名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 春のはじめ——とはいえ蝦夷の春は、内地の晩冬よりもなお白く、空気の粒のなかに氷の欠片が混じっている。風が吹くたび、指の節が乾いて裂け、唇の皮が薄く剥けた。箱館湾の水は鉛のように重く、沖では蒸気船の黒い煙が低く這ってはちぎれ、また這ってはちぎれる。
 その朝、五稜郭の太鼓が二度、間を置いて三度、鋭く鳴った。伝令が、凍った地面を泥のような音を立てて駆けてくる。

「江差方面、上陸の報! 松前、危うし!」

 土塁の上で見張りをしていた矢野蓮は、思わず拳を握り直した。芯の抜けるような寒さの中でも、胸の内側だけは熱く、痛むほどに熱い。隣で白い袖を風に揺らしていた沖田静が、蓮の横顔を一瞬だけ見て、それから視線を海へ戻した。

「矢野さん。——船の煙、増えます」

「分かってる。けど、見てるだけってのは、どうにも慣れないな」

「はい。——見ているうちに、道が見えます」

 静の声は、冬の川底を流れる薄い水のように冷たく静かだった。彼の言う“道”は、足で踏める土の筋だけを指すのではない。人の考えが曲がり、疲れ、焦り、つい選びたくなる「楽な筋」まで含めての“道”だ。敵の足が自然に向かってしまうほうへ、ほんの少しずつ、高さと硬さを仕込む。静はそれを“誘い道”と呼ぶ。戦に勝つためというより、負けを遅らせるための仕掛けだった。

 午前のうちに、榎本武揚の詰所へ集合がかかった。台紙に貼った海図の上、鉛筆の黒が張り巡らされている。榎本は外套の襟を立て、黒い口髭を湿らせたまま、低く言った。

「海は賭けるしかない。甲鉄を奪えれば、まだ息ができる」

 宮古湾の名が、室内の空気を冷たくした。新政府軍の鉄甲艦——甲鉄。蒸気機関と鉄の皮膚を持つ怪物。海に生きる者であれば、その名を口にするだけで喉が渇く。
 榎本は続けた。

「回天、蟠龍、高雄——編成を組み直す。宮古湾へは別働だ。箱館は土方殿に預ける。千代ヶ岱、弁天台場、五稜郭——三角の呼吸を乱すな」

「承知」

 土方歳三は短く応え、地図を端から端まで睨み抜いてから、二人に目をやった。

「静、弁天台場への線を太くする。蓮、その線に血を通わせろ。——死ぬな」

 蓮はわずかに笑い、しかし背骨のどこかで震えを感じた。土方が「死ぬな」と口にするのは稀だ。敗走に敗走を重ね、規律だけが残った今、その一語は薄い粥よりも鮮烈だった。

 弁天台場は、箱館港口の左手に突き出した石の牙だった。砲は海へ口を開け、砲身の金属は寒さで鈍く光っている。砲座の陰には、凍った縄、割れた車輪、樽、半分腐った板。静はそれらを片端から手に取り、置き直し、縛り直し、立てかける角度を変える。樽の縁をわずかに削って滑りを殺し、梯子の横木を一本抜いて、知らずに足を掛けた者の体勢を崩す。濡れた縄は重く、凍った縄は脆い。どちらが敵の焦りを育てるか——静は、寒さと指先で試す。

「お前の道具箱は、いつ見ても物騒だな」

 蓮がそう言うと、静は短く頷いた。

「矢野さん。——刃だけが刃なら、戦は簡単です」

「簡単だったことなんて、一度もない」

「はい。——だから、刃の裏側を増やします」

 台場の裏手で、砲兵頭が砲弾の割り振りを叫ぶ。「今日は海風が重い。弾は低く、火は浅く」。火薬庫の扉の前には、出入りの記帳簿が置かれている。蓮はぺらりと紙を繰り、字の癖を目で追った。弾の数は、字の濃さに現れる。濃い字は焦り、薄い字は疲労。焦りと疲労が交互に並ぶのは、台場が“適度に保たれている”徴しだった。

 夜——海霧が湧き上がる。灯明が二つ、三つ、ぼんやりと滲む。沖の黒は、黒と呼ぶには浅く、濡れた鉄の色に近い。櫂の音が、思ったよりも遠くで小さく、そして規則的だった。
 静が蓮の肩を指で叩く。

