名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 松川の水が灰色の雲を映して重く流れ、田の畦に立つ案山子の藁は湿って肩を落としていた。会津を背にした列は、仙台へ向けて北東に折れる。稲刈りを終えたばかりの土は柔らかく、足跡はすぐに沈む。沈んだ跡に水が滲み、跡そのものがたちまち形を失っていく。名も、同じだと蓮は思った。踏んだはずなのに、すぐに滲んで形をなくす。形のないものを確かめるには、背中の距離しかない。

「静、海の匂いが混じった」

「はい、矢野さん。——風が変わりました。塩の細い筋が入っています」

 榎本武揚の艦隊が仙台沖に集結しているという話は、北へ行くほど具体になった。開陽丸、蟠龍丸、千代田形、回天丸、蟠龍、長鯨、咸臨丸……江戸から連れ出された名のある船。紙の上の名だけではなく、鉄のボルトと帆柱の撓りで呼吸する船の名だ。その名にすがるように、旧幕の人々は陸から海へ移ろうとしている。陸で敗けたなら海へ。海がだめなら北へ。北が尽きれば、もう行くところはない——行き場が尽きる前に、呼吸を運べるだけ運ぶ。

 仙台に入る直前、道端の茶屋で粗末な握り飯を分けてもらった。婆がひとつ、柳行李から出すたびに、蓮は「すまない」と言い、婆は「いいのさ」と首を振った。「誰が勝ちでも負けでも、お天道様は上におる。お天道様は腹を満たしてくれやしないが、腹を満たした者には照りやすい」。妙な言い方だが、胸の骨に残った。

 仙台の港の外れで、黒い煙が低くたなびいているのが見えた。汽缶にくべられる石炭の匂いは、江戸の煤とは違う。湿りが少なく、鋭い。舟手の号令が短く飛び、綱を引く手が柁の音に合わせて動く。海の仕事は、陸のそれよりも声が近い。声が近いのに、誰の名も呼ばない。帆と風と潮の名しか呼ばない。

「土方さん」

 蓮は、桟橋の板の隙間から透ける海の黒を見ながら呼びかけた。土方は短い返事をして、視線だけを動かす。彼の頬は削げ、眼の底はさらに深くなっている。近藤の斬首、総司の死、白河から会津への敗走——重ねられた重さが、骨に直接刻まれていた。

「蝦夷へ出ます。——ここで肺を変える」

「肺、ですか」

「陸の肺はもう砂を吸い過ぎた。海の肺は風で洗える」

 比喩は珍しかった。珍しいから、なお胸に刺さる。土方がそう言ったのは、自分自身に言い聞かせているのでもあったのだろう。陸で呼吸が詰まるたび、彼は言葉を薄くして歩いてきた。海では、少しだけ、言葉が増えるのかもしれない。

 その夜、榎本が甲板に立って演説をした。「我らは北州に王政の余光を保ち、やがて形を整えて恭順す。いま恭順すれば臍を噛む。まずは蝦夷に行く」。言い回しは奇妙に堂々として、海風に散り、空に穴のような静けさを残した。将、というものは不思議だ。誰かが言葉を立てると、沈みかけた板も少し浮く。

 蓮と静は、蟠龍丸に乗ることになった。開陽丸は艦隊の花形で、榎本自身が旗艦とした。土方は各艦を渡り歩く役を与えられ、甲板の上でも地図を離さない。夜、艦灯の油が風に揺れ、海が黒い腹を見せてうねる。蓮は甲板の鎖に背を預け、遠くに見える北斗の星の位置で、自分の内側の鈴の位置を確かめた。鳴らない音を鳴らす術を、海でも失わないために。

「静、海は嫌だ」

「はい。——足場のない場所は、影が薄くなります」

「薄くなると、消えちまう気がする」

「消えません。——光がないと、影はただの気温になります」

「気温?」

「はい。背中の温度です。矢野さんが左にいる温度。あれが消えたら困ります」

 そんなふうに笑わせるのが、静のやり方だった。淡々と、人の言葉の皮に爪を立て、裏側の温度に触れる。蓮は鼻で笑い、自分の肩を小突いた。骨が痩せた。痩せた骨に、海風は容赦がない。

 蝦夷の海が白く荒れたのは、箱館が視界に入る少し前だった。旧暦十月、冬の入り口の海は、陸の感覚では測れない角度で波を立てる。開陽丸は巨躯を翻し、碇を下ろす前に暗礁に腹を打ち付けた。夜明け、風はさらに強く、艦は身を軋ませて傾いた。艦に積み込まれていた大砲・弾薬・資材——新政府に対抗する最後の歯車——が、海に溶けていく音がした。蓮は蟠龍の甲板から、それを見ていた。見ているしかなかった。助けようとした小舟はひっくり返り、冷たい水が人の声を奪った。名を呼ぶ暇はない。名は、波に飲まれる。名に重さがないことを、海は容赦なく教える。

