降伏の式が整えられ、白い布が風に鳴る朝も、海は変わらず塩の匂いを運んだ。五稜郭の堀は光を跳ね返して眩しく、星の角の影だけが濃く沈んでいる。榎本武揚は短い言葉で兵をねぎらい、大鳥圭介は整然と歩みを命じ、遠巻きの人々の中で子どもが黒い艦を指さした。すべては静かだった。静かであることが、かえって胸を裂いた。
一本木関門の辺りに香の匂いが漂うのは、その数日前に土方歳三が倒れたせいだ。撃たれた場所は、地図では小さな点でしかない。だが、点の上にあった呼吸は大きかった。矢野蓮は、その場に居合わせなかった。外輪の退路をつくる役で、路地に段差を刻んでいた。戻ったとき、静が首を横に振った。なぜ言葉がいらないのか、蓮は長いあいだわかっていたつもりで、あの瞬間、本当にわかった。影は喪の説明を持たない。代わりに、道の続きを示す。
土方の佩刀は星の角の内側で静かに拭われ、柄巻きの墨の匂いが夜の隅まで滲んだ。蓮は柄を握ってみた。重さは変わらない。重さが変わらないのが、残酷だった。握りの裏側に、爪でつけた細い傷が二筋ある。刻んだ本人だけが知る目印。指がそこに吸い付く。握りが掌に馴染んだ瞬間、蓮は手をほどいた。この刃は持ち主がいないと、ただの時間になる。時間は、影には重すぎる。
榎本が降伏の手順を進め、新政府側の使者が城内に入った日の夕暮れ、静は堀端に立っていた。風が稜堡の角で渦を巻く。蓮が隣に並ぶと、静は目を逸らさずに言った。
「矢野さん。——土方さんのことは、ここで終わりにします」
「ここで終わるか」
「はい。——終わらせなければ、続けられません」
言葉は薄く、切り口が鋭い。蓮は頷いた。終わりにするのは、忘れることではない。終わりにして、持ち歩くのだ。忘れないために、畳む。畳んだ悲しみは、懐の温度で形を変える。
降伏の列は長かった。名を名乗る者、名を濁す者、名を持たない者。帳場に座る新政府の役人は、紙の上の墨だけに目を落とし、顔を見ない。蓮が名を告げたとき、喉の奥で小さく石が転がった。石は飲み込んだ。吐き出したら、ここで折れる。飲み込めば、どこかまで行ける。静は短く名を言い、視線を受けても水面のように光を返すだけだった。紙には何も残らない。残らないように動いたのだから、それでいい。いいはずだ。そう言い聞かせても、胸は空洞の音を鳴らす。
弁天台場からは煙が細く残り、千代ヶ岡の土塁の上では、避難していた女たちが持ち物をまとめていた。白い風呂敷の角に固く結んだ結び目が、何度もほどかれてまた結ばれていく。解けるたびに、指先の皮が赤くなる。赤くなった指を口に含んで、息で冷やし、また結ぶ。蓮はその手元を見ないふりをした。見たら、刃が鈍る。鈍らせたくないから、刃を守る。その選び方が、もう自分の骨に染みている。
夜、星の城の中にある小屋で、静は地図をひろげていた。降伏後の配置など地図に描く意味はない。だが彼は描く。見えない道、抜け道、風の通り道、噂の回り方。戦のない時間でも、影の地図は消えない。蓮は覗き込み、指で稜堡の角をなぞった。
「静。……俺たちはこれから、どこへ行く」
「矢野さん。——江戸へ。あるいは、もっと南へ」
「幕府はもうない」
「はい。——光が変われば、影の形も変わります」
「影は影のままか」
「はい。——それしか、生き残り方を知りません」
静の声は静脈のように薄く、しかし確かだった。蓮は地図から視線を上げ、静の頬を見た。白いのに、赤みがない。寒さで赤くなることすら、彼はどこかに置いてきたのだろう。
翌日、蓮は函館奉行所跡の書庫に足を運んだ。降伏の手続きで出入りが許されているあいだに、紙の匂いをもう一度吸っておきたかった。古い帳面に、かつての箱館の平穏が残っている。いつ、どの船が入り、何を積み、誰が降りたか。記された文字は無名の人々の息でできている。凪(なぎ)の一字が、数行おきにひっそり現れ、消える。凪が紙から消えるとき、人は戦を語る。蓮は凪の字に指を置き、目を閉じた。彼の胸の中で、海が一瞬だけ穏やかになった。
港では、フランス人のブリュネが兵たちに別れを告げていた。彼の眼差しは遠くの国を見ているのに、言葉は近くの人に落ちる。「ボン・ションス」と短く、笑わずに言い、帽子の庇を指で押さえて歩いていった。見送りの列の端で、榎本が片手を上げた。海の上では甲鉄の黒が動かない。動かない黒は、山の影のようにここに居座る。居座り続ける黒の前で、五稜郭の白い線は、ただ薄くなる。
