夜の底に、鉄の歯が沈んでいた。海は見えないのに、歯の噛み合う音だけが細く長く伝わってくる。湾外を偵察する新政府軍の小艦が、舵を切り、錨鎖を鳴らし、鉄板の体を冷やしながら待っているのだ。弁天台場の信号灯が短く明滅し、合図表の「接近継続」が二度繰り返された。
五稜郭の内側では、音が細く分解される。砲身を拭く油布の擦れる音、雷管を点検する乾いた指先の音、木箱の蓋を外す釘の鳴き。蓮は火薬庫の帳面を閉じ、鍵を革鞘で包みなおすと、土塁の肩へ出た。吐く息は白い。だが白さは弱さではない。ここでは、白い息の長さで互いの体力を測る。
「矢野さん」
静の声が、土の上でよく響いた。蓮は足を止める。
「静」
「南の稜堡に、狐ではない跡がありました。踵が軽い。若い者が二」
「潜り込んだか」
「はい。——潜る場所は、こちらが用意した場所です」
静は淡々としている。彼の「用意」は、敵を招き入れる支度だ。袋小路ではない。袋小路は敵を絶望させ、絶望は刃を走らせる。静の“誘い道”は、行ける、と相手に思わせたまま体力と集中を削ぎ、最後の角で音と影を絡ませて動きを止める。蓮は頷き、腰の刀の位置を指二本分ずらした。稜堡の角で抜き合わせに入るとき、鞘走りの音が土の壁に吸い込まれて、相手の耳に届きにくい高さがある。
その夜、二人は南稜の外門に近い導入路で待った。雪は消え、土の表皮は薄く凍って、踏めば鈍い音を返す。堀の向こうに、足音が二つ。間隔は腕の長さ。指揮は若い。足跡の間合いがそれを物語る。蓮は目を凝らした。黒の中に、さらに濃い黒が動く。静は首だけをわずかに傾け、息を吐いた。合図だ。蓮は一歩退き、すれ違いの空間を作る。敵がそこを“抜けられる”と思って踏み込む寸前、薄い段差に足裏が引っ掛かり、膝が微かに折れた。視線が落ち、刃の先が胸より低くなったところに、静の短い打ちが飛び、蓮の柄打ちが喉をかすめる。声は出ない。もう一人が動いた。早い。だが速さは直線を作る。直線は音を連れてくる。土塁に返る音の位相で、刃の角度がわかる。蓮の左足が半歩引き、静の右足が半歩出た。交差の一瞬、白い袖が月に染みを作り、黒い影がその中で二つ折れになった。
「……津軽の紋だ」
縫い取りの端に、見慣れぬ葉の文様が見えた。陣笠の裏にも墨字が残る。弘前。奥羽の諸藩からの出兵が、ここまで上がってきている。蓮はひとつ息を深くして、倒れた若者の腰から革袋を外した。乾いた煎餅、藩札の束、手紙。手紙の端に「鷲ノ木」「七重浜」の文字。上陸点の確認命令だ。
翌朝、榎本の指令所では海図と陸図が並び、海軍と陸軍の語彙がぶつかりながら混ざり合った。鷲ノ木、木古内、七重浜、峠下。黒田清隆の名が、敵の指揮にあると伝えられる。薩長土肥の骨に、奥羽諸藩の筋肉がついた軍だ。海には甲鉄がいる。宮古湾で取り損ねた、鉄の皮膚の怪物。回天が突っ込んだあの朝、甲鉄の舷側に鉤縄が空しくぶら下がり、潮に濡れた板が血を吸って黒く重くなっていったことを、ここにいる何人もが覚えていた。
「宮古の話は、夜にしろ」
大鳥が低く言って、図上の駒を動かした。前夜に捕らえた斥候の持ち物から、敵の上陸線はおおよそ読める。問題は速度だ。甲鉄の牙が本当に向きを変えた時、海と陸の歯車は噛み合って、こちらの手足を噛み砕くだろう。
