雪がやむと、土の匂いが戻ってきた。凍てた地面が昼のあいだだけゆるみ、夜にはまた強情に固まる。五稜郭の堀には氷の縁が残り、星の角は濡れて黒く光った。函館山の陰から海霧が巻き上がり、朝になると城の上にうすい乳色の屋根を作る。その屋根の下で、共和国は「日常」を組み上げた。
役所の看板は簡素だが、書体は真面目で、紙は清潔。徴発の台帳には米や薪の数字が並び、南部鞍や信号旗の受け払いの欄には、名前より先に印影の形が揃えられていく。榎本武揚が読み上げる布告は、江戸の空で学んだ法と海の理(ことわり)が混ざった口調で、聴く者の胸骨に静かな重量を残した。
陸は大鳥圭介が、西式に合わせた操典で歩兵を鍛え、砲兵にはアームストロングの癖と、風の身持ちの悪さを叩き込む。フランス人のブリュネは、銃の持ち替えの角度を「小さく、小さく」と繰り返し、軍楽の太鼓は兵の足並みをつないだ。太鼓の皮は寒さで張りすぎる。かんばしい音が出る代わりに、皮がひび割れる。皮が割れると、太鼓の中の空気は逃げる。逃げた空気の形は目に見えないが、兵の息に紛れて残った。
土方歳三は、紙と人の間を往復する軸だった。陸軍奉行並として五稜郭の角に立ち、紙の上の編制と、人間の足の長さを合わせる。紙が速すぎれば人が転ぶ。人が遅すぎれば紙が破れる。土方の指は細り、爪は固く、冷えにかじかんだ先で、まだ小さな火を守っているように見えた。
「時間を稼げ」
それだけが、彼の命の簡潔な形だった。勝つのではない。時間を伸ばす。伸ばされた時間の中で、魚の干物が乾ききり、咳の子が一晩眠り、函館奉行所の古い書庫から救い出された紙束が湿りから逃げる。そういう「小さな生」が、歴史の行の合間でやっと息をして、夜のうちにこっそり増える。土方は、そのためだけに、紙と人を釘で留め続けた。
静は、紙に沈む釘だった。星形の稜堡の影――いちばん短い影は昼に、いちばん長い影は夕べに。影の長さに合わせて、歩哨の立ち位置を半歩ずつずらした。稜堡と稜堡のあいだ、塹壕(ざんごう)から退避壕までの距離を、ひとの息の数で記す。雪の上の足跡の間隔。消えるまでの時間。風がひとつ曲がる角。夜警の合図が海霧で消える位置。
「ここは、矢野さんの足で七呼吸です」
「七か。俺には八に見える」
「はい。——七です」
静の返事は、淡々としているのに、どこかの端だけ微かに笑っていた。七と八の差を、彼はあとで自分の足で埋めに行く。埋めた差は誰にも見えない。見えないことが、影の仕事の安心であり、孤独でもあった。
港では、箱館の古い船大工が、壊れた艦の小舟を直していた。鉄の船は、木の船よりも「冷たいから、音が小さい」と彼らは言う。音が小さいのは、いいことでもあり、悪いことでもあった。木の軋みは人に先に教えてくれるが、鉄は沈むまで黙っている。
十一月、開陽丸が江差沖で座礁したとき、港の古老は波打ち際に立って風の匂いを嗅いだ。「北西じゃねえ、北寄りだ」と呟いたという。ほんのわずかな偏りが、船腹の下に隠れていた岩の名前を呼んだ。夜明け、榎本が遠眼鏡を降ろした瞬間の横顔を、蓮は忘れない。悔しさではなく、計算の目だった。失ったものの重さより、残ったものの配分を先に考える目。敗者の長の目だと蓮は思った。静は、その横で何も言わずに立っていた。名も計算も持たない、「手」を持つ者の立ち方だった。
冬のあいだ、函館の町には小さな物語がいくつも生まれては消えた。
志苔の浜では、漁の帰りの若い衆が、波にのまれた仲間の名をひとつだけ声にして、あとは言わなかった。名を口にすれば、潮に取られると信じている。
弁天台場の裏門では、寒稽古の帰りに兵が甘酒を一杯飲み、かじかんだ指を盃で温めた。盃の縁にひびが入っている。ひびは飲んだ者の唇に触れ、その細い傷から甘さが沁みる。沁みた甘さは、夜になると逆上せ、眠りの浅い兵が夢にうなされた。
五稜郭の中の小屋で、江戸から北へ流れた芸人が三味線を弾き、越後訛りの端唄をやわらかい声で歌う。兵の中に、涙を見せないで笑うのが上手い者がいた。笑いの皺が深くなるたび、その者の胸の中の何かは薄くなった。薄くなるほうが、生き延びやすいことを、人は北で覚える。
春を呼ぶ信号のひとつは、甲鉄の名だった。黒い船体に鉄の皮。舷側から突き出たガトリングは、江戸でも京でも見たことのない「速さ」を持っていた。その速さは、刀や槍で相手を測る尺度を奪った。四月、宮古湾での奇襲。
