東海道の石畳を外れて山道へ入ると、音が消えた。風の音すら、木々の葉の裏側に吸い込まれて、手の届かないところでかすかに鳴っているだけだった。江戸の賑わいがまだ耳の奥で薄く反響し、法螺の抜け殻のような明るさが、歩幅の合間にひっそりと挟まる。だが、霜の降りる峠を越える頃には、その明るさも薄い膜になり、蓮の吐く白い息の中に紛れた。
昼と夜の境は早く、日が傾くと斜面の陰影は一気に濃くなる。谷側に寄れば落葉が沈み、山側に寄れば岩の冷たさが脛から骨へ伝わった。蓮は肩に提げた荷の重みを指で測り、後ろを歩く静の呼吸に耳を合わせる。耳で合う呼吸は、背で感じるより信頼が要る。背を預けると決めた以上、耳は前より働く器官になった。
「静、火、起こすぞ」
「はい、矢野さん。枯れ枝は、そちらの根元に」
高くも低くもない返事が落ち、蓮は斜面の根元から乾いた枝を集めて、風の筋から外れた窪みに寄せた。火打金の澄んだ音が二度鳴り、火花が小さく笑って苔の上に散る。紙を噛ませ、息をかけ、火は人の言葉のように強がって、それからやっと本音を見せるみたいに燃え始めた。
火の輪が二人の影を揺らした。揺らぎのたびに、静の白が鼠へ、鼠が白へと戻る。江戸の灯で薄くなった“白”は、ここではまた夜の色に馴染んだ。静は手のひらを火へかざし、指の関節をひとつずつ温める。剣を持つ者は、関節の音で夜の機嫌を知る。
「静」
「はい、矢野さん」
「俺は、名を残さなくてもいい。だけど……お前の背中を守る者でいたい」
火の粉がふわりと離陸して、空へ消えた。火の粉が昇る速度は、人の沈黙の長さによく似ている。静は顔を上げず、炎の芯の色をゆっくり測ってから、低く答えた。
「背を預けられるのは、世界で二人だけです。一人は、光に立つ者。もう一人は、お前でいい」
「お前でいい」ではなく、「お前でいい、と俺が決める」という響きがあった。蓮は一度唇を噛み、熱いものを喉の奥から飲み込むみたいに息を入れ替えた。名を消すのは怖い。だが、背の形を持ち合う者があるなら、その怖さは向きを変える。刃が心を傷つける向きから、心が刃を支える向きへ。
「……そう言ったな。じゃあ、約束をしよう。俺はお前の背を守る。どんな時でもだ」
「はい」
「お前も、俺の背を見失うな」
「はい。矢野さんの背は、俺の“道標”です」
火が少し低くなり、蓮は薪をもう一本くべた。ぱち、と乾いた音がして、積もった霜が熱で小さな水になり、すぐに蒸発した。水が消える早さは、言葉が残る長さの逆数だ。消えやすい水ほど、跡を残す。
その夜、蓮は眠りに落ちる寸前、遠い鈴の音を聞いた。江戸で総司が言った「一度でいい、鈴を鳴らせ」の言葉が、耳の裏で細く響く。胸の内側で鈴を一つ揺らし、彼は目を閉じた。眠りは浅く、浅い眠りは、夜の見張りに向いている。
翌朝、山は氷の薄い膜で覆われていた。木の根元の影が長く、足音が吸い込まれる。静は歩幅を半寸だけ狭め、蓮も合わせた。狭くなった歩幅は、呼吸を深くする。深い呼吸は、寒さに強い。
「今日中に大津まで行けるか」
「行けます。風が北に寄っています」
「風に詳しいな」
「はい。影は、風が作ります」
日が高くなるにつれ、道は賑やかさを取り戻した。荷を背負った男たちが鼻歌を漏らし、女たちが籠の中で赤子を寝かせ、旅芸人の小さな一座が竹馬を担いで通り過ぎる。誰も政治の言葉を口にはしないのに、皆、政治より確かな生活の重みを背負っている。江戸の記憶が遠くなり、京の匂いが近づいた。
京に入ると、空の低さがすぐに背骨を叩いた。薩摩の屋敷には夜の灯が増え、会津の番所には紙束が積み上がり、町人たちの目に疲れが滲む。噂は太くも細くも、どちらにも向けて流れていた。長州が薩摩と手を結ぶとか、越前が距離を測っているとか、天子様の周りの松が一本増えたとか、どうでもよくてどうでもよくない話ばかりだ。
