勝沼の畑をなめる風は冷たく、蔓の影は刃のように細かった。葡萄棚の段々が銃列の胸壁となり、土塁のかわりに畝が、胸板のかわりに冬枯れの幹が兵を隠す。官軍の先鋒は土佐の板垣退助が指揮する迅衝隊、銃はエンフィールドとミニエー。こちらは火縄と古式のゲベールに混じって、手入れの行き届いた槍。音の差、煙の質、装填の早さが、そのまま生と死の間隔になっていた。
散兵線が右へ左へ走り、土色の影が畝を越して落ちるたび、乾いた衝撃が頬の皮を叩く。蓮は用水へ落ち、泥の冷たさで恐怖を割り、静の足首を半歩左で追い続けた。土の匂いが濃くなった時は、弾が近い合図。焦げた布の匂いが混ざった時は、火薬が新しい証。官軍の笛が高く鳴り、合図の鼓が低く応え、こちらの雄叫びは風に千切れて畑の端に落ちた。
正午を待たずして形勢は決した。勝沼宿の本陣の屋根に赤い布が一瞬翻り、官軍の横列が踊り場のようにせり上がる。土方の短い号令が背骨へ走る。
「引け。左右、交互!」
退くにも順がある。順を乱せば背が切られる。静は刃を鞘に納め、蓮の肩甲の高さを目で確かめると、畝の影から影へ、泥の窪みから窪みへ、息をそろえた。蓮は柄で土を掻き、足の置き場を作り、振り返りざまに柄頭で頬骨を打って時間を稼ぐ。「殺さずに止める斬り」——静から徹底して叩き込まれた所作が、泥にまみれた掌の中で自動のように動いた。
冬の陽が斜めに落ちはじめた頃、甲州街道は敗走の列で埋まった。壊走ではない。足はまだ秩序を保っている。だが列の周りの空気は、負けの匂いで湿っていた。戸口の内側から人の視線が刺さり、障子の陰がわずかに揺れる。誰も声をかけない。黙ることが、この土地の智恵だ。黙れば、明日も畑は畑の顔を保てる。
大和村の寺に身を寄せると、土間に藁が敷かれ、湯気がひとつ立った。近藤は肩を庇い、痛みで顔を歪めながらも笑う声を無理に作った。土方は笑わない。地図の上で指を移し、甲府の印に墨を塗り潰す。潰される印は軽い。軽いのに、胸に落ちる音は重い。
夜半、寺の鐘が数度鳴り、遠くで連発ではない砲の単発音が山に吸い込まれた。砲はこの戦域では少ない。甲府城を押さえた迅衝隊が一門持ち出しているだけだという噂。噂は当てにならない。だが耳は噂しか頼れない。
夜明け前、土方が短く告げた。
「江戸へ戻る。街道は混む。——手前で散れ」
言葉は冷たいが、内側に熱がある。熱がなければ、命令は凍る。凍れば、人の足は止まる。静は頷き、蓮に目で合図した。甲州道中はもう喉ではない。喉を刺された身体は、別の気道を作って息を繋ぐしかない。
相模へ折れる山道は、雪がところどころ凍っていて、落葉が滑った。八王子千人同心の古手が道の端でこちらを見、結わえた弦巻をわずかに傾けた。目に流れるものは敬意ではない。諦めに似た判別の色だ。「あの人たちは、まだ戦う顔をしている」——静はその色を見て、ただ歩幅を合わすだけだった。
日野に入り、用水のきわを歩いて多摩川に出る。谷保、府中。名主の家の瓦は重く、庭の松は雪の重みを一度払い落としている。江戸へ近づくほど、空気は湿って音が多くなる。大名小路の上を飛ぶ噂の鳥は種類が増え、ひとつの言葉がいくつもの羽音を立てる。
「江戸城は開け渡すそうだ」「勝と西郷が会って話をまとめたらしい」「上野の者たちが立つと言っている」「彰義隊だ」
江戸無血開城の筋書きが町の辻に立ち、勝海舟と西郷隆盛の名が、商家の帳場で銭勘定の間に混じる。紙は早い。紙の上で江戸は救われた。だが人の息の速度は紙に追いつかない。追いつかない息は、どこかで止まる。
新選組の本隊は市ヶ谷へ戻った。だが長くは留まれない。徳川の名のもとに公然と動ける時間は、刻一刻と薄くなる。「名を隠して動け」——土方の命はずいぶん前からそうだった。ここで名が重ければ、次の一歩が鉛になる。軽い名は、影に馴染む。