「まだ」

「分かってる」

 小舟が海霧の縁からふっと現れて、また消えた。接近、離脱、接近——音の間隔と回数が、向こうの神経の深さを教えてくれる。台場の見張りが、思わず銃を構えた。静が手をかざす。撃った瞬間に、こちらの「反応の深さ」を測られる。測られたものは、次の夜に必ず突かれる。今は“見せない”が勝ちだった。

 明け方、小舟は消え、冷たい風だけが残った。日が高くなるにつれ、湾口の外に黒い影が増えた。煙突が二本、甲板に々とした砲座、舷側の帯鉄。蓮はその輪郭を目で撫で、喉の奥に鉄の味が広がるのを感じた。
 海の低い唸りに、最初の砲声が重なった。弁天台場の砲が吼え、遅れて海上の砲声が返す。衝撃は箱館の町の窓ガラスを震わせ、五稜郭の土塁の土がわずかに崩れた。水柱が立つ。細かな霰のように、しぶきが胸壁に打ち付ける。
 蓮は走る。砲座から伝令所、伝令所から五稜郭、五稜郭から土方の詰め所へ。土方は紙の上の線を一目で読み替え、短く命令を落とす。

「弁天の弾、第三号を優先。千代ヶ岱の予備を回せ。五稜は昼は沈黙、夜に吐け」

 静は台場裏で、二本目の“誘い道”を敷き始めた。道といっても、角材を一本置き、破れた硝子障子を斜めに立て、樽を尻に敷いたソリで塞ぐだけだ。だが、角材の高さは足首に合わせ、硝子は薄い音で割れ、ソリは人の重さでずれる。どれも致命ではない。致命の手前だけを増やす。それが静のやり口だった。

 夕刻。霧が再び濃くなる。蓮は台場の砲耳に耳を寄せ、砲身の熱の残り方を手の甲で確かめる。砲手たちは黙って働き、合間に白湯をすすった。白湯の湯気は、砲煙の灰色にすぐに混じって見えなくなる。見えなくなっても温度だけは残る。温度は刃の裏側だ。
 夜の海で、短い沈黙が生まれた瞬間があった。静の肩が動く。「今」。五稜郭の稜堡から、短い発火が続いた。火線が夜気の中で二手、三手、交錯する。やや間をおいて海面が白く跳ね、音が遅れて胸に来る。
 当たったかどうかは、夜の海では分からない。けれど「こちらはまだ噛める」という実感が、胸の奥にわずかに灯る。灯りは小さいほど消えにくい。大きな灯りは風を呼ぶ。

 翌日、松前落城の確報が入った。淡い紙の上で、黒々とした文字が軽く見えるのは、書いた者の指が凍えているからだ。榎本は顔色を変えず、短く顎を引いた。

「宮古の方は——」

 答えは戻ってこない。宮古へ向かった艦隊は荒天に揉まれ、編成は乱れ、鉄の怪物は津の口で待ち構えている。海は裏切らない。裏切らないが、こちらの望み通りには動かない。榎本の指は、机の端で一度だけ鳴った。

 その日の午後、土方は兵を集めた。星形の城の中庭に、青い羽織の者、旧幕臣の黒、奥羽の着綿の灰、蝦夷の漁師上がりの茶色が混じる。土方は凍てつく風の中で声を張り上げることを好まず、いつもの調子で低く言った。

「勝とうとするな。——延ばせ」

 誰かが息を呑んだ。土方は続ける。

「ここでの勝ちは、数えるな。延ばした一刻が民の一食になる。延ばした半日が女と子の避難の距離になる。延ばした三日が、降伏の条件になる。——延ばせ」

 蓮はその言葉を胸の内で反芻し、静は瞬きを一つだけ増やした。勝とうと叫ぶよりも残酷で、はるかに現実的な命令だった。
 その夜から、二人の仕事はさらに細かくなった。蓮は台場と五稜郭の間を一日に何度も往復し、出入りの帳面に線を増やす。静は“誘い道”を夜ごと書き換え、同じ昼には同じ道が効かないことを敵に教えない。簡単に通れた昨日の筋が、今日には足首を噛む。安全だった角が、今日は指を裂く。相手の「昨日」を裏切る。その小さな裏切りが、戦の骨を軋らせる。

 箱館の町は、戦を吸い込んで呼吸を続けていた。漁師は朝に網を繕い、女は井戸端で水を分け合い、子どもは大人の背で泣く。夜になると、路地裏で灯が一つ、また一つと消え、朝にはまた同じ数だけ灯る。灯りは数えられる。数えられるものは、守れる。守れる数を増やすのが、影の働きだった。

