上野の山が一日で沈黙した夕べ、江戸の空は薄い灰に塗られた。寛永寺黒門の破れ口から吹き出た黒煙は、谷中の墓石の背を撫で、根津の坂でほどけ、神田の屋根でやっと色を失う。火の粉は思いのほか遠くまで飛び、浅草寺の回廊を微かに焦がし、小舟町の木戸の表札に小さな穴を開けた——それでも町は燃え広がらず、江戸の一日は翌朝も続いた。井戸の釣瓶が鳴り、魚河岸の掛け声が上がり、紙を擦る音が表通りに帰ってくる。人々は「江戸は救われた」と口にした。あの一日の炎を、あの一日のうちに閉じ込められたのだと。
だが町の息が落ち着くほど、影は濃くなる。敗北は、名のある者の背中にぴったり貼り付いて、歩くたびに衣擦れの音を立てた。幕府の看板は白州で外され、新政府の印判は鮮やかすぎる朱で町奉行所に押し直される。町人は新しい札を数え、古い貸借を夜のうちに書き換える。看板は取り換えられるが、眼差しはすぐには変わらない。勝者に寄り添い、敗者を避ける——声に出さずとも、足の向きが語ることを江戸はよく知っている。
矢野蓮は、その足の向きを数えるように裏町を歩いた。上野の翌夜、柳原の裏長屋から両国の橋の下まで、湿った板目の匂いと、雨に濡れた土の匂いが混ざる一帯を、息をひそめて渡っていく。耳を澄ませば、言葉の端々に「倒幕」「官軍」「恭順」の音が混じる。どれも京で聞いた音に似ているが、江戸に響くそれはわずかに低い。京の言葉が刃なら、江戸のそれは秤だ。どちらが重いか、どちらが得か、声は絶えず測り続ける。
「静、腹が煮える」
吐き捨てるように言うと、隣の影はわずかに頷いた。沖田静は、灰色の羽織に煤を擦り付け、白の気配を消している。上野の前からずっとそうだ。白は目立つ。目立てば、噂が先に歩く。噂は影の足を絡め取る。
「矢野さん、煮えたものは火から下ろすのが早道でして」
「どうやって下ろす」
「歩くうちに冷めます。——動き続ければ、鍋底は焦げません」
「お前はいつもそれだ。人じゃないみたいに冷たい」
「人であると、刃が鈍ります。影は冷えている方が持ちがいいんです」
言いながらも、静の眼差しは町の奥を撫でるように見ていた。人の流れ、戸の開閉、路地の湿り気、寺の鐘の間合い。息を数える癖は、京の夜から変わらない。変わらないものがひとつあると、人は歩き続けられる。
その夜のうちに、土方歳三が残った隊士を密かに集めた。場所は本所の裏、用心深い名主の蔵の奥だ。灯は一つ、湿気の多い部屋で、紙の地図が机に広げられる。北関東の筋——宇都宮、今市、日光口、それから会津。太い筆の線で道が引かれ、細い点で宿場が記されている。
「江戸に留まる道はない。江戸は江戸のやり方で、もう勝と西郷が終いを付けた。上野で一度だけ怒りが燃えたが、それも一日で片がついた。ここから先、名を掲げて動く者は、町の空気そのものに刃を向けることになる」
土方の声は乾いていた。乾いているのに熱い。熱は奥に渦巻いている。表に出れば火になる熱を、喉の奥で押さえ込んだ声だ。
「会津へ向かう。輪王寺宮は日光を離れ、東北の地はまだ固い。宇都宮を通り、日光道中を押さえ、会津へ入る。——生き延びるのは、それからだ」
生き延びる、という言葉が、蓮の胸にずしりと落ちた。勝つとか、守るとか、救うとか、京では何度も聞いた言葉が、ここではきれいに抜け落ちている。残っているのは「生きる」。影の剣は、いつから人を斬る道具ではなく、生き延びるための棒切れになったのか。
「静、俺は……」
「はい、矢野さん」
「俺は悔しい。ここで終わるみたいで。上野で燃え尽きたみたいで」
「終わりではありません。——ただ、名のある終わり方は選べません」
「名を選ばない終わりなんて、そんなの、空っぽだ」
「空っぽの器は、水を運べます」
静の声は、いつもと同じ淡々さで蓮の胸を通り過ぎた。言い返せない。言い返せないのに、胸はなお煮える。煮えたまま、足を出す。足は、煮え湯の上でも進む。そうするほかない。
