稽古場の朝は、湿った畳の匂いが濃い。竹刀の打突と打突のあいだで、潮の引くように音が低くなり、ふと聞こえるのは誰かの呼気と、ふくらはぎを擦る袴の衣擦れだ。静はいつもより半寸、間合いを詰める稽古をつけ、蓮の顔の汗を指先で拭った。指は冷たいのに、触れ方はやさしい。
「矢野さん、ここまで寄れば、剣の理屈はむしろ簡単になります」
「近いと怖いんだよ、静。刃の向きが見えん」
「見えなくても、息は聞こえます。喉の奥で鳴る小さな音。それが打太刀の“次”です」
静は言い、面も小手も狙わず、蓮の耳の裏の空気を竹刀で撫でた。ひゅ、と髪が揺れる。蓮は反射で目を閉じ、開いたときには静の竹刀が空を切っていた。
「いまので斬れるのか」
「はい。斬れる“体”に、こちらがなれば、です」
「人でなしめ」
「褒め言葉として受け取ります」
瀬川の“江戸帰還”は、誰にも明かされないまま、屯所の朝の空気を一段締め直した。皿の当たる音が小さくなり、笑い声は引っ込む。訛りの濃い者ほど、その沈黙の意味を早く理解した。誰かがいなくなる、ということが何を意味するかを、旅の道すがら骨で知っているからだ。
その日、土方は廊下の端で静を呼び止め、襟もとをわずかに整えた。
「静。まだいるな」
「……はい」
「ひとり、で済めばよかったがな。虫は群れる」
「群れるからこそ、目印を付けやすくなります」
「目印?」
「矢野さん」
「呼んだ?」
背後に立っていた蓮が、竹刀を肩に担いだまま近づく。土方はその無遠慮な歩調を見て、喉の奥で小さく笑った。
「おまえ、静に教わった“近い間合い”を、他でも使え」
「何にです?」
「噂にだ。顔を寄せて訊くと、人は同じ嘘を二度つけねぇ」
「なるほど。俺は顔が生意気だから、寄れば殴られるかもしれませんね」
「殴られたら殴り返す前に、誰が殴ったか覚えとけ。覚えた名が、今は金だ」
土方は去り際、肩越しに言葉を落とした。
「血はなるべく流すな。流すのは、向こうにやらせる」
その方針は、静にとっても好みだった。相手の足で相手をつまずかせるには、足場を選ばせることだ。仕掛けは二重にし、どちらへ踏み出しても泥をすくうように沈む。
最初の泥は“栄誉”だった。
入隊間もない連中に、密かに「上覧試合」の話をばらまく。近藤の前で剣を披露する機会、勝ち上がれば食客扱いで米の加増――それは夢の話に近いが、夢の匂いがするだけで人は足を速める。静は蓮に囁いた。
「矢野さん、囁き方は任せます。嘘に見えない嘘が一番強い」
「静が言うと、なんで真理みたいに聞こえるんだろうな」
「真理に見える嘘だからです」
「ますます怖ぇよ」
蓮は町へ出た。壬生寺の門前は番小屋ができて、子どもらが飴を舐めながら浪士の着物の袖を引く。茶屋の娘・お雪は、蓮を見ると目尻を下げた。
「兄さん、また藁灰の匂いさしてる」
「鍋のカスだ。で、例の話、どう広がってる?」
「“おえらいさんの前で剣”てのは好きよ。男ってどうしてああ、見られるのばっか好きなんだろ」
「見られたいんじゃない、見せたいんだ。自分にも」
「うちの父ちゃんと同じこと言う。代をはる男の顔だね。――そうだ、昨夜、鳶色の羽織の人が、裏口から“護符”を撒いてったよ」
「護符?」
「“稲荷講”のね。新参の人らに渡ってる。腰に入れとくと刀の切味が増すって」
蓮は目を細めた。
「稲荷講、ね。壬生の稲荷講は、誰の講だ?」
「そこまでは。けど、裏長屋の一番奥、縁台で碁打ってる爺さんなら知ってる。何でも見てるから」
「菓子折り持って行く。米飴でいいか?」
「いいさ。歯がないから、舐められるやつが好き」
裏長屋の縁台で、蓮は爺さんに飴を渡した。爺さんは飴を舌に転がし、視線を遠くに置く。
「講はな、講って言い方しとるが、あれは“配り手”が一人いるんだ。顔は出さん。お前さんみてぇに生意気な目で見たやつは、一人だけ。髷が詰まってて、草履が新しい」
「草履が新しい?」
「銭が入ったばかりの足音だ。畳を踏む音が硬い」
蓮は爺さんの膝の皺を眺めながら、音の記憶を足でなぞる。草履が新しいと、土の上で鳴る音は確かに乾く。
「そいつ、何を話した?」
「ほとんど話さん。ただ“護符”渡して、『この紙、袴の腰に忍ばせとけ』とな。書き付けに印があった。狐じゃねぇ。丸に槍。あれはな、会津の若いのが好むやつだ」
蓮は飴を舐めるように、言葉を舐めた。丸に槍。
「ありがとう。爺さん、舌、切るなよ」
「切るほど舌はないわい」
蓮は屯所に戻り、静に話した。静は薄く目を閉じ、茶の湯気を見た。
「“護符”は、斬れる“体”にする小道具です。呪を借りると、剣が立つ。――そう思わせるための」
「実際に立つ?」
「立つのは、手前の気。呪があると思うと、踏み込みが半寸深くなる。半寸で、首は落ちる」
「誰が配ってる」
「丸に槍――会津の徒じゃなく、“会津の名を借りる者”でしょう」
「尊攘への筋?」
「そこを“血試し”にするんです、矢野さん」
「試す? どうやって」
「二つ。ひとつは“護符”の札に、すこしだけ傷を入れます。もうひとつは、上覧試合の話を本物にする。札を忍ばせた者が勝ち上がる筋書きを、こちらが用意する」
「勝ち上がったところで?」
「札の“誤字”を指摘する者が現れます。書いた本人が、です」
静は蓮の方を見て、いたずらっぽく笑った。
「誤字は、僕が作っておきます。会津の男が見れば笑ってしまうような。刀を振りながら笑うのは難しいから、口元が勝手に崩れる。そこを見ます」
「まったく、人の心臓を指で押すみたいなことを言う」
準備は素早く済んだ。札はごく薄い和紙で、腹帯に忍ばせれば汗で柔らかくなり、肌に貼り付く。静は墨を摺り、あえて二箇所、小さな誤りを入れた。ひとつは“会”の点がひとつ足りず、ひとつは“槍”の旁が古い略字になっている。
「矢野さん、これを見て“間違いだ”と気づく者は、書を嗜むか、印を知っている。つまり、ただの浪士ではない」
「なるほど。で、試合は?」
「土方さんに通してあります。“内覧”という名目で、上に見せる前の篩い。負けても首は飛ばない。ただし、勝ち上がる者の顔は僕が決める」
「公平じゃないな」
