朝は刃を鈍らせなかった。むしろ刃に輪郭を与えた。夜の黒のなかで想像していた全ての線が、白い冷光に照らされて実体を持つ。七重浜の砂は薄く湿り、峠下の松は樹皮に霜を帯び、弁天台場の石は粉を吹いて白く、五稜郭の土塁は凍み返って堅かった。北からの風は低い唸りで大気を押し、海面は押し返すように細かな波を並べた。甲鉄の。
春日の。丁卯の。蟠龍の。
名のある艦のシルエットが、箱館湾の口で角度を変え、光と風を切り刻み、それぞれの射界を測り直している。榎本の回天と蟠龍(奪われた旧友)との距離は、思うほど遠くない。遠いのは思想で、近いのは鉄だ。
榎本の指令所では、黒田清隆の名が再び地図の上に浮かび上がり、蒸気機関の鼓動のように、誰の胸の内にも響いていた。箱館戦争の終幕に向けて、新政府軍の歯車はもう逆回転を許さない。五稜郭の星型の稜堡、その稜角に立つ男たちは、それでも僅かな遊びを求め、歯の先に爪をかけ、指の腹を擦り減らしながら、一刻でも回転を鈍らせようとしている。
「矢野さん」
静が低く呼んだ。蓮は土塁の肩で振り返る。
「静」
「南の砂丘から、上陸の列が伸びます。太鼓と笛の間隔が、訓練の深さを語っています」
「薩摩か、長州か」
「太鼓が重いのは薩摩、笛が尖るのは長州。ですが、列の真ん中の硬さは奥羽の足の硬さです。——混じっています」
敵の列は混じるほど強くなる。薩長の骨に、奥羽の筋が絡み、東北の冬で鍛えた足腰が列の長さを保つ。列が崩れない限り、こちらの弾は、当たっても“止めない”。止めるのは、地形と心理だ。
静は、前夜に仕込んだ“誘い道”の続きを指先で示した。七重浜から峠下へ抜ける浅い湿地、湿りの帯が目に見えない堀となって敵の靴底を冷やす。戸切地の出口で風が鳴る角度。砂丘の背に設えた古い杭の影。どれもわずかな仕掛けに過ぎないが、わずかな仕掛けが幾つも重なると、人の意志は細かく削られ、やがて刃の芯が折れる。
やがて、弁天台場の上にいる砲長が、短く腕を振った。第一、第二、第三。間断の少ない合図。音は空を割り、海の皮膚を叩き、甲鉄の装甲に鈍い火の花を散らす。弾は跳ね返る。だが無駄ではない。跳ね返る音が兵の耳に届き、火の花が目に刺さり、敵の心が「無敵ではない」と微かに震える。その微かな震えのために、砲は撃たれる。
甲鉄の返礼は正確だった。甲板上の砲座がわずかに唸り、火線が弁天の石に到達するまでの時間は、何度測っても短い。弁天台場の石垣がうなり、石灰が粉となって舞う。蓮は梯子の足元を抑え、揺れで外れないように結び目を一つ増やし、砲員の背中を押して通路に流した。静は台場内の“誘い道”に沿って兵を分散させ、恐怖が一点に溜まらないよう、細い水路に流すみたいに動線を分けた。
「静、あっちは任せる」
「はい、矢野さん」
蓮は砲耳に掛けた若者の肩から手を外し、五稜郭へ戻る伝令の列に紛れた。伝令の列は音の帯だ。走る足、息の切れ、革の擦れ、鉄の小さな衝突、紙の擦過音。音を一つ落とせば、帯は歪み、歪みはすぐ切れる。切れた帯は、戦の現場へ最も早く死を運ぶ。だから切らない。
五稜郭の土塁に戻ると、星の角に榎本が立っていた。外套の肩に薄い霜が白くなり、短い口髭に湿りを含んでいる。彼は海を背に陸を見、陸を背に海を見る。二つの視界を交互に重ねるように。
「榎本様」
大鳥圭介が地図を手に近づく。峠下、七重浜、弁天台場。三つの点に線を引き、それを短く折り畳む。長く引いた線は目に美しいが、戦には脆い。短く折った線は醜いが、粘る。榎本は頷き、口を結んだ。
「五稜郭は守る。だが、守るとは動かぬことではない。動きながら守るのだ」
静はその言葉に、薄く目を細めた。動きながら守るための道が、彼の“誘い道”だ。動く者にしか見えない段差、動く者にしか匂わない匂い、動く者だけが踏む土の柔らかさ。静は視線を稜堡の陰へ滑らせ、蓮に目をやった。
「矢野さん。——西の堀、板がまた置かれます」
「外からか、中からか」
「どちらでも、板は板です」
蓮は短く笑い、走った。堀の内側で板を外し、持ち上げ、肩に乗せ、地面に立てかける。板の端に刻まれた細い刃の痕を指が拾う。昨日の夜、外へ運び出した者の刃の癖だ。刃が浅い。恐怖で力が抜けていた。ならば、中の裏切りでない可能性が高い。外の手際が良いのだ。良い手際は、怖い。怖さを見抜くのは、怖さの同類であるあの白い袖の男だ。
静は堀の陰でひざまずき、土の湿りを掌で測った。半日で湿りの帯は浅くなった。靴底に入る水の量が減る。減れば、人は早くなる。早くなる足は、疲れるのも早い。疲れは味方だ。疲れが来る角で、段差は効く。彼は足の幅だけ盛り上がった土を、またひと撫で増やした。目には見えない。足には触れる。触れた感覚は、脳の遅い場所へ届く。遅れて届いた感覚は、刃の遅れになる。