翌朝、二人は浅草の裏から出た。新政府の見回りは浅い。江戸に根を下ろすには、まだ彼らの足は軽すぎる。軽い足は、深い路地に沈む。沈む前に、影は先へ抜ける。日本橋のたもとで、蓮はふと足を止めた。魚河岸が賑やかだ。鰹の腹の朱、鯛の背の銀、氷に閉じ込められた光の粒。それらを前に、商人はいつも通りに値を言い、客はいつも通りにまけろと笑う。
「静、江戸は強いな」
「はい。——強いというより、しぶといです」
「しぶとい?」
「音をすぐに元へ戻します。勝っても負けても、米を研いで紙を擦る。それができる町は、刃より長持ちします」
「俺たちは、その音を守ったのか」
「はい。上野で、火の向きを見ました」
上野の「一日」が、蓮の胸で鈍く反芻する。静は話を切るように足を速めた。京で幾度も見た、合図の歩幅だ。何かが近い。
両国橋の下へ降りると、そこには新しい旗が貼り付いていた。白地に黒で「官」の字。新政府の監視所が設けられ、通行人の荷を改め、怪しい者の名を写す。旗の脇に立つのは薩摩の兵で、江戸弁を覚えかけている。声にまだ薩摩の骨が残っている。骨はすぐには抜けない。抜かれぬうちに、影は通る。
市川を越え、関宿から下総へ。道端の桑畑は芽吹いたばかりで、風に小さく葉を震わせる。小名木川を離れると、江戸の匂いは薄くなり、畦に座る老人の目が「どちらさま」という色を帯びる。旅装束はありふれたものだが、足の運びは隠せない。剣のある足は、土の上でも音を立てる。音で察した子どもが一瞬で家に駆け込み、戸がそっと閉まる。敵意ではない。慎重という名の、生活の術だ。
野田に差し掛かったころ、蓮は道の脇で、黒い羽織を肩から落としかけた男とすれ違った。羽織の裏に忍ばせた細い紙束——見慣れた厚み。密告の紙か、あるいは通行手形の偽造か。目が合った瞬間、男の瞳に「見られた」という色が走る。蓮は足を止め、振り返らずに言った。
「静、いまの男」
「はい。——矢野さんの左の二つ目の影です」
「尾けられてる?」
「逆です。——尾けようとしてやめました」
「なぜだ」
「こちらに気づいたから。気づいたら、近づけません。——先回りします」
二人はその場で道を外れ、小さな社の裏へ回った。社の木鼻に彫られた獅子の眼が、いかにも江戸の手つきで笑っている。静は社殿の影で白布を一枚広げ、蓮の首に巻き付けた。汗を吸わせるための布だ。布に吸われた汗の匂いが、人の匂いを隠す。匂いが薄まれば、追う者は迷う。
やがて男は通り過ぎ、橋のたもとへ消えていった。「官」の旗の方向へ、わずかに足を向けるのが見えた。江戸の外れにまで伸びた新政府の見張りの目は、早い。早すぎて、まだ甘い。甘い目は、舌を焼く辛さを知らない。
関宿から野州へ入る手前、道端の茶店に「宇都宮」の文字が墨で雑に書かれていた。茶をすすりながら、蓮は耳を澄ませる。客は少ない。だが、茶を出す女の口は軽い。軽い口には、重い噂が載る。
「宇都宮はこの間、またドンパチあってね。官軍が入ったかと思ったら、すぐに旧幕府の連中が取り返して、また官軍が押し返して……ほら、あの将軍さまの家のやつ、あれこれ大変よ」
旧暦四月の半ば、宇都宮城は一度官軍に占拠され、その数日後に旧幕府方が奪い返した。伝え聞くところでは、大鳥圭介が江戸から北上し、日光口の確保を企て、その動きに土方も合流する算段という。だが、噂はいつも尾ひれがつき、どこかが欠ける。欠けた部分を補うのが、影の仕事だ。
茶店を出ると、静が口を開いた。
「宇都宮は火の粉が大きいです。——今市から日光へ抜ける道の分岐を押さえなければ、会津へ行く線が細くなる」
「線が細くなると?」
「人の息が切れます。息が切れると、名のある者から落ちていきます」
「名のない俺たちは?」
「名のない者は、息の置き場所を選べます」
日が傾きかけ、雲が低くなった。道の端の草が擦れ合い、茎の白い髄が露に覗く。山を一つ越えれば野州。そこから宇都宮へ向かえば、銃の音がすぐ近くにある。蓮の胸の中の鈴が、いつもより高く鳴った。
