慶応四年正月の京は、息をするたびに金属の味がした。錆びた釘を舌でなめたような味。日暦は改まっても、町筋に漂うのは祝いの香ではなく、火薬と油と濡れた藁の匂いだった。朝靄の底で、薩摩と長州の兵が群れの形に凝り、新政府の旗印が薄白い空へ湿った影を投げている。淀から宇治へ、そして鳥羽・伏見へ、川筋と街道が戦の骨組みに変わるのに時間は要らなかった。
新選組の屯所は、まだ夜の寒さが残るうちに起きて動いた。樽の底の水は氷の皮をまとい、鼻から吸う空気が胸の内側を擦る。土方が座敷で短く告げた。
「鳥羽・伏見へ出る。銃列は厚い。だが——やることは変わらん。剣で息を止めろ。噂で足を止めろ。生き残れ」
生き残れ。最後の三文字だけが、紙の上ではなく体の側に置かれた命令だった。近藤は袴の紐を固く結び直し、いつも通りの明るい声で続けた。
「行くぞ。俺たちの“今”は、紙より前にある」
蓮は縁側の霜を踏んで表へ出た。薄い雲から零れる光が、羽織の青を灰に見せる。腰の刀の重さが、いつもより少し増している気がした。江戸で拾ってきた音や匂い——太鼓の太さ、海の潮、古道具屋の爺の声——が、遠く背中で鳴っては、すぐに消えた。
静はすでに門口に立ち、紐を結ぶ指を止めて蓮を見た。視線は短く、しかし確かに“背の形”を確かめる目だ。
「矢野さん。——今日は、風が弾を運びます」
「分かってる。けど、剣は置けない」
「はい。剣は、風の曲がる隙に入ります」
「理屈はいい。離れるなよ」
「離れません」
短いやり取りは、帯の結び目みたいに、見た目より深く絡んでいる。絡んだまま、二人は列の最後尾に並び、伏見筋へ歩を進めた。
冬の雨が降り始めた。最初は霧の粒、次に小粒の風、やがて地面から跳ね返るほどの強さ。街道の土が泥に変わる速さに、蓮の足が最初に驚いた。泥は音を吸い、人の恐れを増やす。銃の音が遠くの雷みたいに響き、続いて短い乾いた破裂が幾つも弾けた。耳の奥で大鼓と小鼓が同時に鳴るみたいに、音が重なる。鉄が空気を裂くひゅうという声が頬を撫で、すぐ後ろで誰かの息が止まった。
「前へ!」
近藤の声は、雨より厚く響いた。声の太さは、前へ出る足を一瞬だけ軽くする。列が揺れ、藩兵の銃列が見えた。真っ直ぐに並んだ黒い口。人の口ではない。言葉ではなく、死を吐くための口。火花が白く跳ね、煙が横に流れ、地面のどこかが赤く濡れた。
蓮は刀の鞘を押し、刃を引き抜いた。鞘走りの音が雨にほどける。昔は、この音で心臓が落ち着いた。今日は違う。音が小さすぎる。銃の音は大きすぎる。大きすぎる音に、人は小さくなる。小さくなった自分の骨の細さを、蓮は身の内側で初めて見た。
「蓮、右だ」
静の声は低く、しかし確かだった。見ないうちに刃が動き、銃の前に出る腕を肘から落とす。銃は重い。重いものは、すぐには向きを変えない。その半拍で、静の刃が一の字に走った。喉が切れ、音が止まり、銃口の火が消える。消えた一本の代わりに、別の十本が火を吐く。
泥が跳ね、蓮の足袋に貼り付き、脛へ冷たさを登らせる。前へ出た一歩の下に、誰かの指があった。踏まぬように避ける間もなく、銃弾の風が耳の後ろをなで、蓮は無意識に首を縮めた。縮めた首を、静の掌が一瞬だけ押さえて通り過ぎた。その掌の温度が、刃より重く感じた。
鳥羽口、伏見口、二つの門へ向けて幕府方が広がる。新政府側の陣では、白い布が翻った。見慣れない赤い縫い取り——錦。御旗が上がると、人の背骨は勝手に曲がる。太鼓も法螺も、旗一枚の前ではただの音に成り下がる。
