海の色が冬から春へ移るとき、箱館の海は一度だけ鉛のように重く沈む。その沈みの底から、蒸気の脈がじわりと湧いた。煙突から吐き出された黒い息が湾口に棚を作り、その棚の下を、がっしりとした舷側の船が、まるで海の骨であるかのような音を立てて抜けていく。鉄と火薬と塩が混じった匂いは、五稜郭の胸壁の内側まで届き、兵の舌の奥にざらついた苦みを残した。
榎本武揚の海図は、日ごとに擦り切れていった。宮古湾の奇襲は失敗に終わり、甲鉄は甲鉄のまま、怒って笑う太鼓——ガトリング——を甲板に載せて海に威圧を撒いた。紙上では幾度でも奪えたはずの鉄の皮膚は、現実には一度も裂けず、五稜郭の井戸端でその報を読んだ兵たちの顔に、驚きと疲労が同時に浮かんだ。驚きは瞬き一つで引っ込み、疲労はそのまま顔の下地になった。
二股口では土方歳三が地を握った。雪解けの泥の上、凍りの残る斜面に兵を散らし、倒木と浅い溝を継いでいく。新政府軍は森から出、数と弾で押し、こちらは地と間で受ける。静は倒木の角度を半足ずつずらし、硝子を斜に立てかけ、濡れ縄に砂を噛ませる。その配置は、ただの雑然にしか見えないが、いざ人が駆け込み、足を投げ出し、息を詰める瞬間にだけ牙を見せるよう組んである。蓮はその牙が覗く寸前の“間”に入り込み、刃の腹で、あるいは柄で、あるいは腕で、敵の動きを全て「遅れ」に変えた。遅れは恐怖になり、恐怖は撤退の合図になる。
その合間にも、海は陸に響き続けた。弁天台場は砲口を海へ向け、昼は耐え、夜に吠えた。砲身に布を巻き、白湯で喉を湿し、夜目に慣れた眼が火線の光で焼けないよう、火薬の合図をひと呼吸だけ遅らせる。静は台場の裏で、また一本、見えない道を敷く。倉と倉の間、板と板の隙間、樽の縁、砕けた硝子の角。人が「楽」だと思って足を向ける場所を、「少しだけ苦い楽」にすり替えておく。楽を続けて与えられた者ほど、最後の一歩で大きく転ぶ。転んだ膝が石に当たる鈍い音は、夜の台場にしか聞こえない鐘の音だ。
五月に入ると、箱館の空はいよいよ乾き、砲声は鋭くなった。二股口では、雪の下に隠れていた石が顔を出し、兵の足首を突く。夜、霜が戻り、朝、溶け、昼、泥になる。その繰り返しが、兵の気力を静かに削る。蓮はその削れを見越して、伝令の足数を倍にし、合間に井戸端で水を汲み、老婆の手から桶を受け取る。老婆は言った。「水は、いちばん後に枯れる」。その言葉が、薄い紙片よりも重く蓮の胸に入った。
台場に籠もる海の人々の中に、中島三郎助がいた。元は浦賀奉行所の与力、洋式船の操練に通じ、砲を愛し、海を知る男だ。頬には海風で刻まれた固い皺があり、目は風見鶏のように素早く動く。二人の息子を伴い、武士然と肩を張って砦に立つ姿は、疲弊した台場に一本の棟木を通すようだった。
静と蓮が台場の裏を整える折、三郎助は火薬の乾き具合を確かめながら、ふと振り向いて静に問うた。
「お前さんの名は?」
静は困ったように笑い、短く頭を下げた。
「名は、ここでは要りません。——弾の数だけ覚えていただければ」
「そうか。名は要らんか」
三郎助は頷き、砲身を撫でる指先に力を込めた。
「名は要らんが、筋はいる。撃つべき時に撃ち、沈むべき時に沈む。海は、ごまかしが利かん」
蓮はその背を見送った。海の人間は、陸の人間よりもよく泣き、よく笑う。そう感じたのは、江戸の潮風のせいだったのか、それともこの北の海の鋭さのせいなのか。
やがて、その三郎助の「沈むべき時」が来た。新政府軍が陸から押し寄せ、海からも圧力を増した日、弁天台場は孤立に近づいていた。砲座の後ろで白湯を分け合う時間も削られ、火薬の匂いは喉の奥を焼き、耳は砲声の重石で鈍く、足元の板張りは無数の小さな破片で刺立っている。
昼過ぎ、甲鉄を含む艦列が湾内に身をひねり、角度を変えて斉射を浴びせてきた。台場の壁が一度に震え、壁土が粉になって降り、兵の襟元と髪に白く積もる。三郎助は砲の後ろで短く声を張った。
「撃て!」
砲は吼え、海は答え、甲板の上の鉄が金属の花を散らす。だが鉄の花はすぐに閉じ、甲鉄の怒って笑う太鼓が、また台場の屋根を撫でた。弾は横からも来た。四方から、音が重なり、世界の向きがなくなる。
