江戸の空は、まだ春の淡い光をたたえていた。だが風は、浅草から神田、日本橋へと吹き抜けるたびに、どこか金属の匂いを運んでくる。砲の油、火薬、そして恐れの匂いだ。江戸城はすでに開かれることが決まり、四月十一日——白州の上で恭順の意が取り交わされた。それでも町は静まらない。静まらないのに、声は小さい。大きな声を出せば、どちらの陣営の耳にも届く。そのことを江戸は知っている。
寛永寺の裏山——上野の山は、別の空気を湛えていた。黒い旗がぬっと立つ。彰義隊。旧幕臣と旗本の次男三男、浪士、町の若者までが「徳川家存続」「輪王寺宮の擁立」を口にして集まり、山王社の影に屯した。総督は渋沢成一郎、実務の中心には天野八郎の姿。山下の不忍池はまだ冷たく、蓮のような若芽は水面の下で丸まっている。池の縁では、武家屋敷から持ち出された槍や鉄砲が油を差され、同心崩れの男たちが手入れの手順を言い争っている。「銃は心だ」「槍は魂だ」——どの言葉にも温度はあるが、冷えた風にすぐ奪われる。
新選組は、その山の内に加わらなかった。加わらぬ理由は、土方歳三が一言で切った。
「勝てぬ。——だが、影の役目はある」
勝つ負けるを前に置かず、町を前に置く。江戸に血の川をつくらせないために、表の列から半歩外れ、裏筋を走る。そういう役目だ、と。
静と蓮は、その夜のうちに上野の麓に潜んだ。谷中の茶屋、根津の坂、忍岡の路地。月は薄く、紙を透かすような光で路地のつぎはぎを照らす。蓮は肩衣の襟を少し折り、町人風に紛れて耳を立てる。静は白を控え、煤けた羽織を纏って、寺の裏塀に背を付けた。寺男の灯す行灯が、石畳に小さな灯の島をいくつも作っている。
「静、彰義隊の顔ぶれは?」
「渋沢、天野。あと、名のある旗本崩れがちらほら。鉄砲も槍も足りません。——何より、心が多すぎます」
「心が多すぎる?」
「はい。方向の違う心は、いざという時に足を絡めます」
言いながら、静は細い路地の「気配」の流れを指先で辿った。夜の町にも潮がある。坂の上から下へ、人から人へ、噂と恐れと見栄が流れていく。彰義隊の中に混じる流れは、薩摩へ通じる細い澪を含んでいるように見えた。澪筋は浅いが、船底を擦るには十分だ。
翌日、浅草寺の参道で、蓮はわざと粗い足音を立てながら人波に紛れた。香の煙が目に沁み、屋台の飴の甘さが風に混じる。その甘さの陰に、異質の匂いがひそむ。薩摩弁、長州訛り——いや、江戸訛りと混じった、わざとらしさ。蓮は屋台の縁に肘をかけ、飴を買うふりをして、向こうから来る男を待った。髷の形、羽織の裾の汚れ、草履の減り。——足の裏の削れ方が江戸の人間ではない。坂の多い土地の削れ方だ。
男は、上野の山で「銃奉行補佐」を名乗っていた浪士である、という筋からの耳打ちが既にあった。薩摩への口が、どこかで開く。開けば、山の中の息が漏れる。蓮は飴を口に含み、甘さを舌に乗せながら男の袖に軽く触れた。驚いた目がこちらを見る。その一瞬で足の向きが分かる。向きが決まれば、道は一本だ。
根津の裏で、蓮は男の袖を壁に打ちつけ、刀の柄を胸に押し当てた。居合いの間合いではない。人の嘘がこぼれる間合いだ。
「どこへ流す」
男は、薄く笑った。笑う人間は、口の端に力を入れる。力の入り方が浮ついている。
「江戸を守るためだ。勝てぬ戦に義理を尽くすほうが愚かってもんだろう」
言葉は刺さらない。刺さらないが、蓮の胸の奥に、別の痛みを起こす。勝てぬ戦に疲れているのは、自分も同じだからだ。浅草の人波の中で、何度「降りろ」という声を聞いただろう。商家の帳場で、いくつの「薩摩札」が動くのを見ただろう。