夜明け前、回天丸の甲板で、蓮は指を伸ばして舷側を撫でた。舷側は冷たく、鉄の冷たさではなく、春の海の生臭い冷たさだった。出撃の号令は短く、舟はまっすぐに湾に入る。燃え上がる旗。甲鉄の黒い舷側に向けて、叫びが一波打って届く。ガトリングの音は、蓮には「雨」に聞こえた。斉射の雨。雨は音の粒が細かすぎて、恐怖の形を掴ませない。仲間が倒れ、甲板に混ざるのは血と塩水。足が滑る。滑る足を、静が掴んで引き上げた。
「立ってください、矢野さん」
「立ってるよ」
「はい。——もっと、立ちます」
鉄に挑んで届かなかった一日のあと、函館の空は、いつもより高く見えた。高い空は、敗者を慰めない。けれど、高さは、呼吸を深くする。深い呼吸は、負けた日の骨を軽くする。
宮古の失敗のあとでも、五稜郭は崩れなかった。崩れないという美徳は、北では信仰に近い。榎本は政体の形を保ち、大鳥は歩兵の列を乱さず、土方は坂の角で敵の横腹を突く段取りをほどいた。
蓮は、土方が城外に出る日々の前夜、刃に油を引く土方の指をじっと見た。爪の間の黒は、墨ではなく土の色。江戸の彼の爪は、墨で黒かった。北の彼の爪は、土で黒い。同じ黒でも、重さが違う。
「土方さん、京の黒と今の黒、どっちが好きです」
静が、不意に訊いた。土方は笑わない目で、わずかに口の端を上げた。
「どっちでもいい。斬る指は、色で変わらねえ」
強がりでも虚勢でもない。ただの事実としての言葉。事実は、敗者の遺書になる。
春が濃くなるにつれて、陸の風向きが変わる。新政府軍は松前から押し上げ、森・尾札部の線から函館へ向けて圧を強めた。大沼の水面は氷の破片を漂わせながらも、周囲の葦は柔らかく揺れ、そこに伏せた兵の息を隠すのに十分だった。森では尾根伝いに銃声が走り、官軍は射線の多さで押した。共和国側の小隊は斜面を使って一度は押し返すが、数の差はどうしようもない。
弁天台場にも砲声が増えた。台場の外れの板塀には、弾の孔がまばらに開き、その孔から風が入り、台場の内側の塩の匂いをかすかに抜いていった。塩が抜けた空気は薄くなり、兵の舌は味を探して疲れた。
千代ヶ岡台場は、地形のやさしさが仇になった。見通しの良い草地は、砲の散弾に弱い。砲煙の白に、春の霧が混ざって、視界は曇った。曇りのなかで、静は敢えて一歩手前を指した。
「矢野さん、今日は一歩手前が生きます」
「どういう意味だ」
「敵は、もう一歩奥を狙っています」
狙いは読める。読めるが、身体はいつも狙いより半歩遅い。その半歩を、春の泥が余計に重くする。重い半歩でも踏み出すのが、影のしごとだ。踏み出した足の下で、去年の秋に落ちた葉が潰れて甘い匂いを立てた。甘い匂いは、恐怖を一瞬だけやわらげる。やわらいだ隙に、刃はまっすぐ動く。
函館の町でも、終わりの支度が始まっていた。酒屋の女将は、米麹の配分を指で弾きながら、「今のうち」と呟いた。灯りの油を買い込む者。子らの履物を二足ずつ用意する者。寺の住職は、古い過去帳を小さな箱に移し替えて、万一の火に備えた。
「名は紙の上に逃がせるが、人は逃がせねえ」と住職は言った。
蓮は、その言葉を背骨に刺したまま、五稜郭の内側の小屋で、江戸から持ち出してきた薄い手帳を開いた。紙は湿気で波打ち、端が柔らかい。墨は薄く、指で触るとすぐ滲む。
〈名は死者のもの。息は生きている者のもの。俺は、息の側にいる〉
書いて、指に付いた墨を舌で拭った。薄い塩の味がした。塩は、いつでもそこにいる。
ある夜、静が珍しく酒をひと口だけ飲んだ。盃は小さく、口は薄い。
「静、お前、酒なんて……」
「はい。——寒いので」
「似合わねえ」
「はい。——似合いません」
盃を置いて、彼はふっと指をひらいた。ひらいた指先の皮は固く、剣だこが古い地図の等高線のように刻まれている。指を見ていると、蓮は突然、沖田総司の影を見た。咳の音。血の薄い赤。笑って「大丈夫」と言った声。影が光から仕事を引き取った夜の温度。
「静、総司さんのこと、夢に見るか」
「はい、矢野さん。——ときどき」
「どんな夢だ」
「背中しか、見えません」
「それでいいのか」
「はい。——背中があれば、影でいられます」
静の言葉は、寒さに凍ってすぐ割れそうなのに、割れない。割れないのは、言葉を短く保つからだ。短いものは、強い。強いものは、長く残る。名ではなく、温度として。
春も後半に入ると、上陸は本格的になった。長万部から森・七重浜の線へ。七重浜は、砂が細かく、足を取られる。砂の粒は乾いているのに、重い。重いのは、雨の前ぶれだからだ。新政府軍の前列が砂を蹴散らし、後列の銃が肩越しに火を吐く。共和国側は斜めに退きながら撃つ。横隊が斜めにほどけていくとき、風が一枚の布を裂くような音を出した。