夕刻、台場の裏で火の手が上がった。敵が夜襲に備えている。静は蓮の肩を指で叩き、目で「右」を示した。誘い道の三本目が、ちょうどそこに口を開いている。暗さは味方、音は敵。暗さが深くなるほど、音の輪郭は太る。蓮は刃の腹でその輪郭を叩き、音を一つずつほどいた。
そして——夜が完全に落ちる前、風に色がなくなる黄昏の刹那に、台場の上で三郎助は立ち上がった。彼の右肩には、いつの間にか血が流れ出していた。片方の息子が父の腰を支え、もう一人が弾を運ぶ。
静は台場の影から、ほんの小さく頭を下げた。三郎助はそれに気づき、顔に浮かんだもの——笑みとも、覚悟ともつかぬ光——を残して、海に向き直る。
「箱館は、海の街だ。海に礼を尽くして死ぬ」
それが、彼の最後の言だった。続く斉射の一弾が砲の根本を打ち、台場の胸壁の一部が崩れ、飛んだ木片が息子の額を裂き、その瞬間に三郎助の胸を鉄が貫いた。彼は倒れ、息子の一人が叫び、もう一人が父の肩に顔を埋めた。砲の熱はまだ残り、父子の頬を赤く照らした。
蓮は走り出しかけ、静に袖を掴まれた。掴む力は強くなかったが、揺るがなかった。
「矢野さん。——ここでは、泣けません」
「……分かってる」
声は掠れた。台場の裏に回り、崩れた壁の隙間を塞ぎ、縄を張り直す。三郎助の死は、弁天台場の内側に重い沈黙を落としたが、砲は止まなかった。止められなかった。
夜半、台場はとうとう火に包まれた。火は砲を舐め、樽を焼き、縄を弾き、硝子を溶かす。静は蓮の背を押し、最後の連絡を五稜郭へ走らせた。蓮は走る。煙の中で目が痛み、喉が灼け、耳は自分の血の音で塞がる。五稜郭の門は開いており、土方の声が乾いて待っていた。
「弁天は……」
「持ちません。中島殿、討死」
「そうか」
土方は一度だけ目を閉じた。まぶたは薄く、血管が透けて見えるほど乾いている。その目がまた開き、地図の上の線が一本、短く消された。
「千代ヶ岱の持ちを半日延ばせ」
「はい」
延ばす、またその言葉だ。蓮は自分の呼吸が、胸ではなく背中のどこかで鳴っているのを聞いた。背中の音は、静の呼吸と重なっている。二人の呼吸が重なっている限り、延ばすことはできる——そう思い込み、そう信じる。
弁天台場の炎は、箱館の夜の低い雲を赤く染めた。海は火を映し、火は波で歪み、歪んだ火の光は五稜郭の硝子に小さく震えた。箱館の町のどこかで子が泣き、その声が風にちぎれて散った。
蓮は台場の方角に額を当てるようにしてから、土塁の陰に座り込んだ。衣の袖口には、三郎助の血がまだ温度を持って張り付いている。静が隣に腰を下ろし、短く言う。
「海の人は、潔いです」
「……そうだな」
「陸の人は、しぶといです」
「俺たちは?」
「影は、しぶといふりをする潔さを持つべきです」
「分かるようで、分からない」
「分からなくていいです。——今は、息を合わせてください」
蓮は目を閉じ、その言葉に従った。息を吸い、吐く。静の息と重ねる。戦の音は遠くで続き、近くの井戸端では水の音が小さく響く。水音は、砲声より古い。古い音は、人を落ち着かせる。
二股口では、なお撃ち合いが続いていた。森の向こうから押し寄せる兵の列は、何度も伸び縮みし、こちらの倒木に引っかかり、硝子の音に反応して振り向き、その振り向きざまに足をくじいて倒れる。静が仕組んだ「少しだけ苦い楽」は、ただの小賢しい仕掛けではない。長く相手の足を奪い、士気を削る。士気が薄くなると、弾は前に飛ばず、声は後ろ向きに出る。
土方はその薄さを見逃さない。押す場所を変え、引く時を遅らせ、追う時にだけ声を大きくする。声は、味方の骨の中の水を温める。骨の水が温まれば、人はもう一度だけ走れる。
しかし、箱館の地図全体で見れば、押し返しているのはほんの数尺、数間に過ぎなかった。七重浜に新政府軍の旗が増え、上磯からの道は黒い列で埋まり、森の向こうの音は日ごとに太った。榎本の艦は港内で身をひねるが、甲鉄の太鼓は笑い続け、外海の潮は冷たい。
五稜郭の内側では、食糧の配分表の行が短くなり、薬の棚の隙間が広くなった。子どもの泣き声は小さくなり、代わりに咳の音が増えた。
静は配分表の白い余白を指先で撫で、「余白があるうちは延ばせます」と蓮に小さく言った。余白は名を載せない。だが余白がなければ、次の行は書けない。蓮は頷き、余白に触れた自分の指が、煤で黒くなるのを見た。
