名もなき剣に、雪が降る ― 新選組異録

 禁門の変が終わっても、京の夜は火の名残を帯びていた。瓦が割れる乾いた音が、風に乗って遠くで一度だけ鳴る。炊き出しの湯気には薄く灰の匂いが混じり、井戸の綱は人手の増えたせいで少し軋みが増えた。
 その灰色の空気の中で、青い羽織はひときわ目立つ。壬生狼――新選組の名は、紙より先に人の口に太く残っていた。池田屋の夜、この町の骨に打ち込まれた釘は、まだ冷たかった。

 屯所は珍しく賑やかだった。土間に新しい草履が並び、長押には見慣れぬ大小がいくつも掛かる。新参者の数は日ごとに増え、剣の試しを求める声が朝から晩まで絶えない。
 近藤勇は座敷の中央で笑った。大きな、明るい笑いだ。

「これで新選組は一枚岩となる。池田屋は始まりだ。禁門の働きと合わせて、会津様の信も揺るがぬ」

 土方歳三はその横で紙を数え、墨の乾き具合を指で確かめるように目を細くした。

「名が立てば、人は寄る。寄れば余白が減る。――余白は裏で持て。表に名、裏に白。それで初めて一枚だ」

 そう言って、土方は紙をひと束、沖田静に投げた。静は一礼して受け取り、佇まいを崩さずに懐へ収める。紙には“裏の名寄せ”と薄い字で書かれていた。
 矢野蓮は、その文字を横目に見ながら、何故か冷たい針で内側を触られたような感覚を覚えた。名寄せ。寄せられる名に、自分の字はない。

 夕餉の後、庭の隅で竹刀が鳴る。新参の若者が二人、先輩にかかっていく。勢いはあるが、間が甘い。竹の先は灯に踊り、足は畳の節目に躓く。
 蓮は縁側に座ってそれを眺めていた。隣に白い袖が来る。

「矢野さん。――前の手前を見ていますか」

「見てる。……でも、今日はそれより、人の口のほうが気になる」

「口は、紙より早いです」

「紙より早いから厄介だ」

 縁側の向こう、塀の外から子どもの声がした。
 「白い剣士が、火を消して浪士を喰った」
 噂は、両手で形を変えられる粘土に似ている。握れば怪異になり、広げれば英雄になる。どちらにも、名前はいらない。名前がないほど、よく転がる。

 その日、蓮は単独で市中見回りに出た。禁門の後、町の脈は太いが乱れている。炊き出しの列に横入りする手、焼け跡に座って塵を噛む目、店の簾の影で小さくなる背中。
 油小路の辻で、足を止めた。茶店の前で、二人の男が小声で言い争っている。

「新選組の沖田総司ってのは剣の天才らしいな。池田屋じゃ一人で十人斬ったとか」

「いや、それより恐ろしいのは“白装束の剣士”だ。火を消して浪士を喰ったって話だ。喰ったんだとよ、血を飲んでな」

「ばか言え、化け物話だ」

「化け物でいいのさ。化け物にしておけば、説明せずに済む」

 蓮は、茶の湯気に混じる言葉を飲み込んだ。白装束――それは静の影に与えられた噂だ。あいつが名を残さないと決めた結果、名の代わりに影だけが膨らみ、怪異になる。
 だがそこに、蓮の名はない。紙にも噂にも、彼は刻まれない。池田屋の夜、禁門の炎――あの血の温度は、彼の掌にだけ残っている。

 その晩、蓮は静の部屋を訪ねた。灯は低く、香は薄い。刃の背に一度だけ水を通したばかりの匂いがする。

「静。……なんでお前は、名が消えることを怖れない」

 静は少し考えてから、いつものように淡々と答えた。

「名が残れば、名が殺されます。名がなければ、殺されるものがありません」

「言い方が極端だ」

「夜は、極端なものほど、長く持ちます」

「じゃあ俺はどうする。俺は――」

「矢野さんは、矢野さんでいてください。足音が合図になります」

「お前、何でも俺を合図にする」

「矢野さんのためだけに、です」

 いつもの決まり文句に、蓮は苦笑した。笑いは短く、しかし少し救いを含んでいた。

     ◇

 新参者の試しは続いた。朝一番の竹刀の音から、深夜の遅い灯まで。
 ある朝、屯所の門に旅装束の浪士が一人、立っていた。痩せて骨ばった頬、眼差しは乾いている。

「上洛の剣、拝領いたしたく候。――近藤殿にお目通りを」

 番頭が応対し、やがて土方が出てくる。男は所作通りに頭を下げ、直情のことばを置いた。

「池田屋の噂、禁門の功。――新選組は、天下の剣。ならば、己の剣もその列に」

 土方は薄く笑い、静を呼んだ。

「剣は列ではない。骨だ。骨は夜にしか伸びない――沖田、見てやれ」

 静は素直にうなずき、庭で竹刀を取った。蓮も縁から降り、立会いを見守る。
 旅浪人は正直な踏み込みで来た。静は一拍、遅れに寄り添って竹の先をなで、男の間合いを半寸つぶした。二合、三合。竹が鳴る。旅浪人の息が上がり、竹刀の角が立ち、額に汗が滲む。
 五合目で静は竹の背で相手の手首を軽く打った。男は握りを緩め、竹刀が落ちそうになる。それでも食いしばって持ち直し、踏み込む。

