海は灰色に沈み、空は低い綿の層を重ねていた。潮の匂いに煤が混じり、五稜郭の胸壁は夜ごと少しずつ黒ずんでいく。弁天台場の火はもう見えない。そこに立っていたはずの砲口も、人の影も、海霧の底に吸い込まれた。代わりに、箱館湾の沖で蒸気の吐息が増えた。黒い煙柱がいくつも立ち上がり、風に裂かれて長い鉤のように水平に伸びる。甲鉄、春日、丁卯——新政府の艦名を兵は口の中で数え、唇が乾く音を自分で聞いた。
昼すぎ、千代ヶ岱台場へ回された予備砲の砲耳を、蓮は汗でぬらしながら持ち上げた。木ソリの金具が金気の悲鳴を上げ、薄氷の浮く水溜りに脚が沈む。傍らで静が肩を貸し、縄のたわみを計るように軽く引いた。
「矢野さん、次の段差は右へ半足ずらしてください。抑えの足が自然にそちらに出ます」
「わかった。……なあ、静」
「はい」
「弁天をやられてから、こっちの空気がやけに重い」
「重さはいつも敵が測っています。——なら、こちらは重さの『置きどころ』を決めればいい」
静は短く言い、台場裏の空地に転がした樽の向きをまた一つ変えた。彼のつくる誘い道は、見れば何の変哲もない。それでも、そこを通った足は必ず半歩遅れ、息が少しだけ荒くなる。その小さな遅れが、稜堡の陰に身を潜めた味方の腕に、わずかな余白を与える。
箱館の町は、戦場の縁にある生活の音で満ちていた。港に連なる蔵の戸板には白墨で「貸間」「米少々」と書かれ、露地からは鰊を焼く匂いがときおり風に乗った。教会の鐘は静かに、領事館の旗は中立を示す角度で垂れ、異国の士官が遠眼鏡を上げ下ろしする。負傷兵の担架が通ると、女たちは黙って道を開ける。その沈黙の中に、祈りとも諦めともつかぬ薄い熱があった。
五稜郭の病舎——仮の板壁を立てただけの建物——では、古い名がひっそりとやりとりされた。沖田総司。江戸で病に倒れた天才の名は、ここでは禁忌でも讃歌でもなく、ただ遠い灯のようだった。静は包帯を手伝いながら、その名が空気に浮いては消えるのを一度だけ目で追い、指の関節をきゅっと固めた。蓮は何も言わず、静の肩に短く手を置いた。
「矢野さん」
「……静」
「総司さんは、光でした。——影は、光が去っても形を忘れません」
陸軍の線は日ごとに再編された。大鳥圭介の命で、七重浜から一本木を経て、二股口・峠下にかけての土塁が厚くされる。戸切地の古い土類は掘り起こされ、湿土を混ぜた袋が積まれ、銃眼の角はぬめる泥で丸くなっていく。五稜郭の中では土方歳三が砂と汗にまみれながら地図に指を走らせ、榎本武揚は海図の上で指を止めて、蒸気が吐く時間の癖を読み上げた。二人の間に言葉は少ない。少ない言葉は、深い溝に架ける橋になる。
夜半、伝令の灯が細く走る。宮古湾の海での奇襲は叶わず、甲鉄奪取の機は失せた——その報せはもう知れ渡っている。だが、勝ち負けだけが空を支配するわけではない。静はそれをよく知っていた。
「海がだめなら、陸を延ばします」
「延ばすにも限度がある」蓮が唇を噛む。
「限度の縁(へり)を少しずつ撫でて広げるんです。爪の先で十分です」
雪解け水が溝で薄く光り、土塁の陰に朝の霜が残るころ、二股口への斥候に出た。杉の幹の間を、夏前の鳥の声が刃の先で跳ねるように高く短く響く。新政府軍は銃を新しくし、弾は速く、息は長い。薩摩の足並みは軽く、長州の号令は張りがある。肥前の列は間合いが広い。静と蓮は音の違いで敵の混じり具合を測り、倒木の角度を手の指で直していった。
