舟底の板はしけっていて、足裏にいつまでも冷たさが残った。大阪へ退いたあと、空は一度も晴れなかった。雲は低く、潮のにおいに湿った土と人の汗が混ざり、港の空気は息を吸うたびに重くなる。蔵屋敷の白壁は灰にくすみ、旗はどれも垂れ下がっていた。武家の門は閉ざされ、裏木戸だけが忙しく軋む。皆が声を潜めて喋るから、余計に人いきれが濃い。叫び声ではなく、黙っていることのほうが人を疲れさせる。
蓮は堤の上で片膝を立て、深く息を吐いた。鼻の奥に銃の煤が残っている気がして、何度息を入れ替えても消えない。鳥羽伏見の泥は乾かず、衣に固まって鉛みたいに重い。身体が重いだけならまだ良い。目の裏に焼き付いた旗と倒れた背の数が、体温より重い。
港口を見張る御用船の影が揺れ、黒い背中がゆっくりと沖へ向かっていく。噂は本当だった。将軍は海へ出た。見送る者はいない。誰も、見たくないのだ。見なければ、まだ江戸が続いている気がする。見れば、何かが終わる。終わるものを、人は見ない。
「矢野さん」
静が背後から来た。白は鼠に沈み、鼠は潮色の空に溶けて、声だけが人の印を作る。
「出たか」
「はい」
「……早いな」
「遅いより、早いほうが、壊れにくいです」
「理屈かよ」
「すみません」
謝る声はいつも通りなのに、わずかに息が深い。深い息は、言わなかった言葉の重さを隠す。蓮は堤の端に座り直し、港町の雑踏を見下ろした。露払いの音も囃子もないのに、人は動く。荷を背負う者、子を抱く者、空の籠を肩にかけた女、別れを言い忘れた顔の若者。誰もが自分の生活の端を握りしめている。幕府も新政府も、生活の端に比べれば薄い紙にすぎない。
「静。……俺たちは何を守ってきたんだ」
「息です」
「息?」
「はい。町の、息です」
「息なんか、どこにでもある」
「どこにでもあって、すぐに止まります」
港の端で、鳶口を持った男達が隊士の死体を運んでいた。肩にかけた布から足が覗き、指の間が泥で固くなっている。そばで子が泣き、母が口を塞ぐ。泣き声が上がれば、誰かの怒りが目を覚ますからだ。怒りは、今は人を救わない。怒りは旗に向けて使われると、すぐに刃に変わる。
新選組の屯所代わりの蔵には、湿った藁が敷かれ、負傷者が横たわっていた。近藤は袖を裂いて肩を縛られ、土方の声が低く落ち、必要な命令だけが短く飛ぶ。総司は表に出ては咳を噛み殺し、奥に引っ込んでは息を整える。咳の音は短く、深い。深い咳は、刃の練れた音に似ている。鋭さがあるぶん、人の心を切る。
夜、雨はさらに細くなった。細くなると、確かに冷える。蓮は廃寺に転がりこんだ。本堂の板は浮き、守りの神の面は煤けて目が深い。香炉の灰は湿っており、誰かが昼間に線香を立てたらしい。漂う香は薄く、土の匂いが勝っている。柱に背を預けると、柱が冷たいからか、背骨がまっすぐに戻った。
そこへ女が二人、子を連れて身を寄せた。衣の裾は泥で重く、目の下は黒い。ひとりが布を解き、包みの中の白いものを見せた。赤子の手。冷たい。女は声を発さない。声は、出したら戻ってこないからだ。もうひとりの女がその手を布に戻し、合掌して目を閉じた。蓮は立ち上がり、入口の隙間を藁で塞いだ。風が弱まるだけでも、夜の冷たさは人を殺さなくなる。
「ありがとうございます」
女の声は小さく、礼を言うことで自分が崩れないようにしていた。蓮は首を振って、火を起こした。火は人を日常に戻す唯一の術だ。炊ぐ米がなくても、火を見ているだけで人は“いつもの夜”を少し思い出す。いつもの夜を思い出すことが、明日の朝を作る。
火が安定すると、静が入口に姿を見せた。雨粒が肩から滴る。蓮は顎で火のそばを示した。
「座れよ」
「はい、矢野さん」
静は火に手をかざし、指の節をひとつずつ温める。指の骨が鳴る小さな音がした。女たちは静の白を見て、短く目を伏せた。白は怪異の色だ。だが、怪異が火に手をかざす光景は滑稽で、少しだけ怖さを薄めた。
「静、総司は」
「咳が深くなっています。熱も」
「戦えないのか」
「はい。——だから、俺が前に出ます」
「前だけじゃねえ。後ろもだ」
「はい」
火がぱち、と弾ける。炭の割れる音は、息を整える。蓮は刀の柄に手を乗せ、指の腹で木目をなぞった。柄の木は、人の汗を吸って、柔らかくなっている。柔らかいものは、折れにくい。折れにくいものに、今夜だけは寄りかかりたかった。
翌朝、港の空気は赤かった。朝焼けではない。倉が燃え、油が延び、煙が低く走っていた。叫び声がない。燃える音だけが、無言で町を削る。火は誰の味方でもない。だが、火はいつも勝者の言語になる。焼けた町は、書き換えられることを受け入れる。受け入れさせられる。
蔵の裏で、総司が吐いた。血が混じる。白い布に花が咲いて、すぐに茶色になる。静は黙って背をさすり、手拭いを水に浸して額に当てた。総司は笑った。笑うべき時ではないのに、笑う。人は崩れそうな時に笑う。笑うと、刃の筋が一瞬見える。
