名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 雪はもう解けているはずなのに、白はどこからでも湧いて出た。砕けた貝殻の粉、焼けた壁土の肌理、砲煙に混じる灰。箱館の春は色を取り戻すたび、どこかで白さに引き戻される。五稜郭の胸壁に凭れ、矢野蓮は乾いた唇を舐めた。舌に、塩と鉄の味がある。風の向きが変わった。海からの湿りではない。山から下りてくる、弾薬と汗のにおいだ。

 千代ヶ岱の線がじわりと押されはじめた。一本木関門の木戸は、昼までに二度、蝶番を付け替えた。釘が足りず、古い箪笥の背板を剥いで釘にした。木肌を打つたび、焦げた匂いが立つ。蓮は金槌を捨て、再び走った。土方歳三の声が背から伸びてくる。「延ばせ」。それだけだ。命令が少ないほど、やるべきことは増える。

 静は誘い道の第二線を敷き終えていた。斜めに倒した丸太の下へ泥を寄せ、足裏の重心が自然にずれる角度を作る。壊れた荷車の車輪を、あえて半ば土に沈め、闇で輪郭の消える高さに置く。敵が避けた先に、さらに低い段差。段差の先に、切り株。切り株の皮は、刃の腹で薄く削ってある。滑る。滑れば、声が喉から漏れる。声が漏れれば、こちらの牙がそこへ届く。

「矢野さん、左の背面が薄いです。回られたら厄介。半刻だけ、ここで声を止めます」
「半刻で足りるか」
「足りない分は、矢野さんの脚です」
「上等だ」

 彼らの対話は短く、乾いて、よく燃えた。火の粉のように、必要な場所だけに落ちる。

 湾口では新政府の艦が風を読んで動き、甲鉄の甲板に立つ士官が双眼鏡を上げ下ろししている。甲板の端に取り付けられた小旗が素早く角度を変え、箱館山の砲列が応じる。弁天台場はもうない。夜の海の黒い穴のように、そこだけ風が通る。榎本の「回天」も「蟠龍」も、いまは港の奥で息を潜めるしかない。海は遠のいた。ゆえに陸で延ばす。土は沈み、泥は重く、足は遅い。遅いものは、生き延びる。

 昼下がり、五稜郭の内庭で短い伝令が三つ重なった。一本木関門、押され。千代ヶ岱、砲ひとつ無口。七重浜、霧深し。土方は地図の上に指を置き、指の腹で小さく叩いた。榎本が横で息を止め、海図の端に爪を立てる。

「静。関門裏、二筋目を狭めろ。泥を足すな。乾いた埃を撒け」
「承知」
「矢野。関門まで運べ。行って、戻れ」
「了解」

 蓮は荷車の棒を掴み、肩へ食わせる。車輪は悲鳴を上げ、荷は揺れ、弾箱の金具が擦れた。道の脇に、雪代の名残がわずかに白い。そこに血が触れると、花の形が生まれる。花は音もなく広がり、やがて土に飲まれる。花の名はない。花はただ、そこに咲いて、消える。

 関門が見えた。木戸の前で、列が揺れている。新政府の旗が斜めに伸び、若い声が合図の拍に乗らぬまま、速さだけで押してくる。蓮は荷を放り、列の端へ身を差し入れた。刃は抜かず、鞘で喉を叩く。喉が凹み、声が途絶え、肩が一つ下がる。下がった肩に次の肩がぶつかり、太鼓が半拍遅れる。半拍でいい。半拍は半刻の種になる。

「静——右、速い!」
「見ています」

 静は白い影のまま、列の縁にすべり込む。喉の皮一枚、筋の半分、足首の腱を刃の腹で撫でるだけで、相手の体は自ら崩れる。派手さはない。血も飛びにくい。代わりに、音が消える。音が消えた場所に、こちらの息が足される。その息が土塁の上を走り、関門の蝶番を保つ。

 撃ち合いは短い。短いほど、長く続く。日が傾き、風が冷え、呼吸が白くなる。蓮は顎を上げ、空の色を見た。淡い鉛色の中に、遠い鳥の影が二つ、ゆっくり、たしかに、北へ向かっている。北は逃げ場所ではない。終わりの方向だ。だが、終わりへ歩く足もまた足で、いまは地を踏む。

