会津藩預かりの沙汰が正式に下りた朝は、空気まで輪郭を得たようだった。庭の玉砂利はやけに鮮やかで、欅の葉は一枚いちまいが別々の名前を持っているかのように光る。
“壬生浪士組”は“新選組”に改称された。
祝宴は質素で、しかし湿度が高い。炊きたての飯の湯気に酒の匂いが混ざり、土間の奥では誰かが笛を吹き、誰かが泣いた。泣いている者はだいたい強い。負ける場所を知っているからだ。
近藤は静かに杯を掲げた。
「名ができた。ならば恥じない中身を、だ」
誰もが頷く。その頷きの音まで揃っている気がする。名は音を揃える。
土方は法度の草案を懐に忍ばせ、卓に肘を置いていた。紙の端はすでに擦れて、墨は幾度も重ねられ、文字は少しずつ黒さを増している。名が立つほど、裏の穴が増える――土方はその穴の位置を、紙の黒で埋めようとしていた。
静は黙って隙間を見つけ、黙って埋める。修繕の大工のように、釘は打たない。木と木の癖を読んで、楔をかまし、軋みの音を別の音で紛らす。名は正面で立ち、影は横から支える。
この頃から、静と蓮の“名簿にない役目”が固定化した。巡察の前に裏路地を先行して潰す。密偵と密偵の間に「回廊」を設えて、言葉が途中で死なないように通し、夜討ちの退路を塞ぐ。記録に残らない小さな戦が、京の夜ごとに灯った。
油小路の辻には、見張りの目が増えた。見張りの目は、灯りの数より当てになる。闇の値段は上がり、噂の重さは軽くなった。新選組という“秩序の棒”は、しなるが折れない棒であることを示し始めた。棒は見ただけで殴られる痛みを思い出させる。町衆は夜更けの喧嘩をやめ、博打の賽の音が妙に遠慮がちになった。
そんな折のことだ。
「静さん」
静が自分の名を“さん”付きで呼ばれたのは、その一度だけだった。
振り返ると、総司が立っていた。似た面差し、異なる気配。総司は春風の笑みで胸の内を隠し、静は冬の水面で刃を冷やす。
「影を引き受けてくれて助かります」
それが命令なのか嘆息なのか、蓮には判別がつかない。春の笑みは、たいていの真実を曖昧にする。
静は軽く頭を下げた。
「お役に立てておりますなら、光栄です」
総司はそこで、ほんのわずか笑みを崩した。
「光栄、ですか。――名は表に、腕は裏に。きれいに分かれているようで、実は入れ替わる。息を合わせましょう」
「はい」
その「はい」は、風鈴の音ほどの大きさで広間に落ちた。
蓮はその夜、自室で紙片に文字を記した。日記とも覚書ともつかない短い文句。
――名ができた。ならば、名がいらなくなる。
名を手にした組織は、名を守るために“名無し”を必要とする。蓮は自分がそちら側に置かれたと感じ始めていた。静はそれを当然のように受け止めている。灯を消してから蓮は問う。
「静。おまえ、いつから影なんだ」
「物心つく前かもしれません」
冗談めいているのに、笑えない。影は笑うと輪郭が崩れると知っているからだ。
「俺は、影のまま終わるのは嫌だな」
「終わる前に書きます。矢野さんの名を」
「どこに」
「僕の稽古帳に」
「やめろ。くすぐったい」
「書きます」
「……ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
薄闇の中で二人の声がすれる。近い。息が触れる距離。勝ちも負けも、そこからしか始まらない。
*
会津預かりの初仕事は、火消しだった。
火は屋根の上に見えたのではなく、人の胸の内に赤く見えた。
中立売の裏路地に、夜な夜な人が集まる。茶屋の裏蔵で、笠の裏に紙を貼り、短冊のように折り、誰かの名を伏せて、誰かの名を掲げる。「明朝、誰それを動かす」「どこどこに兵糧が流れる」。それは火に灯心を入れる所作に似ていた。
静は蓮に目をやる。
「矢野さん、笠の裏の紙、剥がすの得意ですか」
「専門じゃないけど、嫌いじゃない」
「なら、笠屋に“誤字”を混ぜてもらいましょう」
「また誤字かよ」
「誤りは、真似されやすいから、跡がつきやすいんです」
笠屋の親父は指が太く、笑い声が油の匂いをしていた。蓮は茶代を押し付け、笠の内側に薄紙を貼るとき、わずかに糊を薄くするよう頼んだ。剥がれやすい紙は、落ちやすい。落ちやすい紙は、拾われやすい。拾う手は、見られやすい。
その夜の回廊――密偵と密偵のあいだをつなぐ路地――に、静と蓮は立った。
「なぁ、静」
「はい」
「名が立つってさ、面倒だな」
「はい。名は、敵に“形”を与えます。形があると、斬りやすい。――敵にとって」
「つまり、俺らは形のないまま、形のあるやつの前に立つ」
「はい。棒の影、です」
「しなるが折れない棒の、影」
「そうです」
唇の端だけが動く会話。二人は、路地裏の香の流れを見る。焚かれているのは龍涎香ではなく、粗い沈香だ。濁った甘さが、壁の角で渦になっている。香は目に見えない境界線だ。
