瓦礫の匂いがやっと薄れつつある京で、風だけが先に季節を進めていた。禁門の炎が消えたあと、町の空には新しい煙が上らなくなったが、人の口からは古い煙がいつまでも出続ける。薩摩はどうだ、長州はどう出る、会津は踏ん張れるか。辻ごとに小さな政の声が折れ曲がり、井戸の水面までがざわついて見えた。
屯所の座敷では、土方が紙の上で風を止めていた。手元の配置図を軽く指で弾き、隊士たちへ視線を流す。
「薩摩は、幕府を楯にする時期を過ぎた。表向きは協調の顔を保つが、裏では長州との手打ちを探っている。会津は御所の守りで手一杯だ。つまり、幕府は“守られている側”から動けない」
言い終わると、酒の席でもないのに座敷の温度が下がった。勝ち名乗りを上げたはずの戦のあとに、“守られている側”という言葉は痛い。蓮はその痛みが、剣で付いた傷と違ってどこにも薬を塗れない種類だと知った。
静は最後の列に座り、何も言わなかった。紙の余白を数えているような目だった。土方が紙を畳み、短く続ける。
「その上で、江戸から命だ。将軍家の権威を示すため、近く御台所行列と諸事の供奉がある。目に見える“秩序”が要る。——護衛に、我々の手が欲しいそうだ」
誰かが「栄誉か」と小さく呟いた。土方は頷きもせず、否定もせず、名前を挙げた。
「近藤、永倉、原田、斎藤、島田。——それから静。付き従うのは、矢野」
名を呼ばれた時、蓮はうっすら息を飲んだ。江戸。京へ上ってから、幾度となく耳にしては遠のいていた地名だ。そこへ戻る道は、過去と現在の間に橋を渡すようなものかもしれない。
散会のあと、蓮は静を捕まえた。
「静、俺たちも江戸に行くのか」
「はい。矢野さんの足なら、東海道の石畳に合います」
「足の話じゃねえよ。……俺たちは“京の影”だろ。江戸に行って、何を影にする」
「“江戸”を、です。大きい影は、薄くて長い。薄いぶん、手が紛れます」
「なんだよそれ、道理のようで逃げ道だな」
「逃げ道を塞ぐのが、俺たちの役目です」
言葉の端が冷たく切れた。だが静の目は、いつもよりわずかに湿って見えた。総司の咳は日により多寡があり、長旅は決して軽くない。役目の言い回しの奥で、別の算盤を弾いているのが分かった。
出立の朝、近藤は晴れやかな顔で隊を見回した。言葉は短く、風のように軽い。
「江戸に見せるんだ。——京で守った秩序と、俺たちが守るべき矜持を」
土方は紙束を懐に押し込み、静へと目だけを向けた。言葉はない。ない言葉のほうが、重いときがある。
*
東海道は、戦の話を道標にしていた。三条大橋を渡ると、茶屋の娘が小声で「京は大変でしたね」と言い、草津では荷駄の男が「江戸は物が高い」と嘆き、関で飯を盛る婆が「薩摩の方が米を押さえとる」と耳打ちする。誰も政治を知らないのに、みな政治の匂いだけは嗅ぎ分ける。
日坂の上りで総司がふっと立ち止まった。息が浅い。袖口に赤が滲むほどではないが、脇の下で汗が冷え、背中の布が肌に張り付く。蓮が荷をひとつ持ち、無言で総司の背へ回る。静は少し前を歩き、歩幅を半寸だけ詰めた。三人で一つの呼吸に合わせる。呼吸が合うと、坂は坂でなくなる。坂でなくなった坂を、人は歩ける。
「蓮、いい景色だよ」
「息が切れてんじゃねえか。景色より足元見てろ」
「足元ばかり見てると、景色が怒る」
「どんな理屈だよ」
「静、ね、怒るよね」
「はい。景色は怒りませんが、道は時々、転ばせます」
総司は笑って、また咳をした。笑いが咳に追い越され、咳が笑いに追いつく。追いつかれた笑いは、薄い。
宿場ごとに、静は小さな罠を置き、小さな穴を埋めた。旅籠の帳場に“別名の名簿”をそっと滑り込ませ、木戸の夜番へ“御用”の合図を教え、橋の下に隠してある舟の場所を言葉もなく確かめる。東海道は幕府の道でもあり、噂の道でもある。噂には足がある。その足を少しずつ遅らせるのが、静の旅だ。
箱根の関所で、薩摩の浪人風の男たちが一団を見送りに立っていた。目が笑っていない。表の挨拶は整っているが、袖の中の握りは固い。蓮は背の汗が冷えるのを感じた。静は一歩、総司の半身に入る。薩摩の連中は“沖田”の立ち姿を見て、一瞬だけ呼吸を止めた。名は便利だ。名は、相手の脳から半拍を奪える。
その半拍で、関所の空気が通った。通っただけで、刃は抜かずに済んだ。土方は通過の印判を受け取りながら男たちへ軽く頷いた。その目に、短い言葉が書いてある。「今は、ここではない」。薩摩の男の片方が顎で小さく笑い、道は再び東へ伸びた。
*
江戸は、広い。広いのに、人の声が重なる。魚の匂い、味噌の匂い、油の匂い、船大工の木の匂い、晴れと曇りが同時に並ぶ空の色。品川で帆柱が並ぶのを見て、蓮は言葉を失った。京の空は低かった。江戸の空は横に長い。
