名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 海鳴りが、城の底をゆっくり押し上げてくる。五稜郭の土塁に背をつけると、その振動が肩甲骨の内側で小さく反響し、骨のあいだで塩が結晶するみたいに冷たかった。星形の稜堡は均整がとれていて、どこを見ても角度が美しかったが、その美しさがかえって辺境の寂しさを強調した。空が広すぎる。雲が低すぎる。そして風が、江戸の風と違って、刃の裏側の匂いをした。

 明治元年の終わり、五稜郭は「共和国」の名を掲げて呼吸を始めた。榎本武揚は総裁と呼ばれ、海の面倒は荒井郁之助が見た。陸は大鳥圭介がまとめ、その一角に土方歳三が「陸軍奉行並」として腰を据えた。紙の上で役目が整っていく一方で、現実はあらゆる隙間から冷気を吹き込んでくる。人が足りない。馬が足りない。薪が足りない。食い物が足りない。けれど、足りないからこそ、人は無駄に大きな声を出さず、淡々とやるべき手順を積んだ。

 蓮はその淡々を、静から学んだ。静は五稜郭の見取り図に、髪の毛より細い線でいくつも道を描き込む。稜堡と稜堡のあいだに潜る影の道。掩蔽壕(えんぺいごう)の位置。夜明けの風の向き。雪が降り出したときに最初に積もる衣紋掛けの根元。紙の上に描かれるたび、物音がひとつ消え、別の物音が強くなる。蓮は黙ってその手つきを見つめ、筆を持ちたくなる衝動をこらえた。筆を持つと、ひとの名を書きたくなる。ここでは名よりも道筋が生命だ。

「静、それは逃げ道か」

「半分は。もう半分は“誘い道”です、矢野さん」

「誘う?」

「はい。——敵を来るべき場所に、来るべき時に。こちらが用意した順路で歩かせます」

 静の声は相変わらず淡々としていたが、紙の上の線にだけ、目に見えない熱が乗っていた。その熱は火ではなく、呼気の温度に近い。人が生きている温度。それを、紙に残すのが静のやり方だった。

 五稜郭の東側には、千代ヶ岡台場。西には弁天台場。南に志海苔の砲台、北に亀田の丘と箱館奉行所の古い建物。榎本は港の防備を固めるため、咸臨丸や蟠龍丸に錨を下ろさせ、艦砲の角度と射線を綿密に合わせた。海からの敵に対しては、榎本の海。その陸への上陸に対しては、土方の陸。二つの線は、海霧の中でかろうじて重なり、一本の細い綱になった。

 冬が深まる前に、彼らは「共和国」の形をすばやく整えた。総裁——榎本。海軍奉行——荒井。陸軍奉行——大鳥。会計や民政の役も配され、蝦夷各地の名主から米と塩の徴発が決まる。フランスの士官、ブリュネ(伊語で書けばブルネ)とその同志——フォルカード、マルラン、ブーシェ、コラ——も居残り、兵の操典を西式に改める手助けをした。鉄砲の扱いは、京で耳にした「隊列」とは違い、個々の動きが連なって全体の呼吸になるという考え方で組まれていた。蓮には言葉が難しかったが、静は一度見れば身体で理解した。理解するたび、彼の周りの空気が薄く笑った。剣の間合いを銃の歩度に置き換える——それができる者は、そう多くない。

「沖田殿。踏み換えのとき、視線が地面に落ちますな」

 ブリュネが指摘すると、静は無造作に頷いた。

「ありがとうございます。——次は落としません」

 外国人の言葉に対しても静は変わらない。礼は尽くすが、距離を近づけすぎない。蓮には、その距離がときどき羨ましかった。誰に対しても半歩の余白を保つことは、寡黙の美徳であると同時に、孤独の病でもある。静が孤独であることを、蓮は知っている。知っていて、どうすることもできない。

 配置が進むと同時に、静と蓮には「裏の道」の整備が任された。函館山の裏へ回り、志苔館跡(しかりだて)の古い堀を見て、入船山の尾根に立ち、谷の風向きを確かめる。冬の吹き降ろしは北西から。海霧が陸に這い上がる時刻を、潮の満ち引きと合わせて覚える。港では、箱館奉行所時代から残っていた商人たちが、風待ちをしながら小声で噂を交換していた。米が高くなり、塩が遠くなり、酒が薄くなった。砂糖なんて夢の話だ、と笑う声は、笑い終わる前に海風でちぎれた。