「“公”はまだなく、“平”は最初からない。――矢野さん、ひとつ頼みが」
「何」
「負けてください」
「は?」
「矢野さんが勝つと、話が曲がるんです。あなたは強いが、“いまは”強いことが邪魔になる」
「俺、負けるの嫌いだぞ」
「負ける“ふり”は、もっと難しいです」
蓮は頭を掻いた。
「この際だから言うけど、静、おまえの頼みは大体ろくでもない」
「知っています。だから、お願いするんです」
上覧試合――いや、内覧の“血試し”は、土間に藁を敷き、周りを木戸で囲っただけの粗末な場で行われた。観るのは土方と、記録係の山南、そして静。近藤はあえて姿を見せない。名を貸すだけの構えだ。
初戦は拍子抜けするほど早かった。札を忍ばせた一人が、踏み込みの“半寸”で相手の間合いを奪い、切り返しの体で勝負を決めた。静はうなずき、山南が淡々と記す。
二戦目、三戦目と進むにつれ、札の者と札なしの者の差がじわじわと開く。札を手にした者は、何かに守られている気になって“躊躇”を捨てるのだ。剣は躊躇が少ない方に傾く。
そして、蓮の番が来た。相手は細身で、手順の良い突きを使う。蓮は面を借り、木刀を受け取り、静に目で問う。静は短く首を振りもせず、うなずきもせず、ただ蓮の呼吸の速度を手の甲で測るような目をした。
「始め!」
木刀が鳴り、足が砂を噛む。蓮は相手の突きを“見せ”て受け、二合目でわざと遅れる。遅れは癖になる。身体は正直で、一度遅れると、次も遅れる。――三合目、相手の突きが深く入る。蓮は肩で受け、ぐっと後ろに下がって膝をついた。
「止め!」
土方の声が低く落ちる。蓮は面を外し、木刀の先を土に立てる。相手の顔は興奮で赤い。
「負けだな」
「ええ。負けました」
蓮は汗に濡れた鼻梁を指で押さえ、笑った。負けを、笑う顔。静はその笑いの形が好きだ。勝ち顔より、ずっと人間らしい。
と、そのとき。
土間の隅で観ていた一人が、口元を手で覆って笑った。抑えきれない、というふうに。静の耳は、その笑いが“札の誤字”に反応したものだと、もうわかっている。
笑った男は、札の所在を誰にも悟らせないように、慎重に袴を直した。指先は節くれ立ち、筆を持つ癖がある。
「次、四番」
山南の声に、その男――名を白木という――が前に出る。相手は札なし。勝負はすぐについた。白木の踏み込みは美しく、刀の軌跡が“字”のように読める。彼は剣に文字を書く男だ。
試合後、土方が声をかける。
「いい踏み込みだ。どこで修めた?」
「江戸で少し。書も少々」
「やはりな」
土方は手を組んで、静に視線を送る。静は目を伏せ、白木の腰に目をやった。袴の帯からわずかにのぞく紙の角。角は汗で丸く、しかし墨のはしが“薄い”。
「白木さん」
静が呼ぶと、白木はすぐさま頭を下げた。礼の角度が深い。
「はい」
「帯の中の紙、湿ってます。取り出して、乾かしてください。墨が流れる前に」
白木の目が、一瞬だけつり上がる。驚きと、怒りと、羞恥の混じった目。その目は、次の瞬間には笑みに変わる。
「……さすが。壬生の“白い人”だ」
静は白木の笑い方が嫌いではなかった。賢い者の笑いだ。
「誤字がありましたよ」
白木は囁くように言い、紙を指先でなぞる。
「“会”の点が足りない。子どもの間違いだ。槍の旁は古いのを使う者もいるが、芽の横棒が長すぎる。会津藩の印なら、こんなふうには書かない」
「そうですね」
「でも、効果はありました。護符は護符です」
「呪は、呪う側の言い訳にもなります。――白木さん、夜はどちらへ?」
白木は笑いを引っ込め、静の目を見た。
「どちらへ、とは」
「“稽古”の延長があるように見えます。誰かに剣を教える夜。あるいは、誰かから“字”を教わる夜」
白木は短く舌打ちし、肩を竦めた。
「参りました。今夜、話します。ここでは聞き耳が多い」
その夜、静と蓮は白木を連れ、壬生寺の裏手の墓場に出た。夏草が膝に触れて、露の玉が袴に道を描く。白木は灯を低く持ち、墓石に影の字を刻むように歩いた。
「私は尊攘の人間ではない。剣も字も、飯の種だ。だが、“講”の配り手に借りがある」
「誰に」
「名は言えない。恩がある。死にかけたとき、身を拾われた。だから“札”を配れと言われれば配る。内容は見ない」
「さっき、誤字を指摘したのは?」
「それはそれ。剣の場では、字の間違いはつい目につく。指摘したのは趣味だ」
「趣味で死ぬことがあります」
「承知だ。だが――」
白木の声が細くなる。
「“札”の配り手は、会津でも浪士でもない。寺だ。ここから北へ二町、裏の小堂。稲荷講を名乗ってはいるが、実は“記すこと”を嫌う坊主がいる。過去帳の空白を誇るような男だ。あの男のためなら、私はいくらでも紙を配る。――そこには、私の名が無いから」
静は墓石の苔に触れ、指を湿らせた。
「名が無い?」
「俺は“いなかった”んだ。前の土地で。名を消されて、親も戸も無い。あの坊主は言った。『名のない者は楽でいい』って。楽、ですってよ」
白木の笑いが、墓場には乾き過ぎていた。
「名の無い者は、誰にでも化ける。俺はそれがわかった。だから人の名が嫌いだ。――なのに、あんたらは名を揃えさせる。局中法度とかいうやつで」
「まだ法度になっていません」
静が穏やかに言う。
「だから、融通が利きます。白木さん。あなたの“借り”は、いつまで続く?」
「坊主が飽きるまで」
「こちらは、飽きさせる術を知っています」
「どうやって」
「“記す”ことです。記すことを嫌う人間ほど、記されることに弱い。帳面一冊、筆一本。あなたが配った札の枚数、渡した相手の名、夜の出入り。全部、書きます。紙は燃やせるが、書かれたという事実は燃えない。坊主はそれが怖い」
白木の喉が鳴った。
「脅しに来たのか」
「いいえ。選択肢を置きに来ただけです。白木さん、自分で自分を救うか、他人に救わせるか。どちらを選びます?」
「……」
「あなたの“借り”の鎖を、あなたの手で切れるように、僕らは場を作る。明日、もう一度“内覧”をやります。そこで、あなたはわざと札を落とす。拾うのは、配り手です。拾った手を、僕らが見ます」
「配り手が来ると?」