「ここは右が重い。左へ転ばせたい」
「なら、根の下を少し掘ります。水が溜まりますから、足は自然に避けます」
「相変わらず性格の悪い道だな」
「ありがとうございます」
最初の押し合いは、土の匂いを強くしただけで終わった。昼、敵は引き、夜、また押し、朝、さらに広い列で来た。味方の銃は黒く、火皿は湿り、照星は欠けている。新政府軍の銃は真っ直ぐに火を吐き、火線の後ろで旗がゆっくり動いた。蓮は一人分の隙間を見つけ、そこに体を差し入れ、喉の皮一枚を刃の腹で切り上げて声を奪う。静はさらに奥で、ひと息の間に二人分の重心を冷たく横へ倒した。血は落ち、雪はそれを受け、花の形だけが残る。
五稜郭に戻る道で、蓮は倒れた味方を肩に担ぎ、膝を折りながら坂を上がった。若い農家の次男だと名乗った兵は、息を細く破りながら、唇を震わせる。
「母に……一目……」
言葉はそこまでで切れ、頭が蓮の背に重く落ちた。蓮は声を押し殺して空へ吐いた。吐いた声は冷たい風ですぐ散り、霜の粒になって頬に戻った。
「静……俺は、名を残せなくてもいい。だけど隣にいる奴は——」
「生かします」静は短く言った。「矢野さんが生かしたい人は、私も生かします」
箱館の町の片隅で、内通の匂いがした。薩摩に通じる商家の裏口、いつもと違う酒肴の流れ、夜毎に増える白布の包み。土方は静と蓮に一つの紙片を渡す。そこには、会話の切れ端と時刻、風向、灯の数が記されていた。
「ここを、切る」
静は頷き、蓮は紙の白い余白を見た。余白は息のためにある。息が続くうちは、刃はまだ振れる。
裏路地に回った。闇に馴れた猫が一度だけこちらを見て、すぐに体を舐め始める。戸の内側で、乾いた笑いが二つ重なった。静は戸の桟に指先を置き、微かなきしみで内側の重さを測る。
「一人、左足が悪い。もう一人は酒」
「わかった」
蓮は戸を開ける寸前の息を整え、刃の腹で声を潰す間合いを頭で組み立てた。戸が開き、驚きの息が漏れ、椀が倒れて酒が畳に吸われ、蓮の刃が喉の皮一枚を撫でた。静はもう一人の利き手の外へ入り、手首の筋を斜めに断つ。血は派手に出ない。その代わり、二人はすぐに静かになった。
「名は——」
「要りません」静は畳の上の白い紙片を膝で押さえ、火で半分だけ炙った。炙り紙の文字が浮き、すぐに黒く縮む。「紙だけで十分です」
港の先、弁天のあった場所を遠くに見やりながら、榎本の艦隊は最後の配置替えをした。回天、蟠龍、咸臨丸——甲鉄に鼻先を叩かれても、まだ舵はある。洋式の士官が双眼鏡で風の透明な筋を読み、旗の角度を変えた。港口に張った網はすでに破られている。だが、細い糸はまだいくつも残せる。静の道と同じだ。
夜更け、五稜郭の稜堡の上で、土方が煙草の火を指で隠しながら短く言った。
「延ばせ」
「はい」静が答える。
「はい」蓮も重ねる。
彼らの「はい」は、承諾ではなく合図だった。互いの立ち位置、息の長さ、刃の角度、それを揃える前の、静かな音。
翌朝、箱館奉行所跡の広場に、人の輪ができていた。旧友が異国の軍服を纏い、肩章に金糸の光を載せ、薄い微笑を持って立っている。長い敗走のどこかで別れた者が、ここで敵として現れる——そうした場面は既に珍しくない。ただ、そのたびに胸の中の古い傷がうずく。
輪の外側に立っていた蓮の耳へ、外国語のざらりとした子音が落ちた。フランスの士官が地図を指で叩き、幕府軍の残置砲の位置を推測している。ブリュネの姿は見えないが、彼の教えた操典は双方の列に染みている。近代の規律はどちらの旗にも宿る。だが、影の剣はただ一つだ。
