名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 朝を斬るような冷えが降りた。秋口のはじまり、風は乾いているのに、どこかに湿り気がこびりつく。新入りの足は軽く、竹刀の音はよく通り、掛け声は張る。明るい音ほど、奥の暗さを虫眼鏡みたいに拡大する。稽古場の柱の節は、昨日より一つ増えたみたいに見えた。

 沖田総司は、その明るい音のただ中で一度刀を引いた。引いた距離はほんの半寸。だが、その半寸で若い者の太刀は空を切り、間が崩れ、見物していた者は笑い、総司は笑い返し、その笑いの終わりにだけ咳を二つ、袖に沈めた。袖の白にわずかに滲んだ赤は、光の角度で見える時と見えない時がある。見えた者は見ないふりをし、見えない者は明るく声を張った。明るいほうが生きやすい。

 稽古が終わったあと、蓮は水桶を持って総司のところへ出た。水を差し出すだけで喉が鳴る。言葉が先に枯れる。

「総司さん。……息が浅い」

「そう見える? 見えるのは、君が俺の呼吸を真似しすぎているからだよ」

「総司さんの真似なんかできねえよ」

「できてる。——それが、ちょっと嬉しくて、ちょっと苦しい」

 総司は笑い、目を伏せ、起き上がって歩き出そうとして、足に力が入らず、畳に片膝をついた。誰かが小さく声を上げる前に、静がそこへ音もなく入った。白い袖が、倒れる前の身体の重心だけを支える。支えたことが、他人の目には見えない。

「すみません、総司さん。——灯を半寸、下げます」

「また君はそうやって、夜の礼法で俺を包む」

「昼に夜を入れると、昼が壊れません」

「理屈っぽいこと言うなよ」

「すみません」

 “すみません”。静の“すみません”は、謝罪というより、刃の角度を整える言葉だ。角度が整うと、落ちる時は真っ直ぐ落ちる。真っ直ぐ落ちれば、痛みは短い。短い痛みは、長い悲しみのはじまりであることが多い。

 その日の夕刻、土方が新しい紙を持って立った。墨の線が太い。太いのは迷いを押しつぶすためだ。押しつぶした迷いは、別の場所で発酵する。

「沖田の名は、当面“二枚重ね”で使う。表は総司。裏は静。——町には表だけを見せる。噂には、裏だけ食わせる」

「……人の名を料理すんなよ、土方さん」蓮が思わず言った。

「喰わせなきゃ、噂は人を食う。——どっちを選ぶ」

 土方の目は、あいかわらず冷たい。冷たい目は、温いものを嫌うのではない。温いものを早く腐らせないために、温度を奪っているだけだ。そんな理屈、夜には要らない……と言い切れないから、余計に腹が立つ。

 総司は紙を受け取り、少し笑って返した。「二枚重ねなんて、贅沢だね」

「贅沢に見せろ。中身は倹約しろ」

「中身って?」

「命だ」

 言葉は四角く、音は短く、座敷の端で沈んだ。沈んだところで音は消えない。消えない音が、人の骨に入る。

     ◇

 翌日、巡察の列が三条から二本寺へ抜ける曲がり角で、わずかな乱れが生まれた。浪士が三つの影となって前に立ちふさがる。彼らの目は一つだけを見ている。「沖田」。名が先に立つ。人は後からついてくる。

 総司は咳を飲み込み、一歩前に出ようとして、足が空を踏んだ。誰も気づかないくらいの空。そこに静が、息の速さだけを変えて入った。形は総司、温度は静。刃の角度は総司、間の湿り気は静。こうして、器と中身がひとつの「沖田」を作る。

「御用改め——」

 終わる前に、膝、手首、喉。致命を外し、動力を奪う順に刃が触れる。斬ってはいない。遅らせるだけだ。遅らせられた時間のぶんだけ、町の息が楽になる。楽になった息は、名を呼ぶ。

「沖田——!」

 声は“正確に”間違っている。その正確さが、総司の胸をすこし削った。

 乱れはすぐ収まり、列は再び粛々と進んだ。背後で、総司が小さく笑う。

「君は、上手い。……やっぱり上手い」

「はい。矢野さんが背で支えてくださったので」

「俺の名前なんて出すなよ」

「すみません」

「謝るなって」

「……ありがとうございます」

 蓮は、歩きながら自分の呼吸が乱れているのに気づいた。乱れるのは体力ではない。形のない場所が軋んでいる。影が光を支えるはずが、影が光の形を着始めている。着ることは奪うことに似ている。似ているだけで違う、と言い切れるだけの何かが、今はまだ蓮にない。