「静。……君の背は、冷たくて助かる」
「すみません」
「謝るな。蓮」
「なんだ」
「君の鈴は、まだ鳴るか」
「鳴る。いつでも」
「一度でいい、と言ったけどな。……たぶん、何度も要る」
「何度でも鳴らす」
言い切ると、胸の内側の鈴がほんとうに鳴った気がした。音は外には出ない。出ない音のほうが、背の骨に届く。
港での準備は雑だった。雑にせざるを得ないほど、時間がなかった。舟は満載になり、残る者が岸に溢れる。泣き声はやはりない。代わりに、唇を噛む音が増えた。噛む音は、怒りと恐れの間にある。間にある音は、長く続く。
蓮と静は、残る側だった。舟に乗るのは、傷の深い者、生き延びても戦えない者、子と女、そして命を次につなぐために必要な者。次、という言葉が痛かった。次がある、と言い切れないからだ。次があると思うほうが、人は動ける。嘘だとしても。
退いた先で江戸の話が出ると、蓮の胸はざわめいた。江戸の音は太い。太い音は、背中を温める。だが、温まりすぎると鈍る。鈍った背は、刃を落とす。刃を落とせば、人が死ぬ。人が死ねば、名が残る。名が残れば、誰かが縛られる。頭の中の輪はぐるぐる回り、解く端が見つからない。
「矢野さん」
静が小さく呼んだ。蓮は振り返る。静の目は、まっすぐだった。まっすぐなのに、硬くはない。
「今日は、三つだけ潰します」
「どこだ」
「堀川筋の裏手、薩摩の積み荷の抜け道。伏見屋敷の裏庭に入る合図。——それと、町の火事場見舞いに紛れた刃」
「三つじゃ足りない」
「三つ潰すと、七つ止まります」
「理屈だ」
「はい」
堀川筋の裏手は、昨夜より人が少ない。火の手が近い筋から人が引いた。引いた隙に、金と噂と刃が動く。静は戸口の位置と雨樋の傾きを一度見ただけで、通りの“流れ”を読み、細い路地へ身を入れた。蓮は表で人の視線を引き受け、さりげなく立つ。立つだけで、道は狭くなる。狭い道は、走りにくい。走りにくいと、刃は遅れる。遅れた刃は、止めやすい。
積み荷の抜け道は、井戸の裏から細い板橋を渡って土壁の裾へ行く。板橋の下に桶が仕掛けてあり、動くと水が鳴る。鳴る音が合図になって、奥の者が戸を開ける。静は板橋の板目を一つはずし、桶の位置を半寸ずらした。半寸の違いで、音は鳴らない。音が鳴らなければ、戸は開かない。開かない戸の前で、刃は焦る。焦る刃は、鈍る。
伏見屋敷の裏庭へ入る合図は、竹垣の節に彫られた小さな傷だ。傷の位置を別の節に移すだけで、合図は嘘になる。嘘の合図に従って入った者は、見張りに捕まる。捕まった者が口を割らなくても、時間は奪える。時間は、戦の本体だ。金でも人でもない。時間。
火事場見舞いに紛れた刃は、最も厄介だった。人が善意で集まる場所は、刃にとって最高の隠れ蓑になる。米俵を抱えた男の後ろから、布を掛けた腕が伸びる。腕の角度が刃物の角度だ。蓮は人の流れの端に入り、米俵の後ろへ回り、腕を掴んだ。手首の骨が細い。女の手だ。女の目が一瞬怒り、それから恐れに変わる。恐れに変わる速度は、人を救うことがある。蓮は刃を奪い、女の手を放した。女は俯き、米俵に額を押しつけた。善意と生き延びたい気持ちと憎しみは、いつも同じ場所に重なる。重なった場所で、刃は生まれる。
昼過ぎ、蔵に戻ると、近藤の顔色がさらに青白く、土方の目がさらに冷たかった。冷たい目は、怒りではない。怒りは熱い。冷たい目は、計算だ。計算の結果、捨てるものが決まった、という目だった。捨てるものの中に、名が含まれる。名が捨てられる時、紙は綺麗だ。紙が綺麗なほど、現は汚れる。
総司は、刀の手入れをしていた。刃ではなく、鍔を拭いている。鍔の模様に指を滑らせ、細い埃を払う。刃を拭くには力が要る。力は、もう出ない。
「静。——今日の空は、良くないな」
「はい」
「蓮。君、よく食べたか」
「……なんだよ、いきなり」
「食べなきゃ、鈴は鳴らない」
「鳴らすために食うのか」
「僕らは何ででも食う理由を作る」
笑って言う。笑いは軽いが、言葉は重い。軽い笑いと重い言葉が一緒にある時、夜が早く来る。夜は人を救うことがある。昼は、長すぎる。
夕方、港の端で、馬が倒れた。荷を引いていた痩せた馬だ。足をとられて転んだのではない。力が尽きただけだ。縄で前足を縛られ、立て、と怒鳴られ、立てず、鞭を受け、目が濁って、静かになった。飼い主の男が鞍を外し、木に掛けて、馬の首に額を当てた。泣かない。男は、泣くことを忘れている。忘れたほうが、立っていられる。
「静」
「はい、矢野さん」
「俺は、何に怒ってるんだろうな」
「何に、でしょう」
「旗かな。紙かな。銃かな。人かな。俺かな」
「怒りは、刃の角度を浅くします」
「また理屈だ」
