名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 夕刻の光は浅く、一本木の上をかすめて五稜郭の稜角へ淡く流れた。土方の亡骸は、蓮と静、それに数名の兵の肩でゆっくりと運ばれた。担架はない。外した門扉の横木に軍衣を結わえ、そこへそっと寝かせた。革の匂いと鉄の匂いが混ざり、風が変わるたび、胸の奥へ鋭く落ちてくる。

 城内の空気が、目に見えぬ速さで変わっていった。榎本武揚は口数を減らし、書付のやり取りに視線だけで合図を添えた。大鳥圭介は軍監として動線を組み替え、千代ヶ岱と五稜の間に机上の矢印をいくつも生やす。だが机上の矢印は、地面では泥に沈む。弁天台場からの伝令は絶え、港の息は完全に途切れた。砲弾はまだ残る。だが砲身は熱に疲れ、砲手の肩は力を残していない。

 碇泊していた回天丸と蟠竜丸は湾内で身じろぎをやめ、甲板の人影が薄い。甲鉄艦を奪う夢は、宮古で砕けたままだ。霧の朝に見たアボット型の黒い背中——近代の海の獣は、こちらの夢より頑丈で、こちらの血より冷たかった。

 五稜郭の一角、奉行所の広間で、短い儀式が行われた。土方の遺骸は白布で覆われ、その上にただ一本、刀が置かれた。銘は要らない。刻まれた名は、もう誰の刀でもない。静はその刀の鍔に指を当て、ほんの一拍だけ目を閉じる。瞼の内側に、京の黒い雨が落ちた。禁門の煙、池田屋の灯、流山の空白、そして——いま、一本木の土。

 榎本は低い声で言った。

「副長の名は、海の上にも陸の上にも残る。——だが、いまは名よりも時間だ。退く者には退く道を、残る者には残る道を」

 蓮は唇を噛んだ。名よりも時間。静がいつも口にする「延ばす」という言葉と、同じ骨から生まれている。生き延びる時間、持ち場を持たせる時間、降伏を選ぶ者が辿り着く時間。名は石に刻める。時間は刻めない。けれど人は誰も、最後に時間を欲しがる。

 土方を送った後、静はひとりで稜堡の外へ出た。雪の粒のように砕けた灰が、草の上に薄く積もる。白でも黒でもない、不器用な色。空は高い。風は冷たい。静は野辺へ降り、束の間、膝をついた。冷えが膝裏を刺し、背筋がわずかに震える。その震えが、何かに似ていた。総司の咳の余韻に。総司の笑い声の寸前の、肺の浅い揺れに。

 静は掌で顔を覆った。指の隙間から、白い息が漏れる。音もなく肩が上下する。涙は出ない。泣く術を、どこかに置いてきてしまったのかもしれない。ただ、胸の奥の空洞が、風に鳴っている。うつむいた視界の端で、足元の草が二本、同じ方向へ倒れ、また立ち上がった。——背を預けるというのは、あの二本の草のことだ、と静は思った。どちらかが先に折れれば、残った方も倒れる。どちらも折れなければ、風に戻る。

 夜、五稜郭の灯が落とされた。敵の砲兵は夜目でも稜角を見分ける。光は餌だ。外郭の火は消え、内側だけに小さな行灯がいくつも点る。傷病者の呻きが行灯の影を長くし、看護に当たる女たちの影が畳の上を行き来する。箱館の遊女が幾人も髪を結い直し、白い手で血を洗い、糸で肌を縫う。史に名は残らぬだろうが、その手は確かに命を延ばした。

 蓮は炊事場の隅で、碗に白湯を受けた。湯気の向こうに、兵の顔がいくつも揺れる。皆の眼差しは薄く、しかし破れてはいない。破れる前に、向きを決めている目だ。蓮は碗を両の掌で包み、喉を湿らせた。熱が胃へ落ち、内側から指先へ広がる。指がまた、刀の柄の太さを思い出す。

 翌日、千代ヶ岱の外で小競り合いが起きた。新政府軍は徐々に弧を狭め、五稜郭と四稜郭を包む線を太くしてくる。四稜は歩兵の隠れ場に良い。だが、隠れ場は長く持たない。隠れる者の息は早くなる。息が早いと、見つかる。見つかれば、砲が来る。砲が来れば、土が崩れる。崩れれば、骨が見える。