「錦……」
誰かが吐き出すように言い、周りの空気が半寸沈んだ。沈む空気は、足を沈める。沈んだ足は、前へ出にくい。蓮は歯を食いしばった。旗は紙だ。紙だが、人の中で神になる。神になった紙は、刃より強い。
「矢野さん、見ないでください」
静が短く言い、足を半歩切り上げた。刃が雨の幕を割る。前へ出る。銃列の端、装填の遅れた兵の隙に、静は刃を差し込んだ。差し込み、返し、離れる。血が雨に溶け、泥と一緒に流れる。流れる血は冷たい。温かいのは、刃が体から抜ける瞬間だけだ。蓮はその温度を忘れないように、刃の角度を体で覚え直した。
幕府方の大砲が遅れて唸り、遠い木立へ土を噴き上げた。響きは大きいが、効果は薄い。火薬の差、鉄の出来、訓練の数——全部がこちらに足りない。雨は公正だ。剣にも銃にも同じ冷たさで降る。だが、冷たさに強いのは銃だ。
伏見奉行所の瓦が割れ、白壁に煤が広がる。土塀の陰で隊士が肩を押さえ、血が手の間から溢れている。蓮は駆け寄り、帯で縛り、肩を貸そうとした。肩にかかった重みは、恐ろしく軽かった。軽いのは、血が抜け過ぎているからだ。
「行け。俺はいい」
男は笑った。歯の隙間に血が滲む。いいはずがない。だが、行くしかない。静が目だけで合図した。前。蓮は頷き、男の肩から手を離した。離した場所に、冷たい雨がすぐに入ってきた。
銃列の前に掘られた浅い溝に、敵兵がしゃがみ込んでいる。溝の縁から出るのは銃口だけ。蓮は体を斜にして駆け、溝の一端を飛び越えざま、柄で顔を打った。続けざまに刃を振り下ろし、次の肩を斬る。血が跳ね、泥が吸う。泥は血を嫌わない。
背で、静が呼吸を刻む。呼吸の間隔が速くなると、刃の角度は浅くなる。遅くなると、深くなる。浅い斬りは相手の動きを遅らせ、深い斬りは声を止める。静は両方を使い分け、蓮の間合いへ合わせてくる。合わせられると、人は恐怖を後ろに置ける。
だが、戦は刃だけでは動かない。銃の弾が、理由を要らずに命へ届く。土塀の上から飛んだ一つが、近藤の肩を打ち抜いた。派手な声は上げなかった。息が詰まる短い音だけ。それでも、隊の心臓は一瞬止まった。土方がすぐに駆け寄り、近藤の体を支え、退路を切り開く。顔は動かない。動かない顔ほど、周りは動く。
「蓮、退け」
静の声が背骨を叩いた。退け? まだ斬れる。刃は鈍っていない。目の前に、まだ敵がいる。蓮は足を前に出しかけて、泥に取られた足首が滑るのを感じた。滑る足首の上で、心が同じ方向に滑ろうとする。
「でも——」
「生きねば、影は続かない」
冷たい言葉なのに、背の筋肉が解けた。解けると、前が見えた。ここはもう、死地だ。死を選ぶのは簡単だ。難しいのは、死地で生を選ぶことだ。蓮は歯を食いしばり、静の肩と肩を並べ、雨の幕を割って後ろへ退いた。退くことは、進むより多くの勇気を要る。背は目を持たないから。
伏見方は裂け、鳥羽方は崩れ、淀へ向けての退き道に人と馬の怒声が重なる。落ちているのは鉄砲だけではない。小さな弁当包み、割れた茶碗、片足の草鞋。人の生活の破片が、戦の流れの中へ無言で落ちていく。拾えば、生きた匂いが残っている。残っているのに、立ち止まることが出来ない。