一本木の方角に、小さな墓標がいくつか並んだ。木の札に墨で名が書かれているが、墨は雨で流れ、読み取れない。榎本から贈られた香が一本、風にあおられて火が短く走る。蓮は土方の墓標の前にしゃがみこんだ。誰かが置いた石が三つ、きれいに並んでいる。蓮は自分の小さな石をひとつ足して、四つめにした。四という数字は、忌みだと誰かが言った。だが、ここでは意味が変わる。四角は城の角。角が多いほど、長く持つ。持たせたいから、四つにした。誰に説明するでもなく、蓮は立ち上がった。
静は少し離れて立っていた。背筋はまっすぐで、手は下げられたまま。祈りの形を持たない男だ。蓮は彼の横に並ぶ。
「静。土方さんの最後、聞いたか」
「はい。——言葉はありません。目で、笑っていました」
「そうか」
「はい。——目だけ笑うのは、強い人の技です」
蓮は息を吸った。胸が痛いのは、冷たいせいだけではない。痛みの形が定まらないうちは、言葉にもならない。言葉にならないものを抱えたまま、蓮は函館山の方を見た。山肌にまだ雪が残っている。白いが、汚れの白だ。冬の白ではない。終わりの白。終わりの白は、春より冷える。
降伏の日取りが決まり、五稜郭の中の荷が軽くなるにつれて、町の声は平坦になった。「終わるのだ」と言う声がある。「これからだ」と言う声もある。どちらの声にも熱はない。熱は、もう使い切った。使い切ったものは、簡単には戻らない。戻さない方が、うまくいくこともある。蓮はそれを知っている。知っているのに、胸は熱を欲しがる。熱の代わりに、彼は匂いを吸った。塩、墨、湿った木、遠いところで炊かれた粥の匂い。匂いは嘘をつかない。匂いを覚えておけば、生き延びられる。
城を離れる前の夜、静が珍しく長く喋った。
「矢野さん。——江戸に梅を植える約束、覚えています」
「忘れてない」
「はい。——約束は、影を縛らない数少ない紐です」
「影も縛られるのか」
「はい。——影は名では縛れませんが、紐なら縛れます」
「妙な理屈だな」
「はい。——妙ですが、便利です」
蓮は笑った。笑いは短く、すぐに喉の奥に吸い込まれた。笑いの残り火で、彼は言った。
「江戸に戻れなかったら、どうする」
「戻ります」
「戻れなかったらだ」
「はい。——戻ります」
静の返答は、夢の言葉のようで、現実の足音がついていた。根拠はない。だが、彼はいつも根拠なしで刃を立てる。立つべき場所に刃が立てば、根拠はさきに生まれる。影の理は、そういう順序でできている。
最後の巡回は、明け方に行われた。堀の水は薄青く、風は南からで、鳥の声がひとつだけ高かった。裏門の閂は軽くなって、指を差し入れると、冬の間に木が痩せたことがわかる。痩せた木は、音が乾いている。乾いた音は、覚えやすい。覚えやすい音を胸に入れておくのは、別れの作法だ。静は音をいくつも拾い、歩きながら胸にしまった。蓮は足元の砂利の感触を靴底で覚えた。砂利の大きさ、角の丸さ、踏みしめたときの沈み方。記録にも歴史にも残らないが、確かに今ここにあった手触り。手触りは影の史書だ。
その日、榎本が新政府側へ渡していた書付の一枚が、風に煽られて石段に落ちた。誰も気づかない。薄い紙は土の上でひらひらとひっくり返り、白い面が空を向く。蓮は拾って、静かに榎本の従者に手渡した。紙に触れた指に、墨の匂いが移った。墨の匂いは、江戸の匂いを思い出させる。江戸に梅を。指先に残った墨の薄さが、確かな約束に思えた。
五稜郭を出る列の最後尾に、蓮と静は並んだ。振り返らない。振り返れば、背が空く。背を空けた影は、名を持つ。名を持てば、刃は鈍る。鈍った刃は、人を一人分余計に死なせる。余計な死を、蓮はもう見たくなかった。歩幅は一定、呼吸は浅すぎず深すぎず。足裏に残る砂利の感触が薄れるころ、星の城は視界から消えた。消えたあとに、塩の匂いだけが残った。
港のはずれで、漁師の老人が二人を見て頷いた。
「黒い船は行っても、潮は来る」
それだけ言うと、老人は網を肩に担いで歩き去った。網の重さが、背中に沈んでいる。沈む重さの分だけ、彼は前へ傾いて歩く。前へ傾けば、進む。簡単な理屈が、北では強い。
淡い霧の中を抜け、二人は町はずれの小さな社に寄った。先日見た手紙はもうない。新しい紙が一枚、置かれていた。文字は拙く、墨が飛んでいる。〈生きて帰ったら、飯を三杯食べる〉とあった。蓮は笑って、紙をそっと戻した。梅も酒も飯も、同じ重さだ。生きて帰ることの重さには、どれも足りない。足りないからこそ、約束になる。