仕掛けた笠の紙は、予想どおり、回廊の入口で一枚、出口で一枚、落ちた。拾った手は、違う手だ。入口の手は鉢巻を強く結び、出口の手は髪油の匂いをした。
「手が二つ、頭が一つ」
静の声は、笑っているのか無表情なのか分からない高さで、蓮の耳に届いた。
「頭、当てはある?」
「あります。――油小路の辻の西、梁に鳩の巣がある家」
「鳩?」
「動く目印に、鳥は最適です」
その家は、表の格子が新しく、裏木戸の蝶番だけが古かった。音を残すために、わざと替えない。静はその蝶番の音で、夜の出入りの数を数えていた。
戸を叩く前に、土方が影から現れた。
「行くぞ。派手にするな。書くのは後だ」
「はい」
中は静かだった。静かな家は、物音が嘘をつく。
蓮は先に入って右手の暗がりを潰し、静は左手の箪笥の裏を抜いた。箪笥の裏の空気は冷たく、紙の匂いが強い。紙は“名”でできている。
奥座敷には、火の気はないのにぬるい温度が漂っていた。
いた。
頭は顔の細い男で、髷はきつく、襟はゆるい。そういう男は、汗の行き先を知らない。
土方が正面に立った。
「会津預かり、新選組。名を」
男は頷き、頷きの形で嘘をついた。
「名は――」
「要りません」
静が遮った。
「名は、後で書きます。今は“手”を」
静は男の手を見た。親指の腹に墨の跡。筆の握りが浅い。刀を握るより、筆を持つ時間が長い手だ。
「お前、回す側だな」
蓮が言うと、男の喉が硬く動いた。
「回す?」
「噂を。札を。笠の裏の紙を」
男の眼が泳ぎ、泳いだ先に置いてある小さな文箱の角で止まった。目は正直だ。
静は文箱を開け、紙束の一番上を手に取った。
そこには、会津の印があった。昨日、静が笠屋に渡した、わざと誤字を混ぜた印と同じ誤りが、同じ角度で刻まれている。
「誤字は、真似されやすい」
静はつぶやいた。
男は観念して座り直し、口を開いた。
「ここは……回覧の“合流点”だ。壬生でも二つ、四条でも二つ、紙は動く。すべてが尊攘ではない。商いもある。だが、“会津の印”があるだけで、紙は通る。通りがよくなる」
「印は便利だな」
土方は鼻で笑い、紙束をひとつだけ抜いた。
「便利なだけの印が、いちばん手に負えねぇ」
「土方さん」
静が視線を上げる。
「この家、裏木戸の蝶番だけ古いです。音で数を数えました。ここ一月、夜の出入りは“七”。今日で“八”」
「八?」
蓮が指を立てる。
「頭の数とも合うか?」
「合います」
「じゃ、閉じよう」
土方は短くうなずき、男を立たせた。
「お前、名は?」
「名は……」
「要らねぇ。ただの“八”だ」
八はうなだれ、土方の後ろに付いた。名の代わりに数で呼ばれるのは、思いのほか効く。人は名前で反撃する。本能の癖がある。数にされると、反撃の場所が見つからない。
処置は速やかに行われた。紙は押収。男は会津筋に預ける。家は残す。住み替えが起きる。噂の流路は、少しだけ別の道を通る。それでいい。街は川だ。河道は、少しずつ修正される。
帰り道で、蓮は軽く伸びをした。
「静。印ってのは、怖いな」
「はい。押す方が信じるほど、強くなります」
「俺らの“新選組”の名も、押し印みたいなもんか」
「はい。だから、字を間違えないように。――最後まで」
「最後まで、ね」
蓮は笑って、空を見た。薄い雲の向こうで、月は名を呼ばれない光をしていた。
*
隊の評判は、京の辻々を駆けた。壬生狼、会津の犬。名はいつだって二つの顔を持つ。
「名を持つ」ということに、隊の中の呼吸がわずかに変わった。
――書け。
山南が稽古場に新しい帳面を持って来て、「稽古帳」と名付けた。誰と組んだか、どこを打たれたか、どう逃げたか、何を待ったか。書けるところだけでいい、と山南は言った。
静はそこに“息の音”まで書いた。打太刀の喉で鳴る小音、踏み替えの土の擦れ。
蓮は不満顔で筆を持ち、しかし書いた。
――静は近い。今日も近い。近いまま遠くを見る。
土方は稽古帳に目を通し、ところどころに赤い点を打ち、端に短い言葉を書き足す。
「待て」
「もっと前で勝て」
「勝たせろ」
“勝たせろ”の横に小さく、誰の名も書かない矢印が引かれていた。矢印は、名のない命令だ。
その矢印に、最初の大きな仕事がぶら下がった。
檜物屋町で、人が消える。正確に言えば、姿はあるのに“立場”が消える。朝まで町内の番頭だった者が、昼には「誰だっけ」と言われる。帳簿からは名が滑り落ち、役の回覧からは書名が消える。
総司が言った。
「名が消える。あなたはそれを“病”と呼びますか?」
「病ではありません。作為です」
静は即答した。
「名を消すのが上手い人間がいる。――書き方を知っていて、消し方を知っている」
「書く者は消せる?」
「はい。書く場所を、知っているからです」
土方は法度の草案を畳に広げ、墨を含ませた筆の先をわずかに揺らした。
「書き手は誰だ」
「“同心崩れ”でしょう」
「お上から外れたやつか」
「はい。お上の文字を経験して、今はお上の外で食う。そういう手つきです」
