名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 箱館の風は、音まで冷たい。土塁の影で立ち止まると、耳の軟骨がじんと痺れ、砲金を叩いたような、鈍い高音が空気そのものの奥から鳴った。凍てつく風の鱗が五稜郭の星形の稜にぶつかっては砕け、城内の空地に白い粉のように散る。兵たちは鼻の穴の奥に小さな氷柱を育てながら歩き、靴底は乾いた音を出して凍土を裂いた。

 その朝、伝令が二度、つづけて転げ込んだ。第一の伝令は、江差方面へ新政府軍の上陸が本格化したこと。第二の伝令は、松前城落城の確報である。紙に描かれた墨の線は、冷えのせいか硬く、角が立っていた。五稜郭の中庭に薄いざわめきが起き、すぐに土方歳三の声がそれを鎮めた。

「騒ぐな。騒ぎは火だ。火は弾薬へ移る」

 低い声は、冬の井戸水のように澄んでいるのに容赦がない。蓮は無意識に背筋を伸ばし、静は目だけで土方の指先の動きを追い、次の命令の形を予想する。

「千代ヶ岱と弁天台場の呼吸を一度合わせ直す。五稜は昼は沈黙、夜に吠えろ。誘い道は第二線まで敷設。連絡は人を使え。旗と光だけに頼るな」

 榎本武揚の部屋では、海図の上に新しい黒い線が一本引かれた。宮古湾。艦名が低い声で読み上げられる。回天、蟠龍、高雄——。蓮はその音の並びに、荒れた冬海のうねりを見た。鉄の怪物・甲鉄を奪えば、潮目は変わる。だが賭けは賭けだ。土方の陸の計算は、賭けではない。延命の算盤。小さな珠をひとつずつ鳴らしていく、気の遠くなる仕事。

 弁天台場へ向かう道は、潮の匂いと炭の匂いで重い。静は蓮の半歩前を歩き、袖の白が時折、風に平たくなびく。台場の胸壁には霜が薄く張り、砲金は青黒く凍てついている。砲手たちの頬はみな霜焼けで、皮膚の奥が火照って見えた。
 静は裏手へ回り、倉と弾薬庫の間に散らばった雑多な物を拾い集めて、角度と距離を調整する。樽、梯子、縄、割れたソリ、硝子障子の枠。敵の足を遅らせ、焦らせ、音を増やすための“楽”な道——誘い道——を、わざとまっすぐに見せない。

「静、縄は濡らした方がいいのか、乾かした方がいいのか」

「矢野さん。濡れ縄は重く、乾き縄は脆いです。——今日は重い方を」

「風向きか」

「はい。——それと、敵の焦り方」

 静は濡れ縄に砂をすり込み、足裏でそっと踏んだ。砂が馴染む音は、雪解け水が石の隙間に吸い込まれる音に似ている。蓮は手を貸し、角材の高さを足首の骨に合わせて半分ずらす。人は暗い場所で、足首で歩く。膝ではない。足首にひっかかる段差は、膝にひっかかる段差よりも、心を早く削る。

 その夜、海霧の向こうから、櫂の音が生まれた。蓮の耳が、つい海へ向く。静が肩を指で押し、短く囁く。

「まだ。——音は意図です」

 小舟が二、三、霧の縁を舐めるように現れては消えた。距離の変化は計っている。水深、潮の流れ、台場からの反応。台場の見張りの一人が、無意識に引き金へ指をかけた。静が手の平を低く出して制し、首を横にわずかに振る。撃てば楽だ。楽は早すぎる。楽を先に与えると、次の夜にこちらが苦しくなる。

 明け方、小舟は消えた。弁天台場の砲座は、薄い霜を吸って冷え、兵たちの背から白い息が幾筋も立った。昼に入ると、湾口の外に黒い影が増える。新政府軍艦の煙突が水平線の上に二本、三本。舷側の帯鉄が鈍く光り、甲板の砲座が斑に黒い。蓮は数を目で数え、静は影と影の間の「間」を測った。敵の編隊間隔には、そのまま指揮官の癖が出る。詰まっていれば慎重、間延びしていれば強気。強気は、最初の痛みで折れやすい。慎重は、長く痛みに耐える。

