名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 禁門の火が鎮まっても、京の朝は焦げの匂いを袖の裏に忍ばせていた。炊き出しの鍋は昨日と同じ位置で湯気を上げ、井戸の綱は手の脂を覚えて軋みを少し変えた。焼けた瓦の破片は雨に洗われて鈍い灰色になり、日向と日陰の境目で薄く蒸気を吐く。人の息と町の息が、まだひとつの温度に揃っていない。

 新選組の名は肥えた。門前には浪士崩れの若い背が増え、竹刀の打ち合いが一日じゅう庭を往復した。名が立てば音が増える。音が増えれば、黙っていなければならない役目の温度はさらに下がる。土方歳三は紙の骨をまた一枚重ね、局中法度の墨を冷たい川水で締め直した。破れば切腹、疑わしきは吟味、逸れれば譴責――条目は五つ、声は一つ、温度は氷。

 座敷の端に白い袖を鼠に沈めて立つ沖田静は、いつも通りに見えた。だが「いつも通り」という衣は、よく見ると縫い目が増えている。縫い目は、ひとの目に映らないところで増える。静の影は今日も軽い。軽いが、その軽さは重さの結果だ。
 縁側の柱に肩を預けた矢野蓮は、庭の新参が打ち合う竹の音と自分の胸の音が重ならないことに小さな苛立ちを覚えていた。池田屋の夜、禁門の炎――音はもう十分だ。なのに、体の奥ではまだ別の音が鳴っている。鳴っているのに名もない。名がない音ほど、長く続く。

 その朝、帳付けの足音が土間の砂をはねた。障子桟がかすかに鳴り、声が低く転がる。

「……山南様が」

 声はそこで切れた。切れた先は誰も踏まない。
 近藤勇が先に拾う。「療養だ。夏負けを出した。しばらく静養させる」
 座敷にホッとした空気が一枚敷かれた。薄い畳だ。薄い畳は座るには良いが、立ち上がるには弱い。

 土方は紙束を一度だけ人差し指で弾き、目だけで余白を削った。「沖田、矢野」
「はい」
「なに」
「表は療養だ。裏は違う。山南は“出た”。法度の外へ。——追え。道を塞げ。選ばせろ」

 選ばせろ、という二文字が、蓮の耳の内側で鈴のように一度鳴って、すぐに消えた。消えたのに、響きは残る。
 蓮は立ち上がる。「静。俺たちが行くのか」
「はい、矢野さん。俺たちで、道を細くします」
「止められる?」
「止めるのではなく……遅らせます。山南さんが“選ぶ”時間を作ります」
「土方さんは、殺せと言ったのか」
「土方さんは紙で決めます。俺たちは、夜で整えます」

 淡々。淡々という言葉は冷たいが、静の声の底は温い。温さは音にならない。蓮は帯を強く締め直し、庭石にまだ残っていた朝露を靴の底で一度だけ感じた。滑らぬように。滑れば言葉がこぼれる。こぼれた言葉は、拾っても形が変わる。

 出立の用意は少ない。白手拭、香の皿、湿らせた粉、鈴、行灯、団子。斬る支度ではない。遅らせる支度だ。遅らせる支度は、斬る支度より物が多い。多いものほど、静かに運ぶ。

     ◇

 山南敬助。温厚で、学があり、争いの前に一度呼吸を整える人。剣は美しく、言葉は正確で、目はひとを選ばず。池田屋の前夜、蓮は山南に筆の持ち方を直された。「字は人の骨が映る」と笑って。禁門の前には、兵の配置図の角を柔らかく折って「角は人を刺す」と呟いた。刺さぬように、角を折る。人としての習いが身体に染みているひとだ。

 池田屋の夜が終わったあと、山南は少し言葉を減らした。禁門の炎のあと、山南はさらに言葉を減らした。減った言葉のぶんだけ、座敷の余白が増える。余白は、誰かが埋める。その誰かの一人が静で、もう一人が蓮だった。

 足取りは紙ほどに整っていた。逃げる足ではない、出ていく足だ。寺の棒の先に新しい丸がひとつ。丸は“今”だ。綺麗な丸は躊躇が少ない。
 静は棒の丸の縁を指で軽く撫でた。「北です。焼け野の外れを二つ越えて、灯を半寸高くかける茶屋。香の皿が浅い店です」
「どうして分かる」
「山南さんは息の楽な場所を選ばれます。香が浅いと、血の匂いが広がりにくい」
「まだ血も出てねえのに、そんな先の話するなよ」
「すみません」