「はい。怒りは、鈍らせます」
「……鈍りたくねえ」
「鈍らせません」
静の声は硬くはなく、だが揺れない。揺れない声は、刃の背をなぞる音と同じだ。背をなぞられれば、刃は落ち着く。
夜になって、風が変わった。西からの湿った風が、灰と油の匂いを運ぶ。岸辺に立っていると、海は真っ黒ではないのだと知る。真っ黒なら楽だ。何も見えないから。黒に灰と赤が混ざって、遠くの波頭が薄く光る。光るのに、寒い。光るのに、何も救われない。
廃寺に戻ると、昼間の女はもういなかった。紙の端に包んだ何かが、香炉のそばに置かれている。包みを開けないで、蓮は両手で持ち上げた。軽い。軽いものは、すぐに空へ行く。空に行く途中で、誰の名も取らないで欲しいと、心の中で言った。誰の名も取らないでくれ。名は、生きている者の重さを保つ唯一の紐だ。
火を起こし、静と向かい合って座った。火の炎が低く、燈芯の油が尽きかけた行灯のように頼りない。
「矢野さん」
「なんだ」
「明日、江戸へ戻る舟に、総司を乗せます」
「……そうか」
「はい。京の夜は、総司の肺には冷たすぎます」
「江戸なら、助かるのか」
「分かりません。——でも、背中の鈴は、江戸のほうがよく響きます」
「そうだな」
言って、蓮は顔を伏せた。助かるかどうかより、響くかどうか。響くことのほうが、今は現実だ。現実は、紙とは別のところにある。紙に書けない現実だけが、身体を動かす。
明け方、空が白む前に、静は総司を舟へ運んだ。肩に負担をかけないよう、帯で胸を支え、肋の角度に合わせて布を巻く。総司は軽くなっていた。軽いのに、重い。軽い体に詰まっている年月が、重さを作る。蓮は舟縁で見送り、手を上げる代わりに、胸の鈴を鳴らした。総司は気づいたように、目で笑った。声で笑う力はもうない。目の笑いは長く残る。目は、紙にならない。
舟が出ていく。静は岸で立ち尽くし、白の袖を一度だけ握った。握った手を開くと、海風がすぐに指の隙間をすり抜けていく。すり抜けていくものを、追いかけないのが静のやり方だ。追えば、背が空く。背が空けば、刃が入る。
「静」
「はい、矢野さん」
「お前は、この先、どこに立つ」
「矢野さんの背の、半歩左です」
「聞き方が悪かった。——誰のために、立つ」
「息のために」
「人のためじゃなくてか」
「人は、息の中にいます」
端折った答えに、蓮は笑うのをやめた。笑いは時々、刃を曲げる。曲がった刃は直れば良いが、戦の場では直す時間がない。時間がないときに頼れるのは、誓いだけだ。
「俺は、お前の背を守る。何度でも。——約束は変えねえ」
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
「はい。では、約束の確認です」
「お前、ほんと理屈っぽいな」
「すみません」
二人の間に、短く、しかし重い沈黙が落ちた。沈黙の重さは、約束の重さだ。紙は軽い。軽いものは、風で飛ぶ。飛ばないものは、背で持つ。
港がさらに荒れ、岸が騒がしくなった。新政府軍が近づく。薩摩の足軽の草鞋の音は、江戸の太鼓に似ている。太い。太い音に、腹の奥が反応する。反応してはいけない。反応すると、前に出る。前に出るべき時は、もう過ぎた。今は退く時だ。退く時に前へ出るのは、死ぬためだ。
大阪城の石垣は黙っていて、誰の味方でもなかった。石は古い。古いものは、理不尽の数をたくさん見てきて、何も言わない術を覚える。雨が止み、空が低いまま明るくなった。明るいのに、冷たい。冷たいのに、人は立つ。立つという動作だけが、戦と生活の両方に共通している。
退き支度の中、土方がこちらを見た。目の冷たさの奥に、わずかな熱があった。熱があるから、氷にならない。氷は綺麗だが、折れやすい。土方は折れない。
「お前たちは西を回れ。橋の下の板を外しておけ。噂が先に走る。噂の足を引っ掛けろ」
「承知」
静が答え、蓮が頷く。橋の下の板は、もう一度音を変えられる。音が変われば、人の動きが変わる。人の動きが変われば、刃の入り口が変わる。入り口が変われば、出口も変わる。出口が変われば、命が一つ残る。
橋へ走る途中、焼け残りの町の路地で、小さな店の棚が倒れていた。陶の茶碗が割れて、欠片が石畳に散る。昨日の爺の声がよみがえった。「割るなよ。割ったら、音がでかい」——音は出た。大きな音だった。蓮は欠片の一つを拾い、掌の中で軽く握った。掌に沿う曲線は、完全だった頃と同じ優しさを保っていた。壊れても、形の欠片は優しい。優しさは、戦で一番欠けやすい。
橋の下は暗く、湿っている。水面が近く、冷たい気配がすぐ鼻の奥まで上がってくる。板は四枚。右から二枚目の継ぎ目が甘い。静は継ぎ目の釘を一本だけ抜き、板が人の重みでわずかに沈むように調整した。沈む板は、走る足の勢いを奪う。奪われた勢いは、怒りを鈍らせる。鈍った怒りは、恥じやすい。
