名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 秋が、音を変えた。
 朝の畳は冷え、竹刀の鳴りは夏より乾いて短い。風が格子の間を抜けるとき、紙鳴りのような細い音が添う。新選組の名が京に浸みていくほど、内側の軋みは大きくなった。酒と色、金と名誉。口に出さなくても、誰かの手の甲に浮いた血管の張り具合で、今夜どちらの“席”に座るのかがわかる。
 芹沢鴨の席は派手だ。笑いが大きく、器が飛ぶ。近藤の席は静かだ。笑いが小さく、器は終いまで机の上にある。
 どちらの席にも、土方はいた。酒は薄く、目は濃い。目は濃いほど、名は薄くなる。「新選組」という名が表で太っていくほど、裏で削らなければならない名が増えた。

 夕刻、土方が静を呼ぶ。
 法度の草案の紙が畳に広げられ、その脇に小さな紙片が重ねてある。角がきちんと揃っている。揃っている紙ほど、良く切れる。
「静。裏の後始末だ」
「はい」
「芹沢の側に付いた“口の軽い”のが一人いる。名は神田屋平蔵。賭場を渡り、酒で舌を柔らかくして、尊攘にも噂を回す。今はただの噂だが、芯に火が入ると、名が燃える」
 土方の指先が紙片を軽く叩く。
「“跡”は出すな。消すというより、溶かせ。水に落ちた墨のように」
「承知しました」
 土方は視線だけを、背後に立っていた蓮に向けた。
「蓮、おまえは行け。見て、黙って学べ。口は、今夜は軽くするな」
「了解」
「いい返事だ。……近藤さんには、俺が通す。総司は何も言わん」
 言わない、というのは、承知の印のこともある。土方はそれを知っている。

 蓮は稽古場の隅に置いてあった桶の水で手を洗った。手のひらに水を落とすと、爪の隙間に入る冷たさが、頭の熱を少し削いでくれる。
「静」
「はい」
「今夜は“前”か? “中”か?」
「“後ろ”です」
「後ろ?」
「人の背に、言葉は戻る。自分が吐いた言葉が、背から返ってきたとき、人は崩れます」
「難しいこと言う」
「易くやります」
「ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
 蓮は笑って、木刀ではなく、軽い短刀を腰に忍ばせた。斬るためではない。近さを測るためだ。近いほど、何もしなくて済む。そういう夜がある。

     *

 神田屋平蔵の“道”を調べるのに、静は三日を使った。
 平蔵は“筋”を持っていない。決まった賭場に居着かず、勝ちが出れば浮かれ、負ければすぐに別の場へ移る。浮いたものは風に弱い。風の向きを変えれば、浮きは勝手に方向を変える。
 静は笠屋の糊を薄くさせ、茶屋に油をひとさじ多く煮立たせ、宿の女将に“別の客”の噂を落とした。「昨夜、あの娘、偉い人の膝の上」「明日、あの賭場、会津の目が入るらしい」「新しい船宿、今夜は勝ち目が続く」と。
 矛盾を抱えた噂は、ほどける前に、足を急がせる。平蔵は急いだ。噂の方へ、そして“噂の隙間”へ。
 静は路地の曲がり角に角材を置き、通い慣れた裏道に薄い水たまりを作った。月が出れば、水は小さな鏡になる。急ぐ足は鏡で滑る。滑った足は、道を変える。
 その夜、平蔵はものの見事に踊らされた。賭場を二つと舟宿を一つ回り、勝ったように見せかけて負け、負けたように見せかけて酔い、最後の最後で、人気のない材木小屋へ自分の足で迷い込む。
 材木の匂いは、眠気を呼ぶ。削りたての杉の香は甘く、鼻を鈍くする。鈍くなった鼻で、平蔵は小便の匂いを嗅がない。自分の足元に垂らしながら鼻歌を鳴らす。
 静は言葉を置かない。ただ、視線で距離と角度を示す。蓮はうなずき、柱の影に身体を薄くした。

