名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 会津の山並みは、敗戦から一年を経てもなお、焼け跡の匂いをわずかに含んでいた。山肌の楢は新葉を広げ、沢の水は澄んでいるのに、風が向きを変えるたび、煤の色が胸の奥に触れる。蓮と静は、五稜郭の白旗のあと、江差から陸へ上がり、東へ、そして南へ折れた。箱館で失ったものの数を数える代わりに、彼らは道の分岐と橋桁の腐り具合を数え、川止めの日取りを耳で覚えた。名はどこにも記されない。記されないからこそ、足は前に出る。

 小雨の朝、阿賀川の支流にかかった仮橋を渡っていると、蓮の足が、ふと止まった。川の向こうで、藁葺きの屋根の前に立つ男が、片手を掲げた。年の頃は五十に近い。額に深い皺、広い肩、しかし背はやや屈み、右脚に癖がある。蓮の脳裏に、遠い江戸の、湿った路地が一瞬たちのぼる。

「……増吉さん?」

 声を出す前に、男はもう走り出していた。右脚を引きながら、それでも若い頃のままの身のこなしで、橋のたもとまで来ると、肩で息をして、蓮の顔を覗き込む。

「蓮か。蓮じゃねえか……生きてたのか」

 増吉は、蓮が奉公に出される前、江戸・本所の紙問屋の裏手で面倒を見てくれた人だ。米びつの底の米を指先で揃え、釜の蓋を鳴らさないように閉めるやり方を教えたのも、彼だった。江戸の上野が黒い雲に呑まれたあの日、増吉は家を畳み、親類を頼って会津の外れに移ったという。蓮の口から声が抜けた。喉の奥に、長い時間が砂のように溜まっていた。

「……生きてる」

「生きてりゃ、上等だ。こっちは、死んだやつの名札ばかり増えた」

 増吉は、静の方に目をやった。白い袖口、落ち着いた立ち姿。見た目には兵の色が薄いのに、どこにも隙がない。

「そっちの方は?」

「静。俺の……相棒だ」

「はじめまして。沖田と申します。矢野さんには、だいぶ助けていただいております」

 静の声は淡々としているが、増吉の肩の力を少し抜くやわらかさを持っている。丁寧すぎない、しかし礼を欠かない——町の呼吸を知る言葉だ。増吉は、安堵か警戒か判じ難い息を吐いて、蓮の手首をぐっと握った。

「うちに来い。飯を食ってけ。女房も、蓮のことはよう覚えてる」

 蓮は静と目を合わせた。静は頷くだけだった。頷きは、行ってこいの合図だ。蓮は増吉の背に続き、あぜ道を歩いた。田は戻りつつある。だが畦には、焼けて丸くなった瓦や、割れた茶碗がまだ埋もれている。白虎隊の少年たちが飯盛山で誤って自刃した、その話はこの辺りの風に染み付いていた。誰もが知っている。誰もが、声を落として語る。城の白が煙に閉ざされるのを見て、終わったと判断した十六、十七の命——「ならぬことはならぬ」と唱えて育った喉が、最後には自分の血で詰まる。

 増吉の家は、茅に雨が沁みて黒ずんでいるが、縁側は拭き清められていた。土間に干された芋が、雨の気配を吸って重くなっている。奥から出てきた女房は、蓮の顔を見た瞬間、手で口を覆い、目を潤ませた。

「蓮坊……」

 女房の「坊」は、遠い江戸を一瞬連れ戻した。蓮は縁側に正座し、湯気の立つ味噌汁をゆっくり口に運んだ。塩気は薄い。薄いのに、身体の奥がほどける。静は味噌汁を両手で受け、会釈して口にした。その静けさが、台所の音を一つ一つ鮮やかにする。包丁の刃がまな板に触れる音、土間の水桶の水面がかすかに揺れる音、火の粉が灰の下で移動する音。戦場では聞こえない音が、ここにある。

「蓮。ここに残れ」

 増吉は不意に言った。箸の先で味噌を落としながら、目は蓮から離さない。

「おめえが剣を振るうたびに、誰かが死ぬ。江戸でも京でも、どこでもそうだったんだろう。もう、やめろ。ここで畑をやれ。食うもんは、どうにかなる。人は、死んだやつの名で腹を膨らませることはできねえんだ」

 静かな言葉ほど、刃の重さを持つ。蓮は箸を置いた。増吉の言うことは正しい。正しいから、反発ができない。箱館の海で、名のある艦が音を立てて沈むのを、何もできずに見たこと。一本木の坂で、土方の身体が土に沈むのを、ただ抱えて藁に隠したこと。名は紙に書かれるが、体温は紙に移らない。残るのは、自分の掌の温度だけだ。