昼。七重浜の砂が真昼の光で白くなり、上陸の列が太くなる。砲声の合間に、人の叫びが混ざり始めた。悲鳴、号令、怒号、笑い声。笑いは戦の現場にもある。死を軽くするためではなく、死を重くしすぎないために。重すぎる死は、人の手の中で割れる。割れた死は、鋭くなる。鋭い破片は、味方も刺す。
五稜郭の中庭で、炊ぎ場の煙が上がる。大釜の中で、薄い粥が白い糸を引く。粥はどこまでも薄くなる。水を加え、火を弱め、米の粒を探しながら一口ずつ分ける。蓮は器を受け取り、兵に渡し、自分の分を半分、次の列の最後尾の男に押しつけた。男は礼を言いかけて、言葉の最後を飲み、器を両手で包んだ。白い息が粥の白さに重なる。白は白を呼ぶ。冷たさは冷たさを呼ぶ。温かさだけが、何も呼ばず、ただそこに留まる。
午後、突風が湾から駆け上がり、弁天台場の旗を一瞬、棒に巻きつけた。旗が見えない瞬間、甲鉄の砲口が火を吹き、その火が石の胸に噛みつく。石が唸り、台場の肩が沈む。静は台場の内通路で兵を押し、引き、途切れそうな線を細く繋ぎ直した。蓮は外梯子の足元で、すれ違う男たちの視線を受け止め、返した。視線は言葉より確かだ。言葉は風に千切れるが、視線は風を貫く。視線を受け止める者の背は、少しだけ重くなる。その重さが、梯子を支える。
夕刻、千代ヶ岡台場の煙が細くなり、やがて白い布が風にぶら下がった。降伏。弁天台場はなお撃つ。だが撃つという行為そのものが、もはや「負けないための撃つ」から「遅らせるための撃つ」へと、意味を変えつつあった。蓮は胸の内で、その変化を正直に認めた。認めることは敗北ではない。認めないことが、刃を鈍らせる。
夜が、昼の血を薄めずに降りてきた。暗さは鮮やかさを奪わなかった。赤は赤のまま、黒の中で光った。静はいつもの巡りを続け、土塁の肩の段差をつま先で確かめ、堀の水の冷たさを指で測り、弁天へ走る伝令の足音のリズムに乱れがないか耳を澄ました。
「矢野さん」
「静」
「榎本様が、明朝のうちに一度、総攻撃の反発を測るそうです。海と陸、同時に」
「反発が折れたら」
「折れる前に下げます。——時間を買うために」
時間を買う。金ではない支払い方を、彼らは知っている。支払うのは、睡眠、体温、皮膚、声、そして名。名を支払うのが、一番高い。だから彼らは最初に名を捨てた。捨てたものは、もう支払えない。残ったものだけで、延ばす。延ばした一刻は、知らない誰かの眠りの長さになる。眠りは、戦の外にある唯一の“勝ち”だ。
夜半、箱館山の斜面から小さな火が点々と降りた。敵の合図か、迷い火か。風が強く、灯はすぐに潰れ、また点き、また潰れる。五稜郭の稜堡の角に、榎本の影が止まり、彼は何か短く言って手を振った。手振り信号。弁天台場の上で、灯が一度大きくなり、次に小さくなり、三度、同じ動きを繰り返した。合図は届いた。
蓮は静とともに、北稜の外へ出た。堀の水面がわずかに膨らみ、冷たい皮膚が張りかけて、やっぱり張り切れずに白いひびを浮かべる。ひびは星形だ。星の城の水面に、星が咲く。静はそのひびを指でなぞった。
「矢野さん。——凍りませんでした」
「あぁ」
「はい。——凍った方が、音はよく響きます」
「今日は響かない」
「はい。——代わりに、空気の匂いが響きます」
静の言葉はいつも、刃の裏側に出てくる。刃は硬い。裏側は柔らかい。柔らかさの言葉を、彼は間違えずに使える。人間をやめたと言いながら、人のことを一番大事にする。だから蓮は、彼の背中に自分の名のない命を預ける。
風向きがまた変わった。北東から南東へ。海の匂いに石炭の煙が混ざり、甲鉄の肺が箱館湾の空気を吸って吐く音が、地の底から伝わってくる。宮古湾で、あの鉄の肺に鉤縄を投げた友の指の感触を、蓮は知らない。だがここにいる何人かは、皮膚で覚えている。その皮膚の記憶が、五稜郭の土に移り、土塁の肩の硬さに残る。
明け方、五稜郭の内側で小さな動きがあった。負傷者の列が、箱館奉行所の建物の一角へ運ばれていく。榎本が用意した臨時の療養所だ。蓮は列の最後尾にいた若い兵の肩を支えた。肩は軽かった。軽さは、謙虚さではなく、減りだ。彼は自分の肩の重みを意識して、少しだけ押し上げる力を増やした。肩の重さは意志で変わる。意志は、刃の芯だ。
療養所の中で、旧幕臣の医師が咳をし、器具が少ないことを侘びるように眉を寄せた。アルコールは足りない。石炭も、清潔な包帯も。あるのは、冷たい水と、痛む声と、薄い粥の湯気の少しの温かさ。温かさは、刃の裏側の鎧だ。鎧は厚くできない。厚い鎧は、動きを殺す。薄い鎧で、動く。動き続けることが、ここでの唯一の誇りだ。
昼過ぎ、峠下から戻った斥候が、砂と血で汚れた衣のまま、五稜郭に飛び込んできた。「押されています」。大鳥は短く頷いた。短く頷くことは、長く叫ぶより味方に効く。叫びは風に負ける。頷きは風に勝つ。
「静、行くぞ」
「はい、矢野さん」
二人は再び外へ出た。峠下の松は、低い唸りの風で梢を震わせ、砂の斜面は足跡で細かい紋を刻んでいる。敵の陣笠は遠くで点の列になり、太鼓の音が土の腹を伝わってくる。薩摩の太鼓は、腹の底で鳴る。長州の笛は、喉の奥で刺さる。奥羽の足音は、膝で鳴る。膝で鳴る音は、長く続く。