宇都宮城下に着いたのは、旧暦四月二十三日に近い日だった(新暦では五月半ばの江戸の空が晴れた頃の後)。城の石垣は燻んだ色をしており、城下の商家の屋根には焦げ目がいくつもあった。武家屋敷の並木は枝を削がれ、道の中央には土嚢が積まれている。薩長の兵と旧幕の兵が押し引きした痕が、そのまま路地の角に残っていた。
土方はすでに城下の外れに小陣を張り、旧幕の諸隊——桑名藩の落ち武者、会津の先行隊、見立て違いの浪士団——の名をつないでいた。指揮は一本にまとまらない。まとまらなくても、火の向きが読めていれば動ける。宇都宮の城内には、官軍が残した火薬がわずかに匂っている。匂いは、どこかで火になる。
「静。俺たちは?」
「城の北側の筋です。——今市へ抜ける道を探ります」
「道は敵も欲しがる」
「だから、道は影が先に踏みます」
夜のうちに、二人は北の城外へ回った。釣瓶落としの闇は早く、田の畦は湿り、蛙の鳴き声が水面を叩く。耳の高さで鳴るその音の合間を縫って、足音を消して進む。やがて、古い里道が一本見つかった。古いだけに、地元の者しか知らない筋だ。道の左右を草の束で偽装し、ひと目には獣道に見せる。獣道に見えれば、人は躊躇う。躊躇う一瞬が、命を分ける。
翌日、宇都宮城の周囲で再び砲声が鳴った。旧幕方が押し返し、城門の内から火の手が立ち、官軍の旗が一度引っ込む。その隙に、土方は北の筋へ兵を送り、今市への口を確保した。大鳥圭介は別筋を持ち、日光東照宮を占拠して輪王寺宮を奉じる算段を表に立てる——名を掲げれば人は集まる。だが、名の議論は影の間合いを乱す。乱すものは、半歩外して進めばいい。
蓮は、北へ抜ける小隊の殿に付いた。背後から追う官軍の散兵は早い。足が早く、声が大きい。声は恐れを煽るためにある。煽られぬよう、鈴の音を胸の内に押し込む。静は前で道を開け、石に白墨で小さく印を残した。白が闇で光る。光るのに、名ではない。名でない光は、影に合う。
今市の宿で、東照宮の森が遠くに黒く盛り上がって見えた。杉の幹が真っ直ぐ天へ伸び、その根元で風が渦を巻く。渦の中心には、三つ葉葵。徳川の記憶が木の肌に彫り込まれている。木は言葉を持たない。持たない代わりに、長く立つ。
「静。日光を守れるか」
「守るというより、通します」
「通す?」
「会津への息を」
桧皮葺の屋根が重なり合う東照宮の結界には、銃声が似合わない。似合わない場所に、銃が入ると、音が狂う。狂った音は、人の決心を折る。折れた決心を拾うのが、影の役目だ。
宇都宮と今市の間で数度の小競り合いがあった。官軍の斥候が杉木立の間から現れ、洋式銃の口を黒く覗かせる。火蓋が切られる音は、京の頃に比べて乾いている。火縄の匂いが薄い。薄い火は、早い。早い火に、蓮の剣は追いつかない。追いつかない代わりに、足が動く。動く足で、敵の脇へ回り、背の間合いを詰める。柄で喉を打ち、刃で手首を切り、致命を避けて時間を奪う。時間を奪えれば、味方の息がひとつ伸びる。
その最中、蓮はふと、土塀の影でうずくまる小さな影に気づいた。子だ。泥にまみれ、両の手で何かを抱えている。抱えたものは、三つ葉葵の付いた古い木札。家の神棚から引き剥がしてきたのだろう。目が、こちらを見ていない。何も映していない目。蓮は思わず駆け寄った。
「静、ここに……」
呼ぶより早く、静の手が蓮の肩を引いた。次の瞬間、土塀の上から乾いた音が落ち、土が跳ね、子の足元に土埃が立つ。官軍の散兵の引き金だ。子は音に驚いて顔を上げた。顔を上げる——その一瞬の間に、静は子を抱え上げ、塀の裏へ投げた。投げられた子の身体は軽い。軽さは、命の短さを思わせる。蓮は歯を噛み、土塀の上の黒い影の手首を狙って刃を送った。刃は浅く、音は短い。短い音で、銃の口はわずかに逸れる。その隙に、蓮は子の背中に手を当て、走らせた。