土方歳三の姿はない。一本木関門で撃たれた日の午後から、五稜郭の空気はひとつ軽くなったが、同時に一段重くなっている。軽さは、あの人がここにいない分の風通し。重さは、あの人が担っていた重みの分だけ、星の城に沈んだ負債だ。蓮はその負債を、肩代わりできるとは思わない。ただ、夜の番の時間を少し延ばすこと、出入りの記録をひとつ漏らさないこと、刃を鈍らせないこと。その程度の返し方しか、彼ら影には許されない。
弁天台場へ伝令が走る。千代ヶ岡台場には砲弾が余分に必要だという。戸切地の陣屋からは、弾薬は自前で賄うという返答。千代ヶ岡は小高い砂丘の背に砲座を切り、箱館湾の入口に低い口を開けている。そこを抜かれれば、湾は甲鉄の庭になる。静は蓮に目で合図を送った。二人は台場筋へ走った。
台場の砲耳には、潮の塩が白く固まっている。指で払えば粉になり、すぐ風に飛ぶ。砲兵の若いのが、砲身に頬を付けるように覗き込み、唇を白くしている。緊張の白さだ。蓮は肩を叩き、砲耳から遠ざけた。
「耳は、砲のためのものじゃない。お前のためのものだ」
若いのは、かすかに笑った。「はい」
弁天台場の砲の口が、湾外に向けてわずかに上がる。遠見の合図で、甲鉄らしい艦影が二。春日が一。丁卯が一。春日は薩摩、丁卯は長州。甲鉄は、名前の通り鉄だが、皮膚だけが硬いのではない。心臓——機関が強い。あれの回頭は、海の獣が背を返すみたいに速い。宮古湾で、それを見た者は、肉体の奥で理解している。
風が変わった。北東から南東へ。海の色が、ほんの少しだけ浅くなる。弁天台場の砲長が、短く号令した。「第一、一時停止。第二、装填」。砲身が、息を吸うみたいに静かに後ろへ引かれ、砲尾が開く。薬包の紙が破られ、黒い粉が白い紙から滑り落ちる。雷管が指先の腹で軽く押され、座につく。砲耳が合図を受け、砲口が海の水平線上より半分弱、上へ。砲長が、もう一度だけ海を見た。
「撃て」
最初の一斉は、合図のようなものだ。湾内の空気が揺れ、鳥が一斉に飛び立つ。砲弾は海の皮膚に牙を立て、白い牙の輪を広げる。甲鉄は素早く角度を変えた。肌に走る光は、冷たい。春日は後背へ回ろうとしている。弁天台場が春日の尻尾を追う間に、甲鉄の口が弁天へ向いた。
「甲鉄、回頭!」
遠見が叫ぶ。蓮の耳は、砲声の合間に、細い違う音を拾った。甲鉄の機関が呼吸する音だ。地鳴りに似た低音。その低音が、弁天の石垣の中まで染みてくる。
甲鉄の口が、火を吹いた。初弾は高い。だが高い弾でも、空気は覚える。次は落ちる。弁天台場の砲員が、各々の持ち場で短く祈るように瞬きをした。祈りの言葉はない。目の乾きを湿らすだけだ。
第二射が来た。石の胸に、音が届く前に圧力が来る。空気が潰れ、次に音が破片の形をして落ちてくる。石灰の匂い、火薬の生臭さ、塩。蓮は舌の奥でその匂いを舐め取った。静は、弁天の内側の回廊を走って、すでに“誘い道”を台場の中にも敷いていた。砲座から砲座へ、弾薬庫から外へ、兵の足が自然に分散して流れるように。狭さと広さ、暗さと明るさの切り替えが、恐怖の流れを妨げないように。
「静、俺は外の梯子を頼む」
「はい、矢野さん」
蓮は台場の外梯子の足元に、濡れた綱の縛りを追加した。揺れで外れないように、結び目を二つ増やす。指先は冷えているが、手の甲に血が集まってきて、皮膚の感覚が戻る。遠くで、蟠龍の黒い腹が波を割っていた。宮古湾で拿捕された蟠龍は、今は新政府の旗を掲げ、こちらへ口を向けている。かつて仲間だった船が、今は敵だ。名は移り、旗は替わる。鉄の体は、嘘をつかない。