 白いものが一閃した。
 刃は喉の皮一枚を浅く切り、声だけを奪う。
 続けて、足首の腱を刃先で撫でる。走る力が消える。
 致命ではない。致命はいつでもできる。致命よりも難しいのは、“致命に見えない”傷を選ぶことだ。
 平蔵は驚きで目を見開き、やがてその目が虚ろに泳ぎ、戸板のように倒れ込む。
 静は耳元で、小さく言った。
「あなたが流した言葉は、あなたに戻ります」
 言葉は刃だ。刃は鞘に戻る。鞘が自分の身体なら、戻った刃で自分が切れる。
 平蔵の目がわずかに焦点を失い、まぶたが閉じた。

 蓮は自分の喉に手を当てた。喉は乾いていないのに、乾いた気がした。
「静」
「はい」
「……殺すのは、今じゃないんだな」
「はい。今は“戻す”だけです」
「戻して、どうなる」
「自分の舌に怯えます。舌は、一度怯えると、長く震えます。震えた舌は、嘘をつけない」
「ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに」
 静は平蔵を材木の影にずらし、血の滴る道に、別の血を重ねた。鶏の血を小瓶から落とし、猪の脂を端に塗る。獣の匂いは、人の匂いを曖昧にする。
 遺体はない。血の跡はある。噂は走る。
 翌朝、材木小屋の奥で血の跡が見つかり、しかし遺体は見つからない。平蔵は“どこかへ逃げた”ことになり、芹沢の周囲は一度、沈黙した。
 土方は短く言った。
「よくやった」
 近藤は眉を曇らせた。
 総司は、何も言わなかった。春風の笑みを少しだけ薄くするだけで、誰より多くを言った。

 そのあとだった。
 蓮は吐き気を覚え、井戸で喉を洗い続けた。桶の水は冷たく、底の石が光って見える。
 静は隣で、桶を支えるだけだった。慰めも説教もしない。それが彼の優しさの形だと、蓮はうすうす理解し始めている。
「静」
「はい」
「俺、今夜は“前”でも“中”でもなかった。どこだった」
「“横”です」
「横?」
「矢野さんの“横”に、僕がいました。だから、矢野さんは倒れない。――横は、意外と大事です」
 蓮は水を口に含み、吐き、深く息をした。
「横ね。……なら、俺も、たまにおまえの横に立つ」
「はい。ありがとうございます」
「礼は要らん」
「言わせてください」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに」
 蓮は笑う。笑いはうすく、だが確かだった。

     *

 平蔵は“消えた”。
 消えた人間のことを、人はすぐに正確に語りたがる。「あいつは元々、腰が軽かった」「女にだらしなかった」「金に汚かった」。正確に語りたい欲は、たいてい嘘を太らせる。
 その嘘を、静はうまく利用した。
 平蔵はどこにもいないが、どこにでもいる。賭場の隅に、舟宿の階段に、茶屋の裏口に。人は「見た」と言い、別の人は「いや、違う」と言う。
 噂の流れに、小石を一つ落とすたび、流れがゆっくり変わる。
 芹沢の周囲は、言葉を少し慎重に選ぶようになった。選ぶとき、人は遅れる。遅れるとき、足をすくえる。
 土方は三日後、静と蓮を広間に呼んだ。
 紙が三枚、卓に伏せられている。
「新しい“後始末”だ」
「はい」
「一つは酒。二つは色。三つは金。どれも“名”の縁にぶら下がっている。――どれから行く」
 静は迷わない。
「三つ目から」
「金か」
「はい。金は、名を太らせます。太った名は、斬りやすい」
 土方はうなずき、紙を一枚静に、もう一枚を蓮に渡した。
「蓮」
「はい」
「今夜は“前”で勝て」
「できれば、前の手前で」
「できるか」
「静が横にいるなら」
 土方は笑いを飲み込んだ。
「いい返事だ」