走りながら、胸が焼けた。子の抱いた木札——三つ葉葵は、もう権威ではない。だが、その家ではまだ「神」だ。神を抱えて逃げる子の背を押すという行いが、何を意味するのか。名を持つ者がいなくなった後も、名の影はこの国の土の上に残っている。影の上を、影が走る。
今市で一息置いた夜、土方は短く言った。
「日光は形だけ押さえろ。——名は要らん」
名は要らない。だが、名のない押さえ方は難しい。名札を掛けるのは容易だ。札を掛けずに結界を保つには、目に見えない糸を張るしかない。静は神橋に近い杉の根に細い紙片を結び、風の向きを読むように、それを何度か結び直した。紙片は白い。白は夜に浮く。浮きながらも、名ではない。名でない白が、境を示す。
日光の森に浅い霧が降りた。杉の梢が揺れ、鳥が短く鳴く。蓮はその音を聞きながら、背の汗が冷えるのを感じた。疲れは骨の内側に溜まる。溜まった疲れは、名を欲しがる。名があれば、疲れは飾りになる。飾りになれば、人は笑える。笑える日が、いつ来るのか。分からないまま、朝が来る。
今市から会津へ向かう道は細く、山は深い。那須の手前で雨が降り、道は泥に変わる。泥は刃を吸う。吸われないように、刃を鞘に収め、棒のように持って歩く。棒になった刃は、名のない道具だ。名のないものは、長持ちする。
「静——」
「はい、矢野さん」
「俺は、いったい何になるんだろうな」
「影です」
「影は……何を守ってる」
「矢野さんの背中と、もうひとつの背中です」
「もうひとつって、総司さんのことか」
静は少しだけ黙った。総司の名を、近頃、二人はあまり口にしない。労咳の咳は江戸に置いてきた。細い命の息を、この山へ連れてくるわけにはいかない。江戸に置いてきたものは、どれもが重い。重いものを背負わずに歩くために、二人は名を一つずつ捨てた。
「はい。——総司さんの背中は、どこにいても半歩左にあります」
「見えない背中を、守れるのか」
「見えないものほど、距離は正確に測れます」
言葉は淡いのに、胸に深く沈む。蓮は鈴に触れ、音を出さぬまま、歩幅を静の半歩後ろに合わせた。半歩——いつからこの距離が自分の「名」になったのか。名を持たないはずの自分が、ひとつだけ確かに持つもの。それが距離であり、背であり、息の合い方なのだと、蓮はやっと思えた。
北へ。野州から白河へ。道の脇に、戦の痕が点々と残る。破れた旗、焦げた矢羽、脚絆の古い布。官軍は新式の靴を履き、足音を変えた。江戸で覚えた言葉は、この山ではまだ浮いている。浮いた言葉の上を、旧幕の名の残り香が漂う。漂う香りを、静は嗅ぎ分ける。嗅ぎ分けて、道を選ぶ。
白河口はまだ遠い。白河城は既に官軍に押さえられ、会津への表口は閉じられている。だからこそ、裏の筋が生きる。峠は険しく、崖は脆い。脆い道ほど、影は軽く通れる。軽い足取りでしか、そこは渡れない。
ある峠で、蓮はふと立ち止まった。足元の泥に、見覚えのある足跡が残っている。草鞋の紐の結び目が深く、歩幅が妙に揃っている。新選組の稽古で身につける「半歩」。誰かがここを通った——自分たちと同じ足の癖を持った者が。永倉か、斎藤か、それとも名を持たない別の誰かか。足跡は雨で崩れ、判別はつかない。つかないからこそ、胸が熱くなる。どこかで、同じ呼吸が続いていると知るだけで、膝に力が戻る。
「静、急ごう」
「はい。会津の手前で、息の置き場が狭くなります」
「狭くなるほど、俺たちの出番が増えるな」
「影は、狭いところにしか立てません」
峠の向こうに、薄く盆地が見えた。会津——山に囲まれたその地に、これから幾つもの名が落ち、幾つもの息が詰まる。歴史の紙はそこを太い字で書き、町はそこを長い名で呼ぶようになる。だが、その字の行間に、いま歩いている半歩の距離が残るかどうかは、誰も書かない。