「来ます。自分の“護符”の効果を確かめに。呪は、呪う側が一番信じたい」
白木は長い息を吐き、灯を少し上に持ち上げた。
「……いいだろう。坊主を引っ張り出す。だが、約束しろ。俺の名を書かないでくれ。これ以上、どこかに“いた”ことにされたくない」
静は首を横に振る。
「あなたの名は、書きます。ただし、あなたが望む“場所”に」
「どこだ」
「剣の稽古帳です。稽古の相手の欄に、あなたの名を書きます。あなたが誰かの手を受け、また誰かの手を受けさせた、その事実として」
白木の目がゆるんだ。
「……悪い人だな、あんた」
「よく言われます」
翌日、内覧はもう一度行われた。昨日よりも観る目が増え、噂の匂いがさらに濃くなる。静は合間合間に、蓮の襟を直し、ときどき背中を叩いた。
「矢野さん、今日は“負けるふり”は要りません」
「ありがたい。全身が負けを記憶しちまう前に、勝ちで上書きしたい」
「勝ってください。……ただし、見られる勝ち方で」
「どんなだ」
「踏み込み“前”の勝ち方。足が土を離れる前に、相手の心を崩してください」
「言うは易し、だな」
「易いことを難しく言ってるだけです」
「やっぱり悪い人だ」
白木は序盤の試合で、わざと帯から札を落とした。札は土間にひらりと落ち、誰かが素早く拾う。拾ったのは、見物に紛れていた痩せた男。僧形。袖口から覗く手首が白い。
静は視線だけで合図し、土方と山南がそれを追う。僧は気づかれたことに気づかず、札を袖に滑らせた。
そこで蓮の試合の番が来る。相手は昨日、蓮に勝った細身の突きの男だ。蓮は笑い、木刀を軽く振って握りを確かめる。
「静、見てろ。“前”で勝つってやつ」
「見ています」
合図と同時に、蓮は一歩も動かなかった。相手が突きの構えを作るより早く、蓮は“視線”だけを相手の右肩に刺す。右肩が勘違いする。そこに刃が来ると。身体は正直だ。右肩が逃げようとした瞬間、蓮は足の親指で土を軽く掻き、その音で相手の重心を崩した。わずかに前へ、わずかに左へ。そこに木刀の先が落ちる。
打突は軽い。だが、勝負はそこで決まっていた。
「止め!」
山南の声の後、土間の向こうから小さな拍手がした。僧が、だ。思わず手を打つ。いい技を見ると、身体が先に動く。
土方は僧の袖を掴んだ。
「坊主、いい手だろ」
「……何のことですかな」
「札だよ。護符。おまえが配った。会津の名を借りてな」
僧は笑おうとして、笑えていない。顔の筋肉が、別の言葉を言いたがって震えている。
静はそこで、いつものように“逃げ道”を見せた。
「ご住職。あなたが配った“護符”は、効きました。札を持った者は勇気づけられ、いい踏み込みをしました。――それは善ですか、悪ですか」
僧は答えない。
「善ですとお答えになるなら、札は“祈祷札”だった。悪ですとお答えになるなら、札は“惑い”だった。どちらでも、帳面に書かれます」
「帳面?」
「札を配った日時、渡した名。書いて、寺に置きます。誰も見ません。あなたも見ない。でも、そこに“ある”。――それが何より効く」
僧のこめかみが汗で光った。
「……何者だ、貴様ら」
「壬生浪士組の、記す者です」
静の声は、僧の耳に冷たく残り、やがて僧は膝を折った。
「わかった。わしが悪かった。札はもう配らん。過去帳は……」
「過去帳は、そのままでいいです。空白も記録ですから」
僧はうなずき、山南に何度も礼をした。土方は僧の袖から札を取り上げ、白木に放った。
「餞別だ。火にくべろ。おまえの借りも、今日で終いにしてやる」
白木は札を受け取り、燭の火でゆっくり炙った。紙が丸まり、墨が茶色くなる。煙は細く、匂いは甘い。
「……軽いな」
「何が」
「借りが。こんなに軽かったか」
「軽くしてやったんだ。俺が」
蓮が笑うと、白木も笑った。静は二人の笑いの間に指を差し入れ、そこに“約束”を結わえる。
「白木さん。これからは剣の稽古に来てください。字の稽古も。あなたの名を、稽古帳に書きます」
「書け。消すために、な」
「消すには、まず書かないと」
事件の顛末は、公式には何も残らない。瀬川は“江戸帰還”、白木は“入隊”、僧は“発心のため出仕を退く”。それぞれの言葉が、それぞれの体温で人の口から語られる。
ただ、蓮の胸にはひとつ結び目が残ったままだ。生かして使うこと。殺して終えること。そのあいだにある“書くこと”。
夜、蓮は静に稽古をつけてもらいながら、ふいに訊いた。
「静。おまえは、名前が消えるの、怖いか」
「怖いですよ」
「でも、名を消すような仕事、好んでしてる」
「消すのは名で、残るのは“手”だと思っているからです」
「手?」
「誰かの額に触れた手、誰かの背中を押した手。――僕は、自分の手を残したい」
「渋いこと言うな。年寄りみたいだ」
「僕は生まれつき年寄りです」
「じゃあ俺は、生まれつきガキかもな」
「いい組です。年寄りとガキ」
二人は笑い、竹刀を交えた。静はまた半寸、間合いを詰める。蓮は逃げずに立つ。近い。怖い。だが、そこからしか勝ちも負けも始まらない。
翌朝、土方に呼ばれ、静と蓮は広間に並んだ。土方は紙束を卓に置き、短く言う。
「“血試し”は終いだ。結果は“何もない”」
「何も、ない」
「それでいい。――だが、これからは“書く”。山南さん」
山南は一歩前へ出て、紙束の一枚を静に渡し、もう一枚を蓮に渡した。
「稽古帳です。出入りと手合わせの相手、体調、気分、心の動き。書ける範囲でいい」
「気分も?」
蓮が笑うと、山南は微笑んでうなずいた。
「剣は“待つ”ものです。待っているあいだを記すと、剣がわかる」
「待つのが苦手なやつが多いですよ」
「だから書くのです」
静は紙の端を撫で、墨の匂いを嗅いだ。紙は新しいが、どこか懐かしい。
「矢野さん」
「なんだ」
「今日の一行目は、僕が書きます」
「勝手にしろ」
静は筆を取り、さらりと書いた。
――本日、矢野蓮、間合い“前”にて勝つ。呼吸の合う寸前、土の音一つ。
蓮は覗き込み、鼻で笑う。
「俺のこと好きだろ、おまえ」
「はい。矢野さんは、いい“手”ですから」
「手、ね」
蓮は自分の掌を開いて眺めた。豆が固く、指に細かな切れがある。
