名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 雪はとうに季節の背中へ去ったはずだったのに、蝦夷の丘にはなお白いかけらが残っていた。陽が出れば透明な水筋となって土に潜り、陰ればふたたび硬く凍り、人の足を奪う。白と黒が昼ごとに入れ替わる道の端で、紅だけは確かに残った。甲を裂き、肉をかすめ、雪の粒に吸われた血だ。
 箱館湾の沖に新政府の旗が増えた。甲鉄、春日、丁卯——蒸気の音が波の下に骨のような響きをつくり、湾口に黒い棚雲を置く。陸では七重浜から上磯へ、そして一本木・二股の道筋に、見慣れぬ兵装と若い声が溢れた。五稜郭の星の角は、風を受けてぴんと強張る。砲口は海と森の両方へ向き、榎本武揚の海図には、日に日に黒い印が増えた。

 弁天台場は朝と夜の境目をなくしていた。砲身は布で包帯のように巻かれ、火薬の匂いは兵の喉に白い苔を生やす。蓮は弾薬箱を抱え、板橋を滑り、砲列の背と背の間をすり抜ける。轟音は耳の奥に杭を打ち込むようで、胸が内側から押されるたびに肺が縮む。海風が硝煙をねじり、雪の欠片に煤が混じる。
 台場の裏では静が縄を解き、樽を横倒し、ついで何もないかのように戻す。倉と倉のわずかな隙間に、濡れた板を斜めに立てかけ、足首ほどの高さの段差を無造作に散らす。それは救いではなく罠で、罠でありながら、救いの形をしている。敵に「楽」を選ばせる道——静の誘い道だ。
「静、こっち持つ」
「ありがとうございます、矢野さん。——それ、樽の縁を上にしてください。音が鈍ります」
 蓮は樽を返しながら、静の横顔を盗み見た。血擦りの古い跡が頬に薄く、目は冬の水面みたいに揺れない。
「お前は……怖くないのか」
「怖いですよ。——なので、怖さは最初に流します」
「流す?」
「声と一緒に。ここです」静は喉を指で軽く叩いた。「吐息に混ぜると、刃の重さが決まります」

 夜、海霧が台場の胸壁を撫でるころ、小舟の影が音を置いていった。櫂が水を割るたび、霧の内側に薄い輪が広がる。見張りが引き金に指を掛けた時、静はその手首に軽く触れた。
「まだです。音がこちらの形を見ています」
 音は意図だ。やがて小舟は近づいた分だけ離れ、台場の裏手を回り、さらに遠いところへ消えた。敵が測ったのは水深と反応、そして「人の焦り」だ。静は測らせたいものだけを見せ、見せたものを換骨奪胎して台場の内へ組み込む。兵の足裏と耳の癖まで使って、敵の足を遅くする。
 蓮はその細工の一本一本を、刃の縁で確かめるように、指で触って覚えた。彼の仕事は運ぶこと、走ること、そして斬ること。だが斬らずに済むように、先に道を屈ませるのが影の剣だと、いまは知っている。

 昼過ぎ、甲鉄の太鼓がいつもよりも笑った。艦尾の角度が変わり、斉射が弁天台場の胸壁に斜めに食い込んだ。土が粉になって兵の襟に落ちる。砲手の一人が「親方!」と叫んだ。その先にいた中島三郎助は、肩に血を滲ませながら砲身を撫でた。
「撃て」
 短い命が、低く美しい音に変わって海へ飛ぶ。水柱が立ち、甲板に散った金属の花がすぐに閉じ、甲鉄の笑いに上書きされる。
 蓮は弾薬箱を渡しながら、三郎助の横顔を見た。風と潮で削られた頬に深い皺、その皺の間に、江戸の海の匂いがまだ残っている気がした。
「名は要りません」と静が小声で告げると、三郎助は首だけで頷いた。
「名は要らんが、筋は要る。海は筋を曲げると沈める」