「静」
「はい」
「人を殺さずに済む工夫ばっかり、よく出てくるよな」
「殺せる工夫は、いつでもあります」
「……そうだな」
「殺せる工夫がたくさんあるから、殺さずに済む工夫を先に置きます」
理屈の端に、静かな熱があった。熱は、人を生かそうとするときに必要だ。冷たいだけでは、人はすぐに折れる。折れないために、熱がいる。
橋から戻ると、港はさらに騒がしく、空はさらに低かった。遠くで太鼓。近くで誰かの名を呼ぶ声。名を呼ばれた者が振り返る。振り返ると、背が空く。空いた背に、戦の音が入る。音は刃ではないのに、人を斬る。斬られないように、蓮は背を壁に合わせて立った。静も半歩左で同じ姿勢を取る。並ぶと、隙が減る。隙が減ると、音は通り抜けていく。
その後の数刻は、記憶が飛び飛びだ。出航する舟を見送り、取り残された荷を別の舟へ回し、喧嘩の火種を砂で消し、抜き身を柄で押し戻し、倒れた子を抱き上げ、落ちた銭を拾い、返し、火の粉を踏み消し、道をずらし、言葉の角を丸め、誰かの肩を叩き、誰かの腕を掴み、誰かの目を見た。目を見れば、刃は一拍遅れる。一拍が、命だ。
夕暮れ、潮が満ち、空の色が薄い紫に変わった。紫は高貴の色だと誰かが言った。戦場の紫は、ただ寒い。寒さが骨に入る前に、蓮は廃寺へ戻った。誰もいない。本堂の隅に置かれた紙包みは消えていた。代わりに、香炉の灰の上に焦げた香木の破片が一つ残っている。香りはしない。香りがしない香木は、ただの炭に近い。炭でも、灰よりは形が残る。
静が遅れて入ってきて、板に膝をついた。手の甲に細い傷。傷口が開き、血がにじむ。蓮は手拭いを濡らし、傷に当てた。静は目を閉じ、一度だけ息を深くした。深い息は、痛みを遠ざける。
「矢野さん」
「なんだ」
「今日、三つ潰しました」
「見てた」
「はい。——七つ、止まりました」
「感じてた」
二人は笑わない。笑わないで、火を起こした。火があると、言葉が少なくなる。言葉が少ないと、誓いは濃くなる。濃いものは、薄めないと喉を通らない。薄めるのは明日の仕事だ。今夜は濃くていい。
「静」
「はい、矢野さん」
「俺たちの名前が、紙に書かれないのは、まだ許せる。——けど、今日抱き上げた子の顔が紙に書かれないのは、許せねえ」
「はい」
「許せねえけど、やれるのは、明日も立つことだけだ」
「はい」
「立つのが怖い時、鈴を鳴らす」
「はい。俺も、鳴らします」
鳴らない鈴が、二つ、火の上でわずかに揺れた気がした。気がしただけだ。気がしたことのほうが、長持ちする。長持ちするものに頼って、明日を継ぐ。
夜半、雨はやんだ。音が消えると、心臓の自分勝手な音が耳の裏で増幅される。うるさい。うるさい音は、鈍い刀の擦れる音に似ている。嫌いだ。嫌いだから、蓮は行灯の芯を少し切った。灯が低くなり、影が濃くなった。濃くなった影は、足元を温める。温まった足で、蓮は板の間に小さな円を指で描いた。円の中心に、明日の呼吸を置くつもりで。
明けて、港の西の空が白む。白は薄く、すぐに灰に飲まれる。それでも、白は白だ。人は白に向かって立つ。立つ姿は、誰が見ていなくても、美しい。美しいという言葉は戦場に似合わないのに、こういう時だけ、似合う。
退く道は東へ延び、また西へ折れ、折れてまた戻る。真っ直ぐには行けない。真っ直ぐな道は、旗のためにある。旗のない者は、曲がる。曲がる者が、長く残る。残った者だけが、息を伝える。息の伝え方が、名に勝つ日が来る。来ないかもしれない。来ないなら、来ないままでいい。来ると決めるのは、紙だ。紙は、遅い。
静が立ち上がり、帯を締め直した。蓮も立ち、刀の鞘を軽く叩いて確かめる。音が軽く、芯がまだ生きているのが分かる。生きている。生きているから、悲惨さが増す。生きているから、切なさが濃くなる。濃くなった切なさが、背中の温度を上げる。
「行くぞ、静」
「はい、矢野さん」
廃寺の戸を開けると、朝の冷気がまともに頬を打った。頬が痺れる。痺れは、痛みの前触れだ。前触れがある痛みは、耐えられる。前触れもない痛みは、銃だ。銃は、今日も鳴る。鳴るけれど、鈴も鳴る。鳴らないで鳴る鈴は、背の骨で響く。
鳥羽伏見の敗走は、紙の上では数行で足る。だが、紙から零れ落ちるもののために、二人は今日も立つ。名はなく、旗はなく、ただ背の形と刃の筋と呼吸だけを持って。悲惨さと切なさは、消えない。消えないものを抱えたまま、足を出す。足を出すという事実だけが、救いになる。
救いは、遠くではなく、足下に落ちている。拾うたびに手が切れ、血がにじむ。にじんだ血の生温かさが、たしかに生きていると告げる。告げる声は小さい。小さい声を、鈴が拾う。拾った音が背に集まり、背は折れない。折れない背を二つ、互いに寄せ合って、二人は人の流れの縁へと溶けていった。