護衛の任は、将軍の行列という“見せ物”の裏側にあった。大名屋敷の出入りと、御用屋敷に入る者の顔合わせ。太鼓と法螺の音が大げさに響くたび、裏では静が音に紛れて合図を送り、蓮が狭い通りに目印の“欠けた瓦”を置いた。表の華やぎは、裏にとって都合が良い。人は大きな音に安心する。
ある夜、品川宿の外れで、薩摩の連中が密やかに集まるのを静が嗅ぎつけた。船着きに置かれた燈籠の数が、前の夜より一つ多い。多い燈籠は、合図であることが多い。蓮と静は二手に分かれ、片方は舟板の下の縄を切り、もう片方は見張りを酒へ誘った。酒は便利だ。政治より強い時がある。
蓮が酒肆の角で肩をぶつけ、わざと肘で盃をこぼすと、相手は意外にも丁寧に謝った。薩摩の着流し、若い。目に毒がない。
「兄さん、急いどるのに水を差した。すまん」
「どこへ急ぐ」
「風を見るだけ」
「風は、どっちから吹いてる」
「こっちじゃない」
若者は笑い、足早に去った。追えば何かが見える。追えば何かを見逃す。蓮は追わなかった。代わりに風の向きを胸で感じ取った。——こっちじゃない。今は、ここではない。
翌朝、御台所の御輿が城へ入る日、空は曇天で、音はひどく明るかった。町人たちが見物に集まり、「これぞ徳川の威だ」と言い、子が棒で地面を叩いて真似をした。蓮は列の脇に立ち、群衆の眼を見た。眼は光っている。光っている眼は、裏の手を見ない。
行列が城門に近づく直前、一つの動きが空気を変えた。人波の後方から、刃の反射が薄く走る。群衆の壁を縫い、ひとりが突進する。間合いは遠い。遠いが、音が近い。蓮は迷わず前へ出た。足の裏で土の湿りをつかみ、肘で相手の腕を上げ、柄で喉を打つ。刃は空を切り、男は膝から落ち、叫びは起きなかった。叫びの代わりに、囃子が一拍だけ乱れた。乱れはすぐ整う。整えたのは、静の短い合図だ。静は群衆の中で“沖田”の足取りで動き、あたかも天才がそこにいるかのように空気へ通路をつくった。名は、人の背骨を直す。
近藤は振り向きもせず、前だけを見て行列を城へ導いた。土方は最後尾で、ほんのわずか顎を引いた。それで充分、褒め言葉は事足りる。
*
江戸に滞在する間、静は総司のかわりとして二度、三度と“沖田”を着た。京で培った鈍い白は、江戸の光の下では鼠に近く見えた。鼠は人目に立たない。立たない色は、仕事を進める。
その一方で、総司は日によっては屋敷の庭までしか出られなくなった。座敷の縁に座り、庭の砂の白を目で撫でる。砂紋がわずかに乱れ、その乱れに風の癖が見える。
「蓮。砂はね、乱れているほうが美しい」
「またわけのわからないことを」
「本当にそうなんだ。——乱れていると、人が手を入れたくなる。手を入れたくなる場所に、人は集まる。人が集まると、風が良く通る」
「道理は通った気がするけど、病人が言うことじゃねえ」
「病人は、理屈だけが武器だよ」
「剣が武器だろ」
「剣は、君と静が持っている」
総司は笑って、息を整え、咳を殺した。殺すような咳は、喉だけで鳴る。蓮はその音の弱さに、逆に心をえぐられた。
その夜、静が庭の石に腰をおろし、低い灯のもとで刃を拭っていた。蓮は近づいて座り、口を開いた。
「静。……京にいる時より、江戸は“明るい”な」
「はい。明るいところほど、影は伸びます」
「伸びて、薄くなる」
「薄くなると、誰の影でもなくなります」
「それは、お前にとって救いか」
「役目にとっては、です」
「お前に、だ」
静は刃の裏で自分の目を細く映し、少し時間を置いて言った。
「僕は、矢野さんに“見える”ぶんだけ、僕です」
「……ずりぃこと言うな」
「すみません」
薄い笑みが、灯に半分だけ溶けた。
*
江戸での護衛が続くあいだにも、京からの報せは途切れなかった。薩摩の屋敷に人が出入りし、長州の使いがどこそこへ泊まった、会津の士が江戸へ呼ばれた——紙は短く、声は長い。土方は短い紙だけを集めて長い判断を作り、長い声は短い命令へ詰め直す。
「薩摩は、江戸でも“江戸の薩摩”になっている。京と同じ顔をしない。——相手の顔が変わる時が、一番危ない」
土方の言葉に、静が珍しく問いを返した。
「顔が変わった時、どこを見るべきですか」
「足の向きだ」
「はい」
「江戸の薩摩の足は、城に向いていない。——海を見る足だ」
海。江戸の外は海だ。京に海はない。海を持つ者は、遠くを知る。遠くを知る者は、今を捨てられる。
夜、品川台場の砲台を遠目に見ながら、蓮は静に聞いた。
「静。俺たちは、何に仕えてるんだろうな」
「今です」
