名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 山南敬助の死からまだ幾夜も経たぬうち、屯所には別の音が棲みついた。竹刀の打ち合いでも、草履の爪革の擦れでもない。乾いた、軽く弾けるような咳。そのたびに空気が一個、どこかへ欠ける。井戸端の水に小石を落とした時のきらめきが消えるように、音の縁から色が褪せていく。

 その夕刻、稽古場の真ん中で白刃が一度だけ迷った。沖田総司の姿が、ほんのわずか、薄い障子越しの影のように揺れ、膝の角度が半寸下がった。相手の若い隊士が慌てて下がろうとしたところで、総司は口元を袖で押さえ、軽く笑う。

「大丈夫、大丈夫。ちょっと力みすぎたかな」

 笑い方はいつも通りで、目の奥だけがいつもより澄みすぎていた。澄みすぎた水は、底に何かを沈めている。袖の白にひとすじ、赤が滲んでいたのを見た者は少なかった。見た者は、目を逸らす礼儀を選んだ。

 稽古が散じると、静は誰よりも遅く歩いて総司に近づいた。足音は畳の目をひとつずつ選ぶように正確で、声は灯を半寸下げるみたいに低い。

「袖、見せていただけますか」

「やだな、静。そこまで心配するなよ」

「心配は、俺の役目です」

 総司は困ったように笑って袖口を返した。白の中の薄紅は、火鉢の灰にこぼれた紅葉のように淡いのに、目に痛い。

「……血ですね」

「まあ、ちょっと。坂道を走って息が上がったようなもんだ」

 そこへ水桶を運んでいた蓮が偶然居合わせ、言葉の先を失った。彼の知っている沖田総司は、呼吸より先に刃が届く男だ。いつも、空気を割って最短で答えを出す。それが今、空気のほうが先に折れている。

「静……」

「矢野さん、後で少し、歩きましょう」

 稽古場の灯が落ち、人の声が薄まったあと、静は蓮を裏手の露地へ導いた。夜の匂いは乾いた藁と煤。遠くで犬が一度だけ鳴き、すぐやむ。

「総司は、労咳です。長くは……持たないかもしれません」

「……いつから気づいてた」

「池田屋の前から、咳はありました。禁門のころは熱も。総司は仕事を冷やすのが上手いから、俺も“夜”のほうに手を回して、見ないふりをしていました」

「見ないふり、ね」

「はい。見たら、鈴が鳴ります。鈴が鳴ると、人が集まります。集まると、名が濡れます」

「そんな理屈、捨てちまえよ。総司が……」

「矢野さん。——俺が替わります」

 静の声は淡々として、しかしどこかで呼吸の音が変わった。蓮の背が冷える。影が、光のかたちを着る支度をしている。影の衣は軽いが、縫い目は深い。

「替わるって、どういう意味だよ」

「“沖田”として動きます。夜の仕事だけでなく、表の距離でも。背丈も足運びも、間の癖も、似ています。遠目には、いや、斬り合いの中なら、誰にも分かりません」

「待て。お前は“白い影”だ。白は、光を着たら消える」

「消えて構いません。総司が生きておれば、それでいいです」

「お前は……そんな言い方をして、ほんとに消えるつもりか」

「はい」

 即答だった。風が一度だけ止まり、夜の匂いの重さが半寸増した。

「静。……俺はそれ、許さねえ」

「ありがとうございます。矢野さんに許されないと、少し寂しいです」

「冗談言うなよ!」

「冗談に、半分だけ、本音を混ぜました」

 蓮は舌を噛み、言葉を血に沈めた。静は露地の角で一度だけ鈴を鳴らし、灯を低くして立ち去った。鈴は一度だけで良い。二度鳴らすと、誰かに聞かれる。

     ◇

 数日後の巡察。町の空は曇り、屋根瓦に火の粉の跡がまだ残っている。河原の枯草が風で擦れ、砂の上を小さな渦がいくつも走った。総司は先頭で歩き、薄い咳を数える代わりにしゃべった。

「ねえ蓮、あの団子屋の塩、こないだより薄いね」

「味の話をするなよ、巡察中に」

「味は生きてる証拠だ」

 軽さの中に、妙な落ち着きがあった。落ち着きは、覚悟の裏返しだ。蓮が言葉を探している間に、曲がり角から三人の浪士が飛び出した。うち二人は顔に布、もう一人は眼だけが笑っている。