空は低く、雲はまだ重い。だが、その重さの裏で、風は確かに動いている。風が動けば、火は向きを変える。火の向きを読むために、二人はまた歩を進めた。江戸の影は、もう江戸の屋根から離れ、山の木々の間にうっすら伸びている。江戸で拾った息を、会津の土へ置きに行く——その途上で、名のない刃は今日も冷たく光り、名のない鈴は胸の奥で鳴らずに震えた。
だが町の息が落ち着くほど、影は濃くなる。敗北は、名のある者の背中にぴったり貼り付いて、歩くたびに衣擦れの音を立てた。幕府の看板は白州で外され、新政府の印判は鮮やかすぎる朱で町奉行所に押し直される。町人は新しい札を数え、古い貸借を夜のうちに書き換える。看板は取り換えられるが、眼差しはすぐには変わらない。勝者に寄り添い、敗者を避ける——声に出さずとも、足の向きが語ることを江戸はよく知っている。
矢野蓮は、その足の向きを数えるように裏町を歩いた。上野の翌夜、柳原の裏長屋から両国の橋の下まで、湿った板目の匂いと、雨に濡れた土の匂いが混ざる一帯を、息をひそめて渡っていく。耳を澄ませば、言葉の端々に「倒幕」「官軍」「恭順」の音が混じる。どれも京で聞いた音に似ているが、江戸に響くそれはわずかに低い。京の言葉が刃なら、江戸のそれは秤だ。どちらが重いか、どちらが得か、声は絶えず測り続ける。
「静、腹が煮える」
吐き捨てるように言うと、隣の影はわずかに頷いた。沖田静は、灰色の羽織に煤を擦り付け、白の気配を消している。上野の前からずっとそうだ。白は目立つ。目立てば、噂が先に歩く。噂は影の足を絡め取る。
「矢野さん、煮えたものは火から下ろすのが早道でして」
「どうやって下ろす」
「歩くうちに冷めます。——動き続ければ、鍋底は焦げません」
「お前はいつもそれだ。人じゃないみたいに冷たい」
「人であると、刃が鈍ります。影は冷えている方が持ちがいいんです」
言いながらも、静の眼差しは町の奥を撫でるように見ていた。人の流れ、戸の開閉、路地の湿り気、寺の鐘の間合い。息を数える癖は、京の夜から変わらない。変わらないものがひとつあると、人は歩き続けられる。
その夜のうちに、土方歳三が残った隊士を密かに集めた。場所は本所の裏、用心深い名主の蔵の奥だ。灯は一つ、湿気の多い部屋で、紙の地図が机に広げられる。北関東の筋——宇都宮、今市、日光口、それから会津。太い筆の線で道が引かれ、細い点で宿場が記されている。
「江戸に留まる道はない。江戸は江戸のやり方で、もう勝と西郷が終いを付けた。上野で一度だけ怒りが燃えたが、それも一日で片がついた。ここから先、名を掲げて動く者は、町の空気そのものに刃を向けることになる」
土方の声は乾いていた。乾いているのに熱い。熱は奥に渦巻いている。表に出れば火になる熱を、喉の奥で押さえ込んだ声だ。
「会津へ向かう。輪王寺宮は日光を離れ、東北の地はまだ固い。宇都宮を通り、日光道中を押さえ、会津へ入る。——生き延びるのは、それからだ」
生き延びる、という言葉が、蓮の胸にずしりと落ちた。勝つとか、守るとか、救うとか、京では何度も聞いた言葉が、ここではきれいに抜け落ちている。残っているのは「生きる」。影の剣は、いつから人を斬る道具ではなく、生き延びるための棒切れになったのか。
「静、俺は……」
「はい、矢野さん」
「俺は悔しい。ここで終わるみたいで。上野で燃え尽きたみたいで」
「終わりではありません。——ただ、名のある終わり方は選べません」
「名を選ばない終わりなんて、そんなの、空っぽだ」
「空っぽの器は、水を運べます」
静の声は、いつもと同じ淡々さで蓮の胸を通り過ぎた。言い返せない。言い返せないのに、胸はなお煮える。煮えたまま、足を出す。足は、煮え湯の上でも進む。そうするほかない。
翌朝、二人は浅草の裏から出た。新政府の見回りは浅い。江戸に根を下ろすには、まだ彼らの足は軽すぎる。軽い足は、深い路地に沈む。沈む前に、影は先へ抜ける。日本橋のたもとで、蓮はふと足を止めた。魚河岸が賑やかだ。鰹の腹の朱、鯛の背の銀、氷に閉じ込められた光の粒。それらを前に、商人はいつも通りに値を言い、客はいつも通りにまけろと笑う。