静は砂丘の背で足を止め、手のひらを地面に当てた。冷えが骨に届く。骨の冷えは、恐怖ではない。恐怖は皮膚で始まる。骨の冷えは、覚悟だ。覚悟は温かくならない。温かくなるのは、希望だ。希望は、ここでは奪うものではなく、遅らせるものだ。
蓮は砂の上で一度、目を閉じた。目を閉じる時間の長さは、刃を抜く速さに関係する。長すぎれば遅れ、短すぎれば焦る。ちょうどよい長さは、静の息の長さだ。静の息は、いつも一定だ。一定であることは、刃の徳だ。徳は、戦場で一番失われやすい。失われやすいものほど、美しい。美しさは、夜にしか光らない。昼の光は、正直すぎて、嘘を許さない。
夕刻、弁天台場の火が細くなった。砲身の金属は熱で歪み、砲員の指は痺れて白く、雷管の座が割れやすくなる。蓮はその一つひとつが、戦の末期の徴であることを知っている。徴を見落とせば、突然の崩れに呑まれる。徴を拾えば、崩れの速度を、ほんの少し遅らせられる。
「矢野さん」
静が、珍しく視線を逸らさずに呼んだ。
「静」
「背中をお願いします」
「任せろ」
「はい」
短いやり取りが、夜の背骨になる。背骨は折れない。折れない背骨に、肉を少しずつ戻す。肉は、名前のない人の気配だ。気配は、名より長く残る。
夜。箱館の町の灯が、風に潰されながらも点々と続く。町は戦を見ている。窓の隙間から、暖簾の影から、子どもの指の間から。見られていることを、戦は知っている。知っていながら、戦は見せる。見せるものがなくなった時、戦は終わる。
明くる朝、弁天台場から白い布が上がった。白は潔白の色であり、屈服の色でもある。風はどちらにも頷かない。風はただ布を叩き、布の繊維を空気に溶かし、空気は肺に入り、肺は白い息を吐く。白い息は、言葉を作らない。言葉がないのに、胸は痛む。痛みは、名を呼ぶよりも確かだ。
弁天が落ちたことは、五稜郭の石に最初に伝わった。石が少し軽くなり、土が少し冷たくなった。榎本は片袖を払って立ち、地図を折り畳んだ。大鳥は峠下から下げ線を引き、箱館山の斜面を盾にするように布陣を据え直した。静は“誘い道”の段差を二つ消した。段差は増やすだけでなく、消すためにもある。引く時の段差は、味方を殺す。
箱館政府の役人が、文机を抱えて奉行所の一角から出てきた。文机の中には、共和国の印と、仏文の宣言書と、榎本の署名がある。紙は軽い。軽いが、重い。紙は名を重くする。名は重くなればなるほど、風に弱い。風は、今日も北から吹いている。
午後。箱館山の山道に、白い旗が三つ上がった。敵の前進である。旗は遠くでも見える。見えすぎるものは、恐怖を早く連れてくる。早く来た恐怖は、準備を間に合わせる。間に合う準備は、敗北を遅らせる。
静は堀の縁にしゃがみ込み、凍り切らなかった薄皮の水を掌で掬った。冷たさは、昨日と同じだ。同じ冷たさは、慰めになる。同じものがあるという事実が、人の背中を押す。違うものばかりだと、人は立てなくなる。
「矢野さん」
「何だ」
「梅は、根を伸ばしています」
蓮はうなずいた。「あぁ」
「はい。——春が来る前に、根が強くなるのは、ずるいです」
「ずるいな」
「はい。——戦に似ています」
蓮は笑って、目を閉じた。笑いは短い。短い笑いは、刃の研ぎ直しになる。長い笑いは、刃を鈍らせる。鈍った刃は、夜を切れない。夜を切れなければ、朝は来ない。
四方の台場から、最後の火が上がり、煙は風に引き延ばされ、五稜郭の空に薄く絡みついた。榎本は、黒田清隆に使者を送る決意を固めた。降伏の条件は、兵の命と住民の安全を第一に。共和国の名は消える。だが、名を消すことは彼らの習いだ。名が消えたからといって、刃の裏側の温かさまで消えるわけではない。
夕暮れ。榎本武揚が五稜郭の正門を出た。外套の袖が風にめくれ、短い口髭が濡れて光る。彼は星の城の内に一礼し、外の風に一礼した。風は礼を返さない。返さないものに礼をするのが、人の矜持だ。
蓮と静は、土塁の肩でそれを見ていた。遠目でも分かるほど、榎本の足取りは揺れない。揺れない足取りは負けを告げる。それでも揺れないのは、背に多くの名を負っているからだ。背中の名は、旗ではなく肌の温度で支える。温度は風に奪われやすい。奪われやすいものを守るために、影は夜を選ぶ。
夜が降りる前、静は蓮に言った。
「矢野さん。——明日、門が開きます」
「あぁ」
「はい。——名簿にない名は、門を通らない方がいい」
「俺たちが、いちばん通れない門だな」
静はうなずいた。「はい。——影は、門の外に生まれ、門の外で消えます」
「じゃあ、俺たちはどこへ行く」
「はい。——風の側です」
蓮は笑った。「どこにも居場所がないってことだろ」
「はい。——どこにでも居られる、ということです」