背後から、静の手が一度だけ男の口を覆った。次の瞬間、白刃は浅く——喉ではない。顎の下、声の道だけを断つ。男の目が見開き、声にならない抗議が喉の中で震えた。蓮は無意識に舌の上の甘さを噛んだ。飴は苦くなる。苦さが、地面の固さに戻す。
「矢野さん」
「ああ」
「この人は、口を閉じます。——山の息が一つ保ちました」
静の言葉は冷たく、しかし確かだった。助けるために斬る。江戸の町が広く吸うために、ひとつの喉を止める。理屈は酷い。酷いのに、町が生き延びるには、こうした酷さが必要だと、江戸の空気そのものが告げている。
その夜、土方は本所の裏長屋で短い会合を持った。灯りは一つ、声はさらに小さい。紙の上には寛永寺の略図が描かれ、黒門口、清水観音堂、山王社、輪王寺宮の御所跡、そして不忍池の堤が墨でなぞられていた。
「上野はやる気だ。——だが、やる気だけで勝てる場ではない。新政府軍は江戸の内に砲を引き入れるだろう。——大村益次郎が動く」
大村——長州出身、洋学を修め、砲術に通じ、新式装備を惜しげもなく扱う。京でも禁門の変の後、兵制の整備に手を付けたと耳にしたばかりだ。江戸に来れば、台地の起伏を地図の上ではなく、実地に歩いて砲の座を決めるはずだ。
「俺たちは?」
蓮が問うと、土方は「山には立たない」とだけ言った。
「戦えば、山が焼ける。山が焼ければ、谷が燃える。谷が燃えれば、江戸の心が千切れる。江戸の心は、勝の言葉でやっと束ねられたばかりだ。もう一度千切るわけにはいかん」
「じゃあ、何を」
「息を守る。——炎が上がる前に、燃えやすいものを外へ出す。炎が上がってからは、火の向きを読んで、逃げ道を作る。表では、彰義隊の名を曇らせぬ。裏では、山の息が町へ溢れないようにする」
矛盾しているようで、芯は一本だった。名は表の盾にする。息は裏の道で通す。盾が割れても、息が通っていれば町は生きる。
上野の山は日に日に膨張し、山王社の前では義挙の文言を並べた立て札が増えた。輪王寺宮の名は、町人には遠い。だが「徳川の存続」は近い。江戸は徳川の町だ。その町の記憶が、山に吸い寄せられる。吸い寄せられる記憶を、静と蓮は少しずつ路地へ返した。商家の旦那に耳打ちし、「蔵の中の荷を、川向こうへ運べ」と勧める。寺の庫裏に預けられた古文書を、夜のうちに深川の寺へ移す。湯屋の桶の裏に隠された火薬は、さらに深く、地中に移す。表の戦準備と見えるものの幾つかは、実は火種でしかない。火種を移し替えれば、大火は避けられる。
山の中では、天野八郎が檄を飛ばし、渋沢成一郎が隊の骨組みを整えた。上野東照宮の回廊には刀の擦れる音が絶えず、山の斜面には土塁もどきが築かれた。だが砲の座は低い。官軍がもし台地の外——上野広小路や、団子坂、根岸、あるいは寛永寺黒門口の正面に砲を据えたなら、山は盆の上の饅頭になる。饅頭は柔らかい。柔らかいものは、砲の餌だ。
五月——旧暦でいえば、十五日。朝から空気が騒いでいた。薩摩・長州・土佐の連合は、上野山下への進軍を始め、御徒町の辺りには散兵が線を引くように並んだ。広小路には砲が据えられ、耳慣れない金属の匂いが強くなる。洋式のアームストロング砲が一門、二門——噂は三門と言う者もいたが、数は問題ではない。一門でも、火は山を穿つ。
最初の砲声は、江戸の耳に新しい傷を作った。轟と鳴り、空気が押し寄せ、寛永寺の木々が一度に身震いをする。次の瞬間、黒門口の木戸板が裂け、梁が飛び、柱の間に煙が走った。彰義隊の鉄砲の返しは早くない。火縄の火は湿り、火打ち石の火花は焦りを増す。弾は飛ぶが、煙の中で目標を拾えない。