名は、今日も書かれない。だが、影は今日も続く。続いてしまうことが、時に一番の残酷だとしても。続けるしかないことが、唯一の優しさであることも、確かだから。
蓮は堤の上で片膝を立て、深く息を吐いた。鼻の奥に銃の煤が残っている気がして、何度息を入れ替えても消えない。鳥羽伏見の泥は乾かず、衣に固まって鉛みたいに重い。身体が重いだけならまだ良い。目の裏に焼き付いた旗と倒れた背の数が、体温より重い。
港口を見張る御用船の影が揺れ、黒い背中がゆっくりと沖へ向かっていく。噂は本当だった。将軍は海へ出た。見送る者はいない。誰も、見たくないのだ。見なければ、まだ江戸が続いている気がする。見れば、何かが終わる。終わるものを、人は見ない。
「矢野さん」
静が背後から来た。白は鼠に沈み、鼠は潮色の空に溶けて、声だけが人の印を作る。
「出たか」
「はい」
「……早いな」
「遅いより、早いほうが、壊れにくいです」
「理屈かよ」
「すみません」
謝る声はいつも通りなのに、わずかに息が深い。深い息は、言わなかった言葉の重さを隠す。蓮は堤の端に座り直し、港町の雑踏を見下ろした。露払いの音も囃子もないのに、人は動く。荷を背負う者、子を抱く者、空の籠を肩にかけた女、別れを言い忘れた顔の若者。誰もが自分の生活の端を握りしめている。幕府も新政府も、生活の端に比べれば薄い紙にすぎない。
「静。……俺たちは何を守ってきたんだ」
「息です」
「息?」
「はい。町の、息です」
「息なんか、どこにでもある」
「どこにでもあって、すぐに止まります」
港の端で、鳶口を持った男達が隊士の死体を運んでいた。肩にかけた布から足が覗き、指の間が泥で固くなっている。そばで子が泣き、母が口を塞ぐ。泣き声が上がれば、誰かの怒りが目を覚ますからだ。怒りは、今は人を救わない。怒りは旗に向けて使われると、すぐに刃に変わる。
新選組の屯所代わりの蔵には、湿った藁が敷かれ、負傷者が横たわっていた。近藤は袖を裂いて肩を縛られ、土方の声が低く落ち、必要な命令だけが短く飛ぶ。総司は表に出ては咳を噛み殺し、奥に引っ込んでは息を整える。咳の音は短く、深い。深い咳は、刃の練れた音に似ている。鋭さがあるぶん、人の心を切る。
夜、雨はさらに細くなった。細くなると、確かに冷える。蓮は廃寺に転がりこんだ。本堂の板は浮き、守りの神の面は煤けて目が深い。香炉の灰は湿っており、誰かが昼間に線香を立てたらしい。漂う香は薄く、土の匂いが勝っている。柱に背を預けると、柱が冷たいからか、背骨がまっすぐに戻った。
そこへ女が二人、子を連れて身を寄せた。衣の裾は泥で重く、目の下は黒い。ひとりが布を解き、包みの中の白いものを見せた。赤子の手。冷たい。女は声を発さない。声は、出したら戻ってこないからだ。もうひとりの女がその手を布に戻し、合掌して目を閉じた。蓮は立ち上がり、入口の隙間を藁で塞いだ。風が弱まるだけでも、夜の冷たさは人を殺さなくなる。
「ありがとうございます」
女の声は小さく、礼を言うことで自分が崩れないようにしていた。蓮は首を振って、火を起こした。火は人を日常に戻す唯一の術だ。炊ぐ米がなくても、火を見ているだけで人は“いつもの夜”を少し思い出す。いつもの夜を思い出すことが、明日の朝を作る。
火が安定すると、静が入口に姿を見せた。雨粒が肩から滴る。蓮は顎で火のそばを示した。
「座れよ」
「はい、矢野さん」
静は火に手をかざし、指の節をひとつずつ温める。指の骨が鳴る小さな音がした。女たちは静の白を見て、短く目を伏せた。白は怪異の色だ。だが、怪異が火に手をかざす光景は滑稽で、少しだけ怖さを薄めた。
「静、総司は」
「咳が深くなっています。熱も」
「戦えないのか」
「はい。——だから、俺が前に出ます」
「前だけじゃねえ。後ろもだ」
「はい」
火がぱち、と弾ける。炭の割れる音は、息を整える。蓮は刀の柄に手を乗せ、指の腹で木目をなぞった。柄の木は、人の汗を吸って、柔らかくなっている。柔らかいものは、折れにくい。折れにくいものに、今夜だけは寄りかかりたかった。
翌朝、港の空気は赤かった。朝焼けではない。倉が燃え、油が延び、煙が低く走っていた。叫び声がない。燃える音だけが、無言で町を削る。火は誰の味方でもない。だが、火はいつも勝者の言語になる。焼けた町は、書き換えられることを受け入れる。受け入れさせられる。
蔵の裏で、総司が吐いた。血が混じる。白い布に花が咲いて、すぐに茶色になる。静は黙って背をさすり、手拭いを水に浸して額に当てた。総司は笑った。笑うべき時ではないのに、笑う。人は崩れそうな時に笑う。笑うと、刃の筋が一瞬見える。
「静。……君の背は、冷たくて助かる」
「すみません」
「謝るな。蓮」
「なんだ」
