名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 新参が増えれば、紙の隙間は狭くなる。狭くなった隙間に、細い嘘が入り込む。
 禁門の余熱が引き、炊き出しの列が短くなった頃、屯所の米倉で目録の墨が一箇所だけ濃かった。墨の濃さは時間の嘘だ。上から重ねた印だと、土方は一目で言い当てる。

「帳付けを呼べ。――そして、町年寄の甥も」

 座敷に二人が並んだ。
 帳付けは汗をにじませ、甥は唇を固く結んでいる。土方は紙を一枚ずつめくり、指で角を撫で、ほんの少しだけ笑った。

「墨は、乾き方を覚えている。お前のは、昨日の乾きだ。米はおととい出たことになっている」

 帳付けが慌てて口を開き、言い訳の言葉がうまく形を取れずに散った。甥は視線を斜めの床に落とした。
 静が一歩、前に出る。声は低い。

「土方さん。甥は、表へ」

「なぜだ」

「表の紙は、見つけやすい敵を欲しがります」

 土方は眉をわずか動かし、甥の名を紙の端へ移した。

「表へ渡す。――帳付けは裏で“斬らなかった分”を書け」

 帳付けは茫然とし、それでも筆をとった。
〈米二俵を、夜に渡すつもりであったが、灯を半寸下げられてやめた〉
 土方は頷いた。

「夜に効く字だ」

 その場を離れるとき、蓮は胸の奥に重さを残した。冷徹は人を選ばない。選ばないからこそ、組の骨になる。分かっていても、喉の奥に小さな棘が残る。

 棘は、夜に抜くのがいい。
 その夜、蓮は静とともに鴨川の下手に立った。川風は冷えを増し、月は薄く、灯は低い。川の上に、細い霧がかかる。
 橋の下で、三人の影が集まり、小声でやり取りをしている。紙包を渡し、銭を数え、肩で笑う。笑いは軽く、噂の匂いが濃い。

「“狼のふりをする狼”です」静が言った。

「またか」

「名は甘いので」

 静は灯を半寸下げ、鈴は鳴らさず、粉の湿りを確かめ、香の皿を低くする。準備はいつも通り、音のない動き。
 蓮は“前の手前”に音を置く。鯉口が乾いた音を一度だけ鳴らし、影の一人がそちらを見た、その瞬間。

 静の袖が布の束を撫で、蓮の柄が喉を軽く叩く。倒さない。止める。
 もう一人が腰の短筒を上げた。蓮は肘の内側に柄を当て、角度だけを奪った。火薬の匂いは土へ吸われる。
 三人目は逃げようとしたが、材木小屋の梯子の二段目で躓いた。昼のうちの準備が効く。
 静は彼らに団子を一本ずつ押し付けた。怒りと軽蔑は糖で脆くなる。
「寺で、丸を押してください。――名は要りません」

 男たちは最初、鼻で笑い、次に舌打ちをし、最後には黙って丸を押しに行った。
 蓮は溜息を吐いた。吐息は白くはないが、重さがあった。

「静。……俺は今夜、一太刀も振ってない」

「ありがとうございます」

「礼を言うな。――でも、悪くない気分だ」

「矢野さんの“斬らなかった分”は、数になります」

「数?」

「はい。丸の数です」

 蓮は空を見上げた。雲は薄く、月は欠けている。欠けた月は、完全よりも長く残る。

     ◇

 名が立つと、挑む者も出る。
 ある夕暮れ、壬生の道場に風変わりな使者が現れた。
 京の北に名高い道場の客分を名乗る、帯に飾りをつけた男。言葉に砂糖をまぶし、笑いに小刀の刃を隠す。

「新選組中、沖田総司殿に御指南を賜りたい。――もしくは、白き影殿でも」

 言い終える前に、土方の目が冷たく笑った。

「白き影は、紙にいない」

「紙にいないものほど、話の花」

「花は夜に要らぬ」

 それでも客分は引かない。名に挑むのは、名の仕事だ。
 近藤が気分よく笑い、総司が咳の合間に「では、軽く」と竹を取る。
 だが土方は静を呼び、耳元で何事か囁いた。静はうなずき、庭の端へ去る。蓮は無言で後を追う。

「静。……土方さん、何を」

「灯を半寸、下げます。鈴は鳴らしません。――“見物の目”を低くするように」

 ふたりは庭の外に回り、見物の群れが立つ塀の向こうで香の皿を低く置いた。香の筋は細く、影を太らせない。
 その効果はすぐ出た。総司と客分の竹が鳴る間、見物のざわめきは高くならない。歓声は起きず、ため息も生まれない。ただ、打つ音だけが空へ上がり、すぐ消えた。
 総司の竹が三度、きれいに止まり、客分の竹は五度、遅れ、七度目に空を打った。
 終わっても、拍手は起きない。名を太らせる音がない。客分は涼しい顔を保てず、帯の飾りを指先で弄んだ。

「よい勉強になった」

 彼はそう言って去った。去り際、塀の影で蓮と目が合った。
 目の奥に、怒りでも悔しさでもない、空白が見えた。空白は、夜に効く。夜に効いたものは、長く残らない。

 総司は縁で竹を置き、白い笑いを短く浮かべた。
「静、蓮。――ありがとう。拍手がないと、名は残らない」

「はい。紙は紙で睡ります」

「うん、眠らせておいて」

 総司の咳が少し長かった。長い咳は、光の端に小さな影を作る。影は釘を欲しがる。蓮は自分の視線を一本、そこへ打った。

     ◇

 池田屋の夜から一月、禁門の炎からは半月。町はようやく“日常”という名の仮の衣を着始めた。
 そんな折、蓮は不思議な女に声をかけられた。烏丸の辻、炊き出しの列の端。煤に汚れた額、凛とした眼差し。腕には幼い子が眠っている。