 夕刻、台場の裏で火の手が上がった。敵が陸からの夜襲を合わせに来ている。静は樽と段差の配置を一つ変え、蓮の肩を指で叩いた。
「ここから、足音が二つ入ります。一つは早い、もう一つは重い。重い方に当てます」
「分かった」
 音が来た。霧の底で人の重心がぶれる。蓮は斜に身体を差し入れ、刃の腹で喉を押し上げる。声は潰れ、倒れた体が段差で膝を打つ。さらに奥の足音は、板の上に砂をかませた罠で半歩遅れ、その遅れに静の白が滑り込んで一線。雪に落ちた血が花弁のように広がる。美しい、という感想が喉の奥まで来て、蓮は自分に吐いた。
「静……お前、本当に人か」
「今は影です。——人に戻る時間が来たら、戻ります」

 その「人に戻る時間」は、台場ではなかった。火は増え、弾は減り、弁天はじわじわと沈む。中島三郎助は最後まで砲の背にいた。二人の息子がそばに立ち、弾を運び、水を渡す。甲鉄の笑いがひときわ大きくなった瞬間、台場の胸壁が崩れ、飛んだ木片が頬を裂いた。三郎助はなお立ち、肩を撃たれても立ち、最後の一発を見届けるようにして倒れた。
 蓮は駆け寄りかけ、静に袖をつかまれた。
「矢野さん」
「分かってる……分かってるよ」
 静は一度だけ深く頭を垂れ、それから台場の裏へ戻って縄を結び直した。三郎助の死は、誰より先に海が知った。波がわずかに重くなり、霧が低く沈んだ。
 夜更け、弁天台場の炎は箱館の雲を赤く染め、五稜郭の硝子にゆらりと映った。蓮は五稜郭へ走り、土方に報せを入れる。
「弁天——持ちません。中島殿、討死」
「そうか」
 土方は目を閉じ、ほんの一拍で開いた。地図の一本の線が短く消される。
「千代ヶ岱を半日延ばす。弾の回し、夜に寄せろ。——死ぬな」

 死ぬな。敗走の旅で土方の口からその言葉を聞くたびに、蓮の胸は不意に熱くなる。命じられる死ではなく、命じられる生。重く、嬉しい命令だ。
 だが翌日、一本木の関門の方から運ばれてきた担架に、蓮は呼吸を忘れた。黒い羽織、泥に濡れた裾、担いだ兵の足取りは急だが折れていない。土方は生きて戻った。安堵の熱が胸を駆け抜ける。
 そのすぐ後ろ、白い袖が揺れた。指先は固く閉じ、唇は色をなくし、頬に煤。
「静!」
 担架の縁にしがみついた蓮の顔に、静の瞼が細く開いた。
「矢野さん。——帰りました」
「馬鹿、無茶しやがって……!」
「少し、泣きそうです」
「泣くな。泣いたら、俺が笑うって言ったろ」
「はい。笑っていただけるなら、泣けます」
 蓮は笑おうとして、笑えなかった。喉が詰まり、目の奥が熱い。笑いは形にならず、ただ静はそれを見て、目尻をわずかに下げた。
「ありがとうございます。——延ばします」

 延ばす。五稜郭では、その言葉が祈りと同義になっていた。配分表の余白は狭まり、井戸の水は冷たいまま減り、薬棚の隙間は広がる。静は帳面の白いところを指で叩き、「余白があるうちは書けます」と言った。白は名を載せない。だが白がなくなれば、たとえ名があっても、続きは書けない。
 蓮は帳面を閉じ、走り、運び、時に斬った。斬るたびに、雪の上に花弁がひらく。花はすぐ凍り、踏まれて砕ける。砕けた赤は、昼の光で鈍く光るだけだ。

 ある日、五稜郭の医務所で古い名がひそやかに口をよぎった。沖田総司——江戸で静かに逝った天才の名。誰かが伝え聞いた噂を置き、すぐに風が散らした。静はその一言にわずかに肩をすぼめ、拳を膝の上で握った。蓮はその拳の上に手を置く。静は目を閉じ、開け、「行きましょう、矢野さん」とだけ言った。泣く時間は、ここにはない。涙は氷になり、割れて人の足を刺す。
 それでも、夜の見張りの合間、静は一度だけ空を仰いだ。白く短い息が星の下で細い線になり、すぐ消える。
「総司さんが笑う時、背中に影ができました。——その影の形を、いまも覚えています」
「……静」
「影は、なくなるとき、光を残します。だから、大丈夫です」