言いようだ、と蓮は思った。だが、その言いようで生き延びてきた。京の辻から池田屋の梁の陰、禁門の炎から江戸の裏町、上野の山から会津の泥、そして箱館の風まで。どこにも居場所がないことが、どこにでも居られるということに変わる瞬間を、蓮は何度も見てきた。
夜半、五稜郭の内側で、最後の粥が分けられた。器は足りず、柄杓で手のひらに受ける者もいた。静は列の最後尾に立ち、器を受け取らず、両手を袖の中にしまった。蓮が目で問う。静は首を振った。「矢野さん。——梅は、冬に根を伸ばします」。蓮は頷き、自分の器を半分、隣の年若い兵に押し付けた。兵は礼を言いかけ、喉が詰まって黙ったまま飲み下した。
明け方、黒田の使いが門前に立ち、条件が伝えられた。榎本は応じた。五稜郭の門は開く。星の城は、星の名のまま終わる。星は夜にだけ輝くのではない。昼の青の中でも、見えないだけで燃えている。
開門の日。箱館の町は風の音を少しだけ弱め、目を凝らして星の城を見た。門から出る列は長い。列の中で、名のある者は名前を呼ばれ、名のない者は呼ばれない。呼ばれない者は、列を外れるべきだ。静は蓮の袖をそっと引いた。二人は星形の角の陰へ、音もなく消えた。
堀の裏に、細い獣道がある。静が夜に仕込んだ“誘い道”の、味方だけが知る裏口だ。土塁の内側から外側へ、陰から陰へ、段差を跨ぎ、影の濃い場所を選んで歩く。足音は土に吸われ、影の帯は風に揺れない。
堀を回り、箱館山の斜面の低い笹の間に潜り、息を整える。朝の白さが、笹の葉の縁だけを光らせる。山の中腹から、町の屋根の列が見える。寺の甍、瓦の黒、板塀の灰。箱館の街は静かに息をしている。戦の外の息だ。外の息がある限り、戦には出口がある。
蓮は、短く笑って言った。「静、俺たちはどこへ行く」
静はしばらく黙ってから、答えた。「矢野さん。——北へ」
「まだ北があるのか」
「はい。——海が尽きるまで」
「海の向こうには何がある」
「はい。——風だけです」
蓮は目を細めた。風だけ。風だけなら、居場所はどこにでもある。名のない者が座れる石は、海のどこにでも転がっている。名のない者が汲める水は、空から降る。名のない者が眠れる地面は、夜のどこにでも広がっている。
箱館の町の方角から、小さな笑い声が風に乗って届いた。子どもの声だ。戦の外側の声。静は肩の力を少しだけ抜き、白い袖口の汚れを親指で払った。
「矢野さん」
「何だ」
「背中、預けます」
蓮は頷いた。「当たり前だろ」
「はい。——ありがとうございます」
彼らは笹の間を抜け、山の陰から陰へ、箱館の背を回るように歩き出した。名簿にない名は、記録の外で呼吸を続ける。呼吸の長さが、彼らの歴史になる。紙に残らないが、皮膚に残る。皮膚は、風に晒されるほど強くなる。強くなった皮膚の下で、刃の裏側の温かさは、決して消えない。
背後で、五稜郭の門が大きく軋んだ。星の城の中から、長い列が外へ流れ出す。榎本武揚は帽子を取って黙礼し、黒田清隆は眼鏡の奥の目をわずかに瞬かせた。二人の間に、風が通る。風は誰の側にも付かない。ただ通る。それでいい、と蓮は思った。どちらの側にも付けない者として生きてきた自分たちには、風の中の位置だけが、唯一の居場所だった。
坂の下、箱館の路地で、老婆が水を撒いていた。戦の後の埃を沈めるために。水は地面に黒い地図を描き、路地の角から角へ、細い川を連ねる。川は海へ行く。海は風へ行く。風は、二人の頬を打つ。
蓮は心の中で短く言葉を刻んだ。名を持たぬ者の、名もない誓い。「俺は——お前の背中の形を、忘れない」
静は、言葉にしなかった。言葉は風に弱い。だが彼は、白い袖口を一度だけ胸の前に寄せ、小さく頭を下げた。誰にではない。背にいる唯一の者に。
箱館の空は高く、雲は低い。北からの風は相変わらず冷たく、海の匂いは鉄のように乾いていた。五稜郭の星は目に見えなくなったが、足裏には、角を回ったときのあの静かな段差の記憶が、まだ薄く残っている。段差は、行き先が変わっても、害にはならない。転ばないための、ささやかな合図だ。
坂を下り切る前に、蓮は立ち止まり、ふいに空を見上げた。白い光の向こうに、目に見えない星がある。星は昼にも燃えている。燃えているものは、風に消えない。風はただ通り過ぎるだけだ。通り過ぎるものの中で、彼らは歩く。歩くことが、ここでの唯一の戦いであり、唯一の勝ち負けの外側だった。
「静」
「はい、矢野さん」
「行こう」
「はい。——行きます」
二人は、音を立てずに歩き出した。足音は土に吸われ、影は風に揺れない。名は呼ばれない。だが、呼ばれない名ほど、長く残る。残る場所は紙ではなく、人の内側だ。いつか誰かが、夜の端で息を整えるとき、知らない二人の呼吸の深さだけが、目に見えない“段差”として働くだろう。転ばないために。背中を預けるために。