その頃、五稜郭の医務所に、旧知の影が一度だけ差した。沖田総司の名が、誰かの口から、まるで冬の陽だまりに現れる埃の粒のように浮かんで消えた。江戸で静かに逝った天才の名は、ここではもう噂にもならない。静はそれを聞くと、背をわずかに丸め、膝の上で拳を握った。蓮は何も言わず、その拳の上に手を置いた。静は、ほんの一拍だけ目を閉じ、目を開けて「行きましょう、矢野さん」とだけ言った。涙は、この土地では凍って割れる。割れる涙は、他人の足を刺す。
五月も深まったある日、二股口の気配が変わった。新政府軍の押し手が一段と厚くなり、森の向こうの掛け声が長く続く。土方は地図の上を指で撫で、「ここで喉を細くする」と静に指示した。喉——一本木の関門へ通じる筋である。
その筋を細くするとは、倒木の角を変え、泥の溝の幅を広げ、腰の高さの藪を半歩前に出し、人が「走れる」と信じる幅を半足分だけ奪うことだ。人は走れると思えば息を大きく使い、走れないと思えば目を大きく使う。目を大きく使う者は、耳を手放す。耳を手放した人は、刃の音を聞き逃す。
静はその“細さ”を幾重にも重ね、蓮はそこで短く吠える犬のように、必要な場所でだけ刃を喉に当てた。刃先は皮一枚を切り、血の匂いで後ろの列を止める。止まれば、こちらの石は息をつく。息をつけば、明日の半日が生まれる。
しかし、海は待ってくれない。甲鉄の太鼓はなお笑い、湾外には新しい煙が近づいている。松前からの道は黒く、上磯の砂は踏み固められ、七重浜の潮は赤い。弁天台場を失った日から、箱館の夜は一度も暗くならなかった。火が町を照らし、町が火を映した。
榎本は、海図の上で指を止めた。武揚という名は、海の上で動くべき名だが、いまは土の城に閉じ込められている。彼はその事実を飲み込み、口を真一文字に結んだ。
土方は、その横顔に一度だけ視線をやり、何も言わずに二股口の地図へ戻った。延ばせ——。その言葉を、彼は誰よりも自分に言っているのだ。
ある晩、五稜郭の空が割れたような音を立てた。遠く外輪の方角で、火薬庫が一つ吹き上がったと伝令が言い、土方が眉の根を寄せた。補給の線が、一本、薄くなった。
静は即座に帳面を繰り、欠けた分を「人」で埋める段取りに切り替える。人は弾のように速くは運べない。だが、人は弾と違って、道を変えられる。橋が落ちれば浅瀬を渡り、浅瀬が流れれば凍土に穴を掘り、穴が崩れれば背を貸す。
蓮は荷を背に、雪解け水でぬかるんだ道に足を取られながら、口の中で数を数えた。五稜——千代ヶ岱——二股——戻る。往復ごとに、指のひび割れが深くなり、肩の皮が擦り切れる。
途中、避難の列とすれ違った。背に子を負った女が、蓮の腰に結んだ包みを見て、微かに会釈した。礼を言う声は出ない。ただ、会釈だけが確かな言葉だ。蓮はうなずき、背の荷を落とさないように歩幅を狭めた。歩幅を狭めると、息は浅くなり、浅い息は長く続く。長く続く息は、延ばす息だ。
もう一つの夜が来て、また一つの朝が来た。箱館の光は、春の終わりにしては白すぎる。白い光は、余白を広く見せる。余白が広く見えれば、次の行を書く力が少しだけ湧く。
静は縄を結びながら、唐突に言った。
「矢野さん。——もし、この城が落ちる時が来たら」
「……落ちない」
「落ちないように延ばします。けれど、もし」
「もし、は嫌いだ」
「その時、私が泣いていたら、笑ってください」
「は?」
「泣かないことが、正しいときばかりではありません。——海の人は、泣いて沈みます。陸の人は、泣いて立ちます」
「……分かった。お前が泣いたら、俺は笑う。笑えたら、だけど」
「矢野さんは、笑えます」
静の目は珍しく柔らかかった。柔らかさはすぐに引っ込み、代わりにいつもの冷たい水面が戻る。
その水面に、遠くから走ってきた影が映った。伝令だ。泥をはね、肩で息をし、土塁の上で膝をつき、額を地面に打ちつける勢いで報告する。
「一本木——向こう、押されております!」
土方が立ち上がり、刀の柄に指を置いた。
「出る。——静、付け」
「承知」
蓮も立ち上がる。「俺も行く」
「矢野さん。——五稜に残ってください」
「は? なんで俺だけ——」
「背を預けるには、背を残す必要があります」
言葉は理屈で、理屈は残酷だ。蓮は歯を噛み、しかし頷いた。土方の背に、静の背が重なり、その後ろにさらに別の背が続いていく。背中の列は、戦の一番強い線だ。
