名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 夜は刃だった。薄い雲の裏側で月が研がれ、星の城の角は、触れれば皮膚をかすめ取るほどに冷たく尖っていた。五稜郭の堀は鉛のように重い色を湛え、風が通るたび微かなさざ波が立つ。水面の黒は動き、影の黒は動かない。その境目を見分けることが、ここでの生存の第一手だった。

 静は外周を歩いた。星形の稜堡(りょうほ)から稜堡へ。堀をはさむ土塁の肩は踏み固められ、足裏が覚える柔らかさは、昼のうちに兵が何度も通った証である。静は歩きながら、五つの角の間に“誘い道”の目印を置いていった。杭ではない。杭は目立つ。石と影を使う。夜の底が自然に深く見える場所へ、さらに深みを作る。足音が増幅して戻ってくる狭さ、月明かりがわずかに途切れる角度、味方だけが跨げる段差。敵の「まだ行ける」を一つずつ削っていけば、短い夜でも時間は延びる。

 蓮は内側を歩いた。火薬庫の鍵は革鞘でくるみ、腰に括り付け、出入りを帳面に記す。誰が、いつ、何を、どれほど。名は必要だが、飾る必要はない。線は細く、字は小さく。蓮は筆の腹をわずかに寝かせ、震えない手を心がけた。震えは恐怖ではなく、寒さか疲労だが、紙の上で区別はつかない。紙はただ線の歪みを記録し、歪みの理由までは書かない。

 火薬庫の扉を閉めると、木と鉄の合わせ目から冷気が舌のように流れてきた。蓮はその冷気を胸いっぱいに吸い込んで、落ち着きを身体の芯に戻す。耳を澄ませば、遠く弁天台場の方角から、低い鉄の軋みが届いてくる。砲の手入れの音だ。榎本武揚の海の兵は、夜でも手を止めない。海は夜の方が深く、敵の目も深まるからだ。

 見回りの途中、蓮は傷兵の焚火のそばに腰を下ろした。薪は湿っていて、火の具合は良くない。煙が風に押し戻されて顔を撫で、涙腺を刺激する。誰かが小さく節を取った。会津の子守歌に似ているが、歌詞は江戸端唄の断片だ。「どうせ浮世は……」の先を、誰も続けない。続けると泣けるからだ。泣くと、刃が鈍る。鈍った刃は人を余計に死なせる。ここでは泣くにも順序がいる。

 「蓮」

 背中から静の声が落ちた。蓮は振り返る。「静」

 静は火の明かりの外に立っている。白い袖口が煤に汚れ、左の膝に雪の名残が薄く貼りついていた。

 「外はどうだ」

 「矢野さん。——狐の跡と、軽い足の跡。人の方は、一人ではないです。土地勘のある者が、夜の癖を見に来ています」

 「新政府軍の斥候か」

 「はい。——あるいは、斥候まがいの商人です。どちらも同じです」

 静は火に手を当てず、焚火の光をよけるように立ち位置を変えた。目が暗さに慣れていることを優先する。火に背を向けるのは暖を捨てることではなく、視界を守ることだ。蓮は立ち上がり、擦れた手の平を一度こすり合わせてから、並んで歩き出した。

 北稜の外へ出ると、雪が縞になって残っていた。昼間の解けかけと夜の凍り直しが交互に作る細い帯。静は膝を折り、指先で縞の端を撫でる。

 「矢野さん。——風がこの角で巻きます。音が歪む。ここに軽い段差をひとつ」

 「石を運ぶか」

 「はい。——重い石ではなく、足の裏にしか感じない程度の高さで」

 「人の足は、焦れば高く上がり、疲れれば低くなる」

 「はい。——低くなったときに躓けば、剣先が落ちます」

 静の説明は、いつもどおり淡々としている。だが蓮は、その淡々の裏に微かな熱を嗅ぎ取った。失ったものの名を、ここで言葉にしないための熱だ。土方歳三が一本木で倒れた日から、静の声には薄い刃渡りが増えた。落ち着いているほど、切れる。切れるほど、血の匂いが薄くなる。薄くなった匂いは、風に紛れて遠くへ行く。戻ってこない。