「静……」

「はい、矢野さん」

「俺、ここに……」

「残るなら、それも矢野さんの自由です」

 静は遮らない。遮らないのに、道を用意する声だ。増吉は静を見た。静の眼は冷たくはない。ただ、濁りのない水のように、底まで見通せない。

「だが、私は北へ行きます」

 静は増吉に向き直り、丁寧に頭を下げた。

「光は、まだどこかで息をしています。名前としてではなく、呼吸として。影は、その呼吸のあとを歩きます」

「光ってのは、近藤や土方のことか」

「そうとも言えますし、違うとも言えます。——“組”という呼吸です」

 増吉は笑った。乾いた笑いではない。畑に雨が戻るときの、土の低い笑いに似ている。

「やっぱり、おめえらは、俺とは違う場所で生きてるんだな」

 夕刻、村の外れの祠に向かう道で、蓮は足を止めた。祠の脇に、土を盛った小さな丘がある。松の枝が上から覆い、雨のしずくが葉の尖で震えている。増吉が、軽く帽子を取って、片膝をついた。

「ここに、白虎のひとりが眠ってる。名前は言わねえ。言うと、どこかの役人が紙に書く。紙に書かれると、誰かがそれを持って、誰かの飯の種にする。そういう時代になっちまった」

 蓮はしばらく黙っていた。墓標に刻まれるべき名が、いまは土の中で、ただ季節とともに冷えたり暖まったりしている。その温度は、誰が覚えるのか。

「矢野さん」

「……わかってる」

 夜、増吉の家の囲炉裏で、芋と大根を煮た。味噌はさらに薄く、火は低い。静の白い袖に、灰が一つ落ちた。静はそれを払わず、灰が布に沈むのを見ていた。

「静」

「はい、矢野さん」

「俺、ここに留まったら、もしかしたら、生き延びられるのかな」

「はい。生は、続きます」

「名は?」

「残りません」

「どのみち、残らないんだよな」

「はい。——ですが、矢野さんの距離は、残ります」

「距離……」

「はい。背中との距離です。矢野さんの半歩は、俺の身体が覚えています」

 蓮は、唇を噛んだ。距離という言葉は、名よりも重い。背中の温度にしか刻めないからだ。総司の間合いが、静の身体に残っているのと同じように、静の半歩が、自分の足裏の皮に残っている。

 増吉の女房が、ふいに声を落として話した。

「会津の人らは、斗南へ移されるって話だよ」

「斗南……?」

「陸奥の北のはずれ。雪の深いところだって。藩主様も家来も、みんなそこへ行って、また一からやり直すんだと。畑も薄くて、冬は風が骨の中まで入ってくるところだと」

 斗南は、会津の新しい名だ。恭順ののち、名を取り上げられ、土地を取り上げられ、北へ押しやられる。名は残るが、場所が変わる。名は紙の上に生き延びるが、人は風の中で生き延びる。蓮は、火の上で揺れる鍋の縁を見た。湯気は、見えるのに掴めない。

「蓮」

 増吉が言う。

「おめえが行くなら、止めはしない。だが、覚えていけ。名の代わりに、誰が誰を覚えるか、それが人の世だ。役人の紙に書かれる名より、誰かの喉の奥の名の方が、長生きする」

 蓮はうなずき、静かに息を吐いた。喉の奥の名——それは、静がいつも体のどこかで呼んでいる名だ。総司、と。呼べば、痛む。痛むから、呼ぶ回数が少なくなる。少なくしても、消えない。

 翌朝、雨は上がっていた。山の斜面に薄い霧が残り、川の水面を渡ると、肌に冷たい絹をかけられたみたいに、ひやりとする。増吉は納屋から古い草鞋を出してきて、蓮に渡した。

「これを持っていけ。路の石は、人の足を覚えてない。だから、足のほうで覚えろ」

「ありがとう」

「静さん」

「はい」

「蓮を頼む」

「はい。——矢野さんは、私が預かります」

 言葉が軽くなかった。軽くない言葉は、土間の土に吸い込まれ、地面の温度と一緒に残る。蓮は増吉と女房に頭を下げ、戸口を出る。振り返ると、縁側の柱に手を置いたままの女房の目が潤んでいる。増吉はいつもの癖で、腰の紐を締め直した。日常の動作のなかで、別れを言うのが、この土地の礼儀だ。