山の北側、谷中の墓地の影から、静と蓮はその火の向きを見た。火は山の一角を噛み、すぐに別の角へ移る。噛まれた角から、人が溢れる。溢れた人は山の外へ行こうとする。だが、山下は散兵が塞ぐ。塞がれた道を、静は一本、別に作った。寺の裏の板塀を外し、墓石の隙間に板を渡し、竹藪の下を這って抜ける路。夜のうちに刻んだ目印が、煙の中でも手に触れる。触れた手は、火の方向ではなく、冷たい石の感触を頼る。
「静、右」
「はい。——一度潜ってから上がります」
潜るのは地面だ。小さな空堀を使い、土の匂いの中に身を沈める。耳に砲声が刺さらない。刺さらない代わりに、自分の息の音が大きくなる。大きくなった息を、蓮は鈴で抑える。鈴は鳴らない。鳴らないが、胸の内の乱れを一つ取る。
黒門口での崩れは早かった。砲弾が門を貫き、火が寺内に落ちる。木は鳴き、瓦は割れ、煙が経の文字を覆う。天野八郎は剣を抜き、最後まで踏み止まったという。渋沢成一郎は山を離れ、北へ抜けた。誰が卑怯で、誰が忠義か——町はすぐに判定を欲しがる。だが、判定の前に、人の息は止まる。止まらせないために、静と蓮は「判定の外側」で動いた。
不忍池の西側、弁天堂の周りで、負傷者が溜まった。膝を打たれ、腹を裂かれ、煙で目を焼かれた男たちが、水辺で息を掴もうとする。水は近いのに、喉は乾く。乾きは、恐れの味に似ている。蓮は帯を裂き、傷口に布を押し当て、弁天堂の縁の板の隙間に指を掛けた。
「こっちだ」
抱え上げた体の重さは、名の重さとは関係ない。名を持つ者も、持たない者も、血の重さは同じだ。静は背で煙を遮り、男たちの手を引き、裏の抜けへ送る。送った先は、町医者の奥座敷。医者の目は険しいが、舌は動く。「ここで死ぬな」と短く言い、針を熱し、酒で布を湿らせる。
山の南の広小路では、官軍の散兵が一度広がり、次の瞬間、狭く寄った。寄る動きには自信がある。自信は、江戸の人間には見えやすい。見えやすいものは、恐れを早く連れてくる。恐れは噂を増幅させる。噂は、炎よりも速く町を回る。
その日の日暮れ前には、山は鎮まった。鎮まったと言っても、火はまだくすぶり、柱は赤く、土は温かい。彰義隊は散り、上野の戦は一日で終わった。江戸は——戦火を免れた。大砲の口は、町屋の屋根へは向かなかった。向かなかったのではない。向けないように、上野に立った人たちがいた、というのが正しい。紙は「新政府軍大勝、彰義隊敗走」を書く。紙に書けない行の間を、静の足が埋めた。
夜、根津の坂の途中で、蓮は膝に手を置いた。汗は冷え、手は震えない。震えないのに、胸の中の鈴は鳴り続ける。
「俺たちは……何を守ったんだろうな」
静は坂の上の暗がりを見つめた。
「江戸の音、です。——鐘の音、魚河岸の掛け声、子の泣き声、湯屋の桶の鳴る音、紙を擦る音。今日の大砲の音を、その上に重ねすぎないように」
「山に立った人たちは、紙には『暴徒』って書かれるだろうな」
「紙は早いです。——でも、紙より先に息があります」
「息は……」
「はい。息は、明日も町にあります」
ふと、遠くの水辺から三味線の音が小さくしたたった。誰かが、今日の炎の外側で、いつもの節を辿っている。いつもの節があるということが、どれほど重いか。蓮はそれを噛み締めた。噛み締めた味は、血よりも苦く、だが、確かに体に残る。