 静は四稜へ赴き、稜線の切れ目に「音の段差」を置いた。板切れを三枚、地面へ浅く埋め、上から薄く砂を撒く。足で踏めば音が鳴る。夜風に紛れない高さで鳴る。鳴ったとき、こちらの刃が届く距離に人がいる——それだけのために置く。蓮はその横で、見張りの交代刻を半刻ずつ短くした。疲れた眼は、夜目が利かない。半刻短ければ、二回に一回、敵を見る目になる。

 その夜半、音が鳴った。板の下で、誰かの足が、戦を知らぬ音を立てた。静は息を吸う代わりに刃を出した。喉の皮一枚を薄く断ち、声を奪う。同時に蓮が腕を絡め、刃物の方向だけを奪う。倒れた身体は、砂の上で跳ねず、音を足さない。しばらくして、遠くの砲が二つ、位置を変えた音を出した。敵が夜襲の足を一本失ったとき、砲は一歩、後ろへ下がる。下がれば延びる。一刻でも、半刻でも。

 箱館山の上で、信号旗が揺れた。黒田清隆の名が城内に囁かれる。降伏勧告の使者が、また来るという。榎本は返書を改める。条件は——兵の命、開陽丸ほか艦船の去就、箱館の住民の保護。紙の上の言葉は、すべて「時間」と同じ顔で書かれている。読める者には重く、読めぬ者には軽い。

 関門から戻ってきた夕刻、蓮は奉行所の廊下で、ひとりの少年とすれ違った。十七、八だろう。頬は青く、瞳は真っ直ぐだ。少年は蓮の刀に目を落とし、ぎこちなく頭を下げた。

「江戸から来ました。父は足軽で……私は、幕府に……」

 言葉は続かない。続けなくていい、と蓮は思う。続けられる戦はもうない。続けるべきは、呼吸だけだ。

「——名前は」

「……いえ、名は」

「そうか」

 蓮は苦笑を浮かべ、少年の肩に手を置いた。

「ここには、名のない者が多い。名がない者ほど、強いこともある」

 少年は目を丸くし、それから小さく頷いた。名を持たぬことが、侮辱ではなく、武器にもなると知った者の頷きだった。

 翌々日、一本木の線は後退した。四稜郭の一角に敵が食い込む。千代ヶ岱の砲声は細く、途切れ途切れになる。弾が切れたのではない。撃てば位置が割れる。撃たぬ方が延びる——その計算だ。だが、いつまでも撃たずにはいられない。沈黙は敵にも伝わる。敵が舌なめずりを始める前に、こちらが唇を噛む。

 榎本は、諸隊を集めた。大鳥は淡々と、各持場の弾薬と人数を読み上げる。武田斐三郎の地図が机に広げられ、星形の稜線に沿って墨が淡く伸びる。淡い墨は、乾けば薄くなる。薄くなる前に読め。

 議の終わり、榎本は蓮と静を呼んだ。

「お前たちは、城を出たり入ったりしているそうだな」

「伝令と裏の道を、少々」

「——よくやってくれている。名は書かれぬが、手は覚える」

 榎本は短く笑い、紙片を二つ、差し出した。裏に細い筆で書かれている。折衝の連絡刻と、信号旗の新しい約束。蓮はそれを袖に入れ、静は指の腹で素早く記憶の棚へしまった。

 それからだ。静が、ふと、蓮に言った。

「矢野さん。——私、少し泣きました」

 蓮は驚いて静を見た。静は視線を落としたまま、結び目をほどくような口調で続けた。

「副長の額に手を置いたとき、指が震えました。震えが喉へ上がって、目が熱くなりました。涙は出ませんでしたが——泣いたのだと思います」

「……そうか」

「総司さんのときは、泣けませんでした。江戸の空は、私には遠すぎた。——いまは、近いです」

 蓮は頷き、静の肩に軽く触れた。静が人であることを、久しぶりに確かめた。影は人をやめることで強くなる。だが人であることでしか背を預けられない夜もある。

 夜明け前、箱館の町家の屋根が白む。遠くで鶏が鳴く。戦の音はまだ来ない。静は堀の縁に立ち、薄い氷の端を靴の先で割った。氷は簡単に砕け、すぐにまた張る。張っては砕け、砕けては張る。延ばす、という言葉に似ている。

 その日の昼、黒田清隆の使者が城外の仮陣に幔幕を張った。白地に黒い紋。官軍の礼法で、降伏を促す席を作る。五稜郭からは荒井郁之助が出た。理と理のぶつかり合いは、砲の音より静かだ。静かだから、胸に残る。