「今?」
「はい。記録に残る“正しさ”は、いつか裏返る。裏返った時、その正しさの剣で斬られるのは、紙の上の名前です。俺たちは紙にいません。だから、今の呼吸に仕えます」
「それ、怖くねえのか」
「怖いです。——だから、背を預けます」
言葉は簡単でも、背は簡単ではない。蓮は自分の背中の骨の形を初めて気にした。骨は思ったより細く、皮膚が思ったより分厚い。分厚い皮膚は、夜に向いている。
*
江戸の暮らしの中で、蓮は思いがけず、過去にぶつかった。神田の古道具屋に、蓮の名を知る爺がいた。小さな皿を磨きながら、近寄る蓮の顔をしばらく眺め、そのあと古い記憶をひとつ引き出すように目を細めた。
「小僧、矢野の家の顔だな」
「……誰だ」
「昔、橋場の近くに住んでた魚屋の隣の隣。お前さんが小さかった時、よく河岸で舟に石を投げて遊んでおった」
蓮は笑った。笑って、すぐに笑えなくなった。過去は、足首に絡む紐みたいだ。ほどこうとすればするほど、きつくなる。
「母さん、どうしてる」
「さあな。越して久しい。——お前さんは、名を捨てた目をしとる」
「名は、元から薄い」
「薄い名は、長い」
爺は短く言い、皿を返した。返された皿は、白いのに、どこか灰色が残っている。完全な白は、どこにもない。
店を出ると、静が角で待っていた。蓮は何も言わず、ただ肩を竦めただけだった。静はうなずき、歩幅を合わせた。歩幅が合えば、過去は当面、追ってこない。
*
ある夕暮れ、将軍の行列の練りのあと、屋敷に火の気が上がった。倉からの出火だという。風の筋が悪い。悪い風は、火を呼ぶ。静は匂いを嗅いで、蓮の腕を軽く叩いた。
「矢野さん、倉の裏の小路を見ます」
「分かった」
二手に分かれ、静は倉裏の小路へ。蓮は表の水桶役と見張りを捌く。火は思ったより浅い。浅い火は、声で消える。静かな声で“水の順番”を決め、ざばざばと水が落ち、火の舌が短くなった。
その時、倉の影から黒い影が一つ跳ねた。火に乗じて何かを運び出そうとしたのか、手には巻物のような物。静が間合いに入る。刃は抜かない。相手の腕を“遅らせ”、膝を“迷わせ”、喉に風を当て、巻物を地面へ落とさせる。落ちた物は濡れ、文字は滲む。滲んだ文字は、たいてい大事な文字だ。
「何だそれ」
駆け寄った土方が拾い上げる。薄い紙に、諸藩の名と金子の数字。御用屋敷の裏書、密の帳簿。火に紛れて消すつもりだったのだろう。
「間に合ったな」
土方は短く言い、静の目を見た。静は軽く頭を下げ、何も言わず、隣の桶に水を足した。役目がひとつ終わると、次の役目がすぐ始まる。
火は大事にならずに済み、行列も予定通りに進むことになった。表の華やぎは、裏の泥で支えられている。泥を見た者は、口を閉ざす。
*
江戸の日々の中で、蓮の胸に“正しさ”という言葉は居づらくなっていった。幕府の威を支える、という大義はある。だが、薩摩の足は海へ向き、長州の噂は風に乗り、江戸の町人は徳川の名を“見物”として語る。名は記念になる時、力を失う。
「俺たちは……本当に正しいことをしているんですか」
見回りの帰り道、品川から北へ上がる細い道で、蓮はついに静へ問うた。静は空の色を測るように一度目を上げ、すぐに戻して言った。
「正しさは、記録する者が決めます」
「じゃあ、俺たちは」
「記録されません。だから、正しさにも縛られません」
「縛られないなら、何で動く」
「背で動きます」
「背?」
「はい。背を預けた相手の呼吸に合わせます。紙ではなく、今の空気で決めます。——それは、無責任ではありません」
蓮は黙って歩いた。無責任ではない。責任の形が違うだけだ。紙に名前を残す者は、紙に責任を負う。紙に名前のない者は、今に責任を負う。今は軽く、重い。軽いから、たくさん運べる。重いから、足が沈む。
「静。……俺はお前の背になれてるか」
「はい。矢野さんの背がある夜は、俺の影が、影のままでいられます」
「うまいこと言いやがって」
「すみません」
静の謝り方は、風の向きを変える。怒りの向きではなく、迷いの向き。迷いは風に弱い。風に弱いものは、夜に強い。
*
江戸の務めに区切りがつく頃、再び京から使いが来た。薩摩の動きが速い。長州の影が肥えている。会津の肩がきしんでいる。——紙は短く、言葉は重い。
近藤は江戸城下で最後の挨拶を受け、土方は懐の紙を二度だけ確かめ、隊士たちは荷をまとめた。総司は座敷で静かに立ち上がり、軽い咳を一つ、袖に沈めた。
「戻ろう。京は、俺たちの“仕事場”だ」
蓮は頷き、荷を肩に掛け、静の横に立った。東海道は来た時と同じ道なのに、景色の色が違って見えた。江戸の光を目に入れたせいで、京の闇の濃さを覚え直したのだろう。