夜になると、雨は細くなった。細くなると、冷えが骨に入る。蓮は火の気のない廃屋の軒に身を寄せ、膝を抱えた。泥と血で衣は固まり、肘の内側に銃の音が残っている。刀を抜けば敵は倒れる。それが自分の正義の形だった。だが銃は、見えないところから正義を奪っていく。理不尽。理不尽は、剣の稽古で育てられた心の骨組みを簡単に折る。
「矢野さん」
静が近づき、小さく膝を折った。白は鼠に沈み、鼠は夜に溶け、声だけが人の印になっている。
「影は消えません。光が滅びても」
「……光が滅びたら、何を目印に歩く」
「背です」
「背は、光じゃない」
「はい。だから、滅びません」
理屈はやさしくないのに、体にはやさしかった。背はある。ここに、二つある。手を伸ばせば触れられるところに。蓮は額を膝に押しつけ、息を長く吐いた。吐いた息が白くならないのは、廃屋の中が暖かいからではない。体の中の火がまだ消えていないからだ。
翌朝、泥は凍り、足音がわずかに戻ってきた。戻ってきた音の上に、退き口の指示が乗った。宇治へ。淀へ。大阪へ。江戸へ戻る道を、誰かが口にした。口にしただけで、旗が揺れたような気がした。旗は紙だ。だが、紙が人の体を動かすことがある。近藤は肩に布を巻かれ、土方は視線で道を描き、隊は細く長く、蛇のように動き出した。
淀川の渡し場は、朝から黒い。黒いのは人の群れの色だ。女も子も、荷を背負って並ぶ。誰も彼も、戦の勝ち負けよりも今日の飯のことを考えている顔だ。新政府の兵が遠目に動く。幕府の旗は低く、錦の布は遠く高い。遠く高いものは、人を諦めさせるのに向いている。
蓮と静は列の外で動いた。逃げる道が詰まれば、別の細い道を開ける。渡し場の舟頭に銭を渡し、裏の澪を通す。荷駄の車輪に布を巻いて音を殺し、橋の下に隠してある板を引き寄せる。刀を抜かずに、戦の形を変える。変えた形は、記録に残らない。残らないから、明日も使える。
渡し船に人が乗り切れず、叫びが上がった。叫びは怒りではない。恐れの音だ。恐れは伝染する。静は船べりに片足を掛け、年寄りを先に乗せ、次に子を抱く女を乗せ、最後に腕力のある男を諭して押しとどめた。男は怒鳴りかけて、静の目を見て言葉を飲んだ。目は刃より早い。早さに救われる瞬間がある。
舟が出、岸に残された人の群れが揺れ、蓮は背後の藪の陰で銃口が光るのを見た。瞬間、泥の匂いが急に強くなった。静が身を翻し、蓮の肩を押して地面へ倒した。耳の上を風が切り、藪の中の幹に乾いた音が跳ねた。木の皮が指の腹に刺さる。静はすでに走っていて、藪の影から影を引きずり出した。叫びはなかった。叫ばせない角度で、喉が止められたからだ。
蓮は舌の裏で血の味を感じ、起き上がりながら息を整えた。生きている。生きることに理由は要らない。理由が無いときのほうが、強い時がある。静が戻り、袖の泥を一度払った。その動きが、蓮には妙に美しく見えた。美しいという言葉は戦場に似合わない。だが、刃の筋が正しい時、人は美しいと感じる。正しさは、紙ではなく筋に宿る。
淀から大阪へ退く道すがら、噂が先を歩いた。大阪城は空だ、将軍は海へ出る、薩摩が城代を笑って去った——正しいことと間違ったことが半々で混ざり、どちらも人を疲れさせる。近藤が肩を押さえながらも足を運び、土方の顔には怒りよりも冷たい算術があった。怒りは刃を早くし、算術は人を残す。
城下の外れで、蓮はひとりの老人に呼び止められた。煤けた小店の前、古い茶碗を手にした爺が、蓮の顔をしげしげと見上げる。
「兄さん。誰の味方だ」
唐突な問いは、泥より重い。蓮は答えず、代わりに問いを返した。
