名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 慶応四年正月。鳥羽・伏見の敗走ののち、京から大阪へ、そして海路で東へ——道筋は地図では一本の線に見えるが、実際には折れて折れて、心臓の拍と同じように途切れ途切れだった。新選組の列は細く、羽織の浅葱色は泥に沈み、隊士の口数は少ない。背中の刀は道中の石の数だけ重さを増し、足袋の底に染みた泥は乾ききらぬまま次の宿へ運ばれた。

 大阪城の空は重く、海は鉛色で、港の板は潮気でふやけていた。港口の陰から黒い船影が滑り出る。徳川慶喜公の逃艦——開陽丸だ。夜の縁をかすめるように舵を切り、彼我の距離はみるみる開いていく。城の櫓から見ていた町人たちは声もなく肩を寄せ、誰かが吐き捨てるように呟いた。

「もう終いだ」

 誰も反論しなかった。言葉は火薬より速く広がる。新政府が立てた錦の御旗の赤は、まだ東の空に見えないのに、江戸の心まで先回りして染めていく。城内では雑具が運び出され、やがて大阪城にも火が入った。炎は高くはないが、古い木の骨まで確実に舐め、城の形を紙の地図に戻してしまう。城というものは、燃えると、ただの地名になる。

 我らは雑魚寝の舟底へ潜り込んだ。板は湿り、煤は肺に貼りつき、咳だけが夜を刻む。舟は紀淡海峡を抜け、相模へ向かう。甲板の上で潮の匂いを吸い直す者は少ない。吸えば吸うほど、京の火と泥が喉に戻るからだ。

 江戸湾に入り、品川の沖に錨をおろす。岸に上がると、街道に人の波があふれた。いつもの江戸の喧しさは形だけ保たれているが、笑い声の音程がわずかに低い。大名行列も、浅草寺の参詣も、芝居小屋の呼び込みも、どこか上ずっている。噂は早い。鳥羽・伏見の敗戦、徳川の退京、新政府の官軍号令、東征の隊列。すべての言葉が、実際の足よりも先に江戸に着いていた。

 我らの屯所は市ヶ谷の不動堂を借り、傷を抱えた者から寝かせていった。近藤は肩の具合が思わしくなく、夜半に痛みで息を詰まらせる。土方は眠らない。紙の上に江戸の地図を広げ、鉄砲方・徒目付・御先手・寄場組の名を書き込み、どの筋がどの噂を運んでいるかまで算木のように並べる。沖田総司は咳を隠し、稽古場ではいつもの笑顔を作るが、刀を振るうと短い吐血が袖に滲む。袖の赤はすぐに茶に変わり、茶は夜に溶ける。静は黙って桶の水を替え、総司の汗を拭う。蓮はその背を見て、刃より冷たいものに触れた気がした。

 江戸の町は情報でできている。大名小路には彼らの退城の噂、町人の辻には米の値、御用屋敷の軒先には出入りの動き、寺社の境内には江戸払いの名簿。浅草観音では、願掛けの短冊に「戦勝祈願」から「無事帰郷」に書き換えられた墨跡が並ぶ。日本橋のたもとでは魚河岸が今日の相場を叫ぶが、声は上の空。寺子屋の前では師匠が子に手習いをつけながら、紙背に耳を澄ませる。紙は薄いが、町の耳は厚い。

 そんな江戸に、新しい命が落ちてきた。甲府城の鎮撫——甲陽鎮撫隊の結成である。徳川慶喜公が恭順を示すために江戸城を開け渡すなら、甲府を押さえ、甲州筋からの官軍東上に防波を張る。甲州街道は江戸の喉であり、喉を塞がれれば、江戸は息を止める。徳川の旗がまだ風に翻っているうちに、江戸の外套を肩に掛け直す必要があった。

 甲陽鎮撫隊は、近藤勇を総督にいただき、旧幕臣や旗本の次男三男、浪人、八王子千人同心の一部、鉄砲巧者と噂の者までを寄せ集めて編成された。銃は足りない。火縄は古く、ミニエー銃は数えるほど。薩長の新式銃——スナイドル、エンフィールド、シャスポーが噂にのぼるたび、土方の眉間の皺が半分だけ深くなる。玉薬も潤沢ではない。江戸の鉄砲店を回っても、裏蔵にしまってある新式銃は紙の上の数字にしか出てこない。あるのは、昔からの火縄と、手入れの行き届いた槍。槍は場を選ぶ。場を選ばせないのが官軍の銃だ。