「じゃあ俺は書く。“静は近い”。そればっかり」
「いい記述です」
「褒めるな。照れる」
土方は二人のやり取りを聞きながら、外の空を見た。夏の雲が高い。
「おまえら、“近い”のが得意なら、それで壬生を固めろ。遠くからは何も見えねぇ。近いところで、息が聞こえる距離で、壬生を回せ」
「はい」
静が答え、蓮は頷いた。頷きは少し雑で、そこがいい。雑なところが、急に美しく見える瞬間がある。その瞬間を、静は“書き”たくなる。
昼、白木が稽古場に現れた。白い晒で手を巻き、竹刀を抱えている。目はもう、墓場の夜の目ではない。
「来たぞ。書け。俺の名」
「書きます。字はどちらの“白”を?」
「どっちでもいい。どっちでもなくてもいい。読めれば」
「では、今日の白は雪の白で」
静は稽古帳に、“白木”の白を、少しだけ崩して書いた。白木はその字をじっと見て、ふっと笑った。
「字にも間合いがあるな」
「あります。上手い下手より、間合いで読ませます」
「じゃあ俺は俺の間合いを見つける。剣でも字でも」
「はい。――矢野さん、組みましょう」
「望むところ」
三人で竹刀を持ち、土間の真ん中へ出る。白木は踏み込みの音がまだ硬い。蓮は“前”で勝とうとして、わざと前で負ける。静は二人の呼気を繋ぎ、そのあいだに風を置く。
竹刀と竹刀が触れ合うとき、紙をめくるような音がする。書く音に似て、斬る音にも似ている。静は思う。この音が残ればいい。この音を、誰かがどこかで思い出せばいい。名が消えても、音は残る。
白木が面を外し、汗を袖で拭いながら言った。
「ねぇ、静さん」
「はい」
「俺、今、少しだけ“いた”気がした」
「はい。いました」
「そうか」
白木の笑いは、昨日より深く、静かだった。
夕刻、土方が再び静を呼ぶ。薄明の縁側、蚊が舞う。
「静。おまえの筋書きは効いた。だが、これからは“筋書きの先”が必要だ」
「先?」
「壬生は広くねぇ。江戸の目、京都所司代の目、会津の目。いろんな目が同じ小屋根を覗いてくる。いずれ“血試し”は、こっちに向かって来る。おまえは“見えないふるい”を握っている。その手、握り続けるか、誰かに渡すか」
「渡せる相手がいれば」
「いなければ、作れ」
静は頷き、縁側の端を爪で弾いた。
「矢野さんに、少しずつ渡します」
「お、俺か?」
蓮がいつの間にか、柱の陰に立っていた。
「聞いてたのか」
「たまたま通りかかったら、俺の名が出たんで。耳が勝手に残っただけです」
「耳が残るのは良い耳です」
「からかうな。――渡すって、何を」
「“選択肢の置き方”を」
「またろくでもねぇ」
「ろくでもないのに、役に立ちます」
土方が笑いを飲み込み、真顔に戻る。
「蓮。おまえは負け方を覚えた。次は、勝たせ方を覚えろ。自分じゃない誰かを勝たせるのが、隊の剣だ」
「了解。……って言うと、静が笑いますね」
「笑ってません」
「口角が上がってる」
「汗です」
「汗で口角は上がらない」
「上がります。矢野さんを見ていると」
「それはそれで照れる」
夜、壬生の風は少しひんやりして、どこか遠くの水の匂いが運ばれてきた。静は稽古帳を開き、筆を置く。
――本日、白木入隊。墓場の夜を越え、土間の昼に立つ。護符は燃やしたが、手は残る。
続けて、蓮が稽古帳を覗き込み、筆を奪う。
――静は近い。今日も近い。近いまま、遠くを見ている。
静は笑って、蓮の書いた字の横に小さな点を打った。
「矢野さん、ここ、“口”が一画足りない」
「また誤字か。俺に白木の趣味が移る」
「いい趣味です。誤りは、後から直せますから」
「直せない誤りもある」
「だから、先に書くんです」
静の声は小さく、風に溶けていった。蓮は頷き、稽古場の天井の梁を見上げる。木目が長い。名も、線も、重なり合って板になる。
「なぁ、静」
「はい」
「俺らのこと、誰も書かないかもしれない」
「はい」
「でも、俺らは書く」
「はい」
返事は短く、確かだ。
壬生浪士組の夜は深く、虫の音が増え、遠くの犬が吠える。どこかの家で子が泣き、すぐに泣き止む。人の息の距離で暮らす町だ。
静は筆を洗い、蓮の肩に軽く触れた。
「矢野さん。間合いの稽古、続けましょう」
「もう夜だぞ」
「夜の方が、息がよく聞こえます」
「なるほど。じゃあ、俺が先に“前”で勝つ」
「どうぞ。僕は“前”で負けます」
「それ、強がりだ」
「はい。強がっておきます」
二人はまた土間へ降り、竹刀を持つ。近い。息がかかる。怖い。だが、そこからしか――勝ちも負けも、始まらない。
翌々日から、壬生の稽古場には奇妙な変化が起こった。稽古の始めに、皆が一行だけ“書く”のだ。誰かが始め、誰かが真似る。字のうまい者が見本を書き、字の下手な者が笑われ、笑った者が次に笑われる。笑いは連鎖し、剣の空気を柔らかくした。
白木は誰よりも早く来て、誰よりも長く残った。彼は剣よりも、字の添削で忙しい。蓮は“前”で勝つ回数を少しずつ増やし、負けるふりの技をときどき挟み、相手に勝たせもした。静はそのすべてを、半寸の距離で見守った。
土方は遠くで見ている。遠くにいても、彼は息を聞く。壬生の息。
「静」
ある日の夕刻、土方は静を呼び、紙片を渡した。紙は薄く、角に小さな印がある。丸に槍――ではない。丸に“何もない”。
「なんですか」
「“何もない”印だ。これが来たら、上からの“見えない査問”だ。次はおまえの番かもしれん」
「はい」
「準備しとけ」
「準備は、いつも“前”にします」
「……そうだな」
土方は微笑み、背を向けた。
静は紙を指先でつまみ、光に透かした。何もない。何もない、という印。
「矢野さん」
「ここにいる」
いつの間にか隣に立っていた蓮が、紙を覗き込む。
「面白いな。何もないのに印」
「はい。何もないことを、わざわざ示す。厄介です」
「じゃあ、見せ返そう。何もない顔で、何でもある目で」
「いい比喩です。稽古帳に書いておきます」
「やめろ、恥ずかしい」
「書きます」
「……ほんと悪い人」
「はい。矢野さんにとってだけ、です」
蓮は笑い、静も笑った。
壬生の空は、薄群青。寺の鐘の音が、少し遅れて耳に届く。音は記す。音は斬る。音は、残る。