翌日、町は早くも片付けに入った。焼けた板を外し、崩れた土塁をならし、寺の瓦礫を積み上げる。浅草の飴売りは、昨日と同じ場所で飴を割り、同じように子らが目を輝かせる。違うのは、大人の目の奥の深さだけだ。深くなった目は、軽い噂には動かない。——はずだ。だが、歴史はいつも次の噂を用意する。
上野戦後の江戸には、もう一つの影が落ちた。板橋の刑場で落とされた首——近藤勇。名を変え、大久保大和として流山で官軍に出頭し、そして、名を再び元に戻されて、首は台に置かれた。処刑が行われた日は旧暦四月二十五日。天気は薄曇り。風は弱い。弱い風は、声を遠くへ運ばない。だから、町は静かだった。静かさは、名の落ちる音をさらに小さくする。
蓮はその日、江戸の北側の路地にいて、空を見上げた。何も見えない。見えないが、胸の鈴は鳴った。静は頷き、言葉を選ばずに言った。
「矢野さん。——名が落ちても、背中は残ります」
「背中……」
「はい。背中は、半歩左にあります」
江戸の防衛は、戦わないための戦いだった。戦わないために刃を抜き、血を流し、声を止めた。酷い手つきだ。だが、その酷さの上に、江戸の「日常」が薄く戻る。戻った日常は、紙の上では一行にも満たない。だが、人の一日は、その一行でできている。
上野の焼け跡には、すぐに人が集まった。子らが瓦礫の間で欠けた瓦を拾い、大人が柱の焼け具合を確かめる。寺の僧は経を唱え、女たちは水を汲み、男たちは板を運ぶ。大村益次郎の名は、町医者の井戸端で囁かれ、「あの砲はどこから持ってきた」と問う声が重なる。薩摩の若者は、江戸弁を覚えるのが早い。覚えられた言葉は、江戸の言葉であり続けるのか、それとも別の言葉になるのか。町は、それをこれから確かめる。
静と蓮は、火が完全に落ちるまで、上野の裾から動かなかった。夜番の町人に声をかけ、寺の庫裏に眠る古文書をもう一度数え、寛永寺の境内に埋められた「名」をひとつずつ紙に写した。紙に書くのは初めてだ。今まで、彼らの仕事は紙に残らないものだった。だがこの夜ばかりは、静は筆を取り、薄い墨でこう書いた。
「今日、山が焼けた。——江戸は焼けなかった」
それだけだ。署名はない。日付だけが小さくある。紙は折られ、庫裡の天井裏に差し込まれた。いつか誰かが見つけるかもしれない。見つけなくてもいい。紙は、火の代わりに残る。
江戸の防衛は、上野の一日で終わらない。その後、北へ向かう者、東へ抜ける者、江戸に骨を埋める者——道は分かれる。土方は既に北関東の旧幕臣たちの糸を手繰り、会津へ向けて動き出していた。静と蓮も、ほどなくその糸に引かれる。
出立の前夜、浅草寺の奥で、二人は短く立ち尽くした。香の煙は細く、消え残りの火が小さく赤い。蓮が口を開く。
「静。俺たちは、勝てぬ戦をずっと戦ってる気がする」
「はい、矢野さん。——勝てぬ戦は、やめると町が死にます」
「勝てる戦は、ないのか」
「あります。でも、それは紙の上にしかありません」
蓮は笑い、そして笑いをすぐに飲み込んだ。笑うのは、今ではない。笑いは、北の山の上で凍ってしまうかもしれない。
「行こう」
「はい。半歩左で」
二人は浅草寺の石段を下り、夜の川風の中へ消えた。背中の間合いは変わらず、歩幅は半寸ずつ揃っている。上野の山の焼け跡から立ち上がる薄い煙は、もう江戸の空の色に紛れていた。江戸は、音を取り戻しつつある。取り戻された音の下で、紙にならない歴史がまた始まる。影は、その行間を歩く。
