名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 白河の関を越えると、空の色が変わった。低く垂れた雲は鉛の縁をもち、稲の苗を撫でる風は湿りを増している。街道脇の石に刻まれた歌は古く、苔むした文字はところどころ剥げていたが、「都をば霞とともに立ちしかど…」の調べが耳の底でかすかに起居する。都を離れた霞は、今や鉄と火薬の煙に置き換わって北へ流れている。

 宇都宮から日光を抜け、那須をかすめ、旧白河城の城下へ降りたころには、街道の両脇に積まれた土嚢が古び、ところどころに燃え残りの炭が固く黒くなっていた。慶応四年(新暦一八六八年)五月、白河口はすでに幾度も奪い合われ、板垣退助の先鋒が据えた砲座は、会津方の夜襲で崩れ、再び官軍の砲で築き直され——その繰り返しが土の層に皺を刻んでいる。町家の戸口には葵紋の札と新政府の錦旗の紙が、矛盾した隣人のように並んで貼られ、風にへたり、しわんでいた。

 土方は陣笠の紐をいじりながら、城下の北側に小さな陣地を設け、口数少なく、しかし手はよく動いた。桑名の落ち武者、旧幕の歩兵、会津の先遣、それに新選組の生き残り——名も身分も入り混じった小隊は、土の匂いで一つに束ねるしかない。銃は官軍ほど揃わない。会津が大切に守ってきた八門の旧砲は、いまだ近代の息を知らず、火縄の湿りに気を揉むしかない。だが山の道を知る足と、風の向きを読む肩は、まだこちらに残っている。

「静、俺たちはこの先、どこに息を置けばいい」

 白河口を眺める小丘の上で蓮が問うと、静は草の穂を撫でて、いつもよりさらに低い声で答えた。

「会津若松の城下です、矢野さん。——あそこは音の根っこが深い」

 音の根っこ。蓮はその言い方が好きだった。音が立つ町は、刃の音に負けない。会津では、子どもが朝に什の掟を唱え、女が糸を繰り、男が鍬を研ぐ。その律が、城の石垣と同じくらい町を守ってきたという。そこへ息を運ぶ——静はそう言いたいのだ。

 白河城下の小競り合いは、不意に始まり、不意に終わる。薩摩と長州の散兵は、新式のミニエー銃を肩に当て、乾いた音で風を裂き、土を跳ね飛ばす。こちらは、火縄の火を背で庇い、雨から煙を守り、少しずつ近づいて、間合いで奪うほかない。蓮は柄で喉を打ち、手首を切り、致命を避けて時間を稼いだ。致命を避けることが、最も多くの命を救う場面がある——それを体で覚えさせられたのは、京でも江戸でも同じだ。

「矢野さん」

 静の声が、蓮の右肩から滑る。合図だ。前方の土塀の影に黒い筒口が見えた。蓮は腰を落とし、息を半拍遅らせて、土塀の左に跳ぶ。唐突な乾きが耳を打ち、土の粒が頬に刺さる。次の瞬間、静の刃が塀の上の影の手元へ白い線をひとつ引き、銃の口は空へ向いた。銃が空を狙う間に、蓮は踏み石を蹴って影の顎を柄で張り、土塀の向こうへ身を消す。

 押し引きは二日三日と続き、やがて官軍の砲声は南へ移った。東北の空気は、戦の音さえも深く吸い込み、ゆっくり吐き出す気配がある。吐き出された音が遠く会津盆地へ落ちていくのを、蓮は背中で感じながら歩いた。

 若松の城下へ入ると、町はすでに戦の準備に沈んでいた。鶴ヶ城の白壁は梅雨の湿りで重く、堀の水には灰色の空が深く映る。町家の軒では、女たちが包帯用の布を裂き、子はそれを手伝いながらも、どこかで唱え慣れた什の掟の一節を口の内で反芻している。「ならぬことはならぬものです」。そうか、と蓮は思う。ならぬものは、ならぬ。戦の理屈は、時にこの一行に負ける。

 会津藩の士気は、まだ高い——少なくとも、表向きは。奥羽越列藩同盟の締結で、東北一帯が「義」の二文字の下に束ねられたばかりだからだ。仙台、庄内、米沢……名が並ぶほどに、紙の上の気持ちは強くなる。だが紙は戦わない。戦うのは、銃と腕と、折れない心だけだ。