「静、江戸は強いな」
「はい。——強いというより、しぶといです」
「しぶとい?」
「音をすぐに元へ戻します。勝っても負けても、米を研いで紙を擦る。それができる町は、刃より長持ちします」
「俺たちは、その音を守ったのか」
「はい。上野で、火の向きを見ました」
上野の「一日」が、蓮の胸で鈍く反芻する。静は話を切るように足を速めた。京で幾度も見た、合図の歩幅だ。何かが近い。
両国橋の下へ降りると、そこには新しい旗が貼り付いていた。白地に黒で「官」の字。新政府の監視所が設けられ、通行人の荷を改め、怪しい者の名を写す。旗の脇に立つのは薩摩の兵で、江戸弁を覚えかけている。声にまだ薩摩の骨が残っている。骨はすぐには抜けない。抜かれぬうちに、影は通る。
市川を越え、関宿から下総へ。道端の桑畑は芽吹いたばかりで、風に小さく葉を震わせる。小名木川を離れると、江戸の匂いは薄くなり、畦に座る老人の目が「どちらさま」という色を帯びる。旅装束はありふれたものだが、足の運びは隠せない。剣のある足は、土の上でも音を立てる。音で察した子どもが一瞬で家に駆け込み、戸がそっと閉まる。敵意ではない。慎重という名の、生活の術だ。
野田に差し掛かったころ、蓮は道の脇で、黒い羽織を肩から落としかけた男とすれ違った。羽織の裏に忍ばせた細い紙束——見慣れた厚み。密告の紙か、あるいは通行手形の偽造か。目が合った瞬間、男の瞳に「見られた」という色が走る。蓮は足を止め、振り返らずに言った。
「静、いまの男」
「はい。——矢野さんの左の二つ目の影です」
「尾けられてる?」
「逆です。——尾けようとしてやめました」
「なぜだ」
「こちらに気づいたから。気づいたら、近づけません。——先回りします」
二人はその場で道を外れ、小さな社の裏へ回った。社の木鼻に彫られた獅子の眼が、いかにも江戸の手つきで笑っている。静は社殿の影で白布を一枚広げ、蓮の首に巻き付けた。汗を吸わせるための布だ。布に吸われた汗の匂いが、人の匂いを隠す。匂いが薄まれば、追う者は迷う。
やがて男は通り過ぎ、橋のたもとへ消えていった。「官」の旗の方向へ、わずかに足を向けるのが見えた。江戸の外れにまで伸びた新政府の見張りの目は、早い。早すぎて、まだ甘い。甘い目は、舌を焼く辛さを知らない。
関宿から野州へ入る手前、道端の茶店に「宇都宮」の文字が墨で雑に書かれていた。茶をすすりながら、蓮は耳を澄ませる。客は少ない。だが、茶を出す女の口は軽い。軽い口には、重い噂が載る。
「宇都宮はこの間、またドンパチあってね。官軍が入ったかと思ったら、すぐに旧幕府の連中が取り返して、また官軍が押し返して……ほら、あの将軍さまの家のやつ、あれこれ大変よ」
旧暦四月の半ば、宇都宮城は一度官軍に占拠され、その数日後に旧幕府方が奪い返した。伝え聞くところでは、大鳥圭介が江戸から北上し、日光口の確保を企て、その動きに土方も合流する算段という。だが、噂はいつも尾ひれがつき、どこかが欠ける。欠けた部分を補うのが、影の仕事だ。
茶店を出ると、静が口を開いた。
「宇都宮は火の粉が大きいです。——今市から日光へ抜ける道の分岐を押さえなければ、会津へ行く線が細くなる」
「線が細くなると?」
「人の息が切れます。息が切れると、名のある者から落ちていきます」
「名のない俺たちは?」
「名のない者は、息の置き場所を選べます」
日が傾きかけ、雲が低くなった。道の端の草が擦れ合い、茎の白い髄が露に覗く。山を一つ越えれば野州。そこから宇都宮へ向かえば、銃の音がすぐ近くにある。蓮の胸の中の鈴が、いつもより高く鳴った。