城下を離れる前に、静が一度だけ立ち止まった。弁天台場の方角を見たのだ。砲の口は布で巻かれ、台場の木柵には穴がいくつも空いている。穴の縁は焦げて黒い。黒はよく残る。残る黒は、誰の名でもない。
「静」
「はい、矢野さん」
「お前の名は、どこに残る」
「どこにも。——矢野さんの記憶以外には」
「重いな」
「はい。——重いです」
「俺のも、お前に預ける」
「はい。——預かります」
預け合った名は、紙ではなく、息に記される。息の記帳は、燃えても流れても残らない。残らないからこそ、相手の胸の温度が保証になる。保証は目に見えない。見えないものを信じるのは、影の得意技だ。
港を離れ、山肌に沿って続く道を進む。函館の町が見えなくなると、風の音だけになる。風は、海から来て、山にあたって、また海へ返る。返るまでの間、人の耳を撫でる。撫でられるたび、蓮は自分の輪郭を確かめる。薄くなりすぎていないか。消えかかっていないか。消えたいのではない。名を消すだけだ。生は消さない。生を消さないために、名を捨ててきた。
途中、小さな村で一夜の宿を得た。囲炉裏に炭が赤く、湯がふつふつと鳴る。女が握った握り飯は温かく、塩が強く、海の味がした。蓮は手を合わせ、ひと口ずつ確かめるように噛んだ。静は、米粒が指に付かないように丁寧に食べ、湯飲みを両手で包んだ。湯飲みの縁が冷えている。冷えた縁に唇が触れるたび、舌に小さく痛みが走る。痛みは、生きている印だ。印が本当に印であるうちに、蓮は目を閉じた。
夜更け、静かな咳の音がした。懐かしいが、ここにはいない人の咳ではない。静の喉が少し乾いているだけだ。蓮は不意に身を起こし、暗がりで彼を見た。
「静」
「はい、矢野さん」
「生きて、江戸まで行く」
「はい。——行きます」
言葉は短い。短い言葉は、夜を傷つけない。夜は、傷つけない者の背中にやさしい。やさしさは、翌朝の足取りになる。
朝、村の外れで見送ってくれた老人が、薪の束を手渡してくれた。軽い束だ。軽さは親切の形で、受け取りやすいように計算されている。蓮は礼を言って受け取り、静は黙って頭を下げた。道は坂を下り、海が遠のく。遠のく海は、音を小さくする。小さくなった音のぶんだけ、心の中の音が大きくなる。
やがて、渡船の支度が整えられ、二人は本州へ渡る列の最後尾に立った。板子を渡る足が狭く震え、波が小さく爪を立てる。蓮は空を見た。北の空は低い。低い空の下で、彼らは長い時間を過ごした。これからの空はどうだろう。高くても低くても、歩幅は変わらない。影の歩幅は、いつも一定だ。一定であることだけが、彼らの誇りだった。
舟が岸を離れると、潮の香りが濃くなった。櫓の音が規則的に刻む。刻まれる音に、自分の時間が合ってゆく。函館の岸は遠のき、五稜郭の角はもう見えない。見えないものの重さが、胸のあたりに溜まる。静が隣で、低く言った。
「矢野さん。——江戸で、梅を」
「ああ。梅だ」
「はい。——春に間に合うように」
「春に、間に合うかな」
「はい。——間に合わせます」
舟べりに手を置くと、湿りが掌に移った。掌の湿りはすぐ乾く。乾いたあとに、塩が白く残る。白は消えやすい。だから、蓮は掌をこすらず、そのまま握った。塩のざらつきは、約束の糸口のように感じられた。
上陸してからの道は、往きに来た道ではない。帰路はいつも別の顔をしている。村々の目の色も違う。勝者を見送る目ではない。敗者を裁く目でもない。ただ、通り過ぎるものを見る目だ。その目は、情を持たない代わりに、害も持たない。無関心のなかを歩くのは、案外に楽だ。楽であることが、蓮には悲しかった。悲しみは歩きやすく、歩きやすさは悲しみを薄める。薄まった悲しみは、夜に戻って濃くなる。濃くなった悲しみを、また朝薄める。その繰り返しが、生き延びるということかもしれない。
ある町外れの橋で、蓮は立ち止まった。欄干に刻まれた古い落書きが目に入ったからだ。〈○○参上〉のような他愛ない文字。名は雨で欠けている。それでも、刻んだ者は刻んだ夜に生きていた。生きていたことの証が、ここに残っている。名は欠けても、刻みは残る。蓮は短い爪で欄干を擦り、木屑の匂いを嗅いだ。木は、古くなると甘い。甘さは、涙をやわらげる。