「よし」蓮は小さく呟いた。

 七合目で静は足を半寸ずらし、男の前の手前を一瞬だけ“見せた”。見せることで、男は打たずにいられなくなる。打った竹は空で鳴り、静の竹が男の胸元にやわらかく止まった。

「終いです」

 旅浪人は膝をつき、竹刀を置いた。静は竹を下ろし、礼をした。
 土方は旅浪人に近づき、紙を一枚投げた。裏の名寄せだ。

「斬らなかった分を書け。――斬れる者は多い。斬らないで済む者は少ない」

 旅浪人は紙を見つめ、やがて墨をつけた筆で一行だけ書いた。
〈昨夜、橋の下で短筒を向けた男の腕を叩いた。引き金は引かせなかった〉
 土方の口元がわずかにほどけた。

「合格だ」

 朝の風が、庭の砂を薄く撫でた。砂の上に残った足跡は、ほとんど消えかけている。消えかける足跡ほど、後に残る。

     ◇

 昼、瓦版が回ってきた。見出しは太い。

 ――「新選組、禁門で千軍を退ける」
 ――「沖田総司、十数人斬り抜け」
 ――「土方歳三、冷徹の采配」
 ――「白装束の剣士、炎を喰らう」

 蓮は瓦版を眺め、笑って肩をすくめた。紙は紙で必要だ。けれど、紙は夜に効かない。夜に効くのは、音と匂いと、半寸の角度だ。
 その時、土方が蓮を呼んだ。座敷で薄い紙を広げ、墨の色を指で弾く。

「坊主が一人、火付けの文句で人を煽って回っている。池田屋の“仕返し”を掲げ、狼の名を使う。――白の噂は甘い。甘いものは腐るのが早い。先に遅らせろ」

「遅らせる?」

「斬るな。遅らせろ。声の高さ、灯の位置、鈴の回数、粉の湿り――お前らの道具で」

 蓮は頷いた。静は「承知しました」とだけ言い、紙を懐に納めた。

 彼らはまず香具屋へ寄った。香の皿をいつもより半寸低く置き、香の筋を細くする。人の声は香の高さに影響され、低い香は声を低く、群れにくくする。
 次に粉屋。粉の樽口に水をほんの少し吸わせ、湿りを増やす。湿った粉は火の気を吸い、火花を重くする。
 団子屋では串を二種、長いものと短いものに分けて用意させた。長い串は列を整え、短い串は子の手に馴染む。列が整うと、人は立ち止まりやすくなる。
 寺では棒の先の丸を一つ増やし、鈴は一度だけ鳴らす。二度ではなく、一度。二度鳴らすと人は走る。一度なら、振り返る。

 夕刻、坊主が辻に立った。頭はぼさぼさ、目は焦げ茶、声は甲高い。
「狼は民を守らん! 池田屋で血を浴び、禁門で炎を煽った! 白い影は外法――」

 静が灯を半寸下げた。香は低く、粉は湿り、鈴は一度。
 坊主の声は不思議と伸びない。甲高さが抜け、喉が自分の体重に気づく。
 蓮は人垣の端から、団子を二本、子どもの手に押し付けた。甘いものは怒りを遅らせる。子は団子を齧り、手に持った短い串で地面に何やら丸を書いた。
 人々は立ち止まり、顔を見合わせ、囁きが増えた。囁きが増えると、叫びは痩せる。
 坊主は焦れて、足を踏み鳴らし、声を張った。その拍子に、橋の上の板がきしみ、太鼓のように低く響いた。響きは人の胸に吸い込まれ、怒りではなく呼吸の形を取る。
 静は目で合図した。十分だ――遅れた。坊主の言葉は事件にならない。紙にならない。夜は、今日も壊れない。

 群れが散り、坊主が肩を落として歩き去るのを、蓮は追わなかった。追わないことを覚えた自分に、ほんのすこし違和感を覚える。

「静。……お前の言う通り、夜は極端な理屈がよく効く」

「ありがとうございます」

「礼を言うな。――でも、効いたよ」

「矢野さんのためだけに、です」

 灯の端で、白い袖が鼠に沈む。沈んだ色が、夜の輪郭を整える。

     ◇

 その夜更け、川辺で蓮は日記を書いた。紙は薄く、墨は軽い。
 ――灯を半寸下げると、声が低くなる
 ――香は低く、粉は湿り、鈴は一度
 ――団子は怒りを遅らせる
 ――丸は今を数える
 ――“矢”は方向、名ではない
 ――斬らなかった分は、確かに残る

 書き終えて筆を置くと、背後で衣擦れの音がした。静が立っている。いつも通りの音、いつも通りの匂い。
 蓮は振り返らず、問うた。

「俺の刃は、人を斬るためじゃなく、名を刻むためにあった。……今は、その名を消すために振るってる。それでいいのか」

「はい。名は“あと”です。今を残せば、あとが来ます」

「お前の“あと”は、どこから来る」

「沖田から」

「"総司"の、ね」

「はい。光の背に、釘を打ちます。矢野さんの視線も一本、いただいています」

「二本やるよ」

「ありがとうございます」

 風が川面を撫で、黒い輪がいくつか並んで消えた。消える輪ほど、長く残る。
 池田屋の影響は、京に名を刻んだ。だがその名の太さのぶんだけ、裏の白は広がる。広げる手の温度が、薄氷のように冷たくて、脆くて、そして――強い。

 翌朝、蓮は道場で“前の手前”を半寸、長く取った。竹の先は、いつもより静かに止まった。止まった気配が、なぜか嬉しかった。