を見た。女が子の手を引き、男が肩に籠を担ぎ、誰もが静かだった。嘲りも歓声もない。戦の遠い土地では、敗者はただの旅人のように見える。旅人は、いつの時代も冷たい目にも温い目にも出会う。蓮はその中間の温度に安堵した。

 短い陸路で休息小屋に収容され、粥が配られた。米粒は少なく、湯は薄い。薄いが温かい。温かいというただそれだけの事実が、身体のほうで先に喜ぶ。蓮は器を両手で包み、湯気で鼻腔を湿らせた。隣で静が小さく咳をひとつした。蓮は器を置き、静の肩を見た。

「静」

「はい、矢野さん」

「……大丈夫か」

「はい。海の風で喉が冷えただけです」

 静は笑った。薄い笑いだ。総司の咳を初めて聞いた夜のことが、蓮の中で一瞬にして鮮やかに蘇った。稽古場に落ちた赤い点、袖口の布、総司の軽い冗談、静の硬い声。死はすでに通り過ぎたが、その通り道は身体の中に残っている。通り道は、ときに冷気を呼び込む。蓮は静の背に手を置き、掌で背骨の数を数えた。数えることで、ここに身体があると確かめる。

 数日ごとに列は移され、南へと下った。八戸、盛岡、仙台——各地で短い収容と移送が繰り返される。道中、蓮は耳にした。「会津の若松城は落ちた」「庄内は恭順した」「江戸城は無血で明け渡された」——知っていることも、知らなかったことも、言葉になると胸の骨を叩く。骨は打たれた場所を覚える。覚えたものは、簡単に忘れられない。忘れられないものの上に、明日が積まれる。

 小名浜を過ぎたあたりで、官軍の付き添いがひとり、蓮たちの列に歩み寄った。若い薩摩の士だ。頬が焼け、目が据わっている。彼は不器用に口を開いた。

「江戸に着いたら、……生きろ」

 それだけ言って、すぐ背を向けた。蓮は少しの間、言葉の意味を探し、やがてゆっくりと頷いた。敵からの言葉は、いつも刺のように聞こえる。だが、刺には二種類ある。刺して毒を入れる刺と、刺して血を出させる刺。いまの一言は、後者だった。刺は傷を作ったが、傷は膿む前に血を出す。血が出れば、痛みの始末ができる。

 江戸が近づくにつれ、空気の匂いが変わった。湿りがやわらぎ、風が丸くなる。川が多い土地の匂いだ。俘虜の列は品川の手前で一度止まり、人数の確認が行われる。そこから、築地の収容所へ——かつての武家屋敷が仮の牢として使われていた。白い土塀、枯れた庭、風で鳴る竹の音。庭の隅に、一本の柿の木が芽吹いている。季節に逆らわず芽は出る。柿は実を覚えている。去年の実の甘さも渋さも、どちらも覚えている。それを誰が食べたかは覚えていないが。

 収容所で、役人が名簿を照合した。榎本、大鳥、荒井、永井——名が呼ばれるたびに、小屋の外の空気がわずかに動く。見に来る者がいる。ひとの名は、見物を連れてくる。静と蓮は、番号で呼ばれた。番号は風を連れてこない。だが、その分、静かに過ぎる。静かに過ぎる場所では、隣の気配が濃くなる。

 夜、蓮と静は並んで藁の上に横になった。藁は湿っている。湿りに背が奪われる。天井板の隙間から、夜風が細い帯で降りてくる。遠くで犬が鳴いた。江戸の夜の音だ。京とは違う、海の湿りを含んだ鳴き方。蓮は目を閉じ、静の呼吸を数えた。吸って、吐いて、吸って——それは昔の稽古場で数えた拍と同じだ。数えられるものがある限り、人は眠れる。眠れば、明日が来る。

 翌日、取調が始まった。役人は眉を上げ、筆を持ち、事務的な口調で問う。「どこに属し、何をし、誰を斬り、何を見たか」——蓮は問われたことだけを答えた。問いの間に沈黙が流れる。沈黙は拷問ではないが、拷問の用意を持っている。沈黙に耐えるために、蓮は心の中で一文字ずつ母の名を書いた。書けば、耐えられる。書けば、呼吸の拍が戻る。

 静の番が来ると、役人は少し顔を上げた。静の目が、役人の目と静かにぶつかる。役人はやがて視線を落とし、同じ調子で問う。静は同じ調子で答える。刃を抜かない会話。刃を抜かないのは、刀を持たないからではない。抜く必要がないからだ。

 取調の合間、蓮は庭の隅へ出て、柿の木の影に腰をおろした。静が隣に座る。柿の芽は日に日に大きくなる。昨日より今日、今日より明日。名を持たぬものほど、しっかりと季節に根ざす。