出立の前、土方はふと振り返り、蓮の肩を軽く叩いた。
「——死ぬな」
蓮は短く笑った。「そっちの台詞だろ」
静は、ほんのわずかに眉を上げた。
「矢野さん。——帰ります」
「当たり前だ」
風が変わる。一本木の関門の方角から、乾いた音が続き、その間に、聞き慣れない高い叫びが混ざる。新政府軍の少年兵の声だ。声は若く、若さは戦場でいちばんよく響く。土方の背は小さくなり、静の白が黒い人波に吸い込まれた。
蓮は五稜に残り、配分の余白を睨み、井戸の列をさばき、伝令を送り出した。耳は一本木の方角を向き続け、胸はそこで鳴っているはずの静の呼吸へ勝手に合おうとする。
夕刻、空の色が薄紫に傾いた頃、一本木の方から、どっと重い空気が押し寄せた。蓮の背の毛が逆立ち、足が地面を探した。土塁の上の影が増え、門のところで馬の嘶きが短く切れ、誰かが「救護!」と叫んだ。
蓮は駆けた。土塁の切れ目をすり抜け、門の陰で滑り、砂を蹴る。見張りの兵が道をあけ、担架が二つ、三つ、連続して運び込まれる。血の匂いが土の匂いを凌駕し、白い息が赤い蒸気に変わる。
担架の最後に、知っている黒が見えた。土方の羽織の裾だ。裾は汚れているが、破れてはいない。担いでいる兵の目は、まだ折れていない。蓮はそこで、ようやく息を吸った。
——そして、土方のすぐ後ろで、もう一つの担架が揺れているのを見た。白い袖。静の袖。袖口から手が垂れ、その指はまだ固く閉じている。
「静!」
声は自分のものとは思えないほど高く出た。担架の縁に手をかけ、静の顔を覗き込む。右頬に土と煤、唇は乾いて色がない。胸は——動いている。小さく、均等に。
静の目が、鞘から刃がわずかに覗くように開いた。
「矢野さん。——帰りました」
「馬鹿野郎……!」
「……少し、泣きそうです」
「泣くな。泣いたら、俺が笑うって言っただろ」
「はい。——笑ってください」
蓮は、笑おうとした。頬が引きつり、喉が詰まり、目が熱い。笑えない。笑えないことが、笑いよりも大きな声で、静に伝わってしまう。静は、それを見て、ほんのわずかに目尻を下げた。
「ありがとうございます。——生きて、延ばします」
その夜、一本木の向こうで戦は続き、五稜郭の中では水が配られ、白湯が湯気を立て、夜番の鐘が寒さで鈍く鳴った。土方は短く眠り、短く起き、また地図を見た。
蓮は静の寝台のそばで、刃の手入れをした。砥石の上で、刃は静かに鳴る。鳴き声は、遠くの海の低い脈と呼応する。海は眠らない。戦も眠らない。眠らないものの間に、わずかに眠る人の呼吸が、細く、伸びていく。
——延ばせ。たとえ明日が、涙で割れ、鉄で刻まれ、火で焦げる明日であっても。延ばせば、誰かの背が一里進む。延ばせば、誰かの名が紙の上に、遅れてでも載る。
蓮は砥石の上で刃を止め、静の額の汗を指の腹で拭った。その指に、戦の塩と涙の塩がいっしょに乗った。しょっぱさは同じだが、舌の奥に残す温度は違う。戦の塩は冷え、涙の塩は、わずかに温かい。
夜が明ける。箱館の空はまた白く、風はまた鋭い。榎本は海図を開き、土方は地図を撫で、静は袖を結び直し、蓮は井戸に桶を下ろした。
この日も延びる。この延びが、どこにも着かない延びであっても——それでも、延びた分だけの呼吸が、ここにある。呼吸は名を持たない。名を持たないものが、名を支える。
五稜郭の星の角に、朝の光が一斉に当たって、冷たい白をきらりと弾いた。白は余白だ。余白がある限り、行は続く。行が続く限り、影は歩く。歩く影の背に、もう一つの影が重なる。
蓮はその重なりを確かめるように、静の肩に手を置いた。
「静。——行こう」
「はい、矢野さん。——延ばしに」
星形の城は、まだ立っている。海は、まだ怒って笑う。森は、まだ押し寄せる。人は、まだ息をする。息がある限り、影は仕事をする。仕事がある限り、影は名を持たない。
それでも——名を持たないまま、確かにここにいたという温度だけは、誰にも奪えない。温度は紙に載らない。けれど、紙の白さを、裏からじんわりと温める。紙が反って、次の行が書きやすくなる。
それが、いま、延ばすということの全てだった。全てであり、精一杯だった。精一杯は、時に、正しさに勝つ。正しさが紙の上の黒であるなら、精一杯は紙の手触りだ。読み手が指を滑らせるとき、初めてそれに気づく。