陸では、七重浜の砂に、木製の脚が音を立て始めていた。艀が砂を噛み、兵が跳ねる。薩摩の陣太鼓は低く長く、長州の笛は高く短い。奥羽の兵の足音は、雪の上で鍛えられていて、砂の上でも乱れない。峠下の丘では、敵の旗が二つ三つ、風に叩かれながら膨らみ、縮み、また膨らむ。大鳥は迎撃線を短く引いた。長い線は薄くなる。短い線は厚いが、抜かれれば終わりも速い。
蓮と静は、台場と五稜郭を結ぶ道を往復しながら、伝令と斥候の流れを整えた。戦いは派手に見えたが、派手さの裏は、こうした小さな流れの管理でできている。どの扉を誰が開けるのか。誰が閉めるのか。鍵はどこに置くのか。火薬はどれだけ持ち出し、どれだけ戻ったのか。数字の列に間違いがあると、砲の口は沈黙する。沈黙した砲は、ただの重い鉄だ。重い鉄は、人の肉よりも冷たい。
午後、千代ヶ岡台場に厚い煙が上がった。敵の砲が、砂丘の背を叩き、砲座の土が、波のように崩れた。台場の旗が、一度、風に巻かれて消え、次に見えたときには、白い布が結び付けられていた。降伏の合図。蓮は歯を食いしばった。静は目を細めたが、何も言わない。言葉は、風に弱い。ここでは、風の側に立つべきだ。
夕刻、弁天台場の砲声が一瞬止み、その間に、五稜郭内に短い号令が走った。榎本が上陸兵の首を抑えるため、陸戦隊を回すという。大鳥は峠下へ下げ線を引き直し、戸切地と七重浜の間の湿地に誘い込む算段を立てた。静は地図の左下に指を置いて言った。
「ここに、目に見えない堀があります」
「湿地の帯か」
「はい。——幅は一間。深さは半尺。靴の中に水が入ります」
「嫌な深さだ」
「はい。——嫌な深さです」
嫌な深さは、人の意地を折る。意地は刃の芯だ。芯が折れれば、刃はただの鉄になる。
夜、風が変わった。海の塩気が薄くなり、松脂の匂いが強くなる。内陸で火が増えている。峠下の松林が、敵の火薬で焼け、湿った煙が斜面を下りてきて、五稜郭の堀に薄い膜を張った。月は早々に雲に入り、星の光だけが土塁の縁を侮辱するように冷たく撫でていった。
静は外周をもう一度回り、“誘い道”の段差を足裏で確かめ直した。段差は傷のようだ。浅いと気づかれない。深いと避けられる。ちょうどよい傷は、動いている時にしか痛まない。痛みは遅れて来る。遅れて来る痛みは、勝ちを遅らせる。
台場筋から戻る途中、蓮は五角の内側で、古い旗の束を見つけた。白地に黒い葵。江戸の天の印。旗の布は、汗や雨や血や煤や涙を吸って重くなっている。重い布は風に弱い。軽い布は風に強い。歴史の重さは、今は風に弱い。風は、新政府の側に吹いている。
兵の一人が、旗の端を手の中で撫でていた。蓮は彼の肩に指を置いた。
「持っていけ」
「どこへ」
「背中だ。風に向けるな。肌に向けろ」
男は頷き、旗を細く折って帯の内側へ差し込んだ。名を背負うのではなく、名を肌で温める。名は本来、そういうものだ。声に出すと冷える。紙に書くと硬くなる。肌の中でだけ、名は柔らかい。
真夜中を少し回った頃、五稜郭の北側の堀に、水の撥ねる音が小さく連なった。静は腕を上げ、蓮の前に広げた。止まれ、の合図。堀を渡る板が置かれている。敵が用意したものではない。こちらの物が外に持ち出され、逆に橋になっている。中に裏切りがいるのか、外の手際が良いのか。どちらでもいい。板は板だ。板を外せば、音は消える。
