朝の風は、鋼の味がした。五稜郭の堀に薄氷はもうないが、水はまだ冬の底冷えを抱え、砦の石垣を撫でては黙って戻る。夜のうちに雨がわずかに降ったのだろう、土は重く、靴底に吸い付いた。箱館山の上には幔幕が張られ、黒田清隆の陣に白布が垂れる。停戦の談判が動く、と誰もが噂で知っている。それでも、砦の内側は誰ひとり手を止めなかった。銃を拭く者、包帯を煮る者、破れた畳を裏返して寝床を作り直す者——やることは、尽きるまで尽きない。
榎本武揚は、奉行所の座敷で大鳥圭介・荒井郁之助・永井尚志らと短く言葉を交わし、また黙った。紙の上で動くのは、もはや線と数字だけだ。弾薬の残数、病者の人数、残る米の量、港の風向き、湾内の艦影。そこに人の名はない。——名を外した帳面は、やけによく読めた。誰の肩に何を背負わせるか、ただそれだけで話が運ぶからだ。
千代ヶ岱の陣から伝令が駆け込み、四稜方面の敵動が再び強まったと報せた。砲撃の間(ま)は昨夜より短い。敵が前進を畳みかけるときの間合いだ。榎本は小さくうなずき、視線だけで大鳥に渡す。大鳥は即座に線を引き直す。単純だが、やり直しの利かない作業だった。
静は堀際で立ち止まり、指先に泥をつけて色を見る。昨夜流した溝の水が、雨で広がり、誘い道の角が一つ、甘くなっていた。敵が足をかけるには十分だが、こちらの跳躍には浅い。静は石をひとつずらし、濡れ縄を一本、低く渡した。見えない高さで脛を叩く縄——焦りは、音より先に足に生まれる。
「矢野さん、少しだけ右です」
「ここか」
「はい。二寸——いえ、一寸半。敵の脚は長いので」
「静、お前の物差しは人の脚か」
「ええ。土方さんの歩幅で覚えました」
蓮は喉の奥がきゅっと縮まるのを感じ、応えの代わりに縄を締めた。袖の奥、土方の髪を包んだ小さな布の重みが、こちらの手の内を真っすぐにする。
昼、箱館山の幔幕へ榎本の使いが再び登った。返書は「城兵の生命保全、住民の保護、降伏後の暴挙一切なきこと」——譲れぬ条件だった。黒田は「官軍の威令を損なわぬ限りにおいて」と応じ、さらに「弁天台場既に陥ち、港の制海は我が手にある」と冷ややかに重ねた。情報戦でもはや覆らぬ現実を、礼法の衣に包んで差し出すやり口だ。
黄昏、五稜郭の中庭に兵が集められた。榎本が立ち、大鳥・荒井が左右に控える。榎本の声は低く、よく通った。
「——我らは、ここで刀を捨てる。だが恥は捨てぬ。恥は、のちの世に洗わせる。命は、ただちに失えば洗われぬ。武士の本懐、理(ことわり)にあり。——各隊、武器を整え、明朝、開城の列に付け」
誰も叫ばない。唇を噛む音、指の関節が鳴る音、乾いた咳——それらが風に乗って散った。蓮は列の端で拳を握り、内側で声にならぬ声を噛み殺した。終わる。——もう、終わるのだ。
夜が深くなる前に、静は最後の見回りに出た。弁天台場の方角は黒く沈み、千代ヶ岱と四稜の間の闇には、まだ昨夜の足音がわずかに残っている。足音にも温度がある。戦を知らぬ足音は、体温が高い。静はその温度を嗅ぎ分けながら、一つひとつに薄い蓋をしていく。もう誰も来ないのだ、と合理が言い、誰か来るかもしれない、と習いが言う。——習いに従って蓋を閉じる。
戻ると、蓮が火薬庫の錠前に指先を置いていた。名残の癖というやつだ。明日には鍵も、火も、すべて渡す。渡す前に、鍵の冷たさの形を覚えておく。形を覚えておくのは、名を残さない者のささやかな抵抗だ。
「静」