屯所の座敷で、土方が短く言った。
「戻ったか。——今度は“影”が先に動く。薩摩と長州の手打ちが早い。紙に載る前に、道を折れ」
「承知」
静の答えは変わらない。それが土方への礼であり、隊全体への約束でもある。蓮は懐の奥に日記を戻し、刀の鞘を軽く叩いた。木の芯が鳴る小さな音が、指の骨にしみた。
その夜から、二人は再び京の裏街を歩いた。蛤御門の外れに近い町で、裏木戸に新しい蝶番の匂いがし、油小路の角で古びた提灯の位置が半寸動いているのに気づく。静は足を止め、提灯の下へ目をやった。そこに、目印がある。小さな墨の点が三つ、雨樋の影に打たれていた。三つは“交換”の合図だ。人の出入り、言葉の出入り、金の出入り。どれか、あるいは全部。
「静、どうする」
「合図の速度を変えます」
「速度?」
「はい。遅くするだけで、合図は別の意味になります」
静は提灯の紐を、誰にも見られぬ指の角度で結び直した。紐が一回転多くなる。提灯は同じ場所に、同じように揺れている。だが風の力が変わると、揺れ方が変わる。揺れ方が変われば、時間がずれる。ずれた時間は、すぐに事をしくじらせる。裏の世界は、半拍の遅れで壊れる。
翌晩、三条小橋の脇で、薩摩と長州の使いが落ち合うはずの小部屋に、別の顔が現れた。越前の目付の配下だ。越前の男は、合図の遅れを怪しんで、一歩早く来た。早さは、誰かの遅さの影だ。遅れた薩長の手先は間に合わず、言葉は空振りした。空振りした言葉は、夜のどこにも掛からずに落ち、翌日の噂の端にだけ薄く残った。
静はその“薄い端”を拾い、土方に渡した。土方は紙の端に小さく印を書き、印の角度で返事をした。目で読む返事は、音より早い。音より早い返事は、噂より遅い。遅いものを使いこなすのが、土方のやり方だ。
そんな日々の合間、蓮は静の背を見るたびに、自分の呼吸が救われるのを感じた。救われるというより、校正されると言ったほうが近い。乱れた息が、知らないうちに“正しい行”に揃えられていく。背に添えた眼が、刃先の迷いを半寸だけ取っていく。半寸の差で、人は死に、或いは生きる。
「静、今日の裏道は俺が先に行く」
「はい。矢野さんの背を、ここから見ます」
「背は見えねえぞ」
「見えます。呼吸が、見えます」
短い会話の後、蓮は裏道へ身を滑らせた。奥へ続く暗がりは、蛇腹のように折れ曲がって、視界から音を奪う。置き石の角が丸い。誰かが頻繁に通う証だ。角を曲がるたび、壁の土が指先を撫でていく。撫でられるたびに、心が落ち着く。土の温度は、人をまっすぐ歩かせる。
突き当たりに古い井戸。井戸縁にすり減った跡があり、縄は新しい。誰かが、ここに“何か”を沈めている。蓮は水面に耳を寄せ、夜の呼吸を嗅いだ。水の匂いは嘘をつかない。浅いところに油、深いところに鉄の匂い。油は灯、鉄は刃、あるいは金。何であれ、息は近い。
背後で小石の音。蓮は体を捻り、鞘で腕を受けて柄で喉を押す。刃を抜く前の仕事が、裏の仕事の半分だ。倒れた影が短く呻き、口から酒の匂いが漏れた。酔っているふりは、酔っている者の技だ。酔いは“時間刺し”に向かない。向かない技を持って夜に出てくるのは、下手だ。下手な敵は、可哀想だ。可哀想だと思う前に、蓮は縄を断って“沈め物”を引き揚げた。
桶の底から出てきたのは、帳面だった。紙は厚く、墨は薄い。足がつかないように、あえて薄く書いてある。薄い文字ほど、炙ると濃くなる。蓮は帳面を懐に仕舞い、井戸の石に軽く礼をした。井戸は生き物だ。礼を言うと、次に通る時に足を取らない。