「静、駄目だ」

「はい、矢野さん」

「目の前で沈むのに、何もできない」

「できることを、下でやります。——陸へ上がったら、息を束ねます」

 開陽丸は結局、江差の沖で座礁したまま壊れた。箱館の港は重い沈黙に包まれたが、榎本は表向き顔色を変えず、「まだ船はある」と言った。咸臨丸、蟠龍丸、千代田形、回天丸、長鯨、神速丸——数は減っても、まだ艦隊だ。海が半分を奪っても、陸が半分を返す。箱館の西、星形の砦——五稜郭が目を開けて待っていた。

 五稜郭の土塁に初めて立ったとき、蓮はやや呆然とした。星の角が空に突き出し、規則正しい稜線の内側に、草の光と風の走りが渦のように回っている。江戸の城とも、京の土塁とも違う形。西洋の理が、北の風にそのまま置かれている。稜堡の先端には砲座が据えられ、斜堤には射線の隙間を殺す溝が刻まれている。合理という名の刃だ。蓮は掌で土を掬った。土は知っている。人の理屈が変わっても、土は人の足の重さしか記憶しない。

 榎本は五稜郭を拠点に「蝦夷共和国」を標榜した。政体書の文言はしゃれていて、役職には仰々しい漢字が並ぶ。総裁に榎本、陸軍奉行に大鳥圭介、海軍奉行に荒井郁之助——土方歳三には「陸軍奉行並・従軍」と記された。共和国という言葉が、雪の降る前の空に少し浮いて見えた。浮いているのに、皆それを口にした。口にすることで、心の冷えを一時的に忘れたかったのだ。

 冬は早かった。函館山の木々は黒く痩せ、港の水は鉛色に沈んだ。砲座に積んだ薪が湿り、銃の油は固くなる。兵の頬は凍え、寝返りのたびに毛布が軋む音がやけに大きい。物資は足りず、北海道の大地は獣の足と風の唸りの音ばかり多い。それでも、五稜郭の中では朝夕の号令が響いた。号令の最後尾に、いつも静の短い声があった。

「矢野さん、半歩」

 半歩。雪の上でも半歩。雪は足音を隠す。隠すせいで、半歩の調子だけが頼りになる。蓮は息の白さで距離を測った。息が重なれば近い。重ならなければ、空が割れる。

 翌年——明治に元号が改められた年の春——新政府の艦隊が北の海に現れた。装いは新しい。旗は鮮やか。なにより、石をも斬るかのような黒い船が一艘、他を従えていた。甲鉄——旧米国のストーンウォール号、鉄板で肌を覆い、艦首に鉄の衝角を持ち、舷側にはガトリング砲を備える。甲板の上の輝きは、銃でも刀でもない別種の「時代」の光だ。

 大鳥は相談の末、奇襲を選んだ。宮古湾。甲鉄が停泊する湾に、回天・蝙蝠・叢雲——寄せ集めの船に旧幕の旗を掲げ、旗舫の気配で騙し寄る。甲鉄を奪う、それが唯一の逆転だった。四月、春の端の風がまだ冷たい朝、蝦夷の船は南へ走った。蓮と静は回天丸の甲板にいた。土方も、その艦に乗る。艦橋の影で、彼は一度だけ目を閉じた。

「静」

「はい、土方さん」

「乗り込めるか」

「乗り込めても、守るのは難しいです」

「分かっている」

 言葉はそれだけだった。宮古湾の入り口は穏やかに見えたが、潮は思いのほか速い。湾内に入った瞬間、甲鉄の舷側のガトリングが咆哮した。金属の雨が甲板に降り、飛沫が白い花になって散る。甲鉄の舳先はわずかに向きを変え、回天の側面を舐めるように接近した。板が軋み、艦と艦が噛み合う。土方が立ち上がり、剣を握ったところで、蓮の耳は音を失った。視界は白い線の束に満ち、線の先に血が跳ね、また線が走る。板の隙間から、冷たい海が顔を出す。乗り込んだ者が次々に海へ押し戻され、甲板に手をかけた指ごと弾き飛ばされる。甲鉄の舷側に据え付けられた手回しの銃——ガトリング——は、名を呼ぶ暇を与えない。

「静!」

 蓮が叫んだとき、静はすでに土方の肩を引いていた。一歩遅れれば、金属の雨に肩口を持っていかれる。引かれた土方が舳先の外へ身を翻し、濡れた甲板を滑るように退いた。退いた先で、土方は荒く息を吐く。吐いた息が白い。生きている。それだけで、ひどく重い。