 謝るのが早い。淡々の中に、過不足のない謝罪がある。蓮は短く舌打ちしそうになり、それを飲み込んだ。飲み込んだ音が喉で丸くなる。

 道すがら、焼け跡の端で子どもが棒の先に丸を描いていた。崩れやすい土に、何度も丸を描いては壊す。崩れることが分かっていても、丸を描く。丸は今だ。今はすぐ壊れる。壊れるから、押し続ける。
 蓮は懐から団子を一本出して子の手に押しつけた。子は驚き、笑って、串の先でより濃い丸を描いた。串の丸は綺麗だ。綺麗な丸は、悲しみを少し整理する。

 焼けた土と湿った木の匂いが弱まり、人の飯の匂いが戻るあたりで、その茶屋はあった。瓦のいくつかが新しく、暖簾が低い。低い暖簾は声を静め、灯は半寸高い。
 井戸の綱は結び直したばかりで、軋みの音が若い。梯子の二段目だけ、かすかにたわむ。——静が昼のうちに一度通って、夜の仕様へ指を入れた跡だ。

 戸をくぐると、番茶の薄い色が行灯に溶け、畳の目は乾きすぎず湿りすぎず。座敷の奥、旅装を整えた山南がいた。背筋はすっと伸び、目はよく眠った朝のように澄んでいる。澄んでいるのに、底が見えない。底が決まっている目だ。

「来ると思っていたよ」

 穏やかな声。穏やかさは刃の薄さを際立たせる。
 蓮は座敷の縁に膝を置き、片手を拳にして押さえた。拳の白さが目に痛い。

「……山南さん。戻ってくれ」
「蓮君は、いつでも真っ直ぐだ」
「回り道してる暇がない」
「時間は、もう私のものではないのだよ」

 静は出入口に半身を差し込み、道の幅を狭めた。狭めるというより、道の形を“選択の形”へ変えた。
 茶屋の娘が震える手で盆を持ってきて、静は盆の角を親指で支えた。震えは恥ではない。人間の証だ。支えは礼だ。支えられた震えは、恥ではなくなる。

 山南は茶碗を置き、手拭で指先の湿りを拭い、静を見た。「君が来るのは当然だ。君が来ない組は骨が折れる」
「はい。私は、骨の隙間を埋める係です」
「隙間を埋めると、呼吸は浅くなる」
「浅い呼吸は、長く持ちます」
「そうだな」

 穏やかな会話の衣を着ているが、縫い目は刃だ。言葉の端に薄い光が張り付いて離れない。
 蓮は堪えきれず、低く言った。「山南さん。池田屋で血を浴びて、禁門で火の粉を浴びて、俺はまだ名が欲しかった。名札じゃない、名前だ。人が呼ぶ名前。……山南さん、あんたは、それでも、出ていくのか」
「出る、ではない。“戻る”だよ、蓮。私の骨のある場所へ。ここはもう、私の骨を受け入れない」

「受け入れないんじゃない。あんたが骨を置こうとしないだけだ」
「言い方の違いだ。違いは大きいようで、結末は同じだ」

 静がそこで一歩だけ前に出た。袖が鼠に沈む。白を鼠に沈めるのは、夜の礼法だ。
「山南さん。——局中法度は紙ですが、骨でもあります。破れば、紙が山南さんを殺します。俺たちは道を用意します。選んでください」
「選ばせる、か。土方はそう言ったのだな」
「はい。土方さんは紙で決めます。俺たちは夜で支えます」

 山南は小さく笑い、茶碗の縁を指で弾いた。澄んだ音が長く残る。長く残る音は、たいてい「別れ」の音だ。
「総司は来ないのか」
「総司さんは……今朝、咳が長かったです」
「そうか。なら、良かった。彼には、私の弱さを見せたくない」

「弱さじゃない」蓮は立ち上がり、膝が畳に沈む。「弱さは逃げることだ。出るのは、逃げるのと同じかもしれない。でも、今、この場で“やめる”って言うのは、弱さじゃない」
「蓮。君が泣くと、私が泣けなくなる」
「泣かねえよ」
「嘘だ」