屯所に戻ると、帳面は土方の手に渡った。土方は炭火で炙り、浮かび上がる名を目で弾くように数えた。薩摩の屋敷から出た金の行方、長州の手先に入った口銭、町人の仲立ちの数。数字は、噂より正直だ。正直すぎるから、すぐに殺される。殺される前に、こちらが飲む。
「よし」
土方の声は刃の背。硬くて、折れない。静がその背に刃を沿わせる。沿った刃は斬れ味を増す。
その夜遅く、蓮は稽古場に立った。誰もいない板の間に、月の白が一枚貼り付いている。蓮はそこへ足を置き、鞘を払い、刃を上に向けた。夜に向けた刃は、自分に向けた問だ。問は答えを持たない。持たないものに、誓いだけが形を与える。
「……静」
「はい」
いつの間にか背後にいた静が、板の軋みを鳴らさずに近づく。蓮は刃を下ろし、鞘に納めて振り向いた。
「言うぞ。ここにいる。これから先、名が消えても、俺はお前の背を守る。困ったら鈴を鳴らす。一度でも、十度でも、俺は応える。背が折れそうになったら、肩を貸せ。俺が折れそうな時は、叱れ」
夜は誓いの言葉を吸って、わずかに重くなった。重い夜は、転ばない。
静は一歩、蓮の正面から半身に位置を移した。背と背が自然に触れる場所だった。触れたところが、僅かに温かい。静が低く言った。
「矢野さん。僕は、明日の呼吸のために刃を持ちます。紙のためではありません。僕がいなくなっても、この刃筋が残ればいい。——その刃筋を、あなたの背で支えてください」
「支える」
「ありがとうございます」
礼の言葉は、刃の柄の木目みたいに素朴だった。素朴であることは、誓いに向いている。飾った言葉は、夜の湿気で重くなる。
誓いの翌日から、二人の仕事はわずかに、だが確かに変わった。静が先に動く局面でも、蓮の呼吸が先回りして“空気の通り”を開く。蓮が囮になる場面でも、静の視線が一尺先の危うさを先に摘む。二人の間の“鈴”は、鳴らないで鳴っていた。
御所の北、下立売の筋で、小さな騒ぎがあった。長州の手先が武家の装いで通り抜け、追う薩摩の若者が人混みを乱して怒鳴り、会津の足軽が手を出すか迷っている。迷いは伝染する。伝染する前に、二人は間に入った。
蓮は人波の角を押さえ、流れを細くする。細くなった流れは、怒りを洗い落とす。静は武家の男の肩を軽く叩き、その反射で出る“刃の手”を指の背で封じた。封じられた刃は、ただの手だ。手は、押して引けば素直に動く。薩摩の若者の目から火が少し抜け、会津の足軽の足の親指から力が抜けた。抜けた瞬間、騒ぎは“まだ起こっていないこと”になった。起こらなかったことは、記録に残らない。残らないことが、町を守る。
帰り道、鴨川の土手に登る。冬へ傾く空の下、川上から冷たい匂いが降りてくる。水の匂いは今を正直に語る。魚の群れが浅瀬に寄り、上流で誰かが布を洗い、こぼれた酒が橋の上で干からびる。人の匂いも混じる。混じった匂いは、町の“呼吸”だ。
「静。——俺たちのやってることは、何になる」
「何にも、ならないです」
「すっぱり言うな」
「はい。何にもならないものだけが、長く残ります」
「また理屈だ」
「すみません」
「いや、好きだ」
蓮は石垣に腰を掛け、足をぶらりとさせた。空は薄く、遠くで太鼓の音。祭りではない。人が四角い木を運ぶ時の、あの単調な太鼓。生活の太鼓だ。生活の太鼓が鳴っている限り、町は生きる。
その夜、静は珍しく、自分から短い昔話をした。言葉は淡々として、記憶を掘り起こす音をしない。
「昔、江戸の墓地で、僕は“名前の墓”に泣いたことがあります」
「聞いた」
「はい。——泣いたあと、少し楽になった」
「何が」
「“僕”という字の重さが」
「重さ?」
「はい。重さがあるものは、落ちます。落ちると、影になります。影の重さは、呼吸で運べます」
「分かるような、分からないような」