「爺さんは、何の味方だ」
「飯だよ」
短い答えに、蓮は笑って、それから笑えなくなった。飯。飯の味方は、いつだって正しい。戦の味方は、紙の上では正しいことがある。腹の中では、どうか。静が横で軽く頭を下げ、古い茶碗を受け取って銭を置いた。爺は銭を数えず、茶碗をもう一つ手渡した。
「割るなよ。割ったら、音がでかい」
音。銃の音、刃の音、骨の音、茶碗の音。大きい音は人を小さくし、静かな音は人を置いていく。置いていかれないように、蓮は歩幅を静に合わせた。
大阪の港は、灰色の群れだった。船が出、船が戻り、怒鳴り声と泣き声と笑い声が一枚の布のように重なる。新政府の軍は勢いを増し、幕府の名は風に晒されて薄れていく。薄れる名に肩を預ける人たちの顔は、思ったより静かだ。静けさは諦めではない。受け手のない怒りが、静けさに沈んでいるだけだ。
その夜、蓮は岸壁の陰で短い眠りをむさぼった。目を閉じると、銃の音が消え、代わりに江戸の海の匂いが蘇る。総司の言った「鈴」の音が、耳の裏で一度鳴った気がした。鳴ったと思った瞬間、静が肩に手を置いた。
「矢野さん。——舟が出ます」
「どこへ」
「東へ。……そして、また西へ戻ります」
「忙しいな」
「はい。生きるのは、忙しいです」
忙しい、という言葉に、蓮は初めて救いを覚えた。忙しさは、考える暇を奪う。考えが多い時、人は足を止める。今は止まれない。止まれば、旗が近づく。旗は紙だ。紙の近くは、刃に向いていない。
舟は暗い水を割り、岸の灯が細く遠くなった。蓮は船縁に手を置き、冷たい木の感触を掌で確かめた。静は背中を蓮に向け、川面の黒に目を落とす。二人の影が、水に長く伸びた。伸びた影は、波で切られて、また繋がった。切れて、繋がる。生きることは、その繰り返しだ。
鳥羽伏見の戦いは、幕府の敗北として記録された。錦の御旗が勝ち、徳川の名が退いた。紙の上では、それで全部だ。だが、紙に書かれないもののほうが体に残る。血の温度、泥の重さ、雨の音、旗の赤の眩しさ、土方の目の冷たさ、近藤の肩の重み、そして静の掌の温度。温度は、名より長い。
「静」
「はい、矢野さん」
「死地で生きるって、こんなに難しいのか」
「はい。だから、誓いが要ります」
「誓い?」
「背を預ける、という誓いです」
蓮は頷き、舟の揺れに合わせて呼吸を整えた。錦の赤は見えない。見えないほうが、夜は長く続く。長く続く夜の上で、二人の影は薄くならず、むしろ濃くなっていった。濃くなった影は短い。短い影は、足元を温める。温まった足は、まだ前へ出せる。
東の空がわずかに白む。白の前触れは冷たい。冷たいのに、人を立たせる力がある。蓮は立ち上がり、帯を締め直した。静も立ち、白のほうへ顔を向ける。鳥羽伏見は、もう背中にある。背中にあるものは、重い。だが、背を預ける場所があるなら、その重さは持てる。
舟が岸を舐め、板がきしむ。最初の一歩はいつも難しい。難しい一歩を、蓮は静の呼吸に合わせて出した。背に短い鈴の音がした。音は実際には鳴っていない。鳴っていない音のほうが、背にはよく届く。
こうして、二人はまた地を踏んだ。踏んだ地は、昨日と別の“今”だった。紙の上の線は変わり、旗の色は増え、噂の足は速くなっている。速い足に追われながら、二人はわざと歩幅を半寸だけ狭めた。狭くした歩幅で、呼吸を深くする。深い呼吸は、影の続きをつくる。