 数日後——海からの低い唸りが、いつもより長く続いた。弁天台場の砲員が、薄い唇を噛んで視線を固定する。湾口の外で、四、五、六——黒い影が増える。煙突の数、舷側の帯鉄の幅、船腹の沈み。蓮はそれらを数え、静は影の間の間隔を測る。間隔は、心の間隔だ。詰まれば焦り、空けば油断する。

「矢野さん」

「なんだ」

「弁天の北側、縄が一本、切られてます」

「さっき結んだばかりだろ」

「はい。——切り口が新しい。向こうの刃です」

 縄の切り口は、内側からではない。外から、夜の海の中で、音を殺して切った。見えていないようで、こちらは見られている。見られていることを知りながら、見せるものと隠すものを選ぶ。選び続ける仕事は、刃の芯を疲れさせる。疲れた芯は、夜の長さで回復させるしかない。
 静は切られた縄の位置を変え、切っても意味のない縄をわざと目立つように張った。敵の刃がそこに向かい、無駄に鋭くなるのを待つ。無駄に鋭い刃は、味方を刺す前に自分の手を裂く。

 夜半、海霧の奥から、太鼓の音が土の腹を叩いた。一定の間隔、重い皮。薩摩か。ほどなく笛が乗る。高く、尖って、風の刃で耳を刺す。長州の笛。二つの音の重なりは、江戸の上野で一度聞いたきりの、嫌な記憶を呼び起こす。
 弁天台場の砲口がわずかに持ち上がり、しばらく黙ってから、夜気の底を撃った。火の輪が海の上で一瞬だけ咲き、また消える。海の上の黒が、黒のまま、近づいてくる。
 静が背中で合図した。蓮はその背の形を読む。右肩が半分下がる——こちらはまだ「見ている」。左の肩が僅かに上がる——この先で一度「止める」。背の形は、言葉より正確な地図だ。

 弁天の裏手に、足音が生まれる。知らない足音だ。靴底が硬く、踵の落ちる角度が急いでいる。人は暗闇の中では、急ぐと踵が落ちる。足を運ぶ癖は、国に関係がない。恐怖だけが、踵の角度を決める。
 静は角材の位置を半足分ずらし、硝子障子の角度を変え、濡れ縄に砂を擦り付けた。濡れ縄は、砂で重くなる。重くなった縄は、踏んだ足から熱を奪う。奪われた熱は焦りになる。焦りは音になる。音は、刃に変わる。

 蓮は暗闇の端で息を殺し、音の帯の切れ目を待った。切れ目は来る。必ず来る。その瞬間に、刃は最短の距離で出て、最短で戻る。そこに迷いを挟まない訓練だけは、京の夜からずっと積んできた。
 刃が一度だけ光り、音が二つ、消えた。悲鳴は出ない。静が耳元で言う。「矢野さん。——次」。蓮は頷き、足の位置を半分だけずらす。足の位置を変えるたびに、自分がまだ生きていることを確認する。それが、影の呼吸だった。

 夜が明けても、戦は終わらない。終わらないことが、ここでは当たり前だった。榎本は海の紙を睨み、土方は陸の紙を睨み、静は“誘い道”の紙も持たずに土と木と縄を睨む。蓮は、紙に書かれるはずのない名の代わりに、出入りの帳面に線を増やす。線は増える。名は増えない。
 それでも、蓮は思う。線が増えれば、紙が一枚、延びる。紙が延びれば、その白い余白のぶんだけ、誰かの今日が伸びる。名を持たぬ者が、白い余白を作る。それが、ここでの“勝ち”の形だった。

 風は一日ごとに向きを変え、潮は日ごとに高さを変えた。箱館の空は高く、雲は低い。五稜郭の星形の角は、どの角度から見ても同じに見えて、近づけば微妙に違う。違いがあるところに、静は段差を作る。段差は一足ぶんの高さで、人の心の中の「まだいける」を一つずつ削る。
 京で覚えた沈黙、江戸で覚えた嘲笑、会津で覚えた泥の冷たさ。どれも今の箱館で、刃の裏側になっている。蓮は、それらすべてを掌に集め、静の背に預けながら、また一歩、台場と五稜のあいだを走った。
 海上の黒は増え、陸の煙は濃くなり、箱館の路地の灯は、昨日と同じ数だけ生まれて、同じ数だけ消えた。
 戦は、始まったばかりだった。延ばせ、延ばせ、と蓮は小さく呟く。静は隣で頷く。それだけで、足が出る。足が出たぶんだけ、紙が延びる。延びた紙の白は、誰の名にもならない。けれど、白は白のまま確かに存在して、明日の欄外に、薄く、しかし消えずに残った。