弁天台場の砲が、港口を押さえる。艦の列に向けて弾道を高めに取り、甲板での滞在時間を長くするように角度が調整された。砲手の両頬に煤がつき、歯の白がやけに目立つ。砲耳に触る掌は、火薬の焦げで黒い。黒は、この北では、仕事の色だ。
千代ヶ岡台場には、婦人や子どもが避難してきた。土塁の陰で、赤子が泣く。泣き声は、大砲の音よりずっと鋭く兵の耳に突き刺さった。兵は顔を横に向け、筋肉を固めて音を排した。排した音は、あとで夢に戻ってくる。夢のなかで兵は、耳を塞げない。塞げない夢が続くと、人は細かく壊れる。壊れた欠片が、昼の静けさの底に沈む。
静は、避難の列の流れを見て、土の上に一本の線を描いた。
「ここで、曲げます」
「お前、戦ってるのか、道作ってるのか、どっちだ」
「はい。——同じです」
同じ、という彼の言葉は、矛盾を平然と抱え込む。抱え込んだ矛盾は、ゆっくり温まって、あとで刃の芯になる。芯がある刃は、折れにくい。そのかわり、重い。
函館の町外れの寺で、蓮は一冊の古い和綴じに出会った。箱館奉行のころの記録で、港に入った船と出た船の名が、几帳面な字で並んでいる。船名の横には、小さな注記。天候、波の高さ、荷の中身、人の数。「何もなかった」と書くべき日に、書記は「凪」と一字だけ記した。
その一字を指でなぞったとき、蓮は不意に泣きたくなった。何もない日。それがどれほど尊いか。凪の一字に、どれほどの祈りが重なっているか。戦が来ると、凪は紙から消える。消えた凪の代わりに、砲の口径や弾薬の数が増える。数は、凪を慰めない。
静が寺の縁側で靴を脱ぎ、畳に上がってきた。
「矢野さん」
「……何だ」
「凪は、影の言葉です」
「どういう意味だ」
「光は風を語ります。影は、風が止まったときの形を覚えます」
静の説明は、一度で理解できなかったが、蓮の喉に温かい何かを残した。言葉が温かいのは、珍しい。珍しいから、覚えておく。
港の空に、黒い柱がさらに増えた。新政府軍の艦は、函館湾に半円を描き、陸の砲はその半円に届かないことを確かめて、わざと一呼吸おいて撃つ。待たされる時間のほうが、兵の心を削る。削られた心は薄くなり、薄くなるほど、破れやすい。破れないために、兵は黙る。黙る集団は、外から見ると「整っている」。内側から見ると、「凍っている」。凍ることも必要だが、凍りすぎると割れる。割れた音は、土の下に落ちる。
やがて、一本木関門の名が荒く口にされる日が来た。箱館市中の北、坂の重なる要所。土方は騎兵を率いてそこに立ち、突いて退き、退いて突くことを繰り返した。蓮はその外側で、退路の曲がり角を増やし、角の手前にわずかな段差を作った。敵が勢いで駆け込んだときに、膝が一瞬緩む段差。緩んだ膝は、刃の半呼吸を与える。
静は、その刃の半呼吸を拾う役目をした。拾うたびに、彼の肩の上下は少しずつ浅くなった。蓮は、それが気にかかった。
「静、息が浅い。総司さんみたいに、無茶するな」
「はい、矢野さん。——無茶はしません」
「嘘つくな」
「はい。——少し、嘘です」
嘘と言えているうちは、まだ大丈夫だと蓮は自分に言い聞かせた。影は、ときどき嘘で自分を支える。嘘の柱は細いが、夜には役に立つ。
五月のはじめ、函館山の裾にある小さな社で、蓮は偶然、日付のない手紙を見つけた。誰かが供えたのだろう。読み書きの上手な手で、こう書いてあった。
〈もし生きて帰ったら、梅の木を一本植えよう。花が咲いたら、酒を一杯飲もう。〉
ただそれだけの文。名もない、宛先もない、押しつけがましさのない希望。蓮は、紙を元の場所に戻し、社の石段を降りた。足の裏に石の冷たさが伝わり、その冷たさが指先の塩とつながって、体のなかに細い糸が一本通った。
「静」
「はい、矢野さん」
「俺、生きて帰ったら、梅を一本、植える」
「はい。——見に行きます」
「一緒に植えるんだよ」
「はい。——一緒に、植えます」
静の「一緒に」は、稀な言葉だった。彼はいつも、誰かと並ぶことを避ける。影は背中を預け、肩を並べない。しかし、梅の木の話だけは、並べることを許した。許したことに気づいて、静は少しだけ視線を落とした。照れ、という人間の温度が、影の隙間から漏れた。
降伏の兆しは、内部の書式から先に現れる。軍用金の帳簿の「貸」の欄が空白のまま増え、弾薬消費の欄に「なし」が続く。なしは、倉庫が空だからでもあり、撃つ先がないからでもある。