     ◇

 夜。雨上がりの鴨川は黒い硯みたいに静かだった。空の雲が薄く、月が白い。光が白いほど、影は輪郭を濃くする。輪郭が濃いほど、影は自分の形を覚える。

 総司が、滅多に見せない顔で現れた。剣の天才ではなく、人の青年の顔。頬の骨が薄く、唇に色が戻らない。

「静。歩こう」

「はい」

 蓮は一歩遅れてついた。話すべき時と、話すべきでない時がある。今は、声が意味を壊す時だと思った。

「俺さ」総司が小石を拾って水面へ投げた。「子どもの頃、舟の影を追いかけたことがある。水に映る黒い船を足で踏もうとして、何度もすべって転んだ」

「はい」

「本物はずっと向こうにあるのに、目の前の影のほうが、俺には“本物”に見えた。影のほうが近いからだ。近いものは、本物に見える。遠いものは、だんだん“概念”になる。……今、俺の名は、俺から離れて、君の近くにいる。だからみんな、そっちを“本物”だと思う」

 静は一度だけ頷いた。頷きは約束ではない。相づちだ。相づちには、責任がない。責任のない動きだけが、夜に許される。

「寂しいよ、静」

「はい」

「君が憎いわけじゃない。とても、君が——」

 声が切れた。切れたところから咳が出た。咳は涙より正直だ。正直なものは、残酷だ。

「総司さん」静が袖で風の向きを変える。「背、預けてください」

「ありがとう」

 総司は静の肩に額を預け、呼吸を三つ揃えた。揃えた呼吸は、悲しみを水平にする。水平な悲しみは、沈まない。

「俺は、君が俺の代わりをするのを誇らしく思う。……同時に、怖い。怖いのは、君が“俺より長く”生きる未来だ」

「はい」

「君が、俺の斬り方を覚え、俺の名の重さを背負い、俺のいない明日に“沖田”として立つ。——君は影だ。影は光より長く地面に伸びる」

 静の指が、わずかに震えた。震えを止めるために、静は言葉を選ぶ。

「総司さん。——俺は、総司さんの“間”しか借りられません。斬りは借りられません。名は預かれても、呼吸は、俺のものです」

「それが、救いだ」

「はい」

「でも、やるせない」

「……はい」

 短い肯定の中に、静のすべてが入っていた。受け取るしかない役目と、捨てるしかない自分と、守りたい人と、奪ってしまう光と。すべてが一つの“はい”に押し込められている。押し込められた言葉は、夜の底でひずむ。

 蓮は、川面に映った三人の影を見ていた。ひとつは細く、ひとつは長く、ひとつは少し歪んでいる。歪んでいるのが自分だと分かって、安堵した。真っ直ぐな影は折れやすい。

「静」

「はい、矢野さん」

「総司さんから名を預かるなら、俺から“今”を預かれ」

「はい。お預かりします」

「責任は重いぞ」

「重いものほど、夜は安定します」

「理屈ばっか言いやがって」

「すみません」

 静が謝ると、総司が笑った。笑うとまた咳が来る。咳が来ると、笑いが細くなる。細い笑いは、長い。

     ◇

 ある日、町の子が二人、凧を上げていた。焼け跡の上に風が通い、凧の紙は新しく、骨は古い。骨が古いと、紙はよく持つ。空に上がった凧が、絡まった。二つは離れられず、どちらか一方が落ちる。

「ほどけよ」と蓮が心の中で言った時、片方の子が凧糸を切った。切られた凧は、軽く翻って、屋根の上へ落ちた。落ちる前に一度だけ、光を反射した。もう一人の子の凧は、空を取り戻した。空は広く、寂しい。