 対象は、三条の油問屋の倅――藤七。
 店の金に手を付け、夜な夜な“善根宿”に施しを残すことで名を繕っている。施しの米俵の縄の結び目が、いつも同じに緩い。緩い結び目は、緩い口を呼ぶ。
 静は縄の結び目を、結び直した。緩い結びを、緩いまま堅くする。見た目は同じ、ほどけにくい。ほどけないと、藤七は自分でほどこうとして、結び目の違いに気づく。気づけば、誰かを疑う。疑いは、声の低さに出る。
 声の低さは、賭場で目立つ。賭場で目立つ声は、賭場から追い出される。追い出された足は、裏道に集まる。裏道は、静が刻んだ角材の道をたどる。
 結果、藤七は、油小路の裏手で、見事に“止まった”。
 止まったところへ、蓮が“前”の手前で入る。
「おまえ、善根宿に米入れてるな」
「善を笑うのか」
「笑わない。米の縄を笑う」
「縄?」
「結びが一つ、違う。店の倉の結びに距があって、善根宿の結びは距が無い。――おまえ、倉から直接は抜いてないな。途中で抜いた。途中に“誰か”を噛ませて、距を消した男だ」
 藤七の喉が鳴った。
「何の話だ」
「縄の話だ。縄は、いつも正直だ。――なぁ、静」
「はい。縄は“書き手”です。結び方には、里が出ます」
「里?」
「上方の結び、江戸の結び、田舎の結び。あなたの結びは“田舎”に戻る」
 藤七は逃げようとした。蓮は足の親指で土を掻き、音をひとつだけ鳴らした。その音で、藤七の重心がわずかに前へ出る。前へ出たところで、静の手が袖を取る。
「痛いことはしません。――名を、戻します」
「戻す?」
「善根宿の帳面に、あなたの名を書きます。施しの欄に。いままで“匿名”で書いていたところに、きちんと“藤七”と」
「やめろ!」
「やめません。名を持つ善は、長く続きます。名を持たない善は、短いです」
「俺は……」
「名が欲しいでしょう。ならば、名の重さを持ってください。――善にも、悪にも」
 藤七は、抜けるような顔で立ち尽くした。
 その夜から、善根宿の帳面には、小さく“藤七”の名が増えた。
 人は見た。名は読まれ、目に留まり、噂は意外にも“よい”方へ流れた。藤七は、善を続けるしかなくなった。
 土方は眉を上げた。
「おまえら、斬らないのに、斬ったな」
「はい」
「面倒くせぇ斬り方だ」
「はい。長持ちします」
「……ほんと、悪い人間たちだ」
「土方さんのためだけに、です」
 土方は笑うのを、今度は我慢しなかった。

     *

 だが、夜は機嫌を変える。
 “斬らないで斬る”夜が続いたあと、斬らねば終わらない夜が来る。
 芹沢の側近筋の一人――平蔵のいなくなった隙を埋めるように、別の“口”が育った。名は浅吉。
 浅吉は、酒の席で人の足を踏む癖がある。小さな暴力は、酔いの笑いで誤魔化される。誤魔化しが続くと、鼻が鈍る。鈍った鼻は、血と酒の匂いの違いがわからなくなる。
 ある夜、浅吉は町人を二人、路地で蹴り倒し、一人の頭を石に打ち付けた。打ち付けた音は、木を割る音に似ていた。その音は、蓮の耳から離れなかった。
 翌朝、土方が紙を置く。
「浅吉を、止めろ」
「止める、ですか」
「止まらなきゃ、止めろ」
 止まらなければ――その言い回しで、静は理解する。今夜は“致命”の許可が出た。
 蓮は目を伏せた。
「静」
「はい」
「俺、殺しが嫌いじゃない、と思ったらどうする」
 静は少しだけ目を見開いた。
「それは、いい感想です」
「いい?」
「はい。嫌いじゃないと自覚した人は、嫌いになろうとします。嫌いになれないときは、誰かに止めてもらいます。――自覚しない人より、ずっと安全です」
「ほんと、悪い人」
「矢野さんのためだけに」
 蓮は苦笑し、短刀の重さを確かめた。
「今夜は“前”で終わらせる」
「はい。僕は“横”にいます」