五稜郭の夜は終わった。だが星の城の角は、彼らの歩幅の中に、薄い段差として生き続けた。段差は痛みを作らず、記憶を作る。記憶は名を必要とせず、ただ確かさを必要とする。確かさは、二人のあいだにだけ、変わらず残った。風がそれを奪う日は、きっと来ない。来るのは、次の夜と、次の朝と、次の北風だけだ。
春日の。丁卯の。蟠龍の。
名のある艦のシルエットが、箱館湾の口で角度を変え、光と風を切り刻み、それぞれの射界を測り直している。榎本の回天と蟠龍(奪われた旧友)との距離は、思うほど遠くない。遠いのは思想で、近いのは鉄だ。
榎本の指令所では、黒田清隆の名が再び地図の上に浮かび上がり、蒸気機関の鼓動のように、誰の胸の内にも響いていた。箱館戦争の終幕に向けて、新政府軍の歯車はもう逆回転を許さない。五稜郭の星型の稜堡、その稜角に立つ男たちは、それでも僅かな遊びを求め、歯の先に爪をかけ、指の腹を擦り減らしながら、一刻でも回転を鈍らせようとしている。
「矢野さん」
静が低く呼んだ。蓮は土塁の肩で振り返る。
「静」
「南の砂丘から、上陸の列が伸びます。太鼓と笛の間隔が、訓練の深さを語っています」
「薩摩か、長州か」
「太鼓が重いのは薩摩、笛が尖るのは長州。ですが、列の真ん中の硬さは奥羽の足の硬さです。——混じっています」
敵の列は混じるほど強くなる。薩長の骨に、奥羽の筋が絡み、東北の冬で鍛えた足腰が列の長さを保つ。列が崩れない限り、こちらの弾は、当たっても“止めない”。止めるのは、地形と心理だ。
静は、前夜に仕込んだ“誘い道”の続きを指先で示した。七重浜から峠下へ抜ける浅い湿地、湿りの帯が目に見えない堀となって敵の靴底を冷やす。戸切地の出口で風が鳴る角度。砂丘の背に設えた古い杭の影。どれもわずかな仕掛けに過ぎないが、わずかな仕掛けが幾つも重なると、人の意志は細かく削られ、やがて刃の芯が折れる。
やがて、弁天台場の上にいる砲長が、短く腕を振った。第一、第二、第三。間断の少ない合図。音は空を割り、海の皮膚を叩き、甲鉄の装甲に鈍い火の花を散らす。弾は跳ね返る。だが無駄ではない。跳ね返る音が兵の耳に届き、火の花が目に刺さり、敵の心が「無敵ではない」と微かに震える。その微かな震えのために、砲は撃たれる。
甲鉄の返礼は正確だった。甲板上の砲座がわずかに唸り、火線が弁天の石に到達するまでの時間は、何度測っても短い。弁天台場の石垣がうなり、石灰が粉となって舞う。蓮は梯子の足元を抑え、揺れで外れないように結び目を一つ増やし、砲員の背中を押して通路に流した。静は台場内の“誘い道”に沿って兵を分散させ、恐怖が一点に溜まらないよう、細い水路に流すみたいに動線を分けた。
「静、あっちは任せる」
「はい、矢野さん」
蓮は砲耳に掛けた若者の肩から手を外し、五稜郭へ戻る伝令の列に紛れた。伝令の列は音の帯だ。走る足、息の切れ、革の擦れ、鉄の小さな衝突、紙の擦過音。音を一つ落とせば、帯は歪み、歪みはすぐ切れる。切れた帯は、戦の現場へ最も早く死を運ぶ。だから切らない。
五稜郭の土塁に戻ると、星の角に榎本が立っていた。外套の肩に薄い霜が白くなり、短い口髭に湿りを含んでいる。彼は海を背に陸を見、陸を背に海を見る。二つの視界を交互に重ねるように。
「榎本様」
大鳥圭介が地図を手に近づく。峠下、七重浜、弁天台場。三つの点に線を引き、それを短く折り畳む。長く引いた線は目に美しいが、戦には脆い。短く折った線は醜いが、粘る。榎本は頷き、口を結んだ。
「五稜郭は守る。だが、守るとは動かぬことではない。動きながら守るのだ」
静はその言葉に、薄く目を細めた。動きながら守るための道が、彼の“誘い道”だ。動く者にしか見えない段差、動く者にしか匂わない匂い、動く者だけが踏む土の柔らかさ。静は視線を稜堡の陰へ滑らせ、蓮に目をやった。
「矢野さん。——西の堀、板がまた置かれます」
「外からか、中からか」
「どちらでも、板は板です」
蓮は短く笑い、走った。堀の内側で板を外し、持ち上げ、肩に乗せ、地面に立てかける。板の端に刻まれた細い刃の痕を指が拾う。昨日の夜、外へ運び出した者の刃の癖だ。刃が浅い。恐怖で力が抜けていた。ならば、中の裏切りでない可能性が高い。外の手際が良いのだ。良い手際は、怖い。怖さを見抜くのは、怖さの同類であるあの白い袖の男だ。
静は堀の陰でひざまずき、土の湿りを掌で測った。半日で湿りの帯は浅くなった。靴底に入る水の量が減る。減れば、人は早くなる。早くなる足は、疲れるのも早い。疲れは味方だ。疲れが来る角で、段差は効く。彼は足の幅だけ盛り上がった土を、またひと撫で増やした。目には見えない。足には触れる。触れた感覚は、脳の遅い場所へ届く。遅れて届いた感覚は、刃の遅れになる。
昼。七重浜の砂が真昼の光で白くなり、上陸の列が太くなる。砲声の合間に、人の叫びが混ざり始めた。悲鳴、号令、怒号、笑い声。笑いは戦の現場にもある。死を軽くするためではなく、死を重くしすぎないために。重すぎる死は、人の手の中で割れる。割れた死は、鋭くなる。鋭い破片は、味方も刺す。