帰り道、関宿で一夜を明かした。宿の女将が、味噌汁にいつもより塩を多く入れて出した。味が強いのは、別れの印だ。女将は言わないが、多くの旅人を見送ってきた手が知っている。
「ご無事で」
その一言だけで充分だ。言葉が少ない夜は、約束が重い。
鈴鹿を越えたところで、総司がふと立ち止まり、空を見上げた。星が少ない。曇りではないのに、星の数が減っている気がする。
「静」
「はい」
「俺は、いつまで“沖田”でいられるかな」
「明日までは、確かです」
「明後日は」
「明日の、後です」
「理屈っぽい」
「すみません」
「助かる」
短い会話が、道の石を一つずつ踏むみたいに夜を進める。進められた夜は、明日になる。明日になることが、救いだ。
*
京へ帰ると、空気の重さがすぐに変わった。江戸の横に長い空に比べ、京の空は低く、音が近い。薩摩の屋敷に灯が増え、長州と通じる者への噂が太く、会津の疲れが口に出る。
屯所の座敷で、土方は最初に息をひとつ吐いた。吐いた息の長さが、京の夜の厚みを伝える。
「戻ったか。——江戸の“光”は見せてきた。ここからは、京の“影”だ」
静は頷き、蓮は刀の柄に指を置いた。指に汗がにじむ。京の夜は、汗を吸う。
「薩摩は、表で幕府を支え、裏で幕府の支柱を抜く。長州は、表で負けを装い、裏で兵を太らせる。——どちらも、紙の上の“正しさ”を相手にしていない。今を奪いに来る」
土方の言葉は、刃の背だった。刃の背は切れないが、打たれると骨に響く。
「俺たちは、今を守る。紙は後ろにいる。紙に勝たせるのは、後でいい」
蓮はゆっくりと頷いた。道理は腹に落ちる。腹に落ちた道理は、夜の燃料になる。
会議が散ると、静が蓮に小さく言った。
「矢野さん。——京の闇は、江戸で伸びた影より、濃いです」
「濃い影は、短い」
「短い影は、足元を温めます」
「温めて、何を育てる」
「明日の呼吸です」
「……分かんねえようで、分かるな」
「はい。俺も、半分しか分かりません」
半分分かる、という言葉に、蓮の胸の怒りと不安がわずかに形を得た。全部分かると言ってしまう者より、半分だけ分かると言う者のほうが、背を預けられる。背は、自分では見えない。
*
その夜の見回りで、蓮は京の闇の“変化”に気づいた。足音が軽く、囁きが短い。短い囁きは、合図の数が増えた証拠だ。静はそれを嗅ぎ、灯の下を避け、灯のない場所に罠を置いた。路地の角に砂をひとつ盛り、水桶の位置を半寸ずらし、障子の隙間に紙を挟む。細い手が、太い噂を裂く。
やがて、土手の陰で小競り合いが起きた。薩摩の手の者と、謎の浪人風三人。口の端に笑いの癖がある。長州系の“浮気な”斥候だ。静は刃を抜かず、足元へ石を転がし、蓮が片手で目を塞ぎ、もう片手で喉を押した。息が乱れ、足が“遅れる”。遅れた相手は逃げる。逃げた相手は、罠に落ちる。落ちた罠の底で、短い言葉が漏れる。
「三日後だ。御所の北……」
十分だ。十分すぎるほどだ。静は目だけで“鈴は鳴らすな”と合図し、蓮は頷いた。噂の速度をこちらが決める。速度を決める者が、今を握る。
*
京の夜はまた、三人の呼吸で延びた。前に“沖田”、間に“静”、背に“矢野”。江戸の光で薄くなった影が、京の闇で濃くなる。濃くなった影は短く、短い影は温かい。温かさは、やるせなさとよく似ている。似ているが、違う。やるせなさは胸を冷やし、温かさは背を温める。
「静」
「はい、矢野さん」
「俺たちは、幕府の行方をどうこうできねえ。薩摩と長州の手の速さにも追いつけねえ。紙がひっくり返る時、紙に俺たちの名はねえ」
「はい」
「それでも、今夜、俺たちはここにいる」
「はい」
「十分だな」
「はい。十分です」
短い肯定の中に、長い夜が丸ごと入っていた。名を持たぬ者が背負う責任の形は、紙の上では測れない。だが、足の裏は知っている。踏んだ土の温度が、今を教えてくれる。今に仕える者の剣は、紙のために抜かれない。呼吸のために抜かれる。
幕府の行方は、風の行方に似ている。どちらも、止められない。止められないもののそばで、人は生きる。影は、風の形を映す。映しながら、背を温める。温めた背で、明日の半寸を押し出す。
京の空は低いまま、夜はひとつ延びた。延びた分だけ、総司の笑いが一度多くなり、静の“やるせなさ”は半分だけ軽くなった。半分だけ。半分しか。だが半分あるものは、持てる。持てるものは、夜を越えられる。越えた夜の先で、また新しい“今”が始まり、紙は後ろでまだ黙っている。