「僕も半分しか分かりません」
「それでいい」
半分しか分からない。半分分かったものは、背に載る。全部分かったと言い張るものは、背を滑る。滑るものは、夜に危ない。
日が巡るほど、薩摩と長州の足並みは音を小さく揃えてきた。表の大名屋敷からは明るい出入りが減り、裏で舟の音が増えた。会津の昼の顔は強く、夜の背は疲れている。幕府の名は崩れないが、土台の土が湿っている。湿った土は、重さに弱い。
そんな折、町医者の隅で、蓮は総司の咳をまた聞いた。咳は短く、小さく、深く、そして痛い。静は何も言わなかった。言葉が優しくなる時、静は黙る。黙りの代わりに、刃の角度がさらに静かに整えられた。総司の目は明るい。明るい目は、夜の鈴を嫌わない。
「蓮。君の鈴は、よく響く」
「まだ鳴らしてねえ」
「鳴ったよ。ここで」
総司は胸を指で軽く叩いた。音はしない。しない音のほうが、長く響くことを、蓮は初めて知った。
数日後、町外れでひっそりと剣合わせがあった。薩摩に近い浪士と、京に馴れない江戸者が、顔を立て合うふりで刃を探る場。静は半身で入り、蓮が外で“鈴”を用意した。鈴は、実際の鈴ではない。人の視線を一拍だけまとめる小さな合図。蓮は足元の砂を半歩幅だけ引き、棒の先で地面に円を描いた。円の中心に誰の足も置かせない。それだけで、刃は遅れる。遅れた刃に、静の柄頭が触れる。触れられた怒りは、降りる。降りた怒りは、名を求めない。
騒ぎは“起きなかったこと”になり、江戸からの文がひとつ京に届いた。将軍の動静は重く、だが、空白が増えた。空白は人を呼ぶ。空白へ、薩摩と長州が手をのばす。紙は遅い。紙より速いのは噂。噂より速いのは、呼吸。呼吸で動く者にしか、埋められない空白がある。
蓮と静は、その空白の端を指で掴み、少しずつ縫い合わせていった。縫い目は表から見えない。見えないほうが、長持ちする。長持ちするものは、名を要らない。
ある晩、蓮は静に言った。
「俺は、鈴を鳴らす。必要なら、何度でも」
「はい」
「だけど、一度も鳴らない夜が続くなら、それもいい」
「はい。鳴らない鈴は、守りです」
「守り」
「はい。鳴らすための鈴は、攻めです。鳴らさずに済む鈴は、守りです」
「気の利いたこと言いやがって」
「すみません」
二人は笑い、すぐに笑いをしまった。笑いをしまうのは、夜への礼儀だ。夜は笑いを嫌わないが、笑いが大きいと影が薄くなる。
京の空は張り詰め、薄氷のようにひびの前触れを光で隠している。だが、その下を歩む二人の影は、確かにここにいる。名を刻まず、刃筋だけを残す者として。紙の上の正しさが裏返る日が来ても、呼吸の正しさは裏返らない。裏返らないものに、誓いを置けばいい。
蓮は夜半に起きて、行灯の芯を少し切った。光が低くなり、影が濃くなる。濃い影は短い。短い影は、足元を温める。温められた足で、彼は刀の鞘を撫で、胸の内の鈴を一度、そっと鳴らした。音は出なかった。出ない音が、静の背に届いた気がした。
「静」
「はい、矢野さん」
「俺はここにいる」
「はい。僕も、ここにいます」
それで十分だった。言葉は少なく、夜は長く、刃は静かだ。静けさの中で、影の誓いは繰り返し刻まれていく。刻むたび、名は遠ざかり、代わりに背の形がくっきりと浮かび上がる。背の形があるところに、人がいる。名のあるなしに関わらず、確かに、ここに。
翌朝、東の端が白む。白い端は薄く、すぐに光に食べられる。それでも、その薄さの中で、二人は起き、帯を締め、刃を確かめ、いつものように歩き出した。影が先に伸び、足がその後を踏む。踏んだ土の温度が、今日の仕事の重さを告げる。重さは怖くない。背で持つから。