静が肩越しに囁く。
「矢野さん。あの輪の中、右端の男の腰、革が新しいです。今夜、あの革のきしみをこちらの道で拾います」
「……わかった」
夕暮れが早い。雲が下がり、海は鉛の色にさらに暗い青を混ぜる。五稜郭の内側で焚かれた火の匂いが、砦の外の湿った空気に細く延びる。
伝令が駆け込み、一本木の関門で押し返されつつあると告げた。土方は顎に指を当て、「半刻」とだけ言う。半刻——ほんのわずかな延長。それでも、内にいる者には一晩を二つに分けるだけの余白を与える。
静と蓮は走った。雪はもうない。代わりに、雪があった場所に冷たい泥の艶が残り、靴の底が半歩重くなる。半歩の重さは、刃の一寸に替えられる。
関門脇の小高い土手に上ると、森の縁から新政府軍の列がほどけて広がってくるのが見えた。旗の色は鮮やかで、掛け声は若い。銃列の前で太鼓が短く拍を刻み、合図の声が三度、四度。
「静」
「はい」
「右へ流す?」
「いえ、今は左です。右は地が締まっています」
「了解」
蓮は土の縁に、刃の先だけを軽く差し入れ、泥をそっと崩した。その崩れが、敵の先頭の踵を半指ほど滑らせる。半指の滑りが次の足へ伝わる瞬間、静の白がひと筋、煙のように差し込み、喉の皮を一枚だけ奪う。声は上がらない。列はわずかにためらい、そのためらいが背後の列の肩に伝わる。肩の高さがばらければ、太鼓の音はわずかに狂う。狂った太鼓は、半刻を生む。
半刻が生まれた。蓮はそれを背中で受け取り、五稜へ運ぶように下がった。関門の木戸に手をかけたとき、彼の爪は泥に黒く縁取られていた。黒い縁は、今日の行の端だ。
夜。五稜郭の外周を静が一人で回る。月は薄く、星は遠い。風の音が稜堡の角で小さく裂け、その裂け目から遠い船笛が滲む。静はその音に総司の呼吸の癖を一瞬だけ重ね、立ち止まり、目を閉じ、すぐにまた歩いた。
兵営の隅、板壁の向こうで蓮が砥石を水に浸す。石の上で刃が鳴り、音は低く、一定だ。静が戻ると、蓮は石を押しやり、鍔元を布で拭いた。
「静。明日も延ばす」
「はい、矢野さん」
「俺、怖いよ」
「怖くて大丈夫です。——怖さは、私の喉で流します」
「勝手に受け持つな。半分、俺に寄越せ」
「では、四分の三を」
「……交渉すんな」
二人は短く笑った。笑いはすぐに音を消し、夜の底へ沈んだ。それでも、笑いの温度は胸の内側に薄く残る。温度は紙に書けないが、紙を裏から温めて、次の行を呼ぶ。
風が変わる。翌朝、海からの湿りがわずかに乾き、空気に粉砂糖のような冷たさが混じった。遠くで砲が三度、間をおいて二度。合図か、試射か。榎本は海図を叩き、土方は地図に針を立てる。
静は新しい誘い道を一つ作り、蓮は伝令の靴紐を固く結び直した。走る道は昨日より狭い。余白は薄い。だが、薄ければこそ、筆は丁寧になる。乱暴に走れば紙は破れる。破れた紙には、もう行が載らない。
「静、行くぞ」
「はい、矢野さん」
箱館の風が、星形の角で一度だけやわらぎ、すぐにまた鋭くなった。白い息は短く、刃の光は細い。細い光で十分だ。そこへ、自分たちの一行をまた刻めばいい。名は載らない。載らなくていい。
雪が完全に消えるまで、まだ何度か朝が来る。そのたびに赤は薄くなり、土は黒く、風は冷たく、声は短くなる。短い声で、十分だ。短い声の重なりが、城を一日、延ばす。