榎本は五稜郭の会議の席で、紙を横に置いて、ただ人の顔だけを見て話すようになった。大鳥は、兵の列を整えながら、「斉、斉」と小さく声を打つ回数を減らした。ブリュネは、帰国の手続きの紙束を膝の上に置いたまま、しばらくそれを見ないでいた。見ないでいる時間が長いほど、人は紙から離れる。紙から離れた人間は、名に戻るか、息に戻るか、どちらかだ。
土方は——蓮は、土方の姿を探した。一本木から戻った夜、彼の姿は城内に見当たらず、翌朝、静が短く首を振った。言葉はなかった。言葉がないことが、すべてだった。
星の城の土塁の上で、蓮は空を見た。空は低い。低い空は、泣く場所を与えない。泣きたければ、地面に顔を向けるしかない。地面に顔を向けると、土の匂いが強くなる。強い匂いは、涙を戻す。戻った涙は、胸の骨の裏で固まって、小さな石になる。石は、歩くたび鳴る。鳴って、誰にも聞こえない。
「矢野さん」
「……ああ」
「行きましょう」
「ああ。——まだ、終わりじゃない」
「はい。——終わりません」
静の声は、風の硬さとは別の硬さを持っていた。終わりを終わりにしない者の声。影は、終わりの輪郭をぼかす。そのぼかしが、敗者の最後の手段だと、蓮はやっと理解した。終わりは、ひとつの点ではなく、滲む帯だ。帯を少し伸ばせば、その分だけ、梅の木の根が伸びるかもしれない。
降伏の準備は、様式が美しかった。小旗の色が整えられ、鳥羽・伏見ののち散逸していた印章が探し集められ、弁天台場の砲の口には布が巻かれた。弾薬は湿らせて使えなくし、兵は帯の結び目を解き、もう一度結んだ。古い江戸の癖が、結び目に残る。
静と蓮は、その結び目をいくつも見た。結び目は、名に似ている。解けにくいほど、重い。重いほど、結び直すときに痛い。
「静」
「はい、矢野さん」
「江戸に戻ったら、雨の匂いのする路地を教えろ」
「はい。——小石川の端、団子坂の下に、雨の匂いが残ります」
「よく覚えてんな」
「はい。——匂いは、名より長持ちします」
匂いの話をしながら歩くと、足が少し軽い。軽さは罪悪ではない。罪悪にしてしまうと、影は動けなくなる。動けなくなった影は、光の邪魔になる。邪魔をしないために、影は軽くなることを自分に許す。許したぶん、誰かの息が一つ長くなる。
そして、白旗が堀に浮かんだ朝が来た。
榎本は、星の城の石垣に手を置き、「ありがとう」と誰ともなく言った。大鳥は列の先頭に立ち、兵の目の高さで「歩け」と言った。ブリュネは軽く帽子をとって、頬の煤を拭き、言葉少なに礼をした。函館の町は静かで、犬だけが尾を振り、子どもがひそひそ声で「黒い船、黒い船」と指さした。
静は、最後の巡りをした。稜堡の角。裏門。堀の石。土の匂い。風の向き。行灯の柱の節。全部、覚えた。覚えることは、別れの儀式だ。覚えておけば、いつかどこかで、同じ匂いに出会ったとき、迷わずに半歩を出せる。
「矢野さん」
「……うん」
「ここで、終わりにしましょう」
「そうだな」
「はい。——終わりにして、続けます」
静のややこしい言い方に、蓮は苦笑した。終わりにして、続ける。歴史はたしかに、そうやって人を先へ押す。押された人は、梅の木一本ぶんの希望を抱えて、雨の匂いの方角へ歩く。
降伏の列で名を名乗るとき、蓮は喉の奥で自分の名が小さな石になって転がるのを感じた。石は、飲み込めば胃で重くなるし、吐き出せば喉を傷つける。飲み込んだ。喉の傷より、胃の重いほうを選んだ。影はいつも、そういう選び方をする。
静は、名を短く言い、目だけで相手の視線を払った。視線に触れても、彼の輪郭はぶれない。ぶれない影は、紙に写らない。
五稜郭の土塁を離れて振り返らなかった。振り返れば、背が空く。背を空けた影は、影でいられない。前だけを見る。前には、雨の匂いがある。江戸の匂いに似ていればいい。似ていなくても、半歩は出せる。半歩が出せれば、梅の根は地中で、まだ伸びる。伸びきる前に冬が来ても、根は凍らない。凍らないように、土のなかで丸くなる。丸くなるものは、春に強い。
星の城は、やがて記録に二行で書かれるだろう。蝦夷共和国、五稜郭、降伏。二行の間には塩の匂いが詰まり、名もなき手紙の梅が眠り、盃のひびが光る。中にいた者の息だけが、その詰まりの温度を知っている。温度は紙に写らない。写らないものが、影の棲む場所だ。
「静」
「はい、矢野さん」
「行くぞ」
「はい。——行きます」