「はい、矢野さん」
「……終わるな」
「はい。終わります」
「悔しいか」
静は少しだけ考え、首を横に振った。
「悔しさは、戦の途中で燃やすものです。いまは、燃やすものがありません」
「泣けるか」
「——泣くのは、明日、刀を渡したあとに」
その堅い言葉に、蓮は笑い、そして笑いながら喉が詰まった。笑うことも泣くことも、いまは刃に触れる。刃は、最後まで鈍らせたくなかった。
明け方、薄い霧が城を包んだ。堀の水が一段と冷え、石垣に霜のような光が走る。鼓が三つ、城内を渡った。列の合図だ。諸隊は順に武器を束ね、銃は機関部を抜かれ、刀は白鞘に納められ、槍は穂先に布を巻かれた。抜群隊、衝鋒隊、伝習歩兵。名はあるが、いまは列に名札はいらない。列はただ、歩く。
榎本は正衣に身を包み、大鳥と並び出た。荒井は紙を抱え、永井は目を伏せ、武田斐三郎は遠い海を見ていた。彼らの肩は、不思議なほど軽そうに見えた。重さは、どこか別の場所——たとえば、この星形の石の上とか、堀の水の中とか——に置かれているのかもしれない。
門が開いた。土の匂いの向こうに、官軍の陣。旗は白地に錦、袖を通した兵の列は整い、銃身が朝の光を差して細く光る。列の前に黒田清隆。脇に永山弥一郎と中村半次郎(桐野)の姿が見える。誰も刀に手をかけない。礼法の範囲での勝者の振る舞い——だが、その礼の下には鉄がある。
武器の引渡しが始まった。銃は木箱へ、刀は畳まれた筵の上へ積まれていく。刃は布越しでもおのずと匂いを放つ。脂と血の古い香り。蓮は自分の刀を白鞘ごと抱き、筵へ置いた。重さが離れる。腰が軽くなる。軽くなるのに、身体は沈む。沈んだところの下に、一本の線が冷たく伸びている。——それは土方の声だ。
まだ守れ。
蓮は目を閉じ、袖の中の小さな包みを、そっと押さえた。そこに、重さが戻る。
その時、小さなざわめきが列の後方で起きた。誰かがこらえきれず、柄に手を伸ばしかけたのだ。官軍側の兵がわずかに身構える。空気が刺のようにささくれ、風が止む。蓮は反射で振り返り、肩でその若い手を押さえた。目が合う。十七、八の少年——先日、名を問われて「いえ、名は」と言った少年だ。瞳が、燃えている。
「——やめろ。ここで死ねば、何も洗われない」
囁くと、少年は一瞬だけ迷い、次にわっと涙を流し、手を離した。肩が落ちる。官軍の兵が緊張を解いた。通り過ぎざま、その兵はほんのわずか、帽子の鍔を少年に向けて揺らしたように見えた。勝者にも、人の骨はある。だが骨は、こちらに向けては出さない。
武器の山が積み上がるにつれ、砦の中の音が減っていった。銃が語る音、刀が語る音、槍が語る音。——戦を形作っていたさまざまな声が、一つずつ口を閉じる。代わりに聞こえてくるのは、咳と、布の擦れる音と、靴が砂を踏む音だけだった。
降伏文書の調印は、公儀の作法に則って行われた。榎本は静かに筆を執り、黒田は冷静に紙を受けた。署名の筆致はどちらも乱れていない。乱れていないのが、余計に胸に刺さる。人が理を選んだときの字は、乱れない。乱れて書けば、理が壊れるからだ。
引渡しが終わり、城内に戻る列の途中、箱館の町の女たちが道の脇で深々と頭を下げた。瞼の上に煤が線をつけ、手には包帯と白湯の桶。ひとりの女が蓮の前に出て、小さな包みを差し出した。布の匂いが懐かしい。江戸の町の匂いにも似ている。
「これを。……あなたが誰か、わからないけれど」