 浅吉は、いつものように酒の匂いを身にまとい、いつものように夜道で誰かの肩を押した。押した肩が、ちょうど壁で止まるように、静は角の位置を選んでいた。
 浅吉の手が上がるより早く、蓮が“前”に入った。
 動きは短い。声はない。
 短刀は空を切り、血は飛ばない。
 浅吉は、胸を押さえて、ゆっくり膝をついた。
 胸元の衣を開くと、指幅の浅い切り傷が一本、心臓の上に横たわっている。致命ではない。致命ではないが、浅吉には致命だった。
「何を……」
 浅吉の口が開く。声は震え、舌は自分の毒で痺れる。
「“前”で止めました」
 静が言った。
「あなたの足は、これから“前”に出ると、痛みます。前へ出ることは、身体がもう嫌がる。――それが、止めるということです」
 浅吉は、泣いた。酒の匂いに混じって、少しだけ子どもの匂いがした。
 そのまま浅吉は、隊の“外”へ出された。名は残らない。名が残らないように、静は“書かない”ことを選んだ。
 書かない記録ほど、強い記録はない。書かれないことで、誰かの口にだけ残る。口は、いい加減だ。いい加減さが、浅吉を守る。守ることが、粛清の技の一部になる。

 その夜、蓮は井戸でまた喉を洗った。
「静」
「はい」
「俺、今夜は“前”で終わらせた。けど、終わってない」
「終わらせるのは、だいたい翌朝です」
「翌朝?」
「はい。朝の音で、剣は終わります」
 朝、蓮は稽古場で、竹刀を握った。
 静は半寸、間合いを詰める。
「矢野さん。今朝は“前の手前”で勝ってください」
「やってみる」
 合図もない。
 蓮は足の親指で土を掻き、音を一つだけ鳴らす。
 静がわずかに笑い、竹刀の先を落とした。
「勝ちました」
「今のが“翌朝”だな」
「はい。昨夜の“前”を、朝の“前の手前”で上書きします。――これで、終わりです」
 蓮は息を吐き、笑った。
「終わり、ね。ありがとう」
「どういたしまして」

     *

 粛清は続く。
 だが、刃は鋭いほど、柄は冷たい。握る手は凍える。
 凍えを自覚する者しか、長くは握れない。
 静は、自分の手が冷えていることを、よく知っていた。
 だから、温かいものを、少しずつ集めた。
 稽古場で交わる竹の音。山南の赤い点。白木の新しい字。書き手の“京の間合い”。善根宿の帳面の小さな“藤七”。
 そして、蓮の声。
「静」
「はい」
「俺の名、どこに書いてる」
「稽古帳に」
「それ以外は」
「どこにも」
「ほんとに?」
「はい。……僕の胸の裏は、帳面です」
「それ、ずるい」
「ずるいです」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに」
 蓮は照れて顔を背け、静はその横顔を、書かずに覚えた。

 粛清の夜が重なるほど、近藤の眉間の皺は深くなり、総司の春風は冷たさを帯び、土方の筆は黒さを増した。
 法度は整い、紙は増え、名は増え、呼び名も増える。
 壬生狼。会津の犬。棒。影。
 どれも少しずつ本当で、少しずつ嘘だ。
 名は表に立ち、影は横で支え、棒はしなりながら、折れないふりをする。
 静は、折れないふりを、うまくやった。
 蓮は、折れないふりを、覚え始めた。
 折れないふりは、折れないこととは違う。わずかに軋む音を、自分で聞いて、自分で書き留める。
 書くことで、剣は待てる。待つことで、粛清の刃は“前の手前”に置ける。