紙が動く日が来たら、その時はまた、背で支えるだけだ。名は相変わらず薄く、影は相変わらず長い。長い影は、地面に沿って伸び、二人の呼吸を一つにして、幕府の行方とは別のところで、確かな小さな“正しさ”を残していく。
屯所の座敷では、土方が紙の上で風を止めていた。手元の配置図を軽く指で弾き、隊士たちへ視線を流す。
「薩摩は、幕府を楯にする時期を過ぎた。表向きは協調の顔を保つが、裏では長州との手打ちを探っている。会津は御所の守りで手一杯だ。つまり、幕府は“守られている側”から動けない」
言い終わると、酒の席でもないのに座敷の温度が下がった。勝ち名乗りを上げたはずの戦のあとに、“守られている側”という言葉は痛い。蓮はその痛みが、剣で付いた傷と違ってどこにも薬を塗れない種類だと知った。
静は最後の列に座り、何も言わなかった。紙の余白を数えているような目だった。土方が紙を畳み、短く続ける。
「その上で、江戸から命だ。将軍家の権威を示すため、近く御台所行列と諸事の供奉がある。目に見える“秩序”が要る。——護衛に、我々の手が欲しいそうだ」
誰かが「栄誉か」と小さく呟いた。土方は頷きもせず、否定もせず、名前を挙げた。
「近藤、永倉、原田、斎藤、島田。——それから静。付き従うのは、矢野」
名を呼ばれた時、蓮はうっすら息を飲んだ。江戸。京へ上ってから、幾度となく耳にしては遠のいていた地名だ。そこへ戻る道は、過去と現在の間に橋を渡すようなものかもしれない。
散会のあと、蓮は静を捕まえた。
「静、俺たちも江戸に行くのか」
「はい。矢野さんの足なら、東海道の石畳に合います」
「足の話じゃねえよ。……俺たちは“京の影”だろ。江戸に行って、何を影にする」
「“江戸”を、です。大きい影は、薄くて長い。薄いぶん、手が紛れます」
「なんだよそれ、道理のようで逃げ道だな」
「逃げ道を塞ぐのが、俺たちの役目です」
言葉の端が冷たく切れた。だが静の目は、いつもよりわずかに湿って見えた。総司の咳は日により多寡があり、長旅は決して軽くない。役目の言い回しの奥で、別の算盤を弾いているのが分かった。
出立の朝、近藤は晴れやかな顔で隊を見回した。言葉は短く、風のように軽い。
「江戸に見せるんだ。——京で守った秩序と、俺たちが守るべき矜持を」
土方は紙束を懐に押し込み、静へと目だけを向けた。言葉はない。ない言葉のほうが、重いときがある。
*
東海道は、戦の話を道標にしていた。三条大橋を渡ると、茶屋の娘が小声で「京は大変でしたね」と言い、草津では荷駄の男が「江戸は物が高い」と嘆き、関で飯を盛る婆が「薩摩の方が米を押さえとる」と耳打ちする。誰も政治を知らないのに、みな政治の匂いだけは嗅ぎ分ける。
日坂の上りで総司がふっと立ち止まった。息が浅い。袖口に赤が滲むほどではないが、脇の下で汗が冷え、背中の布が肌に張り付く。蓮が荷をひとつ持ち、無言で総司の背へ回る。静は少し前を歩き、歩幅を半寸だけ詰めた。三人で一つの呼吸に合わせる。呼吸が合うと、坂は坂でなくなる。坂でなくなった坂を、人は歩ける。
「蓮、いい景色だよ」
「息が切れてんじゃねえか。景色より足元見てろ」
「足元ばかり見てると、景色が怒る」
「どんな理屈だよ」
「静、ね、怒るよね」
「はい。景色は怒りませんが、道は時々、転ばせます」
総司は笑って、また咳をした。笑いが咳に追い越され、咳が笑いに追いつく。追いつかれた笑いは、薄い。
宿場ごとに、静は小さな罠を置き、小さな穴を埋めた。旅籠の帳場に“別名の名簿”をそっと滑り込ませ、木戸の夜番へ“御用”の合図を教え、橋の下に隠してある舟の場所を言葉もなく確かめる。東海道は幕府の道でもあり、噂の道でもある。噂には足がある。その足を少しずつ遅らせるのが、静の旅だ。
箱根の関所で、薩摩の浪人風の男たちが一団を見送りに立っていた。目が笑っていない。表の挨拶は整っているが、袖の中の握りは固い。蓮は背の汗が冷えるのを感じた。静は一歩、総司の半身に入る。薩摩の連中は“沖田”の立ち姿を見て、一瞬だけ呼吸を止めた。名は便利だ。名は、相手の脳から半拍を奪える。
その半拍で、関所の空気が通った。通っただけで、刃は抜かずに済んだ。土方は通過の印判を受け取りながら男たちへ軽く頷いた。その目に、短い言葉が書いてある。「今は、ここではない」。薩摩の男の片方が顎で小さく笑い、道は再び東へ伸びた。
*
江戸は、広い。広いのに、人の声が重なる。魚の匂い、味噌の匂い、油の匂い、船大工の木の匂い、晴れと曇りが同時に並ぶ空の色。品川で帆柱が並ぶのを見て、蓮は言葉を失った。京の空は低かった。江戸の空は横に長い。