 奇襲は失敗した。宮古の海は甲鉄の轟音だけを残して静まり、回天と他の艦は、欠けた帆を引きずって北へ戻らざるを得なかった。戻る甲板で、蓮は拳を握りすぎて指を切った。切れた皮膚からの血は、海の塩で火がついたように痛い。痛みは怒りに似ていた。怒りは、寒さに弱い。

「静……」

「はい、矢野さん」

「俺たちは、もう刀でどうにもならないところに来たんだな」

「はい。——けれど、刀が通る場所も残ります」

「どこに」

「陸の曲がり角に」

 陸に戻れば、角は多い。箱館の町は坂が多く、角も多い。角ごとに風向きが違う。違う風に、同じ呼吸を合わせる術がいる。五月、雪解けの水が石段の隙間を流れ、やがて草の根へ消える頃、新政府軍は松前から上陸し、道南の要所を次々と押さえた。江差から松前へ、乙部、熊石、八雲……海から陸へ、黒い旗の先が刺さるたびに、陸の色が変わった。

 土方は箱館湾口の要地、弁天台場と千代ヶ岡台場の間を繋ぐように動いた。騎兵を率い、一本木に設けた関門の守りを厚くし、時に城下の裏手を通って敵の横腹を突く。蓮と静は、そのたびに道を掃除した。掃除と言っても、箒を持つわけではない。小さな罠を外し、石の位置を変え、家々の裏木戸の閂の固さを確かめ、退く時に迷わぬよう印をつける。戦らしいことを何一つしないのに、死ぬときは一瞬だった。角を誤れば、弾が来る。

 五月十一日の朝、箱館の空は薄く晴れていた。蝦夷の春の青は冷たい。一本木関門——城下から弁天台場へ至る要の路に設けられた柵の前で、土方は馬に跨がり、手勢に指示を飛ばした。敵は坂の下から上がってくる。坂の中腹で受け、引きつけてから横へ散る。散り方は稽古のとおり。稽古のとおりに散れれば、生き延びる。稽古のとおりに散れないのは、恐怖のせいだ。恐怖は稽古に出ない。

「静、左を見ろ」

「はい」

 蓮は土塀の影に身体を貼りつけ、射線の隙間を読む。風は海から。潮の匂いは薄い。銃の油の匂いが強い。嗅ぎ慣れた死の匂い。嫌いになった匂いだ。弾が土を跳ね、木屑が頬を掠める。その向こうで、土方の声が短く飛ぶ。「いま」。声に合わせて、蓮は踏み出し、二人目の影の脇腹を柄で打ち、静は先の影の手首を斬った。斬った手が銃を離し、銃が石に鳴り、音が一瞬途切れる。その途切れの間に、馬の蹄が坂の土を蹴り上げた。

 土方は馬上で振り返り、手で一度だけ合図をした。退き目。退きながら、後ろを見せない構え。蓮は頷きかけ——その瞬間だった。耳に届いたのは、いつもの乾いた破裂音ではない。少し長く、胃の底を押すような重い音。坂の下手、松の幹の陰から、どこかの新式の砲が口を開いたのだ。土の粒が空を飛び、馬が大きく仰け反った。土方の身体が鞍から浮き、背が白く光を掠め、そのまま地面に落ちる。

「……土方さん!」

 声は自分のものかどうか分からなかった。蓮は走った。静も走る。弾が追いかけてくる。追いかける弾の音は、耳ではなく背中で聞く。背中で聞いて、身体を半身に捻る。その半身が、半歩を守る。土方の胸は動いていた。上唇に血が滲む。目は開いている。開いているのに、焦点が定まらない。蓮が膝をつき、肩を支えると、土方は蓮と静の顔の間を、ゆっくり行き来する視線を置いた。

「静」

「はい、土方さん」

「……北へ行ける者は、もういない。——いけ」

 声はかすれていた。言葉は短く、重い。静は頷き、土方の手を握った。土方の指はまだ硬い。硬い指で、静の親指を一度だけ押す。それが合図だった。蓮はその場にいたすべての時間を、胸の鈴の中に押し込めた。押し込めて、音が出ないようにした。音が出ると、何かがほどける。

 関門の柵の向こうから、敵の声が近づいた。耳馴染みのない号令。強い。強いというより、慣れている。勝つことに慣れている声。勝ちの声は、人を傷つける。蓮は静を見た。静は頷いた。頷きは「いま」だった。蓮は土方の身体を土塀の陰へ引きずり、藁束を崩して上に掛けた。藁の匂いが、土方の匂いを隠す。隠すことが、いま出来る一番の誠だった。

「土方さん、行きます」

「うむ」

 土方の目が、わずかに笑った気がした。笑う目ではないのに、笑いの形を一瞬だけ持った。静は土方の額に手を当て、短く言った。

「ありがとうございました」

「……静」

「はい」

「お前は、影でいい」

「はい」

 そのやり取りだけが、蓮の耳にいつまでも残った。残って、腐らず、冷えもしない温度でそこにある。蓮は立ち上がり、銃の線の間を縫って、一本木の坂を後ろへ外れた。静が半歩前を走る。半歩の距離は、刀ではなく足で守る距離だ。守れなくなる日が来るかもしれない。その日まで、守る。