 最初の砲声は、海の低い唸りを押し広げるように来た。弁天台場の砲が吼え、湾外の艦砲が答え、空と海の間に圧縮された空気の板が何度も打ち重ねられる。水柱が高く上がり、細かい霰のような海水が胸壁の内側へ吹き込む。舌の奥に塩が残り、唇の切れ目に染みた。
 蓮は走った。砲座から伝令所へ、伝令所から五稜郭へ、五稜郭から土方へ。土方は一目で配分を改め、短く言葉を落とす。

「弁天に第三号弾を。千代ヶ岱の予備を回せ。五稜は日中は牙を隠せ。——夜に噛め」

 夜が来る。静は二本目の誘い道を敷き、昼間に相手が「楽だ」と学んだ角を裏切るよう配置を換えた。薄い硝子の角度を変え、割れたときの音が“人の声”に近くなるように調整し、樽はわずかに楕円になるよう縄で締め直す。人は人の声に反応してしまう。反応した瞬間、足は僅かに遅れ、足の遅れは刃の届く距離になる。

 その間にも、榎本の部屋では海の策が進んでいた。宮古湾奇襲。甲鉄奪取。艦の編成、時刻、偽旗の策。紙の上に鉛筆の黒が何度も足され、消しゴムのカスが紙の端に雪のように積もっていく。
 静と蓮は、海の賭けに背中を預けるため、陸の算段を緻密にした。延ばすこと——それが土方の命令であり、影の役目だった。

 数日が経った。朝の風はなお鋭く、昼の光はなお低い。五稜郭の井戸端で女たちが水を分け合い、兵は白湯をすすり、子どもは背負い籠の布の隙間から冬の空を覗く。箱館の町は戦を吸い込んで呼吸を続け、呼吸は日ごとに浅くなった。
 そんな折、湾口の方角から異様に静かな時間が流れた。静けさは、音の前触れになる。弁天台場の砲座にわずかな緊張が走り、五稜郭の中庭の犬が低く唸る。やがて遠い沖から、違う種類の唸りがやってきた。蒸気機関の深い脈だ。
 「甲鉄だ」誰かが囁いた。囁きでさえ唇の裂け目を痛ませる。

 甲鉄——鉄の舷側に鉄の心臓を持つ怪物は、宮古湾で待っている。榎本は奇襲の策を固め、僚船に偽旗を掲げさせる手順を下した。黒船の時代以来、海の礼式は細かい。敬礼の順序を破れば撃たれる。逆に言えば、その一瞬の礼式の“隙”が、唯一の入り口になる。
 五稜郭の井戸端で白湯を配っていた老女が、小さく首を振った。「海の神さまは嘘が嫌いだよ」。誰かが笑って空に吐いた白い息が、すぐ霧の粒になって落ちた。

 四月。宮古湾の報せは、風よりも早く走った。偽旗の策は一度は奏功し、回天が甲鉄へ接近、接舷——。だが甲鉄の舷側には、初めて見る怪物が据えられていた。連発機関砲。ガトリング。鉄の雨が、木の甲板を粉に変え、人の胸を布のように裂く。
 甲板で前へ出た男たちの名が、紙片の上に次々と記された。箱館でそれを読んだ者たちの顔には、怒りよりも驚きが先に浮かんだ。戦の理不尽が、ついに形を持って眼前に現れたのだ。

 「静……ガトリングってのは、どんな音なんだ」

 蓮は思わず口にして、すぐに後悔した。葉のない冬枝のような問いだ。静は少しだけ考え、「矢野さん」と前置きしてから言った。

「太鼓が、怒って笑う音です」

 怒って笑う太鼓。蓮は喉の奥を、冷たいものが撫でていくのを感じた。怒りと笑いが同時にある音に、人はどうやって抗えばいいのか。

 宮古湾から戻った報は、さらに続いた。回天は辛くも逃れたが、高雄は追われ、蟠龍は散った。甲鉄はその鉄の皮膚を曇らせることもなく、湾を占め続けている。
 五稜郭の中庭で、土方は報を黙って受け取った。怒号はない。拳も振らない。右手の爪が、一瞬、紙の端を押して白い跡をつけた。それだけだった。