 箱館の町へ戻る途中、裏通りの雑木林にまわった。内通の匂いが濃くなっている。薩摩と通じた商家の裏手に、白布の包みが今夜も積まれる。酒か、乾物か、紙か。静は包みの角に指を滑らせ、硬さを測った。紙だ。薄い紙が重ねられている。紙は記録を運ぶ。記録は声を呼ぶ。声は火になる。

「切る」
「俺が行く」
「私が先に視ます。矢野さんは声を消してください」

 戸の木目に手を置き、静が耳を寄せる。中の笑いは二つ。片方は酒の笑い。片方は、笑わない人間の真似。笑わない人間は、笑うふりだけが上手い。蓮は戸枠の下へ刃先を差し込み、土埃を起こした。くしゃみの音が一つ。戸が開く。その隙に、刃は喉へ行かず、まず鼻梁を叩く。涙がにじむ。視界が曇る。曇った視界に、白が一度だけ差し込み、手首を切る。書き手の手を切れば、紙は沈黙する。

 静は紙束の一枚を炙り、浮いた文字だけを目で拾った。「風向 南」「時刻 三更」「台場 裏」。それだけだ。十分だった。紙は火に戻し、灰は雪の影に埋めた。蓮は息を吐き、喉の奥に残る鉄の味を舌で押し込んだ。

 夜、五稜郭の病舎へ立ち寄ると、兵の一人がひどく咳き込んだ。痰に赤い筋が混じり、白い床布が薄桃に染まる。蓮は目を伏せ、静は一歩だけ近づいた。
「総司さんの咳と同じですね」
 彼の声はいつもより低く、細い。蓮は静の横顔を見た。無表情の仮面の奥、しずかな痛みがひと筋、薄い硝子の裏で揺れている。
「静、総司さんのこと、忘れなくていい」
「忘れません。忘れないように、私は名を捨てました」

 その夜半、五稜郭の北稜の陰で、静は一人、膝をついた。白い息が、星の下で短く切れる。彼は滅多に祈らない。祈りは彼のやり方ではない。ただ、呼吸を整える。呼吸の間に、二つの名前を胸で通す。総司。土方。二つの音は、刃の上の霜のように薄く光り、すぐに溶ける。その溶けた水で、彼は目を洗った。

 翌朝の押しは、速かった。新政府軍は一度大きく列を引き、太鼓の拍を変え、射手を二重にして押し上げた。銃身の熱は早く、弾の唸りは低い。一本木の木戸が二度、軋んだ。蝶番の釘が一本飛び、木戸が半寸垂れた。蓮は駆け寄り、肩で木戸を持ち上げ、身体で蝶番を支えた。肩に木の重さが沈む。重さは生きている証だ。

「矢野さん、替わります」
「いい。俺が持つ。お前は行け」
「命令は、延ばす、です」
「だから持つ。延ばすには、今は俺が柱だ」
 静は蓮の目を見た。短い間合いの中に、長い時間の頷きが交わされる。静は踵を返し、列の右へ回り込んだ。刃は喉を選ばず、腕を選び、足を選んだ。殺すためではない。止めるためだ。止めた一人の足が、背後の十人の拍を狂わせる。狂った拍は、土方の「半刻」を生む。

 夕暮れ、新政府の旗がいったん下がり、山の影が長く伸びた。箱館の町では教会の鐘が遠く鳴り、小樽から来た商人風の男が路地の影に身を潜める。女たちは鍋に湯を沸かし、干した鰊をほぐす。鍋の湯気が、戦場の縁へ細く流れる。人は、戦の脇で生きる。生きることは、戦に勝る。

 その夜、土方が五稜郭の内側の小部屋で、古びた烏帽子形の杯に酒をほんの少しだけ注いだ。古い友を偲ぶ時の量だ。榎本は海の紙を畳み、杯に視線を落とす。
「沖田が、江戸で——」
 そこまで言って、土方は言葉を切った。言葉は要らない。静は部屋の隅で膝を折り、手を突いた。額が畳に触れる。彼は泣かない。いまは泣けない。だが、涙の行き先は知っている。行き先は喉だ。喉を通った涙は、声を細くし、声の細さが刃の細さになる。細い刃は、よく通る。