蓮は受け取り、布の感触を掌に刻んだ。名がない贈り物は、名のある贈り物より重い時がある。名をどこにも引っかけられないからだ。受け取った者の胸に、重さだけが沈む。
城内に戻ると、静が堀の縁に座っていた。足を投げ出し、指先で水面を軽く叩く。波紋が広がり、石垣の影を揺らす。静は、その影をじっと見ていた。
「矢野さん」
「……ああ」
「いま、やっと——泣けます」
静の声は低く、柔らかかった。頬を伝うものはなかったが、目の奥で水が静かに満ち、ゆっくりと溢れていくのが見えた。静は両手で膝を抱え、額を載せた。蓮は横にしゃがみ、何も言わず、ただ隣にいた。泣くという行為は、見られて初めて形になる。影の者にとって、泣くことを見せる相手は、世界に二人しかいない——静がかつて言った言葉が、蓮の胸に再び灯った。
午後、城内の片付けが始まった。銃架は外され、火薬庫は封印され、砲は布で包まれた。負傷者は小屋に集められ、順に官軍の医師へ引き渡される。長崎帰りの蘭方医が白い瓶を並べ、英語混じりの命令を飛ばす。看護に当たってきた女たちの手は震えていない。震える暇も、感情を納める余裕も、どこかへ置いてきたのだ。
夕方、榎本が短く告げた。「士卒は、当分、城内に待機。夜明けに収容の列」——戦は終わったが、すぐに日常が来るわけでもない。日常は、いつだって戦より遅れて到着する。遅れて来るものは、往々にして冷たい。
日が落ちると、五稜郭の星形に沿って、細い灯が等間隔に灯った。誰が火を入れたのか、見ていない。だが、その灯は、城がまだ「人の居る場所」であることを最後に示す印のように見えた。堀の水がその灯を拾い、揺らしては消す。星の角が、夜の底でゆっくりと呼吸している。
蓮は、静と並んで立った。城の中心——奉行所の屋根の上、空が一段と高い。風の音が耳の中でまるくなり、そのまま胸へ沈む。静がぽつり、と言った。
「ここで終わるのに、風はどこへでも行きますね」
「行くさ。風は名がいらない」
「名がいらないのは、強いです」
「……お前も、そうだろ」
「私は、矢野さんに名前を呼ばれます。——だから、強くはないです」
蓮は笑った。笑いながら、また喉が熱くなる。名を呼び、呼ばれる。その行為が、影である彼らの最後の支えだった。記録には残らないが、互いの身体の奥に残る音。音は、紙より長持ちする。
夜半、城門の外でわずかな物音がした。敵ではない。狐でもない。子どもが木の枝を引きずるような、軽い音。静が耳を傾け、わずかに首を振る。「鼠です」——そう言って、微笑んだ。笑顔というほどのものではない。唇の端が、雪解け水に濡れた石のように、ほんの少しだけ丸くなった。
明け方。収容の列が整い、官軍の兵が城内に入ってきた。銃床は低く、刃は包まれている。無用の刺激を避ける礼法だ。だが靴音はよく響いた。石と土を踏む音——勝者の歩幅は、敗者の耳に長く残る。
蓮は列の先頭に立ち、静はすぐ横に続いた。榎本の組、海軍の者たち、歩兵・砲兵が順々に連なり、内堀の橋を渡る。橋の上で、蓮は一度だけ足を止めた。水面に、歪んだ空が映っている。空は青く、雲は薄い。その青と白の上に、自分たちの影が二つ、寄り添って揺れた。
「静」
「はい、矢野さん」
「行こう」
「はい。——行きます」
二人は、影を踏まずに橋を渡った。影を踏めば、何かが壊れそうで怖かった。壊れるものはもう十分、たくさん壊した。これ以上、壊したくなかった。