 その会津で、斎藤一が静かに隊から離れた。彼は名を藤田五郎と改め、会津藩の預かりとなって、城下の守りに骨を埋めることを選んだ。土方は何も言わなかった。言わない沈黙が、ふたりの間にひとつ置かれただけだ。静は正座し、深く頭を下げた。

「藤田さん。——矢野さんの半歩左は、預けます」

「預けられないさ。半歩左はお前の稽古の癖だ」

 斎藤は薄く笑い、その笑みの中に、京の日の鋭さと、今の会津の重さを同時に置いた。蓮は手をつき、額を畳に当てた。残る者と、行く者。どちらも「義」だ。どちらも「名」を捨てるのだ。捨てた先に残るのは、背中の温度だけだ。

 七月、白河口が決まりきらぬうちに、官軍は東山道からさらに押し上げ、八月の声を聞くころ、母成峠に火を掛けた。母衣(ほろ)のように広がる草の斜面に新政府の砲が口を開け、山路は一気に焼けた。会津の砲は旧式で、砲手の足は遅く、いちど陣形が崩れると立て直せない。蓮が駆け上がった時、土の匂いは生きていたが、人の目はもう死の色を撫でていた。峠を越えた火は戸ノ口原へ流れ、戸ノ口堰を濁流に変え、若松の城下へ災いの匂いを連れてくる。

 戸ノ口原の炎が会津盆地の空を赤く染めた日、蓮は堀の外、城下の端に立っていた。武家の子らが黒い陣笠をかぶり、細い槍を握って駆けるのを見た。白虎隊——十代の少年の列だ。彼らの背はまっすぐで、声は高かった。高い声は、戦の音に負けない。だが、声の高さは命の短さに似ている。短い命は、火の流れの先で折れ、たちまち伝説になる。伝説は城の石垣に刻まれるが、その石垣を叩く雨は、伝説の名を知らない。ただ冷たく、降る。

 夜が深まりかけたころ、城中から静かに息が漏れた——知らせだった。江戸からの小さな紙片が、幹部の間を渡り歩いて届いたのだ。蓮はそれを手にした土方の目の色で、内容を悟った。

「……総司さんが」

 声にならない名が、空気を震わせた。沖田総司。京の春の風のように笑い、池田屋の夜に十人分の刃の間をゆくりなくすり抜け、禁門の炎を背にしても歩幅を狂わせなかった男。江戸に残され、千住小塚原のあたり——植木屋平五郎の家で咳きつき、慶応四年五月三十日に静かに命を置いた。紙片にはそうあった。江戸の空はその日、薄曇りで、風は弱かったという。弱い風は、名の落ちる音を遠くへ運ばない。

 静は紙を受け取り、その白を長いあいだ黙って見ていた。指先は動かない。目だけが、わずかに濡れているように蓮には見えた。だが静は泣かない。泣くという行為は、名のある人間がする。影は、呼吸を整えるだけだ。

「静……」

「はい、矢野さん」

「お前の光が、いなくなった」

「いません。——背中の半歩左には、今もいます」

 うそだ、と蓮は言いかけて、言葉を飲み込んだ。うそではないのだ。静にとって、総司の背は、距離であり、呼吸であり、刃の入り角であり、風の匂いだ。名が土に還っても、技は、間合いは、身体に残る。残っている者が、それを残す。影が、光の形を保つ。それが“影”の本当の意味だと、蓮は胸の内で手を合わせた。

 母成峠の敗報は瞬く間に城下へ届き、若松の町は一挙に籠城へ傾いた。城の櫓からは白旗と黒の“會”の旗が翻り、外曲輪の門は次々に閉じられる。土嚢が積まれ、堀の水は橋の下で濁りを増す。奥方衆は奥で薬研を回し、子らは塩を運ぶ。銃と刀の世界に、塩と薬の世界が並び立つ。どちらが欠けても城は立たない。

 籠城の最中も、静と蓮の役目は変わらない。息の通り道を作り、火の向きを読む。城内の井戸を数え、井桁を補強し、火矢が落ちる可能性の高い蔵の屋根に水を打ち、蔵の中身を別の蔵へ動かす。表の戦は、男の名を飾る。裏の働きは、女と子の息を繋ぐ。蓮はそのことを知っている。知っているのに、刃を研ぐ手を止めない。止めたら、総司の技が自分の中で死ぬ気がした。

 九月に入っても降伏の談はまとまらず、城の空は低いままだった。官軍の砲は休まず、雨が上がれば火が上がり、夜が来れば静けさの代わりに銃声が山から降りてくる。誰が撃っているのか、誰を撃っているのか——夜は名を消す。名が消えた音は、人の心を削る。

