名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 風が変わった。箱館の海から吹き上がる潮のにおいに、焦げた木と薬莢の金気が混じる。一本木関門の土を踏むたび、足裏に湿った弾丸の殻が割れ、細い悲鳴を上げた。五月十一日——春だというのに、山裾の影にはまだ白い名残がうずくまり、そこへ降る火の粉が音もなく吸い込まれてゆく。

 関門の外に、黒い帯のような銃列がうねっていた。新政府軍の旗が風の拍に合わせて斜めに張られ、太鼓の皮が乾いた雷を刻む。対する旧幕の列は、息のリズムを崩さぬように、狭い土地に自分の重さを均等に配って立っている。足袋の裏は泥に沈み、銃床には冬の油がまだ残っている。

 土方歳三は、馬上にあった。甲冑の重みを肩で受け、片膝で鞍を押さえて、声を張る。風にちぎれぬように太く、しかし長すぎぬ声。

「退くな! ここを越えられれば、五稜は落ちる!」

 その声は、関門の木戸の蝶番に届く。古釘が震え、土塁の草が伏せ、兵の喉の奥で生まれかけていた弱音が、いったん黙る。声に助けられているのは兵ばかりではない。蓮もまた、その声に自分の脚を重ね、走るべき方向を選んだ。

「静、伝令を受けて俺が回す。お前はここ、右の狭間の後ろ、薄い」

「承知しました、矢野さん。——十歩奥に、段差を作りました。足を取らせます」

「任せた」

 静は白い袖をひるがえし、土塁の陰へ消える。彼がいないと、景色から温度が一枚剥がれる気がする。だが、その分、蓮の目はよく見えた。関門の前に積まれた木俵の間、丸太の隙間。そこをかすめる銃煙のゆらぎ。風の切り替わる音。——全部が、まだ「こちら」に残っている。

 遠雷のような砲声が遅れて胸を打った。湾口の甲鉄が箱館山の砲列とやり合っているのだ。弁天台場は前夜から沈黙したまま。千代ヶ岱の砲座はもう二門しか返事ができない。海で削られ、陸で削られ、それでも一本木は立っている。

 蓮は土塁の切れ目を抜け、土方の背へ走った。汗が目にしみる。砂が歯に触る。

「関門、右、二列押し上げ! 誘い道で半刻は遅らせられる!」

「よし——」

 馬上の土方が振り返る。黒目が強く、額には細い皺が一つ増えている。戦が長いと、皺は一本ずつ役目を持つ。指揮の皺、焦燥の皺、覚悟の皺。いま、彼の顔に刻まれたのは「延ばす」ための皺だ。

「左はどうだ」

「まだ持ちます。七重浜から回りこむ構えも見えるが、霧が厚い、急ぎはしないはず」

「榎本殿の艦は?」

「港内で温存。夜半に動かす気配」

「——よし」

 短く、切る。土方の言葉はいつだって長くない。長い言葉は、戦場で衝突して破片になる。短い言葉は、刃のように真っ直ぐ刺さる。

 銃声が続けざまに重なり、前列の兵が一人、膝から落ちた。肩口に赤い花が開き、花びらのような肉が泥に張り付く。蓮は片膝で身を低くし、倒れた身体を引きずって土塁の影へ寄せた。血の温度で指が滑る。青年は目を開いたまま、息の仕方を思い出せずにいる。蓮は頬に手を当て、低く言った。

「息を拾え。吐いて、拾え。ここじゃ死なせねえ」

 青年の目に、短い、僅かな「信」が灯る。蓮はそれを確認すると、土塁の上へ再び顔を出した。気づけば、静が十歩先の狭間で、二つの影の喉だけを音もなく奪っている。刃は喉に触れたかどうかさえ分からず、倒れた者の指先だけが土を掻いた。

 太鼓の拍が変わる。押しの合図だ。新政府軍の列が息を合わせ、重心を前へ移す。関門の木戸が一度、低く軋む。土方の馬が足を踏み替えた。

「矢野、右を持て」

「了解!」

「静、左の端を一寸だけ開けろ。誘い込んで折れ」

「承知」

 命令は水が土に沁みるように兵の間を走った。蓮は右へ飛び、肩で同志を押し、列の綻びに自分の体重を差し込む。胸の内側で心臓が硬い拍を打ち、耳の裏に熱が集まった。

 そこで——音が変わった。空を裂く細い声。銃弾の唸りとは違う、鋼の糸を弾いたような高い音が、蓮の頬のすぐ横を過ぎる。嫌な予感が脊髄の上を走り、次の瞬間、馬の嘶きが世界をかき消した。