門の外で、黒田が短くうなずいた。大鳥が返礼し、榎本が目礼をした。紙に書かれるのは、この礼のことだろう。書かれないのは、誰の呼吸がその瞬間に止まり、誰の呼吸が一拍延びたかということだ。——延びた一拍のいくつかは、確かに蓮と静の手で伸ばされた。名がなくとも、それは動かしがたい事実だった。
城を出ると、箱館の街路の向こうに、海が広がっていた。灰色の海。風が押し寄せ、また返す。開陽丸の折れた桅が、遠くの波間に短く見えた気がした。二人は振り返らなかった。振り返る背中は、前を向く脚を弱くする。
収容の列が山背のほうへ曲がるとき、蓮は袖の中の包みにそっと触れた。土方の髪は、温度を持たない。それでも、重さが確かにそこにある。重さは、時間を沈め、時間は、名の代わりになる。名が捨てられた場所で、時間だけが残る——それが、影の生きた証だ。
静が、低く囁いた。
「矢野さん。——副長の言葉、まだ聞こえます」
「ああ。まだ守れ、だ」
「はい。——何を守るかは、これから決めます」
「決めるのは俺たちだ。記録には残らないけどな」
「残らないから、自由です」
二人は短く笑い、そして黙った。足音だけが、冷たい道を叩く。誰にも呼ばれない名を胸にしまい、誰にも書かれない物語を、互いの呼吸だけを頼りに紡ぎ続けるために。五月の風が、雪の名残の白を、そっと撫でていった。血の色は、もう薄い。けれど、その薄さの下に、確かに色が残っている。薄さこそが、残酷の証であり、生の証でもあるのだと、蓮はやっと理解した。
五稜郭の星の角は、もう遠い。だが胸の奥のどこかで、その角はゆっくりと光り続けている。名も碑もないところでしか見えない光——影にだけ見える光。二人はその光を背に受け、まだ見えない先へ足を運んだ。史の紙が閉じる音が、背後で静かにした。閉じた紙の余白に、風がすべり込み、どこかへ去っていく。風のゆく先に、名は要らない。だから、名を捨てた者だけが、風の行方を追えるのだ。
榎本武揚は、奉行所の座敷で大鳥圭介・荒井郁之助・永井尚志らと短く言葉を交わし、また黙った。紙の上で動くのは、もはや線と数字だけだ。弾薬の残数、病者の人数、残る米の量、港の風向き、湾内の艦影。そこに人の名はない。——名を外した帳面は、やけによく読めた。誰の肩に何を背負わせるか、ただそれだけで話が運ぶからだ。
千代ヶ岱の陣から伝令が駆け込み、四稜方面の敵動が再び強まったと報せた。砲撃の間(ま)は昨夜より短い。敵が前進を畳みかけるときの間合いだ。榎本は小さくうなずき、視線だけで大鳥に渡す。大鳥は即座に線を引き直す。単純だが、やり直しの利かない作業だった。
静は堀際で立ち止まり、指先に泥をつけて色を見る。昨夜流した溝の水が、雨で広がり、誘い道の角が一つ、甘くなっていた。敵が足をかけるには十分だが、こちらの跳躍には浅い。静は石をひとつずらし、濡れ縄を一本、低く渡した。見えない高さで脛を叩く縄——焦りは、音より先に足に生まれる。
「矢野さん、少しだけ右です」
「ここか」
「はい。二寸——いえ、一寸半。敵の脚は長いので」
「静、お前の物差しは人の脚か」
「ええ。土方さんの歩幅で覚えました」
蓮は喉の奥がきゅっと縮まるのを感じ、応えの代わりに縄を締めた。袖の奥、土方の髪を包んだ小さな布の重みが、こちらの手の内を真っすぐにする。