「君の鈴は、まだ鳴るか」
「鳴る。いつでも」
「一度でいい、と言ったけどな。……たぶん、何度も要る」
「何度でも鳴らす」
言い切ると、胸の内側の鈴がほんとうに鳴った気がした。音は外には出ない。出ない音のほうが、背の骨に届く。
港での準備は雑だった。雑にせざるを得ないほど、時間がなかった。舟は満載になり、残る者が岸に溢れる。泣き声はやはりない。代わりに、唇を噛む音が増えた。噛む音は、怒りと恐れの間にある。間にある音は、長く続く。
蓮と静は、残る側だった。舟に乗るのは、傷の深い者、生き延びても戦えない者、子と女、そして命を次につなぐために必要な者。次、という言葉が痛かった。次がある、と言い切れないからだ。次があると思うほうが、人は動ける。嘘だとしても。
退いた先で江戸の話が出ると、蓮の胸はざわめいた。江戸の音は太い。太い音は、背中を温める。だが、温まりすぎると鈍る。鈍った背は、刃を落とす。刃を落とせば、人が死ぬ。人が死ねば、名が残る。名が残れば、誰かが縛られる。頭の中の輪はぐるぐる回り、解く端が見つからない。
「矢野さん」
静が小さく呼んだ。蓮は振り返る。静の目は、まっすぐだった。まっすぐなのに、硬くはない。
「今日は、三つだけ潰します」
「どこだ」
「堀川筋の裏手、薩摩の積み荷の抜け道。伏見屋敷の裏庭に入る合図。——それと、町の火事場見舞いに紛れた刃」
「三つじゃ足りない」
「三つ潰すと、七つ止まります」
「理屈だ」
「はい」
堀川筋の裏手は、昨夜より人が少ない。火の手が近い筋から人が引いた。引いた隙に、金と噂と刃が動く。静は戸口の位置と雨樋の傾きを一度見ただけで、通りの“流れ”を読み、細い路地へ身を入れた。蓮は表で人の視線を引き受け、さりげなく立つ。立つだけで、道は狭くなる。狭い道は、走りにくい。走りにくいと、刃は遅れる。遅れた刃は、止めやすい。
積み荷の抜け道は、井戸の裏から細い板橋を渡って土壁の裾へ行く。板橋の下に桶が仕掛けてあり、動くと水が鳴る。鳴る音が合図になって、奥の者が戸を開ける。静は板橋の板目を一つはずし、桶の位置を半寸ずらした。半寸の違いで、音は鳴らない。音が鳴らなければ、戸は開かない。開かない戸の前で、刃は焦る。焦る刃は、鈍る。
伏見屋敷の裏庭へ入る合図は、竹垣の節に彫られた小さな傷だ。傷の位置を別の節に移すだけで、合図は嘘になる。嘘の合図に従って入った者は、見張りに捕まる。捕まった者が口を割らなくても、時間は奪える。時間は、戦の本体だ。金でも人でもない。時間。
火事場見舞いに紛れた刃は、最も厄介だった。人が善意で集まる場所は、刃にとって最高の隠れ蓑になる。米俵を抱えた男の後ろから、布を掛けた腕が伸びる。腕の角度が刃物の角度だ。蓮は人の流れの端に入り、米俵の後ろへ回り、腕を掴んだ。手首の骨が細い。女の手だ。女の目が一瞬怒り、それから恐れに変わる。恐れに変わる速度は、人を救うことがある。蓮は刃を奪い、女の手を放した。女は俯き、米俵に額を押しつけた。善意と生き延びたい気持ちと憎しみは、いつも同じ場所に重なる。重なった場所で、刃は生まれる。
昼過ぎ、蔵に戻ると、近藤の顔色がさらに青白く、土方の目がさらに冷たかった。冷たい目は、怒りではない。怒りは熱い。冷たい目は、計算だ。計算の結果、捨てるものが決まった、という目だった。捨てるものの中に、名が含まれる。名が捨てられる時、紙は綺麗だ。紙が綺麗なほど、現は汚れる。
総司は、刀の手入れをしていた。刃ではなく、鍔を拭いている。鍔の模様に指を滑らせ、細い埃を払う。刃を拭くには力が要る。力は、もう出ない。
「静。——今日の空は、良くないな」
「はい」
「蓮。君、よく食べたか」
「……なんだよ、いきなり」
「食べなきゃ、鈴は鳴らない」
「鳴らすために食うのか」
「僕らは何ででも食う理由を作る」
笑って言う。笑いは軽いが、言葉は重い。軽い笑いと重い言葉が一緒にある時、夜が早く来る。夜は人を救うことがある。昼は、長すぎる。
夕方、港の端で、馬が倒れた。荷を引いていた痩せた馬だ。足をとられて転んだのではない。力が尽きただけだ。縄で前足を縛られ、立て、と怒鳴られ、立てず、鞭を受け、目が濁って、静かになった。飼い主の男が鞍を外し、木に掛けて、馬の首に額を当てた。泣かない。男は、泣くことを忘れている。忘れたほうが、立っていられる。
「静」
「はい、矢野さん」
「俺は、何に怒ってるんだろうな」
「何に、でしょう」
「旗かな。紙かな。銃かな。人かな。俺かな」
「怒りは、刃の角度を浅くします」
「また理屈だ」
「はい。怒りは、鈍らせます」
「……鈍りたくねえ」
「鈍らせません」
静の声は硬くはなく、だが揺れない。揺れない声は、刃の背をなぞる音と同じだ。背をなぞられれば、刃は落ち着く。