「あなたが、橋の下で男たちを止めた方?」

「さぁ」

「団子をくれた」

「団子を配るのは、町の仕事だ」

「そう。……ありがとう」

 女は深く頭を下げた。名を問わない礼は、夜に向いている。
 女は布の端をめくり、小さな木札を見せた。そこには、丸が一つ刻まれている。
 寺の丸だ。棒の先の円が、木札に移されている。

「家は焼けたけど、“今”は残った。丸は、わたしの今」

 蓮は返す言葉を見つけられず、ただ頷いた。胸の奥の針が、少しだけ角度を変えた気がした。
 静が背に来て、小さな声で囁く。

「丸は、矢野さんにも、似合います」

「俺に?」

「はい。“矢”は方向、丸は“今”。――どちらも名ではありません」

「お前は、俺に名前を持たせないつもりだな」

「矢野さんのためだけに、です」

 いつもの言葉に、蓮は笑って首を振った。笑いは短く、しかし温かった。

     ◇

 夜、土方が紙を持って現れた。墨は濃く、行は細い。

「“白い影”を騙る一味が、北で人を脅している。白い布をまとって、狼の名を使い、銭を巻き上げる。……名の戻り火だ」

 蓮は舌打ちした。

「名は甘い。甘いものは、すぐ腐る」

「腐る前に、塩を打て。斬るな、遅らせろ」

 塩――静は頷いた。団子ではなく、塩。甘さの上から、白い粒で輪郭を出す。

 北の路地は灯が低く、石が白い。白は夜の色だ。
 “白い影”の三人は、見事に安い白布をまとい、動きはぎこちない。噂の背中に乗ろうとして、背丈が足りていない。
 蓮は前の手前に音を置き、静は袖で角度を奪った。
 すぐ終わる――そう思った矢先、一人の少年が飛び出してきた。白布の裾にしがみつき、声を張り上げる。

「母ちゃんの銭、返せ!」

 白布の男が少年を振り払おうとして、蓮の視界に火花が走った。怒りは早い。早い怒りは、夜を壊す。
 静が一歩、蓮より先に動いた。袖の裾で刀身を隠したまま、白布の男の手首を軽く打つ。打ち方は音楽のようだ。手首の骨がその音を覚え、指が開く。銭袋が落ちる。
 蓮は少年を引き寄せ、片手で白布の男を壁へ押し付けた。もう一人が短筒を上げ、空気が鋭くなる――そこで、静が初めて刃を見せた。刃先は光らず、空気だけが切れた。短筒の口は土を向き、火薬はしけた粉に変わる。
 三人は、塩をひとつまみ振られた野菜のようにしんなりした。静は彼らの手を開かせ、銭を少年の手に戻した。

「寺で丸を押してください。……白布は、お寺に持って行くと、雑巾になります」

 蓮は思わず笑った。白は夜の色だ。白の使い途は、いくらでもある。
 少年は銭袋を抱き、泣きながら何度も頭を下げた。泣き声は高いが、すぐ群れない。香の皿が低いからだ。

 その帰り道、蓮は静の横顔を見た。仄かな灯りに、白い頬がほんの少しだけ赤い。走った後の熱だ。

「静。……俺、名が欲しいって、まだ時々思う」

「はい」

「でも今夜は、欲しくない」

「はい」

「それでも、名があとから来たら?」

「遅らせます」

「お前の得意なやつだな」

「矢野さんのためだけに、です」

     ◇

 池田屋の影響は、京の骨に深く入った。壬生狼の名は太くなり、隊士は増え、紙は重くなり、噂は軽くなり、夜は余白を欲しがった。
 その余白を増やすために、静は灯を半寸下げ、香を低くし、粉を湿らせ、梯子にたわみを作り、井戸の綱を結び直し、団子を配り、鈴を一度鳴らし、丸を増やした。
 蓮は“前の手前”を長く取り、柄で骨に触れ、斬らないで済む場を選び、怒りを塩で遅らせ、紙に“斬らなかった分”を書いた。
 それは名ではない。けれど――確かだ。薄氷の上の足跡のように、一日のあいだに消えるのに、冷たい底でずっと形を保ち続ける。

 夜半、鴨川で二人は並んだ。
 水は低い声で流れ、月は欠け、風は白い袖を鼠に沈める。
 蓮が言う。

「静。……俺は、名を残したいと思ってた。生きた証を刻みたいって。でも、今は違うかもしれない。名じゃなくて、“今”でいい」

「はい。“今”は、丸で残ります」

「丸だけで、いいのか」

「丸は“今”の穴です。穴は、風を通します。光も、通します」

「じゃあ、俺は穴でいる」

「はい。矢野さんは、とても良い穴です」

「褒めてるのか、それ」

「精一杯」

 蓮は笑った。笑いは短く、しかし今夜は、少しだけ長く残った。
 川面に小石を落とす。輪は三つ、四つ、五つ。増える。増えたぶん、忘れない。
 どこかで鐘が遅れて鳴り、遅れが合図になった。合図に合わせ、二人は歩幅を半寸だけ広げる。広げたぶん、昼が近づく。
 紙は棚で眠り、白い倉は目を開け、町は骨で支えられ、名は“あと”へ遅れ、噂は静かに疲れ、薄氷は今夜も割れずに済んだ。

 薄氷の誓い――それは、名を持たぬ者が交わす、割れば沈むが、割らなければ橋になる、そんな約束だった。
 その上を、二人は並んで歩いた。半寸ずつ、確かに。