二人は、星の角が消えるまで歩いた。塩の風に目を細め、羅針盤の針を箱にしまい、雨の匂いの記憶を火種にして。名は置いてゆく。息は持ってゆく。持ってゆく息の重さが、今の二人には、いちばん確かな手応えだった。
役所の看板は簡素だが、書体は真面目で、紙は清潔。徴発の台帳には米や薪の数字が並び、南部鞍や信号旗の受け払いの欄には、名前より先に印影の形が揃えられていく。榎本武揚が読み上げる布告は、江戸の空で学んだ法と海の理(ことわり)が混ざった口調で、聴く者の胸骨に静かな重量を残した。
陸は大鳥圭介が、西式に合わせた操典で歩兵を鍛え、砲兵にはアームストロングの癖と、風の身持ちの悪さを叩き込む。フランス人のブリュネは、銃の持ち替えの角度を「小さく、小さく」と繰り返し、軍楽の太鼓は兵の足並みをつないだ。太鼓の皮は寒さで張りすぎる。かんばしい音が出る代わりに、皮がひび割れる。皮が割れると、太鼓の中の空気は逃げる。逃げた空気の形は目に見えないが、兵の息に紛れて残った。
土方歳三は、紙と人の間を往復する軸だった。陸軍奉行並として五稜郭の角に立ち、紙の上の編制と、人間の足の長さを合わせる。紙が速すぎれば人が転ぶ。人が遅すぎれば紙が破れる。土方の指は細り、爪は固く、冷えにかじかんだ先で、まだ小さな火を守っているように見えた。
「時間を稼げ」
それだけが、彼の命の簡潔な形だった。勝つのではない。時間を伸ばす。伸ばされた時間の中で、魚の干物が乾ききり、咳の子が一晩眠り、函館奉行所の古い書庫から救い出された紙束が湿りから逃げる。そういう「小さな生」が、歴史の行の合間でやっと息をして、夜のうちにこっそり増える。土方は、そのためだけに、紙と人を釘で留め続けた。
静は、紙に沈む釘だった。星形の稜堡の影――いちばん短い影は昼に、いちばん長い影は夕べに。影の長さに合わせて、歩哨の立ち位置を半歩ずつずらした。稜堡と稜堡のあいだ、塹壕(ざんごう)から退避壕までの距離を、ひとの息の数で記す。雪の上の足跡の間隔。消えるまでの時間。風がひとつ曲がる角。夜警の合図が海霧で消える位置。
「ここは、矢野さんの足で七呼吸です」
「七か。俺には八に見える」
「はい。——七です」
静の返事は、淡々としているのに、どこかの端だけ微かに笑っていた。七と八の差を、彼はあとで自分の足で埋めに行く。埋めた差は誰にも見えない。見えないことが、影の仕事の安心であり、孤独でもあった。
港では、箱館の古い船大工が、壊れた艦の小舟を直していた。鉄の船は、木の船よりも「冷たいから、音が小さい」と彼らは言う。音が小さいのは、いいことでもあり、悪いことでもあった。木の軋みは人に先に教えてくれるが、鉄は沈むまで黙っている。
十一月、開陽丸が江差沖で座礁したとき、港の古老は波打ち際に立って風の匂いを嗅いだ。「北西じゃねえ、北寄りだ」と呟いたという。ほんのわずかな偏りが、船腹の下に隠れていた岩の名前を呼んだ。夜明け、榎本が遠眼鏡を降ろした瞬間の横顔を、蓮は忘れない。悔しさではなく、計算の目だった。失ったものの重さより、残ったものの配分を先に考える目。敗者の長の目だと蓮は思った。静は、その横で何も言わずに立っていた。名も計算も持たない、「手」を持つ者の立ち方だった。
冬のあいだ、函館の町には小さな物語がいくつも生まれては消えた。
志苔の浜では、漁の帰りの若い衆が、波にのまれた仲間の名をひとつだけ声にして、あとは言わなかった。名を口にすれば、潮に取られると信じている。
弁天台場の裏門では、寒稽古の帰りに兵が甘酒を一杯飲み、かじかんだ指を盃で温めた。盃の縁にひびが入っている。ひびは飲んだ者の唇に触れ、その細い傷から甘さが沁みる。沁みた甘さは、夜になると逆上せ、眠りの浅い兵が夢にうなされた。
五稜郭の中の小屋で、江戸から北へ流れた芸人が三味線を弾き、越後訛りの端唄をやわらかい声で歌う。兵の中に、涙を見せないで笑うのが上手い者がいた。笑いの皺が深くなるたび、その者の胸の中の何かは薄くなった。薄くなるほうが、生き延びやすいことを、人は北で覚える。
春を呼ぶ信号のひとつは、甲鉄の名だった。黒い船体に鉄の皮。舷側から突き出たガトリングは、江戸でも京でも見たことのない「速さ」を持っていた。その速さは、刀や槍で相手を測る尺度を奪った。四月、宮古湾での奇襲。
夜明け前、回天丸の甲板で、蓮は指を伸ばして舷側を撫でた。舷側は冷たく、鉄の冷たさではなく、春の海の生臭い冷たさだった。出撃の号令は短く、舟はまっすぐに湾に入る。燃え上がる旗。甲鉄の黒い舷側に向けて、叫びが一波打って届く。ガトリングの音は、蓮には「雨」に聞こえた。斉射の雨。雨は音の粒が細かすぎて、恐怖の形を掴ませない。仲間が倒れ、甲板に混ざるのは血と塩水。足が滑る。滑る足を、静が掴んで引き上げた。