 「士卒の生命を保全し、開城後の暴虐なきこと」

 「弁天台場は既に落ち、港は押さえた。もはや戦意の存続は民へ災いを招くばかり」

 「降れば恥、敗れて降れば辱」

 「辱は、後世の史に洗われる。死は洗われぬ」

 荒井の声は落ち着いていたが、袖の内側で指がわずかに動いていたという。蓮はのちに伝令の口からそれを聞き、荒井もまた延ばそうとしているのだと知る。恥を延ばし、辱を延ばし、生を延ばす。延ばすことの総量が、やがて人の形を作る。

 日が傾くと、小雨が来た。雨は音を隠す。敵は近づく。静はまた、誘い道の石の位置を一つだけずらした。ずれた石は、追ってくる靴の踵を浅くひっかく。浅さが焦りを産み、焦りが音を産み、音が刃を呼ぶ。

 城内の片隅で、蓮は筆を取った。紙は粗末で、墨は薄い。書く相手は決めていない。決めないまま、言葉がこぼれた。

 ——副長。総司さん。俺はまだ、ここにいます。名はやはり残りません。けれど、背中の重みは、たしかに残りました。重さは時に脚を止めますが、止まった脚は次に強く地を掴みます。延ばすということは、たぶん、そういうことです。

 書き終えて、墨を乾かす暇もなく、蓮は紙を折った。折り目が弱く、角がすぐに膨らむ。生きている紙だ。生きているものは、折り目にもどる。死んだ紙は、折り目のまま冷たい。

 午後、四稜郭が抜かれた。城外から短い笛の音が三つ、そして銃声が不規則に混ざる。静は息を整え、蓮は肩を回した。誰も、驚かない。驚く余裕の分だけ、延ばす方へ回す。

 負傷者がまた運び込まれた。看護の女のひとりが、蓮に小さく頭を下げた。目の下に隈があり、手は荒れている。だが目は濁っていない。濁る暇がない。彼女の背で、別の女が赤子を抱いていた。赤子の泣き声が短く、途切れがちだ。乳が出ないのだろう。戦は、乳の出も奪う。蓮は胸がきしんだ。刀で斬ることしかできない自分が、ここではいちばん無力だ。

 静が蓮の袖を引いた。稜堡の上で、信号旗が走る。「今宵、出火の虞」。敵が夜陰に紛れて火を放つ可能性。火は城を内部から破る。静は短く頷き、蓮に合図した。

「矢野さん、裏の水路へ。——溝の水を増やします」

「雨だけじゃ足りない」

「井戸の水を細く流します。音も匂いも隠れます」

 二人は走った。城内の井戸の桶を傾け、溝の石を片手で起こし、細い水の道をつなげる。火は水が嫌いだ。嫌う癖を思い出させてやればいい。水路に月の光が細く揺れ、鼠が一匹、濡れた毛を振るった。

 夜半、敵の動きは小さかった。小さい動きは、こちらの動きが正しかった証であるかもしれないし、次の大きな動きの前の静けさであるかもしれない。どちらでも、延ばした事実だけが残る。

 眠りは断ち切られた糸のように短い。糸と糸の間に、夢が混ざる。京の夜。白い袖。黒い血。江戸の瓦。浅草寺の鐘。会津の山。雪。蝦夷の潮。一本木の土。——すべての夢が、同じ匂いでつながる。その匂いの名は、戦と呼ばれているが、蓮には「別れ」に近かった。

 翌朝、黒田の幔幕へ、榎本の返書が運ばれた。「城中に病者多く、医薬乏し。住民への累を避けんがため、停戦一時を求む」。紙の上では柔らかな言葉だが、実のところ、余白は狭い。榎本も分かっている。黒田も分かっている。余白の狭さの中で、人がどれだけ歩けるかの勝負だ。

 蓮は静とともに、堀の外周へ出た。風が変わっていた。海の匂いが少し甘く、草の匂いが少し濃い。天気が崩れる前の匂いだ。天気が崩れれば、火は動きにくい。砲も鉛が湿る。だが、敵の足は乾いている。乾いた足は速い。