 総司が小さく笑って、「いいね」と言った。「ああやって切れるのは、強い」

「切られたほうは?」

「切られたほうも強い。落ちる瞬間に一度光る」

「総司さんは、どっちだ」

「どっちだろうね。……静は、糸を持つ役だ」

 静は凧の先を目で追い、返事をしなかった。返事ができる言葉が、今はない。言葉がないところに、影が濃くなる。

     ◇

 医者に通う日が、週に一度になった。総司は嫌がり、静は黙って歩調を合わせ、蓮は余計な冗談を言って気を紛らわせた。医者はいつも同じことを言う。「休め」。休めない人に「休め」と言い続けるのは、最初からわかっている敗北だ。敗北でも、言葉を置くことに意味がある。置かれた言葉は、誰かが拾うかもしれない。

「君は、笑うのが仕事だね」と医者が笑いながら総司に言った。
「ええ、まあ」
「笑うのにも体力が要る。——笑い方を、少し変えなさい」
「どう変える」
「口で笑うな。目で笑え」

 総司は目だけで笑って見せた。たったそれだけのことで、蓮は胸を突かれた。目の笑いは、泣きに近い。

     ◇

 夜回りの折、蓮はひとりで先行をした。静は後ろで“沖田”を着る支度をしている。前後で息を合わせる。それが、最近の夜の形だ。曲がり角で刃が一つ、横から入った。早い。蓮は身を捻り、刃の腹で受け、柄で喉を打つ。二の腕に焼けるような痛みが走る。痛みは速度を調整する。調整できた痛みは、役に立つ。

 背後で足音がひとつ変わり、静が間に入った。刃を抜かず、膝の向きを変えさせ、相手の視線だけを“沖田”へ向ける。相手が名を見ている間に、蓮は息を取り戻した。

「矢野さん」

「わかってる。遅れたのは俺だ」

「いえ。——“生きた”のが矢野さんです」

「やめろ、そういう言い方」

「すみません」

 言葉の端が濡れる。湿った言葉は、火を遠ざける。火を遠ざけるのは、今夜の正解だ。

     ◇

 ある晩、総司が自分の刀を抜かずに、鞘だけを持って稽古場に立った。鞘の口で間合いを作り、足で相手の呼吸をずらし、笑って下がる。刀を抜かない稽古。抜かないほうが難しい稽古。見ている者は首をひねり、やがて気づく。一番疲れているのは、鞘を持っている総司だ。

「静。見てるかい」

「はい」

「刀を抜かないで勝つ方法を、俺は覚えたい。——君が“俺”を着ている間、俺は“俺”から離れたところで、まだ剣をやりたい」

「はい」

「君の“やるせなさ”を、減らしたいんだ」

「……はい」

 “やるせなさ”という言葉を総司の口から聞いて、蓮は驚いた。誰かのために、こんな言葉を出す人だということを、忘れていたのではない。知っていたのに、病がそれも奪ってしまうと思い込みたくなっていた。人は、自分が守りたい像のために、見ないふりを重ねる。

 稽古が終わった後、総司は息の残る口調で言った。「静。君は、俺の影だ。影は光を奪わない。——光が弱ると、影の輪郭が濃くなるだけだ」

「はい」

「その濃さを、君が憎む夜が来る。それでも、君は俺の影でいてくれるか」

「はい。——俺が濃い夜は、矢野さんが薄くしてくれます」

「ずるい。すぐ蓮に投げる」

「すみません」

 蓮は思わず笑った。笑い声のあとに、喉の奥がひりついた。それが涙の予告であることを、体は覚えている。

     ◇

 噂はさらに肥えた。「白い影が“沖田”を食った」「沖田が“白い影”を飼っている」「二人は同じ影だ」——辻々の言葉は形を変え続ける。土方はそれを紙で受け止め、受け止められないぶんは静と蓮が夜に吸い込んだ。

 その夜、書肆の男がまた妙な紙を売っていた。「沖田病篤し」。字は上手いが、行間が浅い。浅い行間は、嘘の匂いが強い。静は紙を一枚買い取り、墨で上から二行だけ書いた。

〈影は、光の長さで決まる〉

 男は鼻で笑った。「詩かね」

「はい。——詩は、夜に強いです」

「売れない」

「売れません。だから、効きます」

 蓮は男の横顔を殴らないで済ませ、外に出て深く息を吐いた。吐く息が少し白い。季節が動く。季節が動くのに、個々の夜は動かない。動かない夜は、持ち運べる。

     ◇

 ある晩、総司がふっと姿を消した。慌てて探すほどのことではない。彼はときどき、ほんの少しの距離でいなくなる。いなくなるのは、いなくなる練習だ。いなくなる練習をする人は、残される人のためにそうする。残される人は、練習でも本番でも、同じだけ痛む。