昼、箱館山の幔幕へ榎本の使いが再び登った。返書は「城兵の生命保全、住民の保護、降伏後の暴挙一切なきこと」——譲れぬ条件だった。黒田は「官軍の威令を損なわぬ限りにおいて」と応じ、さらに「弁天台場既に陥ち、港の制海は我が手にある」と冷ややかに重ねた。情報戦でもはや覆らぬ現実を、礼法の衣に包んで差し出すやり口だ。
黄昏、五稜郭の中庭に兵が集められた。榎本が立ち、大鳥・荒井が左右に控える。榎本の声は低く、よく通った。
「——我らは、ここで刀を捨てる。だが恥は捨てぬ。恥は、のちの世に洗わせる。命は、ただちに失えば洗われぬ。武士の本懐、理(ことわり)にあり。——各隊、武器を整え、明朝、開城の列に付け」
誰も叫ばない。唇を噛む音、指の関節が鳴る音、乾いた咳——それらが風に乗って散った。蓮は列の端で拳を握り、内側で声にならぬ声を噛み殺した。終わる。——もう、終わるのだ。
夜が深くなる前に、静は最後の見回りに出た。弁天台場の方角は黒く沈み、千代ヶ岱と四稜の間の闇には、まだ昨夜の足音がわずかに残っている。足音にも温度がある。戦を知らぬ足音は、体温が高い。静はその温度を嗅ぎ分けながら、一つひとつに薄い蓋をしていく。もう誰も来ないのだ、と合理が言い、誰か来るかもしれない、と習いが言う。——習いに従って蓋を閉じる。
戻ると、蓮が火薬庫の錠前に指先を置いていた。名残の癖というやつだ。明日には鍵も、火も、すべて渡す。渡す前に、鍵の冷たさの形を覚えておく。形を覚えておくのは、名を残さない者のささやかな抵抗だ。
「静」
「はい、矢野さん」
「……終わるな」
「はい。終わります」
「悔しいか」
静は少しだけ考え、首を横に振った。
「悔しさは、戦の途中で燃やすものです。いまは、燃やすものがありません」
「泣けるか」
「——泣くのは、明日、刀を渡したあとに」
その堅い言葉に、蓮は笑い、そして笑いながら喉が詰まった。笑うことも泣くことも、いまは刃に触れる。刃は、最後まで鈍らせたくなかった。
明け方、薄い霧が城を包んだ。堀の水が一段と冷え、石垣に霜のような光が走る。鼓が三つ、城内を渡った。列の合図だ。諸隊は順に武器を束ね、銃は機関部を抜かれ、刀は白鞘に納められ、槍は穂先に布を巻かれた。抜群隊、衝鋒隊、伝習歩兵。名はあるが、いまは列に名札はいらない。列はただ、歩く。
榎本は正衣に身を包み、大鳥と並び出た。荒井は紙を抱え、永井は目を伏せ、武田斐三郎は遠い海を見ていた。彼らの肩は、不思議なほど軽そうに見えた。重さは、どこか別の場所——たとえば、この星形の石の上とか、堀の水の中とか——に置かれているのかもしれない。
門が開いた。土の匂いの向こうに、官軍の陣。旗は白地に錦、袖を通した兵の列は整い、銃身が朝の光を差して細く光る。列の前に黒田清隆。脇に永山弥一郎と中村半次郎(桐野)の姿が見える。誰も刀に手をかけない。礼法の範囲での勝者の振る舞い——だが、その礼の下には鉄がある。
武器の引渡しが始まった。銃は木箱へ、刀は畳まれた筵の上へ積まれていく。刃は布越しでもおのずと匂いを放つ。脂と血の古い香り。蓮は自分の刀を白鞘ごと抱き、筵へ置いた。重さが離れる。腰が軽くなる。軽くなるのに、身体は沈む。沈んだところの下に、一本の線が冷たく伸びている。——それは土方の声だ。
まだ守れ。
蓮は目を閉じ、袖の中の小さな包みを、そっと押さえた。そこに、重さが戻る。