 夜、蓮は土方に問うた。

「俺たちは……まだ戦えるんですか」

 土方は筆を置き、墨を乾かす間だけ目を上げた。

「戦えるかどうかではない。戦うしかない」

 その言い方に救いはなく、現実だけがあった。静は脇で刀を研いでいる。刃の艶は淡く、研ぎの音は細い雨の音に似ている。蓮は堪え切れず、押し殺した声を大きくした。

「どうしてそんなに迷わないんだ、静」

「迷えば刃が鈍るからです、矢野さん」

「俺たちは人間だ! 迷うのは当たり前だろう!」

「俺は影です。人である必要はありません」

 静の声はいつも通り柔らかいのに、言葉は硬い。硬さは刃の背でできている。蓮はその硬さに歯を立てる術を持たなかった。

 甲州街道へ出る日はすぐに決まった。市ヶ谷から四谷へ、内藤新宿で最初の一休み。宿場の本陣は官軍の伝令でごった返し、脇本陣の座敷では町役人が顔色を読み合い、茶屋の娘は口を噤んで湯のみに湯を注ぐ。浅草から回ってきた布売りが「薩摩の兵は背嚢が新しい」と囁くと、すぐに「薩摩は金がある」という結論に飛ぶ。噂の算盤はいつも桁が足りない。それでも人の足を動かす。

 高井戸を過ぎ、府中を抜ける。多摩川の水は冬でも強く、橋板は薄く揺れる。橋のたもとで、八王子千人同心の古手が我らの列を見て小さく頭を下げた。彼らは「徳川の弓」として関東を守り続けてきた。だが、今は半分は官軍につき、半分は家を守るために動かない。揺れる柱は、折れない。だが、寄りかかることもできない。

 八王子宿は人の流れが乱れていた。商人の荷が減り、代わりに武具の出入りが増える。鉄砲鍛冶の煙管から出る煙の匂いは、普段より辛い。道具が急ぎで火を入れられている匂いだ。土方は古い馴染みの鍛冶屋に入り、短く話したあと、木箱二つを受け取る。中身はエンフィールド銃の古型と、替えの雷管少々。足りない。だが、ないよりましだ。

 高尾を越え、与瀬、上野原へ。山は近く、空は低く、甲州路の風は江戸とは別の匂いを運んでくる。ぶどう畑はまだ芽吹かず、棚の影だけが雪の上に格子模様を落としている。沿道の家から、子が顔を出して浅葱の羽織を指さし、母が慌てて引っ込める。「壬生狼」という言葉は遠く甲州にまで届いていた。狼は、今や追われる側だ。

 道中の口銭は尽き、蓮と静は裏道の井戸や名主の蔵を回って米と乾物を手配した。新政府の先払い札をちらつかせる連中がいる前では、銭の力は弱い。だが夜、名主の奥座敷で土方が一筆書くと、翌朝には米俵が軒先に置かれる。紙は、誰が書くかで重さが変わる。土方の字は細く、強く、紙に刺さる。

 やがて甲府近郊の黒駒で足を止めると、耳に痛い噂が入った。甲府城はすでに新政府の手に落ちた、と。土佐の板垣退助が兵を率いて先手を打ち、城代・酒井氏は戦わずして退去。城下は官軍の兵糧庫に変わり、甲州街道の喉元は締め上げられている。紙の上の地図では、甲府城の石垣は動かない。だが、旗が立つ場所は変わる。旗が変われば、城は別のものになる。

 土方は即座に進路の修正を指示した。甲府の石垣に取り付くのではなく、その手前の勝沼・柏尾・大和の山裾で列の動きを止め、官軍の胸を押し返す。山裾の旧道、葡萄の棚の間、寺の墓地の石を利用して銃を据える。江戸の町より狭い場所で、数を減らす。算盤は冷たいが、正しい。

 夜、黒駒の宿で火を囲み、近藤・土方・斎藤一・永倉新八、そして静と蓮が膝を寄せた。室内には渋紙の匂いが濃く、壁の柿渋が湿って光っている。近藤は片肩をかばいながらも声を張った。

「甲府が落ちたなら、勝沼で止める。甲州は江戸の背戸口だ。ここで土に爪を立てる。俺たちが動けば、江戸の心が保つ」

 土方は目だけで頷き、斎藤は短く「承知」と言い、永倉は刀の鞘を叩いて音を確かめる。静は黙っている。蓮は黙るしかない。この顔ぶれの中で、言葉は刃以上に慎重でなければならないからだ。

 ふいに、遠くで鐘が鳴った。寺の時の鐘。甲州の夜を区切る音は、京の鐘より乾いている。乾いた音は、刃の背に似ている。蓮は火を見つめ、心の底で鈴を一つ鳴らした。鳴らない鈴が鳴る時、人は立てる。

 翌朝、甲州街道の空は鉛色で、風は葡萄棚の針金を揺らし、枯れ蔓が鳴った。勝沼の手前、柏尾のあたりで、先手の斥候が戻る。官軍はすでに勝沼宿に布陣、銃列を葡萄棚の段々畑に据え、道の左右に散兵線を敷いている。銃は新式。連発の声はないが、装填の速さが違う。旗は錦。旗の赤は寒い空にいやに鮮やかだ。