蓮は板の端に膝をつき、かすかに押し下げた。反対側が跳ねる音で、人の重みが分かる。三人。間隔が正直だ。正直な間隔は訓練が浅い。浅い訓練は、夜に優しい。静が小石をひとつ、堀の向こうへ放った。音が水面で散り、足が一瞬止まる。止まった足は、段差を忘れる。忘れた足が、石に引っ掛かる。息が吸われ、喉が開く。開いた喉に、柄の丸い木が、優しく当たる。声は出ない。水は静かだ。静かな水は、朝を呼ぶ。
倒れた一人の懐から、木札が出てきた。札には「盛岡」の字。南部藩だ。奥羽列藩同盟の崩壊の後、新政府側に付いた諸藩の兵が、ここでは敵だ。昨日までの味方が、今日の敵。名の側は変わる。だが、身体の動きは変わらない。足は、足の嘘をつけない。
蓮は札を握りしめ、掲げて見せた。静は首をわずかに振った。
「矢野さん。——札は置いていきましょう」
「証にはならないか」
「はい。——証は、明日の砲声です」
夜が薄くなる。薄さは弱さではない。薄いほど、音が遠くまで届く。弁天台場の砲身が、夜明け前の湿気で黒く光る。五稜郭の角の上に、鳥が一羽、止まった。羽を膨らませ、首をすくめ、目を閉じた。鳥は眠る時も、空を忘れない。
静が息を吸った。蓮も、同じ深さで吸った。
「矢野さん」
「何だ、静」
「背中、預けます」
「任せろ」
「はい。——ありがとうございます」
堀の水面が、東の白さを薄く映す。東は新政府の来る方角だ。だが光の来る方角でもある。光は影を作る。影は、光がなければ濃くならない。濃い影は、刃に厚みを与える。
日の出前、弁天台場から短い伝令が走った。「甲鉄、距離を詰める」。五稜郭の内側で、榎本が片袖を払って立ち上がる。大鳥が地図を丸め、背に差す。箱館湾の口で、春日の角度が変わる。丁卯が後ろに回る。蟠龍が湾内へ滑り込む。甲鉄の甲板に、小さな人影が並ぶ。彼らもまた、風の側に立とうとしている。風は、誰のものでもないのに。
蓮は刀の柄を握り直した。柄の巻きが掌に吸い付く。その吸い付きが、ここにいることの印だ。名を呼ばれなくても、ここにいる。呼ばれない名ほど、長く残ることを、蓮は知り始めていた。残るのは紙ではない。残るのは足跡でもない。残るのは、呼吸の深さだ。深さは、背を預けた相手の呼吸と揃う時、初めて他人に伝わる。
星の城の上に、白い朝が来た。白いが、冷たい。冷たいが、確かだ。確かさの上に刃を置き、二人は歩き出した。海の歯が近づく音は、もう聞き分ける必要がない。これから必要なのは、音を消す技と、音に負けない呼吸だけだ。歴史の歯車は止まらない。だが、歯車の外輪に爪先をかけて、一刻(いっとき)でも回転を遅らせることはできる。遅らせた一刻が、誰かの命の長さになる。名のない命の、その一刻のために、影は今夜も、星の城の角に立つ。
海の向こうで、甲鉄が低く唸り、春日が舷灯を揺らした。陸では、峠下の松に小さな火が点き、七重浜の砂に足音が増える。千代ヶ岡台場の煙は薄くなった。代わりに、弁天の煙が厚くなる。厚い煙は、風に抗って立ち上がる。風は笑い、煙は咳をする。静の咳は、ただの乾きだ。蓮の胸の中の咳は、まだ名を持たない。名を持たない咳は、長く続く。続くものだけが、影になる。
「矢野さん。——行きます」
「行こう、静」
二人は、五稜郭の一角から走り出た。星の城は、朝の光で輪郭を浮かび上がらせ、外の世界の線を、気の毒なほど丁寧に映し取っていた。悲壮という言葉が、もしここにあるなら、それは風の背中に書かれている。風は振り向かない。振り向かないものの後ろ姿ほど、長く目に残る。目に残るもののために、影は今日も、名を捨てたまま、名を守る。