この頃には、近藤は名を変えていた。大久保大和。旗本大久保家の縁を装い、甲陽鎮撫隊の総督の名を新しく誂える。名は衣。着替えれば、同じ身体でも別に見える。別に見えれば、斬られる角度が変わる。角度が変われば、時間が稼げる。時間が稼げれば、息が次の者につながる。
江戸が開く方向へと町の空気が傾く中で、我らは下総へ出た。流山。江戸川の土手の土は柔らかく、葦の先が風に揺れて音を重ねる。ここに屯す。旗は掲げない。旗は相手の刃を呼ぶ。呼ばなくてよい刃は、呼ばない。
流山の陣屋は簡素だった。茅葺の屋根、土間、座敷が二つ、粗末な兵糧。周辺の農家から米と味噌と古布を借り、返す時期は未定のまま帳面に書く。帳面の細い文字が、ここがまだ「暮らし」の範囲内にあることを示す唯一の印だった。
総司は江戸の知人宅に預けることになった。市中の空気はまだ人の往来を許すが、肺には厳しい。深川のほとりは空気が湿っている。湿りは咳に反することもある。静は総司の枕元で短い息を数え、その回数の間に干し大根の汁を含ませた。蓮はその背で目を閉じ、鈴を鳴らす。鳴る音は、名前の代わりだ。
日が二つ三つ変わった。江戸城が開かれるとの取り決めが伝わるのと入れ替わりに、新政府軍の一隊が江戸川沿いに北上してきた。総督・有栖川宮の官軍が関東一円に散り、下総・下野・上野を押さえにかかっている。流山へ向かう列の先には、土佐・備前・肥後などの兵が混じる。指揮は参謀の香川・広沢、そして土佐の板垣の名も耳に入った。甲州で刃を交えた相手の足が、もう江戸の縁に立つ。
朝靄のなか、土手の上に白い布が見えた。「官軍」の二文字。錦の御旗ではないが、名の力は十分だ。流山の陣屋に緊張が走る。永倉は歯噛みし、斎藤は一瞬だけ目を細め、土方は刀の位置を帯で半寸上げた。近藤——いや大久保大和は、座敷の端に座り、膝を正していた。肩の痛みは抜けない。痛みは人を正座させる。
官軍の使者が入る。言葉は簡潔だった。
「恭順開城の沙汰、江戸に行き渡り候。なおも兵を集めているは不埒の至り。直ちに隊伍を解くがよい」
近藤は「わしは新選組ではない、大久保大和である」と言い、甲陽鎮撫の趣旨を説いた。言葉は正しいが、旗は嘘を許さない。旗は「徳川」の匂いを嗅ぎ分ける。嗅ぎ分けられた匂いは、洗っても落ちない。
その日の午後、流山は包まれた。江戸川の堤、防塁の向こう、田の畦道、どこにも散兵の影がいる。銃の口がこちらを見たまま、時が止まった。土方は一呼吸だけ目を閉じ、そして言った。
「別れる」
別れる——二文字が、部屋の空気を切り分ける。東へ走る者、北へ抜ける者、江戸へ潜る者。静は即座に蓮の袖を引いた。半歩左。蓮は頷く。近藤は座敷の真ん中に残った。残る者の顔は、静かだ。静かさは、覚悟の色ではない。諦念の色に似ている。諦めるのではなく、諦念を身に着ける。そういう静けさ。
永倉は舌打ちして刀を背負い、「俺は北だ」と言って裏手の竹やぶに消えた。斎藤は「東」とだけ言い、土手を駆け下りた。土方は最後に一度だけ近藤を見た。言葉はなかった。その代わりに、帯の結び目をわずかに引き締めた。引き締める動作が、別れの礼だった。
静と蓮は、堤の葦の間を潜り、用水の木橋を渡って田の畦道へ出た。官軍の線は刻々と縮み、撃つ音が断続する。撃つ側は撃てるだけ撃つ。撃たれる側は、撃たれない道を選ぶしかない。静は畦の角を数え、竹の節の高さを見て、体を地に沿わせた。蓮は背中に泥を塗り、匂いを消し、足跡の形を乱した。影の仕事は、逃げる時ほど忙しい。
夕方、流山陣屋に白旗が上がった。白は清い色ではない。清いという幻想を人に与えるための布だ。布は軽い。軽い布の下で、重い名が下ろされた。大久保大和——近藤勇が出た。彼は自ら名を明かし、官軍へ身を委ねる。斬るも縛るも、相手次第。相手次第の身の置き方は、生き方の中では最も苦い。