二人の足音は、その日も同じ間合いで並び、泥の上に短い跡を残した。跡はすぐに崩れ、分からなくなる。けれど、崩れる前に確かにそこにあったという事実だけが、心の底で固く光り、誰にも拾われないまま、二人の背中を温め続けた。
昼すぎ、千代ヶ岱台場へ回された予備砲の砲耳を、蓮は汗でぬらしながら持ち上げた。木ソリの金具が金気の悲鳴を上げ、薄氷の浮く水溜りに脚が沈む。傍らで静が肩を貸し、縄のたわみを計るように軽く引いた。
「矢野さん、次の段差は右へ半足ずらしてください。抑えの足が自然にそちらに出ます」
「わかった。……なあ、静」
「はい」
「弁天をやられてから、こっちの空気がやけに重い」
「重さはいつも敵が測っています。——なら、こちらは重さの『置きどころ』を決めればいい」
静は短く言い、台場裏の空地に転がした樽の向きをまた一つ変えた。彼のつくる誘い道は、見れば何の変哲もない。それでも、そこを通った足は必ず半歩遅れ、息が少しだけ荒くなる。その小さな遅れが、稜堡の陰に身を潜めた味方の腕に、わずかな余白を与える。
箱館の町は、戦場の縁にある生活の音で満ちていた。港に連なる蔵の戸板には白墨で「貸間」「米少々」と書かれ、露地からは鰊を焼く匂いがときおり風に乗った。教会の鐘は静かに、領事館の旗は中立を示す角度で垂れ、異国の士官が遠眼鏡を上げ下ろしする。負傷兵の担架が通ると、女たちは黙って道を開ける。その沈黙の中に、祈りとも諦めともつかぬ薄い熱があった。
五稜郭の病舎——仮の板壁を立てただけの建物——では、古い名がひっそりとやりとりされた。沖田総司。江戸で病に倒れた天才の名は、ここでは禁忌でも讃歌でもなく、ただ遠い灯のようだった。静は包帯を手伝いながら、その名が空気に浮いては消えるのを一度だけ目で追い、指の関節をきゅっと固めた。蓮は何も言わず、静の肩に短く手を置いた。
「矢野さん」
「……静」
「総司さんは、光でした。——影は、光が去っても形を忘れません」
陸軍の線は日ごとに再編された。大鳥圭介の命で、七重浜から一本木を経て、二股口・峠下にかけての土塁が厚くされる。戸切地の古い土類は掘り起こされ、湿土を混ぜた袋が積まれ、銃眼の角はぬめる泥で丸くなっていく。五稜郭の中では土方歳三が砂と汗にまみれながら地図に指を走らせ、榎本武揚は海図の上で指を止めて、蒸気が吐く時間の癖を読み上げた。二人の間に言葉は少ない。少ない言葉は、深い溝に架ける橋になる。
夜半、伝令の灯が細く走る。宮古湾の海での奇襲は叶わず、甲鉄奪取の機は失せた——その報せはもう知れ渡っている。だが、勝ち負けだけが空を支配するわけではない。静はそれをよく知っていた。
「海がだめなら、陸を延ばします」
「延ばすにも限度がある」蓮が唇を噛む。
「限度の縁(へり)を少しずつ撫でて広げるんです。爪の先で十分です」
雪解け水が溝で薄く光り、土塁の陰に朝の霜が残るころ、二股口への斥候に出た。杉の幹の間を、夏前の鳥の声が刃の先で跳ねるように高く短く響く。新政府軍は銃を新しくし、弾は速く、息は長い。薩摩の足並みは軽く、長州の号令は張りがある。肥前の列は間合いが広い。静と蓮は音の違いで敵の混じり具合を測り、倒木の角度を手の指で直していった。
「ここは右が重い。左へ転ばせたい」
「なら、根の下を少し掘ります。水が溜まりますから、足は自然に避けます」
「相変わらず性格の悪い道だな」
「ありがとうございます」