「どうやって炙る」
静は蓮を見た。
「矢野さん」
「俺?」
「“名の相談”に行ってください。町内の誰かに頼まれて、“名を戻したい”と」
「誰に相談する」
「井戸端で、声の“平べったい女”を探します。平べったい声は、小遣い稼ぎの口です。そこから“書ける男”に繋がる」
「なるほど。……俺、声で人を見分ける趣味、できちまいそうだ」
「いい趣味です」
「お前の“誤字趣味”よりはな」
二人は笑い、檜物屋町へ向かった。
井戸端は噂の湧き口だ。桶の底に小銭が沈み、底の冷たさが噂の熱をよく冷ます。
蓮は黙って桶を引き、背負った桶を軽く軋ませる。歯の抜けた婆がそれを見て笑い、若い女がそれを見て声を平らにする。
「兄さん、いい手してる」
「人の手を見て飯食ってる」
「字も書けそう」
「少し」
「字で人を助ける人、知ってるよ」
「助ける?」
「戻してくれるの。役の名。あれ、いったん落ちると面倒だろ。紙に戻すの、あの人は早い」
「どこにいる」
「“乾物屋の裏の二階”。階段が急で、昼でも暗い」
「ありがとう。……桶、代わりに回しとく」
「いい手だねぇ、ほんとに」
“平べったい声”の女は、まるで糸口を渡すみたいに軽々と教えた。噂は、軽さが命だ。重い噂は途中で落ちる。
乾物屋の裏の二階は、段板が二枚欠けていた。欠けた段板は、誰が“上がったか”の印を残す。音は覚えている。
蓮が先に上がり、静が後ろで足音を数える。
書き手は、灯を背中に受けて座っていた。顔は見えない。背筋は伸びている。紙の上に、既に何本かの線が走っていた。書は、線ではなく“間”でできている。
「どなたで」
声は、砂を噛んだように乾いている。
「“名を戻したい”人の友だち」
「名は?」
「名は、後だ」
「後では、紙が乾かない」
「すぐ乾かせ」
押し問答の声は、だんだん“剣”に似てくる。
静は一歩だけ前に出て、背中の灯をずらした。書き手の顔が半分だけ見える。薄い頬骨、乾いた唇、筆の茎を握る癖の残る指。
「お上の“外”で書いておいでですか」
書き手は鼻で笑った。
「お上の“中”で飢えそうになったからな。外は涼しい」
「涼しいところで、火を扱っておいでだ」
「火?」
「名は火です。紙は油。あなたは火の扱いが上手い」
書き手は筆を止めない。
「頼まれた。戻せと。戻した。銭になった。――何が悪い」
「悪いとは言いません。が」
静は筆置きに目を落とした。筆置きの木目の線が、妙に浅い。
「この筆置き、“里”が違う。京の木ではない。上州の木。あなたは上州から流れてきて、お上の書き方と違う“里”を持っている。だから、あなたの書いた名は、すぐ“里帰り”する」
「……なるほど」
「だから、名が消える。戻しても、戻した先の紙が、あなたの“里”を弾く」
書き手は初めて筆を止め、顔を上げた。
「あんた、何者だ」
「新選組の、記す者です」
「記す?」
「名を、稽古帳のように記します。――あなたの名も」
書き手の目が狭くなった。
「脅しか」
「選択肢です」
静は淡々と続ける。
「あなたが“戻したい”名を、本当に戻す術は、あなたしか知らない。あなたが書き、あなたが“里”を覚え直す。京の紙に馴染む字を、あなたが覚える。僕らは、あなたの“里帰り”を止めるために、稽古をつける」
「稽古?」
「剣のではなく、筆の」
蓮が口を挟んだ。
「静、またすげぇ頼みをサラッと言うな」
「いつものことです」
「ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
書き手は笑った。笑いは、乾いているのに湿っていた。
「筆の稽古をつける? 新選組が?」
「はい。土方さんが喜びます」
「土方さんが?」
「法度の字が、きれいになります」
蓮は吹き出し、書き手も笑った。
「……いいだろう。俺は“戻す”。戻し方を覚え直す。代わりに、名をひとつ書かせろ」
「誰の」
「“名無し”の者の名だ。いつも裏にいる、名簿にない役目のやつの名」
蓮は静を見る。
「書いてやれよ、静」
「はい。――僕の名で良ければ」
「おまえは自分の名を、どこにでも投げられるんだな」
「必要なら」
「必要、だな」
書き手は静の名を、紙の端に小さく書いた。
沖田静――その字は、筆の中ほどで一度だけ震え、すぐに澄んだ。
「“里”を覚え直す。あんたの名を、京の紙に馴染ませるのは、まず俺からだ」
「お願いします」
静は深く頭を下げた。
階段を降りながら、蓮は笑った。
「静、名、書かれちまったな」
「はい。稽古帳以外にも、僕の名ができました」
「嫌か」
「少し怖いです。けれど、必要なら」
「必要、だ」
蓮は言い切った。
「名が立つほど、裏の穴も増える。そこを埋める影の名が、まったくないままだと、影が死ぬ。名は重いけど、影に重りを一つ、な」
「ありがとうございます、矢野さん」