影は消えぬ。たとえ光が滅びても。静が言ったその一行が、蓮の骨に刻み込まれていた。刻み込まれた言葉は、刃の背みたいに、触れるたびに安心させる。刃の背が折れない限り、刃は斬れる。生きねば、影は続かない。続きは、まだ先にある。
新選組の屯所は、まだ夜の寒さが残るうちに起きて動いた。樽の底の水は氷の皮をまとい、鼻から吸う空気が胸の内側を擦る。土方が座敷で短く告げた。
「鳥羽・伏見へ出る。銃列は厚い。だが——やることは変わらん。剣で息を止めろ。噂で足を止めろ。生き残れ」
生き残れ。最後の三文字だけが、紙の上ではなく体の側に置かれた命令だった。近藤は袴の紐を固く結び直し、いつも通りの明るい声で続けた。
「行くぞ。俺たちの“今”は、紙より前にある」
蓮は縁側の霜を踏んで表へ出た。薄い雲から零れる光が、羽織の青を灰に見せる。腰の刀の重さが、いつもより少し増している気がした。江戸で拾ってきた音や匂い——太鼓の太さ、海の潮、古道具屋の爺の声——が、遠く背中で鳴っては、すぐに消えた。
静はすでに門口に立ち、紐を結ぶ指を止めて蓮を見た。視線は短く、しかし確かに“背の形”を確かめる目だ。
「矢野さん。——今日は、風が弾を運びます」
「分かってる。けど、剣は置けない」
「はい。剣は、風の曲がる隙に入ります」
「理屈はいい。離れるなよ」
「離れません」
短いやり取りは、帯の結び目みたいに、見た目より深く絡んでいる。絡んだまま、二人は列の最後尾に並び、伏見筋へ歩を進めた。
冬の雨が降り始めた。最初は霧の粒、次に小粒の風、やがて地面から跳ね返るほどの強さ。街道の土が泥に変わる速さに、蓮の足が最初に驚いた。泥は音を吸い、人の恐れを増やす。銃の音が遠くの雷みたいに響き、続いて短い乾いた破裂が幾つも弾けた。耳の奥で大鼓と小鼓が同時に鳴るみたいに、音が重なる。鉄が空気を裂くひゅうという声が頬を撫で、すぐ後ろで誰かの息が止まった。
「前へ!」
近藤の声は、雨より厚く響いた。声の太さは、前へ出る足を一瞬だけ軽くする。列が揺れ、藩兵の銃列が見えた。真っ直ぐに並んだ黒い口。人の口ではない。言葉ではなく、死を吐くための口。火花が白く跳ね、煙が横に流れ、地面のどこかが赤く濡れた。
蓮は刀の鞘を押し、刃を引き抜いた。鞘走りの音が雨にほどける。昔は、この音で心臓が落ち着いた。今日は違う。音が小さすぎる。銃の音は大きすぎる。大きすぎる音に、人は小さくなる。小さくなった自分の骨の細さを、蓮は身の内側で初めて見た。
「蓮、右だ」
静の声は低く、しかし確かだった。見ないうちに刃が動き、銃の前に出る腕を肘から落とす。銃は重い。重いものは、すぐには向きを変えない。その半拍で、静の刃が一の字に走った。喉が切れ、音が止まり、銃口の火が消える。消えた一本の代わりに、別の十本が火を吐く。
泥が跳ね、蓮の足袋に貼り付き、脛へ冷たさを登らせる。前へ出た一歩の下に、誰かの指があった。踏まぬように避ける間もなく、銃弾の風が耳の後ろをなで、蓮は無意識に首を縮めた。縮めた首を、静の掌が一瞬だけ押さえて通り過ぎた。その掌の温度が、刃より重く感じた。
鳥羽口、伏見口、二つの門へ向けて幕府方が広がる。新政府側の陣では、白い布が翻った。見慣れない赤い縫い取り——錦。御旗が上がると、人の背骨は勝手に曲がる。太鼓も法螺も、旗一枚の前ではただの音に成り下がる。
「錦……」
