名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 江戸の音は、京の音より太い。太鼓の皮が厚く、呼び込みの声が遠くまで届き、船の櫓が水を叩く音が腹の奥に残る。浅草寺の境内は朝から人で膨らみ、香の煙はまっすぐ上らずに幾筋もねじれた。葡萄色の幟が風を吸い、見世物小屋の看板絵が笑っている。だが、賑わいの表面を指でなぞると、すぐに下から冷たい金属の感触があらわれる。幕府の名はまだ重いが、その重さは鋳物のくすみのように、ひびを隠しているだけだ。

 蓮は人波を抜け、浅草の外れから北へ折れた。銭湯の湯気、焼き蒲鉾の香り、乾いた海苔の塩。どれも懐かしい匂いなのに、胸の奥のどこかが、それらを他人の生活の匂いとして受け取ってしまう。江戸は帰る場所だ。だが江戸は、帰る前に置き去りにしてきたものすべての場所でもある。

 寺の裏手、秋の薄が風に擦れ合う小さな墓地で、蓮は立ち止まった。石は低く、文字は浅い。指の腹でなぞると、欠けたところに土が入っている。父の名、母の名。上総から流れ着き、ここで終わった二つの名。馴染みのない寺に、見覚えのある字形だけが残っている。

「俺はまだ、生きてる。だけど名は残ってない。父さん、母さん……俺は、どうしたらいいんだ」

 口に出すと、言葉は思ったより軽く空気に溶けた。石は答えない。答えないから、墓石は正直だ。風が背中から前へ回り込む。衣の裾が揺れ、草いきれの中で、別の匂いが混じった。白檀を薄めたような、冷えた香。

「名を残すのは、墓石だけでいい」

 静の声は、高くも低くもなく、ただ真っすぐに立っていた。振り返ると、薄鼠の羽織に白を沈めた静が、塀の影から歩み出た。目は墓石ではなく、蓮の肩のあたりを見ている。重さを探る目だ。

「それじゃ、生きてる意味がない」

「生きる意味は、刃を振るうことだ。名は死者のものです」

 答えは冷たい。だが冷たいだけでは終わらない。冷たさの縁で、どこかがかすかに濡れている。静もまた、名を捨てることでしか生きられなかったのだ。蓮は戒名の刻みを撫で、息を吐いた。

「静。……お前には、ここで泣いた記憶ってあるか」

「はい。幼い頃に、一度。泣くしか知らなかったから、泣きました」

「誰の墓だ」

「誰の、ではありません。——名前の、墓です」

 蓮は少しだけ笑い、首を横に振った。「理屈っぽい」

「すみません」

「いや、助かる」

 助かる、という言葉が口を出た時、胸の中にたまっていた熱が少しだけ下がった。墓地を抜ける風が、潮の匂いを運んだ。江戸の風は、いつも遠くから来る。

 江戸での任務は、将軍家の威を表で支える役目だった。行列の道筋の見通し、沿道の人波の間に生まれる空隙の調律、近道の封鎖と別路の開通。太鼓が鳴るたびに人の眼は太鼓へ向き、法螺が鳴るたびに首が伸びる。その瞬間、裏の手は見えなくなる。見えなくなった裏側に、静と蓮は足場を置いた。

 町奉行所から預かった地図は大きく、だが肝心の細い路地は白く漏れている。静は漏れを埋める。魚河岸の問屋に銭を置き、裏木戸の鍵の具合を確かめ、屋根越しに伝声の経路を改める。蓮は囃子方の見物に紛れ、太鼓の間で合図を変える役目を見つけた。

「静、今日は表が賑やかすぎる。音に甘えると、裏が鈍るぞ」

「はい。矢野さんの足音で、薄いところを詰めます」

「俺の足音なんか、たいした音じゃねえ」

「一番よく通るのは、たいした音ではない音です」

 そう言って静は、瓦の欠けた一枚を指差した。そこだけ、空が違う色をしている。人は空を見ない。だから、空を使う。

 江戸の華やぎの中、蓮の心は揺れ続けた。名を求める自分と、名を拒む静。その二つの在り方は、川の両岸のようで、向こうが見えるのに渡れない。昼と夜の境のようで、どちらの側に立っても、片方の冷たさが背に触れた。