 ある夜、土方に呼ばれた。執務室は奉行所の旧建物の一角で、暖の薪が小さく鳴る。土方の顔は痩せて、骨が張り出し、目がいっそう窪んでいる。窪みの底には、まだ火がある。火があることが、蓮を驚かせた。あの一本木関門の坂から、どうやって火を持ち出したのか。

「蝦夷で、俺たちは勝たなくていい」

 土方が言った。意外な言葉だった。蓮は眉を上げる。

「勝たなくて、いい?」

「いい。——勝つ形に執着すれば、目の前の息を落とす。ここでは“時間”が名だ。ここを、どれだけ守り切るかが名になる。お前たちの仕事は、時間を延ばすことだ」

 静は短く「承知しました」と言った。蓮は拳を握った。時間を延ばす——名を残すためではない。延ばされた時間の中で、誰かが息をし、誰かが届かない手紙を書く。その紙に、名は乗らない。けれど、息は残る。息が残れば、歴史は少しだけ優しくなる。そうであってほしい、という願いが、蓮の喉の奥で小さな塊になる。

 翌朝、蓮は弁天台場に出た。海が近い。橋詰の砲座の上に立つと、風が顔の皮を削っていく。砲はアームストロング。旋条砲の鉄の筋が、光を鈍く返す。遠くに草の帽子のように浮かぶ津軽海峡の向こう岸が、空の低さのせいで余計に遠く見えた。手前の埠頭では、蟠龍丸の煙突から煙が三筋、斜めに流れている。あれが、榎本の呼吸の形だった。

「静、海は嫌いだ」

「はい、矢野さん。——足を置く場所が、見えませんから」

「陸のほうが好きだ」

「はい。——陸の影は、形を覚えやすいです」

 静の言葉は、蓮の胸骨と胸骨のあいだで静かに広がった。形を覚える影。影が先に形を覚え、光が後から追いつく。それが、京から江戸、江戸から蝦夷まで変わらない彼らのやり方だ。

 五稜郭では、兵の再編成が始まった。新政府軍に倣って、歩兵や砲兵の区分が明確にされ、旧幕の各隊や浪士隊は、新しい番号をもらって並びなおす。榎本が法令を読み上げると、兵たちは声を揃えて応じた。紙の上の国家を、声で支える。声が揃うと、紙は薄い鉄に変わる。薄い鉄は、冷たいが強い。

 その一方で、蝦夷の地の古い呼吸も、彼らの足元で膨らんだりしぼんだりしていた。松前藩は城を追われ、道南の漁村は、今は共和国、明日は官軍、明後日はまた共和国、と旗を変えつづける。漁師は、風を見て帆を上げる。旗が変わるより前に、風が変わる。風のほうが正直だ。

 志海苔の浜で、蓮と静はひとりの老人に会った。髪は白く、肌は風で革のように硬く、目は潮の色をしている。老人は波打ち際に片膝をついて、網のほつれを直しながら、ふたりを見上げた。蓮が挨拶をすると、老人はわずかに頷く。

「おめえら、星の城の人か」

「ああ」

「星は好きか」

「好きも嫌いもあるかよ。寒いけど、形はきれいだ」

「形は腹の足しにはならねえ」

 老人の言葉に、蓮は笑い、静が少しだけ頭を下げた。老人は続ける。

「この浜は昔から人の名を拾わねえ。流れてくるのは木と縄と匂いだけだ。名は風に運ばれるが、浜は受け取らねえ。だが、足跡は残る。おめえらの足跡も、今は残ってる。明日には消える。消えても、魚は戻る。魚は、おめえらの旗を知らねえ」

 老人の言葉は、遠回りなようで、まっすぐだった。名のことを、浜が拒む。その拒み方が、蓮には羨ましかった。人はだれもが名を抱えて重くなる。名は盾にも刃にもなる。名を抱えないでいられるのは、影だけだ。

 夜分、静が持ち帰った紙に、小さな印がいくつも打たれていた。印は、五稜郭の南の野原、千代ヶ岡台場の裏手、函館山の登り口の横、町の炭焼き小屋、志海苔の番屋、弁天台場の裏門——点は、意味のない点に見えて、線に繋ぐと、敵の足取りの癖が出る。