五稜郭の内側では、音が細く分解される。砲身を拭く油布の擦れる音、雷管を点検する乾いた指先の音、木箱の蓋を外す釘の鳴き。蓮は火薬庫の帳面を閉じ、鍵を革鞘で包みなおすと、土塁の肩へ出た。吐く息は白い。だが白さは弱さではない。ここでは、白い息の長さで互いの体力を測る。
「矢野さん」
静の声が、土の上でよく響いた。蓮は足を止める。
「静」
「南の稜堡に、狐ではない跡がありました。踵が軽い。若い者が二」
「潜り込んだか」
「はい。——潜る場所は、こちらが用意した場所です」
静は淡々としている。彼の「用意」は、敵を招き入れる支度だ。袋小路ではない。袋小路は敵を絶望させ、絶望は刃を走らせる。静の“誘い道”は、行ける、と相手に思わせたまま体力と集中を削ぎ、最後の角で音と影を絡ませて動きを止める。蓮は頷き、腰の刀の位置を指二本分ずらした。稜堡の角で抜き合わせに入るとき、鞘走りの音が土の壁に吸い込まれて、相手の耳に届きにくい高さがある。
その夜、二人は南稜の外門に近い導入路で待った。雪は消え、土の表皮は薄く凍って、踏めば鈍い音を返す。堀の向こうに、足音が二つ。間隔は腕の長さ。指揮は若い。足跡の間合いがそれを物語る。蓮は目を凝らした。黒の中に、さらに濃い黒が動く。静は首だけをわずかに傾け、息を吐いた。合図だ。蓮は一歩退き、すれ違いの空間を作る。敵がそこを“抜けられる”と思って踏み込む寸前、薄い段差に足裏が引っ掛かり、膝が微かに折れた。視線が落ち、刃の先が胸より低くなったところに、静の短い打ちが飛び、蓮の柄打ちが喉をかすめる。声は出ない。もう一人が動いた。早い。だが速さは直線を作る。直線は音を連れてくる。土塁に返る音の位相で、刃の角度がわかる。蓮の左足が半歩引き、静の右足が半歩出た。交差の一瞬、白い袖が月に染みを作り、黒い影がその中で二つ折れになった。
「……津軽の紋だ」
縫い取りの端に、見慣れぬ葉の文様が見えた。陣笠の裏にも墨字が残る。弘前。奥羽の諸藩からの出兵が、ここまで上がってきている。蓮はひとつ息を深くして、倒れた若者の腰から革袋を外した。乾いた煎餅、藩札の束、手紙。手紙の端に「鷲ノ木」「七重浜」の文字。上陸点の確認命令だ。
翌朝、榎本の指令所では海図と陸図が並び、海軍と陸軍の語彙がぶつかりながら混ざり合った。鷲ノ木、木古内、七重浜、峠下。黒田清隆の名が、敵の指揮にあると伝えられる。薩長土肥の骨に、奥羽諸藩の筋肉がついた軍だ。海には甲鉄がいる。宮古湾で取り損ねた、鉄の皮膚の怪物。回天が突っ込んだあの朝、甲鉄の舷側に鉤縄が空しくぶら下がり、潮に濡れた板が血を吸って黒く重くなっていったことを、ここにいる何人もが覚えていた。
「宮古の話は、夜にしろ」
大鳥が低く言って、図上の駒を動かした。前夜に捕らえた斥候の持ち物から、敵の上陸線はおおよそ読める。問題は速度だ。甲鉄の牙が本当に向きを変えた時、海と陸の歯車は噛み合って、こちらの手足を噛み砕くだろう。
土方歳三の姿はない。一本木関門で撃たれた日の午後から、五稜郭の空気はひとつ軽くなったが、同時に一段重くなっている。軽さは、あの人がここにいない分の風通し。重さは、あの人が担っていた重みの分だけ、星の城に沈んだ負債だ。蓮はその負債を、肩代わりできるとは思わない。ただ、夜の番の時間を少し延ばすこと、出入りの記録をひとつ漏らさないこと、刃を鈍らせないこと。その程度の返し方しか、彼ら影には許されない。