「礼は要らん。……ただ、俺の名は稽古帳だけにしとけ」
「はい。僕だけの帳面に」
「うん。……それはそれで照れるな」
*
夜の巡察が続くほど、静と蓮は“近い間合い”で街を読むようになった。
灯の高さ、香の向き、雨垂れの音、猫の尻尾の角度――すべてが文字だった。文字は読めば音になる。音は読めば、息になる。
ある夜、二人は三条の橋の下で、細い声を拾った。
「……助けてくれ」
声の持ち主は、背を殴られて川へ落ちたらしい若い男で、腰帯に細い巻物を差していた。巻物を開くと、そこには“新選組”の三字が、ほとんど気味が悪いほど丁寧に書かれていた。
「偽だな」
蓮が言うと、静は頷いた。
「偽の“新選組”。――今夜から、名の“裏返し”が歩き始めました」
偽名は本物より速く広がる。軽いからだ。
次の夜から、静と蓮は“偽”を狩った。狩るというより、骨抜きにした。偽札の印の弱いところを押す。言い立ての矛盾に、手で触る。触ると、勝手に崩れる。
その最中、蓮は一度だけ、心底から怒った。
偽の“新選組”を名乗る三人組が、茶屋の娘・お雪の袖をつかんで、口にできないことを言ったからだ。
蓮は静の肩越しに一言だけ言った。
「静、今日は“前”じゃない」
「はい」
「“中”で勝つ」
「どうぞ」
蓮は三歩で詰め、二歩で捻り、一歩で倒した。倒したあと、相手の肩口を土に押し付け、息を奪う。斬らないが、二度と偽の名を口にできないように、肺に“怖さ”を覚えさせる。
「お雪」
「兄さん……」
「大丈夫だ。――静、こいつら、どこへ」
「書きます」
静は稽古帳を取り出し、そこに“偽”の三人の特徴を書いた。名は書かない。名は、まだ名ではない。
書いている間、静は蓮の横顔を見た。怒る顔の蓮は、滑稽なくらい正直だった。
「矢野さん」
「なんだ」
「怒ってくれて、ありがとうございます」
「礼を言うことじゃない」
「僕は、矢野さんのそういうところを、書いておきたい」
「やめろ。くすぐったい」
「書きます」
「ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに」
二人の掛け合いは、夜の水音に紛れ、橋の下の暗がりが少しだけ明るくなった気がした。
*
法度は整えられ、紙は増え、名は増え、呼ばれ方は増えた。
壬生狼。会津の犬。棒。影。
どれも少しずつ本当で、少しずつ嘘だ。
近藤は杯を置き、総司は春風を少し冷まして、土方は筆をさらに黒くした。
静は相変わらず、隙間を黙って埋める。
蓮は相変わらず、“前”で勝ち、たまに“負けるふり”で勝たせ、必要なときは“中”で怒る。
白木は稽古に通い続け、字の里を覚え直し、書き手は筆の稽古で“京の間合い”を掴み始めた。
檜物屋町では、消えたはずの名が、少しずつ“戻って”いった。
名が戻るたび、町の音がひとつ増える。桶の鳴る音、帳場の硯が擦れる音、夜の戸締まりの木が鳴る音。音は記す。音は残る。名が紙から落ちても、音は耳に引っかかる。
静は稽古帳の余白に、小さく書いた。
――名ができた。ならば、名がいらなくなる。名をいらなくするのは、音だ。
蓮が覗いて、鼻で笑った。
「静、詩人みたいなこと書くな」
「詩は書けませんが、音は書けます」
「俺は俺の音、好きだぜ」
「はい。矢野さんの“前の音”は、いい音です」
「褒めるな。照れる」
「照れを書いておきます」
「書くな」
「書きます」
「……ほんと、悪い人」
「矢野さんのためだけに」
ある日、総司が縁側でふっと笑い、静を呼び止めた。
「静さん。名ができて、隊は強くなったと思いますか?」
「はい。弱くもなりました」
「弱く?」
「名は、斬られやすいから」
「なるほど」
総司は少しだけ目を伏せた。
「君は影で、僕は表かもしれない。だけど、影のほうがよく見えるものがある。見えすぎて、冷えるでしょう」
「はい。――でも、矢野さんが温かいです」
総司は笑って、首を振った。
「それは困りますね。僕の立場がない」
「立場は、春風です。誰にも冷たくしない」
「いいことを言う。……土方さんに聞かせたい」
「土方さんは、聞きません。聞かなくても、知っています」
「それも困りますね」
春風の笑みで話は終わった。
夕暮れ、土方はまた新しい紙を静に渡した。角に、小さな印。
「“何もない”印だ。上からの“見えない査問”は近い」
「はい」
「おまえの番かもしれん」
「はい」
「準備しろ」
「いつも“前”で」
蓮が側に来て、紙を覗く。
「面白いな。何もないのに印」
「はい。何もないことを、わざわざ示す。厄介です」
「なら、俺らも示そう。何でもある目で、何もない顔を」
「稽古帳に書いておきます」
「やめろ、照れる」
「書きます」
「……悪い人」
「矢野さんのためだけに」
薄群青の空の下、寺の鐘が、少し遅れて耳に届いた。
音は記す。音は斬る。音は、残る。
静は半歩、前へ出た。呼吸が触れる距離。名が立ち、影が寄り、棒がしなって、夜は深くなる。