薄氷の空の下で、鈴は鳴らないで鳴っている。名は書かれないで残っている。残るのは、刃筋と呼吸と、背の温度。それだけを持って、二人は京の路地に消え、また現れ、また消えた。消えて、続く。続くことこそが、影の誓いのかたちだった。
昼と夜の境は早く、日が傾くと斜面の陰影は一気に濃くなる。谷側に寄れば落葉が沈み、山側に寄れば岩の冷たさが脛から骨へ伝わった。蓮は肩に提げた荷の重みを指で測り、後ろを歩く静の呼吸に耳を合わせる。耳で合う呼吸は、背で感じるより信頼が要る。背を預けると決めた以上、耳は前より働く器官になった。
「静、火、起こすぞ」
「はい、矢野さん。枯れ枝は、そちらの根元に」
高くも低くもない返事が落ち、蓮は斜面の根元から乾いた枝を集めて、風の筋から外れた窪みに寄せた。火打金の澄んだ音が二度鳴り、火花が小さく笑って苔の上に散る。紙を噛ませ、息をかけ、火は人の言葉のように強がって、それからやっと本音を見せるみたいに燃え始めた。
火の輪が二人の影を揺らした。揺らぎのたびに、静の白が鼠へ、鼠が白へと戻る。江戸の灯で薄くなった“白”は、ここではまた夜の色に馴染んだ。静は手のひらを火へかざし、指の関節をひとつずつ温める。剣を持つ者は、関節の音で夜の機嫌を知る。
「静」
「はい、矢野さん」
「俺は、名を残さなくてもいい。だけど……お前の背中を守る者でいたい」
火の粉がふわりと離陸して、空へ消えた。火の粉が昇る速度は、人の沈黙の長さによく似ている。静は顔を上げず、炎の芯の色をゆっくり測ってから、低く答えた。
「背を預けられるのは、世界で二人だけです。一人は、光に立つ者。もう一人は、お前でいい」
「お前でいい」ではなく、「お前でいい、と俺が決める」という響きがあった。蓮は一度唇を噛み、熱いものを喉の奥から飲み込むみたいに息を入れ替えた。名を消すのは怖い。だが、背の形を持ち合う者があるなら、その怖さは向きを変える。刃が心を傷つける向きから、心が刃を支える向きへ。
「……そう言ったな。じゃあ、約束をしよう。俺はお前の背を守る。どんな時でもだ」
「はい」
「お前も、俺の背を見失うな」
「はい。矢野さんの背は、俺の“道標”です」
火が少し低くなり、蓮は薪をもう一本くべた。ぱち、と乾いた音がして、積もった霜が熱で小さな水になり、すぐに蒸発した。水が消える早さは、言葉が残る長さの逆数だ。消えやすい水ほど、跡を残す。
その夜、蓮は眠りに落ちる寸前、遠い鈴の音を聞いた。江戸で総司が言った「一度でいい、鈴を鳴らせ」の言葉が、耳の裏で細く響く。胸の内側で鈴を一つ揺らし、彼は目を閉じた。眠りは浅く、浅い眠りは、夜の見張りに向いている。
翌朝、山は氷の薄い膜で覆われていた。木の根元の影が長く、足音が吸い込まれる。静は歩幅を半寸だけ狭め、蓮も合わせた。狭くなった歩幅は、呼吸を深くする。深い呼吸は、寒さに強い。
「今日中に大津まで行けるか」
「行けます。風が北に寄っています」
「風に詳しいな」
「はい。影は、風が作ります」
日が高くなるにつれ、道は賑やかさを取り戻した。荷を背負った男たちが鼻歌を漏らし、女たちが籠の中で赤子を寝かせ、旅芸人の小さな一座が竹馬を担いで通り過ぎる。誰も政治の言葉を口にはしないのに、皆、政治より確かな生活の重みを背負っている。江戸の記憶が遠くなり、京の匂いが近づいた。
京に入ると、空の低さがすぐに背骨を叩いた。薩摩の屋敷には夜の灯が増え、会津の番所には紙束が積み上がり、町人たちの目に疲れが滲む。噂は太くも細くも、どちらにも向けて流れていた。長州が薩摩と手を結ぶとか、越前が距離を測っているとか、天子様の周りの松が一本増えたとか、どうでもよくてどうでもよくない話ばかりだ。
屯所の座敷で、土方が短く言った。