翌日、江戸へ連れられる途中、近藤は市川から板橋へ回されることになる。江戸は開かれた。開いた江戸の外縁で、ひとりの男の門は閉じられる。板橋の処刑場は、まだ名を知られていなかった。名を知らぬ場所ほど、人の終わりには都合が良い。のちにその場所は多くの人に知られ、一本の松の名と結びつくことになるが、その時の空はただ白く、風は油の匂いを運んだ。
流山からの道すがら、蓮の胸は重く沈んだ。静は歩幅を崩さない。崩さないことでしか、崩れないものがある。崩れるべきものは既に崩れていて、崩してはならぬものが残り具合を試されている。そういう歩みだった。
「静……俺は、何を見届けたんだろうな」
「矢野さんが見たものは、名が落ちる瞬間です」
「名が落ちる音は、こんなにも静かなのか」
「はい。静かでなければ、町が割れます」
「町が……」
「江戸は、音で持っています。大きい音を増やさないために、静かな終わり方が選ばれました」
蓮は言葉を継げなかった。勝と西郷が会い、江戸城が開かれる。紙の上の名は美しい。美しい言葉は、誰かの血と誰かの沈黙の上に立つ。血と沈黙は誰のものか。紙には書かれない。書かれないから、影が担ぐ。
江戸は開かれたが、江戸の外縁では別の扉が次々に閉じた。上野の山で彰義隊が集まりはじめ、浅草寺の下では町の若い衆が角力のような真似で刀を持ち、甲州から退いた浪人らが芝居小屋の裏で噂を交わす。噂はすぐに「上野で一戦」という形になる。形になれば、火が入る。火が入れば、燃えるものは多い。
土方は北へ向かった。上野に与するわけではない。江戸の北を回って、下野・常陸の旧幕臣の動きを糸で繋ぎ、会津へ抜ける細い道を拾い集める。宇都宮城、今市、会津。足の先に雪が見える。雪は音を消す。消えた音の代わりに、人の息が濃くなる。濃くなった息を、誰が記す。
静と蓮は江戸の縁を滑るように動いた。深川の路地、両国の橋の下、谷中の墓地、根津の坂、駒込の植木屋。どこにも人がいて、どこにも紙がある。紙に書くことと、紙に書かれないことの境界は、日に日に狭くなる。狭くなるほど、影の足は速くなる。
春の初め、板橋の処刑が執行された(新暦でいえば五月のはじめ、旧暦では四月の末)。板橋宿の外れ、刑場の松のもと。首は台に置かれ、太刀が振り下ろされる。名はその瞬間、紙の中に固定される。固定されると、人は動けない。動けない名の代わりに、動く影がいる。影は、名を持たないまま次の土地へ伸びる。
その日、江戸の空は淡く、風は弱かった。蓮は遠くからその空を見て、胸の鈴を鳴らした。静は頷いた。声を出せば、何かが崩れる。崩れたものは、二度と同じ形に戻らない。戻らないなら、別の形で持てばよい。刃の角度を変える。呼吸の間を変える。歩幅を半寸縮める。そうして影は続く。
江戸城の無血開城の式は、四月十一日。白州に座る者、見届ける者、何も知らずに米を研ぐ者。すべてが同じ空気を吸った。城の石垣は黙り、堀の水は薄く光った。勝の背筋は伸び、使者の声は乾いていた。西郷は笑わず、目だけで礼をする。礼は大きな儀式の形になり、紙の上の字は太い線で引かれる。太い線の外側で、細い息が続いている。
上野の山はやがて火の海になる。彰義隊の黒い旗、官軍の榎本武揚の艦砲(のちの話だ)、砲声が浅草の屋根を越える。寛永寺の鐘楼は炎に舐められ、根本中堂の柱は熱で鳴く。その時、静と蓮はもう江戸にはいなかった。土方の糸に引かれて北へ。宇都宮城が開き、すぐにまた閉じ、砲声が那須の山に転がる頃、二人は雨に濡れた街道の泥に膝をついていた。