その時、小さなざわめきが列の後方で起きた。誰かがこらえきれず、柄に手を伸ばしかけたのだ。官軍側の兵がわずかに身構える。空気が刺のようにささくれ、風が止む。蓮は反射で振り返り、肩でその若い手を押さえた。目が合う。十七、八の少年——先日、名を問われて「いえ、名は」と言った少年だ。瞳が、燃えている。
「——やめろ。ここで死ねば、何も洗われない」
囁くと、少年は一瞬だけ迷い、次にわっと涙を流し、手を離した。肩が落ちる。官軍の兵が緊張を解いた。通り過ぎざま、その兵はほんのわずか、帽子の鍔を少年に向けて揺らしたように見えた。勝者にも、人の骨はある。だが骨は、こちらに向けては出さない。
武器の山が積み上がるにつれ、砦の中の音が減っていった。銃が語る音、刀が語る音、槍が語る音。——戦を形作っていたさまざまな声が、一つずつ口を閉じる。代わりに聞こえてくるのは、咳と、布の擦れる音と、靴が砂を踏む音だけだった。
降伏文書の調印は、公儀の作法に則って行われた。榎本は静かに筆を執り、黒田は冷静に紙を受けた。署名の筆致はどちらも乱れていない。乱れていないのが、余計に胸に刺さる。人が理を選んだときの字は、乱れない。乱れて書けば、理が壊れるからだ。
引渡しが終わり、城内に戻る列の途中、箱館の町の女たちが道の脇で深々と頭を下げた。瞼の上に煤が線をつけ、手には包帯と白湯の桶。ひとりの女が蓮の前に出て、小さな包みを差し出した。布の匂いが懐かしい。江戸の町の匂いにも似ている。
「これを。……あなたが誰か、わからないけれど」
蓮は受け取り、布の感触を掌に刻んだ。名がない贈り物は、名のある贈り物より重い時がある。名をどこにも引っかけられないからだ。受け取った者の胸に、重さだけが沈む。
城内に戻ると、静が堀の縁に座っていた。足を投げ出し、指先で水面を軽く叩く。波紋が広がり、石垣の影を揺らす。静は、その影をじっと見ていた。
「矢野さん」
「……ああ」
「いま、やっと——泣けます」
静の声は低く、柔らかかった。頬を伝うものはなかったが、目の奥で水が静かに満ち、ゆっくりと溢れていくのが見えた。静は両手で膝を抱え、額を載せた。蓮は横にしゃがみ、何も言わず、ただ隣にいた。泣くという行為は、見られて初めて形になる。影の者にとって、泣くことを見せる相手は、世界に二人しかいない——静がかつて言った言葉が、蓮の胸に再び灯った。
午後、城内の片付けが始まった。銃架は外され、火薬庫は封印され、砲は布で包まれた。負傷者は小屋に集められ、順に官軍の医師へ引き渡される。長崎帰りの蘭方医が白い瓶を並べ、英語混じりの命令を飛ばす。看護に当たってきた女たちの手は震えていない。震える暇も、感情を納める余裕も、どこかへ置いてきたのだ。
夕方、榎本が短く告げた。「士卒は、当分、城内に待機。夜明けに収容の列」——戦は終わったが、すぐに日常が来るわけでもない。日常は、いつだって戦より遅れて到着する。遅れて来るものは、往々にして冷たい。
日が落ちると、五稜郭の星形に沿って、細い灯が等間隔に灯った。誰が火を入れたのか、見ていない。だが、その灯は、城がまだ「人の居る場所」であることを最後に示す印のように見えた。堀の水がその灯を拾い、揺らしては消す。星の角が、夜の底でゆっくりと呼吸している。
蓮は、静と並んで立った。城の中心——奉行所の屋根の上、空が一段と高い。風の音が耳の中でまるくなり、そのまま胸へ沈む。静がぽつり、と言った。
「ここで終わるのに、風はどこへでも行きますね」
「行くさ。風は名がいらない」