夜になって、風が変わった。西からの湿った風が、灰と油の匂いを運ぶ。岸辺に立っていると、海は真っ黒ではないのだと知る。真っ黒なら楽だ。何も見えないから。黒に灰と赤が混ざって、遠くの波頭が薄く光る。光るのに、寒い。光るのに、何も救われない。
廃寺に戻ると、昼間の女はもういなかった。紙の端に包んだ何かが、香炉のそばに置かれている。包みを開けないで、蓮は両手で持ち上げた。軽い。軽いものは、すぐに空へ行く。空に行く途中で、誰の名も取らないで欲しいと、心の中で言った。誰の名も取らないでくれ。名は、生きている者の重さを保つ唯一の紐だ。
火を起こし、静と向かい合って座った。火の炎が低く、燈芯の油が尽きかけた行灯のように頼りない。
「矢野さん」
「なんだ」
「明日、江戸へ戻る舟に、総司を乗せます」
「……そうか」
「はい。京の夜は、総司の肺には冷たすぎます」
「江戸なら、助かるのか」
「分かりません。——でも、背中の鈴は、江戸のほうがよく響きます」
「そうだな」
言って、蓮は顔を伏せた。助かるかどうかより、響くかどうか。響くことのほうが、今は現実だ。現実は、紙とは別のところにある。紙に書けない現実だけが、身体を動かす。
明け方、空が白む前に、静は総司を舟へ運んだ。肩に負担をかけないよう、帯で胸を支え、肋の角度に合わせて布を巻く。総司は軽くなっていた。軽いのに、重い。軽い体に詰まっている年月が、重さを作る。蓮は舟縁で見送り、手を上げる代わりに、胸の鈴を鳴らした。総司は気づいたように、目で笑った。声で笑う力はもうない。目の笑いは長く残る。目は、紙にならない。
舟が出ていく。静は岸で立ち尽くし、白の袖を一度だけ握った。握った手を開くと、海風がすぐに指の隙間をすり抜けていく。すり抜けていくものを、追いかけないのが静のやり方だ。追えば、背が空く。背が空けば、刃が入る。
「静」
「はい、矢野さん」
「お前は、この先、どこに立つ」
「矢野さんの背の、半歩左です」
「聞き方が悪かった。——誰のために、立つ」
「息のために」
「人のためじゃなくてか」
「人は、息の中にいます」
端折った答えに、蓮は笑うのをやめた。笑いは時々、刃を曲げる。曲がった刃は直れば良いが、戦の場では直す時間がない。時間がないときに頼れるのは、誓いだけだ。
「俺は、お前の背を守る。何度でも。——約束は変えねえ」
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
「はい。では、約束の確認です」
「お前、ほんと理屈っぽいな」
「すみません」
二人の間に、短く、しかし重い沈黙が落ちた。沈黙の重さは、約束の重さだ。紙は軽い。軽いものは、風で飛ぶ。飛ばないものは、背で持つ。
港がさらに荒れ、岸が騒がしくなった。新政府軍が近づく。薩摩の足軽の草鞋の音は、江戸の太鼓に似ている。太い。太い音に、腹の奥が反応する。反応してはいけない。反応すると、前に出る。前に出るべき時は、もう過ぎた。今は退く時だ。退く時に前へ出るのは、死ぬためだ。
大阪城の石垣は黙っていて、誰の味方でもなかった。石は古い。古いものは、理不尽の数をたくさん見てきて、何も言わない術を覚える。雨が止み、空が低いまま明るくなった。明るいのに、冷たい。冷たいのに、人は立つ。立つという動作だけが、戦と生活の両方に共通している。
退き支度の中、土方がこちらを見た。目の冷たさの奥に、わずかな熱があった。熱があるから、氷にならない。氷は綺麗だが、折れやすい。土方は折れない。
「お前たちは西を回れ。橋の下の板を外しておけ。噂が先に走る。噂の足を引っ掛けろ」
「承知」
静が答え、蓮が頷く。橋の下の板は、もう一度音を変えられる。音が変われば、人の動きが変わる。人の動きが変われば、刃の入り口が変わる。入り口が変われば、出口も変わる。出口が変われば、命が一つ残る。
橋へ走る途中、焼け残りの町の路地で、小さな店の棚が倒れていた。陶の茶碗が割れて、欠片が石畳に散る。昨日の爺の声がよみがえった。「割るなよ。割ったら、音がでかい」——音は出た。大きな音だった。蓮は欠片の一つを拾い、掌の中で軽く握った。掌に沿う曲線は、完全だった頃と同じ優しさを保っていた。壊れても、形の欠片は優しい。優しさは、戦で一番欠けやすい。
橋の下は暗く、湿っている。水面が近く、冷たい気配がすぐ鼻の奥まで上がってくる。板は四枚。右から二枚目の継ぎ目が甘い。静は継ぎ目の釘を一本だけ抜き、板が人の重みでわずかに沈むように調整した。沈む板は、走る足の勢いを奪う。奪われた勢いは、怒りを鈍らせる。鈍った怒りは、恥じやすい。
「静」
「はい」
「人を殺さずに済む工夫ばっかり、よく出てくるよな」
「殺せる工夫は、いつでもあります」
「……そうだな」