——江戸防衛。その言葉は、砲声ではなく、息の記録として町に残った。町が明日も米を研ぎ、魚を捌き、紙を擦るために、幾つかの声が止められ、幾つかの名が落ちた。その残酷さは、やるせない。やるせないまま、人は生きる。生きるために、影は歩く。歩くたびに、半歩左の距離が確かめられる。確かめられるものがある限り、敗者にも呼吸がある。呼吸がある限り、物語は途切れない。
寛永寺の裏山——上野の山は、別の空気を湛えていた。黒い旗がぬっと立つ。彰義隊。旧幕臣と旗本の次男三男、浪士、町の若者までが「徳川家存続」「輪王寺宮の擁立」を口にして集まり、山王社の影に屯した。総督は渋沢成一郎、実務の中心には天野八郎の姿。山下の不忍池はまだ冷たく、蓮のような若芽は水面の下で丸まっている。池の縁では、武家屋敷から持ち出された槍や鉄砲が油を差され、同心崩れの男たちが手入れの手順を言い争っている。「銃は心だ」「槍は魂だ」——どの言葉にも温度はあるが、冷えた風にすぐ奪われる。
新選組は、その山の内に加わらなかった。加わらぬ理由は、土方歳三が一言で切った。
「勝てぬ。——だが、影の役目はある」
勝つ負けるを前に置かず、町を前に置く。江戸に血の川をつくらせないために、表の列から半歩外れ、裏筋を走る。そういう役目だ、と。
静と蓮は、その夜のうちに上野の麓に潜んだ。谷中の茶屋、根津の坂、忍岡の路地。月は薄く、紙を透かすような光で路地のつぎはぎを照らす。蓮は肩衣の襟を少し折り、町人風に紛れて耳を立てる。静は白を控え、煤けた羽織を纏って、寺の裏塀に背を付けた。寺男の灯す行灯が、石畳に小さな灯の島をいくつも作っている。
「静、彰義隊の顔ぶれは?」
「渋沢、天野。あと、名のある旗本崩れがちらほら。鉄砲も槍も足りません。——何より、心が多すぎます」
「心が多すぎる?」
「はい。方向の違う心は、いざという時に足を絡めます」
言いながら、静は細い路地の「気配」の流れを指先で辿った。夜の町にも潮がある。坂の上から下へ、人から人へ、噂と恐れと見栄が流れていく。彰義隊の中に混じる流れは、薩摩へ通じる細い澪を含んでいるように見えた。澪筋は浅いが、船底を擦るには十分だ。
翌日、浅草寺の参道で、蓮はわざと粗い足音を立てながら人波に紛れた。香の煙が目に沁み、屋台の飴の甘さが風に混じる。その甘さの陰に、異質の匂いがひそむ。薩摩弁、長州訛り——いや、江戸訛りと混じった、わざとらしさ。蓮は屋台の縁に肘をかけ、飴を買うふりをして、向こうから来る男を待った。髷の形、羽織の裾の汚れ、草履の減り。——足の裏の削れ方が江戸の人間ではない。坂の多い土地の削れ方だ。
男は、上野の山で「銃奉行補佐」を名乗っていた浪士である、という筋からの耳打ちが既にあった。薩摩への口が、どこかで開く。開けば、山の中の息が漏れる。蓮は飴を口に含み、甘さを舌に乗せながら男の袖に軽く触れた。驚いた目がこちらを見る。その一瞬で足の向きが分かる。向きが決まれば、道は一本だ。
根津の裏で、蓮は男の袖を壁に打ちつけ、刀の柄を胸に押し当てた。居合いの間合いではない。人の嘘がこぼれる間合いだ。
「どこへ流す」
男は、薄く笑った。笑う人間は、口の端に力を入れる。力の入り方が浮ついている。
「江戸を守るためだ。勝てぬ戦に義理を尽くすほうが愚かってもんだろう」
言葉は刺さらない。刺さらないが、蓮の胸の奥に、別の痛みを起こす。勝てぬ戦に疲れているのは、自分も同じだからだ。浅草の人波の中で、何度「降りろ」という声を聞いただろう。商家の帳場で、いくつの「薩摩札」が動くのを見ただろう。
背後から、静の手が一度だけ男の口を覆った。次の瞬間、白刃は浅く——喉ではない。顎の下、声の道だけを断つ。男の目が見開き、声にならない抗議が喉の中で震えた。蓮は無意識に舌の上の甘さを噛んだ。飴は苦くなる。苦さが、地面の固さに戻す。