江戸へ近づくと、雨の匂いが変わった。海の塩が薄く、土の香りが濃い。団子坂の下、小石川の端。静が言った通り、雨上がりには独特の匂いが立つ。石畳が湿り、軒先から滴が落ちる音が連なる。蓮はそこで足を止め、空を仰いだ。梅の木の場所を探す。石垣の隙間に、土が見える。細い根なら、そこから下りていける。誰にも邪魔されず、小さな花をひとつだけ咲かせることができるだろう。
種を手に入れるのは、思っていたより容易かった。種は軽い。軽いものは、遠くへ行ける。遠くへ行けるものを、蓮は掌で包んだ。静は隣で土を指で掘る。指先の皮が硬いせいで、土の冷たさをすぐには感じない。感じるまでの時間が、影の時間だ。感じた瞬間、指先の動きは柔らかくなる。柔らかさは、刃の逆側にある力だ。
穴は小さく、種はさらに小さい。蓮はそれを落とし、土をかぶせ、指で軽く叩いた。叩く音は、胸骨の内側に響いた。
「静」
「はい、矢野さん」
「これでいいか」
「はい。——十分です」
「水は」
「はい。——雨が降ります」
蓮は笑い、空を見た。白い雲が速い。風が変わる。風が変われば、時代が変わる。時代が変われば、正しさも変わる。変わらないのは、ここに埋めた小さな約束だ。約束は誰の歴史にも記録されない。紙に残らない代わりに、春に咲く。
その夜、二人は狭い長屋の一角で膝を寄せた。外は雨。雨脚は細く、しつこい。屋根の割れ目から落ちる滴が、桶の底を一定に叩く。叩かれるたびに、影がゆれる。静が口を開いた。
「矢野さん。——俺には、ひとつ、覚えられないものがあります」
「何だ」
「自分の顔です」
「鏡で見ればいい」
「はい。——鏡の顔は、覚えられません」
「鏡の中のお前は、名前を持つからな」
「はい。——だから、忘れます」
蓮は言葉を失い、しばらく雨音を数えた。数えるうちに、わかった。静は自分の顔を覚えないことで、影に残っているのだ。名を持つ顔を忘れ、背中だけで世界と結ぶ。背中は、預けることができる。
「静」
「はい、矢野さん」
「俺は、お前の顔を覚えてる」
「はい。——ありがとうございます」
「名前も、覚えてる」
「はい。——矢野さんのなかだけで、十分です」
静の声は、雨に溶けた。溶けて、耳の奥に温かく残った。残り火のような温度。その温度で、蓮は目を閉じた。
明け方、雨が上がった。匂いが変わる。土の匂いに、わずかに甘さが混ざった。梅の芽の匂いだ。芽はまだ土の中にいる。土の中にいるものほど、確かだ。見えない確かさが、影の糧になる。
外に出ると、東の空が薄く明るい。蓮は団子坂の下まで歩き、昨日埋めた場所にしゃがんだ。土は湿り、指の跡がつく。跡はすぐに消える。消えて、土に戻る。戻ったあとの土の手触りを、彼はゆっくり確かめた。静が隣にしゃがみ、指で土を撫でた。撫でる音は、衣擦れよりも小さい。小さい音は、約束の音だ。
「矢野さん」
「なんだ」
「生きるのは、名を残すためではないと、やっと、少しだけ、思えます」
「最初からそう言ってただろ」
「はい。——思っていたと、今、思えました」
静の言い方に、蓮は笑って、そして泣いた。泣くことを、はじめて許した。許すと、悲しみは静かに仕事を終える。終えた悲しみは、名ではなく匂いに変わる。土の匂い。雨の匂い。梅の匂い。塩と墨の混ざった、北の匂い。すべてがここに重なって、薄い朝の光のなかで、二人の影を短くした。
遠くで、寺の鐘がひとつ鳴った。江戸の朝は、音で始まる。音は歴史に残らない。残らないものの連なりで、都市はできている。蓮は鐘の余韻に耳を澄ませ、静の呼吸と重ねた。同じ呼吸の速さで、今日を始める。この先、誰にも名を呼ばれない日が続くだろう。呼ばれなくても、息は続く。息が続く限り、刃は鈍らない。刃が鈍らない限り、誰かの息がひとつ長くなる。
五稜郭の土の匂いは、もうここにはない。だが、蓮の掌の塩のざらつきは残っている。塩は涙と同じ味だ。涙は流すと消えるが、塩は残る。残った塩で、道の端に白い筋を引く。筋は雨で消える。消えれば、また引けばいい。引き直された筋の数だけ、影は進む。
蓮は立ち上がり、肩を回した。刀は今、腰にない。なくても、歩ける。歩きながら、彼は小さく言った。
「土方さん。——俺たちは、ここにいる」
返事はない。返事はいらない。背中で受け取るために、言ったのだから。
静が並び、二人は江戸の路地を抜けた。陽の光がまだ弱く、影は短い。短い影は、足元で濃い。濃さは、消える前の強さだ。消えたあとに何も残らなくても、今この濃さだけは本物だ。二人はその本物を踏みしめ、角を曲がった。雨上がりの風が頬を撫で、どこかで梅の小さな芽が土を押し上げる音が、幻のように聞こえた。聞こえた気がする——それで、十分だった。
