名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 街道の土はまだ冬を引きずっていた。踏めば粉を吹き、靴裏にざらつきを残す。その上を、青い羽織が細く長くつながっていく。もはや京で「壬生狼」と囁かれた頃の張りはなく、裾は煤と泥に重く、肩の縫い目は汗に塩を噴いていた。江戸を離れ、日光街道を北へ——宇都宮、今市、鉢石、杉並木、例幣使街道の分岐——山に入るごとに、言葉は短くなり、息は深くなる。

 矢野蓮は、行列の中ほどで歩いた。後ろで咳く者の息遣いと、前で鈴を鳴らさずに胸を撫でるように呼吸を刻む影の気配——沖田静の背中——を同時に聴きながら。江戸を出る朝、通りの屋台がいつも通りに湯気を立てていたことを、彼は忘れられない。上野の黒煙がまだ町のどこかに残っていたのに、汁粉の甘い匂いと、焼き魚の焦げの匂いがそれに勝っていた。町の強さは、誰かの敗北とは独立に働く。だからこそ、敗者の行列は浮いて見える。子どもが胡麻塩頭を覗き込み、石を掌で転がしてから、やめて走り去る。大人は目を合わせない。目を合わせないことが、江戸の礼儀だ。

 列の先頭に土方歳三がいた。黒い羽織の裾は乱れない。乱れないまま、彼はたまに振り返る。そのたびに、行列の呼吸が揃う。揃わない呼吸では、山は越えられない。土方は言葉を惜しみ、代わりに地図に墨を足す。墨の線は、宇都宮、日光、そして会津若松へと伸び、さらにその先、仙台の港の上で揺らいで止まる。江戸から海へは戻れない。海は、別の道で手繰り寄せるものになった。

「静」

 蓮は、杉並木の根元で声を落とす。昼なのに薄暗い。杉の幹は太く、幾世代もの祈りを吸って立つ。幹を撫でる手は、どの時代も同じ温度で、同じ汗の塩を持っているのだと思う。

「はい、矢野さん」

「なんでお前は、何も感じないみたいに歩けるんだ」

「感じておりますよ。ただ、刃に乗せないんです」

「人間じゃねえな」

「人の形はしておりますが」

 歩幅は寸分違わず、半歩前に白い気配。静の返事は乾いている。だが蓮は、その乾きの下に薄い湿りを感じていた。湿りは、江戸を出る前夜に届いた紙片のせいだ。ひとつは板橋の処刑場から。近藤勇——新選組の名そのもの——が、慶応四年四月二十五日、板橋平尾宿で斬られた。罪状は「流山落城後の囚虜」。名を名乗らず「大久保剛」と称したが、名は人を裏切らない。名は、最後に所有者を指し示す。もうひとつは、少し遅れて、江戸の千住小塚原から。沖田総司、五月三十日、労咳で——静はその紙片を誰よりも長く見つめ、誰の前でも泣かなかった。泣かないことに、自分の呼吸をつないだ。

 宇都宮の手前で、列は一度だけ陽の下に出た。稲荷の赤い鳥居が苔の石に立ち、そこをくぐって行き来する農婦の籠に、青菜の葉がはみ出している。蕪の白が清らかだ。農婦は行列をちらと見て、籠を持ち直し、何も言わずに頭を下げた。言葉を持たない礼が、胸に刺さる。

 宇都宮は戦の痕をまだ体に残していた。旧幕の奪還、新政府の再奪取——四月、五月の押し引きが、土蔵の壁に焼け跡を残し、城郭の石の角を欠けさせている。城下に入ると、行列の足は早くなった。足が早くなるのは、銃の音が近いからだ。官軍の散兵は森の影で息を凝らし、洋銃の口を黒くこちらに向ける。火縄の匂いはない。火は乾いていて、音は軽い。軽い音に、重い死がついて回る。

「矢野さん、三つ」

 静の声が短く落ちる。三つ——三丁。木立の間に三つの口。蓮は腰を落とし、土の湿りを膝で受け、鈴の音を鳴らさないまま胸の奥で転がした。音が鳴らないことが、今は救いだ。鳴りもしない音に身を合わせ、土の欠片が頬に当たるのを待つ。ぱしん、ぱしん、ぱしん——三つの乾き。次の瞬間、静の刃が低く白い弧を描き、二つ目の口の手首を割る。蓮は前に二歩、柄で喉を打ち、三つ目の影の顎を外す。倒れた影の口から、京で聞いたことのない言葉が漏れる。「まけぬど」。薩摩の骨が混じった言葉は、関東の土の上で少し浮く。

 宇都宮を抜け、今市の宿をかすめ、山に入る。杉並木は、世界の音を少しだけ遮る。遮られると、呼吸が自分のものに戻る。蓮はそこが好きだ。道の端に腰掛け、草鞋の緒を締め直すふりをして、鼻から長く息を吐いた。