護衛の任は、将軍の行列という“見せ物”の裏側にあった。大名屋敷の出入りと、御用屋敷に入る者の顔合わせ。太鼓と法螺の音が大げさに響くたび、裏では静が音に紛れて合図を送り、蓮が狭い通りに目印の“欠けた瓦”を置いた。表の華やぎは、裏にとって都合が良い。人は大きな音に安心する。
ある夜、品川宿の外れで、薩摩の連中が密やかに集まるのを静が嗅ぎつけた。船着きに置かれた燈籠の数が、前の夜より一つ多い。多い燈籠は、合図であることが多い。蓮と静は二手に分かれ、片方は舟板の下の縄を切り、もう片方は見張りを酒へ誘った。酒は便利だ。政治より強い時がある。
蓮が酒肆の角で肩をぶつけ、わざと肘で盃をこぼすと、相手は意外にも丁寧に謝った。薩摩の着流し、若い。目に毒がない。
「兄さん、急いどるのに水を差した。すまん」
「どこへ急ぐ」
「風を見るだけ」
「風は、どっちから吹いてる」
「こっちじゃない」
若者は笑い、足早に去った。追えば何かが見える。追えば何かを見逃す。蓮は追わなかった。代わりに風の向きを胸で感じ取った。——こっちじゃない。今は、ここではない。
翌朝、御台所の御輿が城へ入る日、空は曇天で、音はひどく明るかった。町人たちが見物に集まり、「これぞ徳川の威だ」と言い、子が棒で地面を叩いて真似をした。蓮は列の脇に立ち、群衆の眼を見た。眼は光っている。光っている眼は、裏の手を見ない。
行列が城門に近づく直前、一つの動きが空気を変えた。人波の後方から、刃の反射が薄く走る。群衆の壁を縫い、ひとりが突進する。間合いは遠い。遠いが、音が近い。蓮は迷わず前へ出た。足の裏で土の湿りをつかみ、肘で相手の腕を上げ、柄で喉を打つ。刃は空を切り、男は膝から落ち、叫びは起きなかった。叫びの代わりに、囃子が一拍だけ乱れた。乱れはすぐ整う。整えたのは、静の短い合図だ。静は群衆の中で“沖田”の足取りで動き、あたかも天才がそこにいるかのように空気へ通路をつくった。名は、人の背骨を直す。
近藤は振り向きもせず、前だけを見て行列を城へ導いた。土方は最後尾で、ほんのわずか顎を引いた。それで充分、褒め言葉は事足りる。
*
江戸に滞在する間、静は総司のかわりとして二度、三度と“沖田”を着た。京で培った鈍い白は、江戸の光の下では鼠に近く見えた。鼠は人目に立たない。立たない色は、仕事を進める。
その一方で、総司は日によっては屋敷の庭までしか出られなくなった。座敷の縁に座り、庭の砂の白を目で撫でる。砂紋がわずかに乱れ、その乱れに風の癖が見える。
「蓮。砂はね、乱れているほうが美しい」
「またわけのわからないことを」
「本当にそうなんだ。——乱れていると、人が手を入れたくなる。手を入れたくなる場所に、人は集まる。人が集まると、風が良く通る」
「道理は通った気がするけど、病人が言うことじゃねえ」
「病人は、理屈だけが武器だよ」
「剣が武器だろ」
「剣は、君と静が持っている」
総司は笑って、息を整え、咳を殺した。殺すような咳は、喉だけで鳴る。蓮はその音の弱さに、逆に心をえぐられた。
その夜、静が庭の石に腰をおろし、低い灯のもとで刃を拭っていた。蓮は近づいて座り、口を開いた。
「静。……京にいる時より、江戸は“明るい”な」
「はい。明るいところほど、影は伸びます」
「伸びて、薄くなる」
「薄くなると、誰の影でもなくなります」
「それは、お前にとって救いか」
「役目にとっては、です」
「お前に、だ」
静は刃の裏で自分の目を細く映し、少し時間を置いて言った。
「僕は、矢野さんに“見える”ぶんだけ、僕です」
「……ずりぃこと言うな」
「すみません」
薄い笑みが、灯に半分だけ溶けた。
*
江戸での護衛が続くあいだにも、京からの報せは途切れなかった。薩摩の屋敷に人が出入りし、長州の使いがどこそこへ泊まった、会津の士が江戸へ呼ばれた——紙は短く、声は長い。土方は短い紙だけを集めて長い判断を作り、長い声は短い命令へ詰め直す。
「薩摩は、江戸でも“江戸の薩摩”になっている。京と同じ顔をしない。——相手の顔が変わる時が、一番危ない」
土方の言葉に、静が珍しく問いを返した。
「顔が変わった時、どこを見るべきですか」
「足の向きだ」
「はい」
「江戸の薩摩の足は、城に向いていない。——海を見る足だ」
海。江戸の外は海だ。京に海はない。海を持つ者は、遠くを知る。遠くを知る者は、今を捨てられる。
夜、品川台場の砲台を遠目に見ながら、蓮は静に聞いた。
「静。俺たちは、何に仕えてるんだろうな」
「今です」
「今?」
「はい。記録に残る“正しさ”は、いつか裏返る。裏返った時、その正しさの剣で斬られるのは、紙の上の名前です。俺たちは紙にいません。だから、今の呼吸に仕えます」