 嘘だ、の二文字は優しかった。優しさは残酷と紙一重だ。
 山南は懐から白い包みを取り出し、丁寧に解いた。拭われた短刀が現れる。光らない刃は清潔だ。清潔さは残酷を目にやさしくしてしまう。
「静。君は刀を抜かないだろう」
「はい。私は、抜かない係です」
「それでいい。君が抜かないなら、終いは私のものだ」

 蓮は震える足で一歩踏み出した。足裏が畳を探し、空を掴む。「やめろよ。俺のためにやめろ。静のためにやめろ。総司さんのためにやめろ。土方さんのために——」
「蓮。君は善い」
「善くなんかない!」
「そうか」

 茶屋の外で風が一度だけ鳴った。鳴って、すぐに止む。止んだ風は音を吸う。
 静は行灯の芯をつまみ、灯を半寸下げた。香の皿は浅く、粉の樽口は湿り、梯子の二段目はたわみ、井戸は綱で鳴る準備を整えた。準備という名の慈悲。慈悲は、刃の角度を整える。整えられた刃ほど、真っ直ぐに入る。

「矢野君」

 山南が呼ぶ。蓮は息を止めた。
「見ていてくれ。君の“今”のために。名はあとでいい。今を、ここに置く」

 蓮は頷けなかった。頷けば、それは賛同になる。賛同はできない。だから、拳を握った。爪が掌に刺さる。痛みが場所を作る。場所がないと、全部が痛くなる。
 静は背へ回り、肩に手を置いた。押さえない。支える。支えられるための触れ方だ。

 刃が肌を割る音はしない。音の代わりに、空気がひとつ、軋む。軋みは柱ではなく、人の骨の音だ。
 山南の眉は動かず、背筋はそのままで、刃はゆっくり引かれていく。灯が低いから赤は黒に寄る。香が浅いから匂いは広がらない。粉が湿っているから畳は血を飲みすぎない。夜の礼法が、別れの形を整えていく。

「や……め、て……」
 掠れた声は蓮のものだった。自分の声が、自分のものに聞こえない夜がある。
 山南はほんの僅か微笑み、「ありがとう」と言った。その短さが残酷で、救いだった。

 外で犬が一度だけ鳴いた。鳴いて、やんだ。やまないものより、やむもののほうが、今夜は残酷だ。

     ◇

 どれだけの時が流れたか分からない。茶屋の娘が盆を握りしめた指を離せずにいるのを静がそっと外してやったこと。畳の目を布で拭き、血の縁を広げないように手首だけを使っている静の横顔。庭の砂に膝をつき、空気だけを吐き続ける己の喉のかすれ。そうした断片が、胸のどこかでばらばらに浮かんだままだ。

 屯所に戻ると、「病死」の四文字がすでに紙の上で乾き始めていた。淡い墨だ。淡いほど、長持ちする。温度のない嘘は、長持ちする。
 近藤は目尻を赤くし、土方は紙を重ね、総司は咳を二度した。座敷の空気が少し狭くなる。
 静は灯を半寸下げた。四文字が柔らかく見える。柔らかく見えるだけで、残酷は減らない。

 夜、鴨川に降りた。
 水の音はいつも通りだ。いつも通りの音が、今夜だけ文字にならない。文字にならない音は、骨へ直接届く。
 蓮は小石を拾い、水へ落とした。輪が三つ、四つ、五つ。すぐに消える。消える輪のくせに、残り方は長い。

「静……」
「はい、矢野さん」
「名を消すって、こんなに残酷なのか」
「はい。——だから、影が要ります」
「誰のための影だ」
「光のためです。骨のためです。……矢野さんのためです」
「卑怯だな、お前」
「ありがとうございます」

 笑って、すぐに泣いた。笑いと涙が、こんなに近いのを、今夜はじめて知った。
 静は何も言わない。言葉がないことが、最大の言葉になる夜がある。

 川面を渡る風が袖を鼠に沈め、灯は低く、香は浅い。
 今を押すものが必要だと思った。名ではなく、今だ。今はすぐに壊れる。壊れるから、押し続ける。

「静。……今を押したい」
「押しましょう」
「どこに」
「ここに」

 静は蓮の掌に、指先で小さな丸をなぞった。皮膚の上の丸はすぐ消える。消えるが、皮膚の下に薄く残る。
 蓮は目を閉じ、頷いた。頷きは賛同でなく、記録だ。名のない記録は、夜の骨に残る。