江戸への退却は、実はそこで終わってはいなかった。江戸城は開かれたが、江戸にいた人間の胸のうちの扉は開かれないままだ。開けども、開けども、内側にもう一枚扉があり、そこへ辿り着く前に、噂と命令と銃声が次の扉の方角を指し示す。指し示された方向へ、足は勝手に向く。歴史というものの足は、いつも人の足の少し斜め前を歩いている。
夜、那珂川のほとりで、二人は小さな火を起こした。火は湿った薪に負け、すぐに黒い煙を吐く。煙は目に沁み、涙が出る。泣いているのではない。煙のせいだと、胸に言い聞かせる。
「矢野さん」
「なんだ、静」
「名が落ちる音が静かだと、矢野さんは言いました」
「ああ」
「でも、その音は、長く残ります」
「そうか」
「はい。紙に書いた墨は乾きますが、音は乾きません」
「乾かない音を、俺たちは……どうやって持っていけばいい」
「背中に置きます。半歩左に」
蓮は笑いもしないで頷き、鈴を指先でつまんだ。鳴らない鈴が、かすかに震えた気がした。風が弱く、川の面が平らで、星がひとつだけ雲の切れ目から覗いた。星は名を持つ。北極星、昂星。だがその夜の星は、名を持たぬ方がふさわしかった。名を持たぬ光は、影の上に落ちる。落ちた光の形が、歩幅を決める。
江戸は遠くなり、江戸の声は背の後ろで小さくなる。小さくなるほど、悲壮は濃くなる。濃くなった悲壮は、温度を持つ。温度があれば、動ける。動ける限り、人は敗者ではない。敗者という名もいつか乾く。乾くまでの間、影は息を運ぶ。
春はまだ浅く、街道の両脇の土は冷たい。冷たさは刃を冴えさせる。冴えた刃で、二人は次の地名へ向かった。宇都宮、今市、会津——紙の上で見知った字が、やがて泥と血の匂いを持ち、声を持ち、息を持つ。その息が止まらぬうちに、影はまた半歩進む。
江戸への退却は、こうして新しい前進に連れ去られた。退くことと進むことの境は、歴史の紙の上では明瞭だが、夜の火の前では曖昧だ。曖昧なまま、二人は立ち上がる。立つという動作が続く限り、名のある者も名のない者も、同じ地面に立っている。それだけが、この国の風に抗える、いちばん確かな術だった。
散兵線が右へ左へ走り、土色の影が畝を越して落ちるたび、乾いた衝撃が頬の皮を叩く。蓮は用水へ落ち、泥の冷たさで恐怖を割り、静の足首を半歩左で追い続けた。土の匂いが濃くなった時は、弾が近い合図。焦げた布の匂いが混ざった時は、火薬が新しい証。官軍の笛が高く鳴り、合図の鼓が低く応え、こちらの雄叫びは風に千切れて畑の端に落ちた。
正午を待たずして形勢は決した。勝沼宿の本陣の屋根に赤い布が一瞬翻り、官軍の横列が踊り場のようにせり上がる。土方の短い号令が背骨へ走る。
「引け。左右、交互!」
退くにも順がある。順を乱せば背が切られる。静は刃を鞘に納め、蓮の肩甲の高さを目で確かめると、畝の影から影へ、泥の窪みから窪みへ、息をそろえた。蓮は柄で土を掻き、足の置き場を作り、振り返りざまに柄頭で頬骨を打って時間を稼ぐ。「殺さずに止める斬り」——静から徹底して叩き込まれた所作が、泥にまみれた掌の中で自動のように動いた。
冬の陽が斜めに落ちはじめた頃、甲州街道は敗走の列で埋まった。壊走ではない。足はまだ秩序を保っている。だが列の周りの空気は、負けの匂いで湿っていた。戸口の内側から人の視線が刺さり、障子の陰がわずかに揺れる。誰も声をかけない。黙ることが、この土地の智恵だ。黙れば、明日も畑は畑の顔を保てる。
大和村の寺に身を寄せると、土間に藁が敷かれ、湯気がひとつ立った。近藤は肩を庇い、痛みで顔を歪めながらも笑う声を無理に作った。土方は笑わない。地図の上で指を移し、甲府の印に墨を塗り潰す。潰される印は軽い。軽いのに、胸に落ちる音は重い。