「戻ったか。——今度は“影”が先に動く。薩摩と長州の手打ちが早い。紙に載る前に、道を折れ」
「承知」
静の答えは変わらない。それが土方への礼であり、隊全体への約束でもある。蓮は懐の奥に日記を戻し、刀の鞘を軽く叩いた。木の芯が鳴る小さな音が、指の骨にしみた。
その夜から、二人は再び京の裏街を歩いた。蛤御門の外れに近い町で、裏木戸に新しい蝶番の匂いがし、油小路の角で古びた提灯の位置が半寸動いているのに気づく。静は足を止め、提灯の下へ目をやった。そこに、目印がある。小さな墨の点が三つ、雨樋の影に打たれていた。三つは“交換”の合図だ。人の出入り、言葉の出入り、金の出入り。どれか、あるいは全部。
「静、どうする」
「合図の速度を変えます」
「速度?」
「はい。遅くするだけで、合図は別の意味になります」
静は提灯の紐を、誰にも見られぬ指の角度で結び直した。紐が一回転多くなる。提灯は同じ場所に、同じように揺れている。だが風の力が変わると、揺れ方が変わる。揺れ方が変われば、時間がずれる。ずれた時間は、すぐに事をしくじらせる。裏の世界は、半拍の遅れで壊れる。
翌晩、三条小橋の脇で、薩摩と長州の使いが落ち合うはずの小部屋に、別の顔が現れた。越前の目付の配下だ。越前の男は、合図の遅れを怪しんで、一歩早く来た。早さは、誰かの遅さの影だ。遅れた薩長の手先は間に合わず、言葉は空振りした。空振りした言葉は、夜のどこにも掛からずに落ち、翌日の噂の端にだけ薄く残った。
静はその“薄い端”を拾い、土方に渡した。土方は紙の端に小さく印を書き、印の角度で返事をした。目で読む返事は、音より早い。音より早い返事は、噂より遅い。遅いものを使いこなすのが、土方のやり方だ。
そんな日々の合間、蓮は静の背を見るたびに、自分の呼吸が救われるのを感じた。救われるというより、校正されると言ったほうが近い。乱れた息が、知らないうちに“正しい行”に揃えられていく。背に添えた眼が、刃先の迷いを半寸だけ取っていく。半寸の差で、人は死に、或いは生きる。
「静、今日の裏道は俺が先に行く」
「はい。矢野さんの背を、ここから見ます」
「背は見えねえぞ」
「見えます。呼吸が、見えます」
短い会話の後、蓮は裏道へ身を滑らせた。奥へ続く暗がりは、蛇腹のように折れ曲がって、視界から音を奪う。置き石の角が丸い。誰かが頻繁に通う証だ。角を曲がるたび、壁の土が指先を撫でていく。撫でられるたびに、心が落ち着く。土の温度は、人をまっすぐ歩かせる。
突き当たりに古い井戸。井戸縁にすり減った跡があり、縄は新しい。誰かが、ここに“何か”を沈めている。蓮は水面に耳を寄せ、夜の呼吸を嗅いだ。水の匂いは嘘をつかない。浅いところに油、深いところに鉄の匂い。油は灯、鉄は刃、あるいは金。何であれ、息は近い。
背後で小石の音。蓮は体を捻り、鞘で腕を受けて柄で喉を押す。刃を抜く前の仕事が、裏の仕事の半分だ。倒れた影が短く呻き、口から酒の匂いが漏れた。酔っているふりは、酔っている者の技だ。酔いは“時間刺し”に向かない。向かない技を持って夜に出てくるのは、下手だ。下手な敵は、可哀想だ。可哀想だと思う前に、蓮は縄を断って“沈め物”を引き揚げた。
桶の底から出てきたのは、帳面だった。紙は厚く、墨は薄い。足がつかないように、あえて薄く書いてある。薄い文字ほど、炙ると濃くなる。蓮は帳面を懐に仕舞い、井戸の石に軽く礼をした。井戸は生き物だ。礼を言うと、次に通る時に足を取らない。
屯所に戻ると、帳面は土方の手に渡った。土方は炭火で炙り、浮かび上がる名を目で弾くように数えた。薩摩の屋敷から出た金の行方、長州の手先に入った口銭、町人の仲立ちの数。数字は、噂より正直だ。正直すぎるから、すぐに殺される。殺される前に、こちらが飲む。