一本木関門の辺りに香の匂いが漂うのは、その数日前に土方歳三が倒れたせいだ。撃たれた場所は、地図では小さな点でしかない。だが、点の上にあった呼吸は大きかった。矢野蓮は、その場に居合わせなかった。外輪の退路をつくる役で、路地に段差を刻んでいた。戻ったとき、静が首を横に振った。なぜ言葉がいらないのか、蓮は長いあいだわかっていたつもりで、あの瞬間、本当にわかった。影は喪の説明を持たない。代わりに、道の続きを示す。
土方の佩刀は星の角の内側で静かに拭われ、柄巻きの墨の匂いが夜の隅まで滲んだ。蓮は柄を握ってみた。重さは変わらない。重さが変わらないのが、残酷だった。握りの裏側に、爪でつけた細い傷が二筋ある。刻んだ本人だけが知る目印。指がそこに吸い付く。握りが掌に馴染んだ瞬間、蓮は手をほどいた。この刃は持ち主がいないと、ただの時間になる。時間は、影には重すぎる。
榎本が降伏の手順を進め、新政府側の使者が城内に入った日の夕暮れ、静は堀端に立っていた。風が稜堡の角で渦を巻く。蓮が隣に並ぶと、静は目を逸らさずに言った。
「矢野さん。——土方さんのことは、ここで終わりにします」
「ここで終わるか」
「はい。——終わらせなければ、続けられません」
言葉は薄く、切り口が鋭い。蓮は頷いた。終わりにするのは、忘れることではない。終わりにして、持ち歩くのだ。忘れないために、畳む。畳んだ悲しみは、懐の温度で形を変える。
降伏の列は長かった。名を名乗る者、名を濁す者、名を持たない者。帳場に座る新政府の役人は、紙の上の墨だけに目を落とし、顔を見ない。蓮が名を告げたとき、喉の奥で小さく石が転がった。石は飲み込んだ。吐き出したら、ここで折れる。飲み込めば、どこかまで行ける。静は短く名を言い、視線を受けても水面のように光を返すだけだった。紙には何も残らない。残らないように動いたのだから、それでいい。いいはずだ。そう言い聞かせても、胸は空洞の音を鳴らす。
弁天台場からは煙が細く残り、千代ヶ岡の土塁の上では、避難していた女たちが持ち物をまとめていた。白い風呂敷の角に固く結んだ結び目が、何度もほどかれてまた結ばれていく。解けるたびに、指先の皮が赤くなる。赤くなった指を口に含んで、息で冷やし、また結ぶ。蓮はその手元を見ないふりをした。見たら、刃が鈍る。鈍らせたくないから、刃を守る。その選び方が、もう自分の骨に染みている。
夜、星の城の中にある小屋で、静は地図をひろげていた。降伏後の配置など地図に描く意味はない。だが彼は描く。見えない道、抜け道、風の通り道、噂の回り方。戦のない時間でも、影の地図は消えない。蓮は覗き込み、指で稜堡の角をなぞった。
「静。……俺たちはこれから、どこへ行く」
「矢野さん。——江戸へ。あるいは、もっと南へ」
「幕府はもうない」
「はい。——光が変われば、影の形も変わります」
「影は影のままか」
「はい。——それしか、生き残り方を知りません」
静の声は静脈のように薄く、しかし確かだった。蓮は地図から視線を上げ、静の頬を見た。白いのに、赤みがない。寒さで赤くなることすら、彼はどこかに置いてきたのだろう。
翌日、蓮は函館奉行所跡の書庫に足を運んだ。降伏の手続きで出入りが許されているあいだに、紙の匂いをもう一度吸っておきたかった。古い帳面に、かつての箱館の平穏が残っている。いつ、どの船が入り、何を積み、誰が降りたか。記された文字は無名の人々の息でできている。凪(なぎ)の一字が、数行おきにひっそり現れ、消える。凪が紙から消えるとき、人は戦を語る。蓮は凪の字に指を置き、目を閉じた。彼の胸の中で、海が一瞬だけ穏やかになった。
港では、フランス人のブリュネが兵たちに別れを告げていた。彼の眼差しは遠くの国を見ているのに、言葉は近くの人に落ちる。「ボン・ションス」と短く、笑わずに言い、帽子の庇を指で押さえて歩いていった。見送りの列の端で、榎本が片手を上げた。海の上では甲鉄の黒が動かない。動かない黒は、山の影のようにここに居座る。居座り続ける黒の前で、五稜郭の白い線は、ただ薄くなる。