「……延ばせ」

 またその言葉だ。蓮の胸に、針のように突き刺さる。勝とうと叫ぶより、延ばせと言われる方が残酷だ。延ばすとは、死を遅らせることだ。遅らせた分だけ、死を見る時間が増える。
 静は小さく頷き、弁天台場へ足を向けた。蓮はその後を追う。海は昨日よりも黒く、風は昨日よりも白く、台場の砲身は昨日よりも細く見えた。

 五月。新政府軍は艦砲で港口を押さえるだけでなく、陸へ大きく回り込んできた。上磯から、森へ。二股口——函館へ通じる喉のような狭隘。そこを抜かれれば、五稜郭は背を撃たれる。
 土方は二股口に兵を差し向け、自らその指揮に立った。雪解けの泥に長靴が沈み、斜面にはまだ凍った土が残る。木々は芽吹く準備だけをしていて、葉はない。見通しは良すぎるほどに良い。
 静はその脇で、やはり“見えない道”を作る仕事を続けた。倒木と泥溝、石と雪の境目。人が無意識に足を置きたくなる高さらしきものを、半歩ずつずらす。敵の列は、細い糸で織られた布のように見える。糸は引っ張れば伸びる。しかし絡めれば、引っ張るほど詰まって動けなくなる。
 蓮はその布の縫い目の前に立ち、刃を短く走らせる役を引き受けた。斬るというより、縫い目を切る。切った分だけ、布の表面はみすぼらしくなる。みすぼらしさは士気を削る。士気は刃を鈍らせる。

 二股口の戦いは、日ごとに泥と煙を増やした。新政府軍は数で押し、こちらは地で受ける。榎本の海の賭けは外れ、陸の算盤だけが残った。
 蓮は昼は泥、夜は霜、朝は白湯。そんな日を積み重ねる。静は口数を減らし、しかしわずかに歩幅を狭くした。疲れの合図だ。疲れていることを互いに隠さないのは、影の二人の約束の一つだった。隠すと、どこかで穴が開く。穴は仲間を吸い込む。

 五月四日、海から別の報が入る。弁天台場の視界の外、外輪の向こうで、砲声が変わった。短く、鋭く、金属を叩いたような音。新政府軍の小艦・長鴻(ちょうよう)が、こちらの走り回る小艦と撃ち合い、やがて海に腹を見せて沈んだ。撃ったのは、こちらの艦・蟠龍——ではない。箱館の弁天台場で聞いた老人が小さく言う。「バンリュウだ」。蝦夷の海に集められた船は、みな漢字の名を持っているのに、現場ではいつのまにか音だけの名になる。
 小勝の報は、五稜郭の土塁の上で薄く笑いに変わった。笑いは、寒風ですぐに氷になって落ちた。

 その翌日、今度は逆の報が来る。回天が江差の近くで座礁、やむなく火を放って自焼。長い間、紙の上で踊っていた艦の名が、一瞬で煤になって空へ散った。
 蓮は弁天台場の裏で、静と並んで海を見た。燃える船の匂いは、戦の匂いではなく、古い家を焼く匂いに似ている。思い出が油になって、長く、しつこく燃える。

「静。——延ばして、どこに着くんだろうな」

「矢野さん。——着かないところへ、延ばすのかもしれません」

「冗談じゃない」

「冗談じゃないから、冗談みたいに聞こえます」

 静の、乾いた、しかし少しだけ温度を含んだ答えに、蓮は短く笑った。笑いはすぐに風に持っていかれたが、喉の奥に少しだけ熱が残った。

 箱館の町では、避難の行列が日に日に長くなっていた。女が背に子を負い、男が荷車を曳き、老人が杖をつく。五稜郭の井戸端に寄って水を求める者に、兵が桶で水を渡す。名は問わない。どこの誰かを問うている時間はない。
 蓮はその列の端を見つめ、掌を固く握った。延ばした一刻が、背の子の一口になる。延ばした半日が、老人の一里になる。延ばした三日が、降る条件の一行になる。土方の言葉が、現実の重さを伴って腑に落ちる。