風が、また変わった。海霧が、低く這った。五稜郭の内と外の境界が、朝の冷えで透明に見える。その透明の上を、二つの影が同じ歩幅で渡った。誰にも読まれない行が、その足音の下で、また一行、増えた。
榎本武揚の海図は、日ごとに擦り切れていった。宮古湾の奇襲は失敗に終わり、甲鉄は甲鉄のまま、怒って笑う太鼓——ガトリング——を甲板に載せて海に威圧を撒いた。紙上では幾度でも奪えたはずの鉄の皮膚は、現実には一度も裂けず、五稜郭の井戸端でその報を読んだ兵たちの顔に、驚きと疲労が同時に浮かんだ。驚きは瞬き一つで引っ込み、疲労はそのまま顔の下地になった。
二股口では土方歳三が地を握った。雪解けの泥の上、凍りの残る斜面に兵を散らし、倒木と浅い溝を継いでいく。新政府軍は森から出、数と弾で押し、こちらは地と間で受ける。静は倒木の角度を半足ずつずらし、硝子を斜に立てかけ、濡れ縄に砂を噛ませる。その配置は、ただの雑然にしか見えないが、いざ人が駆け込み、足を投げ出し、息を詰める瞬間にだけ牙を見せるよう組んである。蓮はその牙が覗く寸前の“間”に入り込み、刃の腹で、あるいは柄で、あるいは腕で、敵の動きを全て「遅れ」に変えた。遅れは恐怖になり、恐怖は撤退の合図になる。
その合間にも、海は陸に響き続けた。弁天台場は砲口を海へ向け、昼は耐え、夜に吠えた。砲身に布を巻き、白湯で喉を湿し、夜目に慣れた眼が火線の光で焼けないよう、火薬の合図をひと呼吸だけ遅らせる。静は台場の裏で、また一本、見えない道を敷く。倉と倉の間、板と板の隙間、樽の縁、砕けた硝子の角。人が「楽」だと思って足を向ける場所を、「少しだけ苦い楽」にすり替えておく。楽を続けて与えられた者ほど、最後の一歩で大きく転ぶ。転んだ膝が石に当たる鈍い音は、夜の台場にしか聞こえない鐘の音だ。
五月に入ると、箱館の空はいよいよ乾き、砲声は鋭くなった。二股口では、雪の下に隠れていた石が顔を出し、兵の足首を突く。夜、霜が戻り、朝、溶け、昼、泥になる。その繰り返しが、兵の気力を静かに削る。蓮はその削れを見越して、伝令の足数を倍にし、合間に井戸端で水を汲み、老婆の手から桶を受け取る。老婆は言った。「水は、いちばん後に枯れる」。その言葉が、薄い紙片よりも重く蓮の胸に入った。
台場に籠もる海の人々の中に、中島三郎助がいた。元は浦賀奉行所の与力、洋式船の操練に通じ、砲を愛し、海を知る男だ。頬には海風で刻まれた固い皺があり、目は風見鶏のように素早く動く。二人の息子を伴い、武士然と肩を張って砦に立つ姿は、疲弊した台場に一本の棟木を通すようだった。
静と蓮が台場の裏を整える折、三郎助は火薬の乾き具合を確かめながら、ふと振り向いて静に問うた。
「お前さんの名は?」
静は困ったように笑い、短く頭を下げた。
「名は、ここでは要りません。——弾の数だけ覚えていただければ」
「そうか。名は要らんか」
三郎助は頷き、砲身を撫でる指先に力を込めた。
「名は要らんが、筋はいる。撃つべき時に撃ち、沈むべき時に沈む。海は、ごまかしが利かん」
蓮はその背を見送った。海の人間は、陸の人間よりもよく泣き、よく笑う。そう感じたのは、江戸の潮風のせいだったのか、それともこの北の海の鋭さのせいなのか。
やがて、その三郎助の「沈むべき時」が来た。新政府軍が陸から押し寄せ、海からも圧力を増した日、弁天台場は孤立に近づいていた。砲座の後ろで白湯を分け合う時間も削られ、火薬の匂いは喉の奥を焼き、耳は砲声の重石で鈍く、足元の板張りは無数の小さな破片で刺立っている。
昼過ぎ、甲鉄を含む艦列が湾内に身をひねり、角度を変えて斉射を浴びせてきた。台場の壁が一度に震え、壁土が粉になって降り、兵の襟元と髪に白く積もる。三郎助は砲の後ろで短く声を張った。
「撃て!」
砲は吼え、海は答え、甲板の上の鉄が金属の花を散らす。だが鉄の花はすぐに閉じ、甲鉄の怒って笑う太鼓が、また台場の屋根を撫でた。弾は横からも来た。四方から、音が重なり、世界の向きがなくなる。
夕刻、台場の裏で火の手が上がった。敵が夜襲に備えている。静は蓮の肩を指で叩き、目で「右」を示した。誘い道の三本目が、ちょうどそこに口を開いている。暗さは味方、音は敵。暗さが深くなるほど、音の輪郭は太る。蓮は刃の腹でその輪郭を叩き、音を一つずつほどいた。