「矢野さん」
「ああ」
「この人は、口を閉じます。——山の息が一つ保ちました」
静の言葉は冷たく、しかし確かだった。助けるために斬る。江戸の町が広く吸うために、ひとつの喉を止める。理屈は酷い。酷いのに、町が生き延びるには、こうした酷さが必要だと、江戸の空気そのものが告げている。
その夜、土方は本所の裏長屋で短い会合を持った。灯りは一つ、声はさらに小さい。紙の上には寛永寺の略図が描かれ、黒門口、清水観音堂、山王社、輪王寺宮の御所跡、そして不忍池の堤が墨でなぞられていた。
「上野はやる気だ。——だが、やる気だけで勝てる場ではない。新政府軍は江戸の内に砲を引き入れるだろう。——大村益次郎が動く」
大村——長州出身、洋学を修め、砲術に通じ、新式装備を惜しげもなく扱う。京でも禁門の変の後、兵制の整備に手を付けたと耳にしたばかりだ。江戸に来れば、台地の起伏を地図の上ではなく、実地に歩いて砲の座を決めるはずだ。
「俺たちは?」
蓮が問うと、土方は「山には立たない」とだけ言った。
「戦えば、山が焼ける。山が焼ければ、谷が燃える。谷が燃えれば、江戸の心が千切れる。江戸の心は、勝の言葉でやっと束ねられたばかりだ。もう一度千切るわけにはいかん」
「じゃあ、何を」
「息を守る。——炎が上がる前に、燃えやすいものを外へ出す。炎が上がってからは、火の向きを読んで、逃げ道を作る。表では、彰義隊の名を曇らせぬ。裏では、山の息が町へ溢れないようにする」
矛盾しているようで、芯は一本だった。名は表の盾にする。息は裏の道で通す。盾が割れても、息が通っていれば町は生きる。
上野の山は日に日に膨張し、山王社の前では義挙の文言を並べた立て札が増えた。輪王寺宮の名は、町人には遠い。だが「徳川の存続」は近い。江戸は徳川の町だ。その町の記憶が、山に吸い寄せられる。吸い寄せられる記憶を、静と蓮は少しずつ路地へ返した。商家の旦那に耳打ちし、「蔵の中の荷を、川向こうへ運べ」と勧める。寺の庫裏に預けられた古文書を、夜のうちに深川の寺へ移す。湯屋の桶の裏に隠された火薬は、さらに深く、地中に移す。表の戦準備と見えるものの幾つかは、実は火種でしかない。火種を移し替えれば、大火は避けられる。
山の中では、天野八郎が檄を飛ばし、渋沢成一郎が隊の骨組みを整えた。上野東照宮の回廊には刀の擦れる音が絶えず、山の斜面には土塁もどきが築かれた。だが砲の座は低い。官軍がもし台地の外——上野広小路や、団子坂、根岸、あるいは寛永寺黒門口の正面に砲を据えたなら、山は盆の上の饅頭になる。饅頭は柔らかい。柔らかいものは、砲の餌だ。
五月——旧暦でいえば、十五日。朝から空気が騒いでいた。薩摩・長州・土佐の連合は、上野山下への進軍を始め、御徒町の辺りには散兵が線を引くように並んだ。広小路には砲が据えられ、耳慣れない金属の匂いが強くなる。洋式のアームストロング砲が一門、二門——噂は三門と言う者もいたが、数は問題ではない。一門でも、火は山を穿つ。
最初の砲声は、江戸の耳に新しい傷を作った。轟と鳴り、空気が押し寄せ、寛永寺の木々が一度に身震いをする。次の瞬間、黒門口の木戸板が裂け、梁が飛び、柱の間に煙が走った。彰義隊の鉄砲の返しは早くない。火縄の火は湿り、火打ち石の火花は焦りを増す。弾は飛ぶが、煙の中で目標を拾えない。