「御用改めだ。刀を置け」

 近藤の声の代わりに、総司が軽く言った。浪士の肩が微かに緩む。声の軽さは油断を呼ぶ。そこへ一歩、静が出た。いつの間にか総司の半歩後ろにいた静が、総司と同じ足運びで前に出る。刃が閃き、浪士の肘から先が力を失う。二人目の膝が折れるより速く、三人目の視線が“沖田”に釘付けになった。

「沖田——!」

 叫びは正しい。斬ったのは静だが、見えたのは“沖田”の立ち姿。影が光を着る仕草は、ほんの少し角度を変えるだけで達成される。総司は咳を一度だけ袖に沈め、背を壁に預けた。静はその間に三人を“遅らせ”、縛り、鈴も鳴らさずに済ませる。

 奴らは皆、倒れる間際に“沖田”の名前を吐いた。名前は血の中で増幅して、町にこぼれる。こぼれた名は、噂に拾われる。拾われた噂は、やがて骨になる。静はその全部を見通した顔で、何も言わない。

 手早く片付き、巡察の列が再び動き始める時、蓮は総司の背を見た。総司は少し笑う。

「助かった。……静、ありがと」

「仕事です」

「そうだな、君の“仕事”だ」

 “仕事”。ひどく冷たい言葉に聞こえるのに、総司の声はどこか温かった。人を救う言葉は、ときどき形が冷たい。

     ◇

 屯所へ戻ると、土方が紙を重ねて座っていた。墨の匂いが強い日は、言葉が四角くなる。四角い言葉は刺さるが、折れない。折れないものは、夜に残る。

「総司」

「なんだい、歳さん」

「医者に行け」

「いやだ」

「行け」

「いやだ」

 短く、乾いた応酬に、座敷の空気が少し笑った。笑いは緩みだが、今日は緩めたほうがいい。蓮はそこで初めて気づいた。土方の手の甲に墨がついている。紙の上でだけじゃなく、土方も夜をいじっている。

「静。お前は総司に張りつけ。矢野、お前は静に張りつけ」

「命令が雑だな」

「雑じゃない。網目を重ねてる。——それから、沖田の名は太らせろ」

「は?」

「名は太れば、刀になる。敵が“沖田”を恐れて止まるなら、それで町の息が残る。影の仕事は、名を太らせて中身を入れ替えることだ」

 蓮は唇を噛む。「中身を、入れ替える?」

「そうだ。器は“沖田”。中身は“静”。外から見えるのは器だけ。味は同じだ。敵は器の形で怯む。中身が誰かは知らん」

「人を器呼ばわりかよ」

「器を嫌えば、空腹で死ぬ」

 理屈は、残酷より強い時がある。蓮は畳の目を数えて怒りを飲み込んだ。静は土方にだけ小さく頷いた。

「承知しました。——灯は低く、香は浅く、鈴は一度です」

「そうだ。鈴は一度だ。二度鳴らせば、俺が来る」

 土方の笑いは短くて乾いて、砂利道の上を下駄で歩いた音に似ていた。

     ◇

 総司は医者へ行くのを最後まで嫌がった。嫌がり方が明るいのが、かえって性質が悪い。蓮は半日、総司に付き合い、寺の庭で猫を撫で、団子屋で塩の数を数え、橋の上で風に髪をさらし、ようやく夕刻、総司は折れた。折れたというより、置いた。自分の気持ちを、そこに置いて歩き出した。