そして——夜が完全に落ちる前、風に色がなくなる黄昏の刹那に、台場の上で三郎助は立ち上がった。彼の右肩には、いつの間にか血が流れ出していた。片方の息子が父の腰を支え、もう一人が弾を運ぶ。
静は台場の影から、ほんの小さく頭を下げた。三郎助はそれに気づき、顔に浮かんだもの——笑みとも、覚悟ともつかぬ光——を残して、海に向き直る。
「箱館は、海の街だ。海に礼を尽くして死ぬ」
それが、彼の最後の言だった。続く斉射の一弾が砲の根本を打ち、台場の胸壁の一部が崩れ、飛んだ木片が息子の額を裂き、その瞬間に三郎助の胸を鉄が貫いた。彼は倒れ、息子の一人が叫び、もう一人が父の肩に顔を埋めた。砲の熱はまだ残り、父子の頬を赤く照らした。
蓮は走り出しかけ、静に袖を掴まれた。掴む力は強くなかったが、揺るがなかった。
「矢野さん。——ここでは、泣けません」
「……分かってる」
声は掠れた。台場の裏に回り、崩れた壁の隙間を塞ぎ、縄を張り直す。三郎助の死は、弁天台場の内側に重い沈黙を落としたが、砲は止まなかった。止められなかった。
夜半、台場はとうとう火に包まれた。火は砲を舐め、樽を焼き、縄を弾き、硝子を溶かす。静は蓮の背を押し、最後の連絡を五稜郭へ走らせた。蓮は走る。煙の中で目が痛み、喉が灼け、耳は自分の血の音で塞がる。五稜郭の門は開いており、土方の声が乾いて待っていた。
「弁天は……」
「持ちません。中島殿、討死」
「そうか」
土方は一度だけ目を閉じた。まぶたは薄く、血管が透けて見えるほど乾いている。その目がまた開き、地図の上の線が一本、短く消された。
「千代ヶ岱の持ちを半日延ばせ」
「はい」
延ばす、またその言葉だ。蓮は自分の呼吸が、胸ではなく背中のどこかで鳴っているのを聞いた。背中の音は、静の呼吸と重なっている。二人の呼吸が重なっている限り、延ばすことはできる——そう思い込み、そう信じる。
弁天台場の炎は、箱館の夜の低い雲を赤く染めた。海は火を映し、火は波で歪み、歪んだ火の光は五稜郭の硝子に小さく震えた。箱館の町のどこかで子が泣き、その声が風にちぎれて散った。
蓮は台場の方角に額を当てるようにしてから、土塁の陰に座り込んだ。衣の袖口には、三郎助の血がまだ温度を持って張り付いている。静が隣に腰を下ろし、短く言う。
「海の人は、潔いです」
「……そうだな」
「陸の人は、しぶといです」
「俺たちは?」
「影は、しぶといふりをする潔さを持つべきです」
「分かるようで、分からない」
「分からなくていいです。——今は、息を合わせてください」
蓮は目を閉じ、その言葉に従った。息を吸い、吐く。静の息と重ねる。戦の音は遠くで続き、近くの井戸端では水の音が小さく響く。水音は、砲声より古い。古い音は、人を落ち着かせる。
二股口では、なお撃ち合いが続いていた。森の向こうから押し寄せる兵の列は、何度も伸び縮みし、こちらの倒木に引っかかり、硝子の音に反応して振り向き、その振り向きざまに足をくじいて倒れる。静が仕組んだ「少しだけ苦い楽」は、ただの小賢しい仕掛けではない。長く相手の足を奪い、士気を削る。士気が薄くなると、弾は前に飛ばず、声は後ろ向きに出る。
土方はその薄さを見逃さない。押す場所を変え、引く時を遅らせ、追う時にだけ声を大きくする。声は、味方の骨の中の水を温める。骨の水が温まれば、人はもう一度だけ走れる。
しかし、箱館の地図全体で見れば、押し返しているのはほんの数尺、数間に過ぎなかった。七重浜に新政府軍の旗が増え、上磯からの道は黒い列で埋まり、森の向こうの音は日ごとに太った。榎本の艦は港内で身をひねるが、甲鉄の太鼓は笑い続け、外海の潮は冷たい。
五稜郭の内側では、食糧の配分表の行が短くなり、薬の棚の隙間が広くなった。子どもの泣き声は小さくなり、代わりに咳の音が増えた。
静は配分表の白い余白を指先で撫で、「余白があるうちは延ばせます」と蓮に小さく言った。余白は名を載せない。だが余白がなければ、次の行は書けない。蓮は頷き、余白に触れた自分の指が、煤で黒くなるのを見た。
その頃、五稜郭の医務所に、旧知の影が一度だけ差した。沖田総司の名が、誰かの口から、まるで冬の陽だまりに現れる埃の粒のように浮かんで消えた。江戸で静かに逝った天才の名は、ここではもう噂にもならない。静はそれを聞くと、背をわずかに丸め、膝の上で拳を握った。蓮は何も言わず、その拳の上に手を置いた。静は、ほんの一拍だけ目を閉じ、目を開けて「行きましょう、矢野さん」とだけ言った。涙は、この土地では凍って割れる。割れる涙は、他人の足を刺す。