 ある日、昼下がりに小さな斎場の隅を通りかかった。棺が三つ、白布に包まれて静かに置かれている。ひとつは武家、ひとつは町人、ひとつは名もない旅人のものだと聞いた。合掌していた老婆が、短い声で言った。

「名のない方が、長く残ることもありますよ」

 蓮は足を止めずに目だけで礼をした。名を残すために刃を握ったはずなのに、名を消すために刃を振るっている。皮肉は簡単に言える。だが皮肉は腹を満たさない。腹が減ると、剣は鈍る。

 夜、湊の倉の影で静と腰を下ろした。潮の音が近い。遠くで三味線の音。江戸は夜の音が明るい。

「静。俺は、名を消してもいい。……でも、その代わりに背中を預けられるやつになりたい」

「はい。矢野さんの背は、もう預け先です」

「俺の背が預け先?」

「はい。誰かが背を置ける場所は、場所のほうが名前になります」

「場所が名前、ね……。お前、やっぱり理屈っぽい」

「すみません。理屈を言っていないと、夜に足を取られます」

「なら、理屈を続けろ。俺が転ばないように」

「承知しました」

 静の承知は大げさではない。小舟に乗る前に帯を締め直す程度の、静かな準備だ。準備の音は、誰にも聞こえない。聞こえない音ほど、役に立つ。

 江戸の他所事は、京の行く末と同じく落ち着かない。薩摩の屋敷は昼に静かで夜に騒がしく、長州の影は表に出ないぶん厚みを増し、町人は物価の上がり下がりを“徳川の機嫌”のように語る。土方は紙を集め、紙でない情報を見逃さない。紙の上で合う算盤と、地べたでしか合わない算盤がある。土方は両方を使う数少ない人だ。

「薩摩は舟を増やしている。長州は人を置いている。会津は京から目を離さない。——江戸で見せる秩序は、京で守る秩序の“保証書”だ」

 保証書は破られるために書かれることもある。だが書かなければ、誰も何も買わない。買わない世界は、もっと壊れる。土方の理屈はいつも、最終的に生き残るための理屈だ。

 護衛の列が城へ入る日、沿道の人々は晴れ着で、子どもは肩車で空に近づく。総司はその日、門の脇の控えに立っただけで精一杯だった。目は笑っている。目を笑わせておくのは、医者に言われた通りだ。口で笑うな。目で笑え。目の笑いは、泣きに近い。その近さが、蓮の胸を静かに削る。

 人波の後ろから、押し出されるようにひとりの影が前へ出た。手は袖に隠れている。足は良くない。良くない足は、良くない刃を持っている。蓮はすぐに角度を取り、群衆の形を利用して男の腕を捻った。袖からこぼれたのは短い火打石。火は起こらなかった。起こらなかった火は、起こるべき火だったのかもしれない。静は遠目に「よし」と小さく頷き、総司は目だけで笑った。笑いは薄く、だが確かだ。

 その夜、蓮は神田の裏の古道具屋に寄った。棚の隅で、古い団扇がひとつ、骨が折れていた。店の爺が顔を上げ、しばらく蓮の目を見てから、皿を磨く手を止めた。

「矢野、か」

「覚えてるのかよ」

「顔は忘れん。名は忘れる。——顔は生きてるあいだの名だ」

「いいこと言うじゃねえか」

「年寄りは、たまにしか言えんからな。……母親の面影が残っておる」

 蓮は皿を受け取り、団扇を元の場所へ戻した。折れた骨は、風を拾わない。拾わない風は、夜に溜まる。

「俺は、名を消して生きてる」

「名のある人間は、名に殺されることがある。名のない人間は、自分で自分を殺すことがある。どっちも、やり方を間違えれば早い」

「どっちにしても死ぬってことか」

「どっちにしても生きる、の反対だ」

 爺は笑い、商いの話に戻った。蓮は店の外に出て、風を吸い込んだ。海の匂いが薄くなる。江戸の夜は、腹に入ってくる。

 静は角で待っていた。話すことはないのに、二人は歩いた。歩幅が合っている分だけ、言葉は要らない。橋場の方角で、舟の影が動いた。影は水に伸び、割れて、またひとつの形に戻る。人もそうありたいと、蓮は思った。名で割れて、今で戻る。