     ◇

 朝。白い布が丁寧に畳まれて座敷の端に置かれ、その端に小さな墨の丸が描かれていた。誰が描いたのか、誰も言わない。丸は今。紙には載らない今。
 葬りは静かで、僧の声は低く、鐘は遅れて鳴り、香の皿は浅い。泣き声はない。泣かないのが礼だと、皆が知っている。
 棺がゆっくり運ばれていく間、蓮は両手の中指で親指の爪を押し続けた。痛みがある場所を作らないと、全部が痛くなる。

 終われば、町はすぐ生活の音を取り戻す。井戸の綱は軋み、粉屋の樽は朝露を吸い、材木小屋の梯子は二段目だけ、相変わらずたわむ。日常は死より強い。残酷なほど強い。

 土方が庭で竹刀を持ち、若い隊士の打ち込みを受けていた。十合で止め、竹の背で手首を一つ打つ。「止めろ」
 若者は肩で息をし、竹を下ろす。
 土方は言葉を削った声で続けた。「名は太れば折れる。骨を冷やせ。——折れない打ち方を覚えろ」

 蓮は遠くからそれを見ながら、小さく呟いた。「静。土方さん、今日はいっそう冷たいな」
「はい。冷たい日は、折れません」
「折れてほしいものも、折れないのは厄介だ」
「折れないぶん、音が長く残ります」
「何の音だよ」
「山南さんの“今”の音です」
 蓮は聞こえない音を聞こうとして、目を閉じた。耳の奥で、鳴らなかったはずの鈴が一度だけ鳴った気がした。

     ◇

 この日の夕刻、土方が盃を二つ持って現れた。酒は冷え、盃は薄い。薄い器は、熱も冷たさも鋭く伝える。
 土方は盃を置き、低く言う。「山南は、俺が殺した」
 蓮は顔を上げる。静は目を伏せた。
「紙で。——紙は俺の刀だ。お前らの刃は抜かずに済む」
「済んでない」蓮は言った。「俺の中では、抜いた」
「抜いたうえで、戻した。それでいい」
「いいのか」
「夜は、極端な理屈に耐える」
 土方は短く笑い、盃を煽った。笑いの形が悲しく、悲しみの形が笑える。人の形だ。
「名は立て。骨は冷やせ。——影は、誇れ」

 盃の酒が喉に落ち、火傷のような熱が涙の塩でわずかに味を変えた。静は盃を空にして丁寧に置く。「歳さん。——山南さんの丸は、仕舞います」
「どこへだ」
「白い倉です。名のないものが眠る場所です」
「そうか。なら、明日の分はお前らで作れ」
「承知しました」

     ◇

 夜。寺の棒の先に、丸が一つ増えた。
 棒に押された丸は小さく、しかし真円に近い。子どもの手の丸ではない。僧の丸だ。丸は今。今はすぐに過去になる。過去になっても、丸の跡は残る。
 蓮はその縁を指でそっとなぞった。静が背で見守る。鈴は鳴らない。灯は低い。香は浅い。

「静。……俺がもし法度を破ったら、道を塞いでくれ」
「はい。塞ぎます」
「刀は抜くな」
「抜きません。矢野さんの“今”を、遅らせます」
「丸を押させる?」
「はい。押していただきます」
「悪い人だな」
「矢野さんのためだけに、です」

 息を吐き、空を見る。雲は薄い。薄い雲は月を柔らかくする。柔らかい月は、影の縁を曖昧にする。曖昧は、今夜を長持ちさせる。

 ——ここまでが前編だ。
 まだ誰も救われない。救いが来るとしても、それは「救い」と呼びたくない形で来る。
 残酷さは減らず、むなしさは薄まらず、切なさは胸の内側の皮を焼き、やるせなさは背骨の隙間に居座る。
 それでも二人は立っている。半寸ずつ、薄氷の上を。
 明けないようで明ける夜の、その継ぎ目へ向かって。