「それ、怖くねえのか」
「怖いです。——だから、背を預けます」
言葉は簡単でも、背は簡単ではない。蓮は自分の背中の骨の形を初めて気にした。骨は思ったより細く、皮膚が思ったより分厚い。分厚い皮膚は、夜に向いている。
*
江戸の暮らしの中で、蓮は思いがけず、過去にぶつかった。神田の古道具屋に、蓮の名を知る爺がいた。小さな皿を磨きながら、近寄る蓮の顔をしばらく眺め、そのあと古い記憶をひとつ引き出すように目を細めた。
「小僧、矢野の家の顔だな」
「……誰だ」
「昔、橋場の近くに住んでた魚屋の隣の隣。お前さんが小さかった時、よく河岸で舟に石を投げて遊んでおった」
蓮は笑った。笑って、すぐに笑えなくなった。過去は、足首に絡む紐みたいだ。ほどこうとすればするほど、きつくなる。
「母さん、どうしてる」
「さあな。越して久しい。——お前さんは、名を捨てた目をしとる」
「名は、元から薄い」
「薄い名は、長い」
爺は短く言い、皿を返した。返された皿は、白いのに、どこか灰色が残っている。完全な白は、どこにもない。
店を出ると、静が角で待っていた。蓮は何も言わず、ただ肩を竦めただけだった。静はうなずき、歩幅を合わせた。歩幅が合えば、過去は当面、追ってこない。
*
ある夕暮れ、将軍の行列の練りのあと、屋敷に火の気が上がった。倉からの出火だという。風の筋が悪い。悪い風は、火を呼ぶ。静は匂いを嗅いで、蓮の腕を軽く叩いた。
「矢野さん、倉の裏の小路を見ます」
「分かった」
二手に分かれ、静は倉裏の小路へ。蓮は表の水桶役と見張りを捌く。火は思ったより浅い。浅い火は、声で消える。静かな声で“水の順番”を決め、ざばざばと水が落ち、火の舌が短くなった。
その時、倉の影から黒い影が一つ跳ねた。火に乗じて何かを運び出そうとしたのか、手には巻物のような物。静が間合いに入る。刃は抜かない。相手の腕を“遅らせ”、膝を“迷わせ”、喉に風を当て、巻物を地面へ落とさせる。落ちた物は濡れ、文字は滲む。滲んだ文字は、たいてい大事な文字だ。
「何だそれ」
駆け寄った土方が拾い上げる。薄い紙に、諸藩の名と金子の数字。御用屋敷の裏書、密の帳簿。火に紛れて消すつもりだったのだろう。
「間に合ったな」
土方は短く言い、静の目を見た。静は軽く頭を下げ、何も言わず、隣の桶に水を足した。役目がひとつ終わると、次の役目がすぐ始まる。
火は大事にならずに済み、行列も予定通りに進むことになった。表の華やぎは、裏の泥で支えられている。泥を見た者は、口を閉ざす。
*
江戸の日々の中で、蓮の胸に“正しさ”という言葉は居づらくなっていった。幕府の威を支える、という大義はある。だが、薩摩の足は海へ向き、長州の噂は風に乗り、江戸の町人は徳川の名を“見物”として語る。名は記念になる時、力を失う。
「俺たちは……本当に正しいことをしているんですか」
見回りの帰り道、品川から北へ上がる細い道で、蓮はついに静へ問うた。静は空の色を測るように一度目を上げ、すぐに戻して言った。
「正しさは、記録する者が決めます」
「じゃあ、俺たちは」
「記録されません。だから、正しさにも縛られません」
「縛られないなら、何で動く」
「背で動きます」
「背?」
「はい。背を預けた相手の呼吸に合わせます。紙ではなく、今の空気で決めます。——それは、無責任ではありません」
蓮は黙って歩いた。無責任ではない。責任の形が違うだけだ。紙に名前を残す者は、紙に責任を負う。紙に名前のない者は、今に責任を負う。今は軽く、重い。軽いから、たくさん運べる。重いから、足が沈む。
「静。……俺はお前の背になれてるか」
「はい。矢野さんの背がある夜は、俺の影が、影のままでいられます」
「うまいこと言いやがって」
「すみません」
静の謝り方は、風の向きを変える。怒りの向きではなく、迷いの向き。迷いは風に弱い。風に弱いものは、夜に強い。
*
江戸の務めに区切りがつく頃、再び京から使いが来た。薩摩の動きが速い。長州の影が肥えている。会津の肩がきしんでいる。——紙は短く、言葉は重い。
近藤は江戸城下で最後の挨拶を受け、土方は懐の紙を二度だけ確かめ、隊士たちは荷をまとめた。総司は座敷で静かに立ち上がり、軽い咳を一つ、袖に沈めた。
「戻ろう。京は、俺たちの“仕事場”だ」
蓮は頷き、荷を肩に掛け、静の横に立った。東海道は来た時と同じ道なのに、景色の色が違って見えた。江戸の光を目に入れたせいで、京の闇の濃さを覚え直したのだろう。
帰り道、関宿で一夜を明かした。宿の女将が、味噌汁にいつもより塩を多く入れて出した。味が強いのは、別れの印だ。女将は言わないが、多くの旅人を見送ってきた手が知っている。