 土方の身体が、鞍から半身ずれるように崩れた。胸を押さえるが、手の内側から赤が噴く。馬の首筋に散った血が温かく湯気を立て、鞍の革が悲鳴を上げる。

「副長!」

 蓮の身体は意志より先に動いていた。木戸の影を抜け、砲煙の薄まる一瞬をすり抜け、馬の腹をくぐり、落ちる身体を抱きとめる。土方の重さが、腕にずしりと乗った。鉄の匂い。草の匂い。汗の塩。全部が混ざって、ただ「生」の匂いがする。

「副長!」

 土方の目はまだ開いている。濁りの底に、相手の顔を見分ける強さが残っている。唇が動いた。音にならぬ音。蓮は耳を寄せる。

「……まだ……守れ」

 たったそれだけ。だが、その言葉には、京の路地の夜の湿りも、池田屋の炎も、禁門の黒煙も、江戸の瓦の白も、会津の凍てつく風も、蝦夷の潮の塩も、全部含まれている気がした。蓮は喉の奥で何かが崩れる音を聞きながら、ただ頷いた。

「……ああ……守る。俺たちが」

 土方の指が、鞍の皮に一度、ぎゅっと爪を立て、それからゆるんだ。胸の動きが止まり、肩の重みが「生」から「遺」に変わる。重さは同じなのに、世界の端が一寸ずれた。

 静が駆け寄り、土の上に膝をついた。彼は滅多に表情を動かさない。だが今、唇の端が微かに震えた。静は土方の額に手を当て、ゆっくりと眼を閉じた。

「承知しました、副長。——延ばします」

 その声は、静の声でありながら、どこかで総司の笑みを欠いた響きを持っていた。蓮は土方の頭を自分の膝へ置き、頬に触れた。冷たさはまだ来ていない。あたたかさが、名残のように残っている。

 銃声は止まらない。土塁の向こうで誰かが叫び、関門の蝶番がまた軋む。蓮は歯を食いしばった。目の前の重さを土の上へ静かに下ろし、立ち上がる。足が震える。心臓がはやい。視界の端で静の白が揺れ、刃の線がまっすぐに伸びている。

「静——」

「はい、矢野さん」

「……いまは、泣けない」

「あとで泣きます。——いまは延ばします」

 謝辞も慰めも要らぬ。二人は関門へ踵を返し、列の空白をそれぞれの身体で埋めた。土方の馬が、鞍を空にしたまま、鼻を鳴らす。手綱が土に落ち、革に血が黒く染みる。風が一度だけ穏やかに抜け、すぐに鋭くなる。

 新政府軍の列が、一瞬、たじろいだ。目の前で崩れたはずの敵の頭が、隊列の隙を埋め、より密になって立っている。その密の熱に、彼らの拍が乱れる。乱れは銃口の高さを変え、弾は土塁の上を飛び越え、後ろの空に消えた。

 土方の遺骸を引き取る暇は、無かった。土塁の影へ一時的に寄せ、二人は再び前へ出る。蓮は喉を打ち、槍の柄で膝を突き、時に刃を浅く当てた。殺すための刃ではない。止めるための刃だ。止められた身体が背後の列を押し、列は自分に重い体重をかけ、重さが土を固める。固い土は、蝶番を守る。

 夕刻——空の色がわずかに柔らぐ。箱館の家並みの屋根に、薄い光が貼り付き、遠く海の上で甲鉄の煙が金色に見えた。その美しさは、腹立たしいほどだった。美はいま、敵の側にある。だが、その美しさを、この側から見ている自分たちは、生きている。生きている者にしか、悔しさは生まれない。

 関門の押しがひとまず退き、蓮は土塁の影に背を預けた。腕が痺れている。爪の間に土が入り、血が乾いて固い。静が隣に腰を落とし、少しだけ肩が触れた。静は滅多に人に触れない。いま、その肩が、確かにそこにある。