「立ってください、矢野さん」
「立ってるよ」
「はい。——もっと、立ちます」
鉄に挑んで届かなかった一日のあと、函館の空は、いつもより高く見えた。高い空は、敗者を慰めない。けれど、高さは、呼吸を深くする。深い呼吸は、負けた日の骨を軽くする。
宮古の失敗のあとでも、五稜郭は崩れなかった。崩れないという美徳は、北では信仰に近い。榎本は政体の形を保ち、大鳥は歩兵の列を乱さず、土方は坂の角で敵の横腹を突く段取りをほどいた。
蓮は、土方が城外に出る日々の前夜、刃に油を引く土方の指をじっと見た。爪の間の黒は、墨ではなく土の色。江戸の彼の爪は、墨で黒かった。北の彼の爪は、土で黒い。同じ黒でも、重さが違う。
「土方さん、京の黒と今の黒、どっちが好きです」
静が、不意に訊いた。土方は笑わない目で、わずかに口の端を上げた。
「どっちでもいい。斬る指は、色で変わらねえ」
強がりでも虚勢でもない。ただの事実としての言葉。事実は、敗者の遺書になる。
春が濃くなるにつれて、陸の風向きが変わる。新政府軍は松前から押し上げ、森・尾札部の線から函館へ向けて圧を強めた。大沼の水面は氷の破片を漂わせながらも、周囲の葦は柔らかく揺れ、そこに伏せた兵の息を隠すのに十分だった。森では尾根伝いに銃声が走り、官軍は射線の多さで押した。共和国側の小隊は斜面を使って一度は押し返すが、数の差はどうしようもない。
弁天台場にも砲声が増えた。台場の外れの板塀には、弾の孔がまばらに開き、その孔から風が入り、台場の内側の塩の匂いをかすかに抜いていった。塩が抜けた空気は薄くなり、兵の舌は味を探して疲れた。
千代ヶ岡台場は、地形のやさしさが仇になった。見通しの良い草地は、砲の散弾に弱い。砲煙の白に、春の霧が混ざって、視界は曇った。曇りのなかで、静は敢えて一歩手前を指した。
「矢野さん、今日は一歩手前が生きます」
「どういう意味だ」
「敵は、もう一歩奥を狙っています」
狙いは読める。読めるが、身体はいつも狙いより半歩遅い。その半歩を、春の泥が余計に重くする。重い半歩でも踏み出すのが、影のしごとだ。踏み出した足の下で、去年の秋に落ちた葉が潰れて甘い匂いを立てた。甘い匂いは、恐怖を一瞬だけやわらげる。やわらいだ隙に、刃はまっすぐ動く。
函館の町でも、終わりの支度が始まっていた。酒屋の女将は、米麹の配分を指で弾きながら、「今のうち」と呟いた。灯りの油を買い込む者。子らの履物を二足ずつ用意する者。寺の住職は、古い過去帳を小さな箱に移し替えて、万一の火に備えた。
「名は紙の上に逃がせるが、人は逃がせねえ」と住職は言った。
蓮は、その言葉を背骨に刺したまま、五稜郭の内側の小屋で、江戸から持ち出してきた薄い手帳を開いた。紙は湿気で波打ち、端が柔らかい。墨は薄く、指で触るとすぐ滲む。
〈名は死者のもの。息は生きている者のもの。俺は、息の側にいる〉
書いて、指に付いた墨を舌で拭った。薄い塩の味がした。塩は、いつでもそこにいる。
ある夜、静が珍しく酒をひと口だけ飲んだ。盃は小さく、口は薄い。
「静、お前、酒なんて……」
「はい。——寒いので」
「似合わねえ」
「はい。——似合いません」
盃を置いて、彼はふっと指をひらいた。ひらいた指先の皮は固く、剣だこが古い地図の等高線のように刻まれている。指を見ていると、蓮は突然、沖田総司の影を見た。咳の音。血の薄い赤。笑って「大丈夫」と言った声。影が光から仕事を引き取った夜の温度。
「静、総司さんのこと、夢に見るか」
「はい、矢野さん。——ときどき」
「どんな夢だ」
「背中しか、見えません」
「それでいいのか」
「はい。——背中があれば、影でいられます」
静の言葉は、寒さに凍ってすぐ割れそうなのに、割れない。割れないのは、言葉を短く保つからだ。短いものは、強い。強いものは、長く残る。名ではなく、温度として。
春も後半に入ると、上陸は本格的になった。長万部から森・七重浜の線へ。七重浜は、砂が細かく、足を取られる。砂の粒は乾いているのに、重い。重いのは、雨の前ぶれだからだ。新政府軍の前列が砂を蹴散らし、後列の銃が肩越しに火を吐く。共和国側は斜めに退きながら撃つ。横隊が斜めにほどけていくとき、風が一枚の布を裂くような音を出した。