夜半、寺の鐘が数度鳴り、遠くで連発ではない砲の単発音が山に吸い込まれた。砲はこの戦域では少ない。甲府城を押さえた迅衝隊が一門持ち出しているだけだという噂。噂は当てにならない。だが耳は噂しか頼れない。
夜明け前、土方が短く告げた。
「江戸へ戻る。街道は混む。——手前で散れ」
言葉は冷たいが、内側に熱がある。熱がなければ、命令は凍る。凍れば、人の足は止まる。静は頷き、蓮に目で合図した。甲州道中はもう喉ではない。喉を刺された身体は、別の気道を作って息を繋ぐしかない。
相模へ折れる山道は、雪がところどころ凍っていて、落葉が滑った。八王子千人同心の古手が道の端でこちらを見、結わえた弦巻をわずかに傾けた。目に流れるものは敬意ではない。諦めに似た判別の色だ。「あの人たちは、まだ戦う顔をしている」——静はその色を見て、ただ歩幅を合わすだけだった。
日野に入り、用水のきわを歩いて多摩川に出る。谷保、府中。名主の家の瓦は重く、庭の松は雪の重みを一度払い落としている。江戸へ近づくほど、空気は湿って音が多くなる。大名小路の上を飛ぶ噂の鳥は種類が増え、ひとつの言葉がいくつもの羽音を立てる。
「江戸城は開け渡すそうだ」「勝と西郷が会って話をまとめたらしい」「上野の者たちが立つと言っている」「彰義隊だ」
江戸無血開城の筋書きが町の辻に立ち、勝海舟と西郷隆盛の名が、商家の帳場で銭勘定の間に混じる。紙は早い。紙の上で江戸は救われた。だが人の息の速度は紙に追いつかない。追いつかない息は、どこかで止まる。
新選組の本隊は市ヶ谷へ戻った。だが長くは留まれない。徳川の名のもとに公然と動ける時間は、刻一刻と薄くなる。「名を隠して動け」——土方の命はずいぶん前からそうだった。ここで名が重ければ、次の一歩が鉛になる。軽い名は、影に馴染む。
この頃には、近藤は名を変えていた。大久保大和。旗本大久保家の縁を装い、甲陽鎮撫隊の総督の名を新しく誂える。名は衣。着替えれば、同じ身体でも別に見える。別に見えれば、斬られる角度が変わる。角度が変われば、時間が稼げる。時間が稼げれば、息が次の者につながる。
江戸が開く方向へと町の空気が傾く中で、我らは下総へ出た。流山。江戸川の土手の土は柔らかく、葦の先が風に揺れて音を重ねる。ここに屯す。旗は掲げない。旗は相手の刃を呼ぶ。呼ばなくてよい刃は、呼ばない。
流山の陣屋は簡素だった。茅葺の屋根、土間、座敷が二つ、粗末な兵糧。周辺の農家から米と味噌と古布を借り、返す時期は未定のまま帳面に書く。帳面の細い文字が、ここがまだ「暮らし」の範囲内にあることを示す唯一の印だった。
総司は江戸の知人宅に預けることになった。市中の空気はまだ人の往来を許すが、肺には厳しい。深川のほとりは空気が湿っている。湿りは咳に反することもある。静は総司の枕元で短い息を数え、その回数の間に干し大根の汁を含ませた。蓮はその背で目を閉じ、鈴を鳴らす。鳴る音は、名前の代わりだ。
日が二つ三つ変わった。江戸城が開かれるとの取り決めが伝わるのと入れ替わりに、新政府軍の一隊が江戸川沿いに北上してきた。総督・有栖川宮の官軍が関東一円に散り、下総・下野・上野を押さえにかかっている。流山へ向かう列の先には、土佐・備前・肥後などの兵が混じる。指揮は参謀の香川・広沢、そして土佐の板垣の名も耳に入った。甲州で刃を交えた相手の足が、もう江戸の縁に立つ。
朝靄のなか、土手の上に白い布が見えた。「官軍」の二文字。錦の御旗ではないが、名の力は十分だ。流山の陣屋に緊張が走る。永倉は歯噛みし、斎藤は一瞬だけ目を細め、土方は刀の位置を帯で半寸上げた。近藤——いや大久保大和は、座敷の端に座り、膝を正していた。肩の痛みは抜けない。痛みは人を正座させる。
官軍の使者が入る。言葉は簡潔だった。
「恭順開城の沙汰、江戸に行き渡り候。なおも兵を集めているは不埒の至り。直ちに隊伍を解くがよい」