 京の町医者は鼻が利き、手が冷たくて正確だった。診立ては短く、息をひとつ分だけ使って言う。

「労咳。養生しても治るものではない」

 そんなことは、静も蓮も、とっくに知っていた。知っていたのに、言葉にされると骨の辺りが軋む。

「薬は」

「気休めは出す。気は休んだほうが良い。だが、気が休むほど働かないのなら、この男は別の病で死ぬ。——働くことで生きている顔だ」

 医者の目はやさしくもきつくもない。真ん中だ。真ん中で人を見る人は、信用できる。

「静、聞いたか」

「はい、矢野さん」

「総司さんは、働かなきゃ生きられないんだとよ」

「はい。だから、働いていただきます」

「働かせるのかよ」

「はい。……遅らせながら」

 “遅らせる”。いつもの言い回しが、今日だけは救いになった。遅らせられるなら、そのぶん総司は生きている。

 医者の戸口で、総司が唐突に振り返って蓮の袖をつまんだ。

「蓮。俺がいなくなったら、静を頼む」

「縁起でもねえこと言うな」

「縁起は、あんたが担げばいい」

「俺は神輿か」

「担ぎやすい」

 笑って咳をして、また笑った。笑いのほうが、咳より苦しそうに見えた。

     ◇

 その晩、蓮は静の部屋を訪ねた。白い手拭が整然と積まれ、香の皿は浅く、行灯は低く。静が整えた夜はいつも、痛みが少し整う。

「静。……俺は情けないことを言いに来た」

「はい、矢野さん。俺も、情けない話を聞く準備ができています」

「総司さんが病だってこと、誰にも言うなって言ってる。歳さんは気づいてるが、町に漏らすなとも言ってる。お前は“沖田”として立つ気だ。——じゃあ俺は、何をすればいい」

「背を、頂けますか」

「背?」

「はい。俺が“沖田”を着て前に出る時、矢野さんが背で“矢野”をやってください。背の矢野がいると、前の沖田は、崩れません」

「背中役かよ。目立たねえな」

「ありがとうございます。目立たない役は、俺が好きです」

「俺は好きじゃない」

「知っています。でも、矢野さんの背中は大きいです。大きい背中は、名が乗る」

「乗せてたまるか」

「乗りません。乗せません。——俺が落とします」

 押し問答の半分は冗談で、半分は涙の枠取りだ。涙は枠を作ると、すこしだけ上品になる。上品になった涙は、夜の礼法に合う。

「静。もう一つ。——お前の“消えて構いません”って言葉、二度と言うな」

「はい。言いません」

「約束しろ」

「約束します。……消えて“構わない”、とは言いません。消える時は、矢野さんの前で、鈴を二度鳴らします」

「馬鹿」

「ありがとうございます」

 静は笑っていないのに、笑っている気配が出るのが不思議だ。笑いの気配は、音に似ている。見えないのに、形がある。

     ◇

 翌日から、町に奇妙な噂が広がった。「沖田が二人いる」。見間違いだ、酔いのいたずらだ、白い影を見たせいだ——辻ごとに説明が違う。違う説明は、もっともらしくなる。もっともらしさは、真実を遠ざける。

 噂の中で、静は“沖田の器”として歩いた。肩の高さ、踵の返し、刀の角度、腰の揺れ。蓮は半歩後ろで、それを見逃さないように目を使った。そのくせ、誰より早く視線を外した。長く見ていると、静が本当に“沖田”になってしまうからだ。

 茶屋の角で、小さな乱闘が起きた。若い浪士二人が支配人の襟首を掴んでいる。静が足を半歩出し、姿勢だけで空気の向きを変える。

「沖田だ——」

 浪士が自分の口に飲まれたみたいに声を失う。その隙に蓮が入って腕を捻り、支配人を背で庇った。静は刃を抜かず、足先だけで相手の膝を“遅らせる”。倒れた浪士は“沖田”の顔を探して、結局、空を見た。空には雲がいる。雲には名がない。

 別の辻で、総司が突然立ち止まり、柱に手をついた。咳が二つ。血は出ないが、音が薄い。静がさりげなく前に出て袖を広げ、風の筋を変えた。蓮は無言で総司の背に回り、肩の高さを合わせる。三人で一人分の“沖田”を作るみたいに、重心を整える。

「ありがとう、蓮」

「礼なんか要らねえ。歩け」

「命令だね」

「命令だ」

「はい、隊士殿」

 やり取りの軽さに、通りすがりの女が安堵の息を漏らした。安堵は誰のものでもないのに、誰かのものになる。

     ◇

 夜、蓮は川沿いに立って、息を数えた。吸う、吐く。吸う、吐く。どちらが“生”で、どちらが“死”か。単純に決められるなら、悩みは要らない。静が隣に来て、同じテンポで息を合わせる。呼吸が合うと、悲しみの形がふたつからひとつになる。ひとつになったからといって、軽くなるとは限らない。でも、持ちやすくはなる。