弁天台場へ伝令が走る。千代ヶ岡台場には砲弾が余分に必要だという。戸切地の陣屋からは、弾薬は自前で賄うという返答。千代ヶ岡は小高い砂丘の背に砲座を切り、箱館湾の入口に低い口を開けている。そこを抜かれれば、湾は甲鉄の庭になる。静は蓮に目で合図を送った。二人は台場筋へ走った。
台場の砲耳には、潮の塩が白く固まっている。指で払えば粉になり、すぐ風に飛ぶ。砲兵の若いのが、砲身に頬を付けるように覗き込み、唇を白くしている。緊張の白さだ。蓮は肩を叩き、砲耳から遠ざけた。
「耳は、砲のためのものじゃない。お前のためのものだ」
若いのは、かすかに笑った。「はい」
弁天台場の砲の口が、湾外に向けてわずかに上がる。遠見の合図で、甲鉄らしい艦影が二。春日が一。丁卯が一。春日は薩摩、丁卯は長州。甲鉄は、名前の通り鉄だが、皮膚だけが硬いのではない。心臓——機関が強い。あれの回頭は、海の獣が背を返すみたいに速い。宮古湾で、それを見た者は、肉体の奥で理解している。
風が変わった。北東から南東へ。海の色が、ほんの少しだけ浅くなる。弁天台場の砲長が、短く号令した。「第一、一時停止。第二、装填」。砲身が、息を吸うみたいに静かに後ろへ引かれ、砲尾が開く。薬包の紙が破られ、黒い粉が白い紙から滑り落ちる。雷管が指先の腹で軽く押され、座につく。砲耳が合図を受け、砲口が海の水平線上より半分弱、上へ。砲長が、もう一度だけ海を見た。
「撃て」
最初の一斉は、合図のようなものだ。湾内の空気が揺れ、鳥が一斉に飛び立つ。砲弾は海の皮膚に牙を立て、白い牙の輪を広げる。甲鉄は素早く角度を変えた。肌に走る光は、冷たい。春日は後背へ回ろうとしている。弁天台場が春日の尻尾を追う間に、甲鉄の口が弁天へ向いた。
「甲鉄、回頭!」
遠見が叫ぶ。蓮の耳は、砲声の合間に、細い違う音を拾った。甲鉄の機関が呼吸する音だ。地鳴りに似た低音。その低音が、弁天の石垣の中まで染みてくる。
甲鉄の口が、火を吹いた。初弾は高い。だが高い弾でも、空気は覚える。次は落ちる。弁天台場の砲員が、各々の持ち場で短く祈るように瞬きをした。祈りの言葉はない。目の乾きを湿らすだけだ。
第二射が来た。石の胸に、音が届く前に圧力が来る。空気が潰れ、次に音が破片の形をして落ちてくる。石灰の匂い、火薬の生臭さ、塩。蓮は舌の奥でその匂いを舐め取った。静は、弁天の内側の回廊を走って、すでに“誘い道”を台場の中にも敷いていた。砲座から砲座へ、弾薬庫から外へ、兵の足が自然に分散して流れるように。狭さと広さ、暗さと明るさの切り替えが、恐怖の流れを妨げないように。
「静、俺は外の梯子を頼む」
「はい、矢野さん」
蓮は台場の外梯子の足元に、濡れた綱の縛りを追加した。揺れで外れないように、結び目を二つ増やす。指先は冷えているが、手の甲に血が集まってきて、皮膚の感覚が戻る。遠くで、蟠龍の黒い腹が波を割っていた。宮古湾で拿捕された蟠龍は、今は新政府の旗を掲げ、こちらへ口を向けている。かつて仲間だった船が、今は敵だ。名は移り、旗は替わる。鉄の体は、嘘をつかない。