新選組は、名を持って歩き出した。
名を守るための、名のいらない足取りで。
“壬生浪士組”は“新選組”に改称された。
祝宴は質素で、しかし湿度が高い。炊きたての飯の湯気に酒の匂いが混ざり、土間の奥では誰かが笛を吹き、誰かが泣いた。泣いている者はだいたい強い。負ける場所を知っているからだ。
近藤は静かに杯を掲げた。
「名ができた。ならば恥じない中身を、だ」
誰もが頷く。その頷きの音まで揃っている気がする。名は音を揃える。
土方は法度の草案を懐に忍ばせ、卓に肘を置いていた。紙の端はすでに擦れて、墨は幾度も重ねられ、文字は少しずつ黒さを増している。名が立つほど、裏の穴が増える――土方はその穴の位置を、紙の黒で埋めようとしていた。
静は黙って隙間を見つけ、黙って埋める。修繕の大工のように、釘は打たない。木と木の癖を読んで、楔をかまし、軋みの音を別の音で紛らす。名は正面で立ち、影は横から支える。
この頃から、静と蓮の“名簿にない役目”が固定化した。巡察の前に裏路地を先行して潰す。密偵と密偵の間に「回廊」を設えて、言葉が途中で死なないように通し、夜討ちの退路を塞ぐ。記録に残らない小さな戦が、京の夜ごとに灯った。
油小路の辻には、見張りの目が増えた。見張りの目は、灯りの数より当てになる。闇の値段は上がり、噂の重さは軽くなった。新選組という“秩序の棒”は、しなるが折れない棒であることを示し始めた。棒は見ただけで殴られる痛みを思い出させる。町衆は夜更けの喧嘩をやめ、博打の賽の音が妙に遠慮がちになった。
そんな折のことだ。
「静さん」
静が自分の名を“さん”付きで呼ばれたのは、その一度だけだった。
振り返ると、総司が立っていた。似た面差し、異なる気配。総司は春風の笑みで胸の内を隠し、静は冬の水面で刃を冷やす。
「影を引き受けてくれて助かります」
それが命令なのか嘆息なのか、蓮には判別がつかない。春の笑みは、たいていの真実を曖昧にする。
静は軽く頭を下げた。
「お役に立てておりますなら、光栄です」
総司はそこで、ほんのわずか笑みを崩した。
「光栄、ですか。――名は表に、腕は裏に。きれいに分かれているようで、実は入れ替わる。息を合わせましょう」
「はい」
その「はい」は、風鈴の音ほどの大きさで広間に落ちた。
蓮はその夜、自室で紙片に文字を記した。日記とも覚書ともつかない短い文句。
――名ができた。ならば、名がいらなくなる。
名を手にした組織は、名を守るために“名無し”を必要とする。蓮は自分がそちら側に置かれたと感じ始めていた。静はそれを当然のように受け止めている。灯を消してから蓮は問う。
「静。おまえ、いつから影なんだ」
「物心つく前かもしれません」
冗談めいているのに、笑えない。影は笑うと輪郭が崩れると知っているからだ。
「俺は、影のまま終わるのは嫌だな」
「終わる前に書きます。矢野さんの名を」
「どこに」
「僕の稽古帳に」
「やめろ。くすぐったい」
「書きます」
「……ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
薄闇の中で二人の声がすれる。近い。息が触れる距離。勝ちも負けも、そこからしか始まらない。
*
会津預かりの初仕事は、火消しだった。
火は屋根の上に見えたのではなく、人の胸の内に赤く見えた。
中立売の裏路地に、夜な夜な人が集まる。茶屋の裏蔵で、笠の裏に紙を貼り、短冊のように折り、誰かの名を伏せて、誰かの名を掲げる。「明朝、誰それを動かす」「どこどこに兵糧が流れる」。それは火に灯心を入れる所作に似ていた。
静は蓮に目をやる。
「矢野さん、笠の裏の紙、剥がすの得意ですか」
「専門じゃないけど、嫌いじゃない」
「なら、笠屋に“誤字”を混ぜてもらいましょう」
「また誤字かよ」
「誤りは、真似されやすいから、跡がつきやすいんです」
笠屋の親父は指が太く、笑い声が油の匂いをしていた。蓮は茶代を押し付け、笠の内側に薄紙を貼るとき、わずかに糊を薄くするよう頼んだ。剥がれやすい紙は、落ちやすい。落ちやすい紙は、拾われやすい。拾う手は、見られやすい。
その夜の回廊――密偵と密偵のあいだをつなぐ路地――に、静と蓮は立った。
「なぁ、静」
「はい」
「名が立つってさ、面倒だな」
「はい。名は、敵に“形”を与えます。形があると、斬りやすい。――敵にとって」
「つまり、俺らは形のないまま、形のあるやつの前に立つ」
「はい。棒の影、です」
「しなるが折れない棒の、影」
「そうです」
唇の端だけが動く会話。二人は、路地裏の香の流れを見る。焚かれているのは龍涎香ではなく、粗い沈香だ。濁った甘さが、壁の角で渦になっている。香は目に見えない境界線だ。
仕掛けた笠の紙は、予想どおり、回廊の入口で一枚、出口で一枚、落ちた。拾った手は、違う手だ。入口の手は鉢巻を強く結び、出口の手は髪油の匂いをした。