「よし」
土方の声は刃の背。硬くて、折れない。静がその背に刃を沿わせる。沿った刃は斬れ味を増す。
その夜遅く、蓮は稽古場に立った。誰もいない板の間に、月の白が一枚貼り付いている。蓮はそこへ足を置き、鞘を払い、刃を上に向けた。夜に向けた刃は、自分に向けた問だ。問は答えを持たない。持たないものに、誓いだけが形を与える。
「……静」
「はい」
いつの間にか背後にいた静が、板の軋みを鳴らさずに近づく。蓮は刃を下ろし、鞘に納めて振り向いた。
「言うぞ。ここにいる。これから先、名が消えても、俺はお前の背を守る。困ったら鈴を鳴らす。一度でも、十度でも、俺は応える。背が折れそうになったら、肩を貸せ。俺が折れそうな時は、叱れ」
夜は誓いの言葉を吸って、わずかに重くなった。重い夜は、転ばない。
静は一歩、蓮の正面から半身に位置を移した。背と背が自然に触れる場所だった。触れたところが、僅かに温かい。静が低く言った。
「矢野さん。僕は、明日の呼吸のために刃を持ちます。紙のためではありません。僕がいなくなっても、この刃筋が残ればいい。——その刃筋を、あなたの背で支えてください」
「支える」
「ありがとうございます」
礼の言葉は、刃の柄の木目みたいに素朴だった。素朴であることは、誓いに向いている。飾った言葉は、夜の湿気で重くなる。
誓いの翌日から、二人の仕事はわずかに、だが確かに変わった。静が先に動く局面でも、蓮の呼吸が先回りして“空気の通り”を開く。蓮が囮になる場面でも、静の視線が一尺先の危うさを先に摘む。二人の間の“鈴”は、鳴らないで鳴っていた。
御所の北、下立売の筋で、小さな騒ぎがあった。長州の手先が武家の装いで通り抜け、追う薩摩の若者が人混みを乱して怒鳴り、会津の足軽が手を出すか迷っている。迷いは伝染する。伝染する前に、二人は間に入った。
蓮は人波の角を押さえ、流れを細くする。細くなった流れは、怒りを洗い落とす。静は武家の男の肩を軽く叩き、その反射で出る“刃の手”を指の背で封じた。封じられた刃は、ただの手だ。手は、押して引けば素直に動く。薩摩の若者の目から火が少し抜け、会津の足軽の足の親指から力が抜けた。抜けた瞬間、騒ぎは“まだ起こっていないこと”になった。起こらなかったことは、記録に残らない。残らないことが、町を守る。
帰り道、鴨川の土手に登る。冬へ傾く空の下、川上から冷たい匂いが降りてくる。水の匂いは今を正直に語る。魚の群れが浅瀬に寄り、上流で誰かが布を洗い、こぼれた酒が橋の上で干からびる。人の匂いも混じる。混じった匂いは、町の“呼吸”だ。
「静。——俺たちのやってることは、何になる」
「何にも、ならないです」
「すっぱり言うな」
「はい。何にもならないものだけが、長く残ります」
「また理屈だ」
「すみません」
「いや、好きだ」
蓮は石垣に腰を掛け、足をぶらりとさせた。空は薄く、遠くで太鼓の音。祭りではない。人が四角い木を運ぶ時の、あの単調な太鼓。生活の太鼓だ。生活の太鼓が鳴っている限り、町は生きる。
その夜、静は珍しく、自分から短い昔話をした。言葉は淡々として、記憶を掘り起こす音をしない。
「昔、江戸の墓地で、僕は“名前の墓”に泣いたことがあります」
「聞いた」
「はい。——泣いたあと、少し楽になった」
「何が」
「“僕”という字の重さが」
「重さ?」
「はい。重さがあるものは、落ちます。落ちると、影になります。影の重さは、呼吸で運べます」
「分かるような、分からないような」
「僕も半分しか分かりません」
「それでいい」
半分しか分からない。半分分かったものは、背に載る。全部分かったと言い張るものは、背を滑る。滑るものは、夜に危ない。