 土方が短く指示を飛ばす。

「右、斎藤。左、永倉。中央は俺と近藤。静、お前は裏の用水を押さえろ。矢野は静に付け」

「了解」

 蓮は返事をし、静の背に半歩左で着いた。用水は葡萄畑の下を流れ、石組みの間に空気の冷たさが溜まっている。そこを渡れば、官軍の横腹に手が届く。静は水の音を一度聞いただけで深さを測った。蓮は袴をたくし上げ、足を踏み入れる。冷たさが膝を刺し、骨まで速く登る。登る冷たさに、心が縮こまりそうになる。

「矢野さん」

「分かってる。——行ける」

「はい。三息で渡ります」

 一息目で水を切り、二息目で足場の石を踏み、三息目で対岸の土に指を差し込む。指の間に冷たい泥の重さが入ってきて、それが逆に体を温めた。温まったのは、血が動いたからだ。動けば、斬れる。

 対岸の葡萄棚の柱の影に身を入れる。上から土と小石がぱらぱら落ちる。官軍の足が、棚の上を移動している。足音は軽い。靴底が厚い音だ。江戸の草履とは違う。厚い靴底は濡れた土に強い。強い足は、前に来る。来るなら、そこに刃を置けばいい。

 静が棚の柱に指をかけ、体を半分だけ出した。刃は鞘にあり、目だけが動く。目の動きで、人数、装備、間隔、疲れを見る。見る目は、剣より古い。蓮は息を殺し、静の気配をなぞる。なぞれる時、人は怖れを外に置ける。

 葡萄棚の上から、最初の官軍兵が飛んだ。足場を読み違えたのか、片足を滑らせ、半身をこちらに向けた瞬間——静の手が鞘を押し、刃が白い線になった。喉を切らず、顎の下を斜めに浅く。「声を止める斬り」だ。次の一人が慌てて振り向く。蓮は柄でこめかみを打ち、体の重さで肩を押さえ、その隙に二度目の浅い斬りを入れる。血はほとんど出ない。出ないほうが、周りは気づかない。

 だが、銃声は容赦ない。正面からの一斉射が葡萄棚の間に煙を押し込み、弾丸が蔓を千切り、柱を欠けさせ、土を跳ねる。土の匂いが急に濃くなる。蓮は体を伏せ、静の足首を掴んだ。掴んだ先が確かなら、人は伏せたままでも前へ進める。

 官軍の合図の笛が鋭く鳴り、側面からも散兵が回り込む気配がした。土方の指示が遠くで飛ぶ。「退き際ほど、真っ直ぐに!」——退くのは斬るより難しい。背は目を持たない。背に目がないから、誓いが要る。蓮は静の半歩左を保ち、用水に体を落とし、冷たさで恐怖を洗い流しながら岸へ這い上がった。這い上がる速度は遅い。遅さを斬りが補う。静の刃が一度だけ深く入った。深さは、命令の代わりだ。

 勝沼の初撃は、押し返しきれなかった。甲州の空は狭く、官軍の銃は長く、我らの足は泥に引かれる。隊の中央では近藤が声を張り、永倉の刀はいつもより重い音を立て、斎藤の刃は音を立てずに戻る。土方の目は冷たく、計算だけが炎のように熱い。

 日が傾きはじめるころ、我らは柏尾から大和へ、さらに上へと退いた。退くたびに、沿道の視線が刺さる。家の軒の陰から女がこちらを見て、すぐに戸を閉める。閉める音は小さいのに、刀で打たれるより痛い。子が泣き、父が黙って背を向ける。黙った背は、我らの胸の奥に突き刺さる。江戸から甲州へ来た時、背は我らの味方だった。今は、我らの敵でもある。

 夜、山裾の寺に転がり込み、灯を小さくした。徳本上人の石塔が黒々と立ち、経の文字が夜露で光る。堂守の老人が「ここで良い」と一言だけ言い、藁を持ってきた。静は総司の咳のことを老人に尋ね、湯の沸く音が座敷の隅で始まった。蓮は刀を拭き、布の端で刃の線を確かめる。線は真っ直ぐだ。真っ直ぐなのに、世界は曲がっていく。

 湯気の向こうで、近藤が咳を押し殺す。土方が薬を煎じ、斎藤が無言で外を見張り、永倉が夜目に慣れた猫のように柱の影にいる。静は総司の背を撫で、蓮は火に手をかざす。火は人を平等に暖める。平等という言葉は戦に似合わない。だが、火の前だけは使っても良い。