宇都宮城下に着いたのは、旧暦四月二十三日に近い日だった(新暦では五月半ばの江戸の空が晴れた頃の後)。城の石垣は燻んだ色をしており、城下の商家の屋根には焦げ目がいくつもあった。武家屋敷の並木は枝を削がれ、道の中央には土嚢が積まれている。薩長の兵と旧幕の兵が押し引きした痕が、そのまま路地の角に残っていた。
土方はすでに城下の外れに小陣を張り、旧幕の諸隊——桑名藩の落ち武者、会津の先行隊、見立て違いの浪士団——の名をつないでいた。指揮は一本にまとまらない。まとまらなくても、火の向きが読めていれば動ける。宇都宮の城内には、官軍が残した火薬がわずかに匂っている。匂いは、どこかで火になる。
「静。俺たちは?」
「城の北側の筋です。——今市へ抜ける道を探ります」
「道は敵も欲しがる」
「だから、道は影が先に踏みます」
夜のうちに、二人は北の城外へ回った。釣瓶落としの闇は早く、田の畦は湿り、蛙の鳴き声が水面を叩く。耳の高さで鳴るその音の合間を縫って、足音を消して進む。やがて、古い里道が一本見つかった。古いだけに、地元の者しか知らない筋だ。道の左右を草の束で偽装し、ひと目には獣道に見せる。獣道に見えれば、人は躊躇う。躊躇う一瞬が、命を分ける。
翌日、宇都宮城の周囲で再び砲声が鳴った。旧幕方が押し返し、城門の内から火の手が立ち、官軍の旗が一度引っ込む。その隙に、土方は北の筋へ兵を送り、今市への口を確保した。大鳥圭介は別筋を持ち、日光東照宮を占拠して輪王寺宮を奉じる算段を表に立てる——名を掲げれば人は集まる。だが、名の議論は影の間合いを乱す。乱すものは、半歩外して進めばいい。
蓮は、北へ抜ける小隊の殿に付いた。背後から追う官軍の散兵は早い。足が早く、声が大きい。声は恐れを煽るためにある。煽られぬよう、鈴の音を胸の内に押し込む。静は前で道を開け、石に白墨で小さく印を残した。白が闇で光る。光るのに、名ではない。名でない光は、影に合う。
今市の宿で、東照宮の森が遠くに黒く盛り上がって見えた。杉の幹が真っ直ぐ天へ伸び、その根元で風が渦を巻く。渦の中心には、三つ葉葵。徳川の記憶が木の肌に彫り込まれている。木は言葉を持たない。持たない代わりに、長く立つ。
「静。日光を守れるか」
「守るというより、通します」
「通す?」
「会津への息を」
桧皮葺の屋根が重なり合う東照宮の結界には、銃声が似合わない。似合わない場所に、銃が入ると、音が狂う。狂った音は、人の決心を折る。折れた決心を拾うのが、影の役目だ。
宇都宮と今市の間で数度の小競り合いがあった。官軍の斥候が杉木立の間から現れ、洋式銃の口を黒く覗かせる。火蓋が切られる音は、京の頃に比べて乾いている。火縄の匂いが薄い。薄い火は、早い。早い火に、蓮の剣は追いつかない。追いつかない代わりに、足が動く。動く足で、敵の脇へ回り、背の間合いを詰める。柄で喉を打ち、刃で手首を切り、致命を避けて時間を奪う。時間を奪えれば、味方の息がひとつ伸びる。
その最中、蓮はふと、土塀の影でうずくまる小さな影に気づいた。子だ。泥にまみれ、両の手で何かを抱えている。抱えたものは、三つ葉葵の付いた古い木札。家の神棚から引き剥がしてきたのだろう。目が、こちらを見ていない。何も映していない目。蓮は思わず駆け寄った。
「静、ここに……」
呼ぶより早く、静の手が蓮の肩を引いた。次の瞬間、土塀の上から乾いた音が落ち、土が跳ね、子の足元に土埃が立つ。官軍の散兵の引き金だ。子は音に驚いて顔を上げた。顔を上げる——その一瞬の間に、静は子を抱え上げ、塀の裏へ投げた。投げられた子の身体は軽い。軽さは、命の短さを思わせる。蓮は歯を噛み、土塀の上の黒い影の手首を狙って刃を送った。刃は浅く、音は短い。短い音で、銃の口はわずかに逸れる。その隙に、蓮は子の背中に手を当て、走らせた。
走りながら、胸が焼けた。子の抱いた木札——三つ葉葵は、もう権威ではない。だが、その家ではまだ「神」だ。神を抱えて逃げる子の背を押すという行いが、何を意味するのか。名を持つ者がいなくなった後も、名の影はこの国の土の上に残っている。影の上を、影が走る。