「ご無事で」
その一言だけで充分だ。言葉が少ない夜は、約束が重い。
鈴鹿を越えたところで、総司がふと立ち止まり、空を見上げた。星が少ない。曇りではないのに、星の数が減っている気がする。
「静」
「はい」
「俺は、いつまで“沖田”でいられるかな」
「明日までは、確かです」
「明後日は」
「明日の、後です」
「理屈っぽい」
「すみません」
「助かる」
短い会話が、道の石を一つずつ踏むみたいに夜を進める。進められた夜は、明日になる。明日になることが、救いだ。
*
京へ帰ると、空気の重さがすぐに変わった。江戸の横に長い空に比べ、京の空は低く、音が近い。薩摩の屋敷に灯が増え、長州と通じる者への噂が太く、会津の疲れが口に出る。
屯所の座敷で、土方は最初に息をひとつ吐いた。吐いた息の長さが、京の夜の厚みを伝える。
「戻ったか。——江戸の“光”は見せてきた。ここからは、京の“影”だ」
静は頷き、蓮は刀の柄に指を置いた。指に汗がにじむ。京の夜は、汗を吸う。
「薩摩は、表で幕府を支え、裏で幕府の支柱を抜く。長州は、表で負けを装い、裏で兵を太らせる。——どちらも、紙の上の“正しさ”を相手にしていない。今を奪いに来る」
土方の言葉は、刃の背だった。刃の背は切れないが、打たれると骨に響く。
「俺たちは、今を守る。紙は後ろにいる。紙に勝たせるのは、後でいい」
蓮はゆっくりと頷いた。道理は腹に落ちる。腹に落ちた道理は、夜の燃料になる。
会議が散ると、静が蓮に小さく言った。
「矢野さん。——京の闇は、江戸で伸びた影より、濃いです」
「濃い影は、短い」
「短い影は、足元を温めます」
「温めて、何を育てる」
「明日の呼吸です」
「……分かんねえようで、分かるな」
「はい。俺も、半分しか分かりません」
半分分かる、という言葉に、蓮の胸の怒りと不安がわずかに形を得た。全部分かると言ってしまう者より、半分だけ分かると言う者のほうが、背を預けられる。背は、自分では見えない。
*
その夜の見回りで、蓮は京の闇の“変化”に気づいた。足音が軽く、囁きが短い。短い囁きは、合図の数が増えた証拠だ。静はそれを嗅ぎ、灯の下を避け、灯のない場所に罠を置いた。路地の角に砂をひとつ盛り、水桶の位置を半寸ずらし、障子の隙間に紙を挟む。細い手が、太い噂を裂く。
やがて、土手の陰で小競り合いが起きた。薩摩の手の者と、謎の浪人風三人。口の端に笑いの癖がある。長州系の“浮気な”斥候だ。静は刃を抜かず、足元へ石を転がし、蓮が片手で目を塞ぎ、もう片手で喉を押した。息が乱れ、足が“遅れる”。遅れた相手は逃げる。逃げた相手は、罠に落ちる。落ちた罠の底で、短い言葉が漏れる。
「三日後だ。御所の北……」
十分だ。十分すぎるほどだ。静は目だけで“鈴は鳴らすな”と合図し、蓮は頷いた。噂の速度をこちらが決める。速度を決める者が、今を握る。
*
京の夜はまた、三人の呼吸で延びた。前に“沖田”、間に“静”、背に“矢野”。江戸の光で薄くなった影が、京の闇で濃くなる。濃くなった影は短く、短い影は温かい。温かさは、やるせなさとよく似ている。似ているが、違う。やるせなさは胸を冷やし、温かさは背を温める。
「静」
「はい、矢野さん」
「俺たちは、幕府の行方をどうこうできねえ。薩摩と長州の手の速さにも追いつけねえ。紙がひっくり返る時、紙に俺たちの名はねえ」
「はい」
「それでも、今夜、俺たちはここにいる」
「はい」
「十分だな」
「はい。十分です」
短い肯定の中に、長い夜が丸ごと入っていた。名を持たぬ者が背負う責任の形は、紙の上では測れない。だが、足の裏は知っている。踏んだ土の温度が、今を教えてくれる。今に仕える者の剣は、紙のために抜かれない。呼吸のために抜かれる。
幕府の行方は、風の行方に似ている。どちらも、止められない。止められないもののそばで、人は生きる。影は、風の形を映す。映しながら、背を温める。温めた背で、明日の半寸を押し出す。
京の空は低いまま、夜はひとつ延びた。延びた分だけ、総司の笑いが一度多くなり、静の“やるせなさ”は半分だけ軽くなった。半分だけ。半分しか。だが半分あるものは、持てる。持てるものは、夜を越えられる。越えた夜の先で、また新しい“今”が始まり、紙は後ろでまだ黙っている。
紙が動く日が来たら、その時はまた、背で支えるだけだ。名は相変わらず薄く、影は相変わらず長い。長い影は、地面に沿って伸び、二人の呼吸を一つにして、幕府の行方とは別のところで、確かな小さな“正しさ”を残していく。