「名がいらないのは、強いです」
「……お前も、そうだろ」
「私は、矢野さんに名前を呼ばれます。——だから、強くはないです」
蓮は笑った。笑いながら、また喉が熱くなる。名を呼び、呼ばれる。その行為が、影である彼らの最後の支えだった。記録には残らないが、互いの身体の奥に残る音。音は、紙より長持ちする。
夜半、城門の外でわずかな物音がした。敵ではない。狐でもない。子どもが木の枝を引きずるような、軽い音。静が耳を傾け、わずかに首を振る。「鼠です」——そう言って、微笑んだ。笑顔というほどのものではない。唇の端が、雪解け水に濡れた石のように、ほんの少しだけ丸くなった。
明け方。収容の列が整い、官軍の兵が城内に入ってきた。銃床は低く、刃は包まれている。無用の刺激を避ける礼法だ。だが靴音はよく響いた。石と土を踏む音——勝者の歩幅は、敗者の耳に長く残る。
蓮は列の先頭に立ち、静はすぐ横に続いた。榎本の組、海軍の者たち、歩兵・砲兵が順々に連なり、内堀の橋を渡る。橋の上で、蓮は一度だけ足を止めた。水面に、歪んだ空が映っている。空は青く、雲は薄い。その青と白の上に、自分たちの影が二つ、寄り添って揺れた。
「静」
「はい、矢野さん」
「行こう」
「はい。——行きます」
二人は、影を踏まずに橋を渡った。影を踏めば、何かが壊れそうで怖かった。壊れるものはもう十分、たくさん壊した。これ以上、壊したくなかった。
門の外で、黒田が短くうなずいた。大鳥が返礼し、榎本が目礼をした。紙に書かれるのは、この礼のことだろう。書かれないのは、誰の呼吸がその瞬間に止まり、誰の呼吸が一拍延びたかということだ。——延びた一拍のいくつかは、確かに蓮と静の手で伸ばされた。名がなくとも、それは動かしがたい事実だった。
城を出ると、箱館の街路の向こうに、海が広がっていた。灰色の海。風が押し寄せ、また返す。開陽丸の折れた桅が、遠くの波間に短く見えた気がした。二人は振り返らなかった。振り返る背中は、前を向く脚を弱くする。
収容の列が山背のほうへ曲がるとき、蓮は袖の中の包みにそっと触れた。土方の髪は、温度を持たない。それでも、重さが確かにそこにある。重さは、時間を沈め、時間は、名の代わりになる。名が捨てられた場所で、時間だけが残る——それが、影の生きた証だ。
静が、低く囁いた。
「矢野さん。——副長の言葉、まだ聞こえます」
「ああ。まだ守れ、だ」
「はい。——何を守るかは、これから決めます」
「決めるのは俺たちだ。記録には残らないけどな」
「残らないから、自由です」
二人は短く笑い、そして黙った。足音だけが、冷たい道を叩く。誰にも呼ばれない名を胸にしまい、誰にも書かれない物語を、互いの呼吸だけを頼りに紡ぎ続けるために。五月の風が、雪の名残の白を、そっと撫でていった。血の色は、もう薄い。けれど、その薄さの下に、確かに色が残っている。薄さこそが、残酷の証であり、生の証でもあるのだと、蓮はやっと理解した。
五稜郭の星の角は、もう遠い。だが胸の奥のどこかで、その角はゆっくりと光り続けている。名も碑もないところでしか見えない光——影にだけ見える光。二人はその光を背に受け、まだ見えない先へ足を運んだ。史の紙が閉じる音が、背後で静かにした。閉じた紙の余白に、風がすべり込み、どこかへ去っていく。風のゆく先に、名は要らない。だから、名を捨てた者だけが、風の行方を追えるのだ。