 村はずれまで来たとき、蓮は静の袖を掴んだ。

「静」

「はい、矢野さん」

「俺、行くよ。北でも南でもなく、ただ、お前の左だ」

「ありがとうございます」

「ありがととか言うなよ。ついていくだけだ」

「はい。——ついてきてください」

 山道は、昨夜の雨で柔らかく、足裏に湿りを残した。鳥の鳴き声が上から降ってくる。負けた者にも、鳥は容赦がない。容赦がないから、救いになる。誰にも偏らないものだけが、敗者の肩に均しく降る。

 峠道にかかる前、蓮は足を止めた。斜面の下で、昨夜の祠が、樹の間に小さく見える。そこに眠る名のない少年に、声をかけたくなった。だが声は出さなかった。声は、風に攫われる。攫われても良い言葉と、攫われるべきでない言葉がある。攫われては困るのは、距離のほうだ。

「矢野さん」

「なんだよ」

「ひとつだけ、言ってもいいですか」

「言え」

「矢野さんは、ここに残っても、私は忘れません。——でも、私は行きます」

 ずるい言い方だ、と蓮は思った。ずるいのに、正しい。静はいつだって、ずるいくらい正しい。正しさは、時に人の足を軽くして、時に重くする。いまは、軽くなった。蓮は軽くなった足で、石をひとつ踏み越えた。

 坂の途中で、蓮はふと気づいた。背中の温度が、昨日より少しだけ高い。増吉の家の囲炉裏の火が、まだ背中に残っているのだ。火は持ち運べないが、温度は持ち運べる。静もまた、同じ温度を背に負っているように見えた。白い袖に落ちた灰は、もう見えない。けれど、布の織り目の間に灰の粉が入り、そこにほんのわずかに重みを加えている。その重みが、袖の落ち着きを作っている。

 峠を越える頃、薄日が差した。川の上に白い糸のような光が落ち、魚影が一瞬だけ銀を返す。蓮は足を止め、そこに小石を投げた。波紋が広がり、消える。消える前に、静が目を細めた。

「きれいですね」

「お前、そんなこと言うんだな」

「はい。——矢野さんといると、言えます」

「俺のせいかよ」

「はい。——いいせいです」

 言葉に救われることがある。刃ではなく、口で受け止める救い。蓮は笑い、肩を回した。肩甲骨の間で、筋がふっとほどける。この一年、どれだけの夜、ここが固まっていたことか。固まっていれば、倒れない。だが、振り向けない。振り向けなければ、別れられない。別れができなければ、先に進めない。

 昼過ぎ、峠を下り切ったところで、道の脇に茶屋があった。暖簾は色を失っているが、柱は磨かれ、臼は欠けていない。婆が一人、囲炉裏の前で餅を返している。餅の焦げ目は、冬と夏の境の匂いだ。蓮は銭を出し、餅を二つ受け取った。ひとつを静に手渡すと、静はいつものように両手で受け、丁寧に頭を下げた。

「矢野さん」

「ん」

「この餅の味は、覚えておきます」

「なんで」

「別れの味だからです」

「まだ別れてねえよ」

「はい。——でも、別れは、いつもどこかで始まっています」

 蓮は餅を噛んだ。焼けた皮が歯にくっつく。指で剥がし、また噛む。口の中に広がる甘さは淡く、しかし確かに腹へ降りていく。腹に降りるものがあると、人は少しだけまっすぐになる。増吉の言っていたことが、今さらながら身に染みた。人は、死んだやつの名で腹を満たせない——だから、生きているやつが、互いの腹に何かを入れる。

 茶屋を出ると、道の向こうから、若い女が小走りにやって来た。腕に抱えているのは、小さな赤子だ。女の顔に見覚えはない。だが、その頬の痩せ方、目の光の強さに、会津の女の戦の記憶が宿っているのがわかった。娘子軍——二本松から会津にかけて、女たちが帯を締め直して立った話は、誇張なく語られる。土を守る者は、土と同じ色になる。

「旅の方。道は、こっちが楽です」

 女は指さした。峠の裾野を巻くように、細い新しい道がのびている。官軍が通る太い道は、追手が多い。女の目は、それを見抜いていた。蓮は礼を言い、静は深く頭を下げた。女は赤子を抱えて、また走っていった。小さな背中に、風が追いつけない。風が追いつけないものは、負けない。

 夕方、山の影が長く伸びた頃、道が二つに分かれた。北へ上り直す道と、南へ落ちる道。北は、斗南へ続く気配を持っている。南は、江戸の周りをぐるりと回って、どこかの新しい名へ繋がる。どちらも、終わりではない。終わりではないのに、どこかを終わらせなければ進めない。