一本木の方角に、小さな墓標がいくつか並んだ。木の札に墨で名が書かれているが、墨は雨で流れ、読み取れない。榎本から贈られた香が一本、風にあおられて火が短く走る。蓮は土方の墓標の前にしゃがみこんだ。誰かが置いた石が三つ、きれいに並んでいる。蓮は自分の小さな石をひとつ足して、四つめにした。四という数字は、忌みだと誰かが言った。だが、ここでは意味が変わる。四角は城の角。角が多いほど、長く持つ。持たせたいから、四つにした。誰に説明するでもなく、蓮は立ち上がった。
静は少し離れて立っていた。背筋はまっすぐで、手は下げられたまま。祈りの形を持たない男だ。蓮は彼の横に並ぶ。
「静。土方さんの最後、聞いたか」
「はい。——言葉はありません。目で、笑っていました」
「そうか」
「はい。——目だけ笑うのは、強い人の技です」
蓮は息を吸った。胸が痛いのは、冷たいせいだけではない。痛みの形が定まらないうちは、言葉にもならない。言葉にならないものを抱えたまま、蓮は函館山の方を見た。山肌にまだ雪が残っている。白いが、汚れの白だ。冬の白ではない。終わりの白。終わりの白は、春より冷える。
降伏の日取りが決まり、五稜郭の中の荷が軽くなるにつれて、町の声は平坦になった。「終わるのだ」と言う声がある。「これからだ」と言う声もある。どちらの声にも熱はない。熱は、もう使い切った。使い切ったものは、簡単には戻らない。戻さない方が、うまくいくこともある。蓮はそれを知っている。知っているのに、胸は熱を欲しがる。熱の代わりに、彼は匂いを吸った。塩、墨、湿った木、遠いところで炊かれた粥の匂い。匂いは嘘をつかない。匂いを覚えておけば、生き延びられる。
城を離れる前の夜、静が珍しく長く喋った。
「矢野さん。——江戸に梅を植える約束、覚えています」
「忘れてない」
「はい。——約束は、影を縛らない数少ない紐です」
「影も縛られるのか」
「はい。——影は名では縛れませんが、紐なら縛れます」
「妙な理屈だな」
「はい。——妙ですが、便利です」
蓮は笑った。笑いは短く、すぐに喉の奥に吸い込まれた。笑いの残り火で、彼は言った。
「江戸に戻れなかったら、どうする」
「戻ります」
「戻れなかったらだ」
「はい。——戻ります」
静の返答は、夢の言葉のようで、現実の足音がついていた。根拠はない。だが、彼はいつも根拠なしで刃を立てる。立つべき場所に刃が立てば、根拠はさきに生まれる。影の理は、そういう順序でできている。
最後の巡回は、明け方に行われた。堀の水は薄青く、風は南からで、鳥の声がひとつだけ高かった。裏門の閂は軽くなって、指を差し入れると、冬の間に木が痩せたことがわかる。痩せた木は、音が乾いている。乾いた音は、覚えやすい。覚えやすい音を胸に入れておくのは、別れの作法だ。静は音をいくつも拾い、歩きながら胸にしまった。蓮は足元の砂利の感触を靴底で覚えた。砂利の大きさ、角の丸さ、踏みしめたときの沈み方。記録にも歴史にも残らないが、確かに今ここにあった手触り。手触りは影の史書だ。
その日、榎本が新政府側へ渡していた書付の一枚が、風に煽られて石段に落ちた。誰も気づかない。薄い紙は土の上でひらひらとひっくり返り、白い面が空を向く。蓮は拾って、静かに榎本の従者に手渡した。紙に触れた指に、墨の匂いが移った。墨の匂いは、江戸の匂いを思い出させる。江戸に梅を。指先に残った墨の薄さが、確かな約束に思えた。
五稜郭を出る列の最後尾に、蓮と静は並んだ。振り返らない。振り返れば、背が空く。背を空けた影は、名を持つ。名を持てば、刃は鈍る。鈍った刃は、人を一人分余計に死なせる。余計な死を、蓮はもう見たくなかった。歩幅は一定、呼吸は浅すぎず深すぎず。足裏に残る砂利の感触が薄れるころ、星の城は視界から消えた。消えたあとに、塩の匂いだけが残った。
港のはずれで、漁師の老人が二人を見て頷いた。
「黒い船は行っても、潮は来る」
それだけ言うと、老人は網を肩に担いで歩き去った。網の重さが、背中に沈んでいる。沈む重さの分だけ、彼は前へ傾いて歩く。前へ傾けば、進む。簡単な理屈が、北では強い。
淡い霧の中を抜け、二人は町はずれの小さな社に寄った。先日見た手紙はもうない。新しい紙が一枚、置かれていた。文字は拙く、墨が飛んでいる。〈生きて帰ったら、飯を三杯食べる〉とあった。蓮は笑って、紙をそっと戻した。梅も酒も飯も、同じ重さだ。生きて帰ることの重さには、どれも足りない。足りないからこそ、約束になる。