「手が二つ、頭が一つ」
静の声は、笑っているのか無表情なのか分からない高さで、蓮の耳に届いた。
「頭、当てはある?」
「あります。――油小路の辻の西、梁に鳩の巣がある家」
「鳩?」
「動く目印に、鳥は最適です」
その家は、表の格子が新しく、裏木戸の蝶番だけが古かった。音を残すために、わざと替えない。静はその蝶番の音で、夜の出入りの数を数えていた。
戸を叩く前に、土方が影から現れた。
「行くぞ。派手にするな。書くのは後だ」
「はい」
中は静かだった。静かな家は、物音が嘘をつく。
蓮は先に入って右手の暗がりを潰し、静は左手の箪笥の裏を抜いた。箪笥の裏の空気は冷たく、紙の匂いが強い。紙は“名”でできている。
奥座敷には、火の気はないのにぬるい温度が漂っていた。
いた。
頭は顔の細い男で、髷はきつく、襟はゆるい。そういう男は、汗の行き先を知らない。
土方が正面に立った。
「会津預かり、新選組。名を」
男は頷き、頷きの形で嘘をついた。
「名は――」
「要りません」
静が遮った。
「名は、後で書きます。今は“手”を」
静は男の手を見た。親指の腹に墨の跡。筆の握りが浅い。刀を握るより、筆を持つ時間が長い手だ。
「お前、回す側だな」
蓮が言うと、男の喉が硬く動いた。
「回す?」
「噂を。札を。笠の裏の紙を」
男の眼が泳ぎ、泳いだ先に置いてある小さな文箱の角で止まった。目は正直だ。
静は文箱を開け、紙束の一番上を手に取った。
そこには、会津の印があった。昨日、静が笠屋に渡した、わざと誤字を混ぜた印と同じ誤りが、同じ角度で刻まれている。
「誤字は、真似されやすい」
静はつぶやいた。
男は観念して座り直し、口を開いた。
「ここは……回覧の“合流点”だ。壬生でも二つ、四条でも二つ、紙は動く。すべてが尊攘ではない。商いもある。だが、“会津の印”があるだけで、紙は通る。通りがよくなる」
「印は便利だな」
土方は鼻で笑い、紙束をひとつだけ抜いた。
「便利なだけの印が、いちばん手に負えねぇ」
「土方さん」
静が視線を上げる。
「この家、裏木戸の蝶番だけ古いです。音で数を数えました。ここ一月、夜の出入りは“七”。今日で“八”」
「八?」
蓮が指を立てる。
「頭の数とも合うか?」
「合います」
「じゃ、閉じよう」
土方は短くうなずき、男を立たせた。
「お前、名は?」
「名は……」
「要らねぇ。ただの“八”だ」
八はうなだれ、土方の後ろに付いた。名の代わりに数で呼ばれるのは、思いのほか効く。人は名前で反撃する。本能の癖がある。数にされると、反撃の場所が見つからない。
処置は速やかに行われた。紙は押収。男は会津筋に預ける。家は残す。住み替えが起きる。噂の流路は、少しだけ別の道を通る。それでいい。街は川だ。河道は、少しずつ修正される。
帰り道で、蓮は軽く伸びをした。
「静。印ってのは、怖いな」
「はい。押す方が信じるほど、強くなります」
「俺らの“新選組”の名も、押し印みたいなもんか」
「はい。だから、字を間違えないように。――最後まで」
「最後まで、ね」
蓮は笑って、空を見た。薄い雲の向こうで、月は名を呼ばれない光をしていた。
*
隊の評判は、京の辻々を駆けた。壬生狼、会津の犬。名はいつだって二つの顔を持つ。
「名を持つ」ということに、隊の中の呼吸がわずかに変わった。
――書け。
山南が稽古場に新しい帳面を持って来て、「稽古帳」と名付けた。誰と組んだか、どこを打たれたか、どう逃げたか、何を待ったか。書けるところだけでいい、と山南は言った。
静はそこに“息の音”まで書いた。打太刀の喉で鳴る小音、踏み替えの土の擦れ。
蓮は不満顔で筆を持ち、しかし書いた。
――静は近い。今日も近い。近いまま遠くを見る。
土方は稽古帳に目を通し、ところどころに赤い点を打ち、端に短い言葉を書き足す。
「待て」
「もっと前で勝て」
「勝たせろ」
“勝たせろ”の横に小さく、誰の名も書かない矢印が引かれていた。矢印は、名のない命令だ。
その矢印に、最初の大きな仕事がぶら下がった。
檜物屋町で、人が消える。正確に言えば、姿はあるのに“立場”が消える。朝まで町内の番頭だった者が、昼には「誰だっけ」と言われる。帳簿からは名が滑り落ち、役の回覧からは書名が消える。
総司が言った。
「名が消える。あなたはそれを“病”と呼びますか?」
「病ではありません。作為です」
静は即答した。
「名を消すのが上手い人間がいる。――書き方を知っていて、消し方を知っている」
「書く者は消せる?」
「はい。書く場所を、知っているからです」
土方は法度の草案を畳に広げ、墨を含ませた筆の先をわずかに揺らした。
「書き手は誰だ」
「“同心崩れ”でしょう」
「お上から外れたやつか」
「はい。お上の文字を経験して、今はお上の外で食う。そういう手つきです」
「どうやって炙る」