「静」

「はい」

「俺たちは、まだ戦ってるのかな」

「はい。——息を運ぶ戦を」

「刀で?」

「いいえ。刀も使いますが、道が主です」

 道。道は誰のものでもない。名のある者が札を立て、通行手形を印す。だが、道の土は名前を知らない。足の重みだけを記憶する。京で見た道、江戸で踏んだ道、そのどちらとも違う湿りを、今の道は持っている。北へ、北へ。

 会津若松の城下に入ると、町は既に籠城の準備に入っていた。鶴ヶ城の白壁は雨に少し黒ずみ、堀の水は灰を溶かして重くなっている。武家屋敷の軒先に「什」の札が並び、子どもたちは朝夕に「ならぬことはならぬものです」と唱和する。その声の高さが、蓮の胸を締め付けた。声の高さは、命の短さを思い出させる。江戸からの密報で、白虎隊が編成されたと聞いた。十六、十七の少年が槍を持ち、黒い陣笠の紐を自分で結ぶ。結び目は固いが、指の皮は薄い。

 城下の一隅に、新選組のための小さな詰所が設けられた。土方はそこで地図を広げ、会津藩士と短く言葉を交わす。ここでは、土方の声にもわずかに敬意の色が混じる。彼が運ぶのは「江戸の武」の残り火であり、それは会津にとって、まだ捨てられない熱だ。

 夜、蓮と静は堀の外の土塁に登り、町の灯を見下ろした。油の匂い。包帯を裂く布の音。遠くで揺れる太鼓の皮の震え。京の音とも江戸の音とも違う、奥の方から低く鳴る音。米を研ぐ音さえ重い。

「矢野さん」

「なんだよ」

「ここで、斎藤さんは別れます」

「……そうか」

 翌朝、斎藤一——この地では藤田五郎と名乗る——が土方の前に坐った。正座の膝は少し痩せている。剣の冴えはそのままだが、眼の奥に「ここに骨を置く」という硬さが宿っている。土方はその目を見て、頷いた。

「会津を頼む」

「預かる。——そっちは北だ」

 短い言葉が、長く重い。斎藤は静の前に来て、わずかに笑った。

「影は、会津にも必要だ」

「はい。——影はどこにでも生えます」

「蓮」

 名を呼ばれて、蓮は立ち上がる。

「お前の半歩は、沖田の影から盗んだ。あいつの間合いは、ここでは届かないが、届かない間合いを覚えている背中は届く。——背を向けるな」

「向けない。……向けないよ」

 言い終えて初めて、蓮は自分の声が震えていることに気づいた。震えは恥ではない。震えは、呼吸だ。

 母成峠に火がかかったのは、その数日後だった。霧の濃い朝、官軍の砲は山の腹を打ち、旧式の砲座は泥に沈んだ。会津兵は足を取られ、旗は倒れ、叫びは霧に吸われる。蓮は峠の脇道から駆け上がり、倒れた兵の腕を引いた。腕は若い。傷は浅い。浅い傷でも、霧の中では深く見える。静は背後で銃口の向きを読んでいた。読んだ向きに、刃の白が短く走る。

 峠を越えた火は戸ノ口原へ走り、その日、少年たちが白虎の名で駆け、やがて飯盛山の上で煙に誤解を見る——その一連の悲劇は、城下の地鳴りのような噂として蓮の耳に届いた。真偽を確かめる余裕はない。だが、城の天守の白が夕焼けに黒ずんで見えた日、蓮は堀の水に映った自分の顔を見て、少年の時に終わらせられなかった何かが、いま終わりつつあるのだと知った。

 籠城の段に入ってからも、静と蓮の仕事は変わらない。火の向きを読む。息の道を確保する。城内の井戸を数え、枯れやすいものに印をつけ、女たちの並ぶ釜の前で水の分け方を調整する。表の槍と銃の間に隠れて、裏の綱を張る。名の残らない力が、城の石の隙間をつないでいく。

 夜、詰所に短い紙片が届いた。江戸からの遅い便り。沖田総司が「植木屋平五郎方」で六月には息を引き取り、墓は回向院の近くにあると。紙片は薄く、文字は震えていた。書いた者が、指を拭かなかったのだろう。墨が所々にじんでいる。

 静は紙を受け取り、真っ直ぐ見つめ、畳の上に置いた。置いた指が、ほんの少しだけ、畳の目を撫でる。蓮は口を開きかけて、閉じた。何を言っても、言葉は光を奪う。いま必要なのは、影だ。