「静、これ、読むのに慣れてきた」

「はい、矢野さん」

「敵も人間だな」

「はい。——人は、暗いところで息をし、明るいところで目を細めます」

「それ、俺たちも同じか」

「はい。——同じです」

 静の筆は止まらない。止まらない筆は、次の冬の前触れだ。冬に入ったら、紙は湿り、炭は重くなり、銃の油は固くなる。固くなるものが多いほど、人の声は柔らかくなる。不思議なものだ。

 十二月の初め、開陽丸が江差沖で座礁した。夜半の風が、いつもの角度からわずかに逸れ、暗礁へ背を押した。潮の音の底に、鉄の腹が割れる鈍い音が混じったと、港の人間は言う。翌朝、榎本が海沿いの道を駆け、沖を睨み続けた。旗艦を失った艦隊は、名前の半分を海に置いてきたような顔になった。蓮は岸の岩に立ち、冷たい飛沫を頬に受けた。海は名を容赦なく洗い流す。洗い流された後に残るのは、錆と塩の匂いだけだ。

 開陽を失っても、五稜郭の訓練は止まらなかった。大鳥は歩兵の射撃を整え、荒井は残りの艦の砲を調整し、榎本は政体書に手を入れた。ブリュネら外国人教官は、軍楽を入れて行進の足を合わせることを教えた。鼓笛の音が土塁に当たって跳ね返る。音は一瞬、暖かい。音が消えると、冷たさが戻る。音と冷たさの往復が、一日の時間を刻む。

 その合間、静は町の裏側を歩いた。箱館の町は坂が多い。坂は、人の本音を浮かせる。上るとき、息が上がる。下るとき、足が速くなる。そのときに漏れる文句が、どの旗のもとでの文句か、静は耳で区別した。薩長の兵が来るという噂を、酒の匂いに混ぜる者。新政府につくために米蔵の鍵をこっそり複製する者。共和国の名を信じたいが、子どもの咳が止まらずに、米を新政府の役所へ持っていく者。誰が悪いとも言えない。誰も悪くないとすれば、戦が悪い、と言うしかない。

「静、俺たちは、どの悪の側にいる」

「矢野さん」

「なんだ」

「悪は、言葉の数に比例します」

「は?」

「たくさん説明しないといけないものほど、悪いです」

「じゃあ、いま俺が聞いたことは?」

「はい。——悪い質問です」

 静の冷たい冗談に、蓮は小さく笑った。笑いは、胃の底の塩を少しだけ溶かしてくれる。

 年があけた。明治二年。新政府の艦隊に、甲鉄が加わるとの報がもたらされた。鉄の皮を持つ鉄の船。舷側にガトリングを載せ、砲は鉄の肌に守られている。官軍は、その甲鉄を、宮古湾に集め、北上するという。「奪えば、勝機がある」と誰かが言い、土方は地図に目を伏せた。蓮が横で見ると、地図の紙が微かに震えていた。土方の指先が、かつてと違って、少し冷たいのだ。冷たい指で熱い決断を押さえ込む。あの一本木の坂で、彼は熱を土に置いてきた。残ったのは、冷たい指だけだ。

 作戦は速く決まり、速く崩れた。宮古湾での奇襲は、甲鉄のガトリングと鉄の皮に弾き返され、回天丸の甲板には血と塩水が混ざって広がった。蓮は甲板で足を滑らせ、静の手に引かれて立ち上がった。立ち上がるたび、甲鉄の舷側の黒が視界に入り、胸が収縮した。鉄は名を傷つけない。名を傷つけるのは人だけだ。鉄はただ、息を止める。その冷酷さの公正さが、蓮をひどく疲れさせた。

 それでも函館に戻れば、土は人の匂いを取り戻す。台場の土塁に腰を下ろし、干した鱈の端を噛む。硬い。硬いが、噛めば味が出る。味が出るものは救いだ。味が出ないものは、祈りにしかならない。祈りは、ここでは足りない。

「矢野さん」

「ん」

「雪が終わります」

「終わってほしい」

「はい。——終わったとき、敵も来ます」

「来るな」

「はい。——来ます」

 春の端を聞き分けるのは、静の得意だった。雪が凍らずに解ける日の順番、風が海から山へ吹く時間の幅、錆びた釘が湿りを帯びる音。そういうものを静は着実に拾い、蓮に渡した。渡された蓮は、それを刃の重さに置き換え、手のひらの皮で覚えた。