五稜郭の中庭で、炊ぎ場の煙が上がる。大釜の中で、薄い粥が白い糸を引く。粥はどこまでも薄くなる。水を加え、火を弱め、米の粒を探しながら一口ずつ分ける。蓮は器を受け取り、兵に渡し、自分の分を半分、次の列の最後尾の男に押しつけた。男は礼を言いかけて、言葉の最後を飲み、器を両手で包んだ。白い息が粥の白さに重なる。白は白を呼ぶ。冷たさは冷たさを呼ぶ。温かさだけが、何も呼ばず、ただそこに留まる。
午後、突風が湾から駆け上がり、弁天台場の旗を一瞬、棒に巻きつけた。旗が見えない瞬間、甲鉄の砲口が火を吹き、その火が石の胸に噛みつく。石が唸り、台場の肩が沈む。静は台場の内通路で兵を押し、引き、途切れそうな線を細く繋ぎ直した。蓮は外梯子の足元で、すれ違う男たちの視線を受け止め、返した。視線は言葉より確かだ。言葉は風に千切れるが、視線は風を貫く。視線を受け止める者の背は、少しだけ重くなる。その重さが、梯子を支える。
夕刻、千代ヶ岡台場の煙が細くなり、やがて白い布が風にぶら下がった。降伏。弁天台場はなお撃つ。だが撃つという行為そのものが、もはや「負けないための撃つ」から「遅らせるための撃つ」へと、意味を変えつつあった。蓮は胸の内で、その変化を正直に認めた。認めることは敗北ではない。認めないことが、刃を鈍らせる。
夜が、昼の血を薄めずに降りてきた。暗さは鮮やかさを奪わなかった。赤は赤のまま、黒の中で光った。静はいつもの巡りを続け、土塁の肩の段差をつま先で確かめ、堀の水の冷たさを指で測り、弁天へ走る伝令の足音のリズムに乱れがないか耳を澄ました。
「矢野さん」
「静」
「榎本様が、明朝のうちに一度、総攻撃の反発を測るそうです。海と陸、同時に」
「反発が折れたら」
「折れる前に下げます。——時間を買うために」
時間を買う。金ではない支払い方を、彼らは知っている。支払うのは、睡眠、体温、皮膚、声、そして名。名を支払うのが、一番高い。だから彼らは最初に名を捨てた。捨てたものは、もう支払えない。残ったものだけで、延ばす。延ばした一刻は、知らない誰かの眠りの長さになる。眠りは、戦の外にある唯一の“勝ち”だ。
夜半、箱館山の斜面から小さな火が点々と降りた。敵の合図か、迷い火か。風が強く、灯はすぐに潰れ、また点き、また潰れる。五稜郭の稜堡の角に、榎本の影が止まり、彼は何か短く言って手を振った。手振り信号。弁天台場の上で、灯が一度大きくなり、次に小さくなり、三度、同じ動きを繰り返した。合図は届いた。
蓮は静とともに、北稜の外へ出た。堀の水面がわずかに膨らみ、冷たい皮膚が張りかけて、やっぱり張り切れずに白いひびを浮かべる。ひびは星形だ。星の城の水面に、星が咲く。静はそのひびを指でなぞった。
「矢野さん。——凍りませんでした」
「あぁ」
「はい。——凍った方が、音はよく響きます」
「今日は響かない」
「はい。——代わりに、空気の匂いが響きます」
静の言葉はいつも、刃の裏側に出てくる。刃は硬い。裏側は柔らかい。柔らかさの言葉を、彼は間違えずに使える。人間をやめたと言いながら、人のことを一番大事にする。だから蓮は、彼の背中に自分の名のない命を預ける。
風向きがまた変わった。北東から南東へ。海の匂いに石炭の煙が混ざり、甲鉄の肺が箱館湾の空気を吸って吐く音が、地の底から伝わってくる。宮古湾で、あの鉄の肺に鉤縄を投げた友の指の感触を、蓮は知らない。だがここにいる何人かは、皮膚で覚えている。その皮膚の記憶が、五稜郭の土に移り、土塁の肩の硬さに残る。
明け方、五稜郭の内側で小さな動きがあった。負傷者の列が、箱館奉行所の建物の一角へ運ばれていく。榎本が用意した臨時の療養所だ。蓮は列の最後尾にいた若い兵の肩を支えた。肩は軽かった。軽さは、謙虚さではなく、減りだ。彼は自分の肩の重みを意識して、少しだけ押し上げる力を増やした。肩の重さは意志で変わる。意志は、刃の芯だ。
療養所の中で、旧幕臣の医師が咳をし、器具が少ないことを侘びるように眉を寄せた。アルコールは足りない。石炭も、清潔な包帯も。あるのは、冷たい水と、痛む声と、薄い粥の湯気の少しの温かさ。温かさは、刃の裏側の鎧だ。鎧は厚くできない。厚い鎧は、動きを殺す。薄い鎧で、動く。動き続けることが、ここでの唯一の誇りだ。
昼過ぎ、峠下から戻った斥候が、砂と血で汚れた衣のまま、五稜郭に飛び込んできた。「押されています」。大鳥は短く頷いた。短く頷くことは、長く叫ぶより味方に効く。叫びは風に負ける。頷きは風に勝つ。
「静、行くぞ」
「はい、矢野さん」
二人は再び外へ出た。峠下の松は、低い唸りの風で梢を震わせ、砂の斜面は足跡で細かい紋を刻んでいる。敵の陣笠は遠くで点の列になり、太鼓の音が土の腹を伝わってくる。薩摩の太鼓は、腹の底で鳴る。長州の笛は、喉の奥で刺さる。奥羽の足音は、膝で鳴る。膝で鳴る音は、長く続く。