「矢野さん」

「なんだ」

「副長は、いま私たちの背中にいます。——だから、背を預けてください」

「……ああ」

 言葉が喉へ戻る。涙は喉で温くなり、声の調子を下げる。蓮はうなずき、目を閉じた。閉じた目の裏に、土方の笑わない笑いが見えた。京へ来た夜、局中法度の紙に墨を置いた指先。芹沢の乱行に眉をひそめた目。池田屋の夜に、刃の柄をそっと握った手。禁門の煙を睨んだ顎。江戸へ退く道の寒さ。甲府の路地の埃。流山の空の淡さ。五稜郭の星の角を風が撫でた音。——全部が、目の裏に重なり、最後に一本木の土と血の匂いに溶けた。

 伝令が来る。短い言葉で、長い現実を告げた。

「弁天——落ちました」

 蓮の喉の奥で、何かが音を立てて欠けた。弁天台場は最後の牙だった。海と五稜の間をつないでいた太い神経だった。それが潰えた。五稜の内側に、ひやりとした空気が流れ込む。

 静はうなずいた。

「これで、港からの息は絶たれました。——だから、なお延ばせます」

「どうやって」

「誰も見ない道を使う。誰も読みたがらない行を挟む」

「……相変わらずだな、お前は」

「矢野さんが隣にいる限り、私は相変わらずでいられます」

 そのとき、土塁の上を、白いものが舞った。雪ではない。砲煙に混じる灰と、焼けた木の粉と、海の塩が光を拾って白く見えた。白は、いつだって帰ってくる。冬が去っても、戦が続く限り、白はどこからでも湧いて出る。白の上に、また赤が咲く。赤はすぐに黒になり、黒は風に薄まって、やがて透明になる。透明は、名がない。名がないものほど、強く残る。

 蓮は立ち上がった。関門の木戸はまだ、持っている。蝶番の一本は新しい釘に替えられていて、薄く鉄の光を見せている。土方が倒れた場所の土は、すでに踏み固められて、跡が分からない。跡が分からないのは、残酷であり、救いでもある。跡が見えぬから、前へ行ける。跡が見えぬから、忘れずに済む。

「静」

「はい、矢野さん」

「——行くぞ」

「ご一緒に」

 二人は並んで、土塁の切れ目を抜けた。前には、まだ黒い帯がうねっている。後ろには、五稜の星が冷たく尖っている。真ん中に、一本木の土がある。土は重く、足は沈む。沈むたび、身体は立つことを思い出す。立つたび、呼吸は続く。呼吸が続く限り、延ばすことはできる。

 太鼓がまた新しい拍を打った。新政府軍の旗が、夕暮れの風の中で赤く見えた。赤は白の上でしか輝かない。白は、ここにある。白の上に、影が二つ、長く伸びた。影は名を持たない。だが、影が伸びる方向だけは、確かにあった。そこへ、二人は歩いた。歩きながら、胸の奥で同じ言葉を繰り返した。

 延ばせ。延ばせ。延ばせ。

 土方の最期の言葉が、喉の奥で何度も反響し、その反響が拍の代わりになった。世界の音が砕け、色が溶けても、その拍だけは消えない。拍に合わせて、刃が細く、正確に動いた。

 夜が来る。風が冷える。白が濃くなる。白の中で、赤がまた咲く。咲いて、消える。消えて、残る。残るのは、名ではない。呼吸だ。呼吸の長さだ。呼吸の長さが、五稜の星を一刻ぶんだけ輝かせる。——その一刻のために、二人は前へ進み、刃を細くし、喉の皮一枚をなぞり、足首の腱に触れ、声を奪い、拍を狂わせ、蝶番を守った。

 土方の馬が、遠く、静かな嘶きを一度だけ漏らした。風がそれを運び、関門の木肌に当て、五稜郭の堀の水面に落とし、星の角で砕いた。砕けた音は、雪に似て白かった。白は夜の底に沈み、やがてまた朝の光で浮かび上がるだろう。その朝に、自分たちがまだ息をしていれば——それでいい。

 蓮は刀を握り直し、静は白い袖を低くたくし上げた。二人の背に、見えない重さが加わる。重さの名は、土方歳三。重さは、沈めば沈むほど、足の裏に力をくれた。

「副長、——見ていてください」

 静が誰にも聞こえぬほどの声でそう言い、蓮は頷いた。二人の影は、また伸びた。伸びた先に、まだ終わらない戦があり、まだ終わらない白があり、まだ終わらない呼吸があった。呼吸がある限り、延ばすことはできる。延ばした先に何があるかは、もう誰の紙にも書かれない。けれど、その紙の余白に、二人の足音は確かに残った。消えるまでの、わずかな時間のために。消えるからこそ、なお強く。