     *

 秋の終わり、雨が三日続いた。
 雨は噂を重くする。重い噂は、途中で落ちる。
 落ちた噂を拾うのは、“口の軽い”者の仕事だ。
 芹沢の席から、また一つ噂が落ちる。
「局長の名で、京の商人を二人、縛り上げる手形を切ったやつがいる」
 名は近藤。手形は“偽”。
 本物の名に偽の判。
 それは、名を斬るに最適の刃だ。
 土方は、その刃を折るように命じた。
「手形を、消せ。判も消せ。――ただし、“消した事実”は残せ」
「はい」
「やれるか」
「はい。書きます」
 静は書いた。
 本物の手形を三枚、偽の筆致で。
 偽の手形を三枚、本物の筆致で。
 混ぜる。混ぜた紙束を、噂の流路の途中で“落とす”。
 拾う手は、二種類。
 偽を信じたい手と、本物を守りたい手。
 拾った手の動きは、必ず違う。
 違いは、音に出る。
 紙をめくる音。墨を乾かす音。
 静はその音を、夜の壁越しに聞いた。
「矢野さん、右の部屋が“偽”。左の部屋が“本物”です」
「どうしてわかる」
「偽を信じたい手は、早い。早い手は、紙の角で指を切ります。――いい音がしました」
「おまえ、ほんとに悪い人」
「矢野さんのためだけに」
 二人は壁の薄いところを選び、扉の前で待った。
 右の扉が、先に開く。
 出てきた男は、指に布を巻いている。
 静は一歩出て、礼をした。
「夜分に失礼します。新選組です」
 男は飛び退いた。
 飛び退く足は、音が大きい。大きい足音は、逃げ道を教える。
 逃げ道の角で、蓮が“前の手前”で入った。
「それ、返せ」
 男は呆気なく倒れ、紙束は戻った。
 左の部屋では、年配の商人が、紙を一枚ずつ、乾かしながら並べていた。
「助かる。偽が混じっていましてな」
「混ぜたのは、こちらです」
「ほう」
「偽が、偽のまま通らないように。――お騒がせしました」
 商人は目を細め、うなずいた。
「噂は、軽い方へ走る。軽いものは、途中で落ちる。――誰かが拾ってくれるなら、重い方へも流れる」
「はい。そう願います」
 静は深く礼をした。

 戻って報告すると、近藤は長く黙り、それから低く言った。
「ありがとう」
 “ありがとう”は、強い言葉だ。
 蓮はその言葉を、井戸の水よりも長く、喉に留めた。

     *

 夜がまた一つ、重くなる。
 芹沢の荒れは増え、色と酒の匂いに、火の匂いまで混じる。
 町の角で器が割れ、女の泣き声が短く切れ、男の笑い声が長く伸びる。
 名がある場所ほど、音が濁る。
 濁りは、刃を呼ぶ。
 土方は、紙をしまい、刀を置いた。
 置いた刀の柄に、指を軽く触れてから言う。
「静。――“粛清”は、そろそろ“表”だ」
 静はうなずく。
「はい」
「だが、その前に、もう一つ“裏”だ。芹沢の側の“口”を、完全に止めろ。今度は、跡が残っても構わん。残す跡はこちらで塗る。おまえは、刃の“温度”だけを見ろ」
「温度」
「氷の刃でやれ。熱い刃は、夜の色を変える。氷は夜と同じ色だ」
「承知しました」
「蓮」
「はい」
「おまえは、見る。――見るだけが、剣の仕事の半分だ」
「了解」
 土方の声は乾いていて、しかし温かさを捨てない。
 人が氷を持つには、体のどこかに火が要る。火を捨てた氷は、刃にもならない。