弁天台場の砲が、港口を押さえる。艦の列に向けて弾道を高めに取り、甲板での滞在時間を長くするように角度が調整された。砲手の両頬に煤がつき、歯の白がやけに目立つ。砲耳に触る掌は、火薬の焦げで黒い。黒は、この北では、仕事の色だ。
千代ヶ岡台場には、婦人や子どもが避難してきた。土塁の陰で、赤子が泣く。泣き声は、大砲の音よりずっと鋭く兵の耳に突き刺さった。兵は顔を横に向け、筋肉を固めて音を排した。排した音は、あとで夢に戻ってくる。夢のなかで兵は、耳を塞げない。塞げない夢が続くと、人は細かく壊れる。壊れた欠片が、昼の静けさの底に沈む。
静は、避難の列の流れを見て、土の上に一本の線を描いた。
「ここで、曲げます」
「お前、戦ってるのか、道作ってるのか、どっちだ」
「はい。——同じです」
同じ、という彼の言葉は、矛盾を平然と抱え込む。抱え込んだ矛盾は、ゆっくり温まって、あとで刃の芯になる。芯がある刃は、折れにくい。そのかわり、重い。
函館の町外れの寺で、蓮は一冊の古い和綴じに出会った。箱館奉行のころの記録で、港に入った船と出た船の名が、几帳面な字で並んでいる。船名の横には、小さな注記。天候、波の高さ、荷の中身、人の数。「何もなかった」と書くべき日に、書記は「凪」と一字だけ記した。
その一字を指でなぞったとき、蓮は不意に泣きたくなった。何もない日。それがどれほど尊いか。凪の一字に、どれほどの祈りが重なっているか。戦が来ると、凪は紙から消える。消えた凪の代わりに、砲の口径や弾薬の数が増える。数は、凪を慰めない。
静が寺の縁側で靴を脱ぎ、畳に上がってきた。
「矢野さん」
「……何だ」
「凪は、影の言葉です」
「どういう意味だ」
「光は風を語ります。影は、風が止まったときの形を覚えます」
静の説明は、一度で理解できなかったが、蓮の喉に温かい何かを残した。言葉が温かいのは、珍しい。珍しいから、覚えておく。
港の空に、黒い柱がさらに増えた。新政府軍の艦は、函館湾に半円を描き、陸の砲はその半円に届かないことを確かめて、わざと一呼吸おいて撃つ。待たされる時間のほうが、兵の心を削る。削られた心は薄くなり、薄くなるほど、破れやすい。破れないために、兵は黙る。黙る集団は、外から見ると「整っている」。内側から見ると、「凍っている」。凍ることも必要だが、凍りすぎると割れる。割れた音は、土の下に落ちる。
やがて、一本木関門の名が荒く口にされる日が来た。箱館市中の北、坂の重なる要所。土方は騎兵を率いてそこに立ち、突いて退き、退いて突くことを繰り返した。蓮はその外側で、退路の曲がり角を増やし、角の手前にわずかな段差を作った。敵が勢いで駆け込んだときに、膝が一瞬緩む段差。緩んだ膝は、刃の半呼吸を与える。
静は、その刃の半呼吸を拾う役目をした。拾うたびに、彼の肩の上下は少しずつ浅くなった。蓮は、それが気にかかった。
「静、息が浅い。総司さんみたいに、無茶するな」
「はい、矢野さん。——無茶はしません」
「嘘つくな」
「はい。——少し、嘘です」
嘘と言えているうちは、まだ大丈夫だと蓮は自分に言い聞かせた。影は、ときどき嘘で自分を支える。嘘の柱は細いが、夜には役に立つ。
五月のはじめ、函館山の裾にある小さな社で、蓮は偶然、日付のない手紙を見つけた。誰かが供えたのだろう。読み書きの上手な手で、こう書いてあった。
〈もし生きて帰ったら、梅の木を一本植えよう。花が咲いたら、酒を一杯飲もう。〉
ただそれだけの文。名もない、宛先もない、押しつけがましさのない希望。蓮は、紙を元の場所に戻し、社の石段を降りた。足の裏に石の冷たさが伝わり、その冷たさが指先の塩とつながって、体のなかに細い糸が一本通った。
「静」
「はい、矢野さん」
「俺、生きて帰ったら、梅を一本、植える」
「はい。——見に行きます」
「一緒に植えるんだよ」
「はい。——一緒に、植えます」
静の「一緒に」は、稀な言葉だった。彼はいつも、誰かと並ぶことを避ける。影は背中を預け、肩を並べない。しかし、梅の木の話だけは、並べることを許した。許したことに気づいて、静は少しだけ視線を落とした。照れ、という人間の温度が、影の隙間から漏れた。
降伏の兆しは、内部の書式から先に現れる。軍用金の帳簿の「貸」の欄が空白のまま増え、弾薬消費の欄に「なし」が続く。なしは、倉庫が空だからでもあり、撃つ先がないからでもある。