山の北側、谷中の墓地の影から、静と蓮はその火の向きを見た。火は山の一角を噛み、すぐに別の角へ移る。噛まれた角から、人が溢れる。溢れた人は山の外へ行こうとする。だが、山下は散兵が塞ぐ。塞がれた道を、静は一本、別に作った。寺の裏の板塀を外し、墓石の隙間に板を渡し、竹藪の下を這って抜ける路。夜のうちに刻んだ目印が、煙の中でも手に触れる。触れた手は、火の方向ではなく、冷たい石の感触を頼る。
「静、右」
「はい。——一度潜ってから上がります」
潜るのは地面だ。小さな空堀を使い、土の匂いの中に身を沈める。耳に砲声が刺さらない。刺さらない代わりに、自分の息の音が大きくなる。大きくなった息を、蓮は鈴で抑える。鈴は鳴らない。鳴らないが、胸の内の乱れを一つ取る。
黒門口での崩れは早かった。砲弾が門を貫き、火が寺内に落ちる。木は鳴き、瓦は割れ、煙が経の文字を覆う。天野八郎は剣を抜き、最後まで踏み止まったという。渋沢成一郎は山を離れ、北へ抜けた。誰が卑怯で、誰が忠義か——町はすぐに判定を欲しがる。だが、判定の前に、人の息は止まる。止まらせないために、静と蓮は「判定の外側」で動いた。
不忍池の西側、弁天堂の周りで、負傷者が溜まった。膝を打たれ、腹を裂かれ、煙で目を焼かれた男たちが、水辺で息を掴もうとする。水は近いのに、喉は乾く。乾きは、恐れの味に似ている。蓮は帯を裂き、傷口に布を押し当て、弁天堂の縁の板の隙間に指を掛けた。
「こっちだ」
抱え上げた体の重さは、名の重さとは関係ない。名を持つ者も、持たない者も、血の重さは同じだ。静は背で煙を遮り、男たちの手を引き、裏の抜けへ送る。送った先は、町医者の奥座敷。医者の目は険しいが、舌は動く。「ここで死ぬな」と短く言い、針を熱し、酒で布を湿らせる。
山の南の広小路では、官軍の散兵が一度広がり、次の瞬間、狭く寄った。寄る動きには自信がある。自信は、江戸の人間には見えやすい。見えやすいものは、恐れを早く連れてくる。恐れは噂を増幅させる。噂は、炎よりも速く町を回る。
その日の日暮れ前には、山は鎮まった。鎮まったと言っても、火はまだくすぶり、柱は赤く、土は温かい。彰義隊は散り、上野の戦は一日で終わった。江戸は——戦火を免れた。大砲の口は、町屋の屋根へは向かなかった。向かなかったのではない。向けないように、上野に立った人たちがいた、というのが正しい。紙は「新政府軍大勝、彰義隊敗走」を書く。紙に書けない行の間を、静の足が埋めた。
夜、根津の坂の途中で、蓮は膝に手を置いた。汗は冷え、手は震えない。震えないのに、胸の中の鈴は鳴り続ける。
「俺たちは……何を守ったんだろうな」
静は坂の上の暗がりを見つめた。
「江戸の音、です。——鐘の音、魚河岸の掛け声、子の泣き声、湯屋の桶の鳴る音、紙を擦る音。今日の大砲の音を、その上に重ねすぎないように」
「山に立った人たちは、紙には『暴徒』って書かれるだろうな」
「紙は早いです。——でも、紙より先に息があります」
「息は……」
「はい。息は、明日も町にあります」
ふと、遠くの水辺から三味線の音が小さくしたたった。誰かが、今日の炎の外側で、いつもの節を辿っている。いつもの節があるということが、どれほど重いか。蓮はそれを噛み締めた。噛み締めた味は、血よりも苦く、だが、確かに体に残る。
翌日、町は早くも片付けに入った。焼けた板を外し、崩れた土塁をならし、寺の瓦礫を積み上げる。浅草の飴売りは、昨日と同じ場所で飴を割り、同じように子らが目を輝かせる。違うのは、大人の目の奥の深さだけだ。深くなった目は、軽い噂には動かない。——はずだ。だが、歴史はいつも次の噂を用意する。