静は砂丘の背で足を止め、手のひらを地面に当てた。冷えが骨に届く。骨の冷えは、恐怖ではない。恐怖は皮膚で始まる。骨の冷えは、覚悟だ。覚悟は温かくならない。温かくなるのは、希望だ。希望は、ここでは奪うものではなく、遅らせるものだ。
蓮は砂の上で一度、目を閉じた。目を閉じる時間の長さは、刃を抜く速さに関係する。長すぎれば遅れ、短すぎれば焦る。ちょうどよい長さは、静の息の長さだ。静の息は、いつも一定だ。一定であることは、刃の徳だ。徳は、戦場で一番失われやすい。失われやすいものほど、美しい。美しさは、夜にしか光らない。昼の光は、正直すぎて、嘘を許さない。
夕刻、弁天台場の火が細くなった。砲身の金属は熱で歪み、砲員の指は痺れて白く、雷管の座が割れやすくなる。蓮はその一つひとつが、戦の末期の徴であることを知っている。徴を見落とせば、突然の崩れに呑まれる。徴を拾えば、崩れの速度を、ほんの少し遅らせられる。
「矢野さん」
静が、珍しく視線を逸らさずに呼んだ。
「静」
「背中をお願いします」
「任せろ」
「はい」
短いやり取りが、夜の背骨になる。背骨は折れない。折れない背骨に、肉を少しずつ戻す。肉は、名前のない人の気配だ。気配は、名より長く残る。
夜。箱館の町の灯が、風に潰されながらも点々と続く。町は戦を見ている。窓の隙間から、暖簾の影から、子どもの指の間から。見られていることを、戦は知っている。知っていながら、戦は見せる。見せるものがなくなった時、戦は終わる。
明くる朝、弁天台場から白い布が上がった。白は潔白の色であり、屈服の色でもある。風はどちらにも頷かない。風はただ布を叩き、布の繊維を空気に溶かし、空気は肺に入り、肺は白い息を吐く。白い息は、言葉を作らない。言葉がないのに、胸は痛む。痛みは、名を呼ぶよりも確かだ。
弁天が落ちたことは、五稜郭の石に最初に伝わった。石が少し軽くなり、土が少し冷たくなった。榎本は片袖を払って立ち、地図を折り畳んだ。大鳥は峠下から下げ線を引き、箱館山の斜面を盾にするように布陣を据え直した。静は“誘い道”の段差を二つ消した。段差は増やすだけでなく、消すためにもある。引く時の段差は、味方を殺す。
箱館政府の役人が、文机を抱えて奉行所の一角から出てきた。文机の中には、共和国の印と、仏文の宣言書と、榎本の署名がある。紙は軽い。軽いが、重い。紙は名を重くする。名は重くなればなるほど、風に弱い。風は、今日も北から吹いている。
午後。箱館山の山道に、白い旗が三つ上がった。敵の前進である。旗は遠くでも見える。見えすぎるものは、恐怖を早く連れてくる。早く来た恐怖は、準備を間に合わせる。間に合う準備は、敗北を遅らせる。
静は堀の縁にしゃがみ込み、凍り切らなかった薄皮の水を掌で掬った。冷たさは、昨日と同じだ。同じ冷たさは、慰めになる。同じものがあるという事実が、人の背中を押す。違うものばかりだと、人は立てなくなる。
「矢野さん」
「何だ」
「梅は、根を伸ばしています」
蓮はうなずいた。「あぁ」
「はい。——春が来る前に、根が強くなるのは、ずるいです」
「ずるいな」
「はい。——戦に似ています」
蓮は笑って、目を閉じた。笑いは短い。短い笑いは、刃の研ぎ直しになる。長い笑いは、刃を鈍らせる。鈍った刃は、夜を切れない。夜を切れなければ、朝は来ない。
四方の台場から、最後の火が上がり、煙は風に引き延ばされ、五稜郭の空に薄く絡みついた。榎本は、黒田清隆に使者を送る決意を固めた。降伏の条件は、兵の命と住民の安全を第一に。共和国の名は消える。だが、名を消すことは彼らの習いだ。名が消えたからといって、刃の裏側の温かさまで消えるわけではない。
夕暮れ。榎本武揚が五稜郭の正門を出た。外套の袖が風にめくれ、短い口髭が濡れて光る。彼は星の城の内に一礼し、外の風に一礼した。風は礼を返さない。返さないものに礼をするのが、人の矜持だ。
蓮と静は、土塁の肩でそれを見ていた。遠目でも分かるほど、榎本の足取りは揺れない。揺れない足取りは負けを告げる。それでも揺れないのは、背に多くの名を負っているからだ。背中の名は、旗ではなく肌の温度で支える。温度は風に奪われやすい。奪われやすいものを守るために、影は夜を選ぶ。
夜が降りる前、静は蓮に言った。
「矢野さん。——明日、門が開きます」
「あぁ」
「はい。——名簿にない名は、門を通らない方がいい」
「俺たちが、いちばん通れない門だな」
静はうなずいた。「はい。——影は、門の外に生まれ、門の外で消えます」
「じゃあ、俺たちはどこへ行く」
「はい。——風の側です」
蓮は笑った。「どこにも居場所がないってことだろ」
「はい。——どこにでも居られる、ということです」
言いようだ、と蓮は思った。だが、その言いようで生き延びてきた。京の辻から池田屋の梁の陰、禁門の炎から江戸の裏町、上野の山から会津の泥、そして箱館の風まで。どこにも居場所がないことが、どこにでも居られるということに変わる瞬間を、蓮は何度も見てきた。