 春とともに、陸の別の風も吹いた。会津からの人々が、斗南へ移るという知らせだ。旧会津藩の名は北の土地に移され、雪深い原野を開くことが命じられる。名は紙の上で生き延び、人は土の上で苦しむ。蓮は、五稜郭の北側の堀に沿って歩きながら、その知らせを反芻した。白虎隊の名、娘子軍の名。名は残った。残ったが、腹は膨れない。増吉が言っていたとおりだ。人は、死んだ者の名では腹を満たせない。腹を満たすのは、隣にいる者の、簡単な言葉だ。

「静」

「はい、矢野さん」

「お前は、名がなくて平気なのか」

「はい。——名があると、呼ばれます。呼ばれると、振り返ります。振り返ると、背が空きます」

「めんどくさい理屈だな」

「はい。——影は、めんどくさいものです」

 静の言い方は、どこか嬉しそうだった。嬉しいという言葉を静に当てることはためらわれるが、彼がときおり見せるわずかな緩みは、蓮の呼吸に余白を作った。

 港の裏通りで、蓮は若い商人とすれ違った。髷は低く、着物は新しく、目は落ち着いている。商人は、蓮の羽織の色を一度で見抜き、わずかに身を引いた。敵意ではない。計算だ。江戸にも京にもいた目の種類。同じ目が、こんな北にもいる。勝者に馴染む目。敗者に冷たい目。あの目を責める資格は、自分にはない。自分もまた、勝ちと負けで人を測ってきた。

 ある晩、静が珍しく、紙ではなく、古い羅針盤を持って戻ってきた。針は赤く塗られ、箱は擦り切れている。

「どうした、それ」

「港の古道具屋にありました。——北を好きな顔で指します」

「好きな顔?」

「はい。——人に似ています。賢くはないですけど、迷いません」

 静は針の揺れをじっと見つめ、北が落ち着いたところで箱を閉じた。蓮は、静がこういう古道具に手を伸ばすのを初めて見た。彼にも、たぶん、根拠の薄い拠り所が必要なのだ。名ではなく、針。紙ではなく、箱。そういうものに目を落とすとき、静の背中は、ほんの少しだけ人の背中に近づく。

 港の空に、黒い煙が増えた。新政府軍の艦が北の海に姿を見せ始めたのだ。今度は甲鉄だけではない。春告げの風とともに、音が増える。甲板に当たる波の音、帆の索が鳴る音、汽笛の低い腹の音。音はやがて陸に届き、陸の音を変える。陸の音——鍬が土を打つ音、木靴が石を踏む音、子どもが泣く音——それらが少しずつ硬くなっていく。硬くなるのは、終わりが近いからだ。

 その終わりの手前で、静はひとつ、余計なことを言った。

「矢野さん」

「なんだ」

「終わったあと、江戸に戻りましょう」

「戻れるのか」

「はい。——戻れないなら、近くまで行きます」

「近くってどこだ」

「江戸の匂いがする場所です」

 江戸の匂い。雨の匂い、煤の匂い、川の匂い、煮売りの煮汁の匂い、紙の匂い、書き損じの墨の匂い。蓮の舌の根元に、味がほんの少し戻った。終わりの話をするときに始まりの匂いを持ち出すのは、静の稚気だ。稚気が影のなかにあるのは、救いだ。

 やがて四月、新政府軍は本格的に上陸してきた。松前、江差、知内——海岸線の要所を取られ、箱館湾の口が狭まる。弁天台場に砲声が続き、千代ヶ岡台場からの応射が弱くなった。五稜郭の稜堡に伝令が走り、小旗が何度も振られた。風が音を切る。切られた音は地面に落ち、土の上で細かく砕ける。

 土方は、騎兵を率いて一本木の界隈を出入りした。坂の角で敵の横腹を突き、別の坂から風のように退く。蓮と静は、背の風になった。角という角に目印を置き、道の端の石の角度を少し変え、退路の途中に火薬箱を積んだ梯子を寝かせた。全部、紙には書かれない。書かれないが、身体には残る。

 蓮は、ふいに気づいた。静の息が、いつもより浅い。肩の上下がわずかに速い。雪の季節を越え、冷えが肺に残っているのかもしれない。総司の名が、喉の奥でひやりとした。影が光の病を受け取るのは、おかしな道理だ。だが、道理がひっくり返るのを、京でも江戸でも、何度も見た。