 二股口での押し引きは、日に日に崩れていった。森の向こうの掛け声は若く、弾は多く、旗は新しく、声は長い。土方は喉を細くし、倒木の角度を半足ずつずらし、泥の溝を手の指で広げた。静はその上にもう一本、見えない道を重ねる。蓮は音を拾い、間に入り、短い刃で喉の皮一枚を切った。血は出る。だが出過ぎない。それで十分だった。列は止まり、後ろの列は躊躇し、躊躇は昼の二刻を生んだ。

 そして、ある朝。箱館の空が白い紙のように乾いている日。森の向こうで、いつもと違う太鼓が鳴った。新しい艦が湾に入ったのか、陸の方角の合図か。五稜郭の胸壁の上で風が一度だけ止まり、再び鋭く吹いた。
 静は天を見上げ、蓮を振り向いた。
「矢野さん。——もし、この城が静かになったら」
「なに縁起でもないこと言ってる」
「その時は、笑ってください」
「……お前、またそれか」
「笑いが、いちばん強い余白です」

 笑いは来なかった。新政府軍の旗はさらに増え、七重浜の砂は踏み固められ、上磯の道は黒い。榎本は海図の上で指を止め、土方は地図の上で指を走らせる。二人の間に、言葉は少ない。少ない言葉は、深い溝の橋になる。
 夕暮れ、一本木の方角から担架がもう一度戻った。今度は土方ではない。顔を隠された若者の遺体、肩を撃たれた古参、そして……静の袖が再び血の縁をつくっていた。
「静!」
 今度は目がすぐには開かない。蓮は歯を食いしばり、白湯を持ってきて唇を濡らす。長い睫毛が震え、やっと瞳が現れた。
「矢野さん。——大丈夫です」
「大丈夫じゃねえよ」
「泣きません。……今は」
「泣くなって言ってんじゃない。——泣け。泣いて、また立て」
 静は目を閉じ、ささやかな呼吸の波を胸に描いた。波は崩れず、細く伸びた。それを確かめるように、蓮は静の指を握った。指は冷たいが、硬い。硬さは、まだ戦いの形を持っている。

 夜半、風が変わった。海霧が一段低くなり、五稜郭の内と外の境が、宵の気配で薄く透ける。星の角は白く光り、その白は余白だ。余白があるうちは、まだ書ける。——蓮はそう自分に言い聞かせ、砥石の上に静の刃を置いた。石が刃を撫でる音は、遠い波の低い拍動と合う。
 刃が整えば、人は整う。人が整えば、余白は増える。余白が増えれば、明日は延びる。延びた明日に、また名は載らない。それでいい。
 蓮は砥石を拭い、静の枕元に置いた。静は浅い夢の底で、誰の名でもない名を呼んだ。——総司。声にはならず、まぶたの下でだけ響いた。

 朝。雪の残りはさらに薄く、水はさらに冷たく、風はさらに鋭い。五稜郭の内側で、水の桶が回り、白湯の湯気が細く立ち、土方が短く命じ、榎本が頷き、静が立ち、蓮が走る。
 雪は白い。血は赤い。白と赤は、今日も重なり合う。重なり合った場所だけが、ここにあったことの証になる。名はそこに書かれない。だが足跡は、しばらく消えない。
 蓮は走りながら、心の底で繰り返した。——俺は影でもいい。名は要らない。けれど、この刃で、隣にいる者を生かす。隣にいる者。答えは決まっている。
「静。行くぞ」
「はい、矢野さん。——延ばしに」
 二人の足音が、雪の水と土の上に、短い行を刻んだ。行はすぐに滲み、読めなくなる。それでも、その滲みの温度だけは、風にも海にも奪えない。温度は紙に載らない。だが紙を裏から温め、次の行を呼ぶ。
 星形の城の角に、朝日が斜めに当たり、白がいっそう白く光った。白の中に、薄く赤が混じる。血に染まる雪——その上で、影はまた歩き出す。