五月も深まったある日、二股口の気配が変わった。新政府軍の押し手が一段と厚くなり、森の向こうの掛け声が長く続く。土方は地図の上を指で撫で、「ここで喉を細くする」と静に指示した。喉——一本木の関門へ通じる筋である。
その筋を細くするとは、倒木の角を変え、泥の溝の幅を広げ、腰の高さの藪を半歩前に出し、人が「走れる」と信じる幅を半足分だけ奪うことだ。人は走れると思えば息を大きく使い、走れないと思えば目を大きく使う。目を大きく使う者は、耳を手放す。耳を手放した人は、刃の音を聞き逃す。
静はその“細さ”を幾重にも重ね、蓮はそこで短く吠える犬のように、必要な場所でだけ刃を喉に当てた。刃先は皮一枚を切り、血の匂いで後ろの列を止める。止まれば、こちらの石は息をつく。息をつけば、明日の半日が生まれる。
しかし、海は待ってくれない。甲鉄の太鼓はなお笑い、湾外には新しい煙が近づいている。松前からの道は黒く、上磯の砂は踏み固められ、七重浜の潮は赤い。弁天台場を失った日から、箱館の夜は一度も暗くならなかった。火が町を照らし、町が火を映した。
榎本は、海図の上で指を止めた。武揚という名は、海の上で動くべき名だが、いまは土の城に閉じ込められている。彼はその事実を飲み込み、口を真一文字に結んだ。
土方は、その横顔に一度だけ視線をやり、何も言わずに二股口の地図へ戻った。延ばせ——。その言葉を、彼は誰よりも自分に言っているのだ。
ある晩、五稜郭の空が割れたような音を立てた。遠く外輪の方角で、火薬庫が一つ吹き上がったと伝令が言い、土方が眉の根を寄せた。補給の線が、一本、薄くなった。
静は即座に帳面を繰り、欠けた分を「人」で埋める段取りに切り替える。人は弾のように速くは運べない。だが、人は弾と違って、道を変えられる。橋が落ちれば浅瀬を渡り、浅瀬が流れれば凍土に穴を掘り、穴が崩れれば背を貸す。
蓮は荷を背に、雪解け水でぬかるんだ道に足を取られながら、口の中で数を数えた。五稜——千代ヶ岱——二股——戻る。往復ごとに、指のひび割れが深くなり、肩の皮が擦り切れる。
途中、避難の列とすれ違った。背に子を負った女が、蓮の腰に結んだ包みを見て、微かに会釈した。礼を言う声は出ない。ただ、会釈だけが確かな言葉だ。蓮はうなずき、背の荷を落とさないように歩幅を狭めた。歩幅を狭めると、息は浅くなり、浅い息は長く続く。長く続く息は、延ばす息だ。
もう一つの夜が来て、また一つの朝が来た。箱館の光は、春の終わりにしては白すぎる。白い光は、余白を広く見せる。余白が広く見えれば、次の行を書く力が少しだけ湧く。
静は縄を結びながら、唐突に言った。
「矢野さん。——もし、この城が落ちる時が来たら」
「……落ちない」
「落ちないように延ばします。けれど、もし」
「もし、は嫌いだ」
「その時、私が泣いていたら、笑ってください」
「は?」
「泣かないことが、正しいときばかりではありません。——海の人は、泣いて沈みます。陸の人は、泣いて立ちます」
「……分かった。お前が泣いたら、俺は笑う。笑えたら、だけど」
「矢野さんは、笑えます」
静の目は珍しく柔らかかった。柔らかさはすぐに引っ込み、代わりにいつもの冷たい水面が戻る。
その水面に、遠くから走ってきた影が映った。伝令だ。泥をはね、肩で息をし、土塁の上で膝をつき、額を地面に打ちつける勢いで報告する。
「一本木——向こう、押されております!」
土方が立ち上がり、刀の柄に指を置いた。
「出る。——静、付け」
「承知」
蓮も立ち上がる。「俺も行く」
「矢野さん。——五稜に残ってください」
「は? なんで俺だけ——」
「背を預けるには、背を残す必要があります」
言葉は理屈で、理屈は残酷だ。蓮は歯を噛み、しかし頷いた。土方の背に、静の背が重なり、その後ろにさらに別の背が続いていく。背中の列は、戦の一番強い線だ。
出立の前、土方はふと振り返り、蓮の肩を軽く叩いた。
「——死ぬな」
蓮は短く笑った。「そっちの台詞だろ」
静は、ほんのわずかに眉を上げた。
「矢野さん。——帰ります」
「当たり前だ」