静は深く息を吸い、半歩、前に出た。呼吸が触れる距離。勝ちも負けも、ここから始まる。
「矢野さん、ここまで寄れば、剣の理屈はむしろ簡単になります」
「近いと怖いんだよ、静。刃の向きが見えん」
「見えなくても、息は聞こえます。喉の奥で鳴る小さな音。それが打太刀の“次”です」
静は言い、面も小手も狙わず、蓮の耳の裏の空気を竹刀で撫でた。ひゅ、と髪が揺れる。蓮は反射で目を閉じ、開いたときには静の竹刀が空を切っていた。
「いまので斬れるのか」
「はい。斬れる“体”に、こちらがなれば、です」
「人でなしめ」
「褒め言葉として受け取ります」
瀬川の“江戸帰還”は、誰にも明かされないまま、屯所の朝の空気を一段締め直した。皿の当たる音が小さくなり、笑い声は引っ込む。訛りの濃い者ほど、その沈黙の意味を早く理解した。誰かがいなくなる、ということが何を意味するかを、旅の道すがら骨で知っているからだ。
その日、土方は廊下の端で静を呼び止め、襟もとをわずかに整えた。
「静。まだいるな」
「……はい」
「ひとり、で済めばよかったがな。虫は群れる」
「群れるからこそ、目印を付けやすくなります」
「目印?」
「矢野さん」
「呼んだ?」
背後に立っていた蓮が、竹刀を肩に担いだまま近づく。土方はその無遠慮な歩調を見て、喉の奥で小さく笑った。
「おまえ、静に教わった“近い間合い”を、他でも使え」
「何にです?」
「噂にだ。顔を寄せて訊くと、人は同じ嘘を二度つけねぇ」
「なるほど。俺は顔が生意気だから、寄れば殴られるかもしれませんね」
「殴られたら殴り返す前に、誰が殴ったか覚えとけ。覚えた名が、今は金だ」
土方は去り際、肩越しに言葉を落とした。
「血はなるべく流すな。流すのは、向こうにやらせる」
その方針は、静にとっても好みだった。相手の足で相手をつまずかせるには、足場を選ばせることだ。仕掛けは二重にし、どちらへ踏み出しても泥をすくうように沈む。
最初の泥は“栄誉”だった。
入隊間もない連中に、密かに「上覧試合」の話をばらまく。近藤の前で剣を披露する機会、勝ち上がれば食客扱いで米の加増――それは夢の話に近いが、夢の匂いがするだけで人は足を速める。静は蓮に囁いた。
「矢野さん、囁き方は任せます。嘘に見えない嘘が一番強い」
「静が言うと、なんで真理みたいに聞こえるんだろうな」
「真理に見える嘘だからです」
「ますます怖ぇよ」
蓮は町へ出た。壬生寺の門前は番小屋ができて、子どもらが飴を舐めながら浪士の着物の袖を引く。茶屋の娘・お雪は、蓮を見ると目尻を下げた。
「兄さん、また藁灰の匂いさしてる」
「鍋のカスだ。で、例の話、どう広がってる?」
「“おえらいさんの前で剣”てのは好きよ。男ってどうしてああ、見られるのばっか好きなんだろ」
「見られたいんじゃない、見せたいんだ。自分にも」
「うちの父ちゃんと同じこと言う。代をはる男の顔だね。――そうだ、昨夜、鳶色の羽織の人が、裏口から“護符”を撒いてったよ」
「護符?」
「“稲荷講”のね。新参の人らに渡ってる。腰に入れとくと刀の切味が増すって」
蓮は目を細めた。
「稲荷講、ね。壬生の稲荷講は、誰の講だ?」
「そこまでは。けど、裏長屋の一番奥、縁台で碁打ってる爺さんなら知ってる。何でも見てるから」
「菓子折り持って行く。米飴でいいか?」
「いいさ。歯がないから、舐められるやつが好き」
裏長屋の縁台で、蓮は爺さんに飴を渡した。爺さんは飴を舌に転がし、視線を遠くに置く。
「講はな、講って言い方しとるが、あれは“配り手”が一人いるんだ。顔は出さん。お前さんみてぇに生意気な目で見たやつは、一人だけ。髷が詰まってて、草履が新しい」
「草履が新しい?」
「銭が入ったばかりの足音だ。畳を踏む音が硬い」
蓮は爺さんの膝の皺を眺めながら、音の記憶を足でなぞる。草履が新しいと、土の上で鳴る音は確かに乾く。
「そいつ、何を話した?」
「ほとんど話さん。ただ“護符”渡して、『この紙、袴の腰に忍ばせとけ』とな。書き付けに印があった。狐じゃねぇ。丸に槍。あれはな、会津の若いのが好むやつだ」
蓮は飴を舐めるように、言葉を舐めた。丸に槍。
「ありがとう。爺さん、舌、切るなよ」
「切るほど舌はないわい」
蓮は屯所に戻り、静に話した。静は薄く目を閉じ、茶の湯気を見た。
「“護符”は、斬れる“体”にする小道具です。呪を借りると、剣が立つ。――そう思わせるための」
「実際に立つ?」
「立つのは、手前の気。呪があると思うと、踏み込みが半寸深くなる。半寸で、首は落ちる」
「誰が配ってる」
「丸に槍――会津の徒じゃなく、“会津の名を借りる者”でしょう」
「尊攘への筋?」
「そこを“血試し”にするんです、矢野さん」
「試す? どうやって」
「二つ。ひとつは“護符”の札に、すこしだけ傷を入れます。もうひとつは、上覧試合の話を本物にする。札を忍ばせた者が勝ち上がる筋書きを、こちらが用意する」
「勝ち上がったところで?」
「札の“誤字”を指摘する者が現れます。書いた本人が、です」
静は蓮の方を見て、いたずらっぽく笑った。
「誤字は、僕が作っておきます。会津の男が見れば笑ってしまうような。刀を振りながら笑うのは難しいから、口元が勝手に崩れる。そこを見ます」
「まったく、人の心臓を指で押すみたいなことを言う」
準備は素早く済んだ。札はごく薄い和紙で、腹帯に忍ばせれば汗で柔らかくなり、肌に貼り付く。静は墨を摺り、あえて二箇所、小さな誤りを入れた。ひとつは“会”の点がひとつ足りず、ひとつは“槍”の旁が古い略字になっている。
「矢野さん、これを見て“間違いだ”と気づく者は、書を嗜むか、印を知っている。つまり、ただの浪士ではない」
「なるほど。で、試合は?」
「土方さんに通してあります。“内覧”という名目で、上に見せる前の篩い。負けても首は飛ばない。ただし、勝ち上がる者の顔は僕が決める」
「公平じゃないな」
「“公”はまだなく、“平”は最初からない。――矢野さん、ひとつ頼みが」
「何」
「負けてください」
「は?」