 京への帰路につく日、品川の空は低く、潮目が変わっていた。土方は紙束を懐に収め、近藤は笑って手を振り、総司は息の端を整えた。江戸の任務は終わる。終わるものは、何かを残す。残せないものは、何かを削る。

 東海道の石畳は、来た時より硬く感じた。江戸で拾ったものは、主に音だ。太鼓の太さ、法螺の明るさ、魚河岸の活気、医者の短い忠告、古道具屋の爺の言葉。どれも紙に書けない。書けないものは、骨に残る。

 藤川の宿を過ぎるあたりで、総司が立ち止まった。空の端に薄い雲が走る。風の向きが変わる前触れだ。

「静」

「はい」

「俺は、名を置く日が来たら、君の白で包んでほしい」

「承知しました」

「蓮」

「なんだ」

「君は、その後ろで鈴を鳴らせ」

「……鳴らす」

「一度でいい」

「一度だけだ」

 会話は短く、空は広く、道は長い。長さは人を無口にする。無口は、約束を濃くする。

 京に戻ると、空気の密度が違っていた。江戸の空気は横に広がり、京の空気は低く積もる。薩摩の灯は増え、長州の影は地を這い、会津の肩は重く沈む。新参の浪士は江戸より少ないが、目に棘がある。棘は、風向きが変わる前の印だ。

 屯所で土方が言った。

「江戸で見せた秩序は、ここで守る秩序の仮縫いだ。本縫いは、夜にしかできん」

 仮縫いは表の仕事、本縫いは裏の仕事。針目は小さく、糸は強く、手は冷たいほうがいい。静は頷き、蓮は刃の角度を指で押さえた。角度は夜の言葉だ。言葉は角度を決め、角度は生と死を分ける。

 京の路地は、江戸で伸びた影をすぐに濃くした。濃くなった影は短く、短い影は足元を温める。温められた足は、迷いに鈍くなる。鈍くなった迷いは、遅れる。遅れた迷いの隙に、刃が通る。静の刃は通りすぎず、蓮の柄は当たりすぎない。二人の呼吸は、江戸を挟んでまた合った。

 その夜、蓮は日記に線を引き、短い文字を置いた。

 ——名を消してもいい。だが背を預けられる場所になる。俺は、背中の形で生きる。

 書いたあと、筆先の水を拭き、行灯を指で半寸下げた。灯が低くなると、匂いが強くなる。墨と脂と木の匂い。江戸の記憶は音で、京の記憶は匂いだ。音は消えるが、匂いは残る。残るものに、明日を預けられる。

 静が戸口に立ち、軽く頭を垂れた。

「矢野さん。——明日、御所北の筋で一つ、風を変えます」

「分かった。背は俺が押す」

「ありがとうございます」

 「ありがとう」ではなく「ありがとうございます」。静の言い回しには、わずかな距離と深い信頼が同居する。距離があるから、信頼が深い。近すぎる信頼は、夜で転ぶ。

 蓮は筆を置き、刀の鞘を指でなぞった。鞘は刃を隠すが、刃の重さは隠さない。重さがあるから、夜は崩れない。崩れない夜に、名は書かれない。だが、名がない夜のほうが、長い。長い夜のほうが、静かに人を守る。

 江戸の記憶は、賑わいと海の匂いと、古道具屋の爺の言葉と、墓地の風の冷たさと、静の「承知しました」の温度でできている。どれも紙に残らない。紙に残らないから、骨に残る。骨に残ったものは、背を支える。背を支えるものは、名より長い。

 名を持つ者は名で戦い、名を持たぬ者は今で戦う。どちらも、いつか負ける。だが、負け方は選べる。蓮は選ぶつもりでいる。背を預けられる場所として、負ける時を。静は選ばれた時のために、白を鼠に沈め、灯を低くし、鈴の音を胸にしまった。

 江戸は遠くなり、京は近い。遠くなったものほど、やさしく見える。近いものほど、鋭い。やさしさに背を押され、鋭さに足を置いて、二人はまた夜へ歩いた。夜は、名を要らない。夜は、呼吸だけを要る。呼吸は、生きている者全員の名だ。