 蓮の胸に、江戸の声が蘇る。

「もう幕府は終わりだ」

 鳥羽・伏見の後、街道筋の茶屋で、宿場の番所で、馬子の口から、魚河岸の台の上から、何度も何度も聞かされた言葉だ。終わるものはいつも、始まるものより重い。重いものは背に乗る。乗った重さを降ろす場所はどこだ。江戸か、甲府か、会津か、箱館か。紙に書けば、地名は軽い。だが、そこに行く足は重い。

「静」

「はい、矢野さん」

「俺たちは……何のために戦ってるんだ。江戸のためか、徳川のためか、俺たちのためか」

「息のためです」

「またそれか」

「はい。町の息は、紙より先に止まります」

「紙は、あとで書き直せるってか」

「はい。だから、今は紙ではなく、息を守ります」

 理屈は冷たいのに、胸の火は少しだけ大きくなった。大きくなった火は、すぐに消えはしない。

 翌日、我らはさらに街道を戻り、甲州勝沼の地へと再び向き合うことになる。官軍の旗は増え、銃列は厚く、甲府城の石は無言を貫く。甲陽鎮撫隊の名は、紙の上でだけ太く、現実では細い。細さを補うのは、刃と足と、そして名のない影の働きだ。

 江戸の町へと退く者、山へ散る者、官軍へ寝返る者——動きはそれぞれだ。だが、我らの動きは一つ。退きながら、息の道を一本でも多く残す。甲州街道の脇道、裏畑の細い蹊、寺裏の抜け、渡し舟の澪筋。静は紙に描かれない道だけを選んで歩いた。蓮はその後ろで、目に見える道を塞ぐ。見えるものは、壊れやすい。見えないものは、残りやすい。

 夕刻、勝沼の葡萄棚の間から、西日に錦の布がちらりと見えた。赤は美しい。美しいものは、人の心を早く奪う。奪われないように、蓮はあえて泥の色を凝視した。泥の中の小石の角を覚える。角があるものは、刃を鈍らせる。鈍らないために、刃の背で角を撫でる。撫でるたび、心は少しだけ落ち着く。

 土方の声が再び飛ぶ。

「今夜はここまでだ。火を小さく、息を長く。——江戸へ退く準備を怠るな」

 江戸へ退く。言葉は短いが、その背後には幾千の視線と幾百の嘲笑と幾十の墓が重なる。江戸は大きい。大きい町は、崩れるときに音が遅い。遅い音に、我らは間にあうのか。間に合わなくても、行くしかない。行くしかないから、刃を研ぎ、足を洗い、帯を締め、呼吸を合わせる。呼吸を合わせることだけが、明日への準備だ。

 夜更け、寺の鐘は鳴らなかった。かわりに遠くで犬が吠え、もっと遠くで銃の音が一つだけ鳴った。銃の音は、夜をその場で切る。切られた夜の切り口から冷気が入り、骨に触れ、痛い。痛みは、まだ生きている証だ。生きている限り、退却は続く。退却は敗北ではない。敗北と呼ばれることと、敗北であることは、別だ。紙は前者を早く記す。後者は、息が決める。

 蓮は背を柱に預け、眠らない目で天井を見た。煤で黒く、蜘蛛の巣が張り、木の目が走る。木は昔からここにある。戦が来る前も、戦が去った後も。人は来て、去る。名は書かれて、消える。影は、書かれずに、残る。残るものに、意味があるかどうかは、明日の息が決める。

 静は火のそばで目を閉じ、呼吸を均した。目を閉じても、耳は開いている。耳の奥で、蓮の鈴が小さく鳴った。鳴った気がしただけかもしれない。だが、その気が、大軍の旗一枚よりも、今は大切だ。

 江戸への退却は、甲州の土の冷たさと、江戸の空の重さと、紙の上の新しい言葉の速さを引き連れて始まった。悲壮は表に出ない。出さないように、火を小さく、刃を静かに、歩幅を半寸ずつ揃える。揃えるたびに、敗者の列はただの人の列に戻っていく。人の列のほうが、長く続く。続くものだけが、歴史の陰で息をする。

 明け方、山の端が白んだ。白は薄く、すぐに灰に飲まれる。だが、白は確かに朝だった。朝が来る限り、退却は歩みだ。歩みがある限り、敗者は完全ではない。完全でない敗者は、いつか別の名で呼ばれる。呼ばれなくても構わない。呼ばれなくても、背はある。背がある限り、静は半歩左に立ち、蓮はそこに呼吸を重ねる。

 江戸へ。甲府の石垣が背に沈み、葡萄棚の影が細くなり、甲州街道の里程標が一つ二つと過ぎていく。沿道の噂は冷たく、空気は鋭く、足は重い。重い足音が、紙にならない歴史を刻んでいる。その音だけが、確かな記録だった。