榎本は五稜郭の会議の席で、紙を横に置いて、ただ人の顔だけを見て話すようになった。大鳥は、兵の列を整えながら、「斉、斉」と小さく声を打つ回数を減らした。ブリュネは、帰国の手続きの紙束を膝の上に置いたまま、しばらくそれを見ないでいた。見ないでいる時間が長いほど、人は紙から離れる。紙から離れた人間は、名に戻るか、息に戻るか、どちらかだ。
土方は——蓮は、土方の姿を探した。一本木から戻った夜、彼の姿は城内に見当たらず、翌朝、静が短く首を振った。言葉はなかった。言葉がないことが、すべてだった。
星の城の土塁の上で、蓮は空を見た。空は低い。低い空は、泣く場所を与えない。泣きたければ、地面に顔を向けるしかない。地面に顔を向けると、土の匂いが強くなる。強い匂いは、涙を戻す。戻った涙は、胸の骨の裏で固まって、小さな石になる。石は、歩くたび鳴る。鳴って、誰にも聞こえない。
「矢野さん」
「……ああ」
「行きましょう」
「ああ。——まだ、終わりじゃない」
「はい。——終わりません」
静の声は、風の硬さとは別の硬さを持っていた。終わりを終わりにしない者の声。影は、終わりの輪郭をぼかす。そのぼかしが、敗者の最後の手段だと、蓮はやっと理解した。終わりは、ひとつの点ではなく、滲む帯だ。帯を少し伸ばせば、その分だけ、梅の木の根が伸びるかもしれない。
降伏の準備は、様式が美しかった。小旗の色が整えられ、鳥羽・伏見ののち散逸していた印章が探し集められ、弁天台場の砲の口には布が巻かれた。弾薬は湿らせて使えなくし、兵は帯の結び目を解き、もう一度結んだ。古い江戸の癖が、結び目に残る。
静と蓮は、その結び目をいくつも見た。結び目は、名に似ている。解けにくいほど、重い。重いほど、結び直すときに痛い。
「静」
「はい、矢野さん」
「江戸に戻ったら、雨の匂いのする路地を教えろ」
「はい。——小石川の端、団子坂の下に、雨の匂いが残ります」
「よく覚えてんな」
「はい。——匂いは、名より長持ちします」
匂いの話をしながら歩くと、足が少し軽い。軽さは罪悪ではない。罪悪にしてしまうと、影は動けなくなる。動けなくなった影は、光の邪魔になる。邪魔をしないために、影は軽くなることを自分に許す。許したぶん、誰かの息が一つ長くなる。
そして、白旗が堀に浮かんだ朝が来た。
榎本は、星の城の石垣に手を置き、「ありがとう」と誰ともなく言った。大鳥は列の先頭に立ち、兵の目の高さで「歩け」と言った。ブリュネは軽く帽子をとって、頬の煤を拭き、言葉少なに礼をした。函館の町は静かで、犬だけが尾を振り、子どもがひそひそ声で「黒い船、黒い船」と指さした。
静は、最後の巡りをした。稜堡の角。裏門。堀の石。土の匂い。風の向き。行灯の柱の節。全部、覚えた。覚えることは、別れの儀式だ。覚えておけば、いつかどこかで、同じ匂いに出会ったとき、迷わずに半歩を出せる。
「矢野さん」
「……うん」
「ここで、終わりにしましょう」
「そうだな」
「はい。——終わりにして、続けます」
静のややこしい言い方に、蓮は苦笑した。終わりにして、続ける。歴史はたしかに、そうやって人を先へ押す。押された人は、梅の木一本ぶんの希望を抱えて、雨の匂いの方角へ歩く。
降伏の列で名を名乗るとき、蓮は喉の奥で自分の名が小さな石になって転がるのを感じた。石は、飲み込めば胃で重くなるし、吐き出せば喉を傷つける。飲み込んだ。喉の傷より、胃の重いほうを選んだ。影はいつも、そういう選び方をする。
静は、名を短く言い、目だけで相手の視線を払った。視線に触れても、彼の輪郭はぶれない。ぶれない影は、紙に写らない。
五稜郭の土塁を離れて振り返らなかった。振り返れば、背が空く。背を空けた影は、影でいられない。前だけを見る。前には、雨の匂いがある。江戸の匂いに似ていればいい。似ていなくても、半歩は出せる。半歩が出せれば、梅の根は地中で、まだ伸びる。伸びきる前に冬が来ても、根は凍らない。凍らないように、土のなかで丸くなる。丸くなるものは、春に強い。
星の城は、やがて記録に二行で書かれるだろう。蝦夷共和国、五稜郭、降伏。二行の間には塩の匂いが詰まり、名もなき手紙の梅が眠り、盃のひびが光る。中にいた者の息だけが、その詰まりの温度を知っている。温度は紙に写らない。写らないものが、影の棲む場所だ。
「静」
「はい、矢野さん」
「行くぞ」
「はい。——行きます」
二人は、星の角が消えるまで歩いた。塩の風に目を細め、羅針盤の針を箱にしまい、雨の匂いの記憶を火種にして。名は置いてゆく。息は持ってゆく。持ってゆく息の重さが、今の二人には、いちばん確かな手応えだった。