「静」

「はい、矢野さん」

「俺はさ、ここで終わるのかもしれないと思う」

「はい」

「怖い」

「はい」

「でも、お前が隣にいるから、怖さが足元に落ちる」

「落ちた怖さは、踏めます」

「……踏んでくれ」

「一緒に踏みます」

 静の声は変わらない。しかし、その変わらなさが、蓮にとっては変化だった。最初に出会った夜、静の声はもっと遠かった。闇の中からこちらをきっぱりと断つ刃先の音がした。いまは違う。刃は鞘に収まり、手の中の骨が、骨として重みを持っている。人の骨の重さは変わらない。刃の長さが変わっても、骨は変わらない。

 幾日かの後、噂が小屋を渡った。「榎本らは赦されるらしい」「いや、長く拘留ののちだ」「大鳥は教授になるそうだ」——誰も確かなことを知らない。世の噂はいつでも、正しさより早さを好む。早い言葉は人を支えることもあれば、浅い傷をつけることもある。蓮は噂を半分だけ耳に入れ、半分を捨てた。捨てる作法を覚えるのも、生き延びる術だ。

 ある昼下がり、静が珍しく声を落として言った。

「矢野さん。……総司さんのこと、思い出してもいいでしょうか」

「ああ」

「江戸に入ってから、ずっと、どこかで笑っている顔が見える気がします」

「うん」

「彼は、名を残しました。でも、最後は名より呼吸を大事にしていた気がします」

「そうだな」

「だから、私たちも呼吸を大事にします」

「呼吸は、影の名だ」

「はい」

 二人はしばらく黙って呼吸を重ねた。数える必要はなかった。ただ、吸って、吐く。呼吸の音は、誰にも記録されない。だが、生の証であることに違いはない。

 やがて、役人が小屋に現れた。手には新しい紙の束。番号が読み上げられ、列が整えられる。移送か、釈放か、別の収容か——誰も知らない。紙の白さは淡い残酷を含む。白は何色にも染まる。どの色になるかは、紙の側では決められない。決めるのは、手の側だ。

 蓮の番号が呼ばれた。静の番号も続く。二人は立ち、列に入る。門の外には、昼の光が満ちている。江戸の音がする。駕籠の軋み、売声、遠い川の流れの音。世界は続いている。世界は名を刻み、名を消し、名のない影に風をあてる。

 歩きながら、蓮は静に言った。

「静。俺は、お前の影でよかったのか」

 静は即答しなかった。足音を二歩重ねてから、柔らかく言った。

「はい、矢野さん。……背を預けられた。それで、十分すぎます」

「お前は俺の背中に何を見てた」

「生きたい、という背中です」

「恥ずかしい背だな」

「いちばん強い背中です」

 胸の奥が熱くなる。涙はやはり出ない。それでも、身体の内側が濡れていく感覚があった。濡れた内側は、刃を弾く。刃は乾いたものを好むのだ。湿りは刃を鈍らせる。鈍れば、生き延びる確率が僅かに上がる。

 門を出ると、空に薄い雲がかかった。光は和らぎ、人の顔の皺がやわらかく見える。どこからともなく、笛の音が聴こえた。子どもが竹の笛を吹いているのだろう。調子は外れている。外れた音が風に溶け、白い空へ上っていく。音には名がいらない。名がいらないものだけが、まっすぐ上へ行ける。

 蓮は歩を緩め、静の肩に自分の肩を寄せた。寄せすぎず、離れすぎず。背を預け、同じ方向に倒れ、同じ方向に起きる距離。二人で長く習ってきた距離だ。これからも、その距離のまま歩いていけるかどうかは、誰にもわからない。わからないが、いまは歩ける。歩けるなら、歩く。

 どこかで犬が一声、短く吠えた。午後の陽の匂いが風に混じる。前を行く男の背に、江戸の埃が薄く積もっている。埃は名を選ばない。誰の背にも降り、同じ重さで乗る。名が残る者にも、名が消える者にも、平等だ。平等なものにだけ、世界はときどき優しい。

 蓮は心の中で短く告げた。——俺は影でいる。名は要らない。ただ、呼吸を刻む。静が隣で息をするかぎり、その拍に合わせて。

 静が、ほとんど聞こえない声で応えた。

「はい、矢野さん。……行きましょう」

 二人の足音が、江戸の路地へ溶けた。薄い影が二つ、午後の光に伸び、やがて人混みに紛れていく。誰も気づかない。誰も覚えない。だが、影は歩いた。背中を預け合い、呼吸を合わせ、名より確かなものを抱えたまま。世界は行き場のない名をいくつもこぼし、そのたびに風がそっと拾ってどこかへ運ぶ。その風の道筋に、二人の影は確かに刻まれていた。