 五月十一日前後、新政府軍はついに箱館の喉笛に刃を当ててきた。二股口の圧力が増し、七重浜の砂が黒い点で埋まる。夜になると、弁天台場の沖に灯が増え、朝には少しだけ減る。減る灯は、沈んだ灯ではなく、岸へ移った灯だ。
 静は誘い道を三本目まで敷き、昼間に見せた“楽な角”を夜には別の“楽”にすり替えた。楽を与え続けることは慈悲ではない。楽は、相手の足をこちらの思う場所へ運ぶ手綱になる。
 蓮はその手綱の先に立ち、刃を短く出し入れする。人の命を善悪で測るな、と静は昔から言う。出入りの帳面に書くように、生と死を“出”と“入”で記す癖が、蓮の中にゆっくりと根を張っていく。根は土に張るものだが、ここには土も薄い。薄い土に、影の根を張る。

 五月中旬、箱館の空気は一段と乾いて、砲声が遠くまで通るようになった。五稜郭の土塁の上、榎本は遠眼鏡を握りしめ、土方は地図の上に指を置き、静は縄を結び直し、蓮は井戸端へ水を運んだ。
 戦は、もはや大きくは動かない。大きく動かないからこそ、小さな動きが命を左右する。角材を半足ずらすこと、硝子の角度を一度変えること、縄を一本減らして一本増やすこと。
 その小さな動作の積み重ねが、戦の時間を、一分、一刻、半日、三日と延ばす。延ばした時間は、紙の余白になる。余白には、名は載らない。載らないが、確かにある。あるから、次の行が書ける。
 蓮は夜の台場の陰で、白い息を吐きながら、紙の白さを思った。白は、何も書かれていないのではない。書くために残してある。誰の名も、その白に宿ってはいない。だが白がなければ、名は並ばない。
 静が、低く呼ぶ。

「矢野さん」

「なんだ」

「明けたら、二股に行きます」

「……土方さんのところか」

「はい。——延ばす人のところへ」

 蓮は頷いた。五稜郭の星の角は、どこから見ても同じように見えるのに、近づけばそれぞれ別の顔を持っている。静は、どの角の顔も知っている。蓮は、その横顔だけを見ていればいい。
 夜がゆっくりと浅くなり、遠い沖の黒に、鉄の影がまた一つ増えた。怒って笑う太鼓の音が、まだ聞こえない距離で震えている。箱館の朝は冷たく、長い。そして残酷に澄んでいた。
 延ばせ、と土方は言った。延ばした先に何があるのかは、誰にも見えない。見えないもののために、指の皮を裂き、足首を泥に埋め、肺の中に塩を入れる。
 それでも蓮は歩く。静の半歩後ろを、同じ呼吸で。呼吸の音は、砲声よりも小さく、しかし砲声よりも確かに、自分たちがまだ生きていることを教えてくれる。
 風は変わり、潮は上下し、人の声は遠くへ行き、戻ってこない。紙の白は、朝の光で少しだけ青くなった。青い白の上に、今日の一行が、また細く、刻まれていく。

 ——戦は、終わらない。終わらないからこそ、今日を延ばす。延ばした今日の端に、名ではなく、背中の温度だけが残る。それで十分だと、いまは思う。明日、それが十分でなくなったときは、また明日、別の温度で、誰かの背を押す。
 蓮は拳を開き、指の節のひび割れに白い息を吹きかけた。静はその横で、縄を結び直しながら、短く言った。

「矢野さん。——行きます」

「行こう、静」

 二人は星形の城の影を踏み、海と陸のあいだの冷たい縫い目へ、身を滑り込ませた。戦の糸は張り詰め、音もなく軋み、薄い氷の下で黒い水が動いている。足裏に伝わるその動きを、二人は確かに感じながら、まだ切れていない細い橋の上を、同じ速さで渡った。