日が巡るほど、薩摩と長州の足並みは音を小さく揃えてきた。表の大名屋敷からは明るい出入りが減り、裏で舟の音が増えた。会津の昼の顔は強く、夜の背は疲れている。幕府の名は崩れないが、土台の土が湿っている。湿った土は、重さに弱い。
そんな折、町医者の隅で、蓮は総司の咳をまた聞いた。咳は短く、小さく、深く、そして痛い。静は何も言わなかった。言葉が優しくなる時、静は黙る。黙りの代わりに、刃の角度がさらに静かに整えられた。総司の目は明るい。明るい目は、夜の鈴を嫌わない。
「蓮。君の鈴は、よく響く」
「まだ鳴らしてねえ」
「鳴ったよ。ここで」
総司は胸を指で軽く叩いた。音はしない。しない音のほうが、長く響くことを、蓮は初めて知った。
数日後、町外れでひっそりと剣合わせがあった。薩摩に近い浪士と、京に馴れない江戸者が、顔を立て合うふりで刃を探る場。静は半身で入り、蓮が外で“鈴”を用意した。鈴は、実際の鈴ではない。人の視線を一拍だけまとめる小さな合図。蓮は足元の砂を半歩幅だけ引き、棒の先で地面に円を描いた。円の中心に誰の足も置かせない。それだけで、刃は遅れる。遅れた刃に、静の柄頭が触れる。触れられた怒りは、降りる。降りた怒りは、名を求めない。
騒ぎは“起きなかったこと”になり、江戸からの文がひとつ京に届いた。将軍の動静は重く、だが、空白が増えた。空白は人を呼ぶ。空白へ、薩摩と長州が手をのばす。紙は遅い。紙より速いのは噂。噂より速いのは、呼吸。呼吸で動く者にしか、埋められない空白がある。
蓮と静は、その空白の端を指で掴み、少しずつ縫い合わせていった。縫い目は表から見えない。見えないほうが、長持ちする。長持ちするものは、名を要らない。
ある晩、蓮は静に言った。
「俺は、鈴を鳴らす。必要なら、何度でも」
「はい」
「だけど、一度も鳴らない夜が続くなら、それもいい」
「はい。鳴らない鈴は、守りです」
「守り」
「はい。鳴らすための鈴は、攻めです。鳴らさずに済む鈴は、守りです」
「気の利いたこと言いやがって」
「すみません」
二人は笑い、すぐに笑いをしまった。笑いをしまうのは、夜への礼儀だ。夜は笑いを嫌わないが、笑いが大きいと影が薄くなる。
京の空は張り詰め、薄氷のようにひびの前触れを光で隠している。だが、その下を歩む二人の影は、確かにここにいる。名を刻まず、刃筋だけを残す者として。紙の上の正しさが裏返る日が来ても、呼吸の正しさは裏返らない。裏返らないものに、誓いを置けばいい。
蓮は夜半に起きて、行灯の芯を少し切った。光が低くなり、影が濃くなる。濃い影は短い。短い影は、足元を温める。温められた足で、彼は刀の鞘を撫で、胸の内の鈴を一度、そっと鳴らした。音は出なかった。出ない音が、静の背に届いた気がした。
「静」
「はい、矢野さん」
「俺はここにいる」
「はい。僕も、ここにいます」
それで十分だった。言葉は少なく、夜は長く、刃は静かだ。静けさの中で、影の誓いは繰り返し刻まれていく。刻むたび、名は遠ざかり、代わりに背の形がくっきりと浮かび上がる。背の形があるところに、人がいる。名のあるなしに関わらず、確かに、ここに。
翌朝、東の端が白む。白い端は薄く、すぐに光に食べられる。それでも、その薄さの中で、二人は起き、帯を締め、刃を確かめ、いつものように歩き出した。影が先に伸び、足がその後を踏む。踏んだ土の温度が、今日の仕事の重さを告げる。重さは怖くない。背で持つから。
薄氷の空の下で、鈴は鳴らないで鳴っている。名は書かれないで残っている。残るのは、刃筋と呼吸と、背の温度。それだけを持って、二人は京の路地に消え、また現れ、また消えた。消えて、続く。続くことこそが、影の誓いのかたちだった。