 箱館山の上に月がかかり、甲鉄の煙突から細い煙がのぼる。風は変わり、冷たさが戻る。港の奥で回天のボイラーが息を吸い、蟠龍の舵がわずかに震える。海はまだある。陸はまだ延びる。二股口の土は湿り、峠下の棘は折れ、七重浜の砂は足跡を飲み込む。飲み込まれた足跡は、明日の足へと場所を明け渡す。

 夜明け前、蓮は兵営の外で砥石を取った。石は冷たく、指の腹が痺れる。刃を置き、静かに引く。引いては止め、息を継ぎ、また引く。音の高さが、同じになったところでやめる。静がやって来て、何も言わず、砥石の位置を半寸ずらした。
「そこだと、指が切れます」
「ありがとよ」
 言葉は短く、温かい。温かさは長持ちしない。長持ちしないから、次の言葉を待つことができる。待てるうちは、戦える。

 日が出て、白は土の底へ潜った。代わりに、血の赤がよく見えるようになった。赤は派手だが、長くは残らない。風が乾かし、土が飲む。残るのは、刃の鈍りと、柄の温度と、呼吸の速さだ。記録は、そこには載らない。紙には、別の名が並ぶだろう。榎本、土方。甲鉄、回天。五稜郭。弁天台場、千代ヶ岱。
 ——それでいい、と蓮は思った。名が並ぶ紙の下で、白紙の余白を延ばしてきたのは自分たちだ。余白は気づかれない。けれど、そこへ息が置ける。息が置ければ、刃はもう一度だけ動く。

 関門の向こうで、若い声が叫んだ。「負け犬!」 蓮は耳だけでそれを受け、目は動かさなかった。負け犬でいい。犬は嗅ぐ。噛む。守る。守った名は紙に載らないが、背の温度に載る。背の温度は、夜に冷えた刃を温める。

「静」
「はい、矢野さん」
「生きよう」
「生きます。——背を、預かります」

 その会話が終わるやいなや、甲鉄の艦首がわずかにこちらを向き、箱館山の砲が応じ、空が低く唸った。新しい押しだ。太鼓の拍がまた変わる。息を合わせる。足を置く。刃を細くする。喉の皮一枚、筋の半分、足首の腱。殺すな。止めろ。止めて、延ばせ。延ばして、つなげ。つないで、明日を一行、白い紙に増やせ。

 雪は、もうない。けれど、白はまだある。白は紙であり、息であり、刃の線であり、五稜郭の星の角で風が砕けて散る粉だった。粉は目に沁み、涙が出る。涙はすぐに乾く。乾いた跡が、頬に薄い塩の線を残す。線は名ではない。だが、確かにそこにある。名の代わりに、線を残す。線の上を、二人の影が並んで歩く。

 海の向こうで、汽笛が長く鳴った。箱館の春は、まだ終わらない。終わらないものの中で、終わりに向かって歩く。それが戦であり、影の仕事だった。蓮は静の横顔を見た。静は無表情のまま、しかし瞳の奥で風の向きを正確に数えている。
「静」
「はい」
「お前が泣く日は、きっと来る」
「来ます」
「そのとき、俺は隣にいる」
「ありがとうございます、矢野さん」

 短い春は、音を吸う。吸われた音の分だけ、刃のきらめきが細く伸びる。細い光で十分だ。細くとも、そこへ確かに、一行は刻まれる。紙には名がない。だが、名のない行は、読まれるとき、胸の内で音になる。誰も聞かなくても、二人は知っている。自分たちの行が、ここにあると。

 白は、また舞い始めた。雪ではない。砲の灰と、焼けた木肌の粉と、海から上がる塩の霧。それでも、白だった。白の上で、赤が咲き、すぐに消え、黒が広がり、また白が降りる。世界はそうして色を巡らせる。色の巡りの隙間を、二つの影がすり抜ける。
 五稜郭の星の角、風の裂け目で、二人は最後にうなずき合い、同じ方向へ走った。延ばすために。誰の名も載らない一行を、もう一度だけ増やすために。