誰かが吐き出すように言い、周りの空気が半寸沈んだ。沈む空気は、足を沈める。沈んだ足は、前へ出にくい。蓮は歯を食いしばった。旗は紙だ。紙だが、人の中で神になる。神になった紙は、刃より強い。
「矢野さん、見ないでください」
静が短く言い、足を半歩切り上げた。刃が雨の幕を割る。前へ出る。銃列の端、装填の遅れた兵の隙に、静は刃を差し込んだ。差し込み、返し、離れる。血が雨に溶け、泥と一緒に流れる。流れる血は冷たい。温かいのは、刃が体から抜ける瞬間だけだ。蓮はその温度を忘れないように、刃の角度を体で覚え直した。
幕府方の大砲が遅れて唸り、遠い木立へ土を噴き上げた。響きは大きいが、効果は薄い。火薬の差、鉄の出来、訓練の数——全部がこちらに足りない。雨は公正だ。剣にも銃にも同じ冷たさで降る。だが、冷たさに強いのは銃だ。
伏見奉行所の瓦が割れ、白壁に煤が広がる。土塀の陰で隊士が肩を押さえ、血が手の間から溢れている。蓮は駆け寄り、帯で縛り、肩を貸そうとした。肩にかかった重みは、恐ろしく軽かった。軽いのは、血が抜け過ぎているからだ。
「行け。俺はいい」
男は笑った。歯の隙間に血が滲む。いいはずがない。だが、行くしかない。静が目だけで合図した。前。蓮は頷き、男の肩から手を離した。離した場所に、冷たい雨がすぐに入ってきた。
銃列の前に掘られた浅い溝に、敵兵がしゃがみ込んでいる。溝の縁から出るのは銃口だけ。蓮は体を斜にして駆け、溝の一端を飛び越えざま、柄で顔を打った。続けざまに刃を振り下ろし、次の肩を斬る。血が跳ね、泥が吸う。泥は血を嫌わない。
背で、静が呼吸を刻む。呼吸の間隔が速くなると、刃の角度は浅くなる。遅くなると、深くなる。浅い斬りは相手の動きを遅らせ、深い斬りは声を止める。静は両方を使い分け、蓮の間合いへ合わせてくる。合わせられると、人は恐怖を後ろに置ける。
だが、戦は刃だけでは動かない。銃の弾が、理由を要らずに命へ届く。土塀の上から飛んだ一つが、近藤の肩を打ち抜いた。派手な声は上げなかった。息が詰まる短い音だけ。それでも、隊の心臓は一瞬止まった。土方がすぐに駆け寄り、近藤の体を支え、退路を切り開く。顔は動かない。動かない顔ほど、周りは動く。
「蓮、退け」
静の声が背骨を叩いた。退け? まだ斬れる。刃は鈍っていない。目の前に、まだ敵がいる。蓮は足を前に出しかけて、泥に取られた足首が滑るのを感じた。滑る足首の上で、心が同じ方向に滑ろうとする。
「でも——」
「生きねば、影は続かない」
冷たい言葉なのに、背の筋肉が解けた。解けると、前が見えた。ここはもう、死地だ。死を選ぶのは簡単だ。難しいのは、死地で生を選ぶことだ。蓮は歯を食いしばり、静の肩と肩を並べ、雨の幕を割って後ろへ退いた。退くことは、進むより多くの勇気を要る。背は目を持たないから。
伏見方は裂け、鳥羽方は崩れ、淀へ向けての退き道に人と馬の怒声が重なる。落ちているのは鉄砲だけではない。小さな弁当包み、割れた茶碗、片足の草鞋。人の生活の破片が、戦の流れの中へ無言で落ちていく。拾えば、生きた匂いが残っている。残っているのに、立ち止まることが出来ない。
夜になると、雨は細くなった。細くなると、冷えが骨に入る。蓮は火の気のない廃屋の軒に身を寄せ、膝を抱えた。泥と血で衣は固まり、肘の内側に銃の音が残っている。刀を抜けば敵は倒れる。それが自分の正義の形だった。だが銃は、見えないところから正義を奪っていく。理不尽。理不尽は、剣の稽古で育てられた心の骨組みを簡単に折る。