城下を離れる前に、静が一度だけ立ち止まった。弁天台場の方角を見たのだ。砲の口は布で巻かれ、台場の木柵には穴がいくつも空いている。穴の縁は焦げて黒い。黒はよく残る。残る黒は、誰の名でもない。
「静」
「はい、矢野さん」
「お前の名は、どこに残る」
「どこにも。——矢野さんの記憶以外には」
「重いな」
「はい。——重いです」
「俺のも、お前に預ける」
「はい。——預かります」
預け合った名は、紙ではなく、息に記される。息の記帳は、燃えても流れても残らない。残らないからこそ、相手の胸の温度が保証になる。保証は目に見えない。見えないものを信じるのは、影の得意技だ。
港を離れ、山肌に沿って続く道を進む。函館の町が見えなくなると、風の音だけになる。風は、海から来て、山にあたって、また海へ返る。返るまでの間、人の耳を撫でる。撫でられるたび、蓮は自分の輪郭を確かめる。薄くなりすぎていないか。消えかかっていないか。消えたいのではない。名を消すだけだ。生は消さない。生を消さないために、名を捨ててきた。
途中、小さな村で一夜の宿を得た。囲炉裏に炭が赤く、湯がふつふつと鳴る。女が握った握り飯は温かく、塩が強く、海の味がした。蓮は手を合わせ、ひと口ずつ確かめるように噛んだ。静は、米粒が指に付かないように丁寧に食べ、湯飲みを両手で包んだ。湯飲みの縁が冷えている。冷えた縁に唇が触れるたび、舌に小さく痛みが走る。痛みは、生きている印だ。印が本当に印であるうちに、蓮は目を閉じた。
夜更け、静かな咳の音がした。懐かしいが、ここにはいない人の咳ではない。静の喉が少し乾いているだけだ。蓮は不意に身を起こし、暗がりで彼を見た。
「静」
「はい、矢野さん」
「生きて、江戸まで行く」
「はい。——行きます」
言葉は短い。短い言葉は、夜を傷つけない。夜は、傷つけない者の背中にやさしい。やさしさは、翌朝の足取りになる。
朝、村の外れで見送ってくれた老人が、薪の束を手渡してくれた。軽い束だ。軽さは親切の形で、受け取りやすいように計算されている。蓮は礼を言って受け取り、静は黙って頭を下げた。道は坂を下り、海が遠のく。遠のく海は、音を小さくする。小さくなった音のぶんだけ、心の中の音が大きくなる。
やがて、渡船の支度が整えられ、二人は本州へ渡る列の最後尾に立った。板子を渡る足が狭く震え、波が小さく爪を立てる。蓮は空を見た。北の空は低い。低い空の下で、彼らは長い時間を過ごした。これからの空はどうだろう。高くても低くても、歩幅は変わらない。影の歩幅は、いつも一定だ。一定であることだけが、彼らの誇りだった。
舟が岸を離れると、潮の香りが濃くなった。櫓の音が規則的に刻む。刻まれる音に、自分の時間が合ってゆく。函館の岸は遠のき、五稜郭の角はもう見えない。見えないものの重さが、胸のあたりに溜まる。静が隣で、低く言った。
「矢野さん。——江戸で、梅を」
「ああ。梅だ」
「はい。——春に間に合うように」
「春に、間に合うかな」
「はい。——間に合わせます」
舟べりに手を置くと、湿りが掌に移った。掌の湿りはすぐ乾く。乾いたあとに、塩が白く残る。白は消えやすい。だから、蓮は掌をこすらず、そのまま握った。塩のざらつきは、約束の糸口のように感じられた。
上陸してからの道は、往きに来た道ではない。帰路はいつも別の顔をしている。村々の目の色も違う。勝者を見送る目ではない。敗者を裁く目でもない。ただ、通り過ぎるものを見る目だ。その目は、情を持たない代わりに、害も持たない。無関心のなかを歩くのは、案外に楽だ。楽であることが、蓮には悲しかった。悲しみは歩きやすく、歩きやすさは悲しみを薄める。薄まった悲しみは、夜に戻って濃くなる。濃くなった悲しみを、また朝薄める。その繰り返しが、生き延びるということかもしれない。
ある町外れの橋で、蓮は立ち止まった。欄干に刻まれた古い落書きが目に入ったからだ。〈○○参上〉のような他愛ない文字。名は雨で欠けている。それでも、刻んだ者は刻んだ夜に生きていた。生きていたことの証が、ここに残っている。名は欠けても、刻みは残る。蓮は短い爪で欄干を擦り、木屑の匂いを嗅いだ。木は、古くなると甘い。甘さは、涙をやわらげる。
江戸へ近づくと、雨の匂いが変わった。海の塩が薄く、土の香りが濃い。団子坂の下、小石川の端。静が言った通り、雨上がりには独特の匂いが立つ。石畳が湿り、軒先から滴が落ちる音が連なる。蓮はそこで足を止め、空を仰いだ。梅の木の場所を探す。石垣の隙間に、土が見える。細い根なら、そこから下りていける。誰にも邪魔されず、小さな花をひとつだけ咲かせることができるだろう。