 桟橋に出た。海は鉛色で、波間に海霧が這う。弁天台場からの信号旗が、風に煽られて小刻みに震える。榎本の艦隊が湾内で微速をかけ、各艦のランプがいくつかの星のように揺れていた。回天、蟠龍、千代田形——名前は力がある。名を呼べば、海に浮かんでいる黒い影が、具体の姿を取る。名を持たないものを相手にしてきた蓮には、名のある船の安心が不思議に映った。名は弱さでもあるが、頼りでもある。

 「静」

 「はい、矢野さん」

 「お前の“誘い道”、いつから考えてた」

 「京で、最初の密偵を追った夜からです」

 「そんな昔か」

 「はい。——あの時、矢野さんが角で躓かれたでしょう」

 「覚えてるのかよ」

 「はい。——それ以来、段差は味方のものになりました」

 静はわずかに口の端を上げた。笑っているのだが、口の形だけで、目は笑わない。目は夜の底を見ている。蓮は肩をすくめ、桟橋の先に歩を進めた。海の匂いは江戸のものより鉄の匂いが強い。錨鎖(アンカー・チェーン)の匂いだ。鉄は冷える。冷えた鉄はよく音を伝える。音は味方だ。音のない闇ほど恐ろしいものはない。

 その夜更け、弁天台場の方角に微かな光が走った。合図は“三短二短一長”。台場長から五稜郭への合図表では「未確認の艦影」。榎本艦隊ではない。新政府軍の斥候、あるいは商船を装った探りである可能性が高い。

 「来る」

 静は短く言った。蓮の背中の筋が自然に固まる。来るものは来る。来ない夜が続けば、それはそれで不安が育つ。来ると決まった方が、身体は動く。動けば、思考は鎮まる。

 五稜郭の内部に小さな波が走った。土方が生きていれば、ここで短く笑うだろう。「上等だ」と一言。だが今、その役目は誰にもできない。榎本は海のことを考え、大鳥は陸の大まかな線を見ている。細いところは、影が拾う。

 静は“誘い道”の最終確認に出、蓮は火薬庫に戻った。帳面の罫線に沿って、出入りの記録を指で辿り直す。武器奉行所から渡された黒い粉の袋数、火縄の巻き、雷管の数。数字は冷たいが、冷たい数字ほど温度を持つ時がある。必要に迫られた冷たさは、ひどく人の体温に似るからだ。

 蓮は筆を置き、火薬庫の扉を背にして深く息を吐いた。浅い呼吸では夜に負ける。深すぎる呼吸は足を鈍らせる。ちょうどいい深さは、人の背を預ける距離に似ている。手を伸ばせば触れられるが、触れなくても分かる距離。静がいつも測っている距離だ。

 内側の文庫からの帰り道、蓮は五角の内地で傷兵が火を囲むのを見た。誰かが刀の柄で節を打ち、別の誰かがかすれた声で上ずる。「江戸の雨……」と口ずさみ、そこで止まる。続けると、別の雨が落ちてくるからだ。黙って座っている者の肩がわずかに震え、その震えを薄い笑いでごまかす。笑いは夜に優しい。夜は、笑う者の肩に毛布をかける。

 外周を巡っていた静は、北稜の陰からそっと姿を現した。足音が土に吸われて音のないまま近づいてくる。

 「矢野さん。——一つ、面白いものを見ました」

 「面白い?」

 「はい。——狐が段差を避けて通りました」

 「賢いな」

「はい。——賢いものは罠にかかりません。賢い者を罠にかけるためには、罠の形を賢くする必要があります」

 「どう賢くする」

 「罠に見えないことです。罠に見えないものは、罠ではなく道になります」

 蓮は苦笑した。「お前はやっぱり、人じゃない」

 静は首をかしげた。「矢野さん。——人である必要は、ありますか」

 「ある。でも、お前はそれを削ってここまで来た」

 「はい。——必要のないものを削っただけです」

 必要のないもの。蓮は息を吸い、吐いた。必要のないものは、いつも必要に見える。だから削る時は痛い。痛みは夜の背骨のように長く、触ると冷たい。

 夜半を過ぎ、凍てが強くなる。堀の端に薄い氷皮が張ろうとして、張り切れず、白いひびが幾筋も走る。ひびの形は星に似ていた。星の城の水面に、星が割れて咲く。静はその割れ目をじっと見た。