「矢野さん」
静が近づき、小さく膝を折った。白は鼠に沈み、鼠は夜に溶け、声だけが人の印になっている。
「影は消えません。光が滅びても」
「……光が滅びたら、何を目印に歩く」
「背です」
「背は、光じゃない」
「はい。だから、滅びません」
理屈はやさしくないのに、体にはやさしかった。背はある。ここに、二つある。手を伸ばせば触れられるところに。蓮は額を膝に押しつけ、息を長く吐いた。吐いた息が白くならないのは、廃屋の中が暖かいからではない。体の中の火がまだ消えていないからだ。
翌朝、泥は凍り、足音がわずかに戻ってきた。戻ってきた音の上に、退き口の指示が乗った。宇治へ。淀へ。大阪へ。江戸へ戻る道を、誰かが口にした。口にしただけで、旗が揺れたような気がした。旗は紙だ。だが、紙が人の体を動かすことがある。近藤は肩に布を巻かれ、土方は視線で道を描き、隊は細く長く、蛇のように動き出した。
淀川の渡し場は、朝から黒い。黒いのは人の群れの色だ。女も子も、荷を背負って並ぶ。誰も彼も、戦の勝ち負けよりも今日の飯のことを考えている顔だ。新政府の兵が遠目に動く。幕府の旗は低く、錦の布は遠く高い。遠く高いものは、人を諦めさせるのに向いている。
蓮と静は列の外で動いた。逃げる道が詰まれば、別の細い道を開ける。渡し場の舟頭に銭を渡し、裏の澪を通す。荷駄の車輪に布を巻いて音を殺し、橋の下に隠してある板を引き寄せる。刀を抜かずに、戦の形を変える。変えた形は、記録に残らない。残らないから、明日も使える。
渡し船に人が乗り切れず、叫びが上がった。叫びは怒りではない。恐れの音だ。恐れは伝染する。静は船べりに片足を掛け、年寄りを先に乗せ、次に子を抱く女を乗せ、最後に腕力のある男を諭して押しとどめた。男は怒鳴りかけて、静の目を見て言葉を飲んだ。目は刃より早い。早さに救われる瞬間がある。
舟が出、岸に残された人の群れが揺れ、蓮は背後の藪の陰で銃口が光るのを見た。瞬間、泥の匂いが急に強くなった。静が身を翻し、蓮の肩を押して地面へ倒した。耳の上を風が切り、藪の中の幹に乾いた音が跳ねた。木の皮が指の腹に刺さる。静はすでに走っていて、藪の影から影を引きずり出した。叫びはなかった。叫ばせない角度で、喉が止められたからだ。
蓮は舌の裏で血の味を感じ、起き上がりながら息を整えた。生きている。生きることに理由は要らない。理由が無いときのほうが、強い時がある。静が戻り、袖の泥を一度払った。その動きが、蓮には妙に美しく見えた。美しいという言葉は戦場に似合わない。だが、刃の筋が正しい時、人は美しいと感じる。正しさは、紙ではなく筋に宿る。
淀から大阪へ退く道すがら、噂が先を歩いた。大阪城は空だ、将軍は海へ出る、薩摩が城代を笑って去った——正しいことと間違ったことが半々で混ざり、どちらも人を疲れさせる。近藤が肩を押さえながらも足を運び、土方の顔には怒りよりも冷たい算術があった。怒りは刃を早くし、算術は人を残す。
城下の外れで、蓮はひとりの老人に呼び止められた。煤けた小店の前、古い茶碗を手にした爺が、蓮の顔をしげしげと見上げる。
「兄さん。誰の味方だ」
唐突な問いは、泥より重い。蓮は答えず、代わりに問いを返した。
「爺さんは、何の味方だ」
「飯だよ」
短い答えに、蓮は笑って、それから笑えなくなった。飯。飯の味方は、いつだって正しい。戦の味方は、紙の上では正しいことがある。腹の中では、どうか。静が横で軽く頭を下げ、古い茶碗を受け取って銭を置いた。爺は銭を数えず、茶碗をもう一つ手渡した。