種を手に入れるのは、思っていたより容易かった。種は軽い。軽いものは、遠くへ行ける。遠くへ行けるものを、蓮は掌で包んだ。静は隣で土を指で掘る。指先の皮が硬いせいで、土の冷たさをすぐには感じない。感じるまでの時間が、影の時間だ。感じた瞬間、指先の動きは柔らかくなる。柔らかさは、刃の逆側にある力だ。
穴は小さく、種はさらに小さい。蓮はそれを落とし、土をかぶせ、指で軽く叩いた。叩く音は、胸骨の内側に響いた。
「静」
「はい、矢野さん」
「これでいいか」
「はい。——十分です」
「水は」
「はい。——雨が降ります」
蓮は笑い、空を見た。白い雲が速い。風が変わる。風が変われば、時代が変わる。時代が変われば、正しさも変わる。変わらないのは、ここに埋めた小さな約束だ。約束は誰の歴史にも記録されない。紙に残らない代わりに、春に咲く。
その夜、二人は狭い長屋の一角で膝を寄せた。外は雨。雨脚は細く、しつこい。屋根の割れ目から落ちる滴が、桶の底を一定に叩く。叩かれるたびに、影がゆれる。静が口を開いた。
「矢野さん。——俺には、ひとつ、覚えられないものがあります」
「何だ」
「自分の顔です」
「鏡で見ればいい」
「はい。——鏡の顔は、覚えられません」
「鏡の中のお前は、名前を持つからな」
「はい。——だから、忘れます」
蓮は言葉を失い、しばらく雨音を数えた。数えるうちに、わかった。静は自分の顔を覚えないことで、影に残っているのだ。名を持つ顔を忘れ、背中だけで世界と結ぶ。背中は、預けることができる。
「静」
「はい、矢野さん」
「俺は、お前の顔を覚えてる」
「はい。——ありがとうございます」
「名前も、覚えてる」
「はい。——矢野さんのなかだけで、十分です」
静の声は、雨に溶けた。溶けて、耳の奥に温かく残った。残り火のような温度。その温度で、蓮は目を閉じた。
明け方、雨が上がった。匂いが変わる。土の匂いに、わずかに甘さが混ざった。梅の芽の匂いだ。芽はまだ土の中にいる。土の中にいるものほど、確かだ。見えない確かさが、影の糧になる。
外に出ると、東の空が薄く明るい。蓮は団子坂の下まで歩き、昨日埋めた場所にしゃがんだ。土は湿り、指の跡がつく。跡はすぐに消える。消えて、土に戻る。戻ったあとの土の手触りを、彼はゆっくり確かめた。静が隣にしゃがみ、指で土を撫でた。撫でる音は、衣擦れよりも小さい。小さい音は、約束の音だ。
「矢野さん」
「なんだ」
「生きるのは、名を残すためではないと、やっと、少しだけ、思えます」
「最初からそう言ってただろ」
「はい。——思っていたと、今、思えました」
静の言い方に、蓮は笑って、そして泣いた。泣くことを、はじめて許した。許すと、悲しみは静かに仕事を終える。終えた悲しみは、名ではなく匂いに変わる。土の匂い。雨の匂い。梅の匂い。塩と墨の混ざった、北の匂い。すべてがここに重なって、薄い朝の光のなかで、二人の影を短くした。
遠くで、寺の鐘がひとつ鳴った。江戸の朝は、音で始まる。音は歴史に残らない。残らないものの連なりで、都市はできている。蓮は鐘の余韻に耳を澄ませ、静の呼吸と重ねた。同じ呼吸の速さで、今日を始める。この先、誰にも名を呼ばれない日が続くだろう。呼ばれなくても、息は続く。息が続く限り、刃は鈍らない。刃が鈍らない限り、誰かの息がひとつ長くなる。
五稜郭の土の匂いは、もうここにはない。だが、蓮の掌の塩のざらつきは残っている。塩は涙と同じ味だ。涙は流すと消えるが、塩は残る。残った塩で、道の端に白い筋を引く。筋は雨で消える。消えれば、また引けばいい。引き直された筋の数だけ、影は進む。
蓮は立ち上がり、肩を回した。刀は今、腰にない。なくても、歩ける。歩きながら、彼は小さく言った。
「土方さん。——俺たちは、ここにいる」
返事はない。返事はいらない。背中で受け取るために、言ったのだから。
静が並び、二人は江戸の路地を抜けた。陽の光がまだ弱く、影は短い。短い影は、足元で濃い。濃さは、消える前の強さだ。消えたあとに何も残らなくても、今この濃さだけは本物だ。二人はその本物を踏みしめ、角を曲がった。雨上がりの風が頬を撫で、どこかで梅の小さな芽が土を押し上げる音が、幻のように聞こえた。聞こえた気がする——それで、十分だった。