「静。——お前はさ、総司さんの“影”なんだろ」

「はい」

「影が光を守るのは分かる。だけど、影が光に成り替わるのは、どこまでだ」

「“成り替わる”という言葉は、少し強いです。——俺は、光の“距離”を持ちます。光が届かない半寸のところを埋めます。光は光のままです」

「そう思ってるのは、お前だけだ。町は“沖田”しか見ない。紙は“沖田”しか書かない。——お前は、どこに残る」

「矢野さんの、今に残ります」

「やめろよ、そういうの」

「すみません」

「……ありがとう」

 風が少し冷たくなり、灯は低く、香は浅い。鈴は鳴らない。鳴らない夜は、泣くのに向いている。蓮は泣かなかった。泣けない夜のほうが、苦しい。

     ◇

 それから幾日か、蓮は自分の中で感情の置き場所を探し続けた。怒りは、土方にぶつけるには鈍すぎる。悲しみは、総司に見せるには湿りすぎる。恐怖は、静の前では軽くなる。軽くなるぶん、増える。

 孤児の少年が屯所の門前で座っていた。頬に煤がつき、目が黒い。団子屋の串を握っているが、団子はない。

「腹は減ってるか」

 少年は頷き、次に首を振った。嘘をつくには、正直が足りなかった。蓮は串を取り上げ、地面に丸を描かせた。少年の丸は歪だ。歪な丸は、嘘が少ない。

「お前の名は?」

 少年は答えない。丸だけが、そこにある。

「名がなくても、今はある。——それでいい」

 少年は目を丸くして、丸をもう一つ描いた。二つの丸は少し重なり、そこだけ土が深く見えた。深い場所は、雨に強い。

 蓮は立ち上がり、門に背を預けた。背中に木の感触がある。感触があると、人は立てる。

     ◇

 ある夜、総司が自分から静の部屋を訪ねた。珍しいことだ。静は行灯をいつもより半寸だけ高くした。今日は、灯りが必要だ。

「静。俺は、怖い」

「はい」

「病じゃない。病は怖くない。……俺の名が、俺の外へ出ていくのが怖い」

「名は、外に出るためにあります」

「そうだね。分かってる。——でも、俺の“斬り”が俺を離れて歩くのは、変な気分だ。器用に真似できる人がいるほど、俺の斬りは簡単だったのか、とか」

「簡単ではありません。俺は、総司の“間”しか借りられません。“斬り”は、借りられません」

「嬉しいことを言う」

「本当です」

「ありがとう」

「どういたしまして」

 間が笑った。笑いは、咳で切れた。切れた笑いは、残酷に長く残る。静は湯を差し出し、総司はそれを少し口に含んで、息を整えた。

「静。俺がいなくなったらさ——」

「総司」

「ん?」

「いなくなりません。——少なくとも、明日までは」

「明後日は?」

「明後日は、明日の“後”です」

「理屈を言うね」

「すみません」

「いや、助かる」

 そう言って総司は立ち上がり、戸口で振り返って、舌を出した。「医者の言うことは、半分だけ聞く」

「はい。半分は、俺が言います」

「うん。——矢野にも、半分言ってやって」

「承知しました」

 静の言葉は、約束を結ばない。結ばない約束だけが、守られる夜がある。

     ◇

 土方が新しい紙を張り出した。「巡察の目付は沖田」。筆が太い。太い筆は、迷いを飲み込む。紙の上の“沖田”は、二重に見える。見る人の目のせいで、二重になるのではない。書いた手が、二重にする。