最初の押し合いは、土の匂いを強くしただけで終わった。昼、敵は引き、夜、また押し、朝、さらに広い列で来た。味方の銃は黒く、火皿は湿り、照星は欠けている。新政府軍の銃は真っ直ぐに火を吐き、火線の後ろで旗がゆっくり動いた。蓮は一人分の隙間を見つけ、そこに体を差し入れ、喉の皮一枚を刃の腹で切り上げて声を奪う。静はさらに奥で、ひと息の間に二人分の重心を冷たく横へ倒した。血は落ち、雪はそれを受け、花の形だけが残る。
五稜郭に戻る道で、蓮は倒れた味方を肩に担ぎ、膝を折りながら坂を上がった。若い農家の次男だと名乗った兵は、息を細く破りながら、唇を震わせる。
「母に……一目……」
言葉はそこまでで切れ、頭が蓮の背に重く落ちた。蓮は声を押し殺して空へ吐いた。吐いた声は冷たい風ですぐ散り、霜の粒になって頬に戻った。
「静……俺は、名を残せなくてもいい。だけど隣にいる奴は——」
「生かします」静は短く言った。「矢野さんが生かしたい人は、私も生かします」
箱館の町の片隅で、内通の匂いがした。薩摩に通じる商家の裏口、いつもと違う酒肴の流れ、夜毎に増える白布の包み。土方は静と蓮に一つの紙片を渡す。そこには、会話の切れ端と時刻、風向、灯の数が記されていた。
「ここを、切る」
静は頷き、蓮は紙の白い余白を見た。余白は息のためにある。息が続くうちは、刃はまだ振れる。
裏路地に回った。闇に馴れた猫が一度だけこちらを見て、すぐに体を舐め始める。戸の内側で、乾いた笑いが二つ重なった。静は戸の桟に指先を置き、微かなきしみで内側の重さを測る。
「一人、左足が悪い。もう一人は酒」
「わかった」
蓮は戸を開ける寸前の息を整え、刃の腹で声を潰す間合いを頭で組み立てた。戸が開き、驚きの息が漏れ、椀が倒れて酒が畳に吸われ、蓮の刃が喉の皮一枚を撫でた。静はもう一人の利き手の外へ入り、手首の筋を斜めに断つ。血は派手に出ない。その代わり、二人はすぐに静かになった。
「名は——」
「要りません」静は畳の上の白い紙片を膝で押さえ、火で半分だけ炙った。炙り紙の文字が浮き、すぐに黒く縮む。「紙だけで十分です」
港の先、弁天のあった場所を遠くに見やりながら、榎本の艦隊は最後の配置替えをした。回天、蟠龍、咸臨丸——甲鉄に鼻先を叩かれても、まだ舵はある。洋式の士官が双眼鏡で風の透明な筋を読み、旗の角度を変えた。港口に張った網はすでに破られている。だが、細い糸はまだいくつも残せる。静の道と同じだ。
夜更け、五稜郭の稜堡の上で、土方が煙草の火を指で隠しながら短く言った。
「延ばせ」
「はい」静が答える。
「はい」蓮も重ねる。
彼らの「はい」は、承諾ではなく合図だった。互いの立ち位置、息の長さ、刃の角度、それを揃える前の、静かな音。
翌朝、箱館奉行所跡の広場に、人の輪ができていた。旧友が異国の軍服を纏い、肩章に金糸の光を載せ、薄い微笑を持って立っている。長い敗走のどこかで別れた者が、ここで敵として現れる——そうした場面は既に珍しくない。ただ、そのたびに胸の中の古い傷がうずく。
輪の外側に立っていた蓮の耳へ、外国語のざらりとした子音が落ちた。フランスの士官が地図を指で叩き、幕府軍の残置砲の位置を推測している。ブリュネの姿は見えないが、彼の教えた操典は双方の列に染みている。近代の規律はどちらの旗にも宿る。だが、影の剣はただ一つだ。
静が肩越しに囁く。
「矢野さん。あの輪の中、右端の男の腰、革が新しいです。今夜、あの革のきしみをこちらの道で拾います」