近藤は「わしは新選組ではない、大久保大和である」と言い、甲陽鎮撫の趣旨を説いた。言葉は正しいが、旗は嘘を許さない。旗は「徳川」の匂いを嗅ぎ分ける。嗅ぎ分けられた匂いは、洗っても落ちない。
その日の午後、流山は包まれた。江戸川の堤、防塁の向こう、田の畦道、どこにも散兵の影がいる。銃の口がこちらを見たまま、時が止まった。土方は一呼吸だけ目を閉じ、そして言った。
「別れる」
別れる——二文字が、部屋の空気を切り分ける。東へ走る者、北へ抜ける者、江戸へ潜る者。静は即座に蓮の袖を引いた。半歩左。蓮は頷く。近藤は座敷の真ん中に残った。残る者の顔は、静かだ。静かさは、覚悟の色ではない。諦念の色に似ている。諦めるのではなく、諦念を身に着ける。そういう静けさ。
永倉は舌打ちして刀を背負い、「俺は北だ」と言って裏手の竹やぶに消えた。斎藤は「東」とだけ言い、土手を駆け下りた。土方は最後に一度だけ近藤を見た。言葉はなかった。その代わりに、帯の結び目をわずかに引き締めた。引き締める動作が、別れの礼だった。
静と蓮は、堤の葦の間を潜り、用水の木橋を渡って田の畦道へ出た。官軍の線は刻々と縮み、撃つ音が断続する。撃つ側は撃てるだけ撃つ。撃たれる側は、撃たれない道を選ぶしかない。静は畦の角を数え、竹の節の高さを見て、体を地に沿わせた。蓮は背中に泥を塗り、匂いを消し、足跡の形を乱した。影の仕事は、逃げる時ほど忙しい。
夕方、流山陣屋に白旗が上がった。白は清い色ではない。清いという幻想を人に与えるための布だ。布は軽い。軽い布の下で、重い名が下ろされた。大久保大和——近藤勇が出た。彼は自ら名を明かし、官軍へ身を委ねる。斬るも縛るも、相手次第。相手次第の身の置き方は、生き方の中では最も苦い。
翌日、江戸へ連れられる途中、近藤は市川から板橋へ回されることになる。江戸は開かれた。開いた江戸の外縁で、ひとりの男の門は閉じられる。板橋の処刑場は、まだ名を知られていなかった。名を知らぬ場所ほど、人の終わりには都合が良い。のちにその場所は多くの人に知られ、一本の松の名と結びつくことになるが、その時の空はただ白く、風は油の匂いを運んだ。
流山からの道すがら、蓮の胸は重く沈んだ。静は歩幅を崩さない。崩さないことでしか、崩れないものがある。崩れるべきものは既に崩れていて、崩してはならぬものが残り具合を試されている。そういう歩みだった。
「静……俺は、何を見届けたんだろうな」
「矢野さんが見たものは、名が落ちる瞬間です」
「名が落ちる音は、こんなにも静かなのか」
「はい。静かでなければ、町が割れます」
「町が……」
「江戸は、音で持っています。大きい音を増やさないために、静かな終わり方が選ばれました」
蓮は言葉を継げなかった。勝と西郷が会い、江戸城が開かれる。紙の上の名は美しい。美しい言葉は、誰かの血と誰かの沈黙の上に立つ。血と沈黙は誰のものか。紙には書かれない。書かれないから、影が担ぐ。
江戸は開かれたが、江戸の外縁では別の扉が次々に閉じた。上野の山で彰義隊が集まりはじめ、浅草寺の下では町の若い衆が角力のような真似で刀を持ち、甲州から退いた浪人らが芝居小屋の裏で噂を交わす。噂はすぐに「上野で一戦」という形になる。形になれば、火が入る。火が入れば、燃えるものは多い。
土方は北へ向かった。上野に与するわけではない。江戸の北を回って、下野・常陸の旧幕臣の動きを糸で繋ぎ、会津へ抜ける細い道を拾い集める。宇都宮城、今市、会津。足の先に雪が見える。雪は音を消す。消えた音の代わりに、人の息が濃くなる。濃くなった息を、誰が記す。