 見つけたのは、寺の裏庭だった。総司は座って、空を見ていた。空には星が少し、雲が薄く、風は止まっている。

「静。俺は、君に“お願い”がある」

「はい」

「俺が、名を置く日が来たら——君は、その場にいてくれ」

「はい」

「俺が、名を置く時、君の“白”で包んでほしい。光が、影に奪われるのではなく、影に守られる形で、終わらせたい」

 静は息を一つ、深く飲み込んだ。飲み込んだ息は、言葉になって戻らない。

「承知しました。——鈴は、一度だけ鳴らします」

「二度じゃないのか」

「二度鳴らすと、矢野さんが来てしまいます」

「来ちゃダメなのか」

「ダメではないです。……でも、一度目は、俺のわがままにさせてください」

 “わがまま”。静の口から出るには、不似合いな言葉だ。似合わない言葉は、夜の形を変える。総司は笑い、頷いた。

「わかった。——じゃあ、二度目は蓮に鳴らせ」

「はい」

 蓮は柱の影でその会話を聞きながら、膝の力が抜けるのを感じた。自分はいつも“二度目”だ。二度目は、遅い。遅いけれど、必要だ。必要だから、痛い。

     ◇

 季節はさらにひとつ進み、朝の空気が少しだけ乾いた。総司の咳は、回数が減って、一度の長さが増えた。長い咳は、夜を削る。削られた夜のぶんだけ、昼が伸びる。昼が伸びるのは、町には良いことだ。良いことが、個人には残酷だ。

 総司は“沖田”として座敷に名前を置き、静は“沖田”として道に名前を置き、蓮は“矢野”として背に名前を置いた。置いた名前は、拾われたり、踏まれたり、風に飛ばされたりする。そのたびに静は灯を低くし、香を浅くし、鈴を鳴らさずに済ませようとした。鳴らさないで済ませた夜の数だけ、静の胸のどこかに音が溜まった。溜まりすぎた音は、いつかどこかで鳴る。

 その“いつか”は、思ったより早く来た。

     ◇

 巡察から戻る道すがら、橋の上で“沖田”の名を叫ぶ声が上がった。敵が五、味方が三。距離が悪い。悪い距離は、名で埋めるしかない。静が一歩で“沖田”の間に入り、蓮が背で“矢野”を構え、若い者が左右に散る。刻みは正確、刃は出ない、音は短い。四人が遅れ、ひとりが残った。残った男の目は、総司だけを見ていた。総司は橋の影にいて、咳を一度袖に沈め、顔を上げて笑った。

「おいで」

 男は吠え、走る。走りの角度が、刃の角度より悪い。その悪さのぶんだけ、生き延びられるはずだった——はずのところで、総司の膝が落ちた。半寸。半寸が、刃の世界では致命だ。男の刃が総司の頬を掠め、白が赤を吸う。蓮は叫ぶより先に走っていた。静は風の向きを変え、間に入ろうとして、男の刃の筋を読み違えた。読み違いは、疲れのせいではない。願いのせいだ。願いが一瞬、理を抜いた。