「殺せる工夫がたくさんあるから、殺さずに済む工夫を先に置きます」
理屈の端に、静かな熱があった。熱は、人を生かそうとするときに必要だ。冷たいだけでは、人はすぐに折れる。折れないために、熱がいる。
橋から戻ると、港はさらに騒がしく、空はさらに低かった。遠くで太鼓。近くで誰かの名を呼ぶ声。名を呼ばれた者が振り返る。振り返ると、背が空く。空いた背に、戦の音が入る。音は刃ではないのに、人を斬る。斬られないように、蓮は背を壁に合わせて立った。静も半歩左で同じ姿勢を取る。並ぶと、隙が減る。隙が減ると、音は通り抜けていく。
その後の数刻は、記憶が飛び飛びだ。出航する舟を見送り、取り残された荷を別の舟へ回し、喧嘩の火種を砂で消し、抜き身を柄で押し戻し、倒れた子を抱き上げ、落ちた銭を拾い、返し、火の粉を踏み消し、道をずらし、言葉の角を丸め、誰かの肩を叩き、誰かの腕を掴み、誰かの目を見た。目を見れば、刃は一拍遅れる。一拍が、命だ。
夕暮れ、潮が満ち、空の色が薄い紫に変わった。紫は高貴の色だと誰かが言った。戦場の紫は、ただ寒い。寒さが骨に入る前に、蓮は廃寺へ戻った。誰もいない。本堂の隅に置かれた紙包みは消えていた。代わりに、香炉の灰の上に焦げた香木の破片が一つ残っている。香りはしない。香りがしない香木は、ただの炭に近い。炭でも、灰よりは形が残る。
静が遅れて入ってきて、板に膝をついた。手の甲に細い傷。傷口が開き、血がにじむ。蓮は手拭いを濡らし、傷に当てた。静は目を閉じ、一度だけ息を深くした。深い息は、痛みを遠ざける。
「矢野さん」
「なんだ」
「今日、三つ潰しました」
「見てた」
「はい。——七つ、止まりました」
「感じてた」
二人は笑わない。笑わないで、火を起こした。火があると、言葉が少なくなる。言葉が少ないと、誓いは濃くなる。濃いものは、薄めないと喉を通らない。薄めるのは明日の仕事だ。今夜は濃くていい。
「静」
「はい、矢野さん」
「俺たちの名前が、紙に書かれないのは、まだ許せる。——けど、今日抱き上げた子の顔が紙に書かれないのは、許せねえ」
「はい」
「許せねえけど、やれるのは、明日も立つことだけだ」
「はい」
「立つのが怖い時、鈴を鳴らす」
「はい。俺も、鳴らします」
鳴らない鈴が、二つ、火の上でわずかに揺れた気がした。気がしただけだ。気がしたことのほうが、長持ちする。長持ちするものに頼って、明日を継ぐ。
夜半、雨はやんだ。音が消えると、心臓の自分勝手な音が耳の裏で増幅される。うるさい。うるさい音は、鈍い刀の擦れる音に似ている。嫌いだ。嫌いだから、蓮は行灯の芯を少し切った。灯が低くなり、影が濃くなった。濃くなった影は、足元を温める。温まった足で、蓮は板の間に小さな円を指で描いた。円の中心に、明日の呼吸を置くつもりで。
明けて、港の西の空が白む。白は薄く、すぐに灰に飲まれる。それでも、白は白だ。人は白に向かって立つ。立つ姿は、誰が見ていなくても、美しい。美しいという言葉は戦場に似合わないのに、こういう時だけ、似合う。
退く道は東へ延び、また西へ折れ、折れてまた戻る。真っ直ぐには行けない。真っ直ぐな道は、旗のためにある。旗のない者は、曲がる。曲がる者が、長く残る。残った者だけが、息を伝える。息の伝え方が、名に勝つ日が来る。来ないかもしれない。来ないなら、来ないままでいい。来ると決めるのは、紙だ。紙は、遅い。
静が立ち上がり、帯を締め直した。蓮も立ち、刀の鞘を軽く叩いて確かめる。音が軽く、芯がまだ生きているのが分かる。生きている。生きているから、悲惨さが増す。生きているから、切なさが濃くなる。濃くなった切なさが、背中の温度を上げる。
「行くぞ、静」
「はい、矢野さん」
廃寺の戸を開けると、朝の冷気がまともに頬を打った。頬が痺れる。痺れは、痛みの前触れだ。前触れがある痛みは、耐えられる。前触れもない痛みは、銃だ。銃は、今日も鳴る。鳴るけれど、鈴も鳴る。鳴らないで鳴る鈴は、背の骨で響く。
鳥羽伏見の敗走は、紙の上では数行で足る。だが、紙から零れ落ちるもののために、二人は今日も立つ。名はなく、旗はなく、ただ背の形と刃の筋と呼吸だけを持って。悲惨さと切なさは、消えない。消えないものを抱えたまま、足を出す。足を出すという事実だけが、救いになる。
救いは、遠くではなく、足下に落ちている。拾うたびに手が切れ、血がにじむ。にじんだ血の生温かさが、たしかに生きていると告げる。告げる声は小さい。小さい声を、鈴が拾う。拾った音が背に集まり、背は折れない。折れない背を二つ、互いに寄せ合って、二人は人の流れの縁へと溶けていった。
名は、今日も書かれない。だが、影は今日も続く。続いてしまうことが、時に一番の残酷だとしても。続けるしかないことが、唯一の優しさであることも、確かだから。