静は蓮を見た。
「矢野さん」
「俺?」
「“名の相談”に行ってください。町内の誰かに頼まれて、“名を戻したい”と」
「誰に相談する」
「井戸端で、声の“平べったい女”を探します。平べったい声は、小遣い稼ぎの口です。そこから“書ける男”に繋がる」
「なるほど。……俺、声で人を見分ける趣味、できちまいそうだ」
「いい趣味です」
「お前の“誤字趣味”よりはな」
二人は笑い、檜物屋町へ向かった。
井戸端は噂の湧き口だ。桶の底に小銭が沈み、底の冷たさが噂の熱をよく冷ます。
蓮は黙って桶を引き、背負った桶を軽く軋ませる。歯の抜けた婆がそれを見て笑い、若い女がそれを見て声を平らにする。
「兄さん、いい手してる」
「人の手を見て飯食ってる」
「字も書けそう」
「少し」
「字で人を助ける人、知ってるよ」
「助ける?」
「戻してくれるの。役の名。あれ、いったん落ちると面倒だろ。紙に戻すの、あの人は早い」
「どこにいる」
「“乾物屋の裏の二階”。階段が急で、昼でも暗い」
「ありがとう。……桶、代わりに回しとく」
「いい手だねぇ、ほんとに」
“平べったい声”の女は、まるで糸口を渡すみたいに軽々と教えた。噂は、軽さが命だ。重い噂は途中で落ちる。
乾物屋の裏の二階は、段板が二枚欠けていた。欠けた段板は、誰が“上がったか”の印を残す。音は覚えている。
蓮が先に上がり、静が後ろで足音を数える。
書き手は、灯を背中に受けて座っていた。顔は見えない。背筋は伸びている。紙の上に、既に何本かの線が走っていた。書は、線ではなく“間”でできている。
「どなたで」
声は、砂を噛んだように乾いている。
「“名を戻したい”人の友だち」
「名は?」
「名は、後だ」
「後では、紙が乾かない」
「すぐ乾かせ」
押し問答の声は、だんだん“剣”に似てくる。
静は一歩だけ前に出て、背中の灯をずらした。書き手の顔が半分だけ見える。薄い頬骨、乾いた唇、筆の茎を握る癖の残る指。
「お上の“外”で書いておいでですか」
書き手は鼻で笑った。
「お上の“中”で飢えそうになったからな。外は涼しい」
「涼しいところで、火を扱っておいでだ」
「火?」
「名は火です。紙は油。あなたは火の扱いが上手い」
書き手は筆を止めない。
「頼まれた。戻せと。戻した。銭になった。――何が悪い」
「悪いとは言いません。が」
静は筆置きに目を落とした。筆置きの木目の線が、妙に浅い。
「この筆置き、“里”が違う。京の木ではない。上州の木。あなたは上州から流れてきて、お上の書き方と違う“里”を持っている。だから、あなたの書いた名は、すぐ“里帰り”する」
「……なるほど」
「だから、名が消える。戻しても、戻した先の紙が、あなたの“里”を弾く」
書き手は初めて筆を止め、顔を上げた。
「あんた、何者だ」
「新選組の、記す者です」
「記す?」
「名を、稽古帳のように記します。――あなたの名も」
書き手の目が狭くなった。
「脅しか」
「選択肢です」
静は淡々と続ける。
「あなたが“戻したい”名を、本当に戻す術は、あなたしか知らない。あなたが書き、あなたが“里”を覚え直す。京の紙に馴染む字を、あなたが覚える。僕らは、あなたの“里帰り”を止めるために、稽古をつける」
「稽古?」
「剣のではなく、筆の」
蓮が口を挟んだ。
「静、またすげぇ頼みをサラッと言うな」
「いつものことです」
「ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに、です」
書き手は笑った。笑いは、乾いているのに湿っていた。
「筆の稽古をつける? 新選組が?」
「はい。土方さんが喜びます」
「土方さんが?」
「法度の字が、きれいになります」
蓮は吹き出し、書き手も笑った。
「……いいだろう。俺は“戻す”。戻し方を覚え直す。代わりに、名をひとつ書かせろ」
「誰の」
「“名無し”の者の名だ。いつも裏にいる、名簿にない役目のやつの名」
蓮は静を見る。
「書いてやれよ、静」
「はい。――僕の名で良ければ」
「おまえは自分の名を、どこにでも投げられるんだな」
「必要なら」
「必要、だな」
書き手は静の名を、紙の端に小さく書いた。
沖田静――その字は、筆の中ほどで一度だけ震え、すぐに澄んだ。
「“里”を覚え直す。あんたの名を、京の紙に馴染ませるのは、まず俺からだ」
「お願いします」
静は深く頭を下げた。
階段を降りながら、蓮は笑った。
「静、名、書かれちまったな」
「はい。稽古帳以外にも、僕の名ができました」
「嫌か」
「少し怖いです。けれど、必要なら」
「必要、だ」
蓮は言い切った。
「名が立つほど、裏の穴も増える。そこを埋める影の名が、まったくないままだと、影が死ぬ。名は重いけど、影に重りを一つ、な」
「ありがとうございます、矢野さん」
「礼は要らん。……ただ、俺の名は稽古帳だけにしとけ」