風が変わる。一本木の関門の方角から、乾いた音が続き、その間に、聞き慣れない高い叫びが混ざる。新政府軍の少年兵の声だ。声は若く、若さは戦場でいちばんよく響く。土方の背は小さくなり、静の白が黒い人波に吸い込まれた。
蓮は五稜に残り、配分の余白を睨み、井戸の列をさばき、伝令を送り出した。耳は一本木の方角を向き続け、胸はそこで鳴っているはずの静の呼吸へ勝手に合おうとする。
夕刻、空の色が薄紫に傾いた頃、一本木の方から、どっと重い空気が押し寄せた。蓮の背の毛が逆立ち、足が地面を探した。土塁の上の影が増え、門のところで馬の嘶きが短く切れ、誰かが「救護!」と叫んだ。
蓮は駆けた。土塁の切れ目をすり抜け、門の陰で滑り、砂を蹴る。見張りの兵が道をあけ、担架が二つ、三つ、連続して運び込まれる。血の匂いが土の匂いを凌駕し、白い息が赤い蒸気に変わる。
担架の最後に、知っている黒が見えた。土方の羽織の裾だ。裾は汚れているが、破れてはいない。担いでいる兵の目は、まだ折れていない。蓮はそこで、ようやく息を吸った。
——そして、土方のすぐ後ろで、もう一つの担架が揺れているのを見た。白い袖。静の袖。袖口から手が垂れ、その指はまだ固く閉じている。
「静!」
声は自分のものとは思えないほど高く出た。担架の縁に手をかけ、静の顔を覗き込む。右頬に土と煤、唇は乾いて色がない。胸は——動いている。小さく、均等に。
静の目が、鞘から刃がわずかに覗くように開いた。
「矢野さん。——帰りました」
「馬鹿野郎……!」
「……少し、泣きそうです」
「泣くな。泣いたら、俺が笑うって言っただろ」
「はい。——笑ってください」
蓮は、笑おうとした。頬が引きつり、喉が詰まり、目が熱い。笑えない。笑えないことが、笑いよりも大きな声で、静に伝わってしまう。静は、それを見て、ほんのわずかに目尻を下げた。
「ありがとうございます。——生きて、延ばします」
その夜、一本木の向こうで戦は続き、五稜郭の中では水が配られ、白湯が湯気を立て、夜番の鐘が寒さで鈍く鳴った。土方は短く眠り、短く起き、また地図を見た。
蓮は静の寝台のそばで、刃の手入れをした。砥石の上で、刃は静かに鳴る。鳴き声は、遠くの海の低い脈と呼応する。海は眠らない。戦も眠らない。眠らないものの間に、わずかに眠る人の呼吸が、細く、伸びていく。
——延ばせ。たとえ明日が、涙で割れ、鉄で刻まれ、火で焦げる明日であっても。延ばせば、誰かの背が一里進む。延ばせば、誰かの名が紙の上に、遅れてでも載る。
蓮は砥石の上で刃を止め、静の額の汗を指の腹で拭った。その指に、戦の塩と涙の塩がいっしょに乗った。しょっぱさは同じだが、舌の奥に残す温度は違う。戦の塩は冷え、涙の塩は、わずかに温かい。
夜が明ける。箱館の空はまた白く、風はまた鋭い。榎本は海図を開き、土方は地図を撫で、静は袖を結び直し、蓮は井戸に桶を下ろした。
この日も延びる。この延びが、どこにも着かない延びであっても——それでも、延びた分だけの呼吸が、ここにある。呼吸は名を持たない。名を持たないものが、名を支える。
五稜郭の星の角に、朝の光が一斉に当たって、冷たい白をきらりと弾いた。白は余白だ。余白がある限り、行は続く。行が続く限り、影は歩く。歩く影の背に、もう一つの影が重なる。
蓮はその重なりを確かめるように、静の肩に手を置いた。
「静。——行こう」
「はい、矢野さん。——延ばしに」
星形の城は、まだ立っている。海は、まだ怒って笑う。森は、まだ押し寄せる。人は、まだ息をする。息がある限り、影は仕事をする。仕事がある限り、影は名を持たない。
それでも——名を持たないまま、確かにここにいたという温度だけは、誰にも奪えない。温度は紙に載らない。けれど、紙の白さを、裏からじんわりと温める。紙が反って、次の行が書きやすくなる。
それが、いま、延ばすということの全てだった。全てであり、精一杯だった。精一杯は、時に、正しさに勝つ。正しさが紙の上の黒であるなら、精一杯は紙の手触りだ。読み手が指を滑らせるとき、初めてそれに気づく。
風が、また変わった。海霧が、低く這った。五稜郭の内と外の境界が、朝の冷えで透明に見える。その透明の上を、二つの影が同じ歩幅で渡った。誰にも読まれない行が、その足音の下で、また一行、増えた。