「……わかった」
夕暮れが早い。雲が下がり、海は鉛の色にさらに暗い青を混ぜる。五稜郭の内側で焚かれた火の匂いが、砦の外の湿った空気に細く延びる。
伝令が駆け込み、一本木の関門で押し返されつつあると告げた。土方は顎に指を当て、「半刻」とだけ言う。半刻——ほんのわずかな延長。それでも、内にいる者には一晩を二つに分けるだけの余白を与える。
静と蓮は走った。雪はもうない。代わりに、雪があった場所に冷たい泥の艶が残り、靴の底が半歩重くなる。半歩の重さは、刃の一寸に替えられる。
関門脇の小高い土手に上ると、森の縁から新政府軍の列がほどけて広がってくるのが見えた。旗の色は鮮やかで、掛け声は若い。銃列の前で太鼓が短く拍を刻み、合図の声が三度、四度。
「静」
「はい」
「右へ流す?」
「いえ、今は左です。右は地が締まっています」
「了解」
蓮は土の縁に、刃の先だけを軽く差し入れ、泥をそっと崩した。その崩れが、敵の先頭の踵を半指ほど滑らせる。半指の滑りが次の足へ伝わる瞬間、静の白がひと筋、煙のように差し込み、喉の皮を一枚だけ奪う。声は上がらない。列はわずかにためらい、そのためらいが背後の列の肩に伝わる。肩の高さがばらければ、太鼓の音はわずかに狂う。狂った太鼓は、半刻を生む。
半刻が生まれた。蓮はそれを背中で受け取り、五稜へ運ぶように下がった。関門の木戸に手をかけたとき、彼の爪は泥に黒く縁取られていた。黒い縁は、今日の行の端だ。
夜。五稜郭の外周を静が一人で回る。月は薄く、星は遠い。風の音が稜堡の角で小さく裂け、その裂け目から遠い船笛が滲む。静はその音に総司の呼吸の癖を一瞬だけ重ね、立ち止まり、目を閉じ、すぐにまた歩いた。
兵営の隅、板壁の向こうで蓮が砥石を水に浸す。石の上で刃が鳴り、音は低く、一定だ。静が戻ると、蓮は石を押しやり、鍔元を布で拭いた。
「静。明日も延ばす」
「はい、矢野さん」
「俺、怖いよ」
「怖くて大丈夫です。——怖さは、私の喉で流します」
「勝手に受け持つな。半分、俺に寄越せ」
「では、四分の三を」
「……交渉すんな」
二人は短く笑った。笑いはすぐに音を消し、夜の底へ沈んだ。それでも、笑いの温度は胸の内側に薄く残る。温度は紙に書けないが、紙を裏から温めて、次の行を呼ぶ。
風が変わる。翌朝、海からの湿りがわずかに乾き、空気に粉砂糖のような冷たさが混じった。遠くで砲が三度、間をおいて二度。合図か、試射か。榎本は海図を叩き、土方は地図に針を立てる。
静は新しい誘い道を一つ作り、蓮は伝令の靴紐を固く結び直した。走る道は昨日より狭い。余白は薄い。だが、薄ければこそ、筆は丁寧になる。乱暴に走れば紙は破れる。破れた紙には、もう行が載らない。
「静、行くぞ」
「はい、矢野さん」
箱館の風が、星形の角で一度だけやわらぎ、すぐにまた鋭くなった。白い息は短く、刃の光は細い。細い光で十分だ。そこへ、自分たちの一行をまた刻めばいい。名は載らない。載らなくていい。
雪が完全に消えるまで、まだ何度か朝が来る。そのたびに赤は薄くなり、土は黒く、風は冷たく、声は短くなる。短い声で、十分だ。短い声の重なりが、城を一日、延ばす。
二人の足音は、その日も同じ間合いで並び、泥の上に短い跡を残した。跡はすぐに崩れ、分からなくなる。けれど、崩れる前に確かにそこにあったという事実だけが、心の底で固く光り、誰にも拾われないまま、二人の背中を温め続けた。