 狙いは、芹沢の席に出入りする「口」を束ねる男――春田屋の寅吉。
 寅吉は、目が笑っている。笑っている目ほど、油断がない。
 静は、笑っている目の“端”を狙うことにした。
 目尻に出る、わずかな乾きを。
 乾きは、酒の水でごまかせる。水が切れたとき、乾きは音になる。眼球が瞬く小さな音だ。
 材木小屋と同じく、静は“場”を選んだ。
 今度は、油問屋の裏手の、狭い路地。両側の壁が近く、音が反響する。反響は、息の数を二倍にする。
 寅吉はそこを通る。通らせる。
 通り道に、油を一滴ずつ置く。見えない程度。靴底がわずかに滑る。滑る感覚は、足の筋を早く使う。早く使うと、息が早くなる。
 息が早くなると、刃が入る。
 蓮は角に立ち、静は壁と壁の影に身を溶かした。
 寅吉が来る。
 笑っている。
 目尻が、乾いている。
 瞬きの音が、反響する。
 静は“横”から出た。
 刃は、氷だった。
 擦れる音は、紙を裂く音に似ている。
 寅吉の眉間に、細い白い線が走った。
 血は出ない。
 寅吉は、膝から崩れた。
 額の皮を、厚さ一枚だけ、冷たく切る。
 人の額は、そこを切られると、誰もが“地面”を見る。地面を見ると、人は“上”を忘れる。上を忘れると、名を忘れる。
「――あんたら……」
 寅吉の声は、笑いの形を保ったまま、音を失った。
「口は、最後に閉じます」
 静は指で、そっと寅吉の唇に触れた。
 触れた指は冷たい。
 その冷たさが、寅吉の舌に移る。
 舌は、凍ると動かない。
 寅吉は、声のない笑顔のまま、目だけで“負け”の形を作った。
 静はうなずいた。
 蓮は、壁の影で、拳を握っていた。
 拳は震えていない。震える代わりに、指の腹が冷えている。
 冷えは、柄を握るためにある。
 柄を握っていなくても、柄の冷たさを知っている手は、刃の温度を間違えない。

 処置のあと、土方は短く言った。
「これで、表に移れる」
「はい」
「“表”は、派手だ。おまえらの仕事は、今夜までだ」
「承知しました」
 近藤は眉を曇らせたまま、目だけで礼をした。
 総司は、廊下の端で春のように笑い、静にだけ聞こえる声で囁いた。
「あなたの刃は、音がきれいだ」
「ありがとうございます」
「きれいすぎて、少し怖い」
「はい。僕も、怖いです」
「なら、よろしい」
 春風は、刃の冷たさを少しだけ溶かす。
 それで、夜は今夜も、形を保った。

     *

 粛清の刃は、ようやく“表”に向かう。
 京は長い息を吐き、薄い霧を吐き、寺の鐘が一つ遅れて鳴る。
 新選組の名は、いっそう重くなる。
 名が重くなるほど、静は軽いものを集めた。
 足音。
 竹の音。
 墨の匂い。
 桶の水面の小さな波。
 蓮の笑い。
 どれも軽く、どれも確かだ。

 夜、蓮は静の部屋で、稽古帳を覗いた。
「静、今日の一行は?」
「“刃の温度、氷。矢野さん、横。”」
「その“横”、好きだな」
「はい。矢野さんが倒れないように」
「俺は倒れない」
「倒れないふりを、うまくします」
「やっぱり悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
 蓮は笑い、筆を取った。
――静は近い。冷たい。近いのに、冷たい。冷たいのに、俺は凍えない。
 静は、その字の横に、小さな点を打った。
「矢野さん、“冷”の点が一つ足りません」
「また誤字か」
「僕の趣味です」
「その趣味で何人救った」
「数えていません」
「数えろ。数にされるのは嫌いだが、数えるのは好きだ」
「はい。では、今夜から」
「今夜の一を、俺にくれ」
「もちろん」
 二人の笑いは小さく、長かった。

 翌朝、京の空は薄群青。
 土間の冷えに、わずかに火の匂いが混ざる。
 “表”の刃が、いよいよ抜かれる合図だ。
 静は半歩、前に出た。
 呼吸が触れる距離で、稽古帳を閉じる。
 粛清の刃は鋭いほど、柄は冷たい。
 握る手は凍える――。
 だが、凍えを自覚している手は、まだ温かい。
 自分で、自分の体温の在り処を知っているからだ。
 静は、自分の体温の在り処を知っていた。
 蓮は、それを知っている静を、知っていた。

 庭に出ると、欅の葉が、ひとひら落ちた。
 葉の裏の小さな脈が、光を返す。
 名のない筋。
 だが、確かにそこに走っている筋。
 静はその筋を、目でなぞり、胸の裏の帳面に、書かずに書いた。

 そして、二人で歩き出す。
 名を持つ隊の、名のいらない足取りで。
 “表”の夜へ。
 氷の刃の、冷たい音を、連れて。