「はい。僕だけの帳面に」
「うん。……それはそれで照れるな」
*
夜の巡察が続くほど、静と蓮は“近い間合い”で街を読むようになった。
灯の高さ、香の向き、雨垂れの音、猫の尻尾の角度――すべてが文字だった。文字は読めば音になる。音は読めば、息になる。
ある夜、二人は三条の橋の下で、細い声を拾った。
「……助けてくれ」
声の持ち主は、背を殴られて川へ落ちたらしい若い男で、腰帯に細い巻物を差していた。巻物を開くと、そこには“新選組”の三字が、ほとんど気味が悪いほど丁寧に書かれていた。
「偽だな」
蓮が言うと、静は頷いた。
「偽の“新選組”。――今夜から、名の“裏返し”が歩き始めました」
偽名は本物より速く広がる。軽いからだ。
次の夜から、静と蓮は“偽”を狩った。狩るというより、骨抜きにした。偽札の印の弱いところを押す。言い立ての矛盾に、手で触る。触ると、勝手に崩れる。
その最中、蓮は一度だけ、心底から怒った。
偽の“新選組”を名乗る三人組が、茶屋の娘・お雪の袖をつかんで、口にできないことを言ったからだ。
蓮は静の肩越しに一言だけ言った。
「静、今日は“前”じゃない」
「はい」
「“中”で勝つ」
「どうぞ」
蓮は三歩で詰め、二歩で捻り、一歩で倒した。倒したあと、相手の肩口を土に押し付け、息を奪う。斬らないが、二度と偽の名を口にできないように、肺に“怖さ”を覚えさせる。
「お雪」
「兄さん……」
「大丈夫だ。――静、こいつら、どこへ」
「書きます」
静は稽古帳を取り出し、そこに“偽”の三人の特徴を書いた。名は書かない。名は、まだ名ではない。
書いている間、静は蓮の横顔を見た。怒る顔の蓮は、滑稽なくらい正直だった。
「矢野さん」
「なんだ」
「怒ってくれて、ありがとうございます」
「礼を言うことじゃない」
「僕は、矢野さんのそういうところを、書いておきたい」
「やめろ。くすぐったい」
「書きます」
「ほんと悪い人」
「矢野さんのためだけに」
二人の掛け合いは、夜の水音に紛れ、橋の下の暗がりが少しだけ明るくなった気がした。
*
法度は整えられ、紙は増え、名は増え、呼ばれ方は増えた。
壬生狼。会津の犬。棒。影。
どれも少しずつ本当で、少しずつ嘘だ。
近藤は杯を置き、総司は春風を少し冷まして、土方は筆をさらに黒くした。
静は相変わらず、隙間を黙って埋める。
蓮は相変わらず、“前”で勝ち、たまに“負けるふり”で勝たせ、必要なときは“中”で怒る。
白木は稽古に通い続け、字の里を覚え直し、書き手は筆の稽古で“京の間合い”を掴み始めた。
檜物屋町では、消えたはずの名が、少しずつ“戻って”いった。
名が戻るたび、町の音がひとつ増える。桶の鳴る音、帳場の硯が擦れる音、夜の戸締まりの木が鳴る音。音は記す。音は残る。名が紙から落ちても、音は耳に引っかかる。
静は稽古帳の余白に、小さく書いた。
――名ができた。ならば、名がいらなくなる。名をいらなくするのは、音だ。
蓮が覗いて、鼻で笑った。
「静、詩人みたいなこと書くな」
「詩は書けませんが、音は書けます」
「俺は俺の音、好きだぜ」
「はい。矢野さんの“前の音”は、いい音です」
「褒めるな。照れる」
「照れを書いておきます」
「書くな」
「書きます」
「……ほんと、悪い人」
「矢野さんのためだけに」
ある日、総司が縁側でふっと笑い、静を呼び止めた。
「静さん。名ができて、隊は強くなったと思いますか?」
「はい。弱くもなりました」
「弱く?」
「名は、斬られやすいから」
「なるほど」
総司は少しだけ目を伏せた。
「君は影で、僕は表かもしれない。だけど、影のほうがよく見えるものがある。見えすぎて、冷えるでしょう」
「はい。――でも、矢野さんが温かいです」
総司は笑って、首を振った。
「それは困りますね。僕の立場がない」
「立場は、春風です。誰にも冷たくしない」
「いいことを言う。……土方さんに聞かせたい」
「土方さんは、聞きません。聞かなくても、知っています」
「それも困りますね」
春風の笑みで話は終わった。
夕暮れ、土方はまた新しい紙を静に渡した。角に、小さな印。
「“何もない”印だ。上からの“見えない査問”は近い」
「はい」
「おまえの番かもしれん」
「はい」
「準備しろ」
「いつも“前”で」
蓮が側に来て、紙を覗く。
「面白いな。何もないのに印」
「はい。何もないことを、わざわざ示す。厄介です」
「なら、俺らも示そう。何でもある目で、何もない顔を」
「稽古帳に書いておきます」
「やめろ、照れる」
「書きます」
「……悪い人」
「矢野さんのためだけに」
薄群青の空の下、寺の鐘が、少し遅れて耳に届いた。
音は記す。音は斬る。音は、残る。
静は半歩、前へ出た。呼吸が触れる距離。名が立ち、影が寄り、棒がしなって、夜は深くなる。
新選組は、名を持って歩き出した。
名を守るための、名のいらない足取りで。