 ある日、蓮は堀の外の土塁の陰で、倒れた若い兵の腕を持ち上げた。袖口に縫い付けられていたのは“什”の札。年は十七か十八、白虎隊の仲間だったのか。息はある。あるが浅い。浅い息は、風の音に飲まれる。蓮は帯を裂き、傷口を押さえ、首筋の汗を拭い、子に近いその兵の耳元で、京で教わった鈴の音の話をした——胸に鈴を一つ、鳴らさずに持つこと。息が乱れそうなとき、鈴に触れて、鳴らない音を聞くこと。兵の目が、わずかに動いた。動いた目に、かすかに光が戻る。

「矢野さん」

 静が背後で囁いた。声はいつもより柔らかい。

「はい」

「……ここで、止まります」

「止まる?」

「はい。——土方さんは北へ抜けます。榎本さんの船と合わねばなりません。ここで、会津の息を繋ぐ役は、こちらに残る者が負います」

 土方はすでに心を決めていた。奥羽越列藩同盟は紙の上で息をしているが、実際の息は風に千切れかけている。会津に残る斎藤らは、藤田五郎という新しい名で城を守り、土方は米沢から仙台へ、そして榎本武揚の艦隊と合流し、さらに北海道へ渡る。戦は終わらない。戦が終わらないことが、戦の正体だった。

「静。お前は——」

「矢野さんの半歩左です」

「俺は……悔しいよ」

「はい」

「江戸でも京でも、名は残らなかった。会津でさえ、名は残らない」

「はい」

「なのに、俺はここにいる。お前の背中の左に」

「はい。——それが矢野さんの名です」

 言いながら、静の目は城の天守の白に留まった。白い壁は雨に濡れ、灰の粉が手の中で溶けるように崩れそうだ。だが、崩れない。崩れないのは、石のせいではなく、石の下の土のせいだ。土が長いあいだ、同じ音を吸い、同じ息を吐き続けてきたからだ。

 九月二十二日(新暦十一月六日)、鶴ヶ城はついに開城した。藩主松平容保は城を出て恭順の意を表し、兵は武具を置き、町は静かになった——音が消えたのではない。音が、浅くなった。浅い音は、息の短さに似る。蓮は堀の外で、その日、城を振り返らなかった。振り返れば、名を欲しがる自分が出てくる。名を欲しがる自分は、影の足を止める。

 会津の開城の知らせは、北の空へもすぐに届いた。土方は仙台で榎本の艦隊に乗り、蝦夷地へ向かう算段を急がせていた。海の向こうに、まだ白い紙が残っている。そこなら、名のない足跡も、もう少し長く残るかもしれない。榎本は開陽丸に立ち、旧幕の旗を海風に翻させる。風は冷たいが、紙は乾いている。乾いた紙は、火がつきやすい——それでも、書くしかない物語がある。

 静と蓮は会津を離れる前夜、城下のはずれに立った。田圃の水は星を映し、風は米の穂を撫で、遠くで犬が一度吠えた。人の声はない。声がないのに、息はある。息は、土の上に広がっている。

「矢野さん」

「ああ」

「総司さんは、江戸で静かな空を見たそうです」

「うん」

「俺は、ここで静かな土を見ました」

「土か」

「はい。——土は、名より長く残ります」

 蓮は頷き、胸の鈴に触れた。鳴らない音が、体の奥で確かに震える。震えは、恐れではない。生きるための震えだ。名は落ちた。光も落ちた。だが、背中の半歩左の距離は、まだ落ちない。距離が名であり、呼吸が旗であり、歩幅が歴史の行間だ。

「行こう、静」

「はい、矢野さん」

 二人は北へ向かった。白い気配を薄く身にまといながら、灰の空の下で、影は長くも短くもなりすぎないように自分を保つ。会津の土が足裏に柔らかく沈み、次の山の硬さが遠くで待っている。榎本の帆が風を受け、開陽の舳先が北を指すころ、江戸で拾った息は海の上で細くつながり、京で失くした名は波の音にまぎれ、総司の笑みは胸の鈴の震えとして残った。

 歴史は「敗者」と書くだろう。紙はそう記す。だが蓮は知っている。敗者には呼吸がある。呼吸がある限り、物語は途切れない。名が残らぬ者の物語は、とりわけ長い。長さは、誰にも見えないところで支えられている。半歩左——それだけの距離で、世界は立っている。