「静」

「はい」

「お前の光が、消えた」

「消えていません。——間合いに残っています」

「間合いに?」

「はい。総司さんの半足の寄り、刃の寝かせ、呼吸の置き場。——全部、体が覚えています」

「それ、つらくないか」

「痛いです。……けれど、刃の痛みは、使うほど鈍ります」

 鈍る——その言葉に、蓮の胸は反発した。鈍らせたくない。痛みが消えたら、総司の名が薄くなる気がした。

「鈍らせるな」

「鈍らせません。——柔らげます」

 柔らげる。柔らぐ痛みは、呼吸に変わる。呼吸は名ではない。だから、消えない。蓮は胸の鈴に触れ、鳴らさずに、総司の名を一度だけ心の内で言った。

 九月の風が冷え、城の石が夜に汗をかくようになったころ、土方は詰所で紙片を机に並べ、静と蓮に向かって言った。

「ここで、俺は北へ抜ける。仙台で榎本と合う。艦隊を北へ上げ、蝦夷へ渡る。ここは……」

「藤田さんが守ります」

 静が言い、その声は落ち着いていた。落ち着いた声は、胸の奥でよく響く。土方は頷き、蓮を見た。

「お前はどうする」

「静の左だ」

 ためらいはなかった。ためらいは、江戸の橋の上に置いてきた。板橋の朝の、冷たい空気の下に置いてきた。蓮はもう拾いに戻らない。

 会津は長く持たなかった。九月二十二日、開城。藩主松平容保が自ら恭順を述べ、兵は武具を堀に積み、城の白は、ただの白になった。城の白がただの白になっても、城下の息は止まらない。台所の囲炉裏には火が残り、糠味噌の壺は酸っぱく息をつき、子は新しい「ならぬこと」を覚え直す。

 開城の朝、蓮と静は城外の田の端に立った。風が稲の穂を撫で、露が袖に移った。山の向こうで、別の旗が翻る音がした。仙台の港に、榎本武揚の艦隊が帆を張る音かもしれない。開陽、蟠龍、千代田形——名を呼ばれる船。その名はまだ海の上で生きている。

「矢野さん」

「ああ」

「ここから先は、海です」

「海は嫌いだ」

「陸の影は、海でも伸びます。——波は、踏む場所が変わるだけです」

「溺れないか」

「溺れないように、半歩で行きます」

 返事を聞いて、蓮は笑った。乾いた笑いだったが、笑いは笑いだ。笑えることが、ただひとつの勝ちに見えた。

「静」

「はい、矢野さん」

「俺は名を捨てた。でも、半歩は捨てない。お前の左、俺の名はそこだ」

「はい。——矢野さんの名は、距離です」

 距離。名より確かで、紙より長持ちする。距離は、背中にしか刻めない。蓮は刀の柄の汗を拭い、草鞋の緒を締め直し、北を見た。胸の鈴は鳴らない。鳴らない音が、いちばん遠くへ届く。

 仙台への道は遠い。山をひとつ越え、川をいくつも渡り、転げるように海へ落ちていく。そのすべてに、名のない足跡が重なる。史書はその足跡を「敗走」と書く。敗走——正しい。正しいが、足は前へ出ている。前へ出る足を、蓮は誇りたかった。誰にも言わず、胸の内だけで。

 行列が再び動きだす。土方の背は細く、静の背は白く、蓮の背はその白の左で影を濃くする。山が近づき、海が遠のき、また近づく。世界は広い。名は狭い。影は、その狭さの外を歩く。歩きながら、蓮は思う。——俺は、まだ生きている。名も紙もないが、背中に、距離がある。

 北行の道は、ただ一本ではなかった。敗軍の列は幾筋にも分かれ、野や町や海沿いの道をそれぞれに辿る。だが、静と蓮の半歩は、どこにあっても半歩だった。半歩が折れなければ、次の一歩は自ずと出る。その当たり前を、蓮は北の空の重さの下で学び直していた。

 杉並木の陰で見送ってくれた稲荷の狐は、もう見えない。代わりに、霞ヶ浦から吹く湿った風が、衣の裾を重くする。重みは、落ち着きに似ている。落ち着きは、名を要らなくする。名を要らなくしたとき、人は意外なほどよく歩ける。闇でも霧でも、半歩を忘れなければ。

 土方の声が、前方で短く飛ぶ。合図だ。行列は少し速くなる。蓮は静の肩甲骨の動きでその速さを測り、自分の半歩を合わせる。距離が、名を超える。名が消えた世界で、たしかなものがひとつだけ残る。——背中の手触り。刃の冷たさ。呼吸の温度。北行の道は、それらを積み重ねて伸びていく。

 雲が低い。海が近い。風が変わる。榎本の旗が視界に入るのは、もう少し先だ。その時、自分は何を見るのだろう。名のない勝ちか、名のない負けか。どちらでもいい。半歩が守れれば。

 蓮は一度だけ、江戸の空を思い出した。板橋の朝、浅草の湯気、上野の黒煙。そこに置いてきた悔しさや怒りは、もう自分の足を縛らない。縛るのは、約束だけだ。静の左に立つという約束。影として、名を持たず、しかし距離を名とする生き方。その約束が、北の空の重みを軽くする。軽くなった足で、蓮はまた、半歩踏み出した。