陸では、七重浜の砂に、木製の脚が音を立て始めていた。艀が砂を噛み、兵が跳ねる。薩摩の陣太鼓は低く長く、長州の笛は高く短い。奥羽の兵の足音は、雪の上で鍛えられていて、砂の上でも乱れない。峠下の丘では、敵の旗が二つ三つ、風に叩かれながら膨らみ、縮み、また膨らむ。大鳥は迎撃線を短く引いた。長い線は薄くなる。短い線は厚いが、抜かれれば終わりも速い。
蓮と静は、台場と五稜郭を結ぶ道を往復しながら、伝令と斥候の流れを整えた。戦いは派手に見えたが、派手さの裏は、こうした小さな流れの管理でできている。どの扉を誰が開けるのか。誰が閉めるのか。鍵はどこに置くのか。火薬はどれだけ持ち出し、どれだけ戻ったのか。数字の列に間違いがあると、砲の口は沈黙する。沈黙した砲は、ただの重い鉄だ。重い鉄は、人の肉よりも冷たい。
午後、千代ヶ岡台場に厚い煙が上がった。敵の砲が、砂丘の背を叩き、砲座の土が、波のように崩れた。台場の旗が、一度、風に巻かれて消え、次に見えたときには、白い布が結び付けられていた。降伏の合図。蓮は歯を食いしばった。静は目を細めたが、何も言わない。言葉は、風に弱い。ここでは、風の側に立つべきだ。
夕刻、弁天台場の砲声が一瞬止み、その間に、五稜郭内に短い号令が走った。榎本が上陸兵の首を抑えるため、陸戦隊を回すという。大鳥は峠下へ下げ線を引き直し、戸切地と七重浜の間の湿地に誘い込む算段を立てた。静は地図の左下に指を置いて言った。
「ここに、目に見えない堀があります」
「湿地の帯か」
「はい。——幅は一間。深さは半尺。靴の中に水が入ります」
「嫌な深さだ」
「はい。——嫌な深さです」
嫌な深さは、人の意地を折る。意地は刃の芯だ。芯が折れれば、刃はただの鉄になる。
夜、風が変わった。海の塩気が薄くなり、松脂の匂いが強くなる。内陸で火が増えている。峠下の松林が、敵の火薬で焼け、湿った煙が斜面を下りてきて、五稜郭の堀に薄い膜を張った。月は早々に雲に入り、星の光だけが土塁の縁を侮辱するように冷たく撫でていった。
静は外周をもう一度回り、“誘い道”の段差を足裏で確かめ直した。段差は傷のようだ。浅いと気づかれない。深いと避けられる。ちょうどよい傷は、動いている時にしか痛まない。痛みは遅れて来る。遅れて来る痛みは、勝ちを遅らせる。
台場筋から戻る途中、蓮は五角の内側で、古い旗の束を見つけた。白地に黒い葵。江戸の天の印。旗の布は、汗や雨や血や煤や涙を吸って重くなっている。重い布は風に弱い。軽い布は風に強い。歴史の重さは、今は風に弱い。風は、新政府の側に吹いている。
兵の一人が、旗の端を手の中で撫でていた。蓮は彼の肩に指を置いた。
「持っていけ」
「どこへ」
「背中だ。風に向けるな。肌に向けろ」
男は頷き、旗を細く折って帯の内側へ差し込んだ。名を背負うのではなく、名を肌で温める。名は本来、そういうものだ。声に出すと冷える。紙に書くと硬くなる。肌の中でだけ、名は柔らかい。
真夜中を少し回った頃、五稜郭の北側の堀に、水の撥ねる音が小さく連なった。静は腕を上げ、蓮の前に広げた。止まれ、の合図。堀を渡る板が置かれている。敵が用意したものではない。こちらの物が外に持ち出され、逆に橋になっている。中に裏切りがいるのか、外の手際が良いのか。どちらでもいい。板は板だ。板を外せば、音は消える。