静と蓮は江戸の縁を滑るように動いた。深川の路地、両国の橋の下、谷中の墓地、根津の坂、駒込の植木屋。どこにも人がいて、どこにも紙がある。紙に書くことと、紙に書かれないことの境界は、日に日に狭くなる。狭くなるほど、影の足は速くなる。
春の初め、板橋の処刑が執行された(新暦でいえば五月のはじめ、旧暦では四月の末)。板橋宿の外れ、刑場の松のもと。首は台に置かれ、太刀が振り下ろされる。名はその瞬間、紙の中に固定される。固定されると、人は動けない。動けない名の代わりに、動く影がいる。影は、名を持たないまま次の土地へ伸びる。
その日、江戸の空は淡く、風は弱かった。蓮は遠くからその空を見て、胸の鈴を鳴らした。静は頷いた。声を出せば、何かが崩れる。崩れたものは、二度と同じ形に戻らない。戻らないなら、別の形で持てばよい。刃の角度を変える。呼吸の間を変える。歩幅を半寸縮める。そうして影は続く。
江戸城の無血開城の式は、四月十一日。白州に座る者、見届ける者、何も知らずに米を研ぐ者。すべてが同じ空気を吸った。城の石垣は黙り、堀の水は薄く光った。勝の背筋は伸び、使者の声は乾いていた。西郷は笑わず、目だけで礼をする。礼は大きな儀式の形になり、紙の上の字は太い線で引かれる。太い線の外側で、細い息が続いている。
上野の山はやがて火の海になる。彰義隊の黒い旗、官軍の榎本武揚の艦砲(のちの話だ)、砲声が浅草の屋根を越える。寛永寺の鐘楼は炎に舐められ、根本中堂の柱は熱で鳴く。その時、静と蓮はもう江戸にはいなかった。土方の糸に引かれて北へ。宇都宮城が開き、すぐにまた閉じ、砲声が那須の山に転がる頃、二人は雨に濡れた街道の泥に膝をついていた。
江戸への退却は、実はそこで終わってはいなかった。江戸城は開かれたが、江戸にいた人間の胸のうちの扉は開かれないままだ。開けども、開けども、内側にもう一枚扉があり、そこへ辿り着く前に、噂と命令と銃声が次の扉の方角を指し示す。指し示された方向へ、足は勝手に向く。歴史というものの足は、いつも人の足の少し斜め前を歩いている。
夜、那珂川のほとりで、二人は小さな火を起こした。火は湿った薪に負け、すぐに黒い煙を吐く。煙は目に沁み、涙が出る。泣いているのではない。煙のせいだと、胸に言い聞かせる。
「矢野さん」
「なんだ、静」
「名が落ちる音が静かだと、矢野さんは言いました」
「ああ」
「でも、その音は、長く残ります」
「そうか」
「はい。紙に書いた墨は乾きますが、音は乾きません」
「乾かない音を、俺たちは……どうやって持っていけばいい」
「背中に置きます。半歩左に」
蓮は笑いもしないで頷き、鈴を指先でつまんだ。鳴らない鈴が、かすかに震えた気がした。風が弱く、川の面が平らで、星がひとつだけ雲の切れ目から覗いた。星は名を持つ。北極星、昂星。だがその夜の星は、名を持たぬ方がふさわしかった。名を持たぬ光は、影の上に落ちる。落ちた光の形が、歩幅を決める。
江戸は遠くなり、江戸の声は背の後ろで小さくなる。小さくなるほど、悲壮は濃くなる。濃くなった悲壮は、温度を持つ。温度があれば、動ける。動ける限り、人は敗者ではない。敗者という名もいつか乾く。乾くまでの間、影は息を運ぶ。
春はまだ浅く、街道の両脇の土は冷たい。冷たさは刃を冴えさせる。冴えた刃で、二人は次の地名へ向かった。宇都宮、今市、会津——紙の上で見知った字が、やがて泥と血の匂いを持ち、声を持ち、息を持つ。その息が止まらぬうちに、影はまた半歩進む。
江戸への退却は、こうして新しい前進に連れ去られた。退くことと進むことの境は、歴史の紙の上では明瞭だが、夜の火の前では曖昧だ。曖昧なまま、二人は立ち上がる。立つという動作が続く限り、名のある者も名のない者も、同じ地面に立っている。それだけが、この国の風に抗える、いちばん確かな術だった。