「歳さん」

「なんだ」

「字が二重だ」

「わざとだ」

「読みにくい」

「読みにくいものほど、噂に向いている」

「紙に噂を書いてどうする」

「紙に書いた嘘は嘘のまま残る。——そのうち、真実が疲れて寝る」

 蓮は土方を殴りたくなって、殴らなかった。殴らない拳のほうが、疲れる。疲れるぶんだけ、夜が長くなる。

「矢野」

「なに」

「お前は今、何が一番怖い」

「静が消えることだ」

「いい怖がり方だ。——怖がりは、刃を鈍らせる。鈍い刃は、人を助ける」

「意味が分からねえ」

「分からなくていい。夜に、理屈は要らん」

 土方は盃を空にし、墨の匂いを背にまとって立ち去った。残ったのは紙と匂いと、読みにくい“沖田”。

     ◇

 夜更け。雨の粒が大きく、地面に丸い跡が次々に増えていく。丸は今。今はすぐ壊れる。壊れることのほうが、今らしい。

 蓮は縁側に座って、雨の丸を見ていた。静が隣に腰を下ろす。声は小さく、温度は低い。

「矢野さん。——今日、俺は“沖田”を三度、着ました」

「三度?」

「はい。茶屋の角、橋の手前、寺の裏。三度とも、敵は名だけを見てくれました」

「名だけ、ね」

「はい。名は、仕事を早くします」

「名は、命を速くする」

「はい。速すぎる命は、遅らせます」

「お前、今日何人“遅らせた”」

「四人です。——斬ってはいません」

「偉いな」

「ありがとうございます。……でも、鈴を一度鳴らしました」

「誰のために」

「俺のために」

 蓮は雨の丸を指で一つなぞり、溶かした。溶けた跡は、少しだけ黒い。

「静」

「はい、矢野さん」

「明日、総司さんがまた倒れたら——」

「俺が前に出ます」

「違う。——俺も前に出る」

「ありがとうございます。……でも、矢野さんは“背”でお願いします」

「なんでだよ」

「背は、矢野さんの“名”です」

「やめろ」

「すみません」

 雨が強くなり、丸が潰れて、地面が一枚の水になっていく。丸は消えたのではない。重なっただけだ。重なったものは、見えにくい。見えにくいものだけが、長く残る。

     ◇

 翌朝、総司が咳とともに倒れた。稽古場の畳が一度、呼吸を止める。若い者が慌てて寄って来るのを、土方が目だけで散らした。近藤の掌が空気の流れを変え、静が一歩で総司の下へ入り、頭を少しだけ高くした。高くしただけで、咳の音が半分に割れる。

 総司は冗談のように笑い、「大丈夫。……ちょっと坂道を登りすぎた」と言って目を閉じた。瞼の薄さが、言葉の薄さよりも薄い。

 静が顔を上げ、土方の視線を受け取る。土方は紙を見ず、空を見て言う。

「沖田の名は、今日から“静”が持て」

 蓮は瞬きも忘れた。空気が三つほど、どこかへ行った気がした。静は一拍、ただ立って、それから深く頭を下げた。

「お預かりします。——灯は低く、香は浅く、鈴は一度」

 畳の目に落ちたその言葉が、長く沁みていく音がした。

     ◇

 隊士たちの間で、噂はさらに育った。沖田が二人いる。いや三人だ。影が喋る。白装束が“沖田”を食べた。——噂は生き物だ。食べ、眠り、増える。増えた噂に本当も嘘もない。あるのは“速さ”だけだ。速さに間に合う者が勝ち、遅れた者が負ける。静の仕事は、噂の速度を“遅らせる”ことだった。

 蓮はそれを支えながら、心のどこかで自分が細くなっていくのを感じた。細くなるところは、痛くない。痛くないのに、苦しい。苦しさは名のない筋肉を掴む。掴まれた筋肉は、仕事を速くする。仕事が速い夜は、泣くのが遅い。

 書肆の前で、またもや“裏書き”を欲しがる客が群れていた。静は紙に短く書く。
〈名は器。器は水を運ぶ。水が誰の喉を潤したかを、器は知らない〉
 読んだ者は唇を尖らせ、何も言わずに帰る。帰り際に、一人がぽつりと呟いた。「器が割れたらどうする」
 蓮は振り向かずに答えた。「別の器に移す。——水は同じだ」

 それが慰めになったのか、余計に腹が立ったのか、男は何も言わなかった。何も言わないのは、夜に合う。

     ◇

 夜更け、静が珍しく自分から縁側に腰を下ろした。背中を柱に預け、膝を抱え、目を閉じずに息を整える。蓮は隣に座り、黙って待った。静が口を開くまで、余計な言葉を足す気になれない夜がある。

「矢野さん」

「ああ」

「俺は、たぶん“沖田”の器を、長くは持てません」

「分かってる」

「ありがとうございます」

「礼は要らねえよ」

「いえ。言わせてください。——矢野さんが背中で“矢野”をしてくださらないと、俺は器の縁からこぼれます」

「こぼれたら、俺が拾う」

「はい。二度、鈴を鳴らします」

「馬鹿だな」

「はい」

 互いに馬鹿と言い合える夜は、まだ救いがある。救いは形を持たない。持たないから、夜の骨に合う。

「静。——この話、明日に回していいか」

「はい」

「続きは明日だ。明日まで、総司さんは生きてる」

「はい。明日まで、俺たちも」

 灯は低く、香は浅い。鈴は鳴らさない。
 雨上がりの土に、丸がいくつも残っていた。丸は今。今はいくつあってもいい。多いほど、次の日が遅れてくる。遅れてきた明日に、三人で息を合わせる。前に“沖田”、背に“矢野”、間に“静”。
 揃った呼吸は、夜を半寸だけ延ばす。延びたぶんだけ、命は長くなる。