蓮は板の端に膝をつき、かすかに押し下げた。反対側が跳ねる音で、人の重みが分かる。三人。間隔が正直だ。正直な間隔は訓練が浅い。浅い訓練は、夜に優しい。静が小石をひとつ、堀の向こうへ放った。音が水面で散り、足が一瞬止まる。止まった足は、段差を忘れる。忘れた足が、石に引っ掛かる。息が吸われ、喉が開く。開いた喉に、柄の丸い木が、優しく当たる。声は出ない。水は静かだ。静かな水は、朝を呼ぶ。
倒れた一人の懐から、木札が出てきた。札には「盛岡」の字。南部藩だ。奥羽列藩同盟の崩壊の後、新政府側に付いた諸藩の兵が、ここでは敵だ。昨日までの味方が、今日の敵。名の側は変わる。だが、身体の動きは変わらない。足は、足の嘘をつけない。
蓮は札を握りしめ、掲げて見せた。静は首をわずかに振った。
「矢野さん。——札は置いていきましょう」
「証にはならないか」
「はい。——証は、明日の砲声です」
夜が薄くなる。薄さは弱さではない。薄いほど、音が遠くまで届く。弁天台場の砲身が、夜明け前の湿気で黒く光る。五稜郭の角の上に、鳥が一羽、止まった。羽を膨らませ、首をすくめ、目を閉じた。鳥は眠る時も、空を忘れない。
静が息を吸った。蓮も、同じ深さで吸った。
「矢野さん」
「何だ、静」
「背中、預けます」
「任せろ」
「はい。——ありがとうございます」
堀の水面が、東の白さを薄く映す。東は新政府の来る方角だ。だが光の来る方角でもある。光は影を作る。影は、光がなければ濃くならない。濃い影は、刃に厚みを与える。
日の出前、弁天台場から短い伝令が走った。「甲鉄、距離を詰める」。五稜郭の内側で、榎本が片袖を払って立ち上がる。大鳥が地図を丸め、背に差す。箱館湾の口で、春日の角度が変わる。丁卯が後ろに回る。蟠龍が湾内へ滑り込む。甲鉄の甲板に、小さな人影が並ぶ。彼らもまた、風の側に立とうとしている。風は、誰のものでもないのに。
蓮は刀の柄を握り直した。柄の巻きが掌に吸い付く。その吸い付きが、ここにいることの印だ。名を呼ばれなくても、ここにいる。呼ばれない名ほど、長く残ることを、蓮は知り始めていた。残るのは紙ではない。残るのは足跡でもない。残るのは、呼吸の深さだ。深さは、背を預けた相手の呼吸と揃う時、初めて他人に伝わる。
星の城の上に、白い朝が来た。白いが、冷たい。冷たいが、確かだ。確かさの上に刃を置き、二人は歩き出した。海の歯が近づく音は、もう聞き分ける必要がない。これから必要なのは、音を消す技と、音に負けない呼吸だけだ。歴史の歯車は止まらない。だが、歯車の外輪に爪先をかけて、一刻(いっとき)でも回転を遅らせることはできる。遅らせた一刻が、誰かの命の長さになる。名のない命の、その一刻のために、影は今夜も、星の城の角に立つ。
海の向こうで、甲鉄が低く唸り、春日が舷灯を揺らした。陸では、峠下の松に小さな火が点き、七重浜の砂に足音が増える。千代ヶ岡台場の煙は薄くなった。代わりに、弁天の煙が厚くなる。厚い煙は、風に抗って立ち上がる。風は笑い、煙は咳をする。静の咳は、ただの乾きだ。蓮の胸の中の咳は、まだ名を持たない。名を持たない咳は、長く続く。続くものだけが、影になる。
「矢野さん。——行きます」
「行こう、静」
二人は、五稜郭の一角から走り出た。星の城は、朝の光で輪郭を浮かび上がらせ、外の世界の線を、気の毒なほど丁寧に映し取っていた。悲壮という言葉が、もしここにあるなら、それは風の背中に書かれている。風は振り向かない。振り向かないものの後ろ姿ほど、長く目に残る。目に残るもののために、影は今日も、名を捨てたまま、名を守る。