夜半、五稜郭の内側で、最後の粥が分けられた。器は足りず、柄杓で手のひらに受ける者もいた。静は列の最後尾に立ち、器を受け取らず、両手を袖の中にしまった。蓮が目で問う。静は首を振った。「矢野さん。——梅は、冬に根を伸ばします」。蓮は頷き、自分の器を半分、隣の年若い兵に押し付けた。兵は礼を言いかけ、喉が詰まって黙ったまま飲み下した。
明け方、黒田の使いが門前に立ち、条件が伝えられた。榎本は応じた。五稜郭の門は開く。星の城は、星の名のまま終わる。星は夜にだけ輝くのではない。昼の青の中でも、見えないだけで燃えている。
開門の日。箱館の町は風の音を少しだけ弱め、目を凝らして星の城を見た。門から出る列は長い。列の中で、名のある者は名前を呼ばれ、名のない者は呼ばれない。呼ばれない者は、列を外れるべきだ。静は蓮の袖をそっと引いた。二人は星形の角の陰へ、音もなく消えた。
堀の裏に、細い獣道がある。静が夜に仕込んだ“誘い道”の、味方だけが知る裏口だ。土塁の内側から外側へ、陰から陰へ、段差を跨ぎ、影の濃い場所を選んで歩く。足音は土に吸われ、影の帯は風に揺れない。
堀を回り、箱館山の斜面の低い笹の間に潜り、息を整える。朝の白さが、笹の葉の縁だけを光らせる。山の中腹から、町の屋根の列が見える。寺の甍、瓦の黒、板塀の灰。箱館の街は静かに息をしている。戦の外の息だ。外の息がある限り、戦には出口がある。
蓮は、短く笑って言った。「静、俺たちはどこへ行く」
静はしばらく黙ってから、答えた。「矢野さん。——北へ」
「まだ北があるのか」
「はい。——海が尽きるまで」
「海の向こうには何がある」
「はい。——風だけです」
蓮は目を細めた。風だけ。風だけなら、居場所はどこにでもある。名のない者が座れる石は、海のどこにでも転がっている。名のない者が汲める水は、空から降る。名のない者が眠れる地面は、夜のどこにでも広がっている。
箱館の町の方角から、小さな笑い声が風に乗って届いた。子どもの声だ。戦の外側の声。静は肩の力を少しだけ抜き、白い袖口の汚れを親指で払った。
「矢野さん」
「何だ」
「背中、預けます」
蓮は頷いた。「当たり前だろ」
「はい。——ありがとうございます」
彼らは笹の間を抜け、山の陰から陰へ、箱館の背を回るように歩き出した。名簿にない名は、記録の外で呼吸を続ける。呼吸の長さが、彼らの歴史になる。紙に残らないが、皮膚に残る。皮膚は、風に晒されるほど強くなる。強くなった皮膚の下で、刃の裏側の温かさは、決して消えない。
背後で、五稜郭の門が大きく軋んだ。星の城の中から、長い列が外へ流れ出す。榎本武揚は帽子を取って黙礼し、黒田清隆は眼鏡の奥の目をわずかに瞬かせた。二人の間に、風が通る。風は誰の側にも付かない。ただ通る。それでいい、と蓮は思った。どちらの側にも付けない者として生きてきた自分たちには、風の中の位置だけが、唯一の居場所だった。
坂の下、箱館の路地で、老婆が水を撒いていた。戦の後の埃を沈めるために。水は地面に黒い地図を描き、路地の角から角へ、細い川を連ねる。川は海へ行く。海は風へ行く。風は、二人の頬を打つ。
蓮は心の中で短く言葉を刻んだ。名を持たぬ者の、名もない誓い。「俺は——お前の背中の形を、忘れない」
静は、言葉にしなかった。言葉は風に弱い。だが彼は、白い袖口を一度だけ胸の前に寄せ、小さく頭を下げた。誰にではない。背にいる唯一の者に。
箱館の空は高く、雲は低い。北からの風は相変わらず冷たく、海の匂いは鉄のように乾いていた。五稜郭の星は目に見えなくなったが、足裏には、角を回ったときのあの静かな段差の記憶が、まだ薄く残っている。段差は、行き先が変わっても、害にはならない。転ばないための、ささやかな合図だ。
坂を下り切る前に、蓮は立ち止まり、ふいに空を見上げた。白い光の向こうに、目に見えない星がある。星は昼にも燃えている。燃えているものは、風に消えない。風はただ通り過ぎるだけだ。通り過ぎるものの中で、彼らは歩く。歩くことが、ここでの唯一の戦いであり、唯一の勝ち負けの外側だった。
「静」
「はい、矢野さん」
「行こう」
「はい。——行きます」
二人は、音を立てずに歩き出した。足音は土に吸われ、影は風に揺れない。名は呼ばれない。だが、呼ばれない名ほど、長く残る。残る場所は紙ではなく、人の内側だ。いつか誰かが、夜の端で息を整えるとき、知らない二人の呼吸の深さだけが、目に見えない“段差”として働くだろう。転ばないために。背中を預けるために。
五稜郭の夜は終わった。だが星の城の角は、彼らの歩幅の中に、薄い段差として生き続けた。段差は痛みを作らず、記憶を作る。記憶は名を必要とせず、ただ確かさを必要とする。確かさは、二人のあいだにだけ、変わらず残った。風がそれを奪う日は、きっと来ない。来るのは、次の夜と、次の朝と、次の北風だけだ。