 「矢野さん。——水は凍ると、音が変わります」

 「そうだな」

 「はい。——音が変われば、足音も変わります。音が変わる場所は、目が届かなくても分かります」

 「目を閉じて歩けるか」

 「はい。——矢野さんの呼吸が聞こえる距離なら」

 蓮は肩をすくめた。「お前のその言い方、ずるいぞ」

 「はい。——ずるいです」

 二人は、南の稜堡へ移動した。そこは風の通りが良く、音が削られる。敵が来るなら風下から。風上からの音は割れて聞き取れない。静は胸に手を当て、小さく咳をした。咳は乾いている。総司の咳を覚えている蓮の耳は、思わず心の奥を固くする。静の咳は病の咳ではない。ただの乾きだ。乾きは水で癒える。病は、祈りでも癒えない。

 「静」

 「はい、矢野さん」

 「お前の咳は、ただの咳だな」

 「はい。——ただの咳です」

 「よかった」

 「はい。——よかったです」

 会話は短い。短い会話は、夜に優しい。言葉が長くなるほど、隙は増える。隙は風と同じで、どこからでも侵入する。

 凍った土塁の肩をゆっくり進むと、弁天台場の灯がまた一度点滅した。今度は“一短一長二短”。合図表で「接近継続」。榎本の艦は不動。新政府側の船が、湾の外で舵を切り、距離を測っているのだろう。コールサインは聞こえない。夜の海は、名を呼ばない。

 入城路の一つ、北東の外門の手前で、静は足を止めた。地面に、湿り気を帯びた土が少しだけ乱れている。靴底の模様が浅く写っている。

 「矢野さん。——ここは、鹿ではありません」

 「人か」

 「はい。——軽い足です。足首の力が強い。若い者」

 「一人じゃないな」

 「はい。——二人」

 静は両手を広げた。広げた腕の長さが、二人の距離だ。蓮は頷く。顔は見えない。見えないが、身体は知っている。若い足が夜に期待していることを。期待は力を生むが、道を誤らせる。誤らせるために、ここに小さな段差を作る。

 石と泥を集める。手で掬い、押し固め、ひと足の幅だけ盛り上げる。足裏でしか感じない高さだ。月明かりには映らない。映らないものは、夜を味方にする。

 作業の合間に、静がふいに言った。

 「矢野さん。——梅は、冬に根を伸ばします」

 「知ってる」

 「はい。——春、あれが咲くのを見たいです」

 「俺もだ」

 「はい。——約束を、形にしましょう」

 「種は、埋めた」

 「はい。——水は、空がくれます」

 蓮は息の奥が温かくなるのを感じた。温かさは、刃の逆側にある力だ。夜の最中にそれを感じることができれば、翌朝の足取りは軽くなる。

 やがて、東の空がわずかに白んだ。白いが、冷たい白だ。色のない白。夜の終わりではなく、夜の形を変えただけの白だ。静が言った。

 「来ます」

 「どこから」

 「北。——風の裏から」

 「見えるか」

 「はい。——見えません」

 蓮は笑い、刀の柄に手を置いた。柄の巻きは乾いていて、指先が吸い付く。吸い付いた指の皮膚が、夜の間に輪郭を取り戻す。刃はまだ鞘の中だが、鞘にいる刃ほど、よく物を見ている。

 五稜郭の夜は長い。長い夜の中で、二人の呼吸は一定だった。一定であることだけが、勝敗の表の外側で続いてきた彼らの誇りであり、拠り所だった。星の城に、薄い朝が降りる。薄いが、確かだ。確かさは、名前を必要としない。名前を必要としないものの中で、二人は刃を温め、影を濃くした。

 榎本の黒い艦が、微かに煙を吐いた。弁天台場の砲が静かに口を開いた。海の向こうで、甲鉄(こうてつ)が鈍い肌を光らせる。歴史の歯車は、誰の指でも止められない速度で噛み合い、回っている。だがその歯車の外輪に、爪先でしがみつく術だけは、まだ残っている。術の名は、呼ばれない。呼ばれない名ほど、強い。

 「矢野さん」

 「何だ、静」

 「背中、預けます」

 「任せろ」

 「はい。——ありがとうございます」

 風が稜堡の角で渦を巻き、堀の水が一瞬だけ白くさざめいた。来るものは来る。夜の準備は整っている。光が来る前に、もうひとつ、影の手仕事を終えておく——二人は目を合わせず、同じ方向へ、同じ速度で歩き出した。