上野戦後の江戸には、もう一つの影が落ちた。板橋の刑場で落とされた首——近藤勇。名を変え、大久保大和として流山で官軍に出頭し、そして、名を再び元に戻されて、首は台に置かれた。処刑が行われた日は旧暦四月二十五日。天気は薄曇り。風は弱い。弱い風は、声を遠くへ運ばない。だから、町は静かだった。静かさは、名の落ちる音をさらに小さくする。
蓮はその日、江戸の北側の路地にいて、空を見上げた。何も見えない。見えないが、胸の鈴は鳴った。静は頷き、言葉を選ばずに言った。
「矢野さん。——名が落ちても、背中は残ります」
「背中……」
「はい。背中は、半歩左にあります」
江戸の防衛は、戦わないための戦いだった。戦わないために刃を抜き、血を流し、声を止めた。酷い手つきだ。だが、その酷さの上に、江戸の「日常」が薄く戻る。戻った日常は、紙の上では一行にも満たない。だが、人の一日は、その一行でできている。
上野の焼け跡には、すぐに人が集まった。子らが瓦礫の間で欠けた瓦を拾い、大人が柱の焼け具合を確かめる。寺の僧は経を唱え、女たちは水を汲み、男たちは板を運ぶ。大村益次郎の名は、町医者の井戸端で囁かれ、「あの砲はどこから持ってきた」と問う声が重なる。薩摩の若者は、江戸弁を覚えるのが早い。覚えられた言葉は、江戸の言葉であり続けるのか、それとも別の言葉になるのか。町は、それをこれから確かめる。
静と蓮は、火が完全に落ちるまで、上野の裾から動かなかった。夜番の町人に声をかけ、寺の庫裏に眠る古文書をもう一度数え、寛永寺の境内に埋められた「名」をひとつずつ紙に写した。紙に書くのは初めてだ。今まで、彼らの仕事は紙に残らないものだった。だがこの夜ばかりは、静は筆を取り、薄い墨でこう書いた。
「今日、山が焼けた。——江戸は焼けなかった」
それだけだ。署名はない。日付だけが小さくある。紙は折られ、庫裡の天井裏に差し込まれた。いつか誰かが見つけるかもしれない。見つけなくてもいい。紙は、火の代わりに残る。
江戸の防衛は、上野の一日で終わらない。その後、北へ向かう者、東へ抜ける者、江戸に骨を埋める者——道は分かれる。土方は既に北関東の旧幕臣たちの糸を手繰り、会津へ向けて動き出していた。静と蓮も、ほどなくその糸に引かれる。
出立の前夜、浅草寺の奥で、二人は短く立ち尽くした。香の煙は細く、消え残りの火が小さく赤い。蓮が口を開く。
「静。俺たちは、勝てぬ戦をずっと戦ってる気がする」
「はい、矢野さん。——勝てぬ戦は、やめると町が死にます」
「勝てる戦は、ないのか」
「あります。でも、それは紙の上にしかありません」
蓮は笑い、そして笑いをすぐに飲み込んだ。笑うのは、今ではない。笑いは、北の山の上で凍ってしまうかもしれない。
「行こう」
「はい。半歩左で」
二人は浅草寺の石段を下り、夜の川風の中へ消えた。背中の間合いは変わらず、歩幅は半寸ずつ揃っている。上野の山の焼け跡から立ち上がる薄い煙は、もう江戸の空の色に紛れていた。江戸は、音を取り戻しつつある。取り戻された音の下で、紙にならない歴史がまた始まる。影は、その行間を歩く。
——江戸防衛。その言葉は、砲声ではなく、息の記録として町に残った。町が明日も米を研ぎ、魚を捌き、紙を擦るために、幾つかの声が止められ、幾つかの名が落ちた。その残酷さは、やるせない。やるせないまま、人は生きる。生きるために、影は歩く。歩くたびに、半歩左の距離が確かめられる。確かめられるものがある限り、敗者にも呼吸がある。呼吸がある限り、物語は途切れない。