 箱館の戦はそこから一気に傾いた。弁天台場は孤立し、千代ヶ岡台場は砲火に沈み、五稜郭は稜堡の角を次々と削られていった。海上では新政府艦隊が輪形陣を組み、陸では山腹からの砲撃が途切れない。榎本は降伏の道を探り、大鳥は最期まで兵をまとめようとした。名のある人々の決断が、次々に「終わり」の文字を選ぶ。選ぶたびに、蓮の胸の内の鈴はかすかに震えた。震えは恐怖ではない。終わらせることへの同意の震えだ。

 五月の末、城下のとある裏長屋の一室で、蓮と静は夜を明かした。窓は紙を剥がされ、板が打ち付けられている。板の隙間から、潮の匂いと、遠い砲声が入ってくる。静は刀を膝に置いたまま、背を壁に預け、目を閉じた。眠っているようで、眠っていない。眠っていないようで、身体は休んでいる。影が身につけた術だ。

「静」

「はい、矢野さん」

「俺は、名も残らないまま、ここで終わるかもしれない」

「はい」

「それでも、お前の左にいたいと思うのは、なんでだろうな」

「好きだからだと思います」

「ばか」

「はい。——影は、ばかの方が長持ちします」

 蓮は笑い、喉が熱くなった。涙が出るほどではない。涙は名のある人に似合う。名のない自分には、笑いが似合う。笑いは音を弱め、角を丸くし、夜を少しだけ薄くする。

 六月に入ると、五稜郭の内側の空気はさらに薄くなった。食糧は底を見せ、弾薬は数えられるほどに減った。榎本は亡命を口にし、大鳥は最後の突撃を唱え、土方の死はそのどちらにも重く影を落とした。影は、光の形を保つものだ。光が消えたとき、影は方向を失う。方向を失った影は、距離で自分を保つしかない。

 六月二十七日(旧暦五月十八日)、榎本は降伏した。五稜郭の稜堡に白旗が上がり、黒い鉄の船が港で音を止めた。蓮は土塁の上に立ち、海の方を見た。甲鉄が遠くに光り、その舷側にはあの日のガトリングの冷たい口が見えた。口は笑っていない。ただ水平に伸び、誰の名も呼ばない目でこちらを見ている。名を持たぬものは強い。強いものに負けた。負けて、なお息がある。

「静」

「はい、矢野さん」

「終わったな」

「はい。——終わりました」

「虚しいな」

「はい。——でも、虚しいのは、空気が入るということです」

「空気?」

「はい。——次の息の場所を探せます」

 降伏ののち、蓮と静は短い取調べを受けた。名を名乗り、どこから来て、どこへ行くつもりだったかを問われる。名を名乗るとき、蓮の声は少し震えた。震えを隠す術は、まだ持っていない。静はいつも通りの淡々とした声で、自分の名と、これまでの行き先を言った。言ったところで、紙に書かれるのはごく一部だ。紙は、名の縫い目を拾わない。

 五稜郭を出る日、蓮は土塁に手を触れた。土は冷たい。冷たいのに、手のひらの温度をゆっくり吸い取っていく。吸い取られた温度が、どこへ行くのかは分からない。分からないが、残るものがある。足の重さ。歩幅。半歩。距離。名よりも確かなもの。

「矢野さん」

「なんだ」

「江戸へ戻る術を探します。——紙には書かれませんが、道はあります」

「戻って、どうする」

「生きます。影で。——総司さんの間合いを、息の中に残したい」

「……ああ」

 港の風は夏の匂いを少し連れていた。蓮は袖を握り、静の半歩左に立った。名は残らない。残らないが、距離は残る。距離が残るなら、物語は続く。歴史は敗けた者に冷たい。冷たい歴史の行間に、半歩の温度を滑り込ませるのが、影の仕事だ。

 海の線が遠ざかる。箱館の坂の上に、一本木の方角の空が白く光り、すぐに薄れた。薄れる光を背に、蓮は鈴に触れた。鳴らない音が鳴り、誰にも聞こえない鐘が胸の奥で震えた。敗者の鐘だ。だがその鐘は、名ではなく、距離の鐘だった。

「行こう、静」

「はい、矢野さん」

 二人は歩き出した。道はどこへでもつながる。名はそこにない。名がなくても、足は前に出る。半歩。半歩。半歩——その連なりが、時代の端に細く線を引く。紙に書かれない線。だが、たしかにそこにある線。影の線。惨めで、むなしく、切ない線。だからこそ、長く残る線。