今市で一息置いた夜、土方は短く言った。
「日光は形だけ押さえろ。——名は要らん」
名は要らない。だが、名のない押さえ方は難しい。名札を掛けるのは容易だ。札を掛けずに結界を保つには、目に見えない糸を張るしかない。静は神橋に近い杉の根に細い紙片を結び、風の向きを読むように、それを何度か結び直した。紙片は白い。白は夜に浮く。浮きながらも、名ではない。名でない白が、境を示す。
日光の森に浅い霧が降りた。杉の梢が揺れ、鳥が短く鳴く。蓮はその音を聞きながら、背の汗が冷えるのを感じた。疲れは骨の内側に溜まる。溜まった疲れは、名を欲しがる。名があれば、疲れは飾りになる。飾りになれば、人は笑える。笑える日が、いつ来るのか。分からないまま、朝が来る。
今市から会津へ向かう道は細く、山は深い。那須の手前で雨が降り、道は泥に変わる。泥は刃を吸う。吸われないように、刃を鞘に収め、棒のように持って歩く。棒になった刃は、名のない道具だ。名のないものは、長持ちする。
「静——」
「はい、矢野さん」
「俺は、いったい何になるんだろうな」
「影です」
「影は……何を守ってる」
「矢野さんの背中と、もうひとつの背中です」
「もうひとつって、総司さんのことか」
静は少しだけ黙った。総司の名を、近頃、二人はあまり口にしない。労咳の咳は江戸に置いてきた。細い命の息を、この山へ連れてくるわけにはいかない。江戸に置いてきたものは、どれもが重い。重いものを背負わずに歩くために、二人は名を一つずつ捨てた。
「はい。——総司さんの背中は、どこにいても半歩左にあります」
「見えない背中を、守れるのか」
「見えないものほど、距離は正確に測れます」
言葉は淡いのに、胸に深く沈む。蓮は鈴に触れ、音を出さぬまま、歩幅を静の半歩後ろに合わせた。半歩——いつからこの距離が自分の「名」になったのか。名を持たないはずの自分が、ひとつだけ確かに持つもの。それが距離であり、背であり、息の合い方なのだと、蓮はやっと思えた。
北へ。野州から白河へ。道の脇に、戦の痕が点々と残る。破れた旗、焦げた矢羽、脚絆の古い布。官軍は新式の靴を履き、足音を変えた。江戸で覚えた言葉は、この山ではまだ浮いている。浮いた言葉の上を、旧幕の名の残り香が漂う。漂う香りを、静は嗅ぎ分ける。嗅ぎ分けて、道を選ぶ。
白河口はまだ遠い。白河城は既に官軍に押さえられ、会津への表口は閉じられている。だからこそ、裏の筋が生きる。峠は険しく、崖は脆い。脆い道ほど、影は軽く通れる。軽い足取りでしか、そこは渡れない。
ある峠で、蓮はふと立ち止まった。足元の泥に、見覚えのある足跡が残っている。草鞋の紐の結び目が深く、歩幅が妙に揃っている。新選組の稽古で身につける「半歩」。誰かがここを通った——自分たちと同じ足の癖を持った者が。永倉か、斎藤か、それとも名を持たない別の誰かか。足跡は雨で崩れ、判別はつかない。つかないからこそ、胸が熱くなる。どこかで、同じ呼吸が続いていると知るだけで、膝に力が戻る。
「静、急ごう」
「はい。会津の手前で、息の置き場が狭くなります」
「狭くなるほど、俺たちの出番が増えるな」
「影は、狭いところにしか立てません」
峠の向こうに、薄く盆地が見えた。会津——山に囲まれたその地に、これから幾つもの名が落ち、幾つもの息が詰まる。歴史の紙はそこを太い字で書き、町はそこを長い名で呼ぶようになる。だが、その字の行間に、いま歩いている半歩の距離が残るかどうかは、誰も書かない。
空は低く、雲はまだ重い。だが、その重さの裏で、風は確かに動いている。風が動けば、火は向きを変える。火の向きを読むために、二人はまた歩を進めた。江戸の影は、もう江戸の屋根から離れ、山の木々の間にうっすら伸びている。江戸で拾った息を、会津の土へ置きに行く——その途上で、名のない刃は今日も冷たく光り、名のない鈴は胸の奥で鳴らずに震えた。