「割るなよ。割ったら、音がでかい」
音。銃の音、刃の音、骨の音、茶碗の音。大きい音は人を小さくし、静かな音は人を置いていく。置いていかれないように、蓮は歩幅を静に合わせた。
大阪の港は、灰色の群れだった。船が出、船が戻り、怒鳴り声と泣き声と笑い声が一枚の布のように重なる。新政府の軍は勢いを増し、幕府の名は風に晒されて薄れていく。薄れる名に肩を預ける人たちの顔は、思ったより静かだ。静けさは諦めではない。受け手のない怒りが、静けさに沈んでいるだけだ。
その夜、蓮は岸壁の陰で短い眠りをむさぼった。目を閉じると、銃の音が消え、代わりに江戸の海の匂いが蘇る。総司の言った「鈴」の音が、耳の裏で一度鳴った気がした。鳴ったと思った瞬間、静が肩に手を置いた。
「矢野さん。——舟が出ます」
「どこへ」
「東へ。……そして、また西へ戻ります」
「忙しいな」
「はい。生きるのは、忙しいです」
忙しい、という言葉に、蓮は初めて救いを覚えた。忙しさは、考える暇を奪う。考えが多い時、人は足を止める。今は止まれない。止まれば、旗が近づく。旗は紙だ。紙の近くは、刃に向いていない。
舟は暗い水を割り、岸の灯が細く遠くなった。蓮は船縁に手を置き、冷たい木の感触を掌で確かめた。静は背中を蓮に向け、川面の黒に目を落とす。二人の影が、水に長く伸びた。伸びた影は、波で切られて、また繋がった。切れて、繋がる。生きることは、その繰り返しだ。
鳥羽伏見の戦いは、幕府の敗北として記録された。錦の御旗が勝ち、徳川の名が退いた。紙の上では、それで全部だ。だが、紙に書かれないもののほうが体に残る。血の温度、泥の重さ、雨の音、旗の赤の眩しさ、土方の目の冷たさ、近藤の肩の重み、そして静の掌の温度。温度は、名より長い。
「静」
「はい、矢野さん」
「死地で生きるって、こんなに難しいのか」
「はい。だから、誓いが要ります」
「誓い?」
「背を預ける、という誓いです」
蓮は頷き、舟の揺れに合わせて呼吸を整えた。錦の赤は見えない。見えないほうが、夜は長く続く。長く続く夜の上で、二人の影は薄くならず、むしろ濃くなっていった。濃くなった影は短い。短い影は、足元を温める。温まった足は、まだ前へ出せる。
東の空がわずかに白む。白の前触れは冷たい。冷たいのに、人を立たせる力がある。蓮は立ち上がり、帯を締め直した。静も立ち、白のほうへ顔を向ける。鳥羽伏見は、もう背中にある。背中にあるものは、重い。だが、背を預ける場所があるなら、その重さは持てる。
舟が岸を舐め、板がきしむ。最初の一歩はいつも難しい。難しい一歩を、蓮は静の呼吸に合わせて出した。背に短い鈴の音がした。音は実際には鳴っていない。鳴っていない音のほうが、背にはよく届く。
こうして、二人はまた地を踏んだ。踏んだ地は、昨日と別の“今”だった。紙の上の線は変わり、旗の色は増え、噂の足は速くなっている。速い足に追われながら、二人はわざと歩幅を半寸だけ狭めた。狭くした歩幅で、呼吸を深くする。深い呼吸は、影の続きをつくる。
影は消えぬ。たとえ光が滅びても。静が言ったその一行が、蓮の骨に刻み込まれていた。刻み込まれた言葉は、刃の背みたいに、触れるたびに安心させる。刃の背が折れない限り、刃は斬れる。生きねば、影は続かない。続きは、まだ先にある。