 刃は空を切り、石を弾き、音が橋の腹にこもった。総司は倒れず、笑って立った。笑い方が下手だ。下手な笑いを見て、男の目が折れた。

「負けた」と男が言った。言葉は正直だ。

 終わってから、静は橋の欄干に掌を置いた。手のひらが冷たい石に落ち着かない。落ち着かない手は、震える。震えを隠す術は、静も持っていない。蓮が背から肩を押した。

「静。お前が読み違えるの、初めて見た」

「はい。——僕が“願った”からです」

「何を」

「総司さんが、笑うことを」

 蓮は目を閉じた。閉じた目の裏に、白い袖と薄赤い滲みと、下手な笑いが並んだ。人は、笑うために、こうも無茶をする。

     ◇

 その夜、土方が盃を二つ持って現れた。酒は冷たく、盃は薄い。薄い盃は、言い訳を許さない。

「静。——読み違えるほどの夜は、長くは続かん」

「はい」

「続けるな」

「はい」

「総司は、名を置く時を、自分で決める。お前が奪うな」

「はい」

 “はい”しか言えない時の静は、刃ではなく鞘に近い。鞘は、刃より人を守ることがある。蓮は盃を空にし、口の中を塩でこすったみたいに顔をしかめた。

「土方さん。——総司さんの名、いつまでだ」

「総司が笑えるまでだ」

「笑い続けたら、どうする」

「それが答えだ」

 土方は立ち上がり、墨の匂いを残して去った。匂いは言葉より長く残る。残り香は、夜の書き置きだ。

     ◇

 ある晩、総司が静の部屋に来た。呼吸は浅く、目は笑って、手は冷たい。静は行灯をいつもより少し高くした。顔を見せるためだ。顔を見せる夜は、覚悟を分け合う夜だ。

「静」

「はい、総司さん」

「俺はさ、影に光を奪われていくのが、怖い。——いや、違う。奪われるんじゃない。渡しているんだ。渡しているくせに、胸が痛む」

「はい」

「君が“沖田”を着るのは、俺のためだ。君は俺のために光を着て、俺のために影を濃くして、俺のために噂の器を持って、俺のために“やるせない”を抱えている」

「はい」

「俺は、君の“やるせなさ”を、俺の胸に半分移したい」

「ありがとうございます」

「できるかな」

「できます。——今、移りました」

「嘘つけ」

「すみません」

 二人のやりとりは、祈りに似ていた。祈りは、誰に向けているか分からないから、効く時がある。

「静。最後に、わがままを言わせて」

「はい」

「俺が、名を置く日は、君が決めろ」

「——……はい」

「俺が決めると、きっと、遅らせすぎる。君が決めれば、きっと、正しい」

「正しいかは、分かりません」

「君の“分からない”は、俺の“信じる”だ」

 静は、深く、丁寧に頭を下げた。下げる角度は、刃の角度と同じだけ正確だ。

「承りました」

 蓮は襖の向こうで拳を握りしめた。自分は、何を握っているのだろう。名か。今か。刃か。涙か。どれも軽すぎるし、どれも重すぎる。

     ◇

 夜半、風が止み、匂いだけが歩く。焼け跡の土と、川の湿りと、墨のかすかな香。静と蓮は、並んで座った。言葉は要らない。要らないのに、言葉が生まれる夜がある。

「静」

「はい、矢野さん」

「俺は、お前を許してない」

「ありがとうございます」

「でも、お前を信じる」

「ありがとうございます」

「どっちが本当か、分からない」

「どっちも本当です。——夜は、二つの本当を置けます」

「そうか」

「はい」

 蓮は笑い、泣いた。笑いは短く、涙は長い。涙が長いと、夜が少しだけやわらかくなる。

「静。……明日も半寸ずつだ」

「はい」

「総司さんが笑えるぶんだけ、延ばそう」

「はい」

「お前の“やるせなさ”は、俺が半分持つ」

「ありがとうございます」

 静は、珍しく、自分から蓮の肩に額を寄せた。重くはない。軽くもない。重さがあることだけが、確かだった。確かなものが、一つだけあれば、夜は持つ。

     ◇

 朝。空の色は薄く、風は新しく、音の輪郭がはっきりしている。土方が紙を張り、近藤が声を張り、若い者が足を張る。総司は笑って、咳をして、目で笑って、刀を抜かない。静は白を鼠に沈め、灯を低くし、香を浅くし、鈴を鳴らさず、間を整える。蓮は背で呼吸を揃え、名を置かず、今を押す。

 影に光を奪われていく切なさと、光を奪いながら守るやるせなさ。その二つは、同じ板の両面だ。どちらかだけ磨けば、もう片方が荒れる。両方磨くには、時間がいる。時間を買うのが、二人の役目だ。買った時間に、総司が笑う。その笑いを、紙は書かない。町は噂に変える。夜は骨に残す。

 今日、三人は同じ呼吸で歩く。前に“沖田”、間に“静”、背に“矢野”。それぞれの名は半分ずつ薄くなり、それぞれの今は半分ずつ濃くなる。名は明日のために置き、今は今日のために押す。押した丸は、雨に崩れ、土に染み、誰も見ないところで、長く残る。

 まだ誰も救われない。救われないまま、息が合う。息が合えば、夜は半寸だけ延びる。延びた夜の分だけ、総司の笑いは一度多くなる。多くなった笑いは、影の胸でやるせなく光り、やるせなく、それでも確かに、二人の背中を温めた。