「静、平気か」

「はい、矢野さん。——少し、眠いだけです」

「嘘つけ」

「はい。——嘘です」

 静は笑わないのに、笑いを言葉の端に挟んだ。挟まれた笑いは、蓮の不安の角をほんの少し丸くする。その丸みの分だけ、歩幅が揃う。

 薄い霧の朝、五稜郭の堀に白いものが浮かんだ。白旗だった。あまりにもあっけなく、しかしどうしようもなく、終わりの合図は静かだった。榎本は降伏を選び、大鳥は兵をまとめ、フランス人たちはそれぞれの国へ帰る段取りを整えた。土方は——蓮の胸の奥が鈴のように震えた——もうここにはいない。一度きりの「ありがとう」が耳の底で反射し続けた。

 城の外に出る前に、蓮は土塁の上に立った。空は低く、海は鉛色で、風は冷たく、鳥は飛び、犬が遠吠えをした。世界は、敗者に対して公平だった。公平さが、蓮にはいちばん残酷に思えた。名は残らない。残らないのに、風は吹く。風にとって、名は邪魔なのだ。

「矢野さん」

「……ああ」

「行きましょう」

「ああ」

 静の声には、もう迷いがない。迷いがないのは、道が一本しかないからだ。降伏の列に紛れ、短い取り調べを受け、名を名乗り、どこから来て、どこへ行くつもりだったのかを問われる。名を言うとき、蓮の喉はわずかに震えた。震えを聞き取ったのは、静だけだろう。静は相変わらず、落ち着いた声で名と行き先を答える。行き先は、紙の上ではどこにも繋がっていない。だが、足の裏では、どこにでも繋がる。

 五稜郭の堀を背にして、振り返らなかった。振り返ると、背が空く。静の言ったとおりだ。背を空けないためには、前だけを見て、半歩だけ動かす。それが、名の代わりに選んだやり方だ。

 港の風が塩を運んだ。塩は、傷に沁みる。そして、肉を守る。痛みと保存は、いつも紙一重だ。蓮は唇を湿らせ、舌に塩の粒の形を確かめた。形は小さく、舌は大きい。舌のほうが大きいのに、塩に負ける。負けたまま、歩く。歩いていれば、負けの形も、いつか息に変わる。息に変われば、名は要らない。

 箱館の坂を下り、海沿いの道を東へ折れる。道ばたの草が、まだ春の青さを持っていない。青さが戻るのは、たぶん彼らがここを離れたあとだ。離れたあとに良くなるのは、敗者の常。敗者は、良くなったものの話を聞くだけで、触れられない。それでも、触れられないもののために、半歩を運ぶ。

「静」

「はい、矢野さん」

「終わったら、江戸の雨を嗅がせろ」

「はい。——嗅ぎます」

「いや、嗅がせろって」

「はい。——嗅がせます」

 言葉の端っこに、笑いがまた挟まった。挟まった笑いは、小さな楔だ。楔があると、崩れにくい。崩れにくいと、道になる。道になれば、名は要らない。

 星の城が見えなくなっても、星の角の冷たさは背に残った。背に残る冷たさは、これから江戸の湿った風にあてれば、別の温度に変わるかもしれない。変わらないかもしれない。どちらでもいい。どちらでも、半歩は続く。半歩が続くかぎり、影は消えない。消えないものだけが、歴史の行間に潜むことを許される。

 函館の砦は、紙には短く書かれるだろう。敗者が、北で、星形の城を守った、と。だがその短い行の下に、本当は、塩の匂いと、薄い味噌の温度と、古い羅針盤の針の震えと、老人の浜の言葉と、土方の冷たい指と、静の半歩と、蓮の舌の塩の粒が、ぎゅうぎゅうに詰まっている。その詰まりを誰も読まない。誰も読まないが、詰まっている。詰まっているものがある限り、影は、そこにいる。

「行くぞ、静」

「はい、矢野さん」

 二人は歩いた。紙に載らない道を、紙に載らない足取りで。塩の風に目を細め、薄い春の光を胸の鈴に入れて、音を立てないように。音を立てない者だけが、終わりの向こう側へ抜けていける。抜けた先に何があるかは、知らない。知らなくていい。知らないまま、半歩。半歩。半歩。影のやり方は、どこでも同じだ。