「静」

「はい」

「俺たち、——どこまで延ばせる」

「一日。——うまくいけば、二日」

「十分だ」

 十分かどうかは、史の紙が決めることだ。だが、いまは十分と言い切るしかない。言い切る言葉が、脚に入る。

 その日の午後、五稜郭の中庭で、切り株に腰を下ろしていた男がひとり、空を見上げていた。髭に白が混じり、腕には古い刀傷。彼は誰かに名を呼ばれた——が、その名は蓮の耳に届く前に、鼓の音に消えた。名は、いつだって何かに消される。消されるからこそ、名は残らない。残らないのに、人は名を欲しがる。不思議な生き物だ。

 夕方、静が蓮に小さな包みを渡した。布に包んだだけの薄い重さ。

「矢野さんに、預けます」

「なんだ」

「——副長の髷の一部です」

 蓮は息を呑んだ。包みの中から、黒に少しだけ白の混じった髪がのぞいた。戦場で髪を切る余裕はなかったはずだ。誰が、いつ。静は短く言った。

「運び出すとき、袖に絡みました。偶然、です」

「偶然を、拾ってくれたのか」

「はい。——名は残りませんが、髪は残ります」

 蓮は包みを胸に抱えた。温度はない。だが重さがある。重さは、いまの自分を真っ直ぐにさせる。包みを袖へしまい、蓮は短く息を吐いた。

「ありがとう、静」

「どういたしまして、矢野さん」

 夜、星の数が増えた。風は冷たく、痛い。箱館山の上の灯が一つ、また一つと消え、海の上で甲鉄の影が動いた。五稜郭の内側で、兵たちは薄い布団に肩を寄せ、短い眠りを交代で分け合う。看護の女が、行灯の油を惜しむように注ぎ足す。蓮は刀を枕元に置き、目を閉じた。瞼の裏に、土方の声が再び浮かぶ——まだ守れ。声は短く、強く、そして遠くなっていく。遠くなる声を、蓮は胸の内で引き留めた。引き留める指が震えた。震えを、静の呼吸が隣で整えてくれる。呼吸の拍に合わせて、蓮は眠りと覚めの間を往復した。

 明け方、突然の静寂が来た。砲声も銃声もない。鳥の声だけが、やけに大きく響く。静は起き上がり、耳を澄ませた。静寂は、嵐の前に似ている。だが、嵐の後にも似ている。どちらかを決めるのは、人の足だ。足が前へ出れば前。止まれば後。

 五稜郭の門に、人の列ができた。負傷者を背負う者、子を抱える女、老いた父を支える少年。城の外の幔幕へ向かう。停戦の一条で、住民の退避が許されたのだ。門の外で新政府の兵が道を開ける。銃は下げている。刃は見せていない。だが、目は鋭い。目だけで、勝者と敗者の位置を確認する。

 蓮は列の脇に立ち、ひとりずつに水と乾いた餅を渡した。誰も、名を名乗らない。名は要らない。要るのは道だけだ。道の先で生きられる時間だけだ。餅を受け取った女が、蓮に深く頭を下げた。顔に煤がつき、目だけが清い。女は言った。

「ありがとう。——誰か、わからないけれど」

 蓮は微笑んだ。誰か、わからない。——それでいい。わからないから、残る。わかった名は、すぐに紙に貼り付けられ、紙が破れると名も破れる。

 列が去り、門が閉まる。静が蓮の横に立った。二人は門扉の木目を眺めた。節が一つ、目のように見えた。その目は、泣いているように見えた。泣いているのは自分かもしれない。門かもしれない。城かもしれない。蝦夷かもしれない。——どれでも、いまはいい。

「矢野さん」

「なんだ、静」

「——あと少しです」

「ああ。あと少し、延ばそう」

 蓮は袖の中の包みを軽く押さえ、静は白い袖口を固く結び直した。風がまた変わった。潮の匂いは薄くなり、土の匂いが濃くなる。空は低く、雲は重く、だが遠くの水平線の上だけが淡く開いている。光の裂け目だ。そこへ、誰の名も書かれていない細い道が伸びている気がした。

 二人は、同じ方角へ目をやった。名前のない方角。地図の余白。史の余白。余白は白い。白い上に、血はよく浮く。浮いた血は、やがて黒く沈む。それでも——白は白のままだ。白のまま、星の角を冷たく照らし続ける。

 五稜郭の夜が、また来た。長い、風の鋭い夜だ。延ばすための夜でもある。二人は息を合わせ、刃を細くし、足を重くし、声を短くした。短い声は、遠くまで届く。届いた先で、また誰かの呼吸が一拍、延びる。延びた一拍の分だけ、土方の言葉がこの城に留まる。

 ——まだ、守れ。