「静」

「はい、矢野さん」

「俺は、ここで決める。……俺は、お前の左に行く」

「ありがとうございます」

「礼はいらねえ。うるさい」

「はい。——うるさく致しません」

 蓮がそう言ったとき、自分の声が思ったより平らであることに気づいた。平らな声は、決意の形だ。心のどこかで、増吉の言葉が背中を押している。「誰が誰を覚えるか、それが人の世だ」。覚えるということは、背中の温度を忘れないことだ。名は消えても、温度は消えない。

 夜、焚き火の前で、蓮は日記帳をひらいた。紙は湿って波打っている。江戸を出てから、何度も濡れ、何度も乾いた。筆をとり、短く書いた。

「名は残らぬ。だが、距離は残る。俺の名は、静の左にある」

 筆の先が、ぴたりと止まった。止まって、墨のしずくが紙の上で丸くなる。静が、向こうで火を見つめている。火が彼の頬を撫でる。撫でたあとで、何も残さない。けれど、温度は確かに、蓮のほうへわたってきた。

「矢野さん」

「なんだ」

「明日、峠を越えたら、川に出ます。——そこで、名前をひとつ流しましょう」

「誰の」

「総司さんの名でも、土方さんの名でも、近藤さんの名でもないです」

「じゃあ?」

「矢野さんの古い名です」

 蓮は笑った。笑って、ゆっくりと息を吐いた。古い名は、江戸の裏長屋の雨の匂いと結びついている。増吉に呼ばれた「蓮坊」。それを川に流したら、何が残るのか。名が減って、距離が濃くなる。濃くなった距離は、二人分の影をひとつに見せる。

 明け方、薄藍の空に、一番星がまだ頑張って残っていた。蓮は川辺に立ち、小さな木片に「蓮坊」と書いた。流木の欠片は軽い。軽い文字は、流れに乗って、すぐに見えなくなる。静は、手を合わせた。祈りではなく、挨拶だ。蓮も同じように手を合わせた。

「行くか、静」

「はい、矢野さん」

 川は東へ流れている。東は海だ。海はもう充分見た。だが、いずれまた、どこかの潮の匂いが、この道にも紛れ込んでくるだろう。そのとき、二人はまた距離で呼吸を合わせる。名はいらない。呼吸は、紙に書けない。書けないものだけが、敗者の体に残る。

 増吉の村へ続く道は、もう見えない。振り返れば、祠の松が一本、風に揺れているのが、かろうじてわかる。そこに眠る名のない誰かの温度が、風の温度に混ざって、背中に触れる。蓮は鈴に触れた。鳴らないはずの鈴が、胸の奥で小さく震えた。別れの音だ。別れの音は、始まりの音でもある。

 道は、南へと落ちていく。どこかで江戸の海と繋がり、どこかで新しい名の町へ紛れ込む。そのどこかで、また誰かに会い、また誰かと別れる。増吉の言葉が、耳の奥で息をしていた。「誰が誰を覚えるか」。覚えるのは、名ではない。背中の温度だ。静の左に立つたび、その温度は、確かに、濃くなる。

 歩幅は揃っている。半歩分のずれは、息の合図だ。影は長く伸び、午後の山影の上に溶けていく。溶けても残るものがある。土の匂い。雨上がりの光の弱さ。焼け残った瓦の欠片の手触り。そして、別れのたびに濃くなる距離。名残の別れは、名を残さない。名を残さない別れが、いちばん長持ちする。

 蓮は前を向いた。静の背中が、いつも通り半歩先にある。白い袖は、もう灰を吸っていない。だが、布の重みは変わらない。重みが、道の傾きを教える。傾きに合わせて、足を置く。足の下で、見えない名が静かに壊れ、見えない距離が静かに生まれる。

「静」

「はい、矢野さん」

「ありがとな」

「どういたしまして」

「うるせえ」

「はい。——うるさく致しません」

 二人は、笑った。笑いは短い。短いけれど、遠くまで届く。届いた先で、誰かが振り向かなくてもいい。振り向かない背中の温度に、笑いの温度が、わずかに混ざるだけでいい。

 名残の別れは、風の中でほどけ、土の中で固まり、やがて、次の道の端で、小さな石になる。靴裏でその石を感じるたび、蓮は思い出すだろう。江戸の雨、会津の霧、箱館の潮、そして、増吉の薄い味噌の温度。全部まとめて一つの距離になり、静の左に宿る。名は要らない。名は、墓にだけ残せばいい。生きているあいだは、距離で十分だ。

 峠の下に、また川が光った。蓮は肩の力を抜き、半歩踏み出した。背中に、静の呼吸。前に、風の匂い。名のない道が、二人の足音で、今日も少しだけ固くなる。