朝の白が痛い。紙の「病死」はもう乾き、香の皿は浅く、鈴は一度も鳴らなかった。葬りの後、町の音は容赦なく戻ってくる。粉屋の樽口は朝露を吸い、井戸の綱は昔どおりの節で鳴る。材木小屋の梯子は二段目だけたわみ、そのたわみを、山南が指先で直そうとして——直さなかった日のことまで、蓮は思い出してしまう。
午後の稽古は、妙に滑る。竹刀は同じ重さのはずなのに、手の中で軽くなったり重くなったりして、間の長さが定まらない。打太刀の若い者は気遣うように力を抜き、蓮はそれを鬱陶しく思い、同時に感謝した。矛盾は疲れの上に降る雨だ。濡れているのに、喉が渇く。
夕刻、静が庭の端から声をかけた。
「矢野さん。——出ます」
「仕事か」
「はい。山南さんの“あと始末”が残っています」
「……なんだそれ」
「“白い影”を騙る連中がいます。今日だけで二件。噂は、山南さんの死の温度を狂わせます」
「噂の温度なんて気にしてる場合か」
「温度の乱れが、刃の角度を狂わせます。——行きましょう」
団子の串を二本、静は懐へ差し入れ、鈴は袖に。香の皿は浅く、粉は指で湿らされる。斬る支度ではない。遅らせる支度だ。遅らせるしかできない夜がある。できないことをできるふりをしないのが、今夜の礼法だ。
◇
一件目は寺の裏手だった。白布を被った若いのが二人、線香の煙に紛れて手癖の悪い募金をしている。白は賢くない。ただ目立つ。目立つものは、見つかる。見つかったものは、遅らせられる。
静が袖で角度を奪い、蓮が前の手前に音を置く。鈴は一度。団子は塩で、怒りを乾かす。
「“白い影”だと名乗るなら、まず香を浅くしろ」蓮は低く言った。「灯は半寸だけ下げろ。殺す真似は要らない。今を押せ」
若者は怯え、縋るように丸を指で胸元に描いた。へたくそな丸だ。へたくそな今が、かえって真実に近い夜もある。
二件目は茶屋横の路地。酔いの勢いで勢力を誇示したい手合いが三人。静は手をひとつ挙げ、蓮が前に出た。
「帰れ」
「誰にモノを——」
「帰れと言っている」
刃より先に、声が抜けた。怒りが先に立つと、刃が遅れる。遅れた刃は曲がる。曲がった刃は、己に当たる。
三人目の肘が蓮の頬を掠め、視界が白く弾ける。角の立った痛みが目の奥に走った瞬間、静の白い袖が間を滑り込んだ。柔らかいはずの布の動きが、骨のように硬い。喉元に一指、足首に一刃——致命ではなく、動きを遅らせる距離だけ。
路地に残るのは息と埃。蓮は壁に掌をつき、吐き気をこらえた。
「矢野さん」
「わかってる。俺のミスだ」
「いえ。——“今”が先に出ました。悪くありません」
「悪いだろ。俺の“今”は、いつも遅いくせに、こういう時だけ先に出る」
「“今”は、臆病でも勇敢でもありません。——ただ、痛みに速いです」
痛みの速さに、言葉が追いつかない。追いつかない言葉は、口の中で苦くなる。
◇
夜風が強まる。鴨川沿いの柳が揺れ、揺れる影が水に広がっては消える。広がってすぐ消えるものだけが、いつまでも残る。理屈ではないが、夜にはそういうことが起こる。
「静」
「はい、矢野さん」
「……山南さんの部屋、見に行ってもいいか」
「はい。鍵は、開いています」
「鍵なんか、ない方がよかったな」
「ないほうが、夜は優しいです」
山南の部屋は、驚くほど整っていた。筆立ては斜めに立たず、紙の端はそろい、硯の水は無駄に濁っていない。灯の位置は、畳二目ぶん壁から離れている。焦げ跡もない。
蓮は座って、何も触れずに眺めた。何も触れないのは、敬意というより、臆病だ。ここで何かを崩したら、崩した責めを、もう本人に渡せないから。
押し入れの奥に、薄い包み。開けると、細い手帳が出てくる。几帳面な字が並ぶ。配置の案、巡察の癖、町の匂い、隊士の癖——骨の目録だ。
最後のページに、墨が新しい一行。
〈蓮へ:斬らぬことは、斬ることと同じ重さを持つ。——お前は、重さを持て〉
蓮は本能的に蓋を閉め、胸に抱いた。
「静……見つけた」
「はい」
「なんで、俺なんだろうな」
「山南さんは、矢野さんを“今”で見ておられました」
「名じゃなく?」
「はい。名は、明日の手だてになります。今は、今日の呼吸です」
呼吸。膨らんで縮む。それだけのものを、こんなにも難しくしているのは、誰だ。自分だ。誰でもないくせに、自分だ。
◇
翌日、土方に呼ばれた。
座敷に紙が並び、墨が乾いている。乾いた墨は強い。強いものは、融けない。
「山南の件は紙で片がついた。だからこそ、噂が肥える。肥えた噂は、紙を食う。食われる前に、太らせてやれ。——お前たちの出番だ」
「太らせる?」蓮は眉をひそめる。
「そうだ。噂を太らせ、噛みごたえを与えろ。嘘の歯応えがあれば、人はそこで満腹する。真実のところまで来なくなる」
「……汚ねえやり方だな」
「綺麗なのを見たことがあるか」
土方の目は怒っていない。怒るのは、誰かに何かがまだ残っている時だけだ。その目の奥は空だった。空は冷たい。
「それから——」土方は声を落とす。「山南の“病死”に疑いを口にした者が二人。ひとりは口の軽い浪士、もうひとりは町の書肆だ。斬るな。遅らせろ」
「……分かった」
「矢野」
「なに」
「“分かった”は紙の上では役に立つ。夜には役に立たん。——吐いた言葉で、夜を濡らせ」
言葉が喉に引っかかる。咳が出るわけでもないのに、息が咽ぶ。静が横で小さくうなずき、袖で灯を半寸下げた。
◇
口の軽い浪士は、祇園の外れの小さな茶店で酒を煽っていた。顔を真っ赤にして、声は必要以上に大きい。
「聞いたかよ、山南の“病死”ってやつよ。病が刀を握ったんだとよ。ははは」
笑いは短く、笑い終わった顔はすぐ素面に戻る。薄い笑いほど、あとの静けさが深い。
蓮は相席に腰を下ろし、盃を一つ奪って一息に飲む。
「お前、病気になったことがあるのか」
「は?」
「病に礼を欠くな。病は静かに人を殺す。静かに殺すものは、礼に厳しい」
「なんだお前」
「山南さんのことは、忘れろ」
浪士が腰に手をやる前に、静の袖が肘を取った。手首が木から外れるように、あっさりと刃は腰から遠ざかり、顎に団子の串の頭が当てられる。
「団子。塩です」静が言う。「舌をしぼませます。今日だけ」
笑い声は止まり、浪士は喉の奥で唸った。蓮は盃を置き、肩でひとつ息をした。
「“白い影”に会った、って噂、知ってるか」
「し、知ってるよ。火を消して歩く化け物だ」
「化け物は、礼に厳しい。——香を浅く。灯を低く。鈴は一度だけ。嘘を言う時は、そうしろ」
「なんで——」
「型がある噓は、早く疲れる。疲れた噓は、勝手に寝る。寝た噓は、起き上がらない」
浪士は頷いたのか、頷いていないのか分からないうなりで、視線を落とした。静がその胸元に丸をひとつ押す。
「今を押してください。今は今日だけです」
茶店を出ると、蓮は壁に背をつけ、額を手の甲で拭った。汗が冷たい。
「静、俺、いま何をした」
「夜の骨に、音をひとつ足しました」
「音は、減らないのか」
「減りません。——だから、灯を低くします」
◇
書肆のほうが面倒だった。痩せた店主が、山南の筆跡に似せた偽の覚え書きを作り、出入りの浪士に売っていた。そういう紙はよく売れる。善意の顔をして、毒を溶かしているから。
店主は目を細め、静の白を値踏みするように見た。
「おう、噂の白装束だな。字を書いてもらえるかい。“山南病死”の、裏書きをさ」
「書けます」静があっさり言う。
蓮は横目で睨む。
「静、書くのか」
「はい。——鈴を借ります」
店主は面白がって鈴を出した。静は鈴を一度だけ鳴らし、香の皿を浅く置き、行灯の芯を半寸下げた。粉を指につけ、筆を取る指にわずかな重みを乗せる。
紙には、こう記された。
〈病は静かである。静なるものは、名を持たない。名を持たぬものに、裏はない〉
店主は顔をしかめた。「なんだこれは」
「裏書きです」静は淡々と答える。「裏のない裏書き。——値が高いです」
「売れねえよ、こんなもの」
「売れないものが、町を救います」
店主はしばらく紙を睨み、やがて舌打ちした。「……お前ら、いくらだ」
「団子を三本。塩で」
「はあ?」
蓮は思わず笑った。笑いは短く、痛みの穴に蓋をする。
店主は結局、紙を引き出しにしまい、団子を渋々渡した。静は一本を蓮の手に押し付け、もう一本を自分の袖に滑らせ、最後の一本を店の戸口に置いた。
「鈴代です。——鈴は一度でいい」
「二度鳴らすと?」
「嘘が寝ません」
店主は何も言わなかった。何も言わないのが、日の暮れる町の礼儀だ。
◇
夜の真ん中で、総司が庭に現れた。咳の合間に笑い、笑いの合間に咳をした。
「蓮、顔。——殴られた?」
「ちょっと、な」
「ちょっと、って言うと大抵ちょっとじゃない」
「じゃあ、ちょっとじゃない」
総司は笑い、痛そうに胸を押さえた。静は黙って、総司の背の下に畳を一枚重ねた。少し高くするだけで、咳が浅くなる。
「静、山南さんの部屋、行った?」総司は空を見るように尋ねる。
「はい。香の皿は浅いままでした」
「そう。あの人は、最後まで“人の呼吸”で生きたね」
総司はしばし黙り、やがて蓮の頬を指の甲で軽く叩いた。
「泣いた?」
「泣いた」
「よかった。泣けるうちは、刀が鈍らない」
「総司さんは?」
「私は……笑っておく。影が泣けるように」
軽口に似せた諦観が喉に刺さる。蓮は言葉を飲み込んだ。飲み込んだ言葉は胃で丸くなる。丸くなった言葉は、別の夜に出てくる。
◇
それから数日、蓮は眠れていないのに眠気が来ない夜を歩き続けた。足は軽く、頭は重い。思考は早く、決心は遅い。決心が遅いのは、恐怖のせいではない。恐怖はとっくに焼け落ちた。残っているのは、迷いだ。迷いは湿る。湿ると、火はつかない。火がつかないと、闇は濃くなる。
ある夜、裏長屋で、隊の若い者が二人、座り込んでいた。片方は泣き、片方は笑っている。笑っている方が危ない。
「山南さんは臆病だったんだ」笑うほうが言う。「臆病だから死んだんだ」
泣くほうは首を振る。「違う。臆病だったら、出ない」
蓮は腰を落とし、二人の間に目線を置いた。
「臆病だっていい。勇敢だっていい。どっちも腹は切れる。——問題は、残すものだ」
「何を、ですか」泣くほうが嗄れた声で聞く。
「今だ。名じゃない。今を押せ。丸でいい。棒の先でいい。紙でなくていい。お前の今を、押せ」
笑っていたほうが、次第に笑い方を忘れていく。笑いは技だ。技は忘れる。
「押したら、何か変わるんですか」
「変わらない。——でも、終わらない」
終わらない。終わらないことに耐えるのが、影の骨だ。耐えた骨は、音になる。音は呪いのように聞こえる夜もあるが、朝が来れば道の形になる日もある。
◇
蓮は山南の手帳を持って、鴨川に降りた。静もいた。鈴は鳴らない。灯は低い。香は浅い。
手帳の中の字は、書いた人の骨格だ。骨格は、真似できない。真似ると、そこだけ冷える。
最後のページを、もう一度開く。
〈蓮へ:斬らぬことは、斬ることと同じ重さを持つ。——お前は、重さを持て〉
「重さを持て、ってよ」蓮は呟く。「重さって何だ」
「“今”のことだと思います」静が言う。
「今ばっかりだな、お前」
「今しか、ありませんから」
「でも、名が欲しい夜があるんだよ。俺だって」
「はい。——名は、明日のために置いておいてください」
「今日のためには、何を置く」
「丸です」
静が蓮の掌に小さな丸をなぞる。皮膚の上の丸はすぐ消える。消えるけれど、皮膚の下に残る。
蓮は笑って、それから泣いた。どちらも短い。短いから、長く残る。
「静」
「はい、矢野さん」
「俺は、いつか法度を破るかもしれない」
「その時は、道を塞ぎます」
「刀は抜くな」
「抜きません。矢野さんの“今”を、遅らせます」
「丸を押させろ」
「はい。押していただきます」
「悪い人だ」
「矢野さんのためだけに、です」
夜風が少し冷たくなる。冷たさは、痛みの輪郭を整える。輪郭が整うと、痛みは少しだけ観察できる。観察できる痛みは、耐えられる。耐えられる痛みは、次の夜を連れてくる。
◇
それでも、迷いは消えない。迷いは、消すものではなく、慣れるものだと土方は言った。慣れた迷いは、刃の腹になる。刃の腹は、斬らない。斬らないで勝つ夜が、時々ある。
ある夜、橋のたもとで、蓮はひとりの男に出会う。彼は痩せて背が高く、目に眠りがない。
「俺の弟を、池田屋で——」
「知ってる」
「“白い影”が」
「噂だ」
「噂にして、楽になるのか」
「楽にはならない。——でも、お前が戻る」
男は黙り、砂に膝をつき、棒の先で丸を描いた。指が震えて丸は歪む。歪んだ丸は、完璧より強い。
「弟は戻らない」男が言う。
「戻らない。——でも、お前は、今ここにいる」
「それで、いいのか」
「良くはない。——でも、悪くない」
男は目を閉じ、頷き、立ち去った。残った丸は風で崩れ、崩れた跡が砂の色をわずかに変えた。わずかに変わることだけが、今夜許された救いだった。
◇
その晩、静が珍しく自分から言葉を継いだ。
「矢野さん。——背を預けられるのは、世界で二人だけだと言いました」
「言ってたな」
「ひとりは光。もうひとりは矢野さん。……山南さんは、背を預ける人ではありませんでした。背中を整える人でした」
「整える?」
「はい。背中の皺を伸ばし、灯の位置を半寸ずらし、鈴を一度だけ鳴らして、呼吸を揃えてくれる人でした」
「……それが、もういない」
「はい。——だから、二人でやります」
「できるか」
「できるまで、遅らせます」
できるまで、遅らせる。その言い方が、今夜は不思議と胸に落ちた。達成を約束せず、時間を買う約束だけが、今の自分にできる約束だ。
◇
夜更け、土方が再び現れた。盃を二つ。酒は冷たい。冷たさは言い訳を許さない。
「矢野」
「なんすか」
「お前は“名が欲しい”と言ったな」
「ああ」
「名はやる。いつかやる。——死んだらやる」
「生きてる間は?」
「骨を冷やせ」
理不尽だ。理不尽は、夜には理屈になる。
土方は盃を置き、短く笑った。「山南は、俺が殺した。紙でな。お前らの刃は抜かずに済む」
「済んでない。俺の中では抜いた」
「抜いたうえで戻した。それで充分だ。——戻せない奴が、世の中にはたくさんいる」
盃を煽る。喉が焼け、涙が滲み、涙の塩で酒の味が少し変わる。静は盃を空にして丁寧に置き、低く言った。
「土方さん。山南さんの丸は、白い倉に仕舞いました」
「白い倉?」
「名のないものが眠る場所です。紙が眠らずに済むように」
「なるほどな。——明日の分は、お前らで作れ」
「承知しました」
◇
数日がやっと一日になり、一日はすぐまた数日に戻る。時間は紙のように重ねられない。重ねようとすると、角が刺さる。角を折るのは誰だ。山南がいないなら、折る役目は残った者に来る。
蓮は折り方を覚えようとした。畳の目で半寸を測り、灯の芯をつまみ、香の皿に米粒ほどの火を落とし、鈴を鳴らすべきかどうかを息で決める。決め方を覚えるのに、刃は要らない。要らないが、刃の重さが傍にあることが必要だ。重さを持て。山南の字が焼き付いた。
それでも夜は、残酷で、むなしく、切なく、やるせない。
救いは、どこにもいない。いるのは、遅らせる者と、遅れさせられる者だけだ。
遅らせる者でいると決めた夜、蓮は初めて自分の名を諦めた。諦めることは、捨てることではない。置くことだ。置いた名は、いつか誰かが拾うかもしれない。拾わないかもしれない。どちらでもいい。今は、置く。
鴨川の石に二人の足跡が一つずつ。波が来て、足跡を消した。消えた跡が、かすかに黒い。黒は夜の色だ。夜は名を持たない。名を持たないものだけが、今夜を支える。
静が横で、小さく囁く。
「矢野さん。——明日も、半寸ずつです」
「ああ。半寸ずつ、だ」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。泣くから」
「泣いてください」
蓮は笑い、泣いた。笑いは短く、涙は長い。どちらも、音にならない。音にならないものだけが、骨に残る。骨に残ったものだけが、次の夜を連れてくる。
こうして、救いの形を持たないまま終わる。
終わることに意味はない。終わらせないことに意味がある。
灯は低く、香は浅く、鈴は一度。団子は塩で、粉は湿り、梯子はたわみ、井戸は綱で鳴る。寺の棒の先には今日も丸がひとつ増え、紙の四文字は冷たいまま、白い倉に入らない“今”だけが、二人の袖の下に増えていく。
悲しみは、薄くならない。
迷いは、消えない。
苦しさは、言葉で軽くならない。
それでも、半寸ずつ。
薄氷の上で、呼吸を合わせる。
背中を——預ける。
午後の稽古は、妙に滑る。竹刀は同じ重さのはずなのに、手の中で軽くなったり重くなったりして、間の長さが定まらない。打太刀の若い者は気遣うように力を抜き、蓮はそれを鬱陶しく思い、同時に感謝した。矛盾は疲れの上に降る雨だ。濡れているのに、喉が渇く。
夕刻、静が庭の端から声をかけた。
「矢野さん。——出ます」
「仕事か」
「はい。山南さんの“あと始末”が残っています」
「……なんだそれ」
「“白い影”を騙る連中がいます。今日だけで二件。噂は、山南さんの死の温度を狂わせます」
「噂の温度なんて気にしてる場合か」
「温度の乱れが、刃の角度を狂わせます。——行きましょう」
団子の串を二本、静は懐へ差し入れ、鈴は袖に。香の皿は浅く、粉は指で湿らされる。斬る支度ではない。遅らせる支度だ。遅らせるしかできない夜がある。できないことをできるふりをしないのが、今夜の礼法だ。
◇
一件目は寺の裏手だった。白布を被った若いのが二人、線香の煙に紛れて手癖の悪い募金をしている。白は賢くない。ただ目立つ。目立つものは、見つかる。見つかったものは、遅らせられる。
静が袖で角度を奪い、蓮が前の手前に音を置く。鈴は一度。団子は塩で、怒りを乾かす。
「“白い影”だと名乗るなら、まず香を浅くしろ」蓮は低く言った。「灯は半寸だけ下げろ。殺す真似は要らない。今を押せ」
若者は怯え、縋るように丸を指で胸元に描いた。へたくそな丸だ。へたくそな今が、かえって真実に近い夜もある。
二件目は茶屋横の路地。酔いの勢いで勢力を誇示したい手合いが三人。静は手をひとつ挙げ、蓮が前に出た。
「帰れ」
「誰にモノを——」
「帰れと言っている」
刃より先に、声が抜けた。怒りが先に立つと、刃が遅れる。遅れた刃は曲がる。曲がった刃は、己に当たる。
三人目の肘が蓮の頬を掠め、視界が白く弾ける。角の立った痛みが目の奥に走った瞬間、静の白い袖が間を滑り込んだ。柔らかいはずの布の動きが、骨のように硬い。喉元に一指、足首に一刃——致命ではなく、動きを遅らせる距離だけ。
路地に残るのは息と埃。蓮は壁に掌をつき、吐き気をこらえた。
「矢野さん」
「わかってる。俺のミスだ」
「いえ。——“今”が先に出ました。悪くありません」
「悪いだろ。俺の“今”は、いつも遅いくせに、こういう時だけ先に出る」
「“今”は、臆病でも勇敢でもありません。——ただ、痛みに速いです」
痛みの速さに、言葉が追いつかない。追いつかない言葉は、口の中で苦くなる。
◇
夜風が強まる。鴨川沿いの柳が揺れ、揺れる影が水に広がっては消える。広がってすぐ消えるものだけが、いつまでも残る。理屈ではないが、夜にはそういうことが起こる。
「静」
「はい、矢野さん」
「……山南さんの部屋、見に行ってもいいか」
「はい。鍵は、開いています」
「鍵なんか、ない方がよかったな」
「ないほうが、夜は優しいです」
山南の部屋は、驚くほど整っていた。筆立ては斜めに立たず、紙の端はそろい、硯の水は無駄に濁っていない。灯の位置は、畳二目ぶん壁から離れている。焦げ跡もない。
蓮は座って、何も触れずに眺めた。何も触れないのは、敬意というより、臆病だ。ここで何かを崩したら、崩した責めを、もう本人に渡せないから。
押し入れの奥に、薄い包み。開けると、細い手帳が出てくる。几帳面な字が並ぶ。配置の案、巡察の癖、町の匂い、隊士の癖——骨の目録だ。
最後のページに、墨が新しい一行。
〈蓮へ:斬らぬことは、斬ることと同じ重さを持つ。——お前は、重さを持て〉
蓮は本能的に蓋を閉め、胸に抱いた。
「静……見つけた」
「はい」
「なんで、俺なんだろうな」
「山南さんは、矢野さんを“今”で見ておられました」
「名じゃなく?」
「はい。名は、明日の手だてになります。今は、今日の呼吸です」
呼吸。膨らんで縮む。それだけのものを、こんなにも難しくしているのは、誰だ。自分だ。誰でもないくせに、自分だ。
◇
翌日、土方に呼ばれた。
座敷に紙が並び、墨が乾いている。乾いた墨は強い。強いものは、融けない。
「山南の件は紙で片がついた。だからこそ、噂が肥える。肥えた噂は、紙を食う。食われる前に、太らせてやれ。——お前たちの出番だ」
「太らせる?」蓮は眉をひそめる。
「そうだ。噂を太らせ、噛みごたえを与えろ。嘘の歯応えがあれば、人はそこで満腹する。真実のところまで来なくなる」
「……汚ねえやり方だな」
「綺麗なのを見たことがあるか」
土方の目は怒っていない。怒るのは、誰かに何かがまだ残っている時だけだ。その目の奥は空だった。空は冷たい。
「それから——」土方は声を落とす。「山南の“病死”に疑いを口にした者が二人。ひとりは口の軽い浪士、もうひとりは町の書肆だ。斬るな。遅らせろ」
「……分かった」
「矢野」
「なに」
「“分かった”は紙の上では役に立つ。夜には役に立たん。——吐いた言葉で、夜を濡らせ」
言葉が喉に引っかかる。咳が出るわけでもないのに、息が咽ぶ。静が横で小さくうなずき、袖で灯を半寸下げた。
◇
口の軽い浪士は、祇園の外れの小さな茶店で酒を煽っていた。顔を真っ赤にして、声は必要以上に大きい。
「聞いたかよ、山南の“病死”ってやつよ。病が刀を握ったんだとよ。ははは」
笑いは短く、笑い終わった顔はすぐ素面に戻る。薄い笑いほど、あとの静けさが深い。
蓮は相席に腰を下ろし、盃を一つ奪って一息に飲む。
「お前、病気になったことがあるのか」
「は?」
「病に礼を欠くな。病は静かに人を殺す。静かに殺すものは、礼に厳しい」
「なんだお前」
「山南さんのことは、忘れろ」
浪士が腰に手をやる前に、静の袖が肘を取った。手首が木から外れるように、あっさりと刃は腰から遠ざかり、顎に団子の串の頭が当てられる。
「団子。塩です」静が言う。「舌をしぼませます。今日だけ」
笑い声は止まり、浪士は喉の奥で唸った。蓮は盃を置き、肩でひとつ息をした。
「“白い影”に会った、って噂、知ってるか」
「し、知ってるよ。火を消して歩く化け物だ」
「化け物は、礼に厳しい。——香を浅く。灯を低く。鈴は一度だけ。嘘を言う時は、そうしろ」
「なんで——」
「型がある噓は、早く疲れる。疲れた噓は、勝手に寝る。寝た噓は、起き上がらない」
浪士は頷いたのか、頷いていないのか分からないうなりで、視線を落とした。静がその胸元に丸をひとつ押す。
「今を押してください。今は今日だけです」
茶店を出ると、蓮は壁に背をつけ、額を手の甲で拭った。汗が冷たい。
「静、俺、いま何をした」
「夜の骨に、音をひとつ足しました」
「音は、減らないのか」
「減りません。——だから、灯を低くします」
◇
書肆のほうが面倒だった。痩せた店主が、山南の筆跡に似せた偽の覚え書きを作り、出入りの浪士に売っていた。そういう紙はよく売れる。善意の顔をして、毒を溶かしているから。
店主は目を細め、静の白を値踏みするように見た。
「おう、噂の白装束だな。字を書いてもらえるかい。“山南病死”の、裏書きをさ」
「書けます」静があっさり言う。
蓮は横目で睨む。
「静、書くのか」
「はい。——鈴を借ります」
店主は面白がって鈴を出した。静は鈴を一度だけ鳴らし、香の皿を浅く置き、行灯の芯を半寸下げた。粉を指につけ、筆を取る指にわずかな重みを乗せる。
紙には、こう記された。
〈病は静かである。静なるものは、名を持たない。名を持たぬものに、裏はない〉
店主は顔をしかめた。「なんだこれは」
「裏書きです」静は淡々と答える。「裏のない裏書き。——値が高いです」
「売れねえよ、こんなもの」
「売れないものが、町を救います」
店主はしばらく紙を睨み、やがて舌打ちした。「……お前ら、いくらだ」
「団子を三本。塩で」
「はあ?」
蓮は思わず笑った。笑いは短く、痛みの穴に蓋をする。
店主は結局、紙を引き出しにしまい、団子を渋々渡した。静は一本を蓮の手に押し付け、もう一本を自分の袖に滑らせ、最後の一本を店の戸口に置いた。
「鈴代です。——鈴は一度でいい」
「二度鳴らすと?」
「嘘が寝ません」
店主は何も言わなかった。何も言わないのが、日の暮れる町の礼儀だ。
◇
夜の真ん中で、総司が庭に現れた。咳の合間に笑い、笑いの合間に咳をした。
「蓮、顔。——殴られた?」
「ちょっと、な」
「ちょっと、って言うと大抵ちょっとじゃない」
「じゃあ、ちょっとじゃない」
総司は笑い、痛そうに胸を押さえた。静は黙って、総司の背の下に畳を一枚重ねた。少し高くするだけで、咳が浅くなる。
「静、山南さんの部屋、行った?」総司は空を見るように尋ねる。
「はい。香の皿は浅いままでした」
「そう。あの人は、最後まで“人の呼吸”で生きたね」
総司はしばし黙り、やがて蓮の頬を指の甲で軽く叩いた。
「泣いた?」
「泣いた」
「よかった。泣けるうちは、刀が鈍らない」
「総司さんは?」
「私は……笑っておく。影が泣けるように」
軽口に似せた諦観が喉に刺さる。蓮は言葉を飲み込んだ。飲み込んだ言葉は胃で丸くなる。丸くなった言葉は、別の夜に出てくる。
◇
それから数日、蓮は眠れていないのに眠気が来ない夜を歩き続けた。足は軽く、頭は重い。思考は早く、決心は遅い。決心が遅いのは、恐怖のせいではない。恐怖はとっくに焼け落ちた。残っているのは、迷いだ。迷いは湿る。湿ると、火はつかない。火がつかないと、闇は濃くなる。
ある夜、裏長屋で、隊の若い者が二人、座り込んでいた。片方は泣き、片方は笑っている。笑っている方が危ない。
「山南さんは臆病だったんだ」笑うほうが言う。「臆病だから死んだんだ」
泣くほうは首を振る。「違う。臆病だったら、出ない」
蓮は腰を落とし、二人の間に目線を置いた。
「臆病だっていい。勇敢だっていい。どっちも腹は切れる。——問題は、残すものだ」
「何を、ですか」泣くほうが嗄れた声で聞く。
「今だ。名じゃない。今を押せ。丸でいい。棒の先でいい。紙でなくていい。お前の今を、押せ」
笑っていたほうが、次第に笑い方を忘れていく。笑いは技だ。技は忘れる。
「押したら、何か変わるんですか」
「変わらない。——でも、終わらない」
終わらない。終わらないことに耐えるのが、影の骨だ。耐えた骨は、音になる。音は呪いのように聞こえる夜もあるが、朝が来れば道の形になる日もある。
◇
蓮は山南の手帳を持って、鴨川に降りた。静もいた。鈴は鳴らない。灯は低い。香は浅い。
手帳の中の字は、書いた人の骨格だ。骨格は、真似できない。真似ると、そこだけ冷える。
最後のページを、もう一度開く。
〈蓮へ:斬らぬことは、斬ることと同じ重さを持つ。——お前は、重さを持て〉
「重さを持て、ってよ」蓮は呟く。「重さって何だ」
「“今”のことだと思います」静が言う。
「今ばっかりだな、お前」
「今しか、ありませんから」
「でも、名が欲しい夜があるんだよ。俺だって」
「はい。——名は、明日のために置いておいてください」
「今日のためには、何を置く」
「丸です」
静が蓮の掌に小さな丸をなぞる。皮膚の上の丸はすぐ消える。消えるけれど、皮膚の下に残る。
蓮は笑って、それから泣いた。どちらも短い。短いから、長く残る。
「静」
「はい、矢野さん」
「俺は、いつか法度を破るかもしれない」
「その時は、道を塞ぎます」
「刀は抜くな」
「抜きません。矢野さんの“今”を、遅らせます」
「丸を押させろ」
「はい。押していただきます」
「悪い人だ」
「矢野さんのためだけに、です」
夜風が少し冷たくなる。冷たさは、痛みの輪郭を整える。輪郭が整うと、痛みは少しだけ観察できる。観察できる痛みは、耐えられる。耐えられる痛みは、次の夜を連れてくる。
◇
それでも、迷いは消えない。迷いは、消すものではなく、慣れるものだと土方は言った。慣れた迷いは、刃の腹になる。刃の腹は、斬らない。斬らないで勝つ夜が、時々ある。
ある夜、橋のたもとで、蓮はひとりの男に出会う。彼は痩せて背が高く、目に眠りがない。
「俺の弟を、池田屋で——」
「知ってる」
「“白い影”が」
「噂だ」
「噂にして、楽になるのか」
「楽にはならない。——でも、お前が戻る」
男は黙り、砂に膝をつき、棒の先で丸を描いた。指が震えて丸は歪む。歪んだ丸は、完璧より強い。
「弟は戻らない」男が言う。
「戻らない。——でも、お前は、今ここにいる」
「それで、いいのか」
「良くはない。——でも、悪くない」
男は目を閉じ、頷き、立ち去った。残った丸は風で崩れ、崩れた跡が砂の色をわずかに変えた。わずかに変わることだけが、今夜許された救いだった。
◇
その晩、静が珍しく自分から言葉を継いだ。
「矢野さん。——背を預けられるのは、世界で二人だけだと言いました」
「言ってたな」
「ひとりは光。もうひとりは矢野さん。……山南さんは、背を預ける人ではありませんでした。背中を整える人でした」
「整える?」
「はい。背中の皺を伸ばし、灯の位置を半寸ずらし、鈴を一度だけ鳴らして、呼吸を揃えてくれる人でした」
「……それが、もういない」
「はい。——だから、二人でやります」
「できるか」
「できるまで、遅らせます」
できるまで、遅らせる。その言い方が、今夜は不思議と胸に落ちた。達成を約束せず、時間を買う約束だけが、今の自分にできる約束だ。
◇
夜更け、土方が再び現れた。盃を二つ。酒は冷たい。冷たさは言い訳を許さない。
「矢野」
「なんすか」
「お前は“名が欲しい”と言ったな」
「ああ」
「名はやる。いつかやる。——死んだらやる」
「生きてる間は?」
「骨を冷やせ」
理不尽だ。理不尽は、夜には理屈になる。
土方は盃を置き、短く笑った。「山南は、俺が殺した。紙でな。お前らの刃は抜かずに済む」
「済んでない。俺の中では抜いた」
「抜いたうえで戻した。それで充分だ。——戻せない奴が、世の中にはたくさんいる」
盃を煽る。喉が焼け、涙が滲み、涙の塩で酒の味が少し変わる。静は盃を空にして丁寧に置き、低く言った。
「土方さん。山南さんの丸は、白い倉に仕舞いました」
「白い倉?」
「名のないものが眠る場所です。紙が眠らずに済むように」
「なるほどな。——明日の分は、お前らで作れ」
「承知しました」
◇
数日がやっと一日になり、一日はすぐまた数日に戻る。時間は紙のように重ねられない。重ねようとすると、角が刺さる。角を折るのは誰だ。山南がいないなら、折る役目は残った者に来る。
蓮は折り方を覚えようとした。畳の目で半寸を測り、灯の芯をつまみ、香の皿に米粒ほどの火を落とし、鈴を鳴らすべきかどうかを息で決める。決め方を覚えるのに、刃は要らない。要らないが、刃の重さが傍にあることが必要だ。重さを持て。山南の字が焼き付いた。
それでも夜は、残酷で、むなしく、切なく、やるせない。
救いは、どこにもいない。いるのは、遅らせる者と、遅れさせられる者だけだ。
遅らせる者でいると決めた夜、蓮は初めて自分の名を諦めた。諦めることは、捨てることではない。置くことだ。置いた名は、いつか誰かが拾うかもしれない。拾わないかもしれない。どちらでもいい。今は、置く。
鴨川の石に二人の足跡が一つずつ。波が来て、足跡を消した。消えた跡が、かすかに黒い。黒は夜の色だ。夜は名を持たない。名を持たないものだけが、今夜を支える。
静が横で、小さく囁く。
「矢野さん。——明日も、半寸ずつです」
「ああ。半寸ずつ、だ」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。泣くから」
「泣いてください」
蓮は笑い、泣いた。笑いは短く、涙は長い。どちらも、音にならない。音にならないものだけが、骨に残る。骨に残ったものだけが、次の夜を連れてくる。
こうして、救いの形を持たないまま終わる。
終わることに意味はない。終わらせないことに意味がある。
灯は低く、香は浅く、鈴は一度。団子は塩で、粉は湿り、梯子はたわみ、井戸は綱で鳴る。寺の棒の先には今日も丸がひとつ増え、紙の四文字は冷たいまま、白い倉に入らない“今”だけが、二人の袖の下に増えていく。
悲しみは、薄くならない。
迷いは、消えない。
苦しさは、言葉で軽くならない。
それでも、半寸ずつ。
薄氷の上で、呼吸を合わせる。
背中を——預ける。