「矢野さんが勝つと、話が曲がるんです。あなたは強いが、“いまは”強いことが邪魔になる」
「俺、負けるの嫌いだぞ」
「負ける“ふり”は、もっと難しいです」
蓮は頭を掻いた。
「この際だから言うけど、静、おまえの頼みは大体ろくでもない」
「知っています。だから、お願いするんです」
上覧試合――いや、内覧の“血試し”は、土間に藁を敷き、周りを木戸で囲っただけの粗末な場で行われた。観るのは土方と、記録係の山南、そして静。近藤はあえて姿を見せない。名を貸すだけの構えだ。
初戦は拍子抜けするほど早かった。札を忍ばせた一人が、踏み込みの“半寸”で相手の間合いを奪い、切り返しの体で勝負を決めた。静はうなずき、山南が淡々と記す。
二戦目、三戦目と進むにつれ、札の者と札なしの者の差がじわじわと開く。札を手にした者は、何かに守られている気になって“躊躇”を捨てるのだ。剣は躊躇が少ない方に傾く。
そして、蓮の番が来た。相手は細身で、手順の良い突きを使う。蓮は面を借り、木刀を受け取り、静に目で問う。静は短く首を振りもせず、うなずきもせず、ただ蓮の呼吸の速度を手の甲で測るような目をした。
「始め!」
木刀が鳴り、足が砂を噛む。蓮は相手の突きを“見せ”て受け、二合目でわざと遅れる。遅れは癖になる。身体は正直で、一度遅れると、次も遅れる。――三合目、相手の突きが深く入る。蓮は肩で受け、ぐっと後ろに下がって膝をついた。
「止め!」
土方の声が低く落ちる。蓮は面を外し、木刀の先を土に立てる。相手の顔は興奮で赤い。
「負けだな」
「ええ。負けました」
蓮は汗に濡れた鼻梁を指で押さえ、笑った。負けを、笑う顔。静はその笑いの形が好きだ。勝ち顔より、ずっと人間らしい。
と、そのとき。
土間の隅で観ていた一人が、口元を手で覆って笑った。抑えきれない、というふうに。静の耳は、その笑いが“札の誤字”に反応したものだと、もうわかっている。
笑った男は、札の所在を誰にも悟らせないように、慎重に袴を直した。指先は節くれ立ち、筆を持つ癖がある。
「次、四番」
山南の声に、その男――名を白木という――が前に出る。相手は札なし。勝負はすぐについた。白木の踏み込みは美しく、刀の軌跡が“字”のように読める。彼は剣に文字を書く男だ。
試合後、土方が声をかける。
「いい踏み込みだ。どこで修めた?」
「江戸で少し。書も少々」
「やはりな」
土方は手を組んで、静に視線を送る。静は目を伏せ、白木の腰に目をやった。袴の帯からわずかにのぞく紙の角。角は汗で丸く、しかし墨のはしが“薄い”。
「白木さん」
静が呼ぶと、白木はすぐさま頭を下げた。礼の角度が深い。
「はい」
「帯の中の紙、湿ってます。取り出して、乾かしてください。墨が流れる前に」
白木の目が、一瞬だけつり上がる。驚きと、怒りと、羞恥の混じった目。その目は、次の瞬間には笑みに変わる。
「……さすが。壬生の“白い人”だ」
静は白木の笑い方が嫌いではなかった。賢い者の笑いだ。
「誤字がありましたよ」
白木は囁くように言い、紙を指先でなぞる。
「“会”の点が足りない。子どもの間違いだ。槍の旁は古いのを使う者もいるが、芽の横棒が長すぎる。会津藩の印なら、こんなふうには書かない」
「そうですね」
「でも、効果はありました。護符は護符です」
「呪は、呪う側の言い訳にもなります。――白木さん、夜はどちらへ?」
白木は笑いを引っ込め、静の目を見た。
「どちらへ、とは」
「“稽古”の延長があるように見えます。誰かに剣を教える夜。あるいは、誰かから“字”を教わる夜」
白木は短く舌打ちし、肩を竦めた。
「参りました。今夜、話します。ここでは聞き耳が多い」
その夜、静と蓮は白木を連れ、壬生寺の裏手の墓場に出た。夏草が膝に触れて、露の玉が袴に道を描く。白木は灯を低く持ち、墓石に影の字を刻むように歩いた。
「私は尊攘の人間ではない。剣も字も、飯の種だ。だが、“講”の配り手に借りがある」
「誰に」
「名は言えない。恩がある。死にかけたとき、身を拾われた。だから“札”を配れと言われれば配る。内容は見ない」
「さっき、誤字を指摘したのは?」
「それはそれ。剣の場では、字の間違いはつい目につく。指摘したのは趣味だ」
「趣味で死ぬことがあります」
「承知だ。だが――」
白木の声が細くなる。
「“札”の配り手は、会津でも浪士でもない。寺だ。ここから北へ二町、裏の小堂。稲荷講を名乗ってはいるが、実は“記すこと”を嫌う坊主がいる。過去帳の空白を誇るような男だ。あの男のためなら、私はいくらでも紙を配る。――そこには、私の名が無いから」
静は墓石の苔に触れ、指を湿らせた。
「名が無い?」
「俺は“いなかった”んだ。前の土地で。名を消されて、親も戸も無い。あの坊主は言った。『名のない者は楽でいい』って。楽、ですってよ」
白木の笑いが、墓場には乾き過ぎていた。
「名の無い者は、誰にでも化ける。俺はそれがわかった。だから人の名が嫌いだ。――なのに、あんたらは名を揃えさせる。局中法度とかいうやつで」
「まだ法度になっていません」
静が穏やかに言う。
「だから、融通が利きます。白木さん。あなたの“借り”は、いつまで続く?」
「坊主が飽きるまで」
「こちらは、飽きさせる術を知っています」
「どうやって」
「“記す”ことです。記すことを嫌う人間ほど、記されることに弱い。帳面一冊、筆一本。あなたが配った札の枚数、渡した相手の名、夜の出入り。全部、書きます。紙は燃やせるが、書かれたという事実は燃えない。坊主はそれが怖い」
白木の喉が鳴った。
「脅しに来たのか」
「いいえ。選択肢を置きに来ただけです。白木さん、自分で自分を救うか、他人に救わせるか。どちらを選びます?」
「……」
「あなたの“借り”の鎖を、あなたの手で切れるように、僕らは場を作る。明日、もう一度“内覧”をやります。そこで、あなたはわざと札を落とす。拾うのは、配り手です。拾った手を、僕らが見ます」
「配り手が来ると?」
「来ます。自分の“護符”の効果を確かめに。呪は、呪う側が一番信じたい」
白木は長い息を吐き、灯を少し上に持ち上げた。
「……いいだろう。坊主を引っ張り出す。だが、約束しろ。俺の名を書かないでくれ。これ以上、どこかに“いた”ことにされたくない」
静は首を横に振る。
「あなたの名は、書きます。ただし、あなたが望む“場所”に」
「どこだ」
「剣の稽古帳です。稽古の相手の欄に、あなたの名を書きます。あなたが誰かの手を受け、また誰かの手を受けさせた、その事実として」
白木の目がゆるんだ。
「……悪い人だな、あんた」
「よく言われます」
翌日、内覧はもう一度行われた。昨日よりも観る目が増え、噂の匂いがさらに濃くなる。静は合間合間に、蓮の襟を直し、ときどき背中を叩いた。
「矢野さん、今日は“負けるふり”は要りません」
「ありがたい。全身が負けを記憶しちまう前に、勝ちで上書きしたい」
「勝ってください。……ただし、見られる勝ち方で」
「どんなだ」
「踏み込み“前”の勝ち方。足が土を離れる前に、相手の心を崩してください」
「言うは易し、だな」
「易いことを難しく言ってるだけです」
「やっぱり悪い人だ」
白木は序盤の試合で、わざと帯から札を落とした。札は土間にひらりと落ち、誰かが素早く拾う。拾ったのは、見物に紛れていた痩せた男。僧形。袖口から覗く手首が白い。
静は視線だけで合図し、土方と山南がそれを追う。僧は気づかれたことに気づかず、札を袖に滑らせた。
そこで蓮の試合の番が来る。相手は昨日、蓮に勝った細身の突きの男だ。蓮は笑い、木刀を軽く振って握りを確かめる。
「静、見てろ。“前”で勝つってやつ」
「見ています」
合図と同時に、蓮は一歩も動かなかった。相手が突きの構えを作るより早く、蓮は“視線”だけを相手の右肩に刺す。右肩が勘違いする。そこに刃が来ると。身体は正直だ。右肩が逃げようとした瞬間、蓮は足の親指で土を軽く掻き、その音で相手の重心を崩した。わずかに前へ、わずかに左へ。そこに木刀の先が落ちる。
打突は軽い。だが、勝負はそこで決まっていた。
「止め!」
山南の声の後、土間の向こうから小さな拍手がした。僧が、だ。思わず手を打つ。いい技を見ると、身体が先に動く。
土方は僧の袖を掴んだ。
「坊主、いい手だろ」
「……何のことですかな」
「札だよ。護符。おまえが配った。会津の名を借りてな」
僧は笑おうとして、笑えていない。顔の筋肉が、別の言葉を言いたがって震えている。
静はそこで、いつものように“逃げ道”を見せた。
「ご住職。あなたが配った“護符”は、効きました。札を持った者は勇気づけられ、いい踏み込みをしました。――それは善ですか、悪ですか」
僧は答えない。
「善ですとお答えになるなら、札は“祈祷札”だった。悪ですとお答えになるなら、札は“惑い”だった。どちらでも、帳面に書かれます」
「帳面?」
「札を配った日時、渡した名。書いて、寺に置きます。誰も見ません。あなたも見ない。でも、そこに“ある”。――それが何より効く」
僧のこめかみが汗で光った。
「……何者だ、貴様ら」
「壬生浪士組の、記す者です」
静の声は、僧の耳に冷たく残り、やがて僧は膝を折った。
「わかった。わしが悪かった。札はもう配らん。過去帳は……」
「過去帳は、そのままでいいです。空白も記録ですから」
僧はうなずき、山南に何度も礼をした。土方は僧の袖から札を取り上げ、白木に放った。
「餞別だ。火にくべろ。おまえの借りも、今日で終いにしてやる」
白木は札を受け取り、燭の火でゆっくり炙った。紙が丸まり、墨が茶色くなる。煙は細く、匂いは甘い。
「……軽いな」
「何が」
「借りが。こんなに軽かったか」
「軽くしてやったんだ。俺が」
蓮が笑うと、白木も笑った。静は二人の笑いの間に指を差し入れ、そこに“約束”を結わえる。
「白木さん。これからは剣の稽古に来てください。字の稽古も。あなたの名を、稽古帳に書きます」
「書け。消すために、な」
「消すには、まず書かないと」
事件の顛末は、公式には何も残らない。瀬川は“江戸帰還”、白木は“入隊”、僧は“発心のため出仕を退く”。それぞれの言葉が、それぞれの体温で人の口から語られる。
ただ、蓮の胸にはひとつ結び目が残ったままだ。生かして使うこと。殺して終えること。そのあいだにある“書くこと”。
夜、蓮は静に稽古をつけてもらいながら、ふいに訊いた。
「静。おまえは、名前が消えるの、怖いか」
「怖いですよ」
「でも、名を消すような仕事、好んでしてる」
「消すのは名で、残るのは“手”だと思っているからです」
「手?」
「誰かの額に触れた手、誰かの背中を押した手。――僕は、自分の手を残したい」
「渋いこと言うな。年寄りみたいだ」
「僕は生まれつき年寄りです」
「じゃあ俺は、生まれつきガキかもな」
「いい組です。年寄りとガキ」
二人は笑い、竹刀を交えた。静はまた半寸、間合いを詰める。蓮は逃げずに立つ。近い。怖い。だが、そこからしか勝ちも負けも始まらない。
翌朝、土方に呼ばれ、静と蓮は広間に並んだ。土方は紙束を卓に置き、短く言う。
「“血試し”は終いだ。結果は“何もない”」
「何も、ない」
「それでいい。――だが、これからは“書く”。山南さん」
山南は一歩前へ出て、紙束の一枚を静に渡し、もう一枚を蓮に渡した。
「稽古帳です。出入りと手合わせの相手、体調、気分、心の動き。書ける範囲でいい」
「気分も?」
蓮が笑うと、山南は微笑んでうなずいた。
「剣は“待つ”ものです。待っているあいだを記すと、剣がわかる」
「待つのが苦手なやつが多いですよ」
「だから書くのです」
静は紙の端を撫で、墨の匂いを嗅いだ。紙は新しいが、どこか懐かしい。
「矢野さん」
「なんだ」
「今日の一行目は、僕が書きます」
「勝手にしろ」
静は筆を取り、さらりと書いた。
――本日、矢野蓮、間合い“前”にて勝つ。呼吸の合う寸前、土の音一つ。
蓮は覗き込み、鼻で笑う。
「俺のこと好きだろ、おまえ」
「はい。矢野さんは、いい“手”ですから」
「手、ね」
蓮は自分の掌を開いて眺めた。豆が固く、指に細かな切れがある。
「じゃあ俺は書く。“静は近い”。そればっかり」
「いい記述です」
「褒めるな。照れる」
土方は二人のやり取りを聞きながら、外の空を見た。夏の雲が高い。
「おまえら、“近い”のが得意なら、それで壬生を固めろ。遠くからは何も見えねぇ。近いところで、息が聞こえる距離で、壬生を回せ」
「はい」
静が答え、蓮は頷いた。頷きは少し雑で、そこがいい。雑なところが、急に美しく見える瞬間がある。その瞬間を、静は“書き”たくなる。
昼、白木が稽古場に現れた。白い晒で手を巻き、竹刀を抱えている。目はもう、墓場の夜の目ではない。
「来たぞ。書け。俺の名」
「書きます。字はどちらの“白”を?」
「どっちでもいい。どっちでもなくてもいい。読めれば」
「では、今日の白は雪の白で」
静は稽古帳に、“白木”の白を、少しだけ崩して書いた。白木はその字をじっと見て、ふっと笑った。
「字にも間合いがあるな」
「あります。上手い下手より、間合いで読ませます」
「じゃあ俺は俺の間合いを見つける。剣でも字でも」
「はい。――矢野さん、組みましょう」
「望むところ」
三人で竹刀を持ち、土間の真ん中へ出る。白木は踏み込みの音がまだ硬い。蓮は“前”で勝とうとして、わざと前で負ける。静は二人の呼気を繋ぎ、そのあいだに風を置く。
竹刀と竹刀が触れ合うとき、紙をめくるような音がする。書く音に似て、斬る音にも似ている。静は思う。この音が残ればいい。この音を、誰かがどこかで思い出せばいい。名が消えても、音は残る。
白木が面を外し、汗を袖で拭いながら言った。
「ねぇ、静さん」
「はい」
「俺、今、少しだけ“いた”気がした」
「はい。いました」
「そうか」
白木の笑いは、昨日より深く、静かだった。
夕刻、土方が再び静を呼ぶ。薄明の縁側、蚊が舞う。
「静。おまえの筋書きは効いた。だが、これからは“筋書きの先”が必要だ」
「先?」
「壬生は広くねぇ。江戸の目、京都所司代の目、会津の目。いろんな目が同じ小屋根を覗いてくる。いずれ“血試し”は、こっちに向かって来る。おまえは“見えないふるい”を握っている。その手、握り続けるか、誰かに渡すか」
「渡せる相手がいれば」
「いなければ、作れ」
静は頷き、縁側の端を爪で弾いた。
「矢野さんに、少しずつ渡します」
「お、俺か?」
蓮がいつの間にか、柱の陰に立っていた。
「聞いてたのか」
「たまたま通りかかったら、俺の名が出たんで。耳が勝手に残っただけです」
「耳が残るのは良い耳です」
「からかうな。――渡すって、何を」
「“選択肢の置き方”を」
「またろくでもねぇ」
「ろくでもないのに、役に立ちます」
土方が笑いを飲み込み、真顔に戻る。
「蓮。おまえは負け方を覚えた。次は、勝たせ方を覚えろ。自分じゃない誰かを勝たせるのが、隊の剣だ」
「了解。……って言うと、静が笑いますね」
「笑ってません」
「口角が上がってる」
「汗です」
「汗で口角は上がらない」
「上がります。矢野さんを見ていると」
「それはそれで照れる」
夜、壬生の風は少しひんやりして、どこか遠くの水の匂いが運ばれてきた。静は稽古帳を開き、筆を置く。
――本日、白木入隊。墓場の夜を越え、土間の昼に立つ。護符は燃やしたが、手は残る。
続けて、蓮が稽古帳を覗き込み、筆を奪う。
――静は近い。今日も近い。近いまま、遠くを見ている。
静は笑って、蓮の書いた字の横に小さな点を打った。
「矢野さん、ここ、“口”が一画足りない」
「また誤字か。俺に白木の趣味が移る」
「いい趣味です。誤りは、後から直せますから」
「直せない誤りもある」
「だから、先に書くんです」
静の声は小さく、風に溶けていった。蓮は頷き、稽古場の天井の梁を見上げる。木目が長い。名も、線も、重なり合って板になる。
「なぁ、静」
「はい」
「俺らのこと、誰も書かないかもしれない」
「はい」
「でも、俺らは書く」
「はい」
返事は短く、確かだ。
壬生浪士組の夜は深く、虫の音が増え、遠くの犬が吠える。どこかの家で子が泣き、すぐに泣き止む。人の息の距離で暮らす町だ。
静は筆を洗い、蓮の肩に軽く触れた。
「矢野さん。間合いの稽古、続けましょう」
「もう夜だぞ」
「夜の方が、息がよく聞こえます」
「なるほど。じゃあ、俺が先に“前”で勝つ」
「どうぞ。僕は“前”で負けます」
「それ、強がりだ」
「はい。強がっておきます」
二人はまた土間へ降り、竹刀を持つ。近い。息がかかる。怖い。だが、そこからしか――勝ちも負けも、始まらない。
翌々日から、壬生の稽古場には奇妙な変化が起こった。稽古の始めに、皆が一行だけ“書く”のだ。誰かが始め、誰かが真似る。字のうまい者が見本を書き、字の下手な者が笑われ、笑った者が次に笑われる。笑いは連鎖し、剣の空気を柔らかくした。
白木は誰よりも早く来て、誰よりも長く残った。彼は剣よりも、字の添削で忙しい。蓮は“前”で勝つ回数を少しずつ増やし、負けるふりの技をときどき挟み、相手に勝たせもした。静はそのすべてを、半寸の距離で見守った。
土方は遠くで見ている。遠くにいても、彼は息を聞く。壬生の息。
「静」
ある日の夕刻、土方は静を呼び、紙片を渡した。紙は薄く、角に小さな印がある。丸に槍――ではない。丸に“何もない”。
「なんですか」
「“何もない”印だ。これが来たら、上からの“見えない査問”だ。次はおまえの番かもしれん」
「はい」
「準備しとけ」
「準備は、いつも“前”にします」
「……そうだな」
土方は微笑み、背を向けた。
静は紙を指先でつまみ、光に透かした。何もない。何もない、という印。
「矢野さん」
「ここにいる」
いつの間にか隣に立っていた蓮が、紙を覗き込む。
「面白いな。何もないのに印」
「はい。何もないことを、わざわざ示す。厄介です」
「じゃあ、見せ返そう。何もない顔で、何でもある目で」
「いい比喩です。稽古帳に書いておきます」
「やめろ、恥ずかしい」
「書きます」
「……ほんと悪い人」
「はい。矢野さんにとってだけ、です」
蓮は笑い、静も笑った。
壬生の空は、薄群青。寺の鐘の音が、少し遅れて耳に届く。音は記す。音は斬る。音は、残る。
静は深く息を吸い、半歩、前に出た。呼吸が触れる距